郡上踊り 町の辻々 て老若男女を問わず踊 りの輪を囃子 ( はやし ) 屋台を中にくりひろげ、 夜を徹して哀調をこめ た唄が流れる。 ネに祈り外りを踊る 道下淳 岐阜日日新聞社 郡上街道の人びと ぐじよう ながらがわ ひだ 長良川の上流にひろがる郡上地方は、美濃でも を経て高山市に出る街道で、飛騨街道ともいう。こ のやや趣が違っている。周囲を山でかこまれ閉鎖的な のうち岐阜市から八幡町までは、ほば国道一五六号 土地柄であることや、江戸時代を通じ郡上藩がほば線と重なり、長良川沿いを走るため、沿道の景色が 郡上一郡を治めていたことなどが、特異な風土を育見ものである。 しろとり かみのほ てたのではないだろうか。 郡上街道のうち、八幡町と白鳥町を結ぶのは上保 しようしらかわ 日本列島にまだ統一国家が誕生していなかったこ 街道。さらに北上して、飛騨の荘白川地方に入る あぶらさか ろ、美濃の中央部、長良川の中流上流地域に牟義都のが白川街道。また、白鳥町から油坂峠を経由、 いとしろ やまと えちぜん 国と呼ぶ地方国家があった。やがて大和朝廷の支配 石徹白方面に出るのが越前街道である。以上の街道 下に組み込まれ武儀郡となるが、郡の北、つまり長のうち、遠い昔から郡上を支えてきたのが白川、越 良川上流地方を分離して、郡上郡と呼ぶようになっ 前街道であり、上保街道、それに八幡町以南の郡上 た。武儀郡から分かれたのは斉一一年五 ) とされ街道といえる。これらの街道は信仰の道でもあり、 はくさん 白山へ登る信者たちによって踏み固められ、発展し ぶんめい 信仰のみち郡上街道 上保街道沿いにあった大和村、尊星王院の文明四 しようめい 郡上郡は長良川の本・支流沿いの道を中心に開け年 (lfi) の鐘銘 ( 刊本 ) によると、当時、すでに白 じようもんやよい た。その流域地方には繩文、弥生時代の遺跡も多山参拝者たちの多かったことがわかる。さらに戦国 く、また珍しい六世紀の七鈴鏡も最上流部の大和村時代には、白山参拝者を対象にした関所が設けら さかのぼ′ から出土している。畿内の文化は、川沿いに溯つれ、通行税を徴収しており、山深い郡上の街道に、 てきたわけである。現在、一般に郡上街道と呼ばれ関銭をとるほど通行人があったことを物語る。 はちまん るのは岐阜市から八幡町、郡上・大野郡境の坂本峠 これらの街道は、山を削るなどして現在は平坦部 みの ノ 6 イ
日本の街道 4 集英社 山なみ遙か歴史の道 信濃路木曾路伊那路美濃路飛騨路
第公餐ヾ あかずもん 藤村の畤碑は、水ノ手の不明門址の側にある。昭 和一一年 = ←幕されたも 0 で、藤村が勤めて」た小諸 義塾が城址にあった関係上、藤村はたびたび城址に 遊んだ。 「わたしは古城址に遊んで、君なぞの思いもよらな いような風景を望んだ。それは茂った青葉のかげか ら、遠く白い山々を望む美しさだ。日本アルプスの 谷々の雪は、ここから白壁を望むように見える」 「千曲川の スケッチ」 藤村は、城址から眺めた感想をこう書いている。 タ風が立っていた。秋のタ風であった。天守台に 立ち、あきることもなく眺めていると、まるで溶暗 のように白雪の日本アルプスがタ空の中へ消えてゆ こうとしていた。 すでに馬場には人影はなくなっていた。さっきま でうすばんやり見えていた千曲川も、闇の中へ沈ん でしまった。 タ風にのって、どこからか笛の音が流れてきた。 もの悲しい音色であった。古城の秋のタベにふさわ うわさ しい音色であった。私はそれが噂にきく佐久の草笛 だろうと思った。 あさまやま 振りかえると、いま浅間山が、月のないタ空に消 えるところであった。 上田の勇将 うえだ 小諸城に並んで上田城下がある。天正十一年 (l 49 ーーー武人興亡夢のあと
監修・児玉幸多 明治 43 年 ( 1909 ) 長野県に生まれる。 東京大学卒業。学習院大学文学部史学 科教授、同大学学長を経て現在、学習 院大学名誉教授・地方史研究協議会会 長・交通史研究会会長。著書『近世宿 駅制度の研究』ほか。 第 4 巻・責任編集・オ木英夫 大正 8 年 ( 1919 ) 愛知県に生まれる。 立教大学卒業。現在、立教大学文学部 史学科教授・東京都文化財審議会委員・ 豊島区史編集委員会委員長。著書『近 世農村工業史の基礎過程』ほか。 装幀・アルク : 高村光治 地図作製・実森光一郎 写真・青山のばる / 預幡真一 / 伊藤五十二 / 岩田恒雄 / 小原直久 / かえて、燿 / 風見 武秀 / 上條勝弘 / 清沢朝男 / 久我耕 / 斎藤芳弘 / 沢頭修自 / 実田謙一 / 白籏 史朗 / 須藤功 / 相馬一也 / 薗部澄 / 田 中芳男 / 丹地敏明 / 丹地保堯 / 塚本タ ケシ / 富田文雄 / 西岡日出美 / 花崎信 隆 / 増見芳降 / 松井久 / 宮野城弘 / 望 月久 / 森田敏降 / 山田裕三 / 山梨勝弘 / 横森見伊 / 渡辺まなぶ / 渡辺良正 / カメラ東京サービス / サンエイフォト / 水産航空 / 世界文化フォト / ダンデ イフォト / ボ、ンカラー / ュニフォトス ほかに執筆者提供の写真があります が表示は省略させていたたきます。 資料協力・愛知県東京事務所 / 石井謙治 / 大沢和 夫 / 学習研究社 / 岐阜県東京案内所 / 神津得一郎 / 小松克己 / 瀬戸市商工観 光課 / 善光寺 / 高橋誠一郎 / 高山市教 育委員会 / 武田神社 / 土屋写真店 / 手 塚明 / 徳川黎明会 / 長野県資料センタ / 長野放送 / 西ヶ谷恭弘 / 日本観光 文化研究所 / 日本交通公社 / 日本通運 ( 五十音順 ) 編集協力・小田利雄 / 萩田佐智子 / 渡辺一夫
日本磅野道ーーー -- -- 全 8 巻 ( 書名と責任編集者 ) ・印既刊 / 〇印は次回配本 第 1 巻風かけるみちのく仲野浩喆渡辺信夫 奥州街道羽州街道会津街道浜街道 学習学児玉幸多 第 2 巻江戸への道 東海道日光道甲州路水戸・佐倉道大山道 第 3 巻雪の国北陸木下良 北国路越後路能登路三国街道千国街道 ・第 4 巻山なみ遙か歴史の道翳林英夫 信濃路木曾路伊那路美濃路飛騨路 〇第 5 巻京への道諸矗原田伴彦 若狭路近江路丹波路大和路伊勢路紀州路 第 6 巻夢誘う山陽山陰大響谷口澄夫 山陽道吉備路安芸路出雲路長門路 第 7 巻海光る瀬戸内・四国山本大 遍路道金毘羅参詣道土佐路瀬戸内の海路 第 8 巻日燃ゆる九州 九州大学 助教授丸山雍成 筑紫路日向路薩摩路長崎路唐津街道 ( 56 年 4 月刊行 ) 著者代表ーー林英夫 編集者 株式会社日本アート・センター 東京都千代田区神田神保町一ー一五 電話ー東 ~ 足・ 2 9 4 ・ 3 8 91 郵便番号 101 発行者ーーー堀内末男 発行所 株式会社隹木英社 東京都千代田区一ッ橋二ー五ー一〇 電話ー販売部東京・ 2 3 8 ・ 2 7 81 出版部東京・ 2 3 0 ・ 6 3 81 郵便番号 101 印刷所ー - ー。ー共同印刷株式会社 製本所 中央精版印刷株式会社 製本には十分注意していますが、落丁・「乱丁の際はおとりかえ いたします・ ◎集英社 Printed in Japan 日本の街道 4 山なみ遙か歴史の道 昭和五十六年二月八日 第一刷発行 昭和五十六年一一月二十一日第三刷発行 03 幻ーロ 6004 ー 30
鉄釉四耳壺ーー一室町か ら桃山時代にかけて盛 んに作られた葉茶壺。 これは耳が縄状に成形 されているのが珍しい。 ノベリティー 3 種 欧米・中近東などへの 輸出品として大活躍の 飾り物は、瀬戸窯業の . を大黒柱のひとってある。 県道から百メートルほど入った木立の斜面に大切に 室町中期ころから世は戦国乱世となり、瀬戸の陶 保存されている。 業は不振に陥り、陶工たちの一部は美濃東南部へ移 このあたりから瀬戸大滝、岩屋堂など、渓谷美に っていった。桃山期の美濃は黄瀬戸、瀬戸黒、志 かみしなの とくがわよし 満ちた県立自然公園へ北上し、上品野を経て徳川義野、織部など日本を代表する名陶を産出し美濃陶器 じようこうじ なお びよう 直公の廟所である定光寺へぬける「東海自然歩の黄金時代をつくった。瀬戸はその間、細々と日用 こが、ま 道」は、若い人たちの声が谺する楽しいハイキング雑器を焼いていたが、江戸時代に入って政情も安定 コースとなっている。 し、各藩の大名が各々富国強兵策をとり産業振興を 図るにつれ、これに応じて離散していた瀬一尸の陶工 伝え伝えて窯煙一千年 も徐々に瀬戸へ呼び返され、租税免除や土地の提供 鎌倉時代に藤四郎が中国の陶技を持ち帰って瀬戸といった尾張藩の優遇策のもとに再び陶業は活発と よっこ。 の窯業が始まったというのが従来の定説であった が、実際には平安末期から無釉、あるいは灰釉を掛 ところがそのころ、九州有田で朝鮮からの渡来人 りさんべい いずみやま けた陶器が、隣接する猿投窯の影響のもとに焼かれの陶工李参平が泉山の地に良質の磁土を発見し、 始めたという説が最近有力になってきている。 わが国はじめての磁器製作に成功してからたちまち 鎌倉時代には器形も多種になり、中国陶磁を模し染付や赤絵で彩られた薄く丈夫で美しい磁器が日本 こうろぶつかきすいちゅう 有田近く た四耳壺、瓶子、香炉、仏花器、水注などが大量全土に普及していった。いわゆる伊万里焼 ( の積み出 につくられた。淡黄色の灰釉や黒褐色の鉄釉で覆わし港の名をとっ てこう呼ばれる ) の登場である。それまで一上流富裕 からくさ れ、唐草や魚文などの装飾で飾られたこれらの器物階級の独占物であった磁器は、この伊万里焼の登場 そう は、手本となった宋の陶磁に比べると日本的な柔ら によって庶民に浸透し、瀬戸のやきものは、まった ふうあい かい風合を持ち、愛陶家の憧れの的だ。 くこの新製品に圧倒され、藩は窯元に一子相続を発 室町時代に入ると器面の装飾は少なくなり、まだ令して実質上の生産制限を行ったが、衰勢は覆うべ らに掛かっていた釉面も平滑になって、灰釉の平茶 くもなかった。 年 碗や小皿などの実用的なものが多くなり、また当時 部厚くやばったい陶器ではだめだ、どうしても有千 ちゃいれ てんもく よ・はう . の茶の湯の流行を反映して、茶入、茶壺、天目茶碗田の磁器製法を導入しなければ、という地元の輿望 にな など茶陶が出てきた。この鎌倉・室町期の瀬戸のやを担って有田におもむいたのが、磁祖加藤民吉であ こせと ぶんか 2 きものは「古瀬戸」と呼ばれている。 る。彼は文化元年 (8ä) から有田、天草に潜入し、 おちい
「さらしなは右、みよしのは左にて、月と花とを追分の宿」と道標に 記した信濃追分は、中山道と北国街道 ( 善光寺東街道 ) との分岐点で ある。中山道は小田井、岩村田を過ぎ、塩名田で千曲川を渡る。八幡、 望月を経て、江戸時代の面影を今に残す茂田井、そして芦田、松並木 の笠取峠を越えると、長久保から和田に至る。和田峠から下諏訪まで の五里一八町 ( 約ニニキロメートル ) は、冬から春にかけて雪が深く 難所であった。古くから湯治場として栄えた下諏訪から日本の分水嶺 にあたる塩尻峠を越えると塩尻の宿となり、木曾路に至る。また、つ ぎの宿場洗馬近くから右に道をとると、松本を経て善光寺に向かう善 光寺西街道があった。 みらしるヘ
木曾籔原の水場一一一宿 場は家並みが櫛比 ( し っぴ ) し、延焼しやす いのて、消火用水と、 さらに馬の飲水が用意 される必要があった。 十曲峠の石畳ーーー中山 道木曽路の馬籠から落 合宿に出る十曲峠の石 畳道は、皇女和宮の御 降嫁のおりに改修され たという。 やわたもちづきあしだながくぼ わだしもすわしおじり する道は、多くは山と海を結ぶ道である。一本の道八幡・望月・芦田・長久保・和田・下諏訪・塩尻・ せばもとやま によって山の産物と海の産物の交換が行われるだけ洗馬・本山の信州十五カ宿。 にえかわなら いやぶはらみやこしふくしまあげまっすはら でなく、山の民の生活の知恵と、海の民の生活の知 贄川・奈良井・藪原・宮ノ越・福島・上松・須原・ のじりみどのつまご まごめ 恵の交換がなされる道でもあ「た。また、かって山野尻・三留野・妻籠一馬籠の木曾十一カ宿。 おちあい なかっかわおお おおくて 間の地に政権の基礎を置いていた中世の権力者たち 落合・中津川・大井・大湫 ( 大久手 ) ・細久手・御 たけふしみおおた うぬまかのうこうどみえじあかさか は、近世の開幕とともに、平地の争奪と平地に権力嵩・伏見・太田・鵜沼・加納・河渡・美江寺・赤坂・ たるいせきがはら います を打ちたてる戦いの中で、多くは破れていった。織垂井・関ヶ原・今須の美濃十六カ宿。 だのぶながのうび とよとみひでよし とくがわいえやす ばんば かしわばらさめがい とりいもとたかみやえちがわむ 田信長の濃尾平野、豊臣秀吉の大坂平野、徳川家康 柏原・醒ケ井・番場・鳥居本・高宮・愛知川・武 もりやま の関東平野など、いずれも治水に成功し平野を支配 佐・守山から草津で東海道に合する近江八カ宿。 した英雄たちであった。彼らもまた、一本の道を支 以上の六七宿が、中山道の宿駅である。京に着く 配することから、自らの運命を切り開いていった。 ためには草津・大津の二宿を通らねばならないか 道はさまざまに、人間のドラマを、ロマンのうち ら、この二宿を加えて江戸から京まで六九次であ に秘めている。 ちょう けん 江戸日本橋から草津まで一二九里一〇町八間と 『大概帳』 (G) にあるが、京都三条大橋までとす さんかきんたい ると一三五里二四町八間 ( 約五に」じで、東海道を通 山河襟帯 って京都に行くより四一キロメートルほど距離は長 せきりよう ゝ 0 日本の屋根、背梁山脈を形成する中部山岳地帯 東海道は、途中に河川が多く、交通量の多い春 はざま を望みながら、山の狭間や、中腹、盆地を貫いて、 秋には、増水による川止めが多く、思いがけない日 一筋の道、中山道が、江戸から京に達している。江数がかかることがあった。それにくらべると中山道 うすい 戸から、 は、上州から信濃へ出るには、坂本宿から碓氷峠を いたばしわらびうらわおおみやあげおおけがわこうのすくまがや 板橋・蕨・浦和・大宮・上尾・桶川・鴻巣・熊谷・ こえて軽井沢に入らなければならない。また和田 ふかやほんじよう 深谷・本庄の武州十カ宿。 峠、塩尻峠、鳥居峠を経て木曾に入り馬籠峠を越し しんまちくらがのたかさき いたばなあんなかまついださかもと 新町・倉賀野・高崎・板鼻・安中・松井田・坂本て美濃に入るなど、峠が多く、ことに冬場や雨中の峡 とだ の上州七カ宿。 行旅にきびしかった。渡船による川渡しに戸田川 かるいざわ くつかけおいわけおたい ちくま いわむらたしおなだ ながら 軽井沢・沓掛・追分・小田井・岩村田・塩名田・ 烏川・千曲川・太田川 ( 木曾川 ) ・長良川などがあっ くさっ ほそくてみ
フォトグラフ信農の石仏 木曾路の 石仏 乏閑農とに の陽石コ純 に農く神像春いむネのる 地、働の子。早かずたとえ 耕はて人太う らたれびが・ にー ) 職 2 △ロ わたら人か 路と、聖出神やてけ 曾人くるば祖のび向にが 太木職多れし道路浴手ギ心 徳いをがわば体曾をにナな 聖し期民いし双木光仏ャ真 三尊仏ーー霊峰御嶽山 を朝なタなに拝むこと のてきる木曾には、御 嶽行者の造立による、 この三尊仏のような石 仏も多い。 大護八郎日本石仏協会会長 道は、本来水源や狩り場などへの踏み分け道や、 ムラからムラを繋ぐものであったが、次第に広域の 支配者が現れるに及んで、政治的・軍事的必要から 幹道の発達を見、今日のような整備を見るに至った。 道まいうまでもなくてくてくと人間のたどるも のであったが、日本民族の原始信仰からは、カミも また人間と同じように、人間の開いた道を歩いて往 さえのかみ 来するものと考えられてきた。道祖神をはしめもろ ち」りつ もろの石仏が、村境や辻などの路傍に佇立するゆえ んもここにあり、世界でも稀に見る「路傍の石仏」 の多いことが、よく民族信仰を如実に具現したもの ということができる。道行く人々は、路傍の石仏に 手向けすることによって行路の平安を祈り、また現 当二世安楽の祈願をした。 古代にすでに官道として発達した東山道は、木曾 に入っては木曾路と呼ばれた。近世以降庶民にとっ ても、馬匹が交通運輸の立役者となり、木曾駒を主 とする中馬制度の発達をみた信州には、幹道・支道 はとうかんせおん を問わず路傍におびただしい馬頭観世音の造立が見 られた。飼い馬の数によって頭上の馬頭が二頭・三 頭・四頭と、異様な姿を見せるのも、信州とごく限 」い、第ミ一をられたその周辺にのみ見られる現象である。古代に 、、→ ( 、」「レ , すでにそ 0 記述を見る道祖神も、村境 0 路傍にあ「 ふさ 防桑蚕は役 て、邪神を塞ぎ止める神としての信仰に始まる。往 をる養仏の 害あ。石て はよえ 霜に神のし 年の村単位の、路傍に見る男女相愛の笑ましい姿 ムロ祖村一 高道山 " は、道行く人々にとっての心の安らぎであったこと 神に体ののつ のめ双ー 蚕たの信を 養く園国。 つな
山なみ遙か歴史の道 Ⅱ集英社 信濃路木曾路伊那路 美濃路飛騨路 日本の街道 ・全巻内容 * 印は既刊 第 1 巻 / 風かけるみちのく 第 2 巻 / 江戸への道 第 3 巻 / 雪の国北陸 * 第 4 巻 / 山なみ遙か歴史の道 第 5 巻 / 京への道 第 6 巻 / 夢誘う山陽山陰 第 7 巻 / 海光る瀬戸内・四国 第 8 巻 / 日燃ゆる九州 ケース表長野県北安曇郡白馬村より 北アルプスを望む 同裏木曾路妻籠宿付近の一里塚 カバー表木曾路馬籠宿付近一石栃の 石畳道 同裏信濃路下諏訪宿の旅籠 定価 1 , 800 円 0321 ー 176004 ー 3041