火山 大きな火山は、数万年以上のあいだに何回か噴火を繰り返して形成されてきた。昭和新山は、昭和 20 年に平地に新 しくて、きた火山て、、その形成過程を実際によく観察することがて、きた。全部て、 6 件の火山が指定されているほか 期の火山活動による溶岩流や火山泥流て、運ばれた大岩塊が 2 件指定されている。 る。昭和新山は橇匪の著しく大きなマグ マによって作られた特異な火山体て、、そ の形成機構は、西インド諸島のモンプ がんせん レー火山て、 1902 年に生じた火山岩尖と 似ている。同火山の火山岩尖は既に崩壊 してみられないのて、、昭和新山は学術的 に極めて価値が高く、昭和 32 年に国の特 別天然記ま物に指定された。 ( 勝井義雄 ) しようわしんざん 昭和新山 指昭和 26 年 6 月 9 日 ( 天 ) 昭和 32 年 6 月円日 ( 特天 ) 昭和 35 年 4 月田日 ( 名称変更 ) 所北海道有珠郡壮瞥町 闇壮瞥町 特別天然記念物 爺 制 洞 400m 300m ノ / 氛、 ~ 200m 元の地面 5 月 1 2 日 ( 1 944 年 ) 月 5 日 7 月 7 日 8 月 3 日 9 月 1 2 日 1 0 月 1 0 日 1 1 月 1 0 日 1 2 月 20 日 1 月 1 1 日 2 月 1 6 日 ( 1945 年 ) 3 月 2 日 4 月 2 日 5 月 1 5 日 6 月 1 5 日 7 月 9 日 8 月 2 7 日 9 月 1 0 日 明治新山 壮瞥 そうべつ 昭和新山 フ 1 9 1 0 年 火口群 小有珠 大有珠 柳原 中央火口 〇溶岩円頂丘〇屋根山・爆発火口 とうや 昭和新山は洞爺湖の南イ則にある有珠山 の歴史日寺代に生じた瀋岩円項丘のひとつ て、、有珠山の東麓にあり、基底直径約 1 キロの屋根山と、これを贒くヒ。ラミッド 焼走り溶岩流 状の瀋岩円頂丘 ( 海抜 407 メートル ) から 指昭和四年Ⅱ月 7 日 ( 天 ) なっている。 昭和 27 年 3 月 29 日 ( 特天 ) 昭和新山の生成は昭和 18 年 ( 1943 ) 末 所岩手県岩手郡西根町 におきた群発地震にはじまる。習年には 農林水産省 * いると有珠山東麓の畑が降起しはじめ、 三松タイアクラム 享保 4 年 ( 1719 ) の岩手火山の噴火に 6 月から水蒸気爆発がおこり、 11 月には 昭和新山の成長過程を 示す三松正夫が東方 比高 150 メートルも降起した尾根山の中 よって、山の東側中腹から流出した溶岩 2.5 キロの地点から測定 機により観測して記録 リとから赤熱した新濬岩が現れた。新溶岩 が焼走り溶岩流て、ある。荒涼とした灰黒 したもの けいさん は月吶夋に富む紫蘇輝石石英安山岩 (Si02 、 色の岩原となっている点て、類例が少な 68 . 89 パーセント ) て、、粘性が高く、基盤 く、代表的な溶岩流の自然景観として指 されき 定されたものて、ある。 の冫疑灰岩や砂礫層などをかぶりながら 20 年 9 月まて、成長を続け、屋根山から約 岩手火山は円錐形の成層火山て、、円形 の爆裂カルデラと中に中央火口丘があ 100 メートルも高い溶岩円項丘となった。 基盤の地層の被膜は高温 ( 約 1000 度 C ) る。 1686 年から 1934 年のあいだに数回の の溶岩に焼かれて天然レンガとなり、溶 爆発と溶岩流噴出の活動が記録に残っ ているが、焼走り溶岩流はこれらとはち 岩の上昇によって無数の条線が刻まれた 滑り面を生じている。溶岩円項丘は現在 がう中腹部にて、きた噴火口から流出した ものて、、輝石安山岩溶岩て、あるのに粘性 も噴気中て、、噴気ガスは最高温度 500 度 C をこえ、硫黄をはじめ各種の昇華物を が小さく流動性に富み、長さ 4 キロ、幅 1.5 キロの扇状地のような形に広がって 生じている。 そうべつ いる。溶岩の表面に波状のしわ期がて、 昭和新山誕生の様子は東麓の壮瞥郵便 きているのも、粘性の小さい溶岩流て、 局の局長て、あった三松正夫により克明に あったことを示す。 己録され、その成長過程は、三松ダイア ( 渡部景隆 ) グラム ( 図 ) として世界に紹介されてい やけはし 特別天然記念物 ぎようかい 昭和新山生成前のフカバ集落の畑地 ( 北なよリむ三松家所蔵写真 ) 二二ロ 生成当時の昭和新山 ( 北なよリ望む イ「ちは大イ川い三松家所蔵写真 ) 98 ・火山
いる。水圧の強い淡水が鍾乳洞内のパイ 風連洞窟 フ袱の亀裂を通って湧出する途中ぞ海水 指昭和 2 年 4 月 8 日 面下の空洞を通るため、空洞の中て海水 所大分県大野郡野津町 が約 4.5 倍の地下水にうすめられ、これ 置野津町 が咼いところからパイフ袱の亀裂を流下 大野川の支流野津川の石灰岩渓谷にあ する地下水におされて湧出するのが塩川 る。約 100 メートルの高さを距てて旧洞 の水だと推察されている。 ( 渡部景隆 ) と新洞と二つあるが、一ヨ殳に公開されて いるのは高い方の旧洞て、ある。 丿乢里鍾乳洞のある石灰岩体は秩父古生 層て、、石炭紀後期の示準化石フズリナ ( 大 型有孔虫 ) を多産する。この石灰岩は一ヨ殳 に泥質の不純物が少なく白色て、、洞内は きれいて、ある。鍾乳洞は長さ約 420 メー トル、入り口から S 字型に続いていて、 せきじゅん 鍾乳石・石筍・石柱などが見事に発達し ている。 ふうれん . 一了ぞク 海面 淡水 汽水 汽水 石灰岩 土・分の ある水 石灰岩 石灰岩 \ ちちぶ ななおれ 七折鍾乳洞 指昭和 8 年 2 月 28 日 所宮崎県西臼杵郡日之影町 間日之影町 日之影町徳富地区南部の山地中腹にあ る。本洞と支洞の二つの鍾乳洞からなり、 ( 品田穣 ) 総延長は約 140 メートルて、規模は大きく せきじゅん ないが、鍾乳石・石筍・石柱などが多数あ ほうかい る。なお、菊花状をなす方解石の針状結 品の放射品群を有することも鍾乳洞て、は 珍しい ( 品田穣 ) 塩川の塩水湧水構造 340 潮 300 奠 260 22 0 180 6 1 水位 ( 巴 60 5 9 6 24 1 8 1 2 日 1 3 日 時問 ( 時 ) 潮位と塩川湧水の水位との関係 6 1 しおかわ 塩川 水位 ( 巴 囮昭和 47 年 5 月馬日 所沖縄県国頭郡本部町 60 2 ロ塩素イオン濃度 ( % ) もとぶ 本部半島西海岸の新里集落の東方にあ 柘の滝鍾乳洞 る幅 2 メートル、長さ約 100 メートル、水 指昭和 8 年 2 月 28 日 深 30 センチくらいの小川て、あるが、かな 所宮崎県西臼杵郡高千穂町 りの塩分を含む点て特異なものとして指 置高千穂町 定された。 たかちは 本部半島の主部は本り、 l•l の西南日本外牆 柘の ~ 重乳洞は高千穂町の南 4 キロに の秩父帯の延長にあたり、いわゆる古生 ある丘陵をつくる石灰岩体の中にある。 層の石灰岩が多く、雨水が石灰岩の亀裂 八つの鍾乳洞からなり、最下位の 8 号窟 ゆうすい しんとう から地下に滲透して、海岸或て、湧水と が一・一番大きい せきじゅん 洞内には鍾乳石・石筍・石柱などが多 なっているところが多い。したがって、 地下には多くの鍾乳洞があると推定され 降 い。中には、鍾乳洞の壁面に、上に石筍 量 る。聊日も鍾乳洞からの湧水に由来する や石柱をのせた棚板状の礫層が残ってい ものて、、湧出量が毎秒 100 リットルを越 るところがある。これは、鍾乳洞の床に 日 え、本部半島て、は第 1 級の湧水て、あるの 堆積した礫層が石灰分て、固められて石 に塩分を含むことから、「本部七不思議」 筍・石柱が形成された後に、地下水系が 変化して水位カ氏ードし、現在の鍾乳洞の の一つとされている。 塩川の水は海水が約 4.5 倍の淡水にう 底まて、溶食され、もとの鍾乳洞の底の一 すめられたものて、、カルシウム分だけが 部が側壁に棚のような形て、残った珍しい 海水における含有率より多い。これは鍾 例と考えられる。 ( 品田穣 ) 乳洞の石灰分が溶けていることを示して っげたき 1 8 24 6 1 2 1 2 日 1 3 日 時間 ( 時 ) 塩川湧水の水位と塩分濃度との関係 降雨量 5 4 3 2 ロ塩素イオン濃度 ( % ) 800 7 5 600 70 水位 ( 巴 400 水位 6 5 60 200 潮位 つ」 潮位 ( 巴 1 OO 5 2 0 2 5 30 9 月 1 0 月 1 974 年 水位と潮位ならびに塩分濃度の日変化 ( 資料提供沖縄県教育委員会 ) 82 ・石灰岩地形
ふんとう 白骨温泉の噴湯丘と しらほね 球状石灰石 特別天然記念物 囮大正Ⅱ年 3 月 8 日 ( 天 ) 昭和 27 年 3 月 29 日 ( 特天 ) 昭和 32 年 7 月引日 ( 名称変更 ) 所長野県南安曇郡安曇村 安曇村 あずさ やりたけ 北アルプス槍ヶ岳に源を発する梓川 の支流湯川の上流にある。温泉は古生層 の石灰岩をとかし、多量のカルシウムを 含有する。カルシウムを多量に含有した ゆうしゆっ 温泉が地表に湧出し冷却すると石灰華 ちんでん が沈澱するが、白骨温泉は、かって、想 像を絶するような大量の温泉が湧出して いたらしく、広範囲にわたり、厚さ 20 ~ 30 メートルにたっする石灰華が沈澱して 炭酸石灰の沈澱が温泉の噴出口付近て、 集中的に起こると、しだいに炭酸石灰の ふんとう 沈財勿て、高く成長し、円錐状の噴湯丘を 形成する。写真は、噴湯が停止し侵食を 受け往時の面影はないが、かなり大きな 昜丘て、あったことをうかがわせる。 また昜丘形成途中のものは、高黼実 谷の昜丘の写真て、みることがて、きる。 昜の周囲て、冷却して炭酸石灰が沈澱し ていくと、中心部に湧出口をもつ火山状 のものがて、きるが、中心部などて、定常的 新充の中に核になるものがあると、 , れを中心に炭酸石灰が沈澱し、球状石灰 石が生ずる。直径 1 ~ 2 ミリから、時に 3 センチにたっするものもある。 ( 品田穣 ) じごくだに 渋の地獄谷噴泉 囮昭和 2 年 4 月 8 日 所長野県下高井郡山ノ内町 闇山ノ内町 渋温泉の北方約 4 キロの地獄谷にあ る。新生代第三紀の彳卸坂層にて、きた直径 こうげき 数センチほどの孔隙から昜および水蒸 気が空高く吹き上がり、指定当時はその 高さが数十メートルにたっし、その音が 126 ・温泉現象 雷のように周囲に響きわたったという。 山も丘は河谷の変化のため、多少衰えたと はいえ、なお噴出を続けている。 ( 品田穣 ) おがま おにこうべめがま 鬼首の雌釜および雄釜 かんけつ 間歇温泉 特別天然記念物 昭和 8 年 4 月ロ日 ( 天 ) 昭和 27 年 3 月 29 日 ( 特天 ) 昭和 32 年 7 月引日 ( 名称変更 ) 所宮城県玉造郡鳴子町 闇農林水産省 * 鬼首の荒雄岳 ( 984.2 メートル ) の南麓 を流れる赤沢止流左岸、吹上温泉より山 道を約 3 キロ登ったところにあり、日本 かんけつ て、はまれな天然間歇泉として代表的なも のて、ある。 ふんとう 雄釜はかって雪どけ期のみ噴湯してい たが、現在はほとんど活動していない 雌釜は約 20 分ごとの周期て噴湯し、高さ 約 3 ~ 4 メートル、継続時間は約 40 ~ 50 秒前後、噴出口の湯温は約 98 ~ 100 度 C 程度て、あったが、昭和 23 年の台風の被害 や、その後、度々の ) ルト害のため噴出口 ほうかい 付近が崩壊し、噴湯も衰えてしまった。 そのため宮城県て、は復旧作業をしたと聞 くが、現在はその活動も弱い。この或 かんばっ は鬼首環状地形につくられた旧期陥 ~ 也 せんしん 帯に湖盆性堆積が行われた新第三系鮮新 統の地層て、、下位より赤沢層、宮沢層、 河倉沢層が分布している。 これら間歇泉は地ード深所から上昇する 熱水または火山性ガスに地下水が混入 し、その相互作用によって水蒸知王やガ ス圧が非常に高くなり自噴するものと考 えられている。写真は吹上温泉「かんけ っ荘」の庭にある弁天湯間歇泉の噴湯の あらお 様子て、ある。 なかぶさ ( 斎藤邦三 ) こうじようけいさん けいか 中房温泉の膠状珪酸および珪華 囮昭和 3 年田月 4 日 所長野県南安曇郡穂高町 間農林水産省ネ
塩川の不思議 世界中には、塩分の多い塩辛い川もあれば、死海のよう に海水よりも塩分濃度の高い湖もある。砂漠上或を旅する と、真っ白な塩が敷きつめられている場所に出くわすこと がある。地層の中には岩塩の塊があったり、 5 億年以前 の古生代カンプリア紀の地層には 1 センチ以上もある大き がいしよう い岩塩の骸品 ( 中味が溶けて、結品の外形だけが残ったも の ) が残っていたりする。私も中国て、この骸品をたくさん 採集したことがある。これらはみな、水中の食塩分が水の 蒸発によっ宿されたものて、、気温の高い乾燥気候とい う特殊な自然環境のもとて、て、きたものて、ある。 日本のような雨の多い或て、は、陸に塩分の多い水が 出るところがない。塩分の多い水は、油田や天然ガス田の 1000 メートルもの深さにある油田塩水て、あり、これは地層 がて、きたとき海底て、あった当時の化石海水て、、海水と同じ くらいの塩分を含むことがある。日本て、はおもに新第三紀 の後半 ( 中新世 ~ 鮮新世、 1000 万 ~ 500 万年前頃 ) に堆積し た海成層の中にみられる。 もとぶ ところが沖縄本島本部半島の塩川は、陸地の川て、あるの に海水の 20 パーセント強の塩分を含んて、いて、常時海へ流 れている。おそらく人々が気づいてから現在まて、、塩分濃 度はさして変わらないて、あろう。日本て、は唯一の塩分の多 い川として天然記念物に指定された。沖縄の七不思議の一 っといわれてきたのも当然のことて、ある。 かりう 狩生鍾乳洞 さいき 佐伯市 所大分県佐伯市狩生 指昭和 9 年に月 28 日 日の水に塩分が多い理山は、海水面より下て、石灰岩の 亀裂を通って海と続いている海水が、鍾乳洞の空洞中て、淡 水と混じり合い、山地に続く鍾乳洞の水の水圧て押し上げ られて湧出するからて、、解説の項て、は地質調物听の報告に よって述べた。その後、地元沖縄県教育委員会が学者に依 頼して化学成分・水量などの糸売調査を実施し、塩川の水 の特異な性格が一 -- 一層明らかになった。おもな点を挙げると 以下のとおりて、ある ( 82 ページのグラフを参照 ) 。 聊日の水源となっている湧水の水位は那覇港の潮位とよ くあっていて、水位差は 1 ~ 2 センチと小さいが、満潮の とき最高水位になり、干潮のとき最低水位になることを繰 り返している。 次に、聊日湧水の水位が高くなると塩分濃度が小さくな り、水位カ岻くなると塩分が濃くなって、水位と塩分濃度 とは逆の関係にあり、両者のヒ。ークが 1 ~ 2 時間ずれて繰 り返されている。これは、湧水量が多いときほど塩分がう すくなることて、あり、鍾乳洞から供給される水の水圧が大 きくなると淡水が多く混合していることを示唆する。 降雨との関係をみると、 1 日 200 ミリ以上の大雨が降る と、 1 日遅れて水位が急上昇し、塩分濃度は逆に低下する。 これは、 ~ ルトと混合する聊日湧水の淡水の供給源が、降雨 に由来する鍾孚 li 同の水が主て、あることを示している。 デ・カリウオニアリヅカムシ・ノムラメ 息が知られ、その中には、ノコギリャス デ・トビムシ・ゴミムシなどの重勿の生 洞内には、キクガシラコウモリ・ヤス あとに残された粘上が堆積している。 ( 渡部景隆 ) 佐伯市狩生の北方約 2 キロの谷に位置 する狩生鍾乳洞は、 ) 乢鍾乳洞とは対照 的に不純物を比較的多く含む石灰岩体の 中に形成されている。一一般に珪酸分が多 く、石灰岩には粘板岩や輝績天岩の薄 層を挟むところがある。この石灰岩体は 大分県における西南日本タト牆の秩父古生 層の南限近くにある。洞内の鍾乳石その 他の沈 ~ 勿は粘上分を含んて、黄褐色を呈 するものが多く、底には石灰岩が溶けた クラチビゴミムシなど、 た新種もある。 こて、発見され ( 品田穣 ) 石灰岩地形・ 83
節理 せつり 岩石中に二次的にて、きた規則的な割れ目を節理という。柱をたばねたような柱状節理と板を重ねたような板状節理が あり、まれに放射状節理がある。規模の大きな節理は火成岩に多く、天然記念物に指定されているものは、その大半が 火成岩の柱状節理て、ある。美し、景観を呈するため名勝にも指定されている場合が多い。板状節理は柱状節理に副 ねむろくるまいし げんぶどう 次的に発達することがある ( 玄武洞 ) 。放射状節理の 1 例 ( 根室車石 ) を含め、全部て、 10 件が指定されている。 おばら 小原の材木岩 指昭和 9 年 5 月一日 ( 天 ) 昭和 32 年 7 月引日 所宮城県白石市小原 間白石市 しろいし ( 名称変更 ) 岩質は、石英の斑品が著しい帯緑灰色 はんしよう いが、ここて、は四角柱が多くみられる。 に節理面が入るため、六角柱のものが多 却時に表面積がもっとも小さくなるよう 柱状節理は、いつばんには火山岩の冷 なっているのて、この名がある。 たかも巨大な材木をたてかけたように連 1 メートルの四角柱状の柱状節理が、あ 崖て、ある。節理の直径が 80 センチないし ル、中心部の長さが約 100 メートルの断 白石川の左岸にあり高さ約 65 メート の流紋岩て、ある。 かっこんだ 葛根田の大岩屋 指昭和田年 2 月四日 所岩手県岩手郡雫石町 闇農林水産省 * ( 品田穣 ) 洞窟を成す。絶壁は高さ約 70 メートル、 幅は約 160 メートル、また洞窟は間口約 40 メートル、高さ約 10 メートル、奧行き 約 10 メートルて、ある。 柱状節理としてはそれほど大規模なも のて、はないが、付近のオ林目と相まってっ くり出す渓谷美が優れている。 ( 村井貞允 ) よろいのそで 鎧袖 指昭和年 5 月 30 日 所兵庫県城崎郡香住町 置香住町 かすみ 兵庫県の日べ毎に面した名勝香住海岸 の指定区域の一部にある。劑主海岸は、 種々の火山岩と堆積岩に富む第三紀層か ら成る景勝地て、、劑主湾を中心として東 と西に分かれる。鎧袖はその西部地区に 位置し、高さ約 65 メートル、幅 200 メート ルの大断崖て、ある。 アルカリ粗面岩に発達した柱状節理 と、これに直交して土した節理面に貫 入した岩脈のため、写真て、みるように 一見、鎧の縅を思わせることからこの名 がある。また岩肌の白さが、その美しさ たいせき おどし 岩手山の南西麓にあり、雫石川の支 流葛根田川の中流部左岸にて、きた、柱状 里を伴うーっの洞窟て、ある。ふつう玄 武洞とよばれているが、これを造る岩石 は玄武岩て、はなく、含橄欖石両輝石安山 岩の溶岩流て、、これにほば直立した美し い柱状節理が苑土している。 このあたりは川の屈曲部に当たるた め、左岸側は絶壁を成し、河岸に露出す る柱状節理の一部が河水の侵食を受け、 しずくいし かんらん 176 ・節理 をきわだたせている。 ねむろくるまいし 根室車石 指昭和図年 9 月 7 日 所北海道根室市花咲港 闇根室市 ( 品田穣 )
なるさわ 鳴沢溶岩樹型 ① 平面図 0 2 4 6 8 吉田胎内樹型実測図 測図富士山溶岩洞穴研究会 3 3 0 5 m 縦断面図 吉田胎内樹型 指昭和 4 年に月ロ日 所山梨県富士吉田市上吉田 置山梨県 富士山の吉田口登山道、中ノ茶屋の北 けんまるび 西約 1300 メートルの地点、剣丸尾溶岩流 の東縁に吉田胎内植蟶があり、本穴の周 辺 1 ヘクタールが天然記念物の指定よ或 て、ある。 ' こに全部て、 62 の樹型があり、 写真はその中の 23 号樹型て、ある。 吉田胎内樹型は全長約 61 メートル、入 り口から数メートル入ったところに竪穴 があり、さらに横穴を進むとふたたび竪 穴に達するところから、典型的な複合樹 型と考えられる。 写真には胎内をしのばせる肋骨状壁面 ようゆう がみられるが、棚には溶融時 ( ゴ商下した と考えられる溶岩滴がみられ、さらに棚 の下方の蟶の側面には腐った木の跡が みられることが多い 富士吉田口登山道から近いため、古く から胎内くぐりの霊場として知られてい よしだたいない ろっこっ 特別天然記念物 囮昭和 4 年に月ロ日 ( 天 ) 昭和 27 年 3 月 29 日 ( 名称変更 ) 昭和 27 年 3 月 29 日 ( 特天 ) 所山梨県南都留郡鳴沢村 鳴沢村 鳴沢集落の西部、青木ヶ原溶岩流の中 にある。 鳴沢溶岩樹型は典型的な竪穴型の樹型 て、、旧青木ヶ原毎を溶岩流カった時、 立ち木のまま溶岩に埋まり、溶岩が固ま るまて立ち木の型をとどめたため生じた ものと考えられている。 多数の樹型が残っているが、竪穴の直 径 1.3 メートル、深さ 2 ~ 3 メートルの もの 12 個が特別天然記念物に指定され ている。 あさま 浅間山溶岩樹型 ( 品田穣 ) 特別天然記念物 たものて、ある。 船津胎内樹型 囮昭和 4 年に月ロ日 ふなったいない ( 品田穣 ) 所山梨県南都留郡河口湖町 山梨県 船津ロ登山道沿いにある複合樹型て、あ る。一般に胎内と呼ばれる肋骨状の側壁 は、竪型や斜め型の溶岩樹型にはみられ おうが ず、溶岩に埋没横臥したものにみられる。 このため、森林中の大木が厚い溶岩流に よって一気に埋没したのち、樹木の燃焼 さいようゆう カき、再溶融する際に形成されたと考 えられる。 船津胎内は富士北ロの名所として知ら このはなさくや れる。洞奧には木花咲耶姫がまつられ、 安産の神として参詣人も少なくない ( 品田穣 ) ろっこっ 囮昭和年 8 月 30 日 ( 天 ) 昭和 27 年 3 月 29 日 ( 特天 ) 所群馬県吾妻郡嬬恋村 闇嬬恋村 浅間山の北斜面から北麓にかけては、 おにおしだ 天明 3 年 ( 1783 ) の大噴火による鬼押出 しの溶岩流がある。浅間山溶岩樹型は、 それよりやや以前に流出した火石充分布 域の、鬼押出し溶岩流東側の平地に 3 群、 その西側に 1 群がある。 日本の溶岩樹型は富士山山麓部に集中 的に見られる。これらはすべて玄武岩溶 岩流中にあるが、浅間山の場合は火石充 の中にある点て特異な存在て、ある。鳴沢 溶岩樹型と同様に、立ち木の大木の跡が 井戸のような穴になっているものが多 い。これは、大森林に火砕流が押し出さ れて木の幹を埋め、熱て焼けたり、あと て腐ったりしてて、きたものとみられる。 大きいものは直径 80 ~ 120 センチ、深さ 3 ~ 7 メートルにも及ぶ。 200 に近い樹 型が見つかっているが、次第に不明瞭な ものが多くなっている。 ( 品田穣 ) 溶岩洞穴・溶岩樹型・ 113
0 津 ( 新潟 ) 信 ~ 日の支流、清津川上 流の峡谷。 50 ~ 60 メートルの玲岩の柱状血 ひんがん の絶壁が 20 キロにわたって続く奇景の の ( 福島 ) 絶壁や川岸などの険しい 路を「」という。会津の阿賀川の右岸につら ぎようかい なる窪みて、凝灰岩カ下刻されたもの。 げんびけい いつくしの厳美渓 江戸日にには、「いっくし伍串 ) の 四十の名て、旅人に親しまれ た景勝古来、だんごづくりが かっこう 盛んて、今も「郭公だんご」がこ この名物。明治期に巖燹と改称さ れ、その後、音読の「げんび」が 通称となった。奥羽山地の雪どけ 水を運ぶ磐井川の滿充は、まるて、 インクを流したように青い。地蔵 堂の松は、士地の長者を慕った娘 の悲働語をいまに伝える。 14 ・河食 、、わい
るいせき 床に累積し、水にぬれて美しい岩石美と 渓谷美を生み出している。緑泥片岩は二 波石と呼ばれ、良質の庭石として関東一 円に広く珍重されているが、この上或の 採石は禁止されているのて、、上如勺に指 定時の状況が残っている。しかし、指定 日が秩父盆地を過ぎて関東平野に出 後に建設された下久保ダムによって、渓 る間は、秩父のタ家山地を深く侵食して 流美はそこなわれた。 ( 渡部景隆 ) 美しい峡谷になっている。この上或は長 淸社に結品片岩帯て、もあるのて、、地質学的 に貴重な鉱物、岩石、地質構造等の宝庫 になっている。それらは、日本列島の発 おうみがわ 青海川の硬玉産地 達史を解く鍵にもなっているところから 指昭和 32 年 2 月 22 日 「上厩長の窓」ともよばれている。名勝天然 所新潟県西頸城郡青海町 記勿の保存区域は、高砂橋から親鼻橋 青海町 に至る 3.5 キロの間て、ある。 おうみ こうれん くびき 日の峡谷沿いには糸 I 簾片岩、石墨片 新潟県西頸城郡青海町の富山県境に おやしらず 岩、緑泥片岩等約 10 不頁の色とりどりの 位置する大丘に源を発して、親不知近く うみゆり 変成岩類が観察され、それらの岩石中に の日本海に注ぐ青海月 li 或には、海百合 せんちゅう や蘚虫類などの化石を含んだ古生代の は黄広、黄銅鉱、赤広、チタン広、 ざくろ石などが輝いている。また川原の 石灰岩層が発達している。この石灰岩層 砂の中には砂金も含まれている。その他 と、より上流に分布する非石灰岩層の緑 せつり へんがんかんにゆう おうがしゅうきよく 横臥褶曲、断層、節理等い舮万てみら 色片岩に貫入している部分には、とこ せきへき じゃもん れる。地形的には赤壁 ( 断層岸 ) 、岩石段 ろどころに超塩基性岩の蛇紋岩が認めら おうけつ されき れ、青海川の砂礫となって、川床に点在 丘 ( 岩畳 ) 、甌穴等が人目をひく。 河岸には県立自然史博物館、長清念合 している。青海川の東に平行して流れる 博物館等があり、長瀞を訪れる研究・見 女日一 E 流の小 ~ Ⅲこも、類似の転石があ 学者および一般観光客のビジターセン る。 青海川上流には古くに採掘カ哘われた ターになっている。 ( 新井重三 ) 橋立金山があって、こうした転石のある ことは以前から知られていた。この転石 ひすい の中には、小滝川と同様に翡翠石に曹 三波石峡 長石をともなったものがあるが、この 指昭和 32 年 7 月 3 日 川の付近一帯は、石灰石鉱区が多数あり、 所群馬県多野郡鬼石町 数多くの石灰石採掘の石切り場がある。 埼玉県児玉郡神泉村 けんま なお緑色や白色の翡翠石を研磨していた 置鬼石町・神泉村 工場があったのて、、原石カ話 L 採されるこ かんな とを恐れて、昭和 32 年 ( 1957 ) に天然記今 馬県と埼玉県との県界を流れる神流 物に指定された。この翡翠については、 川の中流の一部て、、下久保ダムのすぐ下 茅原一也の記載がある。 流から約 1.5 キロにわたる渓谷が三波石 翡翠石は、その後各地て発見されてい 峡て、ある。 ちちぶ る。長崎県西彳嚇午の変成岩類中にも認め この或は秩父山地に属し、地質学上、 られているが、この青海川のものとは成 日本の結品片岩の代表とされた三 : 劇日・ 因的に異なったものて、ある。 ( 矢嶋澄策 ) 御荷鉾系のうち、御荷鉾系の模式地て、、 おもに緑色の緑泥片岩の岩盤が渓谷壁に 露出し、同種の大岩塊カ呻云石となって河 ながとろ 長瀞 指大正ロ年月 9 日 所埼玉県秩父郡長瀞町・皆野町 闇長瀞町・皆野町 名勝 ちちぶ ヾ、 少 秩父鉄道 長瀞町 長瀞 さんばせつきよう - 名月蒼 ちょう にしそのぎ 148 ・岩石・鉱物
ふじのみやせんげん わくたまのいけ 0 湧玉池 ( 静岡 ) 富士宮の浅間神社境内 にあり、水屋の下の円形の池からは富士山か らの地下水が湧き出ている。近年、湧水量が やや少なくなった。特別天然記念物。 しらいと 0 白糸ノ滝 ( 静岡 ) 日の河岸岩壁をつく 第み る溶岩流の間から、富士山から伏流した地下 水が流れ落ちる。大小数百の滝が 150 メート ルにわたって並ぶさまは壮観て、ある。 の草間の間冷泉 ( 岡山 ) 石灰岩の岩壁 に洞孔があり、盛時は 1 日に 4 回、約 6 時間ご とに平常の 10 ~ 1 音の地下水が流出した。 らくじゅえん ①楽寿園 ( 静岡 ) 富士山からの地下水の湧 泉て、ある。名勝にも指定された日本庭園の中 に、小浜池を中心に複数の池が並んて、いる。 はま
特別記事目録 岩石の組成と分類 活動區ルてとイヒ石甌穴 伊豆半島の地形と地質 日南海岸、鬼の洗濯板の地質・・ 日本の海岸地形 岩海の成因 日本アルプスの水河地形 秋吉台の石灰岩台地と鍾乳洞 日の不思議 根尾谷断層と濃尾地震 昭和新山の誕生 富士山の溶岩トンネルと 富士山の湧泉群 日本の温泉 福地層と日本最古の化石 日本最古の手取層群化石林 地質日罸 & 区分と 天然記勿の地質時代 「地震の化石」がて、きるわけ 隠岐群島の地質 東尋坊の自然保護 ・ヨ 23 ・ヨ 36 司 53 司 73 装幀・レイアウト・ S Ⅸ