ゆうりゆうのまっ 遊竜松 指昭和 7 年 4 月円日 所京都府京都市西京区大原野小塩町 置善峰寺 * 善峰寺の山門を入って北西の一段と高 い石垣に接して、 1 株のゴョウマツがあ る。高さは 2 メートル強、根兀から北方 と西方へ伸びた枝はまさに「遊竜松」の 名にふさわしい。北方へ伸びた長枝は約 25.6 メートル、同じく西方のは 26.1 メー トルある。両枝は株元から出てしばらく 地に接するが、北の枝は約 2 メートルて、 地から離れ、その部分の周囲は 1 . 54 メー トル、西の枝は約 1.5 メートルて、地から 離れ、同じく 1.64 メートルある。先端の 高さは北枝 2.3 メートル、西枝 2 メート ルある。両枝とも伸長にともなって枝葉 が一つづきとなり、中央の傘状の枝葉と ともに見事て、ある。中央の株元はコンク リートて補修されているのて、、言れ則て、き 遊竜松の名は花山院前右大臣家厚公が 安政 4 年 ( 1857 ) に命名したものと伝え られ、寺伝て、は樹齢 600 年という。 よしみね ( 菅沼孝之 ) 指大正ロ年月 9 日 鳴門の根上りマッ なると ねあが 126 ・常緑針葉樹 る木は、幹の基部て、周囲 2.5 ~ 3 メート は 2 本だけになっている。いま残ってい が、昭和 9 年の台風て、いためられ、現在 は 8 本の根上がりの木があったという 上がりの例て、ある。もとは大きなものて、 落に近い砂丘ーヒに見られるクロマツの根 これは、鳴門市の大毛島の土佐泊の集 がりがしばしば見られる。 は、根が地上に上がった、いわゆる本艮上 海岸に近くことに砂馳に生えたマツに 鳴門市 所徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦大毛 ル、高さは約 25 メートル、地表面から上 に出た根の高さ ( 根上がり ) は、ほば 3 メートルて、ある。 あわじこくどう 淡路国道マッ並木 指大正年 2 月 24 日 ( 山中二男 ) 昭和 47 年 9 月 6 日 ( 一部解除 ) 所兵庫県三原郡三原町 闇三原町 国道 28 号線中の三原郡八木から神代 まて、の 6 キロの両側に並んだ樹齢約 300 年以上のクロマツの並木て、ある。 文政 9 年 ( 1826 ) 刊の淡路の古い地誌 『淡路草』によれば「八木松原、上八木 より国衙村に至る並松 37 町 30 間余あり、 文亀 2 年、西山村の二郎太郎と云者首代 りに 2000 株の松を植えたと云文化 10 年 迄 336 年也、左右合 1654 本」とある。 いまから 35 年前まて、は国道 28 号線が 未舗装て、、道の両側に柆擱合 300 ~ 500 年の 大小様ざまのクロマツの大木が林立し、 国道沿いの家々て、は毎年秋の落葉期に 競ってクロマツの落葉を集め、幗斗にし たものて、あった。その後、台風の来襲ご とや、自動車の排気ガスの景彡響を受けて 倒木が続出した。 とくに昭和 25 年の ジェーン台風の被害は大きかった。その 後、台風のたびに被害が出ている。 近年、国道の拡張改イ瞬甫装工事のため、 次々と無言 1 画に伐採が続き、クロマッ並 木は姿を消しつつある。さらに拍車をか けたのが松食虫て、ある。 ことに昭和 40 年、国道 28 号線の全線改 修完了にともない、四国方面からの大型 輸送車の通行が増加、排気ガスの滂処曽と 松食虫によって本ヒカいた。昭和 51 年 て、は、樹齢 50 ~ 200 年のものが八木地区 に 70 本、神イ也区に 9 本がかろうじて健 在て、あったが、昭和 59 年て、は 1 本になっ てしまった。 ( 室井綽 )
。男体山 イ 六郎地山 につこう 日光杉並木街道附並木寄進碑 指昭和 29 年 3 月 20 日 ( 天 ) 昭和引年田月引日 ( 特天 ) 昭和 52 年 3 月田日 ( 追加指定 ) 昭和 53 年 3 月田日 ( 追加指定 ) 昭和 54 年 3 月 20 日 ( 追加指定 ) 昭和 55 年に月 5 日 ( 追加指定 ) 昭和 56 年に月 23 日 ( 追加指定 ) 昭和 59 年一月Ⅱ日 ( 追加指定 ) 所栃木県日光市・今市市 置栃木県・日光東照宮 基 を 特別天然記念物 寺 - を ツ 都 一日、・杉並 附並木寄 大 : インター 鹿沼市いの いまいち 日光・今市の両市にまたがっている。 往時、日光東照宮が造営されて、その参 道て、あった神橋の杉並木寄進碑付近を起 スファルトて舗装されてしまった。これ 点として日光街道 ( 日光 ~ 今市市街 8.5 木幡の大スギ らの結果としてスギは根に水分を吸収す キロメートル、国道 119 号 ) 、今市市街か 脂昭和年 3 月 27 日 ら三方向に分かれて、例幣使街道 ( 今市 ~ ることが妨げられるようになり、また大 所福島県安達郡東和町木幡治家 小倉 13.9 キロメートル、国道 352 号 ) 、御 型車の通行による地面の振動、排気ガス 置隠津島神社 * 成街道 ( 今市 ~ 山口 10 . 7 キロメートル、 の充満等を始めとしてスギの生長するた あだちとうわ だてかわまた 木幡山は、伊達郡川俣町と安達郡東和 国道 119 号 ) 、会津西街道 ( 今市 ~ 大桑 3.9 めの環境の悪イヒがますます進んて、来た。 町との境に立つ標高 666 メートルの峰て、 キロメートル、国道 121 号 ) の 4 街道の総 また並木敷の一部を住宅として占有して ある。山項に隠津島神社があり、木幡山 延長 37 キロメートルの両側に、徳川家康 いるところもあり、その他宅地開発によ ほうさい 一帯はその境内となっている。境内は の家臣て、あった松平正綱が奉斎のために り並木の両側の土地が業者によって買い うっそうとしたスギの木立て、おおわれて スギを植栽して東照宮に寄進した。この 占められること等にもより、スギの根兀 いる。この境内の一角にひときわ大きな 事業は寛永 2 年 ( 1625 ) 頃から始まり、 20 があぶなくなって来ている。これらの スギが立っており、木幡の大スギと呼ば 年を経て完成したものて、ある。この延長 種々の景彡響によって本ヒする株が年々増 れている。根回り 16.2 メートル、目通り 37 キロメートルに及ぶ街道を総称して日 加し、そのため間伐されるものは毎年 30 幹囲 9.33 メートル、樹高はおよそ 20 メー 光杉並イ道と呼ぶのて、ある。この杉並 本余になり、また台風等による折損倒木 木は明治 38 年 ( 1905 ) に東照宮の所有と トルて、ある。樹齢は 700 年といわれ、永年 の被害も多くなっている。昭和 44 年 の風雨に洗われて土が流れ、根は高く露 なって現在にいたっている。 ( 1969 ) には 1 万 5466 本あったものが、 スギの本数は、昭和 54 年 ( 1979 ) の調査 出しているが、樹勢はなお盛んて、ある。 昭和 54 年には先に記したように 1 万 スギの巨木としてわが国有数のものて、あ て、は、目通り直径 30 センチ以上のものが 4747 本と報告されている。 1 万 4747 本、平獺高 30 メートル、最高 昭和 49 年 ( 1974 ) 、栃木県に「日光杉並 る。 ( 樫村利道 ) 50 メートルを越し、目通り平均直径 73 セ : 野道保護対策連絡協議会」が設置され、 ンチ、最大 1.93 メートルて、ある。これら 保護のための対策が協議され、提案され すぎさわ 杉沢の大スギ のスギが亭々としてそびえる姿は、まこ ている。 t 義会の中にも、また地元今市 指昭和田年 8 月 24 日 とに美しく、わが国を代表する並木とし 市の自冫幇本の中にも、バイバスを設け、 所福島県安達郡岩代町新殿 て世界に誇る貴重な存在て、ある。大正 11 現在の道路は舗装を除去し、鑑賞道路と 闇岩代町 年 ( 1922 ) 3 月 8 日に史跡として指定さ すべきて、あるとの声は強い。現在のとこ ふねひき れ、昭和 27 年 ( 1952 ) 3 月 29 日、特別史跡 国鉄磐越東線の船引駅の北約 10 キロ ろ杉並木街道の環境整備事業として栃木 メートルの山間の畑地に立っスギの大木 県て、は並木道保護用地の公有化、抃艮保 に昇格した。 て、ある。寛永の昔、藩主の領内巡視のと 護のための石積み、土盛りエ事等カ哘わ 近年、車の通行量が増大し、スギの保 きに、当時の藩主丹羽光重の目に止まり、 れているだけて、ある。 護よりも交通対策上かってのこの狭い道 ( 久保田秀夫 ) 主命によって地名を杉沢と変え、大木の 路が無理に拡張され、コンクリートやア 日光杉並木街道附並木寄進碑 はた はたさん 134 ・常緑針葉樹
せんぶくじ 専福寺の大ケヤキ 脂昭和年 6 月 7 日 所福井県大野市友兼 闇専福寺 * 本樹は土塀を中断して立ち、根兀は南 側が北側よりおよそ 1 メートル高く、高 地面て、の根回りは約 15 メートル、また、 それより 1 . 5 メートル上部の幹囲は 10.5 メートルて、ある。樹高は指定当時 16 メー トルあったというが、その後たびたび折 損し、現在は 8 メートルばかりて、、先端 は腐朽している。しかし、主幹の南側か ら多くの不定芽が出て、それが若々しく かなり生長した。また、指定当時、地上 3 メートルのところにあったといわれる 大きな隆起は消失した。不定芽の生長と 隆起の消失との因果関係については未 が持たれる。本樹はしたがって枝張りが 大きくないが、ケヤキの老樹として有数 のものて、ある。 みつえ 三恵の大ケヤキ 指昭和に年Ⅱ月 30 日 ( 里見信生 ) ・・・・」 ( 山梨県教育委員会 : 責名勝天然 記念物調査報告書第 2 輯大正 15 年 ) と 記されたように偉容を誇っていた。鹿児 あいらかもう 島県姶良郡蒲生町にあるクスノキが日本 ーの巨木といわれ、三恵のケヤキはこれ に次ぐものてあるといわれる。 ケヤキはニレ科に属し、本州・四国・ 九州、また台湾・中国にも分布する。北 海道には生育しないが、函館八幡宮境内 の大ケヤキは安政 3 年 ( 1856 ) 松川弁之 助が植えたものて、あるという ( 『松前 東京付近て、もイチョウとともにケヤキが 多い。これは関東地方の土壌が適し、深 根性て風にも強く、屋敷林や神社林とし て適していたため多く植えられたから だ。戦前の東京市公園課の調査て、は、目 通り幹囲 3 メートル以上のいろいろな大 きな木のうち、イチョウとケヤキて、全体 の約 5 舮ヾーセントを占めていた。全国的 にみても多くのケヤキの大木が報告され ていて、戦前には目通り幹囲 6 メートル 以 E のものが 115 本もあった ( 『大日本老 樹名木誌』 ) 。また天然記念物に指定され たものも 23 件あった。 前述したように偉容を誇ったこの三恵 の大ケヤキも、老木によくみられるよう に幹に空洞が生じ、昭和 34 年 ( 1959 ) 8 月に台風の被害も受けた。現在は、主 て支える等の保護が加えられているが、 甲府盆地のほば中央、御勅使川扇状地 の東南端、 ~ 責層の砂礫地に属する土壌 からなる山梨県中巨摩郡若草町 ( 旧三恵 村 ) 寺部今井の前の廃社懿地に、三恵の 大ケヤキがある。秋山樹好氏の測定によ ると根回り 16 メートル、目通り幹囲 14. 65 メートル、樹高 21 メートル、枝張り東 方 11 メートル、西方 5 メートル、南方 10. 5 メートル、北方 16 メートルと拡がってい る巨木て、ある ( 秋山救子『山梨県巨樹名 木盖 & 昭和 49 年 ) 。 大正 15 年 ( 1926 ) 頃には「・・・・・・五つの 枝を出し・・・・・・畑の中に独立した樹て、ある が、遠くから眺めると林のように繁茂し 54 ・落葉広葉樹 昭和 32 年 7 月引日 ( 名称変更 ) 所山梨県中巨摩郡若草町寺部 若草町 充分な管理が望まれる。 うえのはら 上野原の大ケヤキ 指昭和円年Ⅱ月ロ日 ( 中沢敬止 ) 所山梨県北都留郡上野原町上野原 闇上野原町 山梨県北都留郡上野原町の上野原小学 校校庭の南東端にある。 こはもと御岳 神社の境内て、あったが、明治 8 年 ( 1875 ) ! 建設のため神社を他に移し、傾斜面 を埋め立てて校庭にした。そのためケヤ つる キの根本の部分は「この埋め立てのため 約 3 間 ( 約 6 メートル ) が埋没し・・・・・・」 ( 山 梨県教育委員会 : 責名勝天然記念物調 査報告書第 3 輯昭和 3 年 ) または「・・・ ート。・数尺埋没し・・・・・・」 ( 山梨県『山梨県名木 誌』昭和 5 年 ) し己に大きな違いがあ る。昭和 46 年刊の『山梨の文イオ』て、は、 「約 3 メートル盛土中に堋している と述べているが、前の「・・・・・・十数尺」に 似ている。 現在の大きさは根回り約 10.2 メート ル、目通り幹囲約 8.6 メートル、樹高約 23 メートルて、ある。 この付近は厚いローム層からなり、十 分に根をはり生育が旺盛て、あったが、老 巨木て、よくみられるように昭和 5 年 ( 1930 ) には幹に空洞が生じていた。 ( 中沢敬止 ) この 2 本のケヤキの芽の出方の早い方 保護管理が必要て、ある。 たりして、昔のおもかげはない。十分な る。しかし、その空洞を板などて、おおっ が枯死はまぬがれて今日にいたってい 空洞が生じ、また火災にあったりした 『山梨県巨樹名木誌』昭和 49 年 ) て、あ メートル、樹高 22.5 メートル ( 秋山植技子 は根回り 12.6 メートル、目通り幹囲 12.6 幹囲 12 メートル、樹高 20 メートル、畑木 年 ) 。田木の根回り 14.3 メートル、目通り 天然記念物調査報告書第 2 輯大正 15 かがえる ( 山梨県教育委員会 : 責名勝 田木、畑木の立派な巨木て、あることがう 大正 15 年 ( 1926 ) 頃の写真て、は、この る。 向かって左を田木、右を畑木と呼んて、い はたぎ 殿前に、 2 本の大ケヤキがある。拝殿に 山梨県北巨摩間彡頁玉町の根古屋ネ土拝 すだま 置根古屋神社 * 所山梨県北巨摩郡須玉町江草 指昭和 33 年 5 月馬日 根古屋神社の大ケヤキ ね やじんじゃ
第第 . ゞい、い謎 0 往至森尋のキンモクセイ ( 愛媛 ) 往至森 0 水明等のキンモクセイ ( 群馬 ) 永明寺山 0 三島神社のキンモクセイ ( 静岡 ) 高さ約 寺の門外にあって、高さ約 16 メートル、根回 門の左手にあるが、昭和 41 年、台風により根 15 メートル、目通り約 4 メートル、枝は四方 り約 4 メートル、 4 本の枝に分かれている。 ごと倒れ、腐朽が入り、昔の面影は全くない にひろがっている。樹形の正しいキンモクセ 花の匂いが遠くまて達する。 イの巨木て、ある。 現在はひこばえが成長している。 ネ第、 1 けぞうじ 0 華蔵寺のキンモクセイ ( 馬 ) 推定樹齢約 400 年。キンモクセイて、は全国的にも珍しい巨 木て、あったが、 2 度の台風の被害に遭っている。昭和 41 年に根ごと倒され、昭和 57 年には 3 本に分岐した主幹の 1 本が根元から倒れた。樹冠は 3 分の 2 ほどになっているが、 10 月初旬 の満開時には、その香りを四方にただよわす。写真右は樹下一面に散ったキンモクセイの花。 - ド第をヾ。 00 普明善のキンモクセイ ( 佐賀 ) この木 はキンモクセイの雄株て、、樹高約 16 メートル もある巨に、ある。昭和 51 年の台風て、被害を うけている。 116 ・常緑広葉樹
つま 妻のクス 指昭和 26 年 6 月 9 日 所宮崎県西都市妻上妻 間都万神社 つま ( 外山三郎 = 宮崎、南谷忠志 ) 1200 年ぐらいといわれている。 ネ軒必さをただよわせている。推定樹齢は ネシダ・ボウランなどの着生植物が多く、 樹幹にはムクノキ・ヒトッパ・アオガ たものの、樹勢を取りもどした。 たが、今て、は枝を切り落とされ低くなっ 続けた。そのため枯死するかと心配され の消火作戦にもかかわらす、一昼夜燃え この空洞を火が通り、とび職も加わって 日 19 時 30 分、子供のたき火による失火て、 の広さがある。昭和 41 年 ( 1966 ) 2 月 6 幹の中心は空洞となり、内部は 6 畳敷 枝葉を広げている。 東西に 24 メートル、南北に 34 メートルの ルに達する。 60 センチ以上の支幹 6 本は 16.4 メートル、目通り幹囲は 10.8 メート ル ( 以前は 40 メートルあった ) 、根回り 都万神社の境内にあり、高さ 30 メート 指昭和 26 年 6 月 9 日 高鍋のクス たかなべ 110 ・常緑広葉樹 る。しかし、推定樹齢 500 年といわれるだ けられ、東の道路側への傾きを抑えてい ダケカ町受入している。今はワイヤーがか われ、根元の西半分には空洞が生じ、メ けてから老衰が目立つようになったとい 終戦直後の台風て、、幹や枝が損傷を受 り落とされている。 メートルあり、残りの 6 本は枯死し、切 葉を広げ、枝張りは東西、南北とも約 30 上方て、 11 支幹となる。そのうち 5 本が枝 5 メートルの所て、幹は二つに岐れ、さらに 目通り幹囲 10 メートルに達する。地上 1. 高さ約 35 メートル、根回り 13 メートル、 道に面した崖トにやや東に傾いて立つ。 高鍋町の舞寉鴃申社境内の東はずれ、車 まいづる 舞鶴神社 所宮崎県児湯郡高鍋町南高鍋 けに、イタビカズラやマメヅタがはい上 がり、依然として古木の風格がある。 ( 外山三郎 = 宮崎、南谷忠志 ) 置日南市 所宮崎県日南市東弁分乙 指昭和 26 年 6 月 9 日 東郷のクス とうごう ( 外山三郎 = 宮崎、南谷忠志 ) のこと。推定樹齢は 700 年とされている。 言い伝えによれば、昔は 3 本あったと 生い茂っている。 ビワの成木やヒメイタビ・ / シラン等が ルのムクノキ、さらにネズミモチ・イヌ せ、また堂々としている。幹囲 1.9 メート 着生植物が多数着き、ネ軒必さをただよわ 枝葉が繁茂し、木の勢いがよい上に の枝葉を広げている。 が東西に 19 メートル、南北に 39 メートル て、それぞれ二つに分かれ、計 6 本の支幹 のところて、三つに分かれ、さらにその上 ルの巨木て、ある。幹は地ー勺 5 メートノレ 根回り 24 メートル、目通り幹囲 10 メート つのが東郷のクスて、、高さ 40 メートル、 宮 ( 東郷 ) 神社がある。境内にそびえ立 東郷小学校の運動場の北側に接して大 かもう 蒲生のクス 特別天然記念物 指大正Ⅱ年 3 月 8 日 ( 天 ) 昭和 27 年 3 月 29 日 ( 特天 ) 所鹿児島県姶良郡蒲生町 闇八幡神社 * ・蒲生町 八幡神社の境内にあって、樹高 30 メー トル、地上 1.5 メートルの幹囲 24.2 メー トル、根の周囲は実に 33.6 メートルとい うわが国最大の大クスて、ある。保安 4 年 ( 1123 ) 2 月 21 日、蒲生舜清が八幡神社 こんりゆう を建立した当時、すて、に神木としていた ことが伝えられているのて、、樹齢は千数 百年になるものと推定される。 根元には直径 4.5 メートルの空洞カイ
が縁起が良いとされ、田木が早く芽を出 すと稲作が、畑木が早いと畑乍がよい年 とされている。昭和 3 年 ( 1928 ) 頃、田 木が早く芽を出したが「事実不幸にして 反対に田の方が畑より不作て、あった」 ( 山 梨県『山梨県名木誌』昭和 5 年 ) と記 されている。 八代の大ケヤキ ( 中沢敬止 ) ところに終戦直後の台風て、大枝を失った 跡の空洞があり、トタン板がかけられて いるが、樹勢は今なお盛んて、ある。 苔むした幹は巨大な岩のようて、もあ り、千年の風雪に耐えて積み重ねられた 年輪の重さを、ひしひしと感じさせる巨 樹て、ある。竹の熊集落の行事記録簿によ れば、明治日罸 & の天満宮氏子は 13 名て、ケ ヤキは共有だったこと、昭和 5 ~ 6 年に ケヤキの伐採について氏子の中に争いが 起き裁判沙汰にまて、なったが、幸いにも 最後は保存に落ち着いたことなどが言求 指昭和 3 年 3 月 24 日 所兵庫県朝来郡朝来町八代 置足鹿神社 * ばんたん 播但線新井駅から 20 分て、足鹿神社に 着く。神社の左側に下枝を切られて哀れ な姿て突っ立っている。境内北側の 2 本 の枝は断ち切られ、その切り口は鉄板て、 覆われている。主幹は 5 本の鉄帯て、しば られ、南面は 10 メートルの鉄パイプて支 えられている。それほど老齢ということ なのて、ある。 このケヤキは、目通り幹囲 9 メートル、 高さ 30 メートル、枝張りは東西 19 メート ル、南北 25 メートルある。主幹は地上 10 メートルくらいて二股に分かれ、そのあ たりから腐りはじめ、いまにも裂けそう な状態のため、枝を整理したり、鉄帯を かけたりして保護している。 擱缸 500 ~ 1600 年といわれ、当地て、は おおかなぎ 値打ちのある木の意て、「大金木」と称さ れ、霊木として崇められている。 ( 室井綽 ) あが たけ 竹の熊の大ケヤキ 指昭和田年 6 月 7 日 所熊本県阿蘇郡南小国町赤馬場竹の熊 箇菅原神社 * たけくま 竹の熊の集落のはずれに天満宮と観音 堂が並んて建っており、境内の一隅に注 めなわ 連縄を張られたケヤキの老樹がどっしり と腰を据えている。幹囲 11.7 メートル、 樹高 33 メートル。地上 7 メートルほどの されている。 野間の大ケヤキ 指昭和 23 年一月図日 ( 今江正知、佐藤千芳 ) 本樹は旧蟻無神社 ( 現、野間神社 ) の 境内跡にあるものて、、高さ約 33 メートル、 目通り幹囲 10.75 メートル、枝張り東西 42 メートル、南北 38 メートルて、、幹の下 部て七つの大枝に分かれ、小枝を四方に 広げている。樹齢は 1000 年といわれる が、樹勢は極めて旺盛て、ある。 この木の春の第欠きがよいとその年は豊 作になり、悪いと凶作になると言い伝え られてきた。 ケヤキは、大阪府下て、は山地の谷筋の 所大阪府豊能郡能勢町野間 間野間神社 * たるのて、、ケヤキの生育には適している 間は大阪北部北摂山地の冷涼な或に当 ほくせつ ような冷涼な場所を好んて、自生する。野 と思われる。 しものはちまんぐう ( 豊原 稔 ) 下野八幡宮のケヤキ 指昭和 26 年 6 月 9 日 所宮崎県西臼杵郡高千穂町下野 置八幡神社 * 国道 325 号線から約 2 キロメートル離 れた下野八幡宮の境内、社殿に向かって 右側に立っている。高さは 34.7 メート ル、根回りは 20.8 メートル、目通り幹囲 は 8 メートルある。地上 4 . 6 メートルの ところから東西に 2 支幹に分かれ、東の 支幹はずっと上方て、 3 分しているが、西 の支幹は分岐点の少し上て、 2 分してい るのて、、本として 3 本の幹のように見 枝の広がりは東西に約 26 メートル、南 北に約 32 メートルあって、南側の枝先が れ、今て、も地兀の語り草になっている。 塩井手の泉はケヤキの枯死と同時に涸 らは清洌な清水が豊かに湧いていたが、 て、あっただけに、 2 本のケヤキの根兀か えていたと伝えられている。御手洗い場 柳本大明神の東西の御手洗い場に生 ゃなぎのもと この 2 本のケヤキは阿蘇家代々を祭る してしまった。 ( 1964 ) 、根兀の民家の火事のため枯死 だったが、塩井手のものは昭和 39 年 ばれていた。 ともに国指定の天然記念物 あり、もう 1 本は塩井手の大ケヤキと呼 しおいで もともと浜町には 2 本のケヤキの大樹が びのびと枝をはった姿の良いに、ある。 ル、樹高は 32 メートル、空いつばいにの 樹。幹囲は瘤をさけて測定して 9 メート 矢部町の中心、浜町にあるケヤキの大 間瀬貝神社 * 所熊本県上益城郡矢部町浜町瀬貝 指昭和ロ年 5 月 30 日 妙見の大ケヤキ みようけん ( 外山三郎 = 宮崎、荒木徳蔵 ) され保護されている。 然記念物て、ある。根兀には鉄柵がめぐら 樹勢も盛んて、、宮崎県唯一のケヤキの天 多少枯れている以外は枝葉は良く茂り、 落葉広葉樹・ 55 ( 今江正知、佐藤千芳 )
合って、土地とともにこの樹を買い戻し、 共有の宝として後世に伝えることにした のて、ある。 ( 今江正知、佐藤千芳 ) おおごしや 大杵社の大スギ 指昭和 9 年 8 月 9 日 所大分県大分郡湯布院町川南 大杵社 * おおごしや 大杵社境内、社殿に向かって左側に こんびら 金比羅スギ 立っている。根回り約 13.3 メートル、地 指昭和 34 年 7 月 24 日 上 1 . 5 メートルの幹囲 10.31 メートル、地 所熊本県阿蘇郡南小国町満願寺堂の本 上約 2.7 メートルて、幹は 2 分し、西方の 間南小国町 主幹は直立して高さ約 33 メートルに達 まんがんじ ごんげんやま する巨木て、ある。幹から多数の枝を水平 満願寺の集落を見下ろす権現山の断崖 に出し、最下位の枝は地上約 4.5 メート の上にそびえ立っスギの巨木。幹囲 12.2 ルの高さにある。幹の南側基部には空洞 メートル、樹高 28 メートルて潴擱合は 1000 があって、入り口の広さは幅 80 センチ、 年といわれる。元禄年間と昭和 4 年 長さ 1 メートル、内部は約 1.5 平方メー ( 1929 ) の 2 回落雷にあい、内部は楽に トルほどあるが、樹勢はきわめて旺盛て、 人が入れるほどの空洞になり、真黒に焼 ある。 け焦げている。それて、も勢いよく枝葉を 生育地点は海抜 540 メートル、北向き 茂らせ家として立つ姿には、ネ軒必なま さんろく の山麓て、、周辺にはシロダモ・ヤプニッ て、の生命力を感じさせる。わが国て、も屈 ケイ・ヒサカキ・シキミ・ケヤキ・イロ 指のスギの巨木て、ある。 ハカエデなどが生育しており、常ム葉 ここ満願寺は鎌倉幕府の執権北条日頁 ちんぜいぶぎよう 材木帯の上限にあたる。空中湿度も高く の弟時定が鎮西奉行として下向し、蒙古 立地条件に恵まれている。 の襲来に際して敵国降伏の勅願寺・立護 ( 須股博信 ) こんりゆう 山満願寺を建立したところ。北条氏は三 代にわたってこの地を領したが、瀬戸内 海の航行安全を祈って、金毘羅権現を 祭った。そのことが、このスキと山の名 の由来となっている。 ( 今江正知、佐藤千芳 ) 阿弥陀スギ 指昭和 9 年に月 28 日 所熊本県阿蘇郡小国町黒淵本村 小国町 おぐにごう 小国郷は古くからスギの郷て、樹齢数百 さの 狭野のスギ並木 年の老杉が各地に見られる。中て、も阿弥 指大正に年に月 9 日 陀スギは名木て、、幹囲 11.6 メートル、樹 所宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田 高 38 メートルて、枝張りは 30 メートルに 置狭野神社ネ・高原町 及び、幹の途中から十数本の大枝が立ち 上がり、見事な樹形をつくっている。そ 狭野神社ーの鳥居から本殿に至る 800 して、集落の中に仁王のようにそびえ立 メートルの参道両側に、天を圧するばか ばんしよう つ姿は、巨大な梵鐘にも似て不思議な りの巨杉が立ち並び、日本一の折り紙っ 霊気さえ感じられる。阿弥陀スギの名は、 きて指定された。指定当時は 156 本を数 樹下に阿弥陀堂カ際られていたことに由 えたが、年ごとに襲う台風て倒れ、昔の 来する。 面影を失っていった。旨当求にあるものか この老樹には、その姿に劣らぬ美しい ら、風倒木の本数と当時の競売単価の一 話がある。明治 35 年 ( 1902 ) 、この樹は人 部をひろうと、明治 33 年 ( 1900 ) 11 月 10 手に渡って伐採されようとした。その時、 本・ 82 円、明治 44 年 ( 1911 ) 9 月 5 本・ 北小国と南小国両村の人々は浄財を出し 260 円、大正 8 年 ( 1919 ) 10 月 12 本・ 618 さと 1 一一口 154 ・常緑針葉樹
げば きそがわづつみ かりやど 木曽川堤 ( サクラ ) 狩宿の下馬ザクラ 特別天然記念物 脂昭和 2 年 8 月Ⅱ日 脂大正Ⅱ年田月に日 ( 天 ) 所愛知県一宮市浅井町・北方町・葉栗 昭和 27 年 3 月 29 日 ( 特天 ) 闇愛知県 所静岡県富士宮市狩宿 間富士宮市 愛知県西北部、江南市草井から下流一 きたがた 宮市北方町にわたる木曽川堤の両側約 8 このサクラは、富士山を正面に仰ぎ、 キロメートルにわたって、明治 18 年 立派な構えの旧家 ( 井手家 ) を後にして、 絵のような風景の中に立っている。そこ ( 1885 ) にサクラカ財直樹された。 やわせ は広々とした富士山麓の南西の一隅にあ 苗木は中島郡矢合 ( 現、稲沢市矢合町 ) たる。このサクラはヤマザクラて、、樹齢 産のものて、、当初は 1800 本。重はエド 800 年以上の非常に古いものとされる。頼 ヒガン・シダレザクラを主とし、少数の とも 朝下馬ザクラ、駒止めザクラ、駒繋ぎザ ヤマザクラとサトザクラを混じえていた クラなどと呼ばれるが、それはこのサク という。 ラが建久 4 年 ( 1193 ) 、源頼朝が富士の巻 イ尹勢湾台風の被害と老木て、本尠ヒのもの き狩りのとき、馬をつないだ枝が活着し がて、て、現存は 555 本となり、下流の一宮 たものと伝えられることによる。 市側のものが残っている。目通り直径 30 かっては目通り幹囲約 8.5 メートル、 ~ 40 センチのものがあり、場所によって 高さ 35 メートルもある大木て、あったが、 は見事な花のトンネルとなる。 近年台風のため傷められた。現在、直立 上記のように本数が減少したが、堤防 する高さ数メートルの幹と横に伸びるや 保全の立場から補植が許されない。それ や大きい幹があるのみて、ある。花は 4 月 て、昭和 47 年 ( 1972 ) 以来、施肥、剪定、 10 日頃に咲き、初めは淡紅色て、のちに白 消毒 ( 年 3 回 ) などの手入れて、樹勢保持 色となる。花は大きく、直径 3 センチに に努め、 こ数年来効果をあげている。 なる。花房は長く、約 4.5 センチとなる。 ( 倉内一二 ) サクラの周囲を柵て、囲う他、シロアリの 駆除、施肥を行っている。 ( 近田文弘 ) 名勝 こうなん し せんてい 木曽川堤 ( サクラ ) 各務原市 岐阜県 羽島用水 新 木笠松町 乙 ) 川島町一 サイクリン 「河田 一宮市 浅井町 江 愛知県 落葉広葉樹・ 35
果実 ホルトノキ 花 大日比ナッミカン原樹 指昭和 2 年 4 月 8 日 所山口県長門市仙崎大日比 長門市 おうみ 青海島の海岸近くにある史跡および 天然記念物に指定されたナッミカンの原 樹は、西本氏宅に植えられている。開花 結実するこの株は、最初の株のひこばえ だったといわれている。現在、樹高 6.06 メートルは可り 1.03 メートル、地 - ヒ 1.21 メートルのところから幹が二つに分かれ ている。 来歴ははっきりしないが、西暦 1704 年 に海岸に漂着した果実からとれた種子を 播いて育てたのが起源だという。明治初 年、この原樹の接ぎ穂を萩へ多り、 接植した。このことが始まりて、山口県下 にナッミカンの栽培がひろまった。偶然 渡来した種子から今の美味な果実が多量 にとれるようになるとは、誰も想像しな かったことだろう。山口県はこれにちな んて、ナッミカンを県花にしている。大日 おおひび 比は地名て、ある。 おざき せんぞぎ 闇津久見市・川野ミョ子 所大分県津久見市上青江 指昭和年 6 月日 尾崎小ミカン先祖木 ( 中越信和 ) 津久見湾の湾奥部、津久見峠 ( 海抜 427 さんろく メートル ) の南側山麓にあたるゆるやか な斜面のミカン畑にある。 親木は枯れて残っていないが、倒れた 親木の枝が根を出して伸長し、つぎつぎ と繁殖したようて、ある。これは、四十数 本の老幹が地上に横たわるような形て、、 中心部から外へ向かって、放身勺に伸び かんきっ ていることから推測て、きる。『津久見手裔 史』 ( 昭和 18 年 ) によると、親木から分か れた 48 株は半円状に広がって、その面積 は東西 14 メートル、南北 28 メートル、 4 アールにおよび、大きな株は幹の周囲 112 センチに達すると報告されている。現 在も分かれた株の樹勢はよく、外へと広 がって面積は 446 平方メートルにおよん て、いるが、親木があったと思われる付近 は直径十数メートルの空間がて、きてお り、耕作されて野菜畑になっている。 津久見のコミカン栽培の歴史は古く、 臼杵藩主稲葉氏の支配下て、保護栽培さ れ、慶長 15 年 ( 1610 ) には朝廷ヘミカン を献 - ヒしたという記録がある。先祖木の 来歴は定かて、ないが、保元 2 年 ( 1157 ) 、 当地に移植されたと伝えられている。慶 長 17 年 ( 1612 ) 8 月の暴風て、原木は倒れ たが、枝から多くの根を出させる方法 ( 圧 条 ) て、繁殖を続け、保護されてきた。栽培 植物の原木として貴重て、ある。 ( 須股博信 ) たけの 竹野のホルトノキ 指昭和 52 年 2 月ロ日 所宮崎県東諸県郡綾町 あやきた 綾北川に突き出た台地上の西端、竹野 集落のはずれにある播摩山という森の中 の墓地に生えている。樹高 18 メートル、 目通り幹囲 6.3 メートル、枝の広がりは 東西約 25 メートル、南北約 30 メートル あって、地上 1.5 メートルのところから 9 本の大枝に分かれている。 ホルトノキは別名をモガシともいい 千葉県以西の本り、 FI ・四国・ル羽の暖地に 自生している常緑高木て、、宮崎市の有田 にあった天然記ま物が日本一とされてい たが、昭和 45 年 ( 1970 ) の台風て倒れて 指定を解除されたため、この竹野のホル トノキが日本の代表的巨樹となった。 このホルトノキは推定樹齢 300 年の古 木て、、元亀・天正年間の武士竹里番摩の 墓の標木て、あると伝えられているが、現 在は野村正己氏の所有となっている。 播摩山には他の樹木も茂っており、近 くに植えられたスギにさえぎられて、ホ ルトノキの物本の姿を望むことカイきな い。しかし、この森は古い墓地を囲んて、 て、きた森林て、あるために、ホルトノキも 含めてよ <f 隻されて来たものと思われ うすき はりま る。 ( 外山三郎 = 宮崎、荒木徳蔵 ) 常緑広葉樹・ 115
ニ見の大ムク 指昭和 32 年 5 月 8 日 所奈良県五條市ニ見 4 丁目 奈良県五條市二見 75 の足立登氏宅の 庭園内にある。かなり広い庭て、あるが、 ムクノキが大きすぎるのて狭く感じるほ どて、ある。二見の大ムクは、指定当時の 高さは約 30 メートルあったが、地上 7 メートルあたりて、分岐したうちの、最も よく伸長した幹が台風て折損し、現在の 高さは 21 メートル、地上 1 . 5 メートルの ところの幹囲が約 8 メートルある。主幹は 空洞となり樹勢はやや衰えている。 このムクノキ、この地方の手まり歌に 「二見辻々、馬場だらけ、ムクノキ裸て、 飛んて、出た、つかんて、ほうるは堀政・・・・・・」 と歌われ、親しまれていた。ムクの大木 として代表的なものて、あるのて、、天然記 果実 ムクノキの花と果実 つの まり、ついに現在の村落が上したとも を慕って、いつの間にか多くの民家が集 格ある姿は遠くよりも目立ち、この名木 また、この地にそびえるムクノキの風 いかといわれる。 名まえもこの剥くにちなんだものて、はな 工の研磨に用いられている。ムクノキの 面の珪酸を含む刺毛を利用して角や骨細 けいさん その材は器具・建築自材に、葉の表 暖帯から亜に分布する落葉高木て、、 め、朝鮮・台湾・中国 ( 山東省以南 ) の 雄花 雌花 ( 1347 ) 、備前守平長義が築いた小田島城 キの巨樹て、ある。この地は正平 2 年 市立東根小学校校地の一隅にあるケヤ の本丸の跡といわれ、 めつきおっき こに雌槻・雄槻 ] ま物に指定された。 椋本の大ムク 指昭和 9 年一月 22 日 所三重県安芸郡芸濃町椋本 間芸濃町 むくもと ( 菅沼孝之 ) いわれる。 東内のシダレエノキ 指大正 9 年 7 月ロ日 ( 天 ) ひがしうち ( 南川幸 ) 芸濃町椋本の南側、町の高台が安麗日 の沖積地へうつる斜面の中ほどにそびえ るムクノキの巨樹て、ある。樹高は約 26 メートルて、、枝張りをみると東西約 25 メートル、南北約 21 メートルほどの広が りをもつ。明治 3 年 ( 1870 ) の台風て、ひ どく痛められ、幹が半分ほど腐ったと土 地の人が語っている。 本田博士の『大日本老樹名木誌』には、 わが国に残されているムクノキのうち、 椋本のムクノキは最大のものて、、台風や 落雷などて被や幹が多明鬲められてはい るものの、風格のある見事な姿の老大木 て、ある、と述べられている。 ムクノキは関東地方以西の日本をはじ 昭和 32 年 7 月引日 ( 名称変更 ) 所長野県小県郡丸子町東内新屋 幹の上部カ墸しく曲がり、多数の枝が 糸のように垂れた珍木て、あったが、現在 は本尠ヒし、解除申請中て、ある。 ( 編集部 ) ひがしね 東根の大ケヤキ 特別天然記念物 指大正馬年田月 20 日 ( 天 ) 昭和 32 年 9 月Ⅱ日 ( 特天 ) 昭和 32 年 9 月Ⅱ日 ( 地域指定 ) 所山形県東根市元東根本丸 ( 小田島城 置東根市 * 2 株の大ケヤキが残されていたが、明治 18 年 ( 1885 ) に雄槻が枯れ、残った雌槻 がこの大ケヤキて、あると伝えている。 土際の周りは 24 メートルにおよび 1 . 5 メートルほど根上がりになっていて、交 錯した根部が露出している。根幹の境の 周りは 16 メートル、さらに 1.5 メートル 上部の幹囲が 12.6 メートルて、ある。主幹 は 5 メートルの高さて、直上部を失って大 きく二股に分かれ、西南側のものはやや 直上し東側のものは 3 枝に分かれ、とも に天空をおおい、高さおよそ 28 メートル に達する。主幹は大空洞て、南北に開口し 通り抜けが自在て、あり、中は畳 2 枚を敷 くほどの広さて、、古くは乞食が寝とまり していたといわれ、たき火をした跡が 残っている。 以前はこの大枝の下に小較のイ篥場 があったが、 10 年ほど前の全面改築にと もなって、大ケヤキ周辺がよく整備され、 数十センチの土盛りて、露出した根部をお おうなど保全につとめた結果、樹勢は一 層盛んとなり枝葉が繁ってその重みて、空 洞化した大枝が落下したり、分橋点に亀 れつ 裂が入るなどの事故もあり、対策に腐心 している。植擱合は 1000 年を越すものと推 定され日本最大ともいわれている。 ( 結城嘉美 ) っちぎわ 落葉広葉樹・ 47