トを日本流の天然記念物と考えると、ピンとこない アメリカの場合は面的も面的、巨大な面を自然の記 ] 勿とみなしているのて、ある。 しての指定もある。しかし何といってもわが国の巨 自然環境保全法による「原生自然環境保全地域」と ギ原始林」ということて、は指定されているし、また もちろん「屋久島ス のようなものは入っていない 庁のポスターに「私は 7200 歳」と出た有名な縄文杉 しかしこれだけのものがあげられていても、環境 件、クス 28 件、イチョウ 27 件、ケヤキ 2 牛などて、あ たは種として著しく多いのはスギ 49 件、サクラ 32 86 件、常緑低木 11 件、つる性樹木 8 件とした。属ま 物のイチョウを含む ) 、常ム葉樹 53 件、常緑針葉樹 り巨樹名木 272 件のうち、落葉広葉樹 114 件 ( 裸子植 て、は生活型べつに体系だてて扱うこととした。つま ならべられたリストて、示されるものて、あるが、本書 すめられている。それらの全体像はふつう分偵に 律」 ( 昭和 37 年 ) などて、、こうした巨樹名木保護はす の美観風致を維持するための樹木の保存に関する法 うことて、あげている。文化財保護法以外にも「都市 国産巨樹、および珍しい外国樹 ) を各種貴重樹とい よび一里塚、その他 ( 各種目標樹や古く渡来した外 神木および賽木 ( 神社の神木、寺院の賽木 ) 、並木お さいばく のある樹、珍しい木 ) 、珍木 ( 珍奇な木、または低木 ) 、 成を」の中て、は、老樹、巨樹、名木 ( 記念樹、伝説 時増刊号、 1983 ) の、林弥栄「貴重な樹木の保護・育 『植物と自然』の名木・珍木特集号 ( 17 巻 13 号ーー - 臨 樹名木の代表格は屋久杉て、あろう。屋久杉を輪切り にして年輪をみせている円板は熊本営林局などにお いてあるが、それらの年数を数えると千何百年とい うのが多く、それらからは屋久杉の寿命をせいぜい 一、三千年と推定する人が多い。また巨木て、は中が 空洞になっているものが多く、年輪を数えようとし ても数えられないことが多い 大きくなる木の例としては滞多雨林がよく例に 出されるが、ラワン材をとるフタバガキ科の大木に なると 70 メートル程度て、あるが、年輪がないのて、樹 齢は分らない。しかし世界て最も大きくなるのは北 米西部のツガて、 90 メートル前後のものがある。セコ イアにも巨大なものがあるが、樹齢は 3000 年程度と 考えられる。滞の樹木とちがって温帯の樹木は年 輪をもっているのて、、その数を数えて植擱合を推定て、 きるはずなのて、あるが、屋久杉の場合のように心が 欠けていたりして推定は一般にむずかしい。しかも 比較的きびしい条件や、単木的条件のもとて、年輪の 目のつんだ巨木が成立するらしい。奇木や珍木とな ると少し話はちがってくるが。
特別記事目録 『薄墨の桜』のこと・・ 月中にある想 E の樹・・・ 庶民に愛し続けられた木・・・ シイノキから 古代の神の声が聞こえる・・ 工ロス く生〉の雄叫び・ 「直ぐの木」考・・・ ソテッと精子・・・ 3 9 5 2 5 7 装幀・レイアウト■ S Ⅸ ・ 11
をイ わきたに 脇谷のトチノキ ( 富山 ) 利賀村脇谷の傾 斜地に立っ巨木て、、幹面にこぶがなく平溺て、、 だえん ほば楕円形に偏して発達している。 だざいふじんじゃ 0 太宰府神社のヒロハチシャノキ ( 福岡 ) チシャノキの変種て、、葉が広く大きい。社殿 の裏手にあり、全国一の巨樹て、ある。 の仁井田のヒロハチシャノキ ( 高知 ) 台地 の路傍にある推定樹齢 700 年の老大木。 2 本 あったうち、 1 本は枯れてなくなった。 チシャノキ 日本て、はル羽や四国の丘也に 自生している。熊本県の山間部地 方て、は、昔、ききんに見舞れた時 この木の若芽を摘み取り、ゆてて 食べたそうて、ある。 チシャノキは現在高級な建築 材・家具材として大切に取り扱わ れており、特にタンスの前板・コ ウモリ傘の柄など、装飾品にも多 く利用されている。この木の材は 乾燥に強く、ひび割れや曲がりが 少ないため、末としても使われ ている。このため、第 2 次大戦中 には、この木がずいぶん伐採され てしまった
を - いっす ンは第 , 、・、。少第地ン はや ーふい一・看を朝 ・ - ー : らい曇 .0 挈 。第す、す さぢがみじんじゃ 0 の幸神神社のシダレカアシデ ( 東京 ) ア カシデの完全な枝垂れとなったものて、、細い らせん 枝も太い枝も根元から屈曲し、螺旋状によじ れ、奇態を呈して優美な姿て、ある。山中に自 生していたアカシデの中て、、偶然枝垂れに なった木を発見し、神社に献木したものとい われる。上の写真は落葉時、右は 10 月初め頃。 、、い」」いざ当第 甲西の大カシワ ( 山梨 ) 樹高 23.9 メート ル、目通りは 3.9 メートルのカシワの巨木。推 定捕合 400 年だが、樹勢はいまだに盛んて、あ る。指定されて間もない くちおおや ①ロ大屋の大アベマキ ( 兵庫 ) 霊木として 崇められているアベマキの巨木。当地て、は大 クヌギと呼ばれている。 こうさい らい一は忘ャ 0 津島の大ムク ( 愛知 ) ムクは本州中部以 南に自生するニ科の落葉高木て、この木は 全国的にも稀な巨木て、ある。この地は付近一 帯が藩主徳川義直の御殿跡と伝えられ、その 外側の土手に植えたものといわれる。 44 ・落葉広葉樹
うすずみ 『薄墨の桜』のこと 私はかって淡墨ザクラの記金剥央画『薄墨の桜』を作った ねお が、この桜に出会ったのは、全く偶然のことて、ある。根尾 村の福井県との県境に近い山の中に、能郷という集落 ' こには古い形の能・狂言が伝承されていて、 4 がある。 月 13 日の能郷白山神社のお祭りに奉納している。この能・ 狂言を見たくて、私は 2 人の友達と、昭和 44 年 ( 1969 ) の 春、根尾村を訪れた。 祭りの翌日、観光バンフレットを見ていた友達の 1 人が、 「桜を見に行こう」と言いだした。「古い桜らしい」と言う。 せつかく、こんな山の中まて、来て、このまま帰るのも惜し かった。私たちは街道筋をはずれ、根尾川を渡り、小鬥 台地を登った。この辺りから、私の記億から、 2 人の友達 はすつほ。り抜け落ちてしまっている。覚えているのは、た だ桜のことだけて、ある。 台地を登って少し息を切らせていた私の目に、緑の山を ひとむら 背に、ぼうと白く霞んだ大きな花の一叢カ剛央った。「あれが その桜かしら」それにしても 1 本の桜とは思えなかった。 花叢はそれほど大きかった。にもかかわらず華やかな感じ は少しもなかった。近づいてみると確かに 1 本の桜だった。 何という大きさ。て、も花は白く小さく、ソメイヨシノの花 を見馴れた目には、いかにも地味な花だった。しかも近づ けば近づくほど、花は高く、遠くなった。しかとは見つめ られない花をもどかしく思いながら木に近づいた私は、花 よりも異様な形の幹に心を奪われた。幾抱えもあるほど太 く大きい幹は、ひび割れ、盛り上がり、樹て、ありながら、 まるて、上のようて、もある。 幹からは苔むした大枝が何本も分かれている。大枝の中 は海綿のようて、、もはや自らの重みに耐えられず、沢山の 支柱に支えられている。大枝からさらに中ぐらいの枝が生 えている。空に向かって伸びた中枝が、その辺の桜ほどの 大きさて、ある。花は中枝から分かれた小枝に咲いているの だから木に近づくと、花は仰ぎ見る高みに咲いている ことになる。それほど、この桜は大きいのだ。 私は立て札を見て驚いた。植擱合千四百余年。糸断本天皇の 御手植えとあるて、はないか。とても信じ難いことだけれど、 木の姿を見ていると本当かも知れないという気になる。 の木なら、この木 1 本だけて、、一つの映画が作れるだろう。 ふと私は思った。しかし、本当にこの桜を撮りだしたのは、 この時から 3 年余り後のことて、ある。映画は『薄墨の桜』 と題した。この桜は昔こう呼ばれていたのて、ある。私は、 「淡墨ザクラ」より「薄墨の桜」の方が木の雰囲気に合って いると思う。 この木には何ともいえない妖気があって、私もカメラマ ンもタ暮れがせまるとぞくぞくして落ち着かない気分に なった。だから、桜の近くに住む老人から、 「私の子供の頃、この木の根兀から、沢山の骨が出た」 と聞かされた時は、心底背すじが寒くなった。この桜は 根尾殿の墓所に植えられたという方が本当なのかも知れな とにかく千数百年のあいだ、毎年毎年、花を咲かせて い 生きているというのは、ただごとて、はない。妖しくなって も不思議はないのだ。 それて、も、この桜が枯れそうになったことがある。昭和 23 年 ( 1948 ) 頃のことだ。文部省から調査に来た専門家も 3 年以内に枯れるだろうと認定した。しかし、桜を惜しむ 人たちの願いて、、岐阜の歯科医て、老木の回生術の名手とい われた前田利行氏がこの木を診断し、回生術を試みる決心 をした。若い山桜の根を、老木の根に根っぎしたのて、ある。 この時、根元を掘り返して驚いた。大きな根は全部枯れて、 無数の白蟻が巣くっていたのて、ある。白蟻を駆除し、残っ たな根に 238 本も根っぎがされ、土壌を入れ替え、肥料 がほどこされた。昭和 24 年 ( 1949 ) の 3 月 10 日から 4 月 5 日まて、かかっている。すて、に 35 年前のことだ。この回生術 が成功したことは言うまて、もない。この後、昭和 34 年 ( 1959 ) の伊勢湾台風て、受けた痛手から再び衰えたが、 れも心ある人々のカて、昭和 44 年 ( 1969 ) 頃に回復した。私 が出会ったのはこの頃て、あったのだ。自然の厳しさも、人 間の好意も、すべてを平然と受け入れて、桜は今も花を咲 かせ続けている。 に先がけ、見事な白い花が咲きほこる。 東光寺には蒲ザクラの伝説を伝える額 が保存されている。その記録によると、 みなもとのかばのかじゃのりより 源蒲冠者範頼が記念に植えたもの と記されている。また、一説には範頼が ( 羽田澄子 ) かぶと も源蒲冠名範頼ゆかりのサクラて、あるこ クラの由来とされている。いずれにして にかけ、根元て、一休みしたことが、蒲ザ 東国への旅の途中、兜をこのサクラの枝 とにかわりはない ( 永野巌 ) 落葉広葉樹・ 23
イチョウー - ーー一生きている化石植物 イチョウは裸子植物の一系統て、、現在は 1 科 1 属 1 種だけて、あるが、中生代にはお おいに栄えた。その地質時代 ( およそ 1 億年ぐらい ) からの特徴を保ち続けているの て、、生きている化石植物ともいわれる。自生は中国の一部のみに確認されている。古 い時代に日本にもたらされ、各地に広まった。神社や寺の境内には、巨樹が多い。雌 木・雄木は別て、ある。 は雄株て、ありながら、枝の一部に雌花を つけるという変わりものて、ある。主な枝 ほうき は幹の 3.5 メートルの高さから箒状に張 りだしている。そのうち南東に伸びてい る 1 本のなかほど ( 地上より高さ 11.9 宮城野の一隅に生育するイチョウの大 メートル ) にある小枝は雌花を開き、果 木て、、樹高約 35 メートル、胸高直径約 2.5 実をブドウの房状に数房つける。このよ メートルて、あり、樹齢約 1000 年と言わ うに ーカ所の小枝のみが突然変異に にゆうちゅう れている。雌株て、無数の乳柱が垂下し よって性の転換を行っている例は極めて 珍しく、学術上価値が高い。 ているが、最大の孚は主は北側にあり、そ の太さは周囲約 1.6 メートルに達し、下 なお、指定当時から約 45 年も経ってい 端は地中に入り、支柱の形となっている。 るにもかかわらず、この小枝の長さは約 現在の東北大学理学部て植物学を講じて 50 センチメートルと短く、生長が極めて いた、ハンス・モーリッシュ教授によっ 遅いのも不思議な点て、ある。 ( 菅原亀悦 ) て初じめて世界の学会に紹介された。 ちちいちょう 昔から乳銀杏または姥銀杏と言われ、 ちょうせんじ 長泉寺の大イチョウ 樹下に祭られた銀杏姥神には、乳の出な 指昭和 6 年 2 月 20 日 い婦人の参拝が多いという。イチョウの 所岩手県久慈市門前 孚は主を参拝することて、、乳が出るという 間長泉寺 * 迷信から、乳柱が切り取られているもの もある。瓰丘は市彷地化が進み、住宅が 久慈市街の北方約 1 キロメートルの丘 密集した結果、自動車の排ガスも増加し 陵地帯の南斜面にある長泉寺山門をくぐ て、樹木にとっての環境が悪化している。 ると、すぐ左手に大イチョウがある。 のイチョウは指定当時は樹高約 37 メー ( 内藤俊彦 ) トルもあり、日本一のイチョウといわれ ていたが、昭和 22 年 ( 194 のと、同 23 年 実相寺のイチョウ の台風やその他の強風によって、主幹や 指昭和年に月図日 主枝が折れて往時の姿が失われている。 所岩手県ニ戸郡一戸町一戸大沢 この木の幹は地際から二つの主幹とな 置実相寺ネ り、さらにこれらは 8 本の支幹に分かれ ているが、たびかさなる強風によって下 このイチョウは実相寺の山門をくぐっ 部て折れ、ただ 1 本の支幹を残すのみと てすぐ左手にあり、樹高は約 21 メートル、 なった。しかし、この木は樹勢がすこぶ 目通り幹囲は 3.38 メートル、樹齢は約 る良好て、残った 1 本の支幹や再生した 270 年と推定される。イチョウは一般に雄 しじよう 枝条によりうっそうとおい茂っている。 の株と雌の株とに別れているが、この木 にがたけ 苦竹のイチョウ 指大正年田月 20 日 所宮城県仙台市銀杏町 開花時の雄株 雄しべ 開花時の雌株 うば イチョウ 雌しべ じっそうじ じぎわ 74 ・落葉広葉樹
名を杉沢の大スギとしたと伝えられる。 根回り 22.60 メートル、目通り幹囲 12. 60 メートル、樹高は実に 50 メートルに及 ぶ。地上 9 メートルのあたりから幹は数 本に分かれている。植擱合は約 1000 年と推 定されるが、樹勢はなお盛んて、、老樹に ありがちな枯れ枝、幹の腐朽などはほと んど見当たらない 普通大木といわれるものて、も、樹高は せいぜい 30 メートル前後といったとこ ろて、あり、 50 メートルというのは群を抜 いている。低いところに立っているため、 遠くからみるとあまり大木の印象はない が、樹下に立って仰ぐと、その迫力は、 木に魂があるのて、はないかと感じられる ほどて、ある。事実、地元の人々はこの木 に御幣を捧げ、神木として崇敬している。 この木が女身に変じておイ尹勢参りをした という伝説もある。また樹皮は安産のお 守りとして霊験あらたかて、あるともいわ れている。 この木は畠のなかにあって、土壌はか なり肥えており、これが木の肥大化をま ねいたものと思われるが、それにしても これほどの木が落雷にも遭うことなく生 育を続けて来たことは異例て、あろう。今 後とも健全な生長を祈りたい。 ( 樫村利道 ) 八幡宮 * 所茨城県高萩市安良川 指大正ロ年に月 9 日 安良川の爺スギ あらかわじじ 枯れているのが目立つ。指定当時から先 勢はややおとろえが出はじめ、先端部の メートルの所から太い枝が出ている。樹 メートル、樹高約 35 メートル、地上約 3.6 1 株のスギの巨樹があり、胸高直径約 10 八幡宮の拝殿に向かって左側の後方に 近は周囲一帯の宅地化が進んて、いる。 る。近くには小前バス停があり、最 ロメートルの所に安良川の八幡宮があ 国鉄常磐線の高萩駅から山側へ約 4 キ 端は枯れていたようだが、その部分が大 きくなり出している。よく、対をなすス ギの老木に爺スギ、婆スギと名付けるが、 こて、は指定当時も爺スギだけ。しかし 周囲のスギの木立に守られて、その中て、 爺スギは風当たりをさけながら生き続け るて、あろう。 安中原市のスギ並木 脂昭和 8 年 4 月日 あんなかはらいち ( 鈴木昌友 ) もっと小さいて、あろう。 道路敷はもと並木敷より約 1 メートル ほど低いところにあったが、天明 3 年 ( 1783 ) の浅間山の噴火により、この付 近に積もった軽石を道路敷に捨てたもの と思われる結果が土壌調査て、わかった。 これが最近の交通量の増加と荷重によ り、しめつけられ、水、酸素の通過が断 たれ、糸畊艮の発育を著しく悪くしている。 一酸化炭素や亜硫酸ガス排出量等か ら、決定的な本幇員要因は見出だされない が、並木敷の巾が狭く、日光のスギ並木 のように樹下に若いスギやその他の植物 が全くなく、狭くとも森林の連続という 形態が欠けている。やはり日常の手入れ と、地元の人々の保護に対する関心が必 昭和 42 年 4 月 3 日 ( 一部解除 ) 所群馬県安中市原市 置群馬県 高崎から石貶欠峠を越える国道 18 号線 の安中原市に、国道と平行にはしる旧中 山道があり、その缶勺 1 キロメートル がスギ並木て、ある。かっては 18 号線沿い にも並木があり、幕末の天保年間には、 両街道合わせて 732 本のスギを数えた が、現在は旧道のみとなった。その本数 も昭和 8 年 ( 1933 ) 当時 321 本あったもの が、現在は 24 本を残すのみとなり、近々 また伐採の予定があると聞く。もはや並 木としての価値は失われたと思われる。 昭和 45 年 ( 1970 ) 、馬県林業試験場が スギ並木の歴史や、実態を総合的に調査 したことがある。その調査結果はつぎの ようになる。 植栽年代については、一里塚が築造さ れた慶長 9 年 ( 1604 ) とする説と、大阪 落城の元和元年 ( 1615 ) とする説がある。 さらに西彳騰己行によれば、安中藩主板倉 重形が天和 ( 1681 ~ 1684 年 ) から貞享 ( 1684 ~ 1688 年 ) にかけて植栽したとい う説もある。昭和 45 年 ( 1970 ) の調査中、 伐採木 8 本の年輪を数えたが、 170 ~ 320 て、 280 前後が最も多かった。このことか ら、板倉重形カ埴えた以前にすて、にいく らか植えられたこととなり、その後伐採 や、補植が行われたと思われる。 樹高は最高 41 メートル、平均 31 メート ル、胸高直径て、の測定は最咼 5.9 メート ル、平均 2.8 メートルあったが現在は うすいとうげ 要なのて、はなかろうか。 さかさ 逆スギ 指昭和に年 4 月ロ日 ( 安盛博 ) 八幡宮の境内にある。 2 株のスギは東 西に並び、根元て、相接着している。西の ものを男衣東のものを女木といい、男 木の方が大きく、高さ 33 メートル、目通 り幹囲 10.9 メートル、根回り 16.2 メート ルて、ある。女木は高さ 28 メートル、目通 り幹囲 7.26 メートル、根回り 12.6 メート ルて、ある。この 2 株は本財妾しているため に、枝はいずれもタ齟に伸びるが、枝が さかさ 斜め下に垂れているのて、、逆スギの名が つけられたのて、ある。この 2 株の老杉が 高く並び立つ姿はまことに壮観て、ある。 みなもとのよしいえ 源義家が康平 5 年 ( 1062 ) の奥州征 伐の折、戦勝祈願のためにこに亶を 設けて、しめ竹 ( しめ縄を張るために立 てる竹 ) の代用にスギの苗 2 本を植えた のがこれて、あると言い伝えられている。 このことから推定すると擱合は 900 年余 となるが、現在の生長から見ればやはり これに近い植擱合て、あると考えられる。 ( 久保田秀夫 ) 所栃木県那須郡塩原町中塩原 闇八幡宮 * 常緑針葉樹・ 135
横に伸びている。また幹は高いところて、 千晃寺の五本スギ 二つに分岐している。 指昭和 4 年 4 月 2 日 このスギは、村上天皇の応和元年 ( 96D 所岐阜県大野郡丹生川村下保 5 月、紀伊の国 ( 今の和歌山県 ) の那智 置丹生川村・千光寺 の熊野那智大社のごネ本を分社してこの 高山市の市彳也から 5 キロメートルほ 神社を建立した時、ごネ軒本を奉じてきた ど離れた丹生川村下保の袈裟山 ( 海抜 氏子の代表が、ついてきた杖をこの地に 946.2 メートル ) の項上近くにある千光 っきさして生長したものと伝えられてい 寺への道路の左側の傾斜地にそびえてい ( 南川幸 ) る。株元の道路側は反対の谷側より約 3 メートルほど高くなっているが、高い方 大山の大スギ の地面に沿って水平に測った幹囲は約 指昭和田年 8 月 24 日 11.6 メートルあって、幹の高い地面側か 所岐阜県加茂郡白川町水戸野大山 ら約 5 メートルほどの高さまて、の間に 5 白山神社 * 本の枝に分かれ、それらはみな直立に伸 びているのて、 5 本スギの名がつけられて 海抜 862 メートルほどの白川町水戸野 いる。 5 本が揃ってすっくと伸びるこの 大山の白山神社境内の本殿にむかって石 スギは、古くから千光寺を参詣する人々 段左側の傾斜地にある。根元からいちば ん下の枝まて、が 11 メートル、樹高は約 41 の崇敬を集めていた。 ( 南川幸 ) メートル、幹の周囲は 11.5 メートルあ り、樹の勢いもきわめて盛んて、ある。 かぶちじんじゃ 神淵神社の大スギ 白山神社境内にはスギの大木が約 300 指昭和 5 年 2 月 28 日 本以上もあり、なかて、も幹囲 6 メート 所岐阜県加茂郡七宗町神淵 ル以上の木が 5 本、 3 メートル以上の 間神淵神社 * しやそう 木が 50 本もあって社叢全体が見事なス ギの巨イ財木を形づくっている。これらの 神淵神社の境内にあって、樹高約 43 スギの森も大正元年 ( 1912 ) 、同 11 年およ メートル、根回り約 11 メートル、地上 0.5 び伊勢湾台風などの台風て、ネ皮害を受けた メートルて、の幹囲が約 10 メートルのス が、指定木をはじめ社叢の木々は樹勢を ギ巨木て、ある。このスギは明治 43 年 回復し安定したオ材目を呈している。 ( 1910 ) 9 月の土砂流によって根元が約 ( 南川幸 ) 1 メートルほど埋められ、地上 0.5 メー トルほどの部分て、幹の周囲がはがれてし まっている。しかし樹の勢いはきわめて 盛んて、ある。 ( 南川幸 ) みつえ 神ノ御杖スギ 智満寺の十本スギ 指昭和 9 年 5 月一日 指昭和 37 年 6 月 29 日 所岐阜県郡上郡美並村山田 所静岡県島田市千葉 熊野神社 * 智満寺 * ちまんじ 山田の熊野神社境内の鳥居前参道の中 智満寺の十本杉は、島田市彳也の北方 央傾斜面にある。樹高約 26 メートルほど 約 5 キロメートルの千葉山 ( 標高 496 メ て、、根回り 14.3 メートル、傾斜の低い側 ートル ) に黒々と繁るスギの巨木林の中 の胸高幹囲は 10 メートル、地 - ヒ 2 メート にある。 ルぐらいのところの東側から大枝が 1 本 十本杉はいすれも非常な巨木て、あるこ せ しもば おおやま ちまんじ じつばん 146 ・常緑針葉樹
す 「直ぐの木」考 スギはわが国特産の柆重て、あり、本州から四国・九州に わたる広い範囲に分布し、日本人の生活に、最も深いかか わりをもった木て、あることはよく知られている。日本人の 美意識のうえて、はマツやサクラ・ウメなどは、たしかに重 要て、あるが、建築用材を中心とする日本人の生活史として 見るとき、スギ・ヒノキ・ケヤキなど、いすれも重要な役 割を演じてきたのて、ある。 なかて、もスギはヒノキにかわる樹木として最重要視され てきた。スギの語源は「直ぐの木」に由来するといわれる ように、直立して生長し、しかも、その生長は早い。用材 としての量産が可能て、あり、使いやすく丈夫て、もあるとい う建築材として理想の樹木て、あった。 その結果、日本各地にスギの美林が誕生した。京都の北 山スギはあまりに有名て、あるし、秋田スギ・吉野スギ・豊 後スギなど、名のとおったスギの美林は、山林に働く人々 が、親から子へ、そして孫へと、何代にもわたって、文字 やまいらがわたま どおり、わが子を育てるように、長い年月にわたって根気 よく面倒をみてきた愛情の産物なのて、ある。その意味て、は、 スギの美林は単純なる自然林て、はなく、人工林なのて、ある。 しかし、現代の状況はそのスギの美林を荒廃寸前の危機 に直面させている。後継者難と経済生との二つの壁に直面 しているのだ。 スギの美林を見た眼からすると、御神木などの形て残る 巨樹・名木といわれるスギの形態はあまりに異様て、ある。 すぎさわ しようぐん 新潟県の「将軍スギ」、福島県の「杉沢の大スギ」、岐阜県 すぎ の「石徹白のスギ」、高知県の「杉の大スギ」などは、なか て、も、きわだって特徴のある巨木て、ある。 整然と造林されたスギと、これら天然記念物のスギと、 どういう関係にあるのか。前者は、いってみれば規格品、 人間て、いえばサラリーマン、後者は、アウトサイダーかも 知れぬが、強烈な個性を有するスギなのて、あって、この双 方ともに、この世は必要としているのて、ある。 ( 牧野和春 ) 山五十川の玉スギ 指昭和 26 年 6 月 9 日 所山形県西田川郡温海町山五十川碓井 熊野神社・ 数十段の石のきざはしを登った山腹に 熊野神社の社殿がある。その上をおおう 1 本のスギの樹冠が均整のとれた半球状 をなしているのが遠望される。そのため にいつのころからか「玉スギ」と呼ばれ るようになった。 根回りが 19 メートル、目通り幹囲が 10 メートル、枝張りは東西 35 メートル、南 ーー 36 メートル、高さおよそ 33 メートルに およぶ巨に、ある。 地面に露出する巨大な根部が四周をは い、そのたくましさに驚かされる。また 拝殿の下を走るものは殿舎を傾けるため 絶えず補修しなければならないという が、近ごろ樹勢やや衰えをみせている。 ( 結城嘉美 ) ばば すわじんじやじじ 諏訪神社の翁スギ媼スギ 指昭和に年に月幻日 所福島県田村郡小野町夏井町屋 諏訪神社善 国鉄磐越東線の夏井駅のすぐ北にある 諏訪神社の参道をはさんて、立っている 2 本のスギの巨木て、ある。社に向かって右 側 ( 東側 ) に立つものを翁スギ、反対側 のものを媼スキという。翁スギは根回り 10 . 6 メートル、目通り幹囲 9.2 メートル、 高さは 48 . 5 メートルある。また媼スギは 根回り 10.85 メートル、目通り幹囲 9.5 メートル、高さは 47.8 メートルある。 2 本の樹の間隔は根元て、 1 . 37 メートルあ り、この間を参道が通じている。 2 本と も幹は真っすぐにのび、上方て、二つの樹 冠が接している。ともに単木としても屈 指の巨木て、あるが、その 2 木が相対して 立っている様は見事なものて、ある。 ( 樫村利道 ) 常緑針葉樹・ 131 ばば
し、とし、 糸井の大カッラ 指昭和 26 年 6 月 9 日 所兵庫県朝来郡和田山町竹ノ内床尾 置和田山町 県立自然公園糸井渓谷竹ノ内の村はず れの林道に入ると夏て、も涼しい。渓谷の 水温も 15 度 C 以下て、、夏の厳しさを忘れ てさわやかな気分になる。この渓谷の奧 標高 400 メートルのところに大カッラが カッラは 40 ~ 50 本が一叢をなして 36 メートルに達する。まるて、カッラの林を 思わせる景観て、ある。この一叢は主幹が 朽ち、その株の周囲からのひこばえが生 長したのて、、朽ちた主幹は 6 畳敷ほどの 空洞となっている。樹齢は 1000 年にあま ると推定される。ひこばえは太いものて、 直径 50 センチのものを頭に、小さいもの て、は 10 センチほどのものまて、が林立す 伝説て、は、昔、高僧が雨乞いのため、 この木に法衣をかけて祈願し干害を救っ ころもぎ たと伝えられ、今日て、も「衣木」と呼び、 あが 集落て、は水の神様として崇めている。 ( 室井綽 ) 指昭和に年 4 月ロ日 海潮のカッラ ひい 間日原神社 * 所島根県大原郡大東町中湯石 昭和 32 年 7 月引日 ( 名称変更 ) 62 ・落葉広葉樹 の萌芽が出ている。地際の周囲は 20 メー じぎわ なっている。根元の周囲からは大小多数 支幹が立ち、そのうちの 1 本が主幹状に ことがて、きる。主幹は既に朽ち、 7 本の 下を県道が通り、 こから直接仰ぎ見る がみの宮 ) の境内て、ある。指定樹のすぐ 下部にある旧寸の日原神社 ( 通称か 抜約 100 メートルの地て、、北向き斜面の 所在地は尹川の支充、赤川上流の海 トル近いが、地上 1 メートルて、の幹囲は 約 14 メートルて、ある。樹高約 30 メート ル、枝張り約 40 メートルの巨木て、雄株 といわれる。カッラの巨木としては稀な ものとして指定された。 ( 宮田逸夫、杦村喜則 ) 竹崎のカッラ 指昭和田年 8 月 24 日 所島根県仁多郡横田町竹崎 置横田町 ひい 指定地は斐伊川上流の海抜約 500 メー トルの山士峅斗面て、ある。この地方は花崗 岩地帯て、昔から良質な砂鉄の産地と なっており、その精錬のために多量の木 炭を必要とした。そのため、ほとんどの 林木が伐採され、炭に焼かれたが、この カッラだけは笹財申木として保護されてき たといわれている。指定樹は大小多数の 支幹よりなり、主幹というべきものはな い。最大の幹て、周囲約 3 メートルて、ある。 ねぎわ 根際の周囲は 15 メートル余り、高さは 30 メートル余りて、カッラとしてはこの地 方て、も稀な巨樹て、ある。 たけざき ( 宮田逸夫、杦村喜則 ) しもおうせ 下合瀬の大カッラ 指昭和 37 年 5 月田日 所佐賀県佐賀郡富士町下合瀬上神 闇富士町 ほくざん 北山ダム県立公園内にあって、ダムに 近い海抜 380 メートルの山中にある。 自生地は南向きの斜面て、あるが、株元 から約 5 メートル離れた南側には反対側 から山が迫り、その接線に沿って小川が 東に流れている。 本樹の根回りは約 41 メートルて、一部 は小川を潜って反対側の山の斜面に達し ている。 株元は斜面のため、北側より南側が 2