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検索対象: 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道
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1. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

上田の城下一一一すっか り近代化した町にも、 ところどころに古い家 並みや、武家屋敷の名 残がみうけられる。 0 ぶんろく さなだまさゆき はらまち 九四さ町より北は原町裏を一直線に、一つは矢出沢川に、 八 ) 真田昌幸 ( 一¯) が築き、文祿三年 ( 一五 ) らに改築を加えた城である。 一つは丸堀で曲がって鎌原口の二の丸に落として三 けいちょろ・ いしだみつなり の丸堀とする予定であった。 慶長五年 (&5) 石田三成 ( 58J が兵を起こ のぶゆき したとき、昌幸は長子信之 ( 一伍—) を徳川氏に従 しかし、この築城は、寛永五年 ( 一一し忠政が没す ゆきむら 一五七〇 5 とともに上田城に ると、幕府は築城を中止させた。上田城は未完成の わせ、自分は二子幸村 ( こもった。徳川家康 ( 六一六 一伍四二—) は東海道を西上、秀まま明治維新を迎えた。 忠は三万八千人を率いて中山道をとり、一気に上田 仙石氏の築城は、本丸は天守こそ築かれなかった 城を攻め落とそうとしたが、上田城の守りは固く、 が、予定どおりに完成した。二の丸は堀、土塁は完 攻め落とすにはひまどるとみて、備えの兵を残して成したが、櫓、塀ともに建てられなかった。三の丸 けん 西上、そのために関ヶ原に着くのが遅れ、家康の不にいたっては、大手桝形およびその南北に六十間ほ 約一〇九 興をかった。 ) の塀ができただけで、見るべきものは 関ヶ原役が東軍の勝利に終わるや、昌幸父子は開 なかった。 きしゅうくどさんたく 城した。二人は一命を助けられて紀州九度山に謫 てんな 真田の〃井戸〃と〃石み 居、上田城には信之が封ぜられたが、天和八年 ( 、 まっしろ ほうえ、 たじまいずし ) 信州松代に転じ、小諸から仙石忠政 ( 一ル 仙石氏は三代を伝えて、宝え三年 (d)*?) 但馬出石 まつだいらただちか が上田城に移った。 へ移り、出石より松平忠周 ( 心¯) が五万三千 当時、上田城は関ヶ原役の後、破却されたままに 石で上田に封ぜられ、七代を伝えて廃城になった。 かんえい 城址は旧状をとどめているのは本丸だけで、土 なっていたが、忠政は寛永三年 ( 一一 ~ >) 築城の工を起 こした。この新城は真田氏の上田城の東南に本丸を塁、堀、石垣と、二層櫓三つだけが残っている。 移したものであった。 上田城は仙石氏の築営がほとんどであるにもかか 忠政築城予定の上田城は三つの曲輪に分かれてい わらず、この地では何でも真田氏に結びつけなけれ やぐら た。本丸は総坪数三四八七坪、二層櫓七、渡り櫓ばおさまらないようだ。真田氏発祥の地がすぐ近く 二、三方を堀で囲み、塀をめぐらす。二の丸は本丸にあるし、上田の名を高めた真田氏は、今も上田に の三方を包み、塁濠をめぐらし、櫓八、渡り櫓三を生きているのである。 本丸址に「真田の井戸」と呼ばれる井戸がある。 建て、塀を設ける。三の丸は二の丸堀より三町 ますがた 三〇メ ) 余東南に大手桝形を設け、南は東坂上の小番深さ二〇メートル近くもある井戸で、この井戸の途 きょ かまはら 0 5

2. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

起宿の民家ーーーかって の渡船場「肝煎」小川家 て、江戸時代の建築。 落ついたただずまいを もっ民家てある。 ト ' いので、「与惣右工門」という推測の名前を刻んで この起の宿駅の家並みに入る前、富田という所に 鎮魂の碑としたのである。これも水が生み出した悲一里塚が道の両側に榎とともにみごとに残されてい しい伝説の一つである。 この一里塚のあたりの中島佐兵衛氏の家が街道沿 また、この起宿のあたりの木曾川の底には、いく ふしみ えび いにある。ここの家で「起土人形」で知られる伏見 つかの村が沈んでいる。海老街道村・加納村は、そ てんぼう の一つである。数年前、木曾川が干上がり、川底が系の人形が江戸末期の天保いらい製作され、今日に みえじ 浮き上がって旧村の姿が見られたし、当時使用した及んでいる。中山道美江寺宿の縁日に売られる美江 ますみだ とみられる陶器などが発見されたりしたことがあっ寺の蚕鈴や、尾張一宮の真清田神社の飾り馬などの 川にまつわる悲しい物語は、起宿から墨俣、大郷土玩具は、代表的な作品である。 いちょう 町の中ほどに、起村の氏神「大明神社」が、銀杏 垣へと、美濃路に絶えることはない。 びさい 起は、現在周辺を合併して尾西市と称し、その中の大木の下にある。この神社の境内の一郭に「福島 心的な町となっている。そうして尾西毛織物の最大正則駒つなぎの木」と称する落雷で枯れた杉の木が 産地として尾張一宮市とならんで代表的な織物の町ある。これは慶長五年 (8 し関ヶ原戦争にさいし、 でもある。昭和十年代ごろまでは、女の人たちの手福島正則の一隊が渡河した地点であることを伝える 機を織るのどかな音が町に流れていたが、今は轟音伝説の木である。 この氏神から渡船場までの美濃路の家並みは、忘 にも似た動力織機の音が町にひびいている。この動 カ織機の金属的音律が、古い町のたたずまいと少しれていた落ついた暮らしの日の静けさを伝えてくれ この起の宿は美濃路七カ る町通りである。ことに渡船場の石畳を川に向かっ も違和感を感じさせない。 きーもいり て降りる手前の奥まった民家は、かって船方肝煎で 宿のうち、もっとも古い宿場町の姿をよく残してい れんじ′」うし る町である。連子格子の家、屋根が低く落ちついた木綿問屋でもあった家で、バランスのよくとれた、 の いつまでも見あきないたたずまいの家である。明治 家並み、道幅も江戸時代とまったく変わってはいな 。本陣の加藤家も史料を今に伝えている。この加十九年濃尾大地震でこのあたりの大部分の家は、倒 いそたり の もとおりのりなが 藤家から本居宣長門に入って国学を学んだ加藤磯足壊したが、この家は倒れることはなかった。この家ち が出ている。また、隣村の中島村には、画家三岸節は地震以前、おそらく江戸末期の建築と思われるこ 武 の地方では数少ない民家の一つである。 子氏の生家がある。なお、政治家市川房枝氏も、こ 3 やしろ 起宿の波戸場の右側の水神を祀った社に天保十三 の尾西市の出身である。 ばた みぎし て る。 えのき

3. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

0 妙興寺勅使門ーー - 貞冫台 5 年 ( 1366 ) 後光厳天皇 の勅願て建立。室町時 代の遺風がよく残され ている。 る。城跡には、人の背たけほどの高さの「清洲古城絶な晴の日の祭宴である。 こくが い趾」とある石碑が立っているが、訪れる人もなく、 このあたりの稲沢市内には、国衙・国分寺の跡が 歴史の非情を感じさせる。 あり、かっての律令国家による尾張支配の中心地で あった。 おざわ 第清洲から稲葉ヘ一里半 稲葉宿は、稲葉村と小沢村の一一つの村で宿役を負 担していた。宿の状況を『尾張徇行記』は、次のよ 清洲宿を出て稲葉宿まで一里半 (f*-(2 なづか に、長束村翁か稲 ) がある。ここは、豊臣秀吉五奉うに伝えている。 行の一人、長束正家の出身地である。彼は関ヶ原で 商売ハ処々ニョリ木綿ヲ買出シ、名古屋木綿問屋 みつなり みなくち おたい びわ 三成方について敗れ、近江国水口城に逃れて自害し又ハ下小田井・批杷島アタリ仲買へ送リッカハセ 約七・八キ、 、又油絞・酒造屋ナトモアリ、又諸商ヒヲスル家 ロメートル た。ここから二里 ( ) 余り離れているが、浅 ましだ モ数戸アリテ繁昌ナル市町ナリ。 野村翁 ) は浅野長政の出自の地、増田村翁稲 ) ながもり この記述からも知られるように、稲葉は、このあ は、増田長盛の出身地などといずれも戦国武将たち ようらん の揺籃の地であり、尾張平野が織田氏、豊臣氏を生たりの農村を商圏とする在郷町で、木綿を近在から み出した歴史的背景をうかがい知ることができるで買い出して、名古屋の木綿問屋や近在の仲買商人に あろう。 売ったりする商人たちでにぎわった町である。 稲葉宿へ向かう街道の右手に大きな鳥居をみる。 明治一一十年に稲葉と小沢の両村が合併して稲沢村 おおくにたま これが、このあたりの代表的大社「尾張大国霊神 となり、やがて稲沢町から戦後に稲沢市となった。 こうのみや 社」で、俗に国府宮で通用している。この神社は、 宿駅の古い姿は、よく残っているが、周辺の姿は、 なおい うっそう 毎年正月十三日に行われる儺追神事、いわゆる「国一変している。かっては、森があり、鬱蒼たる寺社 はだかまつり 府宮の裸祭」という奇祭で知られている。この があったが、今は、そうしたおどろおどろの情景は 日、午後ころから尾張各地から集まった若者たち姿を消し、鉄筋コンクリートの高層大住宅群が、立 が、神男を中心にふんどし一つの裸で激しくもみ合 ち並ぶなど都市化が急速に進み、名古屋のべッドタ 、壮絶な男たちの熱気におおわれる。もみ合う裸ウンへと変質しつつあるようである。 みようこう の男たちの群れのなかにバケツの水が上からかけら 稲葉宿をすぎて間もなく、路の右手東方に妙興 れ、それが瞬時にして湯気となって寒中の空に立ち寺の森を見ることが昔はできた。この寺は尾張にお りん のばる。民衆のたくましいエネルギーの奔出する壮ける大寺の一つで、長島山妙興報恩禅寺といい、臨 国府宮の裸祭ーー儺追 神事の裸祭りて奇祭と して知られ、数万人の 人出てにぎわう。楼門 は室町初期のもの。 日 740

4. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

第朝 0 不破の関ーー近江と美 農の国境に近い古代近 江朝廷防衛の要地。壬 申の乱のとき、大海人 皇子は、 , こから近江 に撃って出た。 おうち しくつも残されている。 この険難を示す文章は、 ) この阿知駅に会地関の跡の叫しがある。この幻 たいらのまさかど よりざね しんごしゅういわかしゅう 関所は平将門の乱 ( 天慶の乱 ) のとき設けられたと 『新後拾遺和歌集』の源頼実の歌に もいわれるが、それより古く八世紀初めの和銅年間 雲もなほ下にたちける桟の のういんうたまくら に設置されたと推測される。『能因歌枕』に 遙に高き木曾の山道 信濃路やそのはらからを見る人は の一首がある。木曾の山々のそそりたっ岩壁の崖 さんどう に鉄鎖を設けて桟道とした命がけの険要の道をよく 会地の関は越えぬものかは ( 衡 ) しまさらに いなと思ひし道あれど 伝えている。 づりよう また『今昔物語』に出ている有名な「受領は倒る 君に会地の関ぞうれしき ( 「橘為 という会地関をよんだ歌があり、当時、旅人ばか る所に土をつかめ」といった一一 = ロ葉で知られる話の中 のぶただ に、藤原陳忠が信濃守としての任を終えて、都へ帰りでなく、逢うと会地にかけた歌枕の地としても広 みさか く人々に知られた関の一つであった。 る途中、神坂峠 ( 御坂峠 ) で、橋をふみはずして転 てんりゅう 阿知駅からは天竜川・伊那往還 ( 三州街道 ) に沿 落したので、郎等たちは、主人は死んだと思ったと いから ころ、谷底から叫び声がするので家来たちが綱で籠って溯上し、阿知から、三里にして育良駅、 かたきり を降ろすと、籠に乗って平茸をいつばいかかえた主叫里にして賢錐駅 ( Ⅱ 上伊那中 ) 、五里にして宮田駅 上伊那郡、 人が上がってきた。郎等らは「これはどうしたわけ ) 五里にして深沢駅 (æ韜 0 、四里にして ( 宮田村 かかし か」と聞くと、陳忠は「平茸がたくさん生えていた覚志駅 ( 丘 塩昿 ) を経て信濃の国府松本に至ってい あまさかあま す る。また、深沢駅あたりから諏訪大門峠・天坂 ( 雨 ので見棄てがたく、まず手の届くかぎり取った。ま こうずけ ぎかい だたくさん残っている。損をした、受領は倒るる所境峠 ) を経て佐久郡に出て碓氷峠から上野国に入 に土をつかめ、と言うではないか」と言った話である道も開けていた。 東山道の古代の関は、この会地関のほか、山城と る。これは、国司が私腹をこやすのに熱心で、ころ んでもただでは起きない、ふんだくり強欲精神を示近江の国境に逢坂関、美濃の不破関、信濃と上野国 す話として知られている。この話の中にあるように境の碓氷関がある。不破関 ( 国司という多くの人に守られた高位の者の行旅の場 鬱を当福井県 ) 敦賀礼とならぶ三つの重要な関の一つと 合でも一歩誤れば、谷底へ転落という危険な道路でして知られている。 じんしんらん あったから、一般旅人には、さらに危険度は高かっ 不破関は、壬申の乱の翌年に設置さ えんりやく たであろう。 れ、延暦八年八 ) に廃されたが、江戸時代まで ひらたけ おおさか

5. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

光と風の道しるべ 信濃路の宿場と人びと しなの 信濃の東部を、上信火山帯と富士火山帯がそれぞ れ南北に走っている。 さくやつがたけ 信濃路は、この両火山帯に連なる佐久、八ヶ岳の すそ 山地とその裾にひろがる佐久、諏訪盆地をぬって、 うす しおじり 碓氷峠から塩尻峠に至る山の道である。 けいちょう 慶長七年 (8 「 ) 、五街道の一つとして中山道の 改修が行われ、信濃路に一三の宿場が設定された。 それぞれの宿場は、その歴史や、自然環境の相違 によって、そこに住む人々の生活のあり方は、一様 ではない。信濃路のいくつかの宿場に足をとめ、暮 らしの文化を訪ねてみることにしよう。 噴煙けむる浅間三宿 じようしゅう 上州坂本宿から、二里一〇町 ) で碓氷 峠に達する。往時、江戸を出てから最初の中山道の さきもり 難所とされた。『万葉集』に防人の碓氷峠を越える 歌がみられる。 ひなぐもり碓氷峠を越える日は せなのが袖もさやにぬらしつ 東国方面から、九州の地に徴集されたであろう防 そで 富岡邦子 シナリオライター

6. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

上矢作のニ十ニ夜の石 塔ー -- ー正面の石碑には、 廿二夜・廿三夜・廿六 夜と刻まれ、遠い日の 風習を伝えてくれる。 3 作川の上流のそのあたりだけがちょっと開けてお こう +. い り、洪水のときには水があふれる危険もしばしば起 . を一こる場所だからである。折ロは海の河原で石を拾「 てきてはそれを並べている、ものに憑かれたような 老人の姿を見た。私が最近おとずれたときもさびし い河原であった。しかしさきの供養塔の一連の作 は、海で作ったとばかりは言いきれない。折ロは信 ( 濃から美濃、三河の国境付近を歩いたとき、 ところに馬頭観音の石塔婆を見ている。とすれば、 供養塔の歌は彼の原風景にほかならなかった。彼は 自分を業病のために旅に出て野垂れ死にした、不幸 な人びとの仲間だとみなしている。そうした感慨を もったのも、彼が浪合、平谷から海へ通じる山道を 通ったからである。 上矢作町には二十二夜さまをまつる石塔もあちこ ちに立っている。旧暦七月二十二日の夜、講中の人 たちはお立ち待ちと称して、月がのばるまで、この 石塔を拝んで歩く。石塔の多くが矢作川の川べりに 立っているのは、そこが峡谷になっていて、月の昇 るのをよく見ることができるからであろう。渓流の ほとりで月天子を拝する風習は、きわめて人間的な 行為であると私には思われる。二十二夜の月の出を にや 二十二日に月を待たな 待つ行事を二夜さまといし かった人は、あくる日の三夜さまをおこなった。こ れを三夜待ちともいった。中馬街道に沿うどこの村 にもその習慣があった。 新野の盆踊り にいの 新野の盆踊りは盆の三日間、夜を徹しておこなわれ る。町なかにやぐらがこしらえられ、それを中心にし た町の通りには、踊り手が道の両側にならび、太鼓も おうぎ 笛もなく、扇一つを持って踊る。踊りの型には七種 類ある。「すくいさ」という踊りもある。 ひだるけりやこそ、すくいさに来たに、 たんとたもれりやひとすくい ききん この「すくいさ」は、飢饉のときの救助小屋である てんめいてんぼう と柳田国男は解している。すなわち、天明や天保の飢 饉のときに餓死した人たちをなぐさめかねて、生き残 った人たちは不安を感じ、こうした歌詞の盆踊りをは じめたというのである。新野の盆踊りは、古風で格調 のある踊りで、数百人、数千人が参加する。盆の十七 日の夜明け、「能登」と呼ばれる踊りを最後にすべて わさん 終わり、そのあと、砂田地区の太子堂へいって和讃を となえ、また引き返して宇寺山のふもとの禅寺の山門 の前の広場に行き、空砲を空に放って精霊たちを村境 に送り出し、盆踊りの終了を告げる。

7. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

をを、第をイ引 旅籠の格子の陰に木曾路の宿 霧「木曾路はみな山中なり」 むかし江戸と京都をむすぶ幹線道路は、東海道と 中山道だった。多くの大河を越えて太平洋岸沿いに 走る東海道とちがって、中山道のほうは、主として えんえん 山地を蜿蜒とのび、六九の宿駅を連ねていた。 木曾路とよばれるのは、そのうち一一宿にあたる 八〇キロメ 1 トルあまりの間をいう。しかしときに は、中山道全域を木曾路とよぶこともあった。たと えば貝原益軒著『木曾路之記』 ( 宝 '$ 六年ー 九ー ) 、秋里籬 とう ずえ ナいさいえいせん 島著『木曾路名所図会』 ( 経 g ー ー ) や、斎英泉と あんどうひろしげ 安藤広重の合成に成る『木曾海 ( 街 ) 道六十九 次』などがそれで、このように街道の一部の名称 が、全体の意味にも用いられる例はほかにない。そ れほど木曾路は、中山道きっての特殊な区域であ り、印象ぶかいところだったといってよかろ一つ。 にえかわ 木曾十一宿とは、ヒゝ 」カら贄川 ( 板橋宿から ゃぶはらみやこし あげまっ 以上を上四宿〈かみ ししゅ / 、、〉とい、つ ・藪原・宮ノ越 ( ) ・福島・上松・ すはら のじりみど のつまご 須原 ( 以上、中三宿〈な ) ・野尻・三留 ( 富 ) 野・妻籠・ まごめ さんきん 馬籠の圷四宿〈し ) で、西国大名の参勤交代の道 小路健 国文学者

8. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

本洗塩下和長芦望八塩岩小追沓軽坂松安板高兪新本深熊鴻桶上大浦板宿 諏久 名村田 井井 山馬尻訪田保田月幡田田井分掛沢本田中鼻崎野町庄谷谷巣川尾宮和橋名 中山道の宿勢ー -- ー - 中山道 本各宿の宿勢を、天保 14 年 ( 1843 ) の「大概帳』によ 脇 って一望したのが左の表 本 てある。この表によると、 人口 380 人以上の宿は熊 谷・本庄・高崎・高宮の 旅 4 宿て、最も少ない宿は、 屋 246 人の鵜沼宿、 256 人の 数細久手宿、 272 人の河渡 宿と、いずれも美濃の宿 場てある。 一五八五 は、有事にさいし臨時に関守を置いて固めることもれたりして定かではない部分が多い、しかし、近江 あった。この不破の関は、関ヶ原町藤古川の近くのの勢多駅を起点とし美濃・信濃から上州を経て、東 森一帯を関跡とし、関跡の森の中に多くの石碑が建国に向かう幾筋かの羊腸の道が、千数百年にわたっ ゃぶはたけ っている。芭蕉の「秋風や藪も畠も不破の関」、太て存在しつづけてきたことは動かすことのできない しよくさんじん 田蜀山人の「大友の王子の王に点うちて、つぶす事実である。 玉子のふはふはの関」などの碑が訪れる人もない秋 近世の中山道 風の中に眠るように立っている。 けしちょう 古代の東山道の道路や一つ一つの駅の場所は、必 関ヶ原戦争の後、慶長七年、幕府は五街道と駅 ずしも明らかではない。時に移ったり、時に再興さ伝の制を定め、五街道を幕府の道路として整備を進 め、後に道中奉行の管轄下に置いた。当初、「中仙 しようとく 五四五 総家数 人口 ( 人 ) 奈良井一 四〇九二、一五五 道」と記したが、正徳六年 ( 享元しに今後は「山 藪原一 七 五七三 一一、四四八宮ノ越一 五八五 の字これを書くべし」と定め、以後「中山道」を正 四三〇二、 九七一一 一五八 四 、二三〇上松一 式の呼称とした。中山道は、五街道の一つとして駅 五一九 須原一 七四八 一〇四 九二九 七九一一一野尻一 一〇八 九八六 制施行と同時に六七宿全部が開宿したのではなく、 三四七一、四四四三留野一 七七 五九四 五六六 二、二七四妻籠一 四一八 四 五一〇一、〇七五三、 六九 七一七 幕藩体制確立にともなって整備を見るに至った。中 七五 三七〇 七二〇五三 五二四一、九二八落合 、二一二四、五五四中津川 九二八 山道は東海道につぐ重要路であったが、交通量や宿 一〇一七 四〇七一、四三七大井一 四六六 四 四二四 二九七二、〇三一一大久手一 はるかに , 人きかっ 場の規模は、東海道のほうが、 四 五 、二三五細久手一 六五 二五六 六〇〇 た。参勤交代で往来する大名の数も東海道の一五四 六四 三四八伏見一 四八五 四 七 一、〇〇九太田一 五〇五 家に対し、中山道は三四家である。この三四家の大 二〇一〇一 0 二四六 四五一加納一 八〇五二、七二八 五〇一一河渡一 六四 名は次のとおりである。 七一二美江寺一 一〇七 城下氏名 通行月持高 三五〇一、 六三七垂井一 上州安中板倉百助 二月三万石 五七四関ヶ原一 一四三 七一九今須一 四六四一、七八四 野州足利戸田長門守 二月一万石 三六〇柏原一 三四四一、四六八 八〇 醒ケ井一 五三九 三月一〇二万二七〇〇石加州金沢松平加賀守 一八七 八〇八 一七八 五二二鳥居本一 一、四四八 四月一〇万石 越中富山松平淡路守 三一五一、三四五高宮一 八三五三、五六〇 加州大聖寺松平備後守 四月一〇万石 七九四愛知川 九二九 ハ一武佐一 五三七 濃州苗木遠山美濃守 四月一万二〇石 五九二守山二 四一五一、七〇〇 五 大 中 五 〇六 四三五六 七六七七六一 六九六五四八四六七七二七八一 一八二〇九七三七七三〇九四九四七一八〇七七三八五七〇九〇六八五四三一 九九六〇三八五六八七八七一一〇六五九一八四四五五四六七一九八四六四一 25 ーー山峡のみち中山道

9. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

木曾川 旧渡船場か らみた木曾川。鉄橋は 農尾大橋。川の向こう 遠くには、養老の山な みが連なっている。 じようすん 年と刻まれた三丈九寸い ) の大常夜燈があみることができる、遠く高い、はるかなる山は、木 4 おんたけ る。湊であった時代の今日に伝わる遺産の一つであ曾の御嶽山である。十月に入るとまもなく、山頂に る。 雪をいただき、白雪が陽光に映えはじめると冬は近 みつやなぎ ここから対岸の三柳村までの川幅は、五四〇間 。手前の山は稲葉山 ( 岐阜 ) で、頂上にそびえる城 びようぼう 約九八〇、 ) 木曾の流れは渺茫としてゆるやかに流の姿をはっきりとながめることができる。この城 のうびおおはし れている。旧渡場の下手に、濃尾大橋がかかり、絶は、昭和二十一、二年ごろ焼亡したため、その後に とき えまなく車が、かん高い音をたてながら突っ走って建てられた城である。かって、美濃国守護職土岐氏 えいろく いる。この濃尾大橋が竣工する昭和三十一年まで、 の臣斎藤氏が在城、永祿十年 (*l&) に織田信長は斎 「ポンポン蒸気」と里の人がよんだ船が、往来の客藤道三を倒して入城、地名の井のロを岐阜と改称 を運んでいたが、橋の完成とともにこれも姿を消し し、楽市楽座を布いて城下町を経営した。その後、 織田信孝、池田輝政、織田秀信らの居城となった この濃尾大橋の下手、宿駅の中ほどの木曾川に面が、関ヶ原戦の後、廃城となった城である。 川からながめる城のある山の遠望は、季節を問わ をした地点に「船橋跡」という石碑が建てられ、この 、」うど じよう あたりを船橋河戸とよび、朝鮮通信使、将軍、浄ずすばらしい。御嶽山に雪をいただくと、まもなく いぶき 円院 ( 軍吉宗 ) の通行にさいし、川に船を並べて橋伊吹おろしが、平野をかけまわり、寒さを身にしみ とした船橋が、かけられた場所であった。『尾張名て感ずるようになる。そのころには、伊吹山の頂も 所図会』に 雪でおおわれる。このあたりの里では、伊吹山の積 数百艘の舟を横に並べて、大綱及び大鎖をもてつ 雪のようすで冬の季節をはかる。伊吹山の頂に雪を わた なぎ、其上に板を架して陸地をあゆむが如くす、そ見れば、人々は山をながめて冬の仕度を急がねばな おおっくり の大造なる事、 ( 中略 ) 誠に海道第一の壮観といふらない。 濃尾大橋の岐阜県側の橋のたもとには、「おこし とある。架設に要する船は、大船四四艘小船一三 月、場」と刻まれた常夜燈があり、岐阜県の指定文 おぎゅうそらい 三艘の合せて一七七艘の船を濃尾の河川沿岸の村々 化財とされている。碑文は京都伏見の人で荻生徂徠 りゅうきみよし から徴発して架設した。この船橋は、日本最大の規 に学んだ竜公美 (I 妣一四 ) の撰文で、末尾に曠種七 模をもっ架橋として知られている。 年 (AL8) とある。書は、起宿の本陣加藤磯足とされ かくしよう 川のなかほどから上流に向かって、遠い山の姿をているが、確證はない。 えん し

10. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

大山城と木曾川一一 - 木 曾の清流の傍らに昔と 変わることなく立って いる。江戸時代には尾 張藩家老成瀬氏の居城 てあった。 白い壁に桝の形と「つがるや」の屋号を描いた茶屋街道の一つである甲州街道の合する重要な宿駅であ 8 はらさいかく 一六四一一 っ ? 」 0 の建物が、今に残されている。井原西鶴 ( —九三 さらに木曾に入って、藪原宿・福島宿から、それ の『好色一代男』には「追分桝形の茶屋で、ほろり ひだ と泣いたが忘らりよか」という追分節の元となったぞれ飛騨高山にぬける道があり、妻籠からは飯田城 まごうた 下へも出られた。 馬子唄が、とりいれられている。 今日、追分の中山道から北国街道を分岐する三角 観光の季節の木曾路、ことに妻籠宿は、みごとな たか 地帯のあたりは、夏の季節などには、色とりどりの中山道宿駅の復元で、若い女性の関心を昻め、銀座 通りと変わらない装いでにぎわっている。 若者たちの派手な姿で雑踏している。このあたりに くつも建てられている。 木曾を越して犬山城を左にながめながら美濃鵜沼 常夜燈や歌や句の碑が、い その中に「さらしなは右、みよしのは左にて月と宿をすぎるころから、濃尾の大平野に入り平担な道 がつづく。伊吹の山なみが目の前に大きく立ちふさ 花とを追分の宿」とある碑が秋風の中に立ってい ふもと がる麓に、垂井宿があり、このあたりから冬場は、 こもろ 岩村田宿からは、小諸城下に行く道があるほか、 いちだんと雪が深くなってくる。この垂井の南宮神 しもにだ 香坂峠を越えて下仁田に出る道もあり、これは上州 社の赤い鳥居が見え始めるあたりから、美濃路が分 と信州を結ぶ物資流通の主要路でもあった。 岐し、名古屋から東海道へ回る道がある。この分岐 もたい おおばか 望月宿から茂田井を経て芦田宿へは、一里余であするあたりが、昔は青墓の里とよばれた荒涼たる林 くまさかちょうはん る。この茂田井村は、国道からわずかにはずれたた野で、伝説上の人物である熊坂長範という大盗人 めに、中山道で昔時を伝える古い姿を、もっとも多が、旅人を襲うために、ひそんでいたと伝える森が く残している村の一つである。白い壁のみごとな造ある。今は、工場の敷地になり、その昔をしのぶよ りの酒屋では、今も杉玉を酒の売り出しのときにはすがはない。 おうみ 軒に下げている。芦田宿からは、上田や松本に出る やがて山あいの関ヶ原宿・今須宿を経て近江国柏 道がある。そして和田峠を越して、温泉場として、 原宿に向かうころから、どことない都風が、ひろが 今日の繁華な町、下諏訪宿へ出る。朱印地五百石と った琵琶湖を望む風景のなかに展開してくる。 - びよう・はう いう大社である諏訪神社下社がある。眼下の渺茫 中山道六十七次の風物は、変化に富んだ、地域ご として広がる諏訪湖のながめは、旅人に心のやすら との歴史と文化をよく伝えてくれる長い長い道であ ぎを与えたにちがいない。 この宿は、中山道と、五る。 たる いぶき