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検索対象: 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道
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1. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

第朝 0 不破の関ーー近江と美 農の国境に近い古代近 江朝廷防衛の要地。壬 申の乱のとき、大海人 皇子は、 , こから近江 に撃って出た。 おうち しくつも残されている。 この険難を示す文章は、 ) この阿知駅に会地関の跡の叫しがある。この幻 たいらのまさかど よりざね しんごしゅういわかしゅう 関所は平将門の乱 ( 天慶の乱 ) のとき設けられたと 『新後拾遺和歌集』の源頼実の歌に もいわれるが、それより古く八世紀初めの和銅年間 雲もなほ下にたちける桟の のういんうたまくら に設置されたと推測される。『能因歌枕』に 遙に高き木曾の山道 信濃路やそのはらからを見る人は の一首がある。木曾の山々のそそりたっ岩壁の崖 さんどう に鉄鎖を設けて桟道とした命がけの険要の道をよく 会地の関は越えぬものかは ( 衡 ) しまさらに いなと思ひし道あれど 伝えている。 づりよう また『今昔物語』に出ている有名な「受領は倒る 君に会地の関ぞうれしき ( 「橘為 という会地関をよんだ歌があり、当時、旅人ばか る所に土をつかめ」といった一一 = ロ葉で知られる話の中 のぶただ に、藤原陳忠が信濃守としての任を終えて、都へ帰りでなく、逢うと会地にかけた歌枕の地としても広 みさか く人々に知られた関の一つであった。 る途中、神坂峠 ( 御坂峠 ) で、橋をふみはずして転 てんりゅう 阿知駅からは天竜川・伊那往還 ( 三州街道 ) に沿 落したので、郎等たちは、主人は死んだと思ったと いから ころ、谷底から叫び声がするので家来たちが綱で籠って溯上し、阿知から、三里にして育良駅、 かたきり を降ろすと、籠に乗って平茸をいつばいかかえた主叫里にして賢錐駅 ( Ⅱ 上伊那中 ) 、五里にして宮田駅 上伊那郡、 人が上がってきた。郎等らは「これはどうしたわけ ) 五里にして深沢駅 (æ韜 0 、四里にして ( 宮田村 かかし か」と聞くと、陳忠は「平茸がたくさん生えていた覚志駅 ( 丘 塩昿 ) を経て信濃の国府松本に至ってい あまさかあま す る。また、深沢駅あたりから諏訪大門峠・天坂 ( 雨 ので見棄てがたく、まず手の届くかぎり取った。ま こうずけ ぎかい だたくさん残っている。損をした、受領は倒るる所境峠 ) を経て佐久郡に出て碓氷峠から上野国に入 に土をつかめ、と言うではないか」と言った話である道も開けていた。 東山道の古代の関は、この会地関のほか、山城と る。これは、国司が私腹をこやすのに熱心で、ころ んでもただでは起きない、ふんだくり強欲精神を示近江の国境に逢坂関、美濃の不破関、信濃と上野国 す話として知られている。この話の中にあるように境の碓氷関がある。不破関 ( 国司という多くの人に守られた高位の者の行旅の場 鬱を当福井県 ) 敦賀礼とならぶ三つの重要な関の一つと 合でも一歩誤れば、谷底へ転落という危険な道路でして知られている。 じんしんらん あったから、一般旅人には、さらに危険度は高かっ 不破関は、壬申の乱の翌年に設置さ えんりやく たであろう。 れ、延暦八年八 ) に廃されたが、江戸時代まで ひらたけ おおさか

2. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

奥の細道むすびの地 色蕉は元禄 2 年春、奧 州の旅に出、大垣に 9 月 3 日に着き、 奥の細道の旅を終えた。 根性が成長した。 など、水害に対する人々の生活の知恵が輪中の風物 本流支流が入り組み、いわば大小の数多い川中島誌を形づくっていった。 めぐ があるようなこの地域では、廻らされた堤防、広が 平常の穏やかな川々では、多くの人々が漁業を行 う力い る堀田と水路、高い水屋や屋内につり下げられた舟っていた。なかでも、長良川の鵜飼が領主の保護の もとに続けられた。 場はえ住 岐阜の北、鵜飼荘の荘民が、鎌倉時代、東側を流 着り栄は 船たて物 れていた長良川の主流で鵜飼を行い、 魚年貢を納 のあ船建 あゆ のといる 湊人高あめ、朝廷へ鮎を献上していた。その下流の江口あた 揖の商、て 、このて台 りで、室町時代の末に乙津寺に宿泊した一条兼良が 垣国地燈 大諸た吉 鵜飼を見物し鮎を賞味したこともあった。 その後、主流が岐阜の」 匕側に移ると、鳥飼は長 良・小瀬で行われるようになった。織田信長 ( 四 ) は業者を鵜匠として遇する一方、多くの鮎を納 めさせた。関ヶ原戦後、岐阜・長良の地が幕府の直 あゆずし 轄領となると、鮎鮨が将軍に献上され、鵜匠も保護 をうけた。以来、鮎鮨は江戸城へ二昼夜以内に運ぶ 特送便で送られることとなった。そしてこの地が尾 張藩領に編入されたのちも、鮎鮨は江戸藩邸へ送ら れ、将軍に献上された。 みようじたいとう 鵜匠は、扶助を与えられのちには苗字帯刀を許 されるなど、藩の保護下におかれてきたが、納入すを る鮎の量が多くなると次第に人数は減少した。 当時すでに鵜飼はめずらしい漁法となっていた。 藩侯も観覧して楽しみ、岐阜を訪れた芭蕉もその風 青に興をそそられ、「おもしろうてやがてかなしき 鵜船かな」と詠んでいる。 ノ 5 ノ

3. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

もいう ) を渡った対岸が、墨俣宿で、起宿から二里 とた第望穴噛クい 新 ) 起の渡しから墨俣へ 一七町 ( 吶いしの地である。長良川、墨俣の渡し 美濃地に入って境川 ( / ト川ともいう ) の渡しを場の口元に、昔、五輪塔があったが、今は、近くの ときーあく 渡って、まもなく墨俣宿に入る。長良川 ( 墨俣川と 明台寺に置かれている。この塔を土地では、土岐悪 ′」ろう ・し十′十′ 五郎塚とよび、「おこり」 ( 病気 ) のとき、この塔を を目つれ 悪し人あさ 繩でしばると治るという。治ったときには木刀をあ 岐のに移 土のら所に 丿傍場寺 げてお礼参りをする。いまも伝えている風習であ 良のいの 長川安こ る。土岐悪五郎は『太平記』に出てくる大カ無双の 台はたき 明塚しつが 男のことであるが、この大力を借りて病魔を退散さ せるという呪術的慣習なのであろうか。墨俣宿につ いて『美濃国民俗誌稿』に 此地、封建ノ世ニアルヤ、藩々往復陸続絶へズ、 行客モ夥多ニテ、街頭妓楼ヲ置キ、ソノ淫利ヲ貪リ ( 下略 ) きようせい とあり、美濃路七カ宿のうち、もっとも嬌声で にぎわった。今も料亭が多く夜に入ると弦歌が川面 に流れている。 いちやじよう 宿の西側に「一夜城跡公園」とよぶ地域があ る。ここは永祿三年 (*l, しから九年にいたる四年の 間、織田信長と斎藤道三との激しい攻防が演ぜられ たさい、木下藤吉郎が三日で城 ( おそらく砦であろ う ) を造築した地とされている場所である。事実は 別として、三日という短期の間に砦を造築したかげ ふやく に、賦役として強制的に徴発され、抜身の刀を下げ た侍たちの監視のなかで、少しでもへたばったりな まけたりすれば、直ちに殺害されるという強制恐怖 墨俣宿入口一一一墨俣の 町は、今も昔の宿場の 第華を伝えるように よ , 夜に入るとにぎやかさ を取り戻してくる。 とりで ノ 45 ーーー武将たちの遺したもの

4. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

1 遥、、手らド、 .0 軽井沢の別荘第一号 現在は避暑地としてに ぎわう軽井沢も当時は 閑静てあり、別荘 1 軒 の購入価格は 50 円くら いだったという。 浅間三宿の天災 天明三、五、六年浅間山大噴火 寛政五年冷害 文化五、七年冷害 、八、九、十年冷害 天保四、六、七 これは天明から天保までの六二年間に浅間三宿がこ うむった主な天災である。これによって、当時三宿の 農民たちの生活は困窮し、日々の食物を得るために家 財道具を売り払い、あるいは質入れして借金をしたり した。そしてさらには、最も手つ取り早い方法として ばくち 博奕に手を出した。だが彼らは、あるいは虎の子の元 手を失い、あるいはいっそうのめり込んで田畑はもち ろん妻子までも抵当に取られて、あぶれ者からやく 館囲の ざ、そして凶状もちへ落ちて行く者もいた。 - 唱 - に殀る ス鹿樺自い 明治の作家長谷川伸は、こうした状況を取り入れて ウ。白のて ときじろう 業、沢し 笠開が井致 沓掛宿のあぶれ者時次郎を創作し、三幕物の戯曲に仕 三年り軽合 沢田作たと 立て、股旅物の名作の一つとなっている。 井治のれ景 軽明風ま風 メートル行ったところに「笑い坂」とよぶ場所があ地は軽井沢から沓掛 ( 中軽井沢 ) ・追分と、浅間三宿 しようしゃ り、これは、近在の若者たちが、この坂まで来て女にひろがり、カラマツの林の中に瀟洒な西洋風の 郎屋の燈を見てにつこり笑う所ということからの通別荘が点在し、夏季の軽井沢町の人口は、平時の約 十倍、十数万人に達するという。 称だと聞いた。 明治時代の到来とともに浅間三宿は衰退の一途を 文化の花開く岩村田の宿 たどったが、明治二十一年にイギリス人宣教師が軽 いわむらた 佐久平の中心地の一つである岩村田は、かっての 日本キリスト教会の庭に ) を建ててか 井沢に別荘第一号 ( 一 ら、国際的な避暑地として生気を盛りかえし、さら宿場町のおもかげを失い、ビルが建ち、アーケ 1 ド まの本町通りの東側 に戦後の高度成長、国民の中流化意識の中で、別荘の商店街へと変貌したが、い を第を第第一を 第をツ第第第第第当

5. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

熊野神社ーー碓氷峠の 頂にあり、この社殿の 中央が上野・信濃の国 境て、石段の前に国境 の標杭が立っている。 佐久の道ーーー佐久の自 然と人を愛し戦中戦後 を暮らした佐藤春夫は、 この横根地区て、名作 「佐久の草笛』編んだ。 人が、越えるであろう碓氷峠の旅の難をしのんで歌 三宿共に浅間が岳の腰に有りて、其地もっとも高 った歌である。峠を上り、その頂上にある熊野神社し、此三宿の間、南北半里ばかり、東西二、三里 はなはだし 、」、つず . け の社殿の真ん中が、上野国と信濃国の境目になって程、たひらなる広野あり、寒甚くて五穀生ぜ かるいざわ ひえそば いる。峠を越して半里 ( メ 約二じにして軽井沢宿にず、ただ稗、蕎麦のみ生ずる故、畠少し、又菜の 達する。 樹なし、民家にも植木なし、不毛の地といひつべし 、」よノ A 一うもと 碓氷の難所をひかえる軽井沢は、旅人の宿泊の要 といっていることによっても、紅燈の下、弦歌さ めしもりおんな 地でもあって、多数の飯盛女や茶屋女たちでにぎ ざめく宿場のにぎわいとは別に、「不毛の地といひ ほ、つれき わった。宝暦十一年 ( 一しの記録では、人口が男五つべし」ところでの暮らしは、きびしかった。 九五人に対し、女八〇九人と、女性の数が、はるか 煙たっ浅間山の雄大な眺めや、太陽とオゾンにあ さんろく はたごや に多いのは、旅籠屋に抱えられている女たちがいたふれた冷涼の空気は、浅間の山麓に展開する軽井 からである。 沢・沓掛・追分の三宿の夏の季節の景物である。し みのおわりえっちゅうえち これらの女たちの多くは、美濃・尾張・越中・越かし、夏がすぎて秋立っころになると、浅間から吹 後の出身者であったという。 きおろす風は、山麓の暮らしを、いっそう貧しいも 旅籠屋の女たちのようすからは、繁華を推測させのにした。この浅間山は、たびたび噴火して災害を てんめい るが、多くの住民の生活は楽ではなかった。碓氷峠もたらした。天明三年 ( ←しの大噴火では、軽井沢 つぶ を越すと、しだいに気温が下がり、標高一〇〇〇メの家五一軒を焼き、八二軒を潰し、四八軒の家を破 ートル、八月の平均気温二一度の高冷地なのであ損したほか、畑を全滅させている。このときの降灰 ききん は、太陽をおおい、冷害をひきおこして大飢饉を招 る。宝暦三年 (RI) とある「軽井沢村差出帳」に は、この村の耕地について、次のように記してい ばしよろ・ 芭蕉の「ふき飛ばす石も浅間の野分かな」の 上畑三町一八歩 句で有名な追分宿は、 たんせ 中畑五町七反八畝一二歩 心よくても追分女郎衆浅間山から鬼が出る 下畑一六町六反九歩 この追分節によっても知られた宿である。この歌道 生産力の低い下畑が、六〇パーセントを越し、水の文句のように追分は、浅間三宿のうち最も飯盛女 かいばらえきけん 田はまったくなかった。貝原益軒は『木曾路之記』 の多い宿場で、旅人のみでなく、近在からの若衆で わかさ くつかけおいわけあさま のなかで、軽井沢・沓掛・追分の浅間三宿についてにぎわった。追分宿の分去れから中山道を五、六百 この その このみ

6. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

0 妙興寺勅使門ーー - 貞冫台 5 年 ( 1366 ) 後光厳天皇 の勅願て建立。室町時 代の遺風がよく残され ている。 る。城跡には、人の背たけほどの高さの「清洲古城絶な晴の日の祭宴である。 こくが い趾」とある石碑が立っているが、訪れる人もなく、 このあたりの稲沢市内には、国衙・国分寺の跡が 歴史の非情を感じさせる。 あり、かっての律令国家による尾張支配の中心地で あった。 おざわ 第清洲から稲葉ヘ一里半 稲葉宿は、稲葉村と小沢村の一一つの村で宿役を負 担していた。宿の状況を『尾張徇行記』は、次のよ 清洲宿を出て稲葉宿まで一里半 (f*-(2 なづか に、長束村翁か稲 ) がある。ここは、豊臣秀吉五奉うに伝えている。 行の一人、長束正家の出身地である。彼は関ヶ原で 商売ハ処々ニョリ木綿ヲ買出シ、名古屋木綿問屋 みつなり みなくち おたい びわ 三成方について敗れ、近江国水口城に逃れて自害し又ハ下小田井・批杷島アタリ仲買へ送リッカハセ 約七・八キ、 、又油絞・酒造屋ナトモアリ、又諸商ヒヲスル家 ロメートル た。ここから二里 ( ) 余り離れているが、浅 ましだ モ数戸アリテ繁昌ナル市町ナリ。 野村翁 ) は浅野長政の出自の地、増田村翁稲 ) ながもり この記述からも知られるように、稲葉は、このあ は、増田長盛の出身地などといずれも戦国武将たち ようらん の揺籃の地であり、尾張平野が織田氏、豊臣氏を生たりの農村を商圏とする在郷町で、木綿を近在から み出した歴史的背景をうかがい知ることができるで買い出して、名古屋の木綿問屋や近在の仲買商人に あろう。 売ったりする商人たちでにぎわった町である。 稲葉宿へ向かう街道の右手に大きな鳥居をみる。 明治一一十年に稲葉と小沢の両村が合併して稲沢村 おおくにたま これが、このあたりの代表的大社「尾張大国霊神 となり、やがて稲沢町から戦後に稲沢市となった。 こうのみや 社」で、俗に国府宮で通用している。この神社は、 宿駅の古い姿は、よく残っているが、周辺の姿は、 なおい うっそう 毎年正月十三日に行われる儺追神事、いわゆる「国一変している。かっては、森があり、鬱蒼たる寺社 はだかまつり 府宮の裸祭」という奇祭で知られている。この があったが、今は、そうしたおどろおどろの情景は 日、午後ころから尾張各地から集まった若者たち姿を消し、鉄筋コンクリートの高層大住宅群が、立 が、神男を中心にふんどし一つの裸で激しくもみ合 ち並ぶなど都市化が急速に進み、名古屋のべッドタ 、壮絶な男たちの熱気におおわれる。もみ合う裸ウンへと変質しつつあるようである。 みようこう の男たちの群れのなかにバケツの水が上からかけら 稲葉宿をすぎて間もなく、路の右手東方に妙興 れ、それが瞬時にして湯気となって寒中の空に立ち寺の森を見ることが昔はできた。この寺は尾張にお りん のばる。民衆のたくましいエネルギーの奔出する壮ける大寺の一つで、長島山妙興報恩禅寺といい、臨 国府宮の裸祭ーー儺追 神事の裸祭りて奇祭と して知られ、数万人の 人出てにぎわう。楼門 は室町初期のもの。 日 740

7. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

せとものの絵付け 機械化ばやりの昨今、 心をこめた手描きの絵 ま、昔ながらの素朴 な暖かさを感じる。 窯煙一千年 " 瀬戸ものあふるさと 中部地方の代表的なやきものとしては、愛知の瀬のである。没個性的と言ってしまえばそれまでだ とこなめやき みの が、それらがすべて「瀬戸もの」なのであり、この 戸、常滑焼、それに岐阜の美濃焼がある。 せゅうとうき 瀬戸は平安末期に興り、鎌倉室町時代に施釉陶器大窯業地の歴史の厚みとあらゆる技法を駆使する幅 かま を焼いた唯一の窯である。常滑も平安末期に始まるの広さを、そのままそれらの品物が物語っている。 むゅうすやき つぼかめ が、一貫して無釉の素焼の大壺や甕などを焼きつづ 陶磁器の代名詞は東日本では「セトモノ」、西日 しのおりべ けた。美濃は桃山時代に志野や織部などの名陶を生本では「カラッモノ」である。それぞれ庶民がもっ んだ。いずれも現代においてもなお盛んに窯煙を上とも親しんだやきものの大量生産地である瀬戸と唐 ようぎようち げる日本の代表的な窯業地であるが、ここでは瀬津からきている。しかし圧倒的に一般化したのは、 戸に焦点を当ててみよう。 やはりセトモノの方であろう。 ゅのみしがらき ありためしぢやわん 益子の湯呑、信楽のタヌキ、有田の飯茶碗も、み 瀬戸を歩いて んなセトモノの名で片付けられてしまう。ホウロウ 瀬戸の町中を流れる瀬戸川の水は白く濁ってい をセトびきとさえ呼ぶ。愛知県北部の山あいのこの る。銭湯のくすり湯を思い起こさせるこの白い色町の、一千年に及ぶ歴史がセトモノを陶磁器の代名 は、周辺から流れこむ陶土によるものだ。両側に立詞にしたのだ。 めいてつ ち並ぶ店には、やはり陶器店が多いが、店頭をのぞ 名鉄瀬一尸線の尾張瀬戸駅から瀬戸川沿いに上流へ そめつけ かまがみ いて見ると陶器あり磁器あり、鉄釉あり染付あり赤向かって七、八分歩くと、左手の丘が窯神神社であ 絵ありといった具合で、あらゆる種類の日用陶磁器る。作陶というのは最後は火まかせだ。一三〇〇度 ありたはぎびぜん まき がぎっしり並んでいる。これは有田や萩や備前とい を超える窯の炎の中へ人は入れない。薪をくべ炎の った陶業地とは大いに異なる特色で、有田ならいわ色を見ながら人々は祈るのである。そんな瀬戸の いまり ゆる伊万里磁器、萩は萩焼、備前は備前焼一辺倒な人々の心を表徴する窯神神社の社殿は昭和三十一年 おわり 出川直樹 工芸評論家 ノ 2 イ

8. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

房はれん・ 1 、円後堂申 収田 ( ミソ ) ・・恵に台蔵関 えはう屋・・さ 2 一ろ ( こしご ) 船仮造・ のこや ( 甘咊 ) ・・ス田屋新館 は可 ( ミソ ) ・夫野屋 ( 0 つじ ) 版圃祠 大正洞 , ・当ま堂 5 んっ ものき・斉展館 陶器第光堂・甘咊大野屋 き田 ( ソバ ) 厥館阪ロ屋・一【陶畚秋 神お屋お蔵。・旅館回 高山取会一・飛騨新 ( 咊 ) 義井美 ・藤爪彫 氏館 羽根氏天館・・民芸孳」づ ・芸み D は ハお、 館 末広 昭相 市 + 亠館 護国 。白川都へ 胛明鉀 ハ焼窯ー 照宮@ 国宿舎飛騨■ 花望岡呂@ →円空仏 ①日 . ⅸ神杠 美濃路は、太田の渡しをすぎると、 鵜沼、加納の宿を経て長良川に出会 う。合渡の渡しといわれたところで本美濃紙の和紙で知られる美濃市 は、美濃太田から、越美南線で行く。 昔、長良川沿いに北に向かってのび る郡上街道への奧の入口となったと ころである。 手漉き和紙は、厳しい冬の寒さと、 ーの水が命。 この地が和紙の 冷たい月 1 生産地として世に知られたのは、室 町時代だが、大宝一一年 ( 七〇一 I) に へある。鵜飼で有名な長良川には、橋は、わが国の戸籍用紙に使用されて カかかったが、長良川には、今も木いる。楮繊維だけを原料とする和紙 下・船が残る。もちろん、昔のような大は、むらなく絡みあい、陽の光に透 役を果たしているわけではないが、 かしてみると、柔らかい美しさをも 木船は長良川にとてもよく似合ってっている。 美濃市の北にある和紙の里 ( 蕨生 ) さらに歩くと、もう一つの川に出では、今日でも手漉きによる和紙を 会う。それが揖斐川で、手前の宿が作る人たちが多い。豊かな緑と長良 みえし 美江寺宿。長良川と揖斐川、それに 川にそそぎ込む支流のほとり。とろ 大小の河川が入り組んでおり 、河渡みのある紙科液を簀桁の上で漉く音 と美江寺は、〃ー ーの中の宿〃のような がカタン、カタンとかすかに響くよ ものだった。昔から度重なる水害にうだ。和紙が生まれるまでを担う熟 悩まされたという。付近の民家は石練者が、黙々と手を動かす。美濃紙 垣が高くつまれ、この地の特性を物 語っている。水田と果樹園がひろが 今作 る景色に、宿駅のもの悲しさを感じ , ー で和 俗させる地である。 漉 騨 長良川にかかる呂久の渡しを過ぎ , 田亠に 杭瀬川を渡るとやっと、赤坂宿。道 のらる は、垂井、関ヶ原、今須を通って、 紙がい 和なて どうやら中山道美濃路を過ぎる。 を第影第第をを 郡上街道を北に わらび

9. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

善光寺への道 田と寺 武川光 と曲善 后 9 ) 卞 ~ 市た 謙、地っ 彡は倉 上島穀い 中、争 川ての た点て 戦っ流っ 古較合ぐ がのめ 中玄川を 川信犀平

10. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

美濃紙干し一一一江戸時 代、美農 11 郡 1 % ケ村て 生産され、大矢田 ( 美濃 市 ) て紙市が立ち近江 商人が諸国に普及した。 、ミまミ、さ、、ミミゞ。きドごミトミ 木曾川のへたか舟 木曾川の舟運は、木曾材の川下げの合間をぬって 行われたので、はじめはそれほど発達しなかった が、川下げが冬に行われるようになり、また、農民 の商品生産が発達するにつれて、大きく伸びていっ かなやま くろせ いぬやまおお 上流の兼山 ( はじめ金山 ) ・黒瀬、中流の犬山・太 うぬまかわだきたがた たかわいかつやまおおわき 田・川合・勝山・大脇 ( 土田 ) ・鵜沼・河田・北方・ っしまさや えんじようじかさまっ おこし 円城寺・笠松、下流の起、支流の津島・佐屋、木曾 し・もあ・そう みなと ひだ 川に合流する飛騨川の下麻生などの湊 ( 港 ) ・河岸が 発達した。 ながよし 兼山は、永祿八年 (*l&) 森可成 (— 一五八 ) が入っ て城下町を整え市を立てると、湊としても発達し、 くわな うんそう 以来、東濃地方の物資を笠松・桑名・名古屋へ運漕 のぼ し、塩をはじめとする諸物資を登せる (*() 拠点暮 となった。ことに、兼山の塩問屋が広い後背地への 塩販売を一手に握った。東濃・飛騨南部の山間地に 至る塩の道は、この湊を起点としていた。 しかし、江戸時代もなかばをすぎると、兼山の上 高牧實 心女子大学教授