奈良井 - みる会図書館


検索対象: 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道
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1. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

中山道木曾路 にえかわ 中山道の洗を経て贅川から、奈良井、藪原、宮ノ越、 一。田島、上松、彡 頁原、野尻、三留野、妻籠、馬籠の木曾 路となる。奈良井を過ぎると難所で聞こえた鳥居峠で、 この峠を越えるとお六櫛で有名な藪原を経て、宮ノ越、 そして福島に入る福島の関所は江戸と京の中問にあ たることから、ことのほか厳しかった。福島と上松の 間に御嶽山に登る道があり、それを過ぎると難所、木 曾の棧があった。妻籠、馬籠は島崎藤村の夜明け前 の舞台。木曾十一宿は山の道であり、樹木のふるさと であった。 木曾路の碑ーー中央本 線の贄川駅の北桜沢に 立っ碑て、「是より南 木曾路」とあり、往時 の旅人は山道に入る心 構えをした。 奈良井宿 「奈良井 千軒」といわれるほど 栄えた宿て、「猿頭 ( さ るがしら ) 」をつけた軒 の低いニ階家が、連子 格子とともに往時を偲 ばせる。 イ 2

2. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

奈良井の越後屋ーーー創第 業 190 年の歴史をもっ この旅宿の内部の隅々 には、時代の面影が / 農 く残っている。 講札ー一一妻籠の松代屋 の軒下に残る講札て、 さまざまな講の定宿て あることを示す、一種 の招牌 ( まねき ) てある。 3 奈良井の徳利屋ーーー - 細 格子や明り障子に洩れ る陽光。街道を見おろ すこの二階座敷に旅人 の哀歓が刻まれている。 い・ せきふだ いんと、つ むさばる者も出てくる始末で、宿場に淫蕩の風をも いまに残る宿場の面影 たらしたことは事実だ。そこで幕府は、飯盛女の数 の制限と服装の華美に対する禁令を出すようにな 木曾路で、いま最もよく旧態を残しているのは奈 る。だが、これまた厳守されることはなかった。そ良井と妻籠である。 ばくち とりいと、つげ・ふもと こで、安心して宿泊ができるよう″博奕をしない〃 鳥居峠の麓にある奈良井は〃奈良井千軒〃といわ きようほう 〃女を買わない〃〃酒盛りをして騒がない〃 そうれてたいへん栄えた宿場だった。享保九年 ( 一し ひょうぼう しゆく の記録によると、この宿には、三三軒の旅籠があ いう客だけを泊める宿を標榜して、組合組織がで ぬりものし り、これを中心にして、商家七軒、塗物師四四軒、 きた。その最初は、文化元年 (ä) に大坂で発起さ なにわこう れた浪速講である。加盟した宿屋は〃浪速講〃とい 檜物師九九軒、その他三六軒が両側に軒をならべて こうふだまねき う講札 ( 招牌 ) を掲げて旅人の目を引くようにし いた。越後屋は、百八十余年の歴史をもっ旅籠だ。 ひきだ た。これにつづいていろいろな講がつくられた。 黒光りする屋内の柱や、抽出し付きの階段、分厚い ついたて これらは一般旅客に関することだが、大名をはじ衝立、旅人の動静を伝える宿帳やその他の文書類 ばた め宮家・公卿・幕吏などの上流者の泊まる本陣とな そしてうれしいことに、代々この街道端で、旅 ると、旅籠などとは比較にならぬ大きなもので、 人をいたわり慰めることを身上としてきた旅籠屋稼 、」、」ろね 構えがあり、式台付きの玄関がある。内部には上段業の心根が、いまだに色濃くこの家に残っているこ ま さかばやし の間や控えの間があって堂々たるものだった。大名とだ。すぐ近くの軒下につるされている酒林も印 じようもん の泊まる日には、玄関に定紋付きの幕を張りめぐ 象的だ。これは杉の葉で丸くつくられた標識で酒屋 ちょうちん らし、高張り提燈をともし、本陣の主人は、裃姿を意味する。この古風な目印は、余所ではあまり見 しゆくはず ) だっ しとみど だ . し洋なり で宿外れまで出迎え、行列の先導をして本陣に案られなくなった。卯建をあげ蔀戸をはめた出梁づく てんぼう 内すると、上段の間にみちびく。百人以上のお供は りの中村家は、天保年間の建築といわれ、村の文化 それぞれ旅籠に泊まるが、それでも足りぬときは民財に指定されている。 しもやど と′、り・や 家に泊まった。こういうのを下宿といったが、参勤 数年前にあらためて店を開いた徳利屋のつくりも しゆくうち ちかまっ ) ) 0 交代のときの宿内のにぎにぎしさは格別だった。 ここには、かって島崎藤村も泊まり、近松 しゅうこう いずみきようか ほかの大名との差合いになることを避けるために、 一九四四 ・泉鏡花 ( 一ノ 一九三九 ¯) らも宿泊し れんじごうし 関札を掲げて、誰が宿泊するかをはっきり示すとい 連子格子のこまかい直線が美しいし、磨きこま はしごだん 一つことか行われた。 れた柱、時代を思わせる梯子段、壁にかけならべて さしあ ぶんか かみしも 8

3. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

木曾路はすべて山の中で そば ある。あるところは岨づた いに行く崖の道であり、あ るところは数十間の深さに 臨む木曾川の岸であり、あ るところは山の尾をめぐる 谷の入口である。一筋の街 道はこの深い森林地帯を貫 していた。 ( 島崎藤村『夜明け前』より ) 木曾路の石置き屋根ーーー - 木 曾・伊那・飛騨地方の民家独特 の屋根て、ヒノキ、サワラな どの皮て屋根をふき、風圧に 耐えるため重い石を来せる。 木曾路鳥居峠ーーー奈良井と藪 原の間にあり信 / 農川上流と木 曾川の分水嶺てある。昔は木 曾路第一の難所てあったが、 今は自然歩道になっている。 木曾馬籠と恵那山 - ーーー馬 籠から十曲峠を越えると 美 / 農路に入る。南に堂々 たる恵那山を仰ぎ、木曾 路の終わるのを知る。 立 ~ 【等斗 - ーをい

4. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

・■ 第■新 まねき すみよし だが、止むけはいもなく降りつづく雨に濡れたその あるさまざまな招牌ーー・御嶽講や住吉講の講札や、 わらじみち かた 道から、むかしの草鞋道を想像することは難くな 北越商人宿の文字もかすれかけている看板。また ゝ 0 "Hotel Tokuliya ごと横文字で書かれた明治初年の かぎ ますがた だいたい宿場の両端には、桝形と称する鍵の手が 珍しい看板など : : : 文明開化へのいちはやき脱皮期 を想定させるさまざまな資料がある。二階の部屋あるものだが、奈良井宿はとくに長い道筋なので、 の、通りを見下ろす畳に座して、雨そそぐたそがれ中間部にも鍵の手があり、高札場と水場を兼ねてい しゆくうち どきの街道風景をながめると、筋向力し冫。 ゝゝこよ、木曾る。宿内には五カ所の水場があって、冷たい水が でごうし こんこん いまなお滾々とあふれているのだ。二階の出格子の 特有の石置き屋根も見え、そぞろに覚える旅愁は、 現代のものではない。ゝ しまは舗装されてしまった道構えも古風でなっかしい。 ぬりぐしまきえぐし かって奈良井宿は、塗櫛や蒔絵櫛を製作し、木曾 みやげ 土産の上位にランクされていた。前記の中村家も、 どんや むかしは櫛問屋だった。だが、いま木曾漆器の中心 地とされているのは、奈良井宿と贄川宿の中間にあ ひらさわ ざい′」う る平沢である。ここはもと奈良井宿の在郷として、 うるし 漆塗りをやっていた貧寒たるところだった。それ がいま近代的な明るさをたたえて″漆器の町〃とし て隆盛をきたした最大の原因は、良材に恵まれた木 したじ 曾山中という立地条件のほかに、下地塗料に使う錆 っち ねんど 土といわれる粘土が付近から採取されることにあ ほ」り・ る。漆器にとって埃は大敵だ。したがって町なかは 埃をきらい、掃き清められ、家のなかはむろん拭っ きれい たように綺麗だ。 製の壁態る ろくぐし 木・りこ旧い 櫛といえば、〃お六櫛〃は木曾名産として有名だ 造まてて 子なれせ っ一」 0 み杦 9 、さ、、ら オこれは、奈良井宿から鳥居峠を越えた藪原宿籠 並出元え 家、、復が が本場だ。いまは旧道沿いの「大万木櫛問屋」の看 の樋えてみ 籠雨構べよ 妻の家すを板で知られる黒木半蔵店や、国道一九号線に近い おんたけ こうさっ ぬぐ

5. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

五平餅 - ー - ー御幣餅とも 書く。半搗 ( っ ) きのご 飯を団子にし、クルミ ゴマ・落花生・醤油・砂 糖のタレをつけて焼く。 お六櫛の工房 - ーーミネ バリを原材として作ら れる。今や藪原の特産 だが、本来は妻籠が発 祥の地といわれる。 0 〃ちょん髷の緑屋〃で売り出している青柳和邦店な に感じられる。 りようりよう きようわ ど寥々たるものだ。古い宿屋といえば、享和二年 もちろん、復元家屋だけがならんでいるわけでは おおたなんぼしよくさんじん ない。桝形の一郭には、ほんの一部に手を加えただ (8 「 ) に大田南畝 ( 蜀山人、一七四九 一八一一三 ) も泊まったこ なぎそ とのある〃米屋与左衛門店〃が、むかしの看板をそ けの古い家があるし、いま南木曾町郷土館となって おくや のままに旧態を保っているのが印象的である。 いる脇本陣奥谷 ( 林家 ) などは、明治初年の建築そ のままである。この家には、藤村が『若菜集』で歌 旅する人びとの恩情 った " 初恋。のモデルに擬せられる大脇ゅふ ( 宿大 とっ かぶき さて、〃町並保存〃を宣言して、明治初年の旧宿 ゝゝこま、最近冠木 見女 ) が嫁いできている。筋向力し。冫 もん 場の景観を保ちつづけようと、地元民の熱意に支え 門が復元された本陣跡がある。ここは藤村の母の生 た られて復元作業に起ちあがったのが妻籠宿だった。 家で、のちに次兄広助が養子に入った。 そのかみしの さすがに古昔を偲ばせる格調と整斉さがある。それ 昔も今もそうだが、宿場は旅人の落とす金で成り はまるで、映画のセットのようだといってもいし 立っている。その代わり、昔は、旅人をいたわる温 まれびと たび た それに対して奈良井は、古い建物がかなり残ってい い目と心で客人を送り迎えした。〃 旅〃とは〃給 たま ながら、それらの間に、生活に順応しつつ変化したび〃である。旅人は、多くの人びとの恩情を給わっ 新建築がはさまっている。それだけに、妻籠のびつ て、はじめて所期の旅を成し遂げることができた。 しりと軒をならべたたたずまいに比べると、古風さ宿場の人びとと旅の人びとの間には、こうした心が は劣るかもしれない。しかし奈良井には、現に生き暗黙のうちに通い合っていたはずである。宿場の面 て機能している集落としての人間臭さがある。妻籠影を復元し、それをだいじに保持しているこの郷 は、もともと観光客相手の民宿と土産物で生業をた に、真の意味での交流が再生してほしい。 旅人は、 てられるように整備されたところだ。 , 復元されて間 ただ見せ物を好奇的にながめて過ぎるだけではなく もないという時間の新しさが、見せ物的好奇心の対〃昔〃をそこから味わい取ってほしい。十年、十五 しゆく 象という感を免れない。しかしそれは、これから先年という年季奉公に縛られて、飯盛女としてこの宿 の長い時間が、徐々に解決してくれるであろう。雨で骨身を削った多数の女性のいたことにも、思いを うだっ 樋はすべて木製に規制したり、みごとな卯建があげ致してほしい。 あの格子や、この格子のかげで、女 しようじ られていたり、千本格子と白い障子の取り合わせな の哀歓がくり返されたのだと想像してみてほしいの ど、すみずみにまで神経を配っている心意気は十分である。 なりわい あま さと 8

6. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

中山道火十七次 越 後 飛 中山道分間延絵図からく福島宿 > ー : : ー中山道 中山道の宿駅 ◎東海道の宿駅 の数字は天保年間の宿駅 の旅籠の数を示す。 関所 国の界 ー県の界 (30) 白根山 越 中 上 野 榛名山 坂本 軽井沢幻 浅間山 板 倉 ( 54 ) 野新 ( 33 ) 町 ( 43 ) 本庄 (70) 松井田は 下 野 沓掛い 7 ) 芦追分 ( 35 ) イ言長久保 ( 43 ) ( 6 ) 和田 ( 28 ) ( 29 ) ( 75 ) 訪 奈良井宿の旅籠 碓井峠 中﨑 穂高山 小田井 岩村田 塩名田 0 八幡 望月円 深谷 ( 80 ) 熊谷 ( 円 ) 和田峠 乗鞍岳 本山 ( 34 ) 賛川 ( 25 ) 奈良井 ( 5 ) 藪厚い O ) 宮ノ越 ( 2 い 鴻巣 ( 58 ) 桶川 ( 36 ) 上尾 ( い ) 大宮 ( 29 ) 浦和い 5 ) 蕨 ( 23 ) レ夜 ( 54 ) 江戸日本橋 八ヶ岳 鳥井 福島ロ 4 ) 駒ヶ岳 上松 ( 35 須原 ( 24 ) 野尻 ( 円 ) 三留野 ( 32 ) 妻籠 ( 3 い 馬籠ロ 8 ) 落合 ( は ) 白根山 △ ( 北岳 ) 川 川 甲 当三石てる ま 0 、破 ~ へ都ー・ 第田宀当歹第ー 小ま千 冫辰 (30) 冫ロ ( 28 ) ( 25 ) 美江寺凵 醒ケ井 井 ( 29 ) (20) 凵 ) ( 22 ) 鳥居本 5 ) 番鬚 場い 3 ) 原 ( 33 ) ( 24 ) 伏 ( 29 ) 近 富士山 珂 の 渡 納 4 ) ( 35 ) ロ 7 ) 愛 ( 23 ) 佐 ( 28 ) ( 23 ) 尾 張 京都一一一条大橋 草 ( 30 ) 中山道分間延絵図から ~ 追分宿 > ぃ 下諏訪宿 カロ 50km 中山道分間延絵図・一一東京国立博物館蔵 / 協力・東京美術

7. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

てそびえ立ち、山腹から裾野にかけては木曾檜の美政下にあって、住民の生業資材として年々藩主から ごめんしらき 林でおおわれ、壮厳な山容を誇っている。山麓には無償で給付される「御免白木」とよぶ木曾檜の割材 ゃぶはら 広大な緩傾斜の御嶽高原・開田高原が展開し、枝のを使って良質な木曾漆器を生産し、藪原・奈良井の おうたきみたけ ようにひろがる深い溪谷に沿って、王滝・三岳・開人たちはミネパリという木を材料にしてお六櫛とい あげまっ まきえぐし 田・木曾福島・上松などの村や町がいくつかの集落う木地のままの木櫛や、蒔絵櫛・塗櫛などの高級な をつくっている。 櫛を生産するなど、中山道による交通収入とともに 王滝村・三岳村・上松町は美林地帯で知られた木宿場町の経済の大きな支えとなっていた。 曾谷のうちでも、最も広大な面積を有する所で、三 それはまた町の人たちだけでなく、その周辺の農 あぶらぎ せと 岳の油木、王滝の瀬戸川、上松の赤沢は檜の美林と家の人たちも同じで、小規模ながら消費都市として かさ・・ . 、ぼく してとくに有名である。昔は春の四月になると、こ繁栄していた宿場町へ、家作木や屋根板などの建築 おの しんたん 一れらの山々から斧の音が響きはじめ、巨木を伐倒材や燃料の薪炭材を供給することによって大きく潤 あきやま 一し、枝を払って、やがて秋風がたちそめる九月に、 っていた。とくに明山しの雑木を原木とする / それらは山間を縫う支流の小川に落とされ、支流を薪木や屋根板は、歩く商品として経済的価値の高か こたにがり 小谷狩という方法で、川をせき止めては小ダムに った木曾馬とともに需要が多く、現金収入の対象で しゆら し、修羅という木材を並べてつくった滑走路を利用あり、山村でありながら早くから貨幣経済が流入 おおかわがり して木曾川本流へと運ばれる。これをさらに大川狩 し、比較的安定した生活を営んでいたものである。 といって、一本一本を水流にのせて流すいわゆる管 まさに父の山御嶽に象徴される木曾山と、母の川木 にし′」うり なが 流しの方法で下流へと送り出し、錦織という所か曾川の豊富な水と、太陽エネルギーとによって育て いかだ ら筏に組んで、木曾川の川口へと流したもので、 られた、無尽蔵ともいうべき山林資源のおかげであ くわな ロの桑名から船で江戸や大坂に送られ、尾張藩の大った。 きな財源となっていたものである。 木曾の御嶽夏でも寒い 尾張藩の宝の山であった木曾山は、またここに住 む木曾三三カ村三万人の住民の生計を支える命の泉 木曾の象徴御嶽というと、まず誰しもが真っ先に でもあった。山の民は山の幸によって生きるよりほ 思いうかべるのは、 なら かはない。宿場町の奈良井・平沢・八沢町 ( 福島 ) で 八木曾のナアーナカノリサン は、「檜一本首一つ」といわれた厳しい尾張藩の林 木曾の御嶽ナンチャラホイ 小谷狩 ( 大正時代 ) 小谷狩とは、奥地から 溪流を利用して木曾川 本流まて木材を運び出 す運材法てある。 木曾藪原の貯木場 中央西線に沿う木曾の 駅構内貯本場には、芳 香ただよう本曾檜の丸 太が山と積まれている。 さち 87 ーーー木曾の山とナカノリさん

8. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

を三気ー′ ぃ : 第し ~ ・をを 3 一 峠を越えた娘たち 出稼ぎのみち野麦街道 野麦街道と呼ばれるまで しんしゅうまつもと 近世中期、北アルプスを踏み越えて、信州松本 のむぎ ひだたかやま から飛騨高山へ歩く道に、「野麦道」と「飛騨道」 きよ、つほう . があった。享保九年 ( 一一しに書きあげられた『信 ほんみち 府統記』には、松本から高山への道として、本道 やまみち ( 野麦道 ) と山道 ( 飛騨道 ) がしるされている。 しおじり ″本道〃は、松本から南下し、いまの塩尻市から木 よりあいど ながわ ゃぶはら 曾郡に入り、藪原から奈川村の寄合渡・川浦、飛騨 国大野郡高根村野麦へとすすんだ。川浦から野麦峠 約六キロ、 レ ) 信飛両州の境に 一はしまでは一里半 ( メ ささ′」 は、西に野麦峠、東に笹子峠がある、と『信府統 = = ロ』はしるしている。つぎのよ , つなルートによる みちのり レ ) とみつ " 本道。の道程は、二八里一六町 ( 吶一」 1 キ もられている。 ′」うはら 松本ー一里三〇町ー村井ー一里一〇町ー郷原ー一里半ー洗 りさた白 にえかわ もとやま 吊難れ ( 馬ー三〇町ー本山ー二里ー贄川ー一里半ー奈良井ー一里半ー る険離る れのをめ ゅ山里深溪藪原ー一一里ー芝原ー三里ー寄合渡ー一里ー河原 ( 川浦 ) 、人を水 は、愁冠 三里ー野麦ー三里ーかみか洞 ( 上ケ洞 ) ー三里ーきびう 橋道り郷泉 りの語の温 吊橋を旅骨 ( 黍生 ) 谷ー二里ーかぶと ( 甲 ) ー一里ー高山 上條宏之 信州大学助教授 97 ーーー峠を越えた娘たち

9. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

の宿 中山 道旅籠 覧 で泊 直料 接金 電話番号 特徴 、は 北佐久郡望月町望月 江戸末期創業。旅籠以前の山城屋の歴史を示す遺品が陳列されている。 山城屋 026753 ー 2 田 4 お 問季 北佐久郡立科町芦田 金丸土屋 本陣の分家で、建物は 200 年余り。往時のたたすまいを残している。 02675 ー 6 ー田Ⅱ ロよ 岩屋本店 木曾郡木曾福島八沢 総檜づくりの部屋、箱階段、古い看板が目をひく。創業は江戸時代。 02642 ー 2 ー 2 田 5 わど 越前屋 木曾郡上松町仲町 旧中山道沿いに建ち、寝覚の床に近い。 350 年つづいた手打ちそばがでる。 026452 ー 2066 下よ 木曾郡楢川村奈良井 えちこ屋 ゑちこやと書かれた招き行燈が目印。伝統と格式を誇る木曾の名物旅館。 026434 ー 30 Ⅱ い異 米屋 木曾郡木曾村藪原 今日の建物は明治ロ年に建てられたが、慶長絽年い引 3 ) の創業。 026434 ー 2 田 9 ま 生駒屋 木曾郡南木曾町妻籠寺下 妻籠宿を象徴する招き行燈が有名。出桁造りのニ階から通りが一望。 02645 ー 7 ー 3 田 3 す 木曾郡南木曾町妻籠 松代屋 創業は天保年間。木曾の御嶽講社の招き看板保存で知られている。 02645 ー 7 ー 3022 く よ ちだ線 た い人 を は 冬 明す路 ス よ る う早 、は当 。真生 つがそ逃 し そ か る め く た あ 、信 寒 ッ外夏 建 れが き り た っ そ 回州 の眺取物 で し の と て く し と の は 台め い も 。女汗 の さ 女限 の 落 め り り と て て い し、 入 主 天 冬屋 主が さ ら ら り は る 人 ま 井 の根 人 。百 し れれ り 強 かん 天少 ひ を 北 は厳 がき 。井 扉 る て く ら と 年 っ し ク ) つ の 墅 あ 、感 い ま 宿か 卩欠 も 近 づ つ っ す 院 け を ど さ き る 都 し と ら 障 常 を 。ん 歩冴 の こ部階 の さ は だん お て 下 多 。ど物ろ 家 へ子庭 息せ 宿 っ カゞ け し で い つ く 語すれ の・、を 心 き け を と / しロ 吹 が る し、 て たす 旦爰〔 明抜賊切 っ風 ど き 旅 入ん ら の 金丸土屋の建築は税 ( うだっ ) けを絵を籠 歹戈 い る か る で 現 れ て る の がついており、・格式高い。 人 旅 さ 音真 と す 代 た く 通 欺 っ と い屋 グ ) し、 て広 籠 か招暮 溪 て江電現 さ 宿 ま 佰 木カ せ ス 尸話すな きれ だ生いて瞬 ら は ま な い 谷は本曾 し、 い 上 駒し 、明 る 行カゞ墨る る と 曾路好 か 分国保で森木川 。間格屋ま 江か燈え迫 を 。日月 ら 。ん ツ 子はう 尸 り る ク電時 鉄存 も林 回 と の 冫ロ 曾 の で が灯 ス柱代 と の の 中 央 異を妻 も がき面 情 宿美七 、が劇 オし て し、 山 井光開籠 これ . 占 緒 消 し い場 の 道線る . 町 道 る 出て流 が り け タ る と 火 本セ さ の 、す 宿 イ 図 桁し も こ南 なの を っ と 風器 こ .TT_ て ツ は連造 入木きが当尽木ォ 玄 を 凜冫 ! る ム た 情にな ト と廓関 わ 象 ス っ曾そ妻一時 が木 り よ を き い の し ) し下 こ徴 て駅 れ リ 私 格 籠この つ曾 っ 身オ る の たが入 た子軒 ( 。姿 路 る ッ る ま か い つ 中山道木曾路には、往時の面 く 落侍 る プ ち の先 ら妻そ る 十 る つ ま た の 影を残す旅籠が多い。写真は ちっ と 旅 さ を 窒にタ ハ 、、籠の で け 奈良井宿の越後屋。 っ着 こ村 を 薪ま落 く 心 . る と の た伝 て 佰 蘭 : た も 。統妻を き 息中のと をす な 兀 し と の そ る 的籠癒川 を で 初 の脇 つ山燃す 。ま歩 と っ と 兼 の も 恋建本 ( い道え恪 っ く 宿 し は。て い 有 の物陣 せを 逗 は て て る子 て と り る せ物備 名 人 る 住物 江 り い残音 の 、刻奥た む 群日〃 1 た 目 車 る る る 日 尸 しつ ロロ 現お つ人保 和 の 、何常時 ん た存五だはて格 籠 か私代 在 し 道 宿 ゆ で 冢 い式 屋 は場ち地十 い ろ み がた 、だ う何 る る く ち包 町 さ の 区 は よ る の が 代 営 ま こ年 がま っ み の ム 子 き が失 れ の が 々 郷嫁 島の 旅に旅 も た い の り え 去籠 確 か妻 保 い 崎歴 重 っ さ 冫月し のれオ さ を け籠 館だ藤史 か て 護れ 要 住所 旅籠名 ー第を第 一 4 物 ~ ド年一一せ 2

10. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

奈良井宿徳利屋のまね き一一正月に福神の到 来を祈る。商人の来客 繁盛を願う招き看板な どは、一昔前まてはど この商家ても見られた。 木曾駒ヶ岳ーーー木曾谷 と伊那盆地を分ける駒 ヶ岳の気高く鋭い気品 にかがやく山容は、見 あきることのない風景 てある。 ふれじよう ほこう′」し この触状が述べているように、ゝゝ し力なる大名と たが、東海道のような歩行越や渡海の難はなかっ いえども一日に一宿から二五人二五匹以上の人馬の したが . って、寒気のきびしい季節の中山道は、東使用の禁止であって、一宿に常置人馬二五人二五匹 としたのではない。大名たちへの使用制限令によっ 海道にくらべて、はるかに行旅の人々を苦しめた。 て実質的には二五人二五匹の常置人馬とすることに はだを刺す寒風が吹き、雪深い季節が、信濃をおお ひへい よって、木曾十一カ宿の農民たちの疲弊と困窮をお いはじめるころには、旅人も少なく、街道のわびし さは、いっそう深まった。 さえて宿制を保持しようとしたものであることが知 られる。 江戸時代の初めころには、中山道の宿駅の中に まれ つぎたて は、人煙も稀な寒村もあって人馬の継立にも困難を 古代の東山道 きたした。ことに、山深い木曾十一カ宿では、当初 とうざんどう 中山道は古くは、東山道とよばれる古代令制の官 から貧しく暮らしの余裕のない村人たちは宿役を勤 めることができず、しばしば宿役の軽減を幕府に訴道の一つであった。東山道は、正しくは「あずまの え出た。 やまみち」と読むべきであろう。この信濃を経て東 中山道の幕府公定の宿常置人馬は、五〇人五〇匹国に至る道は、古代にあっては、大和政権の軍事的 まんじ であったが、木曾谷の宿駅の問屋たちは万治二年政治的支配権確立の上で重要な動脈としての役割を (l?) 幕府に人馬供給の困難を訴えて認められ、万担ってきた。 近世の中山道につらなる古代の東山道について、 治四年には、木曾十一カ宿に限って二五人二五匹の たど おおよその道筋を辿ることから始めよう。 常置人馬とすることが黙認された。それは次のよう な内容である。 「大宝二年 ()\ 〇 ) 十二月、始テ美濃国岐蘇ノ山道ヲ ともがらつぎうま はなは 開ク」、これは『続日本紀』に出ている中山道に関 一、仼還の輩、継馬・継人足、近年甚だ多きに 0 」宿困窮 0 」 000 間、』国持大名す最初 0 具体的な記述あ。・れら一一年後 わどう りというとも、家中共に一日に継馬二五匹、継人足の和銅六年 ( 一一 ) 七月の項には「美濃・信濃二国の けんあい 二五人を過ぐべからず 堺は、径道険隘にして往還困難なり、よって吉蘇路 を通ズ」と出ている。この美濃と信濃の境は、木曾 であるが、木曾を通って信濃に達する路を、一一年 の年月をかけて建設したのであろうか。和銅七年二 さ力い 2