トを日本流の天然記念物と考えると、ピンとこない アメリカの場合は面的も面的、巨大な面を自然の記 ] 勿とみなしているのて、ある。 しての指定もある。しかし何といってもわが国の巨 自然環境保全法による「原生自然環境保全地域」と ギ原始林」ということて、は指定されているし、また もちろん「屋久島ス のようなものは入っていない 庁のポスターに「私は 7200 歳」と出た有名な縄文杉 しかしこれだけのものがあげられていても、環境 件、クス 28 件、イチョウ 27 件、ケヤキ 2 牛などて、あ たは種として著しく多いのはスギ 49 件、サクラ 32 86 件、常緑低木 11 件、つる性樹木 8 件とした。属ま 物のイチョウを含む ) 、常ム葉樹 53 件、常緑針葉樹 り巨樹名木 272 件のうち、落葉広葉樹 114 件 ( 裸子植 て、は生活型べつに体系だてて扱うこととした。つま ならべられたリストて、示されるものて、あるが、本書 すめられている。それらの全体像はふつう分偵に 律」 ( 昭和 37 年 ) などて、、こうした巨樹名木保護はす の美観風致を維持するための樹木の保存に関する法 うことて、あげている。文化財保護法以外にも「都市 国産巨樹、および珍しい外国樹 ) を各種貴重樹とい よび一里塚、その他 ( 各種目標樹や古く渡来した外 神木および賽木 ( 神社の神木、寺院の賽木 ) 、並木お さいばく のある樹、珍しい木 ) 、珍木 ( 珍奇な木、または低木 ) 、 成を」の中て、は、老樹、巨樹、名木 ( 記念樹、伝説 時増刊号、 1983 ) の、林弥栄「貴重な樹木の保護・育 『植物と自然』の名木・珍木特集号 ( 17 巻 13 号ーー - 臨 樹名木の代表格は屋久杉て、あろう。屋久杉を輪切り にして年輪をみせている円板は熊本営林局などにお いてあるが、それらの年数を数えると千何百年とい うのが多く、それらからは屋久杉の寿命をせいぜい 一、三千年と推定する人が多い。また巨木て、は中が 空洞になっているものが多く、年輪を数えようとし ても数えられないことが多い 大きくなる木の例としては滞多雨林がよく例に 出されるが、ラワン材をとるフタバガキ科の大木に なると 70 メートル程度て、あるが、年輪がないのて、樹 齢は分らない。しかし世界て最も大きくなるのは北 米西部のツガて、 90 メートル前後のものがある。セコ イアにも巨大なものがあるが、樹齢は 3000 年程度と 考えられる。滞の樹木とちがって温帯の樹木は年 輪をもっているのて、、その数を数えて植擱合を推定て、 きるはずなのて、あるが、屋久杉の場合のように心が 欠けていたりして推定は一般にむずかしい。しかも 比較的きびしい条件や、単木的条件のもとて、年輪の 目のつんだ巨木が成立するらしい。奇木や珍木とな ると少し話はちがってくるが。
巨樹名木思想 沼田 が都合て、欠席する時に限って、巨樹老木の候補をも ち出し、私の合意をえているということて、通してし まったことがある。あとて、私はそれを知って大いに 怒り、以後そういうことはなくなった。 その後、八木下弘『日本の巨木』 ( 中央公論社、 1979 ) の書評 ( 『自然』 10 月号、 1979 ) を頼まれた時に、そこ に収められた多くの巨木がじつは天然記念物に指定 されたものて、あることを発見して驚いたことがあ る。そういう意味て、は、巨樹名木思想は、そうした 単木保護には大きな貢献をしてきたことが分る。私 の知っている女性 ( 少し年輩のお花の先生のグルー フつの場合、どこのフジをみにいってきたといった 話題をつねにしている人達がいるが、そういう人達 には本書は大変よい手引きになるて、あろう。一方、 同じそのグループの中の人て、も、私は、いくら巨樹 て、も 1 本の木を見にいく趣味はないという人もい る。そういう人達には植生を扱った巻がお役に立つ て、あろう。 アメリカて、よく使われるナショナル・モニュメン トはじつは日本の国定公園にあたるものて、、これを 記念物と訳すと妙なことになってしまう。たとえば 千葉県くらいの広さのあるアメリカのデス・ヴァレ ( 死の谷という名の砂漠 ) はナショナル・パーク ( 国立公園 ) て、はなくナショナル・モニュメントて、あ るが、それは夏に気温が 50 度 C をこすほど条件がき びしく、ビジターセンターもホテルも夏は閉鎖され て公園的な利用が制限されるからだという。このよ うにナショナル ( あるいはナチュラル ) モニュメン わが国の天然記念物にまつわる大きな潮流の一つ は巨樹名木思想て、あった。わが国て、天然記念物保護 の推進に大きな功績のあった三好学は、その最初の 論文「名木の伐滅ならびにその保存の必要」 ( 『東洋学 芸雑誌』 23 巻 301 号、明治 39 年 ) いらい、「名木の保存」 ( 『日本之植物界』 584 頁、明治 43 年 ) などて、巨樹名木田 ィじ、 想を強く打ち出した。この最初のころのことについ ては氏の『天然記念物』 ( 冨山房、大正 4 年 ) の序文に もふれられている。またその後に書かれた『天然記 ] 勿解説』 ( 冨山房、大正 15 年 ) て、は、巨樹および老樹 ( クス・サクラ・スギ・イチョウ・マツ・ビャクシン・ ケヤキ・ハナノキ・ビランジュ・イチイガシ・シイ ソテッ・センダン・キンモクセイ・フジ・チャ ) や 名木 ( マツの名木、根上り松、石割松、サクラ、カ シワ ) について実例の解説を行っている。この流れ が、本田正次『植物文イオ』 ( 三省堂、昭和 32 年 ) に引 きつがれている。 私は、昭和 22 年いらい文イオ保護審議会カイきる まて、、県の史跡名勝天然記勿国宝重要美術品調査 保存委員会委員という長い名前の任務をつとめた が、事務局 ( 当時県教育委員会の社会教育課 ) が提案 してくる天然記念物は、巨樹名木が圧倒的に多かっ た。私は当時、「巨樹名木の時代は終わった、これか らは点て、はなく、面を重視せねばならぬ」として、 植生の面的な保護を推進しようと考えていた。「巨樹 名木と原生林ーわが国の植物保護」 ( 『自然保護』 7 号、 1961 ) を書いたのもそういう時期て、あった。とこ ろがそうした私の意図を知っていた事務局て、は、私 一ごロ
監修 加藤陸奧雄 東北大学名誉教授 沼田眞 千葉大学名誉教授・日本植物学会会長 渡部景隆 筑波大学名誉教授 畑正憲 作家・日本自然保護協会理事
常緑低木 一般に常緑低木といえば、シャクナゲ・アセビ・アオキなどが考えられるが、ここて、扱うのはほとんどカッテッて、ある。ソ テッは裸子植物の中て、も古い系統の種類とされ、熱帯から亜滞にか 0 江分布し、その一部は九州の南端におよん て、いる。指定樹はいずれも過去に栽植されたものて、あるが、長い歴史を保ってきた。低木の域を越え、中高木に達し ているものもある。 ルの畑の一角にある。 竜華寺のソテッ 枝張りは南北 11 メートル、東西 9 メー 指大正年に月 9 日 トルて樹高 3.1 メートル。株元は土盛り 所静岡県清水市村松 して保護されているため主幹部は明らか 闇竜華寺 * て、なく、主幹から枝分かれしたと思われ りゆうげじ 竜華寺のソテッは、清水港を眼下にし る支幹が南北 5.2 メートル、東西 4 メー て富士山を望む景勝の地にある。泉月ヨ堺 トルの範囲に 8 本出ており、それぞれか のうまんじ の妙国寺、駿河吉田の能満寺とともに らさらに多数の枝カイ申びていて、現在て、 日本の三名木に数えられる。本堂の縁先 は、 8 樹からなる集合体のようにみえる。 に立っと、左手にサポテンの大株を従え 8 支幹のうち、もっとも多い枝数をもっ じぎわ て、囲い柵の中にこのソテッがある。雄 ものは、地際部て、 16 本ある。最大の幹の 株て、、根元から数本の太い枝に分かれて 周囲は 40 センチて、、幹囲 30 センチ以止の ねぎわ いるが、その根際の周囲は 5.2 メートル ものが 11 本ある。 もあり、非常な太さて、ある。四方に広がっ 本樹は、傾斜面の風当たりのよい地形 た枝は数十本あり、密にからみあった固 にあるため、風による被害を受けること まりとなっている。このうち測定されて が多く、特に大正 15 年 ( 1926 ) 、昭和 5 年 いる太い枝の周囲は、北に伸びたものが ( 1930 ) 、 31 年 ( 1956 ) の 3 回の被害は大 約 2.6 メートル、中央のものが約 2.3 メー きかった。なかて、も、昭和 31 年 9 月の台 トル、南のものが約 1.7 メートルて、ある。 風によって全体の 4 割におよぶ枝カ加欠き 近年、やや衰えが目立っといわれる。な 折られた。そのため、東側に防風樹とし お、竜華寺には天然記念物のこのソテッ てイヌマキを植え、根元には敷わらを行 のほかに、並んて立つ 2 本の大ソテッを い、樹の周囲を保護柵て、囲い根際を踏み 始め数多くのソテッがある。 ( 近田文弘 ) 固めないようにしたため、現在て、は樹勢 きわめて旺盛て、ある。 嬉野茶の栽培は、僧栄西がわが国て最 初にチャを栽培したという佐賀県東脊振 うれしの 嬉野の大チャノキ 村の脊振山から、吉村新兵衛が慶安年間 指大正年田月 20 日 ( 1648 ~ 1652 ) に種子をとり寄せ、 所佐賀県藤津郡嬉野町不動山乙 ふどうやま 不動山に植えたのがおこりとされ、本樹 箇嬉野町 はそのうちの 1 本が残存したものと伝え 佐賀県の南西部にあって長崎県と接す られる。チャて、はまれに見る巨木て、ある うれしの る嬉野町は温泉と茶の産地として知ら と同時に、嬉野茶の発祥にかかわる由緒 ある名木て、ある。 れている。 ( 貞松光男 ) 本樹は長崎県境にある虚空蔵山 ( 海抜 609 メートル ) の東斜面、海抜 200 メート りゆうげじ 花 みようこくじ 鷙 雄花の穂 \ 胚珠 種子 雌花 えいさい せふり くぞう 170 ・常緑低木
じぎわ メートル低くなっている。北側の地際部 ちんせいむら 鎮西村のカッラ から測定した幹の周囲は 14 . 5 メートル。 指昭和 9 年に月 28 日 ただし、本樹は多数の幹に分かれ、本財妾 所福岡県飯塚市建花寺舞山 して上に伸びているのて、、それらの集合 飯塚市 体としての幹の周囲て、ある。 飯塚市の西方にある八木山から流れて 個々の幹囲が 30 センチ以上のものが、 かつら きた桂谷と呼ばれる渓谷の急斜面に 北側 2 メートルの高さて、 31 本ある。その 立っているカッラて、、根兀の東側は西側 うち、 1.5 メートル以上のものは 11 本、そ より約 2.7 メートル低い。樹齢は 1000 年 の他、 2 メートル前後の枯損幹が 6 本あ を超えるといわれ、主幹はなくなってお る。なお、この幹の集合体のなかに幹囲 り、根元から多数のひこばえが出て、主 60 センチ前後のカヤとモッコクが各 1 本 な太枝は 15 本を数える。高い方の地面か 入り込んて、いる。樹高は 35 メートル、枝 ら 1.5 メートルの高さの幹囲は 11.82 張りは 25 メートルある。 メートル、木全体の高さ・は約 27 メートル 枝張りとほぼ同じ大きさに保護柵がめ て、ある。カッラは雌雄異株て、あるが、こ ぐらされている。このカッラは、以前は しめなわ の木は雄株て、ある。地上 1 メートルのと : も里縄が張られていて、神木として崇敬 ころにモミジが生えており、その他、キ され保護されてきたものて、ある。カッラ ヅタ・ティカカズラ・ノキシノブ・マメ の巨木としては全国て、も屈指のものて学 ヅタなどが着生している。 術的価値が高い。 ( 貞松光男 ) カッラは福岡県て、も何本か知られてい るが極めて少ない。このカッラは巨木と してわが国て、も有数のものて、ある。 ( 尼川大録 ) 0 0 カッラ分布図 落葉広葉樹・ 63
うすね メートル、西側の大枝は 2.3 メートルて、 薄根の大クワ ある。本種はヤマグワの老に、枝の枯損 指昭和引年 5 月日 するものもあるが、また畤に心配するよ 所群馬県沼田市石墨町 うな衰えのきざしはない 沼田市 本種を保存するため樹下のフキも取り とかみ 二峰山と戸神山を左右に見て、 こ石 去られ、時々除草も行われている。また 墨に広がる高台の丿也にしつかりと根を 適当な施肥もなされ、冬季の降雪て澣枝 下ろした大クワは、自然そのものの偉大 が折損しないよう保護もされている。 さを形にあらわしたようなものて、ある。 ( 野田光蔵 ) 石井万喜司氏の畑地に、どっかと腰を据 えたこの樹は、日本三大名木の一つとし シダレカッラ ての価値は十分て、ある。奔放に広がった 指大正年に月 9 日 枝振りは、たくましい力と、自然の息吹 所岩手県盛岡市肴町・盛岡市門真立・紫 を感じ、その枝くばりは自然の芸術て、あ 波郡都南村大ケ生 る。本に端正な気品のある姿を見せ、 間中島彰 * ・盛岡市・竜源寺 * むしろ葉のないときの方が、ほんとうの 美しさを見せているように感じる。 カッラはわが国特産の落葉広葉高木 目通り幹囲 5 メートルある樹幹に、ク て、、枝は普通斜上する。しかし、この 3 株のカッラはすべて枝が垂れ下がり、 ワの古木の肌は、このようなものかと驚 その下部の枝は地面まて達し美しい樹形 き見入るばかりて、ある。樹高は 10 . 7 メー を保っている。そのためとくにシダレカ トル、樹冠の幅は東西、南北とも 14 メー トルて、ある。 ツラ ( カッラの品種 ) と呼ばれ、他には 植重はヤマグワて、あるが、まさに養蚕 例がなく、極めて珍しいものて、学術ー - ヒ貴 様馬の象徴て、もあり、昔から養蚕の神と 重て、ある。 してたたえられたのも当然て、あろう。樹 シダレカッラの原木は約 300 年前、岩 おおはさま 齢 1500 年と推定されている。貞享 3 年 手県大迫町内川目の山中て、発見され、 はやちわ ( 1686 ) 、高須隼人が命をおびて、沼田藩 幻自町岳の妙泉寺 ( 早池峰神社の隣にそ の検地を行ったとき、この大クワを標木 の跡が残っている ) 境内に移植されたも のて、ある。その後この原木のひこばえが としたと伝えられている。 ( 安盛博 ) 竜源寺に植えられた。このひこばえは約 200 年後の月呆 6 年 ( 1835 ) に巨木になっ 羽吉の大クワ たため寺の補修材として伐られた。この 指昭和ロ年田月図日 切り株から萌芽したひこばえが育ったも 所新潟県両津市羽吉野町 のが現在の竜源寺と関口勇蔵氏、中島彰 両津市 氏所有のシダレカッラて、ある。 かど 竜源寺の株は本堂の裏側、門の株は関 両津市より海岸に沿って北行すること さかな 口氏邸の前の畑のなか、肴町の株は中 約 5 キロメートルの計良家の宅地内にあ 島氏邸の裏庭の右側にある。いずれも管 る。樹齢 1300 年と推定されるわが国屈指 理がよく、生育もすこぶる良い。これら のクワの老大樹て、ある。根回り 5.2 メー の株の大きさは、現在次の表に示される。 トルて、、かっては根兀から 4 本の大枝が ( 所有者 ) ( 目通り幹囲 ) ( 高さ ) 分かれ、高さ 9 メートル、枝のひろがり 中島彰 2 . 46 19 は径 18 メートルて、あった。その後うち 1 関口勇蔵 2 . 94 21 本は枯れ、昭和 37 年 ( 1962 ) 9 月の台風 竜源寺 3.58 22 て哂の幹が折損してしまった。なおのこ ( 菅原亀悦 ) る 2 大枝の東側のものは目通り幹囲 2.7 いし みつみわ 花 雄 果実 はよし 58 ・落葉広葉樹
尾崎小ミカン先祖采 ( 大分 ) ミカン畑の中にある四十余本の小ミカンの老樹。ほとんどが おおひび おうみ 0 大日比ナッミカン原樹 ( 山口 ) 青海島の 上際て、分岐し、屈曲して斜め上に向いている。これらの幹は原木から出て繁殖したものと田 海岸近くの西本氏宅に植えられている。この ィじ、 われる。来歴ははっきりしないが、旧藩時代に培養上の保護をうけたものの遺木と考えられ 株は最初の株のひこばえだったといわれる。 る。甘くて美味て、長期の貯蔵に耐える。 1704 年に海岸に流れ着いた果実からとれた 種子を播いて育てたのが起源といわれる。 っちぎわ いばく 、第、当ら ち一い 【第・一は。 -. ト川 1 員い 3 - ・を消一を - ト一ま・・旅・う第 3 ご )
執筆者一 尼川大録 中村学園大学教授 荒木徳蔵 宮崎県立博物館 今江正知 熊本大学助教授 岩瀬徹 覧 ( 50 音順 ) 千葉県立千葉高等学校教論 大野照好 鹿児島短期大学教授 奧田重俊 横浜国立大学環境科学研究センター助教授 奧富清 東京農工大学教授 越智春美 鳥取大学教授 樫村利道 福島大学教授 河野昭一 富山大学教授 久保田秀夫 栃木県文化財保護審議委員 倉内一 豊橋短期大学講師 小林圭介 滋賀県立短期大学教授 小林義雄 10 ・ 大分県立碩南高等学校教論 須股博信 茨城大学教授 鈴木昌友 島根大学講師 杦村喜則 岩手大学教授 菅原亀悦 奈良女子大学教授 菅沼孝之 金沢大学講師 里見信生 熊本商科大学附属高等学校教論 佐藤千芳 佐賀県果樹試験場 貞松光男 東北女子大学助教授 斎藤宗勝 静岡大学助教授 近田文弘 農林水産省林業試験場浅川実験林樹木研究室長 外山三郎 長崎大学名誉教授 外山三郎 宮崎大学名誉教授 豊原稔 堺市立科学教育研究所 内藤俊彦 東北大学助手 中越信和 広島大学理学部植物学教室 中沢敬止 山梨大学教授 永野巌 埼玉大学教授 中村克哉 東京農工大学名誉教授 新納義馬 琉球大学教授 沼田眞 千葉大学名誉教授 野田光蔵 新潟薬科大学名誉教授 羽田澄子 記録映画監督 牧野和春 随筆家 南川幸 名古屋市立保育短期大学長 南谷忠志 宮崎県立高鍋高等学校教論 宮田逸夫 島根大学教授 室井綽 姫路学院女子短期大学教授 望月陸夫 秋田県立大曲農業高等学校教論 八木下弘 写真家 安盛博 群馬県立女子大学教授 山中二男 高知大学教授 結城嘉美 山形県文化財保護審議委員 和田清 信州大学教授
が縁起が良いとされ、田木が早く芽を出 すと稲作が、畑木が早いと畑乍がよい年 とされている。昭和 3 年 ( 1928 ) 頃、田 木が早く芽を出したが「事実不幸にして 反対に田の方が畑より不作て、あった」 ( 山 梨県『山梨県名木誌』昭和 5 年 ) と記 されている。 八代の大ケヤキ ( 中沢敬止 ) ところに終戦直後の台風て、大枝を失った 跡の空洞があり、トタン板がかけられて いるが、樹勢は今なお盛んて、ある。 苔むした幹は巨大な岩のようて、もあ り、千年の風雪に耐えて積み重ねられた 年輪の重さを、ひしひしと感じさせる巨 樹て、ある。竹の熊集落の行事記録簿によ れば、明治日罸 & の天満宮氏子は 13 名て、ケ ヤキは共有だったこと、昭和 5 ~ 6 年に ケヤキの伐採について氏子の中に争いが 起き裁判沙汰にまて、なったが、幸いにも 最後は保存に落ち着いたことなどが言求 指昭和 3 年 3 月 24 日 所兵庫県朝来郡朝来町八代 置足鹿神社 * ばんたん 播但線新井駅から 20 分て、足鹿神社に 着く。神社の左側に下枝を切られて哀れ な姿て突っ立っている。境内北側の 2 本 の枝は断ち切られ、その切り口は鉄板て、 覆われている。主幹は 5 本の鉄帯て、しば られ、南面は 10 メートルの鉄パイプて支 えられている。それほど老齢ということ なのて、ある。 このケヤキは、目通り幹囲 9 メートル、 高さ 30 メートル、枝張りは東西 19 メート ル、南北 25 メートルある。主幹は地上 10 メートルくらいて二股に分かれ、そのあ たりから腐りはじめ、いまにも裂けそう な状態のため、枝を整理したり、鉄帯を かけたりして保護している。 擱缸 500 ~ 1600 年といわれ、当地て、は おおかなぎ 値打ちのある木の意て、「大金木」と称さ れ、霊木として崇められている。 ( 室井綽 ) あが たけ 竹の熊の大ケヤキ 指昭和田年 6 月 7 日 所熊本県阿蘇郡南小国町赤馬場竹の熊 箇菅原神社 * たけくま 竹の熊の集落のはずれに天満宮と観音 堂が並んて建っており、境内の一隅に注 めなわ 連縄を張られたケヤキの老樹がどっしり と腰を据えている。幹囲 11.7 メートル、 樹高 33 メートル。地上 7 メートルほどの されている。 野間の大ケヤキ 指昭和 23 年一月図日 ( 今江正知、佐藤千芳 ) 本樹は旧蟻無神社 ( 現、野間神社 ) の 境内跡にあるものて、、高さ約 33 メートル、 目通り幹囲 10.75 メートル、枝張り東西 42 メートル、南北 38 メートルて、、幹の下 部て七つの大枝に分かれ、小枝を四方に 広げている。樹齢は 1000 年といわれる が、樹勢は極めて旺盛て、ある。 この木の春の第欠きがよいとその年は豊 作になり、悪いと凶作になると言い伝え られてきた。 ケヤキは、大阪府下て、は山地の谷筋の 所大阪府豊能郡能勢町野間 間野間神社 * たるのて、、ケヤキの生育には適している 間は大阪北部北摂山地の冷涼な或に当 ほくせつ ような冷涼な場所を好んて、自生する。野 と思われる。 しものはちまんぐう ( 豊原 稔 ) 下野八幡宮のケヤキ 指昭和 26 年 6 月 9 日 所宮崎県西臼杵郡高千穂町下野 置八幡神社 * 国道 325 号線から約 2 キロメートル離 れた下野八幡宮の境内、社殿に向かって 右側に立っている。高さは 34.7 メート ル、根回りは 20.8 メートル、目通り幹囲 は 8 メートルある。地上 4 . 6 メートルの ところから東西に 2 支幹に分かれ、東の 支幹はずっと上方て、 3 分しているが、西 の支幹は分岐点の少し上て、 2 分してい るのて、、本として 3 本の幹のように見 枝の広がりは東西に約 26 メートル、南 北に約 32 メートルあって、南側の枝先が れ、今て、も地兀の語り草になっている。 塩井手の泉はケヤキの枯死と同時に涸 らは清洌な清水が豊かに湧いていたが、 て、あっただけに、 2 本のケヤキの根兀か えていたと伝えられている。御手洗い場 柳本大明神の東西の御手洗い場に生 ゃなぎのもと この 2 本のケヤキは阿蘇家代々を祭る してしまった。 ( 1964 ) 、根兀の民家の火事のため枯死 だったが、塩井手のものは昭和 39 年 ばれていた。 ともに国指定の天然記念物 あり、もう 1 本は塩井手の大ケヤキと呼 しおいで もともと浜町には 2 本のケヤキの大樹が びのびと枝をはった姿の良いに、ある。 ル、樹高は 32 メートル、空いつばいにの 樹。幹囲は瘤をさけて測定して 9 メート 矢部町の中心、浜町にあるケヤキの大 間瀬貝神社 * 所熊本県上益城郡矢部町浜町瀬貝 指昭和ロ年 5 月 30 日 妙見の大ケヤキ みようけん ( 外山三郎 = 宮崎、荒木徳蔵 ) され保護されている。 然記念物て、ある。根兀には鉄柵がめぐら 樹勢も盛んて、、宮崎県唯一のケヤキの天 多少枯れている以外は枝葉は良く茂り、 落葉広葉樹・ 55 ( 今江正知、佐藤千芳 )
回復を期待したい。推定樹齢は約 400 年 えいめいじ 永明寺のキンモクセイ 指昭和に年 6 月日 所群馬県邑楽郡邑楽町中野 置永明寺 * る。樹勢は旺盛て、あるが、樹下に落葉を 敷くなど保護策がとられている。 ( 近田文弘 ) 往至森寺のキンモクセイ 指昭和 2 年 4 月 8 日 所愛媛県西条市飯岡 往至森寺 * 香りの強い花の咲くキンモクセイは、 よく庭に植えられ、普通は小高木か低木 状て、あるが、ときには大きなものもある。 このキンモクセイは、往至森寺の門の 外にあって、根回りほば 4 メートル、地 上 1 メートルあまりのところて、、 4 本の 枝に分かれている。 台風の被害を受けたこともあるが、高 さ約 16 メートルにまて、生長していて、 10 月の花のころには、匂いが遠くまて達す おしもりじ とされている。 ふみようじ ( 安盛博 ) 永明寺の山門を入った左手にある。昭 和 41 年 ( 1966 ) 、台風により根ごと倒れた のて、引き起こされた。このときには根回 りは 4 . 7 メートル、地上 1.3 メートルのと ころて、幹囲 3.4 メートルあり、その上か ら 2 幹に分かれ、それぞれ周囲 2.5 メー トル、 1 . 7 メートルあった。しかしその後 腐朽が入り、樹勢は回復するにいたらな かった。現在はわすかに生き残った下部 しんしようそうせい から新梢が叢生しているものの、昔の面 影は全くなく、回復の見込みはない 幸い永明寺て、、地際部に盛り土をし、 ひこばえを発根させて取り木をし、 2 代 目を作った。これが現在樹高 2 メートル 近くに生長している。同様な目的て群馬 県林業試験場て、は、昭和 50 年 ( 1975 ) よ り 5 ヵ年にわたり、県内の国・県指定樹 木のほとんどについて 2 代目育成の事業 を行い、場内に保存している。 ( 安盛博 ) 三島神社のキンモクセイ 指昭和 9 年 5 月一日 所静岡県三島市大宮町 2 丁目 三島大社 * 三島大社は国鉄三島駅の東南約 1 キロ メートル、市彳也の只中にあってこんも りと繁る森に囲まれている。三島大社の キンモクセイは、この森の中央部、本殿 近くに立っ半球状の樹冠を持っ巨木て、あ る。樹高 15 メートル、目通り幹囲が約 4 メートルあり、幹は地 - 勺 1 メートルの 所て、大きく二つに分かれる。枝は四方に 広がって密に葉をつけ、その先は垂れ下 がる。雄株て、ある。 このキンモクセイはウスギモクセイと 呼ばれるものて、、花色はやや淡い黄色て、 ある。 9 月上旬から中旬にかけ一度開花 し、 9 月下旬から 10 月にかけて再び開花 する性質がある。合は 1200 年といわれ 118 ・常緑広葉樹 じぎわ みしまじんじゃ るという。 けぞうじ けぞうじ 置華蔵寺 * 所群馬県伊勢崎市華蔵寺町 指昭和に年 6 月日 華蔵寺のキンモクセイ ( 山中二男 ) 華蔵寺公園の東隣にある天台宗華蔵寺 の境内にある。目通り幹囲 2.8 メートル、 樹高 10.6 メートルもあって全国的にも 珍しい巨木て、あった。 10 月初旬の満開期 には黄赤色の花が一面に咲き、その香り は 4 キロメートルの遠方にも及んだとい う。しかしこの樹は、その後 2 度の台風 に遭っている。昭和 41 年 ( 1966 ) には根 こそぎ倒れたのて、、起こして施肥などの 手当てが施され、樹勢が一は回復した。 が、昭和 57 年 ( 1982 ) 2 度目の台風に遭 い、 3 本に分岐していた主幹の 1 本が、 は 3 分の 2 ほどになった。残された樹の 20 メートル、南北 15 メートルあった樹冠 ほとんど根元から倒れた。そのため東西 普明寺のキンモクセイ 指昭和 2 年 4 月 8 日 所佐賀県鹿島市古枝久保山 闇普明寺 * 普明寺は佐賀鍋島藩鹿島支藩の是寺 て、あり、三大稲荷の一つとして知られる 祐荷神社から約 1 キロメートル離れ たところにある。 本樹はキンモクセイの雄株て、、同寺本 堂前の広場の東側にある。根元は直径 6.7 メートルの円形に石て、囲まれ、高さ 50 センチの盛り土がなされている。 盛り土上 70 センチの高さの幹囲が 5.5 メートル、そこから 3 本の支幹に分かれ ていたのが、昭和 51 年 ( 1976 ) の台風 17 号によってそのうちの 1 本が折損した。 残る 2 幹の幹囲は 1 メートルの高さて、 2.5 メートルと 1.95 メートル。さらにそ の上から次々に分枝し、 5 メートルの高 さて、の分枝数 9 本。樹高 16 メートル。枝 張りは南北 16 メートル、東西 18 メートル て、枝葉は傘形に広がり、南側は地上 1 メートルまて枝が垂れているが、北側は 9 メートルまて、はげ上がっている。 昭和 51 年の台風て、全体力んだため、 きんばく 昭和 54 年 ( 1979 ) に鋼線て枝幹を緊縛し、 また支柱をたてるとともに根元にも防護 柵を設けて保護したのて、、樹勢はほば回 復してきている。 普明寺のキンモクセイは、同寺の開山、 けいがん 桂厳褝師が元禄年間 ( 1688 ~ 1704 ) に佐 やまと だいがんじ 賀郡大和町の大願寺にある 2 樹のうち の 1 樹を移植したものと伝えられる。大 願寺はその後廃寺となったため、残され た 1 樹は本尠ヒして今はない。 キンモクセイは中国原産て広く庭園樹 とされるが、一殳には小高木となるもの て、、本樹のごとき巨樹はきわめてまれて、 あり、注目される。 ( 貞松光男 )