名古屋 - みる会図書館


検索対象: 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道
23件見つかりました。

1. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

堀川と筏ーーー名古屋の 築城用材運搬のため開 削された。名古屋の商 品流通の動脈てあり名 古屋の母なる川てある。 を第 : ヨ・い こっぜん を完了し、ここに忽然として天守閣のそびえる名古お 屋が誕生した。この城下を通る美濃路から右手に、 山のような巨大な城が、そそりたっことになったの である。なお今日の城は、第二次世界大戦で焼亡し た後、昭和三十四年に再建されたものである。 清洲に住んでいた六、七万人ともいわれる武士 町人・僧侶・神官や寺社に至るまでが、新城下名古 屋に移り、町名も清洲の町名をそのまま引き継しオ のである。この清洲越の由緒を持っ町人たちは清洲 越の町人とよばれて、後々まで由緒をほこった。 名古屋市内を通る旧美濃路の道は、ビルの林立の なかを通っているが、それと並行して堀川が流れて いる。この川は、名古屋城築城工事の資材運搬路と したときに応援する指 さらに水運、城防備を考えて作られた運河である ) も置かれていないから、大名など 定された近隣の郷村 通行の場合は、清洲宿から名古屋宿を通りこして宮 が、その後、長く、堀川水運は名古屋の経済発展上 宿に向かった。 の動脈として大いに役立った。今も、かっての繁栄 なごや こ、つ洋」く 名古屋は、かって那古野とよばれ、広漠とした湿を思い起こさせるように堀川ぞいに古い蔵の家が、 地と平原がつづく雑木林におおわれた地域であつわずかではあるが、残っている。 た。しかし、慶長十五年 ( ~ しの暮れごろ、清洲の 清洲古城趾、歴史の非情 城下が名古屋へ移ることになり、さらに、その前年 から名古屋築城の構想が定まり、加藤清正らの西 名古屋宿から二里し、庄内川・五条川の二 国・北国方面の大名を、御手伝い普請に従事させ、 つの川を越すと清洲宿である。清洲は、斯波氏の守 十九年の十一月には、五層の金のシャチが輝く天守護代織田氏の居城の地として戦国の動乱と興亡のあ 閣が完成した。この工事の進行のなかで、名古屋と りさまを如実に刻みこんできた土地である。織田氏 ′」し ひょく いう新都市建設のために、清洲の人々に後に清洲越一族は、肥沃な尾張平野の生産力を背景として、し ふるわたり とよばれる名古屋移住を命じ、二、三年の間に移住 だいに台頭し、信長の父信秀のころには、古渡城

2. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

0 妙興寺勅使門ーー - 貞冫台 5 年 ( 1366 ) 後光厳天皇 の勅願て建立。室町時 代の遺風がよく残され ている。 る。城跡には、人の背たけほどの高さの「清洲古城絶な晴の日の祭宴である。 こくが い趾」とある石碑が立っているが、訪れる人もなく、 このあたりの稲沢市内には、国衙・国分寺の跡が 歴史の非情を感じさせる。 あり、かっての律令国家による尾張支配の中心地で あった。 おざわ 第清洲から稲葉ヘ一里半 稲葉宿は、稲葉村と小沢村の一一つの村で宿役を負 担していた。宿の状況を『尾張徇行記』は、次のよ 清洲宿を出て稲葉宿まで一里半 (f*-(2 なづか に、長束村翁か稲 ) がある。ここは、豊臣秀吉五奉うに伝えている。 行の一人、長束正家の出身地である。彼は関ヶ原で 商売ハ処々ニョリ木綿ヲ買出シ、名古屋木綿問屋 みつなり みなくち おたい びわ 三成方について敗れ、近江国水口城に逃れて自害し又ハ下小田井・批杷島アタリ仲買へ送リッカハセ 約七・八キ、 、又油絞・酒造屋ナトモアリ、又諸商ヒヲスル家 ロメートル た。ここから二里 ( ) 余り離れているが、浅 ましだ モ数戸アリテ繁昌ナル市町ナリ。 野村翁 ) は浅野長政の出自の地、増田村翁稲 ) ながもり この記述からも知られるように、稲葉は、このあ は、増田長盛の出身地などといずれも戦国武将たち ようらん の揺籃の地であり、尾張平野が織田氏、豊臣氏を生たりの農村を商圏とする在郷町で、木綿を近在から み出した歴史的背景をうかがい知ることができるで買い出して、名古屋の木綿問屋や近在の仲買商人に あろう。 売ったりする商人たちでにぎわった町である。 稲葉宿へ向かう街道の右手に大きな鳥居をみる。 明治一一十年に稲葉と小沢の両村が合併して稲沢村 おおくにたま これが、このあたりの代表的大社「尾張大国霊神 となり、やがて稲沢町から戦後に稲沢市となった。 こうのみや 社」で、俗に国府宮で通用している。この神社は、 宿駅の古い姿は、よく残っているが、周辺の姿は、 なおい うっそう 毎年正月十三日に行われる儺追神事、いわゆる「国一変している。かっては、森があり、鬱蒼たる寺社 はだかまつり 府宮の裸祭」という奇祭で知られている。この があったが、今は、そうしたおどろおどろの情景は 日、午後ころから尾張各地から集まった若者たち姿を消し、鉄筋コンクリートの高層大住宅群が、立 が、神男を中心にふんどし一つの裸で激しくもみ合 ち並ぶなど都市化が急速に進み、名古屋のべッドタ 、壮絶な男たちの熱気におおわれる。もみ合う裸ウンへと変質しつつあるようである。 みようこう の男たちの群れのなかにバケツの水が上からかけら 稲葉宿をすぎて間もなく、路の右手東方に妙興 れ、それが瞬時にして湯気となって寒中の空に立ち寺の森を見ることが昔はできた。この寺は尾張にお りん のばる。民衆のたくましいエネルギーの奔出する壮ける大寺の一つで、長島山妙興報恩禅寺といい、臨 国府宮の裸祭ーー儺追 神事の裸祭りて奇祭と して知られ、数万人の 人出てにぎわう。楼門 は室町初期のもの。 日 740

3. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

ー食ン : 第。清洲城跡の信長像ーーー かっては縁深い森てあ ったが、今は荒れ、信 長像が、怒れるがごと く虚空に向かっている。 すえもり のうび 名古屋 市中区 ) 、末森城 ( 秘齷市、 ) 那古野城蛄しを築えて濃尾の形勢をうかがっていた。有名な道三の娘 き、やがて清洲城によって尾張一円の支配権を握り との見合いの場へも、この美濃路を通って行ったの はじめた。 であろうか。いずれにしろ、この大平野をうかかう えいろく 永祿三年 (*I(B) 五月十九日、この日、信長は三万将たちは、近隣を虎視して機をねらっていた。 いまがわよしもと あるじ のぶかっ ひでつぐ の軍をひきいた今川義元を清洲から出陣して奇襲 清洲城の主人は、信長のあと、信雄、豊臣秀次、 ただよし よしなお し、雄名を広く知られることになった。このとき、 福島正則、松平忠吉、徳川義直らが相つづいた。い きようほん 信長は、ほの暗い清洲城内の一郭で「人間五十年、 ずれもここを拠点として領国の支配に狂奔した。 化転の内をくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり しかし、先述の清洲越によって、かっての戦国を代 おけはざま ・ : 」と謡曲「敦盛」のひとさしを舞って、桶狭間 表する都市清洲は、慶長十七年 ( ~ (N) 前後の二、三 に三千の兵もろともに襲いかかって劇的な勝利を収年余りの間に、廃墟と化し、かって繁華の町であっ めた。信長二十七歳のときのことである。 ただけに、その急激な落魄は、戦国の世のはかなさ 、約二三キロ をいっそう人々に感じさせたにちがいない。当時の この清洲から六里 ( メトレ ) あまり離れた長良川 さいとうどうさん の沿岸井のロ ( 岐阜 ) には、斎藤道三が、城をかま歌として伝えられるものに 思いがけない名古屋ができて 花の清洲は野となろう すかぐち と歌われている。この街道沿いの須ケロ ( 現西春 日井郡新 という村、今は名鉄電車の駅の一つであるが、 ここは、かって繁華のころの中心地であった。 うた この須ケロの繁栄を唱った歌に 酒は酒屋によい茶は茶屋に 女郎は清洲の須ケロに とあり、城下町の時代に遊女の町として戦国の侍 や足軽たちで栄えたのであろうか。この宿場はずれち の五条川に沿った小高い丘が、かっての清洲城の跡 で、今は公園となっているが、この城の一郭を新幹 ごうおん 線が轟音を風のごとく残して絶えまなく疾走してい 朝 . 洋、い

4. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

中山道塩尻宿の手前から、木曾路とほば平行に南下する伊那街道は、、 宮木 ( 辰野 ) 、箕輪、伊那高遠ら 0 道と合流し、駒ケ根、飯田を経 = 。 天竜川に沿った宿々は、深い谷に面している。しかし、この街道は重 要な脇往還で南信濃の諏訪、木曾地方と、東海の浜松、名古屋地方と を結ぶ物資流通の道であった。山国と海浜の商品の流通には、数匹の らゆうま 馬を一団とし何日もかけて荷を運ぶ中馬という手段がとられていた。 中馬は商品ばかりではなく文化の交流の担い手でもあったが、手綱を とるのは厳しい風雪に耐え抜いて生きる農民たちだった。 可川橋見は ら望 奥て吊か眺 竜部ぷ橋の 天一結 ) 谷 のを溪い 峡公竜射竜ら 竜定と姑天ば 伊那谷の民家ーー江戸 時代、財政の乏しかっ た高遠藩が年貢米をき びしく取りたてたため、 伊那の農民の生活は非 常に苦しいものてあっ 7 硼

5. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

関ヶ原古戦場一一一一南宮 山・松尾山・天満山、い ずれも伊吹山麓の小高 。物第、。をゞ刻ヾ、。、い山て、これを囲むこ あった。 をい、 木曾川と長良川一一一木 曾川は木曾に、長良川 は飛騨に源を発し濃尾 平野を潤す、この地方 の恵みの川てある。 けいちょう どの通行があった。 慶長十二年 (8 し朝鮮通信使 美濃路は、江戸時代初頭に開発された街道で、 慶長十六年 ( ~ 六 ) 徳川家康 『尾張志』には、 慶長十九年 ( ~ し徳川家康 けいちょう ひでただ げんな いしだみつなりちゅうりく 慶長五年 (&5) 神君、石田三成を誅戮し給 元和三年 ( ~ し徳川秀忠 かんえい がいじん ひ、関ヶ原より御凱陣遊ばされし時、この美濃 寛永元年 ( 一一し朝鮮通信使 路を開き、宿並となし給ひぬ 寛永三年 ( 一一し徳川秀忠・家光 いえやす とあるように、関ヶ原戦争の勝利に端を発し家康 寛永十一年 ( 一一し徳川家光 によって美濃路が開かれたと記している。また、同 寛永十三年 ( 一一し朝鮮通信使 この じ史料に「天下御一統の折なるゆえ、此道筋を御吉 寛永一一十年 (GN) 朝鮮通信使 いわゆる参勤交代の制が、制度的に確立したの 例海道と唱ふるよし」とも言っているように、関ケ 原戦争とこの街道の開設とは密接に結びついていた は、寛永二十年 (G)) のことであるが、それ以前、 つまり大名行列の通行の一般化以前に、将軍や朝鮮 ようである。家康からみれば、関ヶ原戦争を戦っ た、この地域の軍事的重要性の認識からいち早く伝通信使という大規模通行があったということは、急 馬の制を整える必要があったのであろう。こうした速に美濃路の駅制が強化されたことを暗示している ことから、宿駅の本陣職などでも、関ヶ原以来の由といってよい 美濃路の道を東海道の宮宿から宿場の順によっ 緒をとなえる者もあった。起宿の本陣加藤家の『由 ふくしままさのり て、歴史と文化の風土を捉えながら、「上り」の道 緒書』によると、家康の先鋒軍であった福島正則の をたどることにしよう。 一隊が、木曾川沿岸の起村まできたさい、同地の旧 家であった加藤氏は、川の深浅を福島氏一隊のため 天守そびえる名古屋の城 に案内し、さらに船や船夫を差し出して支障なく対 の 岸に渡河させ関ヶ原に向かわせたという功労によっ 美濃路の最初の宿は、宮宿から一里半の名古屋宿 するが て、その後、本陣職を与えられたという。 であるが、この宿は、伝馬町、宮町、駿河町、富沢 の 近世初期、この街道が幕府によって重要視されて町の四つの町で伝馬役を負担したが、原則として大ち いたことは、将軍の上洛や大通行に、東海道から美名の宿泊はなく、このため本陣・脇本陣も置かれて 武 はた′」 いない。旅籠屋も、この四つの町にはなく、玉屋町 濃路回りで京都に入ることが多かったことによって 7 すけ′」う 3 も知られる。列挙すると次のようである ( 下噸は ) 。 に一三軒保年 ) あった。また、助郷 (E 場設の馬 いえみつ

6. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

美濃紙干し一一一江戸時 代、美農 11 郡 1 % ケ村て 生産され、大矢田 ( 美濃 市 ) て紙市が立ち近江 商人が諸国に普及した。 、ミまミ、さ、、ミミゞ。きドごミトミ 木曾川のへたか舟 木曾川の舟運は、木曾材の川下げの合間をぬって 行われたので、はじめはそれほど発達しなかった が、川下げが冬に行われるようになり、また、農民 の商品生産が発達するにつれて、大きく伸びていっ かなやま くろせ いぬやまおお 上流の兼山 ( はじめ金山 ) ・黒瀬、中流の犬山・太 うぬまかわだきたがた たかわいかつやまおおわき 田・川合・勝山・大脇 ( 土田 ) ・鵜沼・河田・北方・ っしまさや えんじようじかさまっ おこし 円城寺・笠松、下流の起、支流の津島・佐屋、木曾 し・もあ・そう みなと ひだ 川に合流する飛騨川の下麻生などの湊 ( 港 ) ・河岸が 発達した。 ながよし 兼山は、永祿八年 (*l&) 森可成 (— 一五八 ) が入っ て城下町を整え市を立てると、湊としても発達し、 くわな うんそう 以来、東濃地方の物資を笠松・桑名・名古屋へ運漕 のぼ し、塩をはじめとする諸物資を登せる (*() 拠点暮 となった。ことに、兼山の塩問屋が広い後背地への 塩販売を一手に握った。東濃・飛騨南部の山間地に 至る塩の道は、この湊を起点としていた。 しかし、江戸時代もなかばをすぎると、兼山の上 高牧實 心女子大学教授

7. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

ち豪 みのじ おおがき 美濃路は、中山道の垂井宿から分岐して大垣 じゅくすのまた はぎわら いなば きょす 宿・墨俣宿・起宿・萩原宿・稲葉宿・清洲宿・名古 みや 屋宿の七カ宿を経て、東海道の宮宿に達する一四里 二四町一五結 ) の道をいう。この道は、中 のうび 山道と東海道を結び、濃尾の大平野を縦断する道 で、中山道脇往還として道中奉行の支配のもとに置 おわり かれていた。美濃路七カ宿のうち、名古屋は、尾張 藩六十万石の城下町、大垣は、一尸田氏十万石の城下 おだのぶなが 町、さらに清州は、かって織田信長の居城の地とし て知られた町である。 この美濃路七宿の間は、まったく平坦の平野地帯 であるが、四つの大小河川が、街道を横断して伊勢 湾にそそいでいる。すなわち、木曾川 ( 宿の ) 、 熊川・長良川 ( の 墨し、斐川しの四川で、 ずれも渡船場が置かれ船渡しとされていた。 この美濃路を慣例の通行路としたおもな大名は、 たんば えちぜん 高松藩主、広島藩主、丹波柏原藩主、越前福井藩 はりま 主、阿波徳島藩主、播磨明石藩主、姫路藩主、熊本 りゅうきゅう 藩主、紀州藩主などのほか、琉球使節、朝鮮通信 っしま さつま ちゃっぽ 使、これと同行した対馬藩、薩摩藩のほか、茶壺な おこし たるい 林英夫 立教大学教授 736

8. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

の あるように、「七里の渡し」は、天候さえよけれを通る者のうちには、伊勢参宮人が相当多かった。 おおみなと ば、四時間内外の船旅で、旅の気分転換にもなっ そして、吉田第しと伊勢大湊 ( 勢の間を て、快適であったにちがいない。しかし、広重の描船で往復する者が次第にふえた。これは宮・佐屋・ く花やいだ風景や、一九ののんびりした描写のよう桑名などにとっては、宿場としての盛衰にかかわる かんせい な日ばかりではなかった。 問題である。そこで宮・佐屋の二宿は、寛政九年 りゅうきゅう 琉球使節を乗せた五二隻の船団が寛文十一年 ( 九 一しに、関東筋の参宮人、そのほか他国の者まで を吉田から渡海させては当宿が衰微して困ると幕府 ( 七 (f) 八月一一十七日に宮を出帆したが、半分くらい ち 進んだところで、急に突風が吹き荒れて、七隻が知へ訴え出た。これを調べた道中奉行は、寛政十一年 多半島や伊勢に漂着した。犠牲者が出なかったの 一七 ) に、吉田と大湊の間の渡海は、三河海辺の参 は、不幸中の幸いであった。 宮人に限って許し、他国の参宮人や旅人などの渡海 を禁止する、と指令した。 三里の渡し 十里の渡し 約二四キロ 宮と佐屋の間、六里 ( メ レ ) の陸路が佐屋路で ある。佐屋から船で佐屋川・木曾川を下って桑名に 「七里の渡し」と「三里の渡し」のほかに今一つ よっかいち 三重県四 着く。これを「三里の渡し」といった。この「佐屋「十里の渡し」がある。宮と伊勢四日市 ( 日市市 廻り」は、時間はかかるが、海上航行ではないか 約聖 9 結 ) を直接船で結ぶのである。 、海上十里 ( メ ら、海のきらいな人に多く利用された。 これは渡し船が桑名に寄港しないので、桑名にとっ 東海道を上って「七里の渡し」や「三里の渡し」 ては死活問題となる。そこで、桑名と四日市の間に 争いが起きたが、四日市側もそれなりの理由を主張 し、結局幕府は、「七里の渡し」を公認とし、「十七 上 海 里の渡し」を黙認とした。 昭和三十四年九月二十六日の伊勢湾台風で、道路み 美下ど川 八ロ も鉄道も寸断されて、三重県と愛知県との陸上交通 はる尾る 州のれ農あ 海 角もわはて の手段がまったくなくなった。そこで、四日市港と 東 三るい野の のすと平も 名古屋港との間に連絡船が運航された。まさに「十一 - 制 - る - なま 3 曾をと沃た 木濃を肥の里の渡し」の復活であった。 まわ た かんぶん

9. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

知多新四国八十八カ所霊場 第 1 番清凉山曹源寺 ( 曹洞宗 ) 第番尾風山泉蔵院 ( 真言宗 ) 第 2 番法蔵山極楽寺 ( 浄土宗 ) 第番井際山如意輪寺 ( 真言宗 ) 第 3 番海雲山普門寺 ( 曹洞宗 ) 第町番井際山持宝院 ( 真言宗 ) 第 4 番宝龍山延命寺 ( 天台宗 ) 第番禅林山良参寺 ( 曹洞宗 ) 第 5 番延命山地蔵寺 ( 曹洞宗 ) 第番護国山吉祥寺 ( 曹洞宗 ) 第 6 番万年山常福寺 ( 曹洞宗 ) 第番鶴林山大御堂寺 ( 真言宗 ) 第 7 番彼岸山極楽寺 ( 曹洞宗 ) 第番鵺林山野間大坊 ( 真言宗 ) 第 8 番上世山伝宗院 ( 曹洞宗 ) 第番鶴林山密蔵院 ( 真言宗 ) 第 9 番浄土山明徳寺 ( 浄土宗 ) 第番鶴林山安養院 ( 真言宗 ) 第川番福聚山観音寺 ( 曹洞宗 ) 第番亀嶺山海潮院 ( 曹洞宗 ) 第Ⅱ番光明山安徳寺 ( 曹洞宗 ) 第番曇華山法山寺 ( 臨済宗 ) 第貶番徳応山福住寺 ( 曹洞宗 ) 第番祥雲山瑞境寺 ( 曹洞宗 ) 第番板嶺山安楽寺 ( 曹洞宗 ) 第番乳売山報恩寺 ( 曹洞宗 ) 第凵番円通山興昌寺 ( 曹洞宗 ) 第番金光山来応寺 ( 曹洞宗 ) 第番龍溪山洞雲寺 ( 曹洞宗 ) 第番万年山玉泉寺 ( 曹洞宗 ) 第番鳳凰山平泉寺 ( 天台宗 ) 第圓番大光山安楽寺 ( 曹洞宗 ) 第番樫木山観音寺 ( 浄土宗 ) 第引番御嶽山高讃寺 ( 天台宗 ) 第番開運山光照寺 ( 時宗 ) 第番御嶽山洞雲寺 ( 浄土宗 ) 第四番前明山光照院 ( 浄土宗 ) 第番補陀落山大善院 ( 真言宗 ) 第番万松山龍台院 ( 曹洞宗 ) 第番世昌山宝全寺 ( 曹洞宗 ) 第幻番天龍山常楽寺 ( 浄土宗 ) 第番神護山相持院 ( 曹洞宗 ) 第番御嶽山大日寺 ( 浄土宗 ) 第聞番八景山中之坊寺 ( 真言宗 ) 第番意竜山蓮花院 ( 浄土宗 ) 第番松尾山一一一光院 ( 時宗 ) 第番慶亀山徳正寺 ( 曹洞宗 ) 第番龍王山宝蔵寺 ( 真言宗 ) 第 % 番法輪山円観寺 ( 天台宗 ) 第番宝苑山慈光寺 ( 臨済宗 ) 第 % 番龍華山彌勒寺 ( 曹洞宗 ) 第間番摩尼山地蔵寺 ( 真言宗 ) 第番天竜山誓海寺 ( 曹洞宗 ) 第番金照山大智院 ( 真言宗 ) 第番浄光山永寿寺 ( 浄土宗 ) 第番白華山慈雲寺 ( 臨済宗 ) 第四番大悲山正法寺 ( 天台宗 ) 第番雨宝山正法院 ( 真言宗 ) 第番宝珠山医王寺 ( 真言宗 ) 第番雨宝山密厳寺 ( 真言宗 ) 第引番宝珠山利生院 ( 真言宗 ) 第番雨宝山誕生堂 ( 真言宗 ) 第番宝珠山宝乗院 ( 真言宗 ) 第間番雨宝山如意寺 ( 真言宗 ) 第番宝珠山北室院 ( 真言宗 ) 第行番雨宝山浄蓮寺 ( 真言宗 ) 第番宝珠山性慶院 ( 真言宗 ) 第爲番宝泉山福生寺 ( 真言宗 ) 第肪番神光山成願寺 ( 曹洞宗 ) 第四番白泉山妙楽寺 ( 真言宗 ) 第番天永山遍照寺 ( 真言宗 ) 第番海嶋山栖光院 ( 曹洞宗 ) 第番魚養山大光院 ( 真言宗 ) 第番巨渕山龍蔵寺 ( 曹洞宗 ) 第番龍門山正法寺 ( 曹洞宗 ) 第番雨尾山観福寺 ( 天台宗 ) 第番金剛山医徳院 ( 真言宗 ) 第番待暁山彌勒寺 ( 真言宗 ) 第鬨番普門山影向寺 ( 曹洞宗 ) 第番瑞雲山玄猷寺 ( 曹洞宗 ) 第料番松原山西方寺 ( 浄土宗 ) 第番慈悲山清水寺 ( 浄土宗 ) 第番瑞岸山天龍寺 ( 曹洞宗 ) 第番大悲山観音寺 ( 真言宗 ) 第番大慈山岩屋寺 第番鷲頭山長寿寺 ( 臨済宗 ) ( 尾張高野山宗 ) 第圏番瑞木山円通寺 ( 曹洞宗 ) 第料番管生山大宝寺 ( 曹洞宗 ) である。先端に国の天然記念物に指定されている墓がある。隣接して、頼朝によって建久元年 だいぼう 「ウバメガシの群生地」がある。 九し創建された野間大坊 ( 五十一番 ) があり、義 えとき 西海岸に回ると愛知県随一の漁港豊浜港がある。 朝暗殺の模様を語る絵解がなかなかおもしろい。野 あじのすむすさ もち 沖合漁業を中心とし水揚げ高も多い。「味乃住渚沙 間の東の内扇地区には正月に餅を食べない風習が残 そう のいりえのありそまつあおまっこらはただひとりのみ 乃入江荒磯松、我乎待児等波但一耳」と万葉の相 っているが、これも義朝が空腹のあまり餅のできあ もんか おこわ 聞歌にもうたわれ、古い歴史を残す集落である。山がるのを待ちきれず、手づかみで強飯を食べたこと いわや 海地区の岩屋寺 ( 四十三番 ) には国指定の「金銅法からきているといわれている。 ぐ だいぞうきよう よう一よう とこなめ 具類」「大蔵経」があり古い営みを示す静かな札所 北の常滑市は窯業の大産地である。高い煙突が でもある。 林立し、古くから常滑焼として全国に名をはせてい うつみ 内海地区は、愛知県下有数の海水浴場で、夏とも る。知多郡の丘陵部一帯は常滑層の粘土を用いた焼 なれば、さしもの広大な白砂青松の砂浜は、若者のき物が有名で、鎌倉期の古窯跡が無数にひろがって おのうら 青春賛歌でいつばいになる。隣接する小野浦 ( 美浜おり、常滑市陶芸研究所には、古窯の発掘品が常設 のまみはま あの こさっこうさん 町 ) は、内海、野間 ( 美浜町 ) とともに尾張廻船の展示されている。阿野地区にある古刹高讃寺 ( 六十 寄港地である。開国の陰の力となったモリソン号事一番 ) は、県指定の文化財が寺宝として保存される 件の主人公の音吉、岩松、久吉は、この小野浦の水古い歴史を刻む静かな寺である。 おわり 夫たちである。良参寺 ( 四十八番 ) には、宝順丸の 常滑市の北端、大野地区の海岸は尾張藩主の潮湯 遭難によって死亡した一四人 ( 三人を含む ) の墓石治場として古くから有名であったが、この世界最古 が残されており、参詣者、研究者などが跡を絶たな の海水浴場も近年の名古屋南部臨海工業地帯造成の ゝ 0 影響を受けて見るかげもない。 知多市には一四もの霊場がある。漁業や農業中心 歌 世界最古の海水浴場 の小村が合併して市制をしいた新しい市だが、近年詠 きよもり へいじ る 野間は、平治の乱で清盛に敗れた源義朝が伊勢よ は名古屋港域の一部として、また名古屋市のべッド れ おさだただむね 流 り逃れ来て、長田忠致に湯殿で暗殺された地であタウンとして著しい人口増加をみた。民俗資料館は 路 おおみどう こだち 多 る。大御堂寺 ( 五十番 ) には、「小太刀の一本さえ当地方最新のもので、国の民俗資料として指定され あれば」と無念の憤死をとげた義朝の霊をとむらうている打瀬漁関係の民俗文化財は一見の価値があろ ほろ・きよういんとよノ かのように木太刀にかこまれた宝篋印塔の義朝の とよはま うたせ よりとも けんきゅう

10. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

で、勅命を受け高光が退治した。そのとき、ふもと 印を打ち税を取るなど制限が厳しかった。市場へ出 ほらど くだ にそれぞれ神社を創建し、それが武儀郡洞戸村の高す材木は、冬季、長良川などを利用して下げる管流 賀神社、美濃市片知の金峰神社、また郡上街道筋に しにより今の美濃市立花に集め、そこでいかだに糸 点在する八幡町那比の本宮・新宮神社、美並村の星み岐阜、名古屋方面へ出した。 宮神社などであると伝えられている。高賀信仰は、 耒地が少ないこの地では、ヒ工、ソバなどをナギ 鎌倉町代から室町時代初期にかけて盛んだったが、 畑 ( 焼き畑 ) を開いて作付けし、また山での木の これは局地的なもので、白山信仰ほどの広がりはな実、山菜、キノコなども貴重な食糧源であった。 っ , 」 0 「栗の実は農民たち三カ月分の飯米」という内容を だいはんにやきよう しようきよう 那比新宮にある大般若経の奥書に「正慶二年記した嘆願書も残されているほどである。とにか くすのきまさ、しげ・ だいとうのみや く、このような貧しい民衆の生活に重くのしかかっ 一一一一 ) 二月、楠正成が金剛山で、また大塔宮も合 ねんぐ 戦中である」といった記入もあり、郡上の地に中央てきたのが過重な年貢であった。 での争乱の模様がストレートに伝わってきたことが その反発が百姓一揆となって表面化した。うち最 かなもり うかがえる。おそらく、諸国を巡回する修験者らに大のものは、時の藩主、金森家を断絶に導き、多く ほ、つれき よって伝えられたのであろう。 の農民が処刑された宝暦の郡上一揆 (l?) であっ べっとうれんげぶ 高賀神社やその別当、蓮華嶋寺、那比本宮・新 宮、星宮などに数多くの文化財があり、うち那比新 にぎわう郡上の徹夜踊り 宮は、二四七面もの懸け仏があることでも有名であ 一方、五穀の豊作を祈念、また豊作感謝の祭り は、山国だけによりひたむきにつづけられてきた。 、 : 貳い【物重い年貢に命を張った郡上一揆 そのトップが一月六日に行う白鳥町長滝白山神社の 郡上郡は九〇パーセントまでが山村で、耕地はわ花奪い祭りである。拝殿の天井に下げられた造花 ずか四パーセントに過ぎない。 このような狭い土地 を、人ばしごを組んで奪い合う祭りは豪快で、奇祭 ようさん に現在、約五万三千人が住んでいる。 として知られる。この造花は養蚕などの縁起物とさ 木材どころではあったが、藩政時代は杉、檜などれており、またこの日、平安時代の形式を残すとい ちょうじ う延年舞も奉納される。 は停止木で、勝手に伐れなかった。また総山 (}(& みようがたかのみず といえども、藩から役人が出向き、切り株に極 白鳥町中津屋の嘉喜踊り、明方村寒水の掛踊な をいい「い、すいし 1 、 0 を堅二を ひのき くり ′」こく