きよたけ 清武の大クス 指昭和 26 年 6 月 9 日 所宮崎県宮崎郡清武町船引 置船引神社 * 県道から約 500 メートル北に入った道 ふなびき 路すぐ脇にある船引神社境内の社殿裏に 生えていて、通称「八幡クス」と呼ばれ ている。 高さは 35 メートル、根回り 18 メート ル、目通り幹囲 12.8 メートルの大木て、、 合約 900 年と推定される。地上 2 メー トルの所て、東の方に一つの大枝を出し、 その先は枯れて穴が空いている。 主幹は 5 メートルの高さて、二つの支幹 に分かれ、両支幹とも多数の枝を出して よく茂り、枝の広がりは東西約 33 メート ル、南北約 37 メートルにもおよぶ。主幹 西側には人が出入りて、きるくらいの大き な穴があり、その内部は地上 8 メートル くらいまて、空洞になっていて、底は畳 5 畳敷ほどの広さがある。なおこの空洞は 東の大枝の開口部に続いている。第 2 次 世界大戦中はこの空洞を防空壕代わりに 利用していたということて、ある。 幹にはキヅタ・ティカカズラ・カタヒ パ・ノキシノブなどが着生し、擱合の古 さを物語っている。宮崎県下最大級のク スて、ある。 かくれがのもり 隠家森 ( 外山三郎 = 宮崎、荒木徳蔵 ) 指昭和 9 年に月 28 日 所福岡県朝倉郡朝倉町山田 置朝倉町 牛天神の境内にある 1 本の巨大なクス ノキて、、根回りは 35.4 メートル、目通り 幹囲は 18 . 2 メートル、樹高約 20 メート ル、地 - 止約 3 メートルの高さて、 5 本の大 きな幹に分かれて、枝張りが広い。幹の 南側に大きな口を開き、内部は一大空洞 となっている。すぐそばに、田神社とい ほこら さいめい う小さい祠がある。伝説によれば、斉明 あんぐう 天皇カ嘲倉の行宮に居られたとき、北に かるかや は苅萱の関、南にはこの恵蘇宿に朝倉の 106 ・常緑広葉樹 関があったという。朝倉の関は「名のり の関」とも呼ばれ、名のりをしなければ 通してもらえなかったのて、、名のりをは ばかるものはこの「隠家の森」に身をか くし、夜の闇に乗じて関を越えたといわ れる。「名のりして夜深くすぎぬ はととぎす 郭公われを許さぬ朝倉の関」という 小侍従の歌も残っている。 ( 尼川大録 ) 本樹は細長く延びた川古地区の南端、 ひの 日子神社の境内にある。 根部は地上に隆起して張り出してお り、根回りは 35 メートル、根と幹の境と みなされる地上 2 メートルの高さの幹囲 は 12.5 メートル、 4 メートルの高さて、は 11.4 メートルある。幹には大小のこぶ状 隆起がみられる。地上 5 メートルの高さ から 3 本の枝に分かれているが、そのう そん ち西南部の枝は枯損しており、東、西の 2 枝は高く伸びて枝葉が繁茂している。 樹高は 26 メートル、枝張りは南北 29 メー トル、東西 24 メートルて、ある。 川古のクス 指大正年に月 9 日 所佐賀県武雄市若木町川古皿宿 皿宿区 多いが、佐賀の地名のおこりについて『肥 佐賀県には、この他にもクスの巨木が る。 らわれ、現在、空洞入り口に祭られてい 像の頭部から鋳銅の六手観音小座像があ あい削りとられたものて、ある。その時、 て、あり、明治初年 ( 1868 ) の排仏毀釈に はいぶつきしやく と伝えられる像高 2.4 メートルの観音像 が、これは奈良時代の名僧行基カ咳リんだ ぎようき られていて仏像らしきものを判別出来る 祀っている。また、この入り口の幹は削 ているが、この中に楠森稲荷大明神を 根元の南側は根上がりして空洞がて、き キが芽生えている。 ー脅不ワ部にはネズミモチ・シュロ・ハゼノ タなどが多数着生している。また、幹の 枝にはボウラン・ノキシノブ・マメヅ
, れ . ! し。ト、ド心を い、 3 ・燾ゴ ゆ 1 ハ ー、を第〒な、→ッ やまたかじんだい 0 山高神代ザクラ ( 山梨 ) 日本最大のエド ヒガンの巨植忙、、花期は 4 月 20 日前後て、ある。 目通りは 10.67 メートル、高さは約 6 メート ル、幹 ( 写真左七 ) は長年の風雪に耐えてき やまとたけるの ただけに、巨岩のように見える。伝説に日本武 みこととうい 尊が東夷征定の帰途に御手植えされたとい い、その後大がこのサクラの衰弱し きがん たのをみて、樹勢回復をネしたところ、不 思議にも次第に繁茂したといわれ、「妙法ザ クラ」ともいわれている。 . : 第きを第一
羽黒山のスギ並木 はぐろさん 特別天然記念物 指昭和 26 年 6 月 9 日 ( 天 ) 昭和 30 年 8 月ロ日 ( 特天 ) 所山形県東田川郡羽黒町手向 闇出羽三山神社 * め、その上に植えて本望を達したと伝え ーっーっに法華経を一字ずっ書いて埋 ら平らな石を集めて塩水て、きよめ、その ついだものて、、二の坂のあたりは祕日か の思わしくない場所て、は何度となく植え 76 ) の業績が高く詔襾されている。生育 羽黒山中興の祖て、ある天宥別当 ( 1600 ~ てんゆう 樹におきかえられたものて、ある。中て、も のものは永年にわたる先覚達のカて精英 せいえい を越している。しかし、現存する大部分 メートル近いものは、少なくとも 500 年 坂あたりの目通り幹囲 4 メートルから 6 生のスギもたくさんあったはずて、、三の て、、ブナやナラの広葉樹にまじって天然 われたスギの生育には最商地て、もあるの と昼なお暗いうっそうたる自然林におお 十数本は失われている。羽黒山はもとも 数 585 本て、ある」とあるが数次の風害て、 1 メートルを越えるもの 140 本に及び総 「最大のものは直径 1.3 メートル余、直径 随身門の近くに建ててある説明板には なスギの並木て、ある。 が、その両側にならぶ直幹天をつく見事 の石のきざはして、登るのて、有名て、ある の参道は、 300 メートルの高さを 2446 段 項の三山合祭殿まて、の 1.7 キロメートル 出羽三山神社社務所前の随身門から山 上 1.5 メートル ( 目通り ) の幹囲は 10 メー トルて、、高さは指定当時は 45 メートルに および、山形県下最高を誇っていた。 昭和 7 年 ( 1932 ) 11 月、落雷て、火を発 し地元民の必死の消火活動によって焼失 をまぬがれたが、昭和 32 年 ( 195 の 12 月 の台風によって、ついに主幹はおよそ 24 メートルの高さて折損してしまった。し かし巨樹としての偉容は未だ失われず樹 ねぎわ 勢は盛んて、ある。根際の南面には空洞が しようし 開口しているが、そこには山神の小祠が 祭られている。 はぐろさんじじ 羽黒山の爺スギ ( 結城嘉美 ) 指昭和 26 年 6 月 9 日 所山形県東田川郡羽黒町手向羽黒山 闇出羽三山神社 * 羽黒山参道ぞいの国宝「五重塔」のそ ばにそびえるスギの巨樹て、、根回り 10.5 メートル、目通り幹囲 7.8 メートル、直幹 て、高さおよそ 42 メートルにおよぶ。古く はこの付近に、これに並ぶもう 1 株「婆ス ギ」があったというが、明治 35 年 ( 1902 ) の暴風て太い方が倒れ細い方が残った。 そのどちらが爺て、どちらが婆かとなると 人によってさまざまて、言義がくりかえさ れたが、残った方を「親スキ」というこ とて結着をつけたと伝えている。それが 指定の際は「爺スギ」て、登録されたもの て、、樹勢は未だ壮者をしのぐものがあり、 樹容はまことに壮大て、ある。 ( 結城嘉美 ) ばば ている。 くまのじんじゃ 熊野神社の大スギ 指昭和 2 年 4 月 8 日 ( 結城嘉美 ) 所山形県鶴岡市水沢熊野前 闇鶴岡市・熊野神社 熊野神社社殿の背後にあるスギの老巨 樹て、、王ル也て、は「田川の大スギ」または 「石山の大スギ」と呼んて、いる。 根元の北側は 1.2 メートルほど高く、 その高地面て、の回りは 15 メートル、その 130 ・常緑針葉樹
つねかみ 常神のソテッ 指大正ロ年に月 9 日 所福井県三方郡三方町常神 置三方町 30 、 1.25 、 1.20 、 0.95 、 0.95 、 0.90 メー きいものから並べると、 1.45 、 1.35 、 1. 根回りは 5.2 メートル、目通り幹囲の大 植えられている。根兀から 8 本に分かれ、 このソテッは雌株て、、東巨三氏の庭に て、ありながらよく保存されたものて、、貴 九州南部に自生するソテッが、北陸地方 ある。したがって、元来、沖縄・奄美・ 北側は山を背にすることから気ー品暖て、 先端近くにあり、南向きの小湾に面し、 は、若狭湾の一角に突き出た常神半島の 巨木として有数のものて、ある。常神集落 る他は、すべて直立していて、ソテッの 側の 1 本の上部が東方に向かって湾曲す ものが 4 本あり、最高は 6 メートル、東 トルて、あった。高さは 5 メートルをこす な樹形て、、特徴的と思われる。 静岡県内て、は、 3 ヵ所の大ソテッが天 然記念物として名高いが、河津町の新町 のソテッは垂直に伸びた幹の高さて、清 ねぎわ りゆうげじ 水市竜華寺のソテッは根際の太さと枝 の多さて、そして能満寺のソテッは恐竜 の首のような大枝の立派さて、、それぞれ 特徴的て、ある。ソテッの保護のため支柱 や囲い柵が設けられ、病虫害の防除カ哘 われているが、さらに根際に鉄屑が積ま れている。「蘇鉄」の文字の通り、鉄をもっ てソテッを蘇らせる方策として面白い 能満寺のソテッは、徳川家康の命によ り駿府城に移植されたことがあったとい う。ところが夜な夜な「いのう、いのう」 という泣き声がソテッの近くて、聞こえる のてある。家康が学者にたずねると「い 囮大正ロ年に月 9 日 妙国寺のソテッ みようこくじ る。 ッカ立くことはなかったという伝説があ のソテッを能満寺へ返した。その後ソテ いう意て、す」とのこと。そこて、家康はこ のうとは行こう、つまり寺へ帰りたいと ( 近田文弘 ) え、家臣もその場に卒倒した。これを見 血がしたたり落ち、ソテッは苦しみもだ てソテッを切らしたところ、切り口から た。激怒した織田信長は家臣に言いつけ 」というあわれな泣き声て、あっ とこのソテッの「堺へ帰ろう ! 堺へ帰 奇な声が聞こえるのて、、よく調べてみる を安土城へ移植したところ、夜な夜な怪 伝説によると、織田信長がこのソテッ している。 大きな株て、高さは約 5 メートルにも達 は、大小取り混ぜて百二十数本からなる の中央付近に植えられてあるこのソテッ メートルのところに妙国寺がある。境内 阪堺線妙国寺前駅から東南約 400 はんかいみようこくじ 置妙国寺 * 所大阪府堺市材木町東 3 丁目 たさすがの信長も恐れをなし、ソテッを 再び妙国寺へ返させたのが現在のものて、 あるといわれている。 しんまち 新町の大ソテッ 指昭和Ⅱ年 9 月 3 日 所静岡県賀茂郡河津町峰 ( 豊原稔 ) かわづ 重て、ある。 のうまんじ 能満寺のソテッ 指大正年月 9 日 所静岡県榛原郡吉田町片岡 置能満寺 * のうまんじ ( 里見信生 ) 能満寺はウナギの養殖池の広がる大井 川河口近くにある古刹て、ある。この寺の 本堂入り口右側の中庭いつばいに枝を広 げているのが、能満寺のソテッてある。 このソテッは雄株て、、日本有数の巨樹 てある。主幹の根回りは 4.5 メートルも あり、地面て数十本の大小の枝に分かれ、 そのうち大枝は 3 本てある。この大枝は 枝というより幹そのものといってよく、 大人のひと抱えにも余るほどの太さて、、 見上げる位置にまて力強く伸びている。 その様子は、うろこ模様にひび割れた木 肌とともに、まさに太古の恐竜の首を想 わせる。この大ソテッは、このような立 ち上がる大枝と、密にまとまった立体的 この大ソテッは、伊豆半島東南の河津 から、天城山へ向かって少し入った峰温 泉の正木家の庭にある。根兀から数本の 大支幹が分かれ、長く地面をはうように 伸びている。その様子はまるてとがの たうつようて、ある。中央の主幹は直立し て高さ約 10 メートルに達し、この咼さは ソテッとしては特にまれなものと思われ る。樹勢は日王盛て、、幹から盛んに芽を出 す。植擱合は約 800 年といわれ、ソテッの巨 樹として、日本有数のものて、ある。 正木家は古くから伝わる家柄て、、先祖 の正木頼忠の娘お万は、徳川家康の側室 となったのて、あった。お万が生まれた当 時、このソテッはすて、に立派なものて あったという。お万の兄弟て、ある正木久 七は、郷士として河津に留まり、代々名 主を務める正木家の元となった。そして 新町という屋号を持った。天然記念物の 名称はそれにちなんて、いる。 ( 近田文弘 ) 常緑低木・ 171
はちまんじんじゃ 八幡神社のイスノキ 指昭和田年 2 月 28 日 所静岡県下田市吉佐美 八幡神社 * このイスノキは、伊豆半島東南部の海 岸に近い丘陵地の麓にある八幡神社の境 内にある。 イスノキ ( マンサク科 ) は伊豆半島以 西の暖地に分布する常緑高木て、、通常、 咼さ 15 メートル、幹囲 1 ~ 1.5 メートル くらいて、ある。八幡神社のイスノキは高 さ 16 メートル余り、目通り幹囲 3.9 メー トルて、あるから、この植物の分布東限地 域における巨大木として珍しいものて、あ る。幹は根兀て、急に広がり、その上部は 直立して表面はこぶ状に盛りあがって、 いかにも古木らしい風格を示している。 地ーヒ 3 メートルくらいて、いくつかに枝分 かれし、樹勢は旺盛て、ある。イスノキの 葉には茶の実に似た虫瘻 ( 虫こぶ ) カイ きるが、地元て、はこれを「ちゃっからほ。っ ちゅうえい から」と呼ぶ。 ひらくば ( 近田文弘 ) 自生地は、石垣島て、もっとも北の集落 平久保から北西に約 1 キロメートルほど さんろく 離れた山麓部て、、耕作地に謝妾したオ家 部の窪地て、ある。 ヤ工ヤマシタンは南中国・インド・マ レーシア・ポリネシアなどに分布するマ メ科の植物て、、工剏衣列島て、は、現在、石 垣島だけに分布し、種の分布の北限地と やえやま して知られている。かって八重山諸島に は多数自生していたと考えられるが、古 くから貴重木として利用され、乱伐のた め現在て、は当地と、 こから移植したと いわれる二、二カ所に僅かに残っている だけて、ある。 指定地には現在 3 本生育しているが、 平久保のヤ工ヤマシタン 指昭和 47 年 5 月馬日 所沖縄県石垣市 114 ・常緑広葉樹 いずれも推定合 250 年、胸高直径 40 ~ 70 センチ、樹高 12 メートルと高い。よく 果実をつけ、種子の発芽率もよいのて、造 林用の母樹としても貴重て、ある。 ねぎわ 広根際に空洞カイき、樹勢が衰え ているといわれている。しかも周辺の耕 作地化が進んて、いるのて、、保護について は充分留意する必要がある。 ( 新納義馬 ) 首里金城の大アカギ 指昭和 47 年 5 月日 所沖縄県那覇市首里金城町 置那覇市 アカギは高さ 25 メートルにも達する 常緑の高木て、、工剏衣列島・台湾・南中国・ インド・マレーシア・ポリネシア・牆 オーストラリアに分布するタカトウダイ 科の植物て、ある。 指定地のアカギは推定樹齢 200 ~ 300 年くらいて、、約 750 平方メートルの広さ に 6 本の巨木が生育し、古くから老樹名 木として知られている。うち 1 本は樹幹 の根兀は空洞化しているが、樹高 15 メー トル、胸高幹囲 5.5 メートル、枝張り 17 メートルの広がりを見せている。他の個 体も幹囲 3 ~ 3.5 メートルの太さて、、樹 じぎわ 高 13 メートル内外、地際の根張りの様子 や枝張りなどを見ても樹勢は旺盛て、あ る。 生育地は鬼餅伝説ゆかりの地、金城拝 所境内て、ある。地形は南向きて、陽当たり がよく、北側は隆起サンコの石灰岩が 基盤の泥灰岩上に崖をなして続いて、冬 季の季節風を防いて、いるのて、、植物の生 育に恵まれた環境といえる。そのためア カギ群に続く斜面には、オオバギ・ホル トノキ・ガジュマル・リュウキュウガキ・ バクチノキ・シロダモなどの優占する常 しゆりかなぐすく 緑材木が生育している。 ( 新納義馬 )
つま 妻のクス 指昭和 26 年 6 月 9 日 所宮崎県西都市妻上妻 間都万神社 つま ( 外山三郎 = 宮崎、南谷忠志 ) 1200 年ぐらいといわれている。 ネ軒必さをただよわせている。推定樹齢は ネシダ・ボウランなどの着生植物が多く、 樹幹にはムクノキ・ヒトッパ・アオガ たものの、樹勢を取りもどした。 たが、今て、は枝を切り落とされ低くなっ 続けた。そのため枯死するかと心配され の消火作戦にもかかわらす、一昼夜燃え この空洞を火が通り、とび職も加わって 日 19 時 30 分、子供のたき火による失火て、 の広さがある。昭和 41 年 ( 1966 ) 2 月 6 幹の中心は空洞となり、内部は 6 畳敷 枝葉を広げている。 東西に 24 メートル、南北に 34 メートルの ルに達する。 60 センチ以上の支幹 6 本は 16.4 メートル、目通り幹囲は 10.8 メート ル ( 以前は 40 メートルあった ) 、根回り 都万神社の境内にあり、高さ 30 メート 指昭和 26 年 6 月 9 日 高鍋のクス たかなべ 110 ・常緑広葉樹 る。しかし、推定樹齢 500 年といわれるだ けられ、東の道路側への傾きを抑えてい ダケカ町受入している。今はワイヤーがか われ、根元の西半分には空洞が生じ、メ けてから老衰が目立つようになったとい 終戦直後の台風て、、幹や枝が損傷を受 り落とされている。 メートルあり、残りの 6 本は枯死し、切 葉を広げ、枝張りは東西、南北とも約 30 上方て、 11 支幹となる。そのうち 5 本が枝 5 メートルの所て、幹は二つに岐れ、さらに 目通り幹囲 10 メートルに達する。地上 1. 高さ約 35 メートル、根回り 13 メートル、 道に面した崖トにやや東に傾いて立つ。 高鍋町の舞寉鴃申社境内の東はずれ、車 まいづる 舞鶴神社 所宮崎県児湯郡高鍋町南高鍋 けに、イタビカズラやマメヅタがはい上 がり、依然として古木の風格がある。 ( 外山三郎 = 宮崎、南谷忠志 ) 置日南市 所宮崎県日南市東弁分乙 指昭和 26 年 6 月 9 日 東郷のクス とうごう ( 外山三郎 = 宮崎、南谷忠志 ) のこと。推定樹齢は 700 年とされている。 言い伝えによれば、昔は 3 本あったと 生い茂っている。 ビワの成木やヒメイタビ・ / シラン等が ルのムクノキ、さらにネズミモチ・イヌ せ、また堂々としている。幹囲 1.9 メート 着生植物が多数着き、ネ軒必さをただよわ 枝葉が繁茂し、木の勢いがよい上に の枝葉を広げている。 が東西に 19 メートル、南北に 39 メートル て、それぞれ二つに分かれ、計 6 本の支幹 のところて、三つに分かれ、さらにその上 ルの巨木て、ある。幹は地ー勺 5 メートノレ 根回り 24 メートル、目通り幹囲 10 メート つのが東郷のクスて、、高さ 40 メートル、 宮 ( 東郷 ) 神社がある。境内にそびえ立 東郷小学校の運動場の北側に接して大 かもう 蒲生のクス 特別天然記念物 指大正Ⅱ年 3 月 8 日 ( 天 ) 昭和 27 年 3 月 29 日 ( 特天 ) 所鹿児島県姶良郡蒲生町 闇八幡神社 * ・蒲生町 八幡神社の境内にあって、樹高 30 メー トル、地上 1.5 メートルの幹囲 24.2 メー トル、根の周囲は実に 33.6 メートルとい うわが国最大の大クスて、ある。保安 4 年 ( 1123 ) 2 月 21 日、蒲生舜清が八幡神社 こんりゆう を建立した当時、すて、に神木としていた ことが伝えられているのて、、樹齢は千数 百年になるものと推定される。 根元には直径 4.5 メートルの空洞カイ
工ロス く生〉の雄叫ひ一一生命力の象徴としてのクスノキ 「山は萬歳の聲を呼ぶ」。こんな色紙を、いまは故人となら ももしげ れたが、わたくしは三浦百重先生 ( 当時鳥取大学学長 ) か らいただいた。季節は 5 月。全山が若緑に萌えたつ情景を、 一瞬のく声〉として結品させたものて、あろう、くらいに、 文字どおりの解釈の域を出なかったわたくしは、その頃、 まだ 2 研にの生意気ざかりの青年て、あった。 数年前のことになるが、わたくしは鹿児島に 1 泊し、翌 日、旧島津侯の磯庭園を訪ねた。おりから新緑の季節。噴 煙をあげる桜島を借景にしての庭園のスケールはさすがに 雄大て、あったが、それにも増して、一息をのんて、目を 見張ったのは、庭園の裏山の、それこそ全山がいまに動く かと思われるほどの躍動感にたいしてて、あった。なんとい つや う艶やかな緑、しかも、その重量感。大きな緑の半球体を 無数といってよいほど、下から順々に積みあげている、 の山の全容を承知したとき、これこそ「萬歳の聲」をあげ ている姿なのだ、と実感したのて、ある。そして、次にはっ きりと分かったことは磯庭園の裏山こそ正真正銘のクスノ キの原生林て、あるということて、あった。「萬歳の聲」はクス 工ロス ノキカ剏夏の太陽に向かってあげるく生〉の雄叫びて、なく てなんて、あろう。 かわたな 鹿児島県の「蒲生のクス」、山口県の「川棚のクスの森」、 徳島県の「加茂の大クス」など、わが国有数のクスノキの 巨樹を訪ねてみて、わたくしは、この木が秘めるとてつも ない生命力に舌をまいた。しかも「川棚のクスの森」とい う名称に判然とするように、これはなにも何本かの木の集 合を意味しているのて、はない。ただ一本のクスノキの巨樹 が、それ自体て、く森〉を形成しているのて、ある。こんもり とした半球体を形成するクスノキの抃目は、それ自体、す て、に独立した堂々たる森なのて、ある。 はりまの クスノキのそうした生命力を象徴するかのように、『播磨 くにふどきいつぶん 国風土記逸文』には次のような言がみえる。 くすのき すめらみこと 「高津の宮の天皇 ( 即ち仁徳 ) の御世、楠井の上に生 いたりき。朝日には淡路島をかくし、夕日には大倭島根を かくしき。すなわち、その楠を伐りて舟に造るに、そのは なななみ やきこと : が如く、ひとかじに七浪をゆき越えき。より て速特となづく」 ( 現代かなづかいになおす ) 。 すなわち、朝日に淡路島をかくし、夕日には反対に、そ のかげは大和に及ぶという途方もない形容て、あるが、これ を指して巨木伝説と呼んて、はいるものの、果たしてそれて、 ばんざい かもう やまと はやとり 的を射ているのて、あろうか。古代の人々にとって大樹のイ メージは、おそらぐものように表現しないて、はおれぬほ ど、強烈なものて、あったという一面もあったのて、はあるま 『日本書紬や他の『風土言山にも、巨木は登場する。そ れはクスノキて、あったり、クヌギて、あったり、オウチ ( セ ンダンの古名 ) て、あったりする。しかし、クスノキの だけは、このように表現されても、ひとつの修辞として、 それほど異様には感じられない ついて、に、もうーっとりあげよう。『日本書糸山 ( 巻 1 ) に うくたから すさのおのみこと は、素戔嗚尊が教えたとして、「スギとクスノキは浮宝と ひつぎ すべし。ヒノキは宮殿を作る材料とせよ。マキは棺に用い よ」 ( 現代文に要約 ) とのがみられる。 クスノキの用途として、古代人がもっとも重宝したのが うくたから く浮宝〉て、あったことが、これて、想定される。く浮宝〉とは 舟のことて、、よくもいい得たりの感を深くする。 クスノキの天然記念孑刎旨定の巨樹分布をみれば明らかな ように、クスノキは四国・九州に圧倒的に多い。わたくし たちの父祖は、遠い昔、クスノキの巨木を倒し、それをタ テに半分に割り、さらにそれぞれをくり抜いて、素朴だが、 きわめて丈夫な舟を造り、黒潮の流れに乗って、晴れた日 はるかなる冒険の旅にて、たのて、はなかったろうか。 これにたいし、北陸地方を中心とする裏日本において は、舟材の主流はもつばらタブノキて、はなかったかと推察 されている。タブノキは別名、イヌグスとも呼ばれている。 いずみのこおりちぬ 『日本書紬 ( 巻 19 ) 欽明天皇 14 年の項には、泉郡茅渟 いけへのあたい の海中に不思議な音がし、光かがやくのて、、天皇が溝辺直 という人物 *ei 府置して海に入って調べさせると、はたして クスノキが海に浮かんて、照り輝いていた。さっそく天皇に 献止したところ、天皇は命じて 2 体の仏像を造らせた、と いう言当がある。 周知のように、当初わが国に招来された仏像はインド・ ジャワ等に産する壯性樹木て、あるビャクダン ( 南方の香 木 ) て、あったとみられるが、やがて、それにかわる樹木と して国産の香木ともいえるクスノキが選ばれたものと推定 されている。 クスノキは古代日本人の夢や活力を支えてくれた、かけ がえのない樹木て、あったのて、ある。 ( 牧野和春 ) 常緑広葉樹・ 99
幹に空洞は全く無く、樹勢は旺盛て、ある。 ( 近田文弘 ) たきのや 建屋のヒダリマキガヤ 指昭和 26 年 6 月 9 日 所兵庫県養父郡養父町能座 ヒダリマキガヤは、初代北海道開拓長 官、京都府知事をつとめた故北垣国道氏 の旧邸内にある。 樹高 35 メートル、根回り 14 メートルの 巨木て、地 4 メートルのところて二股 し、枝を四方に伸ばしている。樹勢はき 針葉樹 ( 裸子植物 ) イチイ科に属し、 わめて良好て、秋には多くの種子をおと 名古屋城本丸の南西部にある。指定時は し、それを炒ると格別の味がある。地方 根回り 8.7 メートルにおよぶ大木て、あっ の人びとは好んて食べ、この木を「カヤ たが、昭和 20 年 ( 1945 ) 5 月、城ととも ノキサン」と尊称している。 に戦災にあい半分以 .- ヒ焼けた。現在は樹 カヤの種子は楕円形て、長さ 3 センチ、 勢を回復し、新しい幹や枝をさかんに伸 直径 1 ~ 2 センチ、普通はタ殳に直線の ばしている。 筋がある。ところが、このカヤは珍しく 名古屋城造営以前からあったと想像さ 左巻きの波紋になっているのて、、ヒダリ れ、築城のとき、家がこの樹下て、指図 マキガヤの名がある。但馬 ( 今の兵庫県 ) をしたという伝説が伝えられている。 には雪が多く、樹幹が二股しているあた ( 倉内一二 ) りて、雪の重さにより裂ける心配があり、 鎖て、数カ所とめるなど手厚い保護カ功日え られている。 ( 室井綽 ) やじよう 名古屋城のカヤ 指昭和 7 年 7 月 25 日 所愛知県名古屋市中区本丸 間名古屋市 きたはま 北浜の大カヤノキ 指昭和 29 年 3 月 20 日 所静岡県浜北市本沢合 果号寺のシブナシガヤ 囮昭和 7 年 7 月 25 日 所三重県上野市西山 置果号寺 このシブナシガヤは果号寺の境内の東 この大カヤは、ようやく山間部を抜け 北隅にある、樹高約 21 メートル、直径約 た流れが遠り羽灘に向かってゆったりと下 83 センチメートルの高木て、今も毎年多 る、天竜川のほとりにある。この木は、 水田や畑に囲まれた農村の風景が家並み くの実をつけている。 伊賀 ( 今の三重県 ) 地方や大和 ( 今の の多い市街地に変わりつつある中にすっ 奈良県 ) にはカヤの古木を多く見かける くと立っていて、遠方からも良くわかる。 はいにゆう が、これはカヤの胚乳に油脂分が多く含 全国有数のカヤの巨木て、、目通り幹囲 まれるのて、その油を絞り取って、食用 10.9 メートル、高さ 24.5 メートル、枝張 に供するため植えられたものて、ある。 りは東西 21.5 メートル、南北 25.5 メート ねぎわ 伊賀にシブナシガヤのあることは、宝 ルという見事なものて、ある。幹は根際て 暦年間 ( 1751 ~ 1764 ) に書かれた『三国 急に広くなり、上部は高さ 15 メートルく 地誌』や嘉永 2 年 ( 1849 ) に刊行された らいまて、直立して、多くの枝を出す。幹 当時の代表的な博物学書て、ある小野蘭山 の上の方は約 8 本に分かれており、下方 の『本草目啓蒙』の嘉永版の巻 37 、第 から出る枝は地上に垂れ下がっていて、 6 枚の裏に「一種しぶなしガヤアリ、し コンクリートの支柱て、支えられている。 166 ・常緑針葉樹
ニ見の大ムク 指昭和 32 年 5 月 8 日 所奈良県五條市ニ見 4 丁目 奈良県五條市二見 75 の足立登氏宅の 庭園内にある。かなり広い庭て、あるが、 ムクノキが大きすぎるのて狭く感じるほ どて、ある。二見の大ムクは、指定当時の 高さは約 30 メートルあったが、地上 7 メートルあたりて、分岐したうちの、最も よく伸長した幹が台風て折損し、現在の 高さは 21 メートル、地上 1 . 5 メートルの ところの幹囲が約 8 メートルある。主幹は 空洞となり樹勢はやや衰えている。 このムクノキ、この地方の手まり歌に 「二見辻々、馬場だらけ、ムクノキ裸て、 飛んて、出た、つかんて、ほうるは堀政・・・・・・」 と歌われ、親しまれていた。ムクの大木 として代表的なものて、あるのて、、天然記 果実 ムクノキの花と果実 つの まり、ついに現在の村落が上したとも を慕って、いつの間にか多くの民家が集 格ある姿は遠くよりも目立ち、この名木 また、この地にそびえるムクノキの風 いかといわれる。 名まえもこの剥くにちなんだものて、はな 工の研磨に用いられている。ムクノキの 面の珪酸を含む刺毛を利用して角や骨細 けいさん その材は器具・建築自材に、葉の表 暖帯から亜に分布する落葉高木て、、 め、朝鮮・台湾・中国 ( 山東省以南 ) の 雄花 雌花 ( 1347 ) 、備前守平長義が築いた小田島城 キの巨樹て、ある。この地は正平 2 年 市立東根小学校校地の一隅にあるケヤ の本丸の跡といわれ、 めつきおっき こに雌槻・雄槻 ] ま物に指定された。 椋本の大ムク 指昭和 9 年一月 22 日 所三重県安芸郡芸濃町椋本 間芸濃町 むくもと ( 菅沼孝之 ) いわれる。 東内のシダレエノキ 指大正 9 年 7 月ロ日 ( 天 ) ひがしうち ( 南川幸 ) 芸濃町椋本の南側、町の高台が安麗日 の沖積地へうつる斜面の中ほどにそびえ るムクノキの巨樹て、ある。樹高は約 26 メートルて、、枝張りをみると東西約 25 メートル、南北約 21 メートルほどの広が りをもつ。明治 3 年 ( 1870 ) の台風て、ひ どく痛められ、幹が半分ほど腐ったと土 地の人が語っている。 本田博士の『大日本老樹名木誌』には、 わが国に残されているムクノキのうち、 椋本のムクノキは最大のものて、、台風や 落雷などて被や幹が多明鬲められてはい るものの、風格のある見事な姿の老大木 て、ある、と述べられている。 ムクノキは関東地方以西の日本をはじ 昭和 32 年 7 月引日 ( 名称変更 ) 所長野県小県郡丸子町東内新屋 幹の上部カ墸しく曲がり、多数の枝が 糸のように垂れた珍木て、あったが、現在 は本尠ヒし、解除申請中て、ある。 ( 編集部 ) ひがしね 東根の大ケヤキ 特別天然記念物 指大正馬年田月 20 日 ( 天 ) 昭和 32 年 9 月Ⅱ日 ( 特天 ) 昭和 32 年 9 月Ⅱ日 ( 地域指定 ) 所山形県東根市元東根本丸 ( 小田島城 置東根市 * 2 株の大ケヤキが残されていたが、明治 18 年 ( 1885 ) に雄槻が枯れ、残った雌槻 がこの大ケヤキて、あると伝えている。 土際の周りは 24 メートルにおよび 1 . 5 メートルほど根上がりになっていて、交 錯した根部が露出している。根幹の境の 周りは 16 メートル、さらに 1.5 メートル 上部の幹囲が 12.6 メートルて、ある。主幹 は 5 メートルの高さて、直上部を失って大 きく二股に分かれ、西南側のものはやや 直上し東側のものは 3 枝に分かれ、とも に天空をおおい、高さおよそ 28 メートル に達する。主幹は大空洞て、南北に開口し 通り抜けが自在て、あり、中は畳 2 枚を敷 くほどの広さて、、古くは乞食が寝とまり していたといわれ、たき火をした跡が 残っている。 以前はこの大枝の下に小較のイ篥場 があったが、 10 年ほど前の全面改築にと もなって、大ケヤキ周辺がよく整備され、 数十センチの土盛りて、露出した根部をお おうなど保全につとめた結果、樹勢は一 層盛んとなり枝葉が繁ってその重みて、空 洞化した大枝が落下したり、分橋点に亀 れつ 裂が入るなどの事故もあり、対策に腐心 している。植擱合は 1000 年を越すものと推 定され日本最大ともいわれている。 ( 結城嘉美 ) っちぎわ 落葉広葉樹・ 47
いを 、 : をを新い ①竹崎のカッラ ( 島根 ) 高さ 30 メートルあ まり、大小多数の支幹からなる。カッラとし ては、この地方て、も稀な巨樹て、ある。 0 糸井の大カッラ ( 兵庫 ) 糸月 = 渓谷の奧に ある樹齢 1000 年あまりと推定される大カッ ラ。ひこばえの太いものは直径 50 センチ、小 さいものて、は 10 センチほどのものまて、林並 する。 たけざき + るれ すっ 幹に隹 , 幹て 艮稀 島力は のと のの う一本ラ 7 ッ 0 下合瀬の大カッラ ( 佐賀 ) 北山ダム山中 にあり、カッラの巨木としては全国屈指のも のて学術的価値が高い。 の西のカッラ ( 福岡 ) 桂谷という渓谷 の急斗面に立つカッラて、、樹齢は 1000 年を超 えるといわれる。この木は雄株て、ある。 しもおうせ