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検索対象: 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道
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1. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

乗鞍岳遠望ーーー野麦街 道のいたるところに乗 鞍岳は顔を出している。 山容は心にしみこむほ ど素晴らしい。 は、明治八年、本格的な道路改修を企画し、野麦街野麦街道を正式な呼び名とした。安房峠ごえの飛騨 道を三等道路に指定した。翌九年には、一等道路の道があまり使われていなかったため、一般に、野麦 けんしやく 四・二四、 街道を飛騨街道と呼んだのであろう ( 関係町村 道敷一一間二尺 ( メ レ ) 二等道路の道敷二間 (I*) 小 はた しまだち 松本から、筑摩郡の島立村・新村・波多村を通 ) と、基準をき し、三等道路の道敷九尺 ( 」い」 あずみ り、安曇郡安曇村の橋場・稲核を経て、筑摩郡奈川 めている。松本平の人びとは、野麦街道を、「飛騨 村に入り、飛騨国大野郡高根村野麦にいたるルート 往還」「飛騨街道」とふつう呼んだが、県当局は、 のうち、新村や波多村では、道敷二間・馬踏九尺で あったが、奈川村では、道敷七尺・馬踏四尺とせば まった。木曾の藪原駅から境峠を越え、奈川村寄合 渡から西へ折れるまでの、かっての〃本道″は、中 ) の " 支道飛州街道。と呼ばれ、道敷一一 山道 (k 『長野県町村誌」。 なお、 間・馬踏七尺となって、る ( し木祖村の部 ロメートル 野麦街道の波多村の中央部三〇町 ( 約 林の松樹が自然の並木をつくり、道行く人びとをな ぐさめた。 おたすけ 野麦峠に御救小屋ができたのは、天保十二年 (r 、 にのまち 四 ) である。飛騨国高山弐之町村の重助は、野麦峠 が交通の難所で、とくに雪の峠では往来に難渋する ところに目をつけ、救小屋を建て、妻子を連れて住 んだ。高山役所は、天保十二年七月、この重助に救 小屋番人を命じた。旅人が病気などのときは、とく に親切に扱い、物乞いなどでも見捨てないよう世話 をすること、ただ、病気で余儀ない者のほかは、一 泊だけで、それ以上は止宿させないこと、世話の礼 などを、みだりに受け取らないこと、休息者などの とばく 賭博、 " うろんな者 (%). の徙徊などがあったと まいかい 93 ーーー峠を越えた娘たち

2. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

である。 この幅五間の道路は、当時の、最大の幅員をもっ認 ところで、美濃・尾張の平野は、木曾・長良・揖道路であり、織田氏が、この工事を急いだのは、清 斐の三川が流下し、古くから洪水・氾濫が絶えまな洲から美濃へ出る幹線道路として、兵員や物資の輸 く起こり、田畑は荒れて生産力も安定しなかった。 送路として、支配を打ちたてる上での動脈路として 天正十四年の大洪水によって主流の川道が変動し、 の活用を考えたのではないだろうか。いずれにしろ さらに幕府はお囲堤と称して木曾川の尾張側の堤防日本最大の道幅の道と、軍事的計画のもとにカギ形 なびぜんのかみ のこ の修築事業を土木工事で有名な伊奈備前守の指導の曲がり道が、戦国時代の道として、今に遺り伝わ によって行った結果、いらい今日まで、尾張側 ( 愛っている。 知県側 ) への水の流入、尾張側の堤防の欠壊はなく 機を織る宿場の街 なった。このお囲堤の建設によって、生産力は安定 し、ここへ御三家の一つを配置して幕藩体制を強化 起宿は、萩原宿から一里、木曾川に沿った宿場町 したのである。 特有の短冊型の長い町である。起という地名は、土 水を治めることは、治者の第一条件で、収納と民地を起こすからきた地名と思われる。事実、このあ 政の安定に欠かせなかった。この三大河川の治水 たりは、天正の大洪水以前までは、洪水と氾濫によ は、信長・秀吉・家康に引きつがれ、家康によってって村が一夜にして滅亡することも珍しくはなかっ 一応の完結をみるに至ったのである。 起という変わった地名も、この氾濫・滅亡のな くしつくり この萩原宿の手前に串作という村 ( 現 市原 ) があかから、生き残った者によって村が起こされたか、 り、ここで美濃路は、直角にカギ型に曲がってい 氾濫の水引きの後、他から人が来て土地を起こした る。一七八〇年代と推測される織田信雄の尾張中島か、いずれであるにしろ、水との闘いで生まれた地 郡における道普請の計画を示すとみられる文書に、 名ではなかろうか。この宿場の北のはずれに、与惣 くし くさかべ ちんごん 中島郡井口村・日下部村・小沢村・中島村・「櫛っ右工門なる者の鎮魂の碑が、近年建てられた。これ くり」村 ( 串作村 ) ・「かうむろ」村 ( 河室村 ) の道は、この宿のはずれを夏になると人魂が走った。町 江町本北 けん ) とし、一〇日間の日数を限の人たちは、堤防修築のさい、人柱として生き埋め の日はめ路の幅を五間 ( 約」 って造成すべきことを通達した一通がある。さらに された「ヨソ」の人魂と伝えてきた。「ヨソ」とは 、、 ( 苡・、 )@.」工の織りれ 、、、物来毛ぎ入 織以はこを文書は、串作村の部分の工事責任分担者として「矢人の名前であるが、それが、「与三」であるか、 の代在の光 島」なる人物をあてている。 「与惣右工門」であったかは、今では知るすべがな 尾戸て一か 道標ーー美農路沿い富 田の一里塚付近にある。 「左駒塚道」とあり、尾 張藩家老石河氏の駒塚 ~ 出る道を示す。ー 1 はんらん ひとだま

3. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

た。とくに宿場のほうからすると、宿場は諸役免除 下では物資の集散がおこなわれ、活況を呈すること になった。また、この商品の移出入は、原則としての特権を与えられ、公用旅行の便をはかるとはいっ 宿場の問屋を通して運ばれる仕組みであった。とこても、そこで支払われる賃銭は御定値段で一般にく ほてん ろが、領内村々と城下との往来は、農民たちが自分らべて安く、そこでの負担を補填するためには商人 の馬で直接参加し、宿場を通さない付け通し馬がほ荷物の継送りによる収入がどうしても必要であっ た。ところが、中馬によってこれが減少するとあっ とんどであった。そして、商品生産が盛んになるに つれてこの付け通し馬が増加し、かれらは街道を通ては死活問題であった。そのため元祿六年冫 しゆくつぎ 行しながら宿継や、そこでのロ銭の支払いを無視再び両者が対立し、ここでは問屋側は、街道を通る するどころか、次第に専業化して商品の領域内外へ諸荷物の中から茶・紙・煙草など主要商品七種類を とくに指定し、これを宿継にしたいと要求した。け の取り引きにも進出するようになったのである。 この結果、宿場での継送りが減少し、問屋と中馬れども、この要求は奉行所によって否定され、中馬 かんぶん のこれまでの慣行が認められた。 との対立が深刻になった。早くも寛文十三年 ()J , ) 四月には、飯田・大島・塩尻の問屋が宮木・大出・ 幕府公認「明和の裁許」とは 小野などの村々の中馬荷物を差し押さえる事件がお 宿駅と中馬との対立はその後甲州街道でもくり返 こり、農民側が幕府奉行所にそれの中止を訴え、こ ほうれき さくま の要求が入れられて農民がこれまでどおり作間稼ぎされているが、宝暦九年 (l しには、上伊那郡で中 として荷物を自分の馬に付けて通行することが認め馬荷物の荷替えをめぐって松島・平出両宿と中馬村 との間で争論がおこり、翌年には宿場が中馬荷物の られた。この付け通しが許可されると、商人の中に 一部を差し押さえたことから再び対立が激化し、そ は荷物の宿継送りをきらって農民に輸送を依頼する 、「 . 者もあらわれ、これが農民による馬稼ぎの専業化にれが街道筋の宿駅と中馬村々、それに松本・飯田の 拍車をかけることになった。ここに中馬と呼ばれる商人をも巻き込む大訴訟事件へと発展している。上の 農民馬による新しい輸送機関が成立することになっ下伊那郡の中馬村々が一体となり、八四カ村の惣代 がこれまでどおりの中馬慣行の継続を求めて奉行所め たのである。 しかし、これを機会にただちに中馬の活動が盛んに訴状を提出している。幕府は代表から事情を聴取の になったわけではない。 これには宿場の反対が強するとともに、検使役人を二回にわたって現地に派 遣し、また、中馬村々からその村の高反別・家数・ く、その後、幾度かの対立、抗争が不可避であっ 伊那谷の景ーー自給自 足を満たせなかった伊 那谷も、物資流通のた めの馬が往き人が歩く ことによってにぎわい を見せた。

4. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

夏でも寒いョイヨイヨイ いわれている。今でも原始林的な林相をもっ王滝の 袷ナアーナカノリサン 国有林の中へ一歩足を踏み入れると、昼なお暗い溪 袷やりたやナンチャラホイ 谷に二百年から三百年を経たヒノキやサワラの大木 たび 足袋添えてョイヨイヨイ が生い茂り、冷気がただよって、夏でも寒い王滝村 の民謡『木曾節』の元唄である。 を実感としてとらえることができるというものであ 信仰の山として、毎年夏になると北は北海道、南る。江戸時代、王滝の山中奥深くはいり込み、木を は九州まで、全国各地から「御嶽まいり」とよぶ三伐り、木材を冷たい谷月 ! ーこ流す仕事にたずさわって 、一、 : 第ハ義十万人の登山者が集まってくる御嶽は、まさに夏で いた人たちには、まさに「夏でも寒い」御嶽村であ ったわけである。 も寒い霊峰であり「御嶽といえば木曾節、木曾節と いえば御嶽」と、両者は切っても切れない深いつな 故郷を遠く離れ、夏でも寒いというおんたけ村 がりをもって全国的にその名が知れわたっている。 ( 王滝村 ) へ山仕事に出掛ける夫に袷を仕立て、足 ところが「夏でも寒い御嶽」とは、初めは信仰の袋も添えてやりたいという妻の愛情の発露が「袷や りたや足袋添えて」の歌になり、さらに 山御嶽のことを歌ったのではなく、その山麓の村 じゅばん 「王滝」のことだという。江戸時代おのたけ村とか 八袷ばかりもやられもすまい襦袢仕立てて足袋 そえて おんたけ村とよばれた王滝村は、ヒノキの美林で知 と歌わせている。 られた木曾谷中でも、美林中の美林地帯で、谷中一 番面積の大きい村の大部分を広大な国有林で占めら 袷や襦袢に足袋を添えておくろうと歌う妻たちは れている。 また かむえだ 「木曾の御嶽夏でも寒い」の歌詞は、江戸時代の初 八東神枝伐るなよ主さ東神枝神の木だ けがあやま 期に作られた『山家鳥虫歌』という本にでてくる、 と歌って危険な仕事に従事する夫に怪我や過ちの 八みすじふろがや朝寒むござるこたつやりまし ないように神に祈っている。杣人たちはカムエダと よ炭そえて いって、樹幹が中途で二つに分かれ、捕り物用の十 」た古お て て人なな の替え歌で、みすじふろがやを木曾のおんたけ村、手状になった木は、山の神が腰をかけてお休みにな 立の虔もる 座里敬今い 御山、がて こたっと炭を、袷と足袋におき替えたものである。 る尊い木だから決して伐ってはならないとしてい 「よ从工 0 十′ トに生づ 江戸時代、諸国から木曾山へ入りこんでいた杣・ る。素朴な夫婦間の愛情をこめた素晴らしい歌声に っ 講素間卩 ひょう 嶽の信き 心暖まるものがある。 御ちい生日雇とよばれた山林労務者の数は八千人に及んだと 第を 木曾踊り ( 明治時代 ) 音頭に合わせて合 唱しながら踊るその高 くひびく歌声が、四囲 の山々にこだまする。 あわせ そま ぬし そ。ま ) と じっ

5. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

て王。厄う 説親るてろ 伝シいとあ ョてこて キんるの ュ刻ずた 王たと信し 親れ跡をと 良ら旧在け 尹作の実よ 御師の回国のせいであるという。それにちがいない またこの街道に沿う村は山間を通っているので、 でんば にしても、私は木地屋もその伝説の伝播の役割を担 昔は木地屋の職業がさかえた。宝え七年 (} しから っていたのではないかとうたがうのである。という 明治十三年 ( ← 5 ) の一七〇年間に信州の下伊那郡に ごしょだいら 入った木地屋は、二三三六戸にのぼるという。今はのも、宗良親王のいた大鹿村の大河原には御所平 という地名が残っているが、そこにある菊花紋章の その姿もほとんど見られなくなったが、彼らが転々 と移動しながら、自分たちの生い立ちにつながる伝墓石は、あるいは木地屋に縁由のある御所車の墓石 だったかもしれず、そのために御所平という地名が 承をふりまいていったあとは今も残っている。 つけられたのかもわからないからだ。そして御所平 「ユキヨシさま」にまつわる伝承 という地名は浪合にも豊根にもある。それは木地屋 ごだいご 三州街道に沿う浪合村は、後醍醐天皇の子の宗良が住んでいたことをあらわす地名かもしれないと私 ゆきよし は田 5 , っ 0 親王を父とする尹良親王が敵の小笠原一党にかこま れ自害したところとされている。今も浪合村の宮の 山国の冬の祭り 原という高台には尹良親王をまつる神社があり、ま 山また山の村に住む人びとの暮らしは一般に貧し たそこにある御陵の扉には、菊花の紋章が打ちつけ てある。しかし尹良親王は実在しなかったというの く、自然は厳しい。三州街道の村々では、最も近い が通説である。 都会は信州の飯田であった。そこまでは一日中、街 道を歩いてもたどりつくことはおばっかない。しか 柳田国男によると「ユキヨシさま」というのは、 し、いや、だからこそこうした山国に、奥三河の東 峠のロや路の辻などにまつる災厄よけの神であり、 にいの したがって旅人の保護者にほかならなかった。尹良栄町を中心とした花祭りとか、信州新野の盆踊りや 碑 雪祭りなど、すばらしい芸能が伝えられてきた。そ 親王にまつわる伝承は、信濃をはじめ、尾張、三 の 傍 こう . けしもつけ 河、駿河、上野、下野の諸国に及んでいる。奥三河れは、山国の人たちが一年に一度、思い切り咲かせ嬲 しだら 刻 る幻の花であった。新野の盆踊りの起源は、室町時 の稲武町と豊根村や設楽町などにも残っている。こ のほか名古屋の西にある津島市にもある。柳田は津代の末期に、三河の振草の下田の人がやって来て踊 人 りを伝えたというように、地域間の交流も見られ 島の御師たちが各地をめぐって天王信仰をひろめた 里 た。都会に夏祭りが多いのに、山間部には花祭りや一 が、神送りは天王信仰の特徴のひとつであったか しもっき ら、尹良親王の伝説が各地に散在するのは、津島の雪祭りや、信州遠山の霜月祭りのように、冬祭りが ほうえ ) ふりくさ

6. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

22 21 8 ・ 野麦峠を通った荷物と人 ( 弘化二年八月 ) -8- ・ 1 人 越中四方 ゅ折敷 ( 七東 ) 箱 ( 八組 ) 面桶 ( 六五 ) 作右衛門 刻煙草 ( 一貰二〇〇匁 ) 小八町方村 中牛 ( 四匹 ) 彦有衛門 信州稲技村 十こんにやく二貰匁 ) 信州松本 利七 売薬 ( 二貰匁 ) 次衛 信州高遠 石蔵 8 ・ 3 難卵 ( 二〇〇 ) 信州松本 当薬 ( 五八斤 ) 高山川原町 清助 売薬 ( 三〇〇匁 ) 大疾衛 信州高遠 新張村 林檎 ( 五十 ) 柿 ( 八〇匁入 ) 清有衛門 越中石動 8 ・ 6 面桶 ( 九二 ) 越中上市乂四郎はか一人 8 ・ 7 硯箱 ( 四二 ) 高山五之町 次助 8 ・ 8 蚕種 ( 二〇枚 ) 州 - い亠田 善衛 林檎 ( 一石 ) 阿多野郷野麦村助次郎 ・間売薬 ( 六〇〇匁 ) 信州稲孩村 林左衛門 売薬 ( 七〇〇匁 ) 上州大仁田村三蔵 玉子 ( 三〇〇 ) 高山片原町 卯助 新張村 林檎 ( 一石五 + ) 小間物 ( 六〇〇匁 ) 信州牟礼宿 生冂・月 子 ( 三〇 O ) 高山神明町 子 ( 四〇〇 ) 高山八幡町 惣有衛門 玉子 ( 三六〇 ) 高山壱之町市三郎 子 ( 三〇〇 ) 高山八幡町 卯助 玉子二八〇 ) 庄八 占城郡四ち 紋有衛門 子 ( 一八〇 ) 玉子 ( 四 O 〇 ) 高山沂町 浅吉 青大に 小間物 ( 三〇〇匁 ) ゞ、、′白い 刻煙草 ( 三貰六〇〇匁 ) 高山八幡町 久左衛門 合羽二枚 ) 与十郎 濃州大井宿 鰹節 ( 四八本 ) 信州八五原宿忠吉 子 ( 一〇〇 ) 高山八幡町浅占 野麦村 当薬二二斤 ) そそけ ( 一六 ) 子 ( 二〇〇 ) 高山片原町 政蔵 越中水橋 文吉 売薬 ( 三〇〇匁 ) 蚕種 ( 三枚 ) 信州上田 太吉 上膳 ( 二三八枚 ) 高山三之町 嘉助 刻煙草 ( 一貫八〇〇匁 ) 高山向町 玉子二〇〇 ) 刻煙草二貫八〇〇匁 ) 高山向町 茂助 玉二〇〇 ) 越中高岡 面桶 ( 二八 ) 、イ」白い 小梨 ( 三〇〇 C ) ) 高山穴町 次衛 子 ( 八〇〇 ) 州松本 小梨 ( 七 0 〇 ) 真綿 ( 一一贒七 ( 〔 ) 匁 ) 高山新町 いカ ・真綿 ( 三貰七七〇匁 ) 高山穴町 作衛 間物 ( 三 C ) 〇匁 ) 信飯Ⅲ 小間物 ( 六〇〇匁 ) 越中氷見八十八はか一人 信州田 蚕種 ( 一八枚 ) 8 14 12 人 重助 しそいで村役人に届けること、御林の木は一 個 ) 、八月二十四日に玉子 ( 一〇〇個 ) ・小梨 ( 七〇〇ⅵ 個 ) を運んでいる。高山に近い新張村の兵蔵は、八 本でもみだりに切ってはならず、薪など入用の分は りんご 村役人の指図を受けること、などが番人重助の守る月四日に林檎 ( 五斗 ) 、八月十二日にも林檎 ( 一石 かたはら 五斗 ) を持って通った。高山片原町の政蔵は、八月 べき条々であった ( 黻世 ) 。 御救小屋には、その後、さまざまな変遷があった 二十一日に玉子三〇〇個 ) 、八月二十六日にも玉 が、しばしば文字どおり、通る人びとの生命を救う子 ( 四〇〇個 ) のロ役銀を取り立てられた。一カ月 小屋となった。明治後半から、大正期においても、 に二回、峠を越えて商品を運ぶ者が、何人かいたの 製糸工女が、この救小屋で一息ついた話が残ってい である。八月一日から八月二十九日までに、番所で る。 御ロ役銀を払った人は五二人。多い日は五人、まっ たくなかった日は、九日十三日・十八日の三日間 峠の番所の通行税 だけであった。 野麦峠から飛騨側に下りた上ケ洞にあったロ番所 なお、野麦街道の信州側の番所は、川浦 ( 尾張 しまじまだに そうが 嘉永年間に寄 は、峠を通って荷物を運ぶ者たちから御ロ役銀をと藩、 ) 、島々谷の橋場 ( 松本藩 ) 、宗賀の 合渡へ移す ころ・か 本山 ( 尾張藩 ) などにおかれた。 った。弘化二年しの夏、八月の記録によると、 上ケ洞番所で、御ロ役銀を払った人の住所や荷物が 飛騨の娘の稼ぎ道 わかる。信州稲核村の人の牛や売薬、松本の人の干 こんにやく・鶏卵・小梨、信州上田からの蚕種、信 野麦峠を下った信州側の最初の村は、尾張藩領の たかとお むれ 州高遠の人の売薬、信州の牟礼宿・飯田の者などの筑摩郡奈川村である。明治九年の村勢をみると、三 おおにた 一三戸・一一九五人、民業は、農家八〇戸・牛逐賃 」間物、遠くは、上州大仁田村の人の売薬、草津の いするぎ ひみ 人の小間物。一方、越中は石動の人の柿、氷見の人付営業三六戸・雑業二〇戸・農猟兼業八戸・工業一 ひえだたんせ の小間物、高岡や上市の人の面桶がロ役銀を課せら四七戸・計二九一戸となっている。稗田八反七畝一 すずり きざみたばこ れ、高山からは、硯箱・玉子・刻煙草・小梨・上五歩、畑三〇一町八反二畝と、水稲はできなく、稗 でかせ ぜんまわた 膳・真綿などをたずさえた者が野麦峠を通った。さ田と畑作の村である。そのため、出稼ぎや商品販売 による現金収入を必要とした。とくに、牛をつかっ まざまな生活用品が、牛などとともに、番所を通っ ているのである。 た駄賃稼ぎが、この村の生計を助けてきた。この村 うしかた 信州松本の石蔵は、八月三日に鶏卵三〇〇の男たちは、冬期、牛方 ( 牛士 ) として、牡牛を追 かみいち

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0 妙興寺勅使門ーー - 貞冫台 5 年 ( 1366 ) 後光厳天皇 の勅願て建立。室町時 代の遺風がよく残され ている。 る。城跡には、人の背たけほどの高さの「清洲古城絶な晴の日の祭宴である。 こくが い趾」とある石碑が立っているが、訪れる人もなく、 このあたりの稲沢市内には、国衙・国分寺の跡が 歴史の非情を感じさせる。 あり、かっての律令国家による尾張支配の中心地で あった。 おざわ 第清洲から稲葉ヘ一里半 稲葉宿は、稲葉村と小沢村の一一つの村で宿役を負 担していた。宿の状況を『尾張徇行記』は、次のよ 清洲宿を出て稲葉宿まで一里半 (f*-(2 なづか に、長束村翁か稲 ) がある。ここは、豊臣秀吉五奉うに伝えている。 行の一人、長束正家の出身地である。彼は関ヶ原で 商売ハ処々ニョリ木綿ヲ買出シ、名古屋木綿問屋 みつなり みなくち おたい びわ 三成方について敗れ、近江国水口城に逃れて自害し又ハ下小田井・批杷島アタリ仲買へ送リッカハセ 約七・八キ、 、又油絞・酒造屋ナトモアリ、又諸商ヒヲスル家 ロメートル た。ここから二里 ( ) 余り離れているが、浅 ましだ モ数戸アリテ繁昌ナル市町ナリ。 野村翁 ) は浅野長政の出自の地、増田村翁稲 ) ながもり この記述からも知られるように、稲葉は、このあ は、増田長盛の出身地などといずれも戦国武将たち ようらん の揺籃の地であり、尾張平野が織田氏、豊臣氏を生たりの農村を商圏とする在郷町で、木綿を近在から み出した歴史的背景をうかがい知ることができるで買い出して、名古屋の木綿問屋や近在の仲買商人に あろう。 売ったりする商人たちでにぎわった町である。 稲葉宿へ向かう街道の右手に大きな鳥居をみる。 明治一一十年に稲葉と小沢の両村が合併して稲沢村 おおくにたま これが、このあたりの代表的大社「尾張大国霊神 となり、やがて稲沢町から戦後に稲沢市となった。 こうのみや 社」で、俗に国府宮で通用している。この神社は、 宿駅の古い姿は、よく残っているが、周辺の姿は、 なおい うっそう 毎年正月十三日に行われる儺追神事、いわゆる「国一変している。かっては、森があり、鬱蒼たる寺社 はだかまつり 府宮の裸祭」という奇祭で知られている。この があったが、今は、そうしたおどろおどろの情景は 日、午後ころから尾張各地から集まった若者たち姿を消し、鉄筋コンクリートの高層大住宅群が、立 が、神男を中心にふんどし一つの裸で激しくもみ合 ち並ぶなど都市化が急速に進み、名古屋のべッドタ 、壮絶な男たちの熱気におおわれる。もみ合う裸ウンへと変質しつつあるようである。 みようこう の男たちの群れのなかにバケツの水が上からかけら 稲葉宿をすぎて間もなく、路の右手東方に妙興 れ、それが瞬時にして湯気となって寒中の空に立ち寺の森を見ることが昔はできた。この寺は尾張にお りん のばる。民衆のたくましいエネルギーの奔出する壮ける大寺の一つで、長島山妙興報恩禅寺といい、臨 国府宮の裸祭ーー儺追 神事の裸祭りて奇祭と して知られ、数万人の 人出てにぎわう。楼門 は室町初期のもの。 日 740

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ル沓てて セにあ俗 キ腰胸風 , 、の年 、んち一月 6 方わ持馬和 馬くをた昭 とに鎌け ( 、 馬ロりつる 中を切をあ 7 は 馬数および中馬荷物の送り先などを報告させてい る。そして、呼種一兀年 (*l&) 十二月、膨大な内容の 裁許状が下付された。これが中馬慣行を決定づけた 有名な明和の裁許である。 この内容は、中馬の活動する範囲が伊那街道だけ でなく甲州街道および北国街道など、信州を通過す る各街道に及ぶこと、各街道ごとに中馬の扱う商品 を定め、それ以外は宿場の宿継として両者を分離す ること、ただ伊那街道については駄数によること、 改めて中馬村々およびその村での中馬数を決定する ことなどとなっており、この裁許によって中馬は幕 府公認の輸送機関となったのである。 また、この裁許状によると、中馬を認められた あずみちくまちいさ 村々は伊那郡をはじめとして諏訪・安曇・・筑摩・」 はにしなさらしな がた 県・高井・埴科・更科の八郡、村数計七七九カ村、 中馬総数一万八七六八匹であった。この中で中馬数 の最も多いのは伊那郡で総数七八四九匹 ( 一村平均 四八匹 ) 、ついで諏訪郡の四六八〇匹、安曇郡の三 一七八匹、筑摩郡の二五二五匹とつづき、他は小県 郡三一一一匹、高井郡八一匹、埴科郡七六匹、更科郡 いといがわ 五八匹と少ない。糸魚川街道から伊那街道にかけて が中馬村および中馬数が多く、なかでも伊那郡はそ の中心であった。なお、この伊那郡では中馬と宿場 はそれぞれ扱う駄数量が定められて両者の共存がは かられたが、その内容は飯田から松本への出荷物は 総計九六〇〇駄余、うち六〇〇駄が宿継で他は中馬 ほっこく 馬と人の暮らし 中馬の馬方は「馬追い」と呼ばれて一人で三、四 頭、多いときは八、九頭の馬を追っては荷物を運ん だ。明和の裁許では一人で馬四頭となっているので、 これが一般であった。 ももひき かれらは菅笠をかぶり、丈の短い着物に股引ばき、 きやはん 手甲を付け、脚絆を付けて胸当てをかけ、冬にはまわ かつば あぶ し合羽を着ていた。馬には虻を払うためにクビカケ、 サンドカケ、家の紋を染め抜いた腹がけを付け、鈴を 鳴らして歩いた。金回りがよいので派手で粋な服装で あ「たという。一日の行程が約八里 ( 約三二キ 0 ) 、 宿を利用しては荷物の付け通しをおこなったが、一頭 に二八貫から三〇貫ほどの荷物を付けているので、山 坂の多い道中は大変であった。荷がかしぐことがない くっ か、馬の沓のようすはどうか、馬がころんで谷底に落 ちることもあるので馬から寸時も目がはなせなかっ た。しかし、仕事が終わって帰宅するときは仲間とと きには「チョポイチ」といわれる賭をやりながら、ま ひ た追分を唄いながら歩く。馬の手綱を曳かなくても馬 は道をよく知っていた。 家では妻が昼から大豆を煮たり、切藁を作って亭主 の帰りを待つ。帰宅すると馬具をはずして「スソタラ たらい ヒ」と呼ばれる大きな盥に湯を入れて馬の脚を洗う。 とくに前脚の付け根のところを洗ってやると馬が喜ん だという。そして、大豆の煮汁や米のとぎ汁、大豆、 藁、干草などの飼料を与えて馬を休養させる。男は夜 わらじ に松根のあかしを燃やして草鞋や馬の沓を作った。馬 の沓を一日に十足作れば一人前といわれていた。 てつこう たけ かけ

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二一二頃 ) からとい 付、羽織に袴、白足袋姿で、刻み煙盆を迎える仏に捧げる祭りで動きが行列が、笛・太鼓に合わせて町内を建保年間 ( 一 草をすいながら踊る。九節ある歌詞激しい。問、 し合わせ先阿南町容 0 練り歩く。し 、合わせ先駒ケ根市われ、当時、この地方から宮廷に仕 ワ」 0 ワ 3 ・ワ」・ワ 3 11 -4 1 亠 -0- ワ」、 6 一 0 -8 ・つ 0 ・ワ」 1 亠 11 11 を歌って踊り、歌が終わると一目散 えていた人たちが京の儀式を見おほ に逃げだす。逃げ遅れた人が疫病を・宮田のあばれみこし宅月十四日 ) ・七久里神社例祭 ( 九月三十日 ) えて帰った。湯立神楽の作法を伝え 一手に引き受けると伝えられている。 一一百年はど前から伝わる悪霊を追年男が裸になり、大きな樽を持ちる。引 ドい合わせ先上村谷 00 っ 0 ・つワ」 1 1 「い合わせ先伊那市観光課谷 02 い払う行事。最後に石段の上からみあげて次々と練り歩く勇壮な祭り。 尸 0 / ・ 8- ・一 4 11 1 1 こしを落とし壊してしまう。破片を 一澪、、 . ・向方のお潔め祭り ( 一月三ー四日 ) ・日吉の御鍬祭り ( 四月ニ十九日 ) 持ち帰り、屋根にのせると火事にな 午後一一時ころ、お上りの行列が到 三百年前から伝わる豊作を願う祭らないと伝わる。引 ドい合わせ先宮 着すると始まり、夜半までつづく。 り。地区内の伊勢神社に集合し、本田村谷 0 2 6 5 8 5 ・ 3181 クライマックスは「海道下り」でオ 宮まで一日がかりで舞って行く。一 ・深見の水祭り ( 七月ニ十四日 ) ジイオバアの狂一一一口。 ドい合わせ先 六種類の舞がある。 ドい合わせ先 イ天竜村谷 0 2 6 0 3 2 ・ 2 0 01 周囲七一六メートルの、郡下一の ) ←な 一 - 川・南〒」谷 0- ワ 00b0- ワ 0 ・ワ・ワ 011 4 「 1 天然湖上に筏を浮かべ、この筏のま ・坂部の冬祭り ( 一月四ー五日 ) ・大鹿歌舞伎 ( 四月中旬 ) わりに提燈をさげて三味線笛太鼓な 四百年以前から伝わるもので、奥 慕末から全国に広まったものの一どではやしながら神事を行う。問い 火の粉も苦にしない男たちの姿が勇三河の花祭りと近い。花の舞、湯立 部で県の無形文化財に指定されてい 合わせ先阿南町谷 0 2 6 0 2 ・ 2 ・ ドい合わせ先飯田市谷 0 て舞、本舞、面の舞とつづく ワ 3 14 -4 1 よ ・・ 4 LO 1 人 11 る。人形浄瑠璃の原作を移入した丸 合わせ先天竜村谷 0 2 6 0 3 2 ・ ワ」 -0 : 0 こー 本で演じられるのが特色。問い合わ・市田の燈籠流し ( 八月十八日 ) ・清内路の花火 ( 十月六ー八日 ) ・どんど焼き ( 一月七ー十五日 ) せ先大鹿村谷 0 2 6 5 3 9 ・ 2 0 大正時代からつづく行事で、明神 村内三カ所の神社を順に、村人が 0- 1 橋上流から、新盆を迎えた霊を慰め手造りの花火を競演する。三百年ほ竹の先へ御幣をつけた「おんべ」 る燈籠が川面を彩る。同時に花火もど前に、三河地方から伝わったものを作り、各家の門松と共に焼く行事。 村る てい打ちあげられ、夏の一夜を明るくすで、花火は秘伝。問い 合わせ先清火にあたり、無病息災を祈ってモチ すれる。問し ) 合わせ先高森町谷 0 2 6 内路村谷 0 2 6 5 4 6 ・ 2 0 01 を食べる。伊那路一円。 LO っ 0 ・つ 0 11 ・ 1 よ 11 ・お練り行列 ( 十月十四ー十五日 ) ・新野の雪祭り ( 一月十三、十五日 ) は成 者構 満島神社の秋祭り。正式には「み ・くれ木踊り ( 八月ニ十ニーニ十三日 ) 五百年前から伝わる、田楽の祭り 、るち 年貢のかわりに〃くれ木み ( 屋根板こし渡御」といい ご神体が里へ下雪は豊年のしるしとして神前に供え じた 演人の材科 ) を納めて検分がすんだことり氏子の暮しぶりを視察する祭り。 る。みこしをかつぎ、新野伊豆神社 ドい合わせ先泰槍行列、ご神体、花笠の順に歩く。 にお礼する祭り。引 夏の祭り ( 六月ーハ月 ) 境内で、夜半まで舞う。重要無形民 ・和合の念仏踊り ( 七月十三ー十六日 ) 阜村谷 02602 ・ 6 ・ 2111 ドい合わせ先天竜村谷 02603 俗文化財問い合わせ先阿南町谷 ワ」・ワ」 0 : 0 11 -0- ワ」 -0 ・ワ」・ワ」 11 -4 11 元文一一年 ( 一七三七 ) 、江戸へ行っ秋の祭り ( 九月ー十一月 ) た村人が、帰りに川中島より持ち帰・五十鈴神社例祭 ( 九月ニ + 一〒ニ + 四日 ) 各の祭り ( 十一一月亠一月 ) ・事の神送り ( ニ月八ー十日 ) ・霜月祭り ( 十ニ月八ー一月四日 ) った祭りで、林松寺で行われる。新獅子が練り歩き、また面をつけた やく病神を村から追い払う行事。

10. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

起宿の民家ーーーかって の渡船場「肝煎」小川家 て、江戸時代の建築。 落ついたただずまいを もっ民家てある。 ト ' いので、「与惣右工門」という推測の名前を刻んで この起の宿駅の家並みに入る前、富田という所に 鎮魂の碑としたのである。これも水が生み出した悲一里塚が道の両側に榎とともにみごとに残されてい しい伝説の一つである。 この一里塚のあたりの中島佐兵衛氏の家が街道沿 また、この起宿のあたりの木曾川の底には、いく ふしみ えび いにある。ここの家で「起土人形」で知られる伏見 つかの村が沈んでいる。海老街道村・加納村は、そ てんぼう の一つである。数年前、木曾川が干上がり、川底が系の人形が江戸末期の天保いらい製作され、今日に みえじ 浮き上がって旧村の姿が見られたし、当時使用した及んでいる。中山道美江寺宿の縁日に売られる美江 ますみだ とみられる陶器などが発見されたりしたことがあっ寺の蚕鈴や、尾張一宮の真清田神社の飾り馬などの 川にまつわる悲しい物語は、起宿から墨俣、大郷土玩具は、代表的な作品である。 いちょう 町の中ほどに、起村の氏神「大明神社」が、銀杏 垣へと、美濃路に絶えることはない。 びさい 起は、現在周辺を合併して尾西市と称し、その中の大木の下にある。この神社の境内の一郭に「福島 心的な町となっている。そうして尾西毛織物の最大正則駒つなぎの木」と称する落雷で枯れた杉の木が 産地として尾張一宮市とならんで代表的な織物の町ある。これは慶長五年 (8 し関ヶ原戦争にさいし、 でもある。昭和十年代ごろまでは、女の人たちの手福島正則の一隊が渡河した地点であることを伝える 機を織るのどかな音が町に流れていたが、今は轟音伝説の木である。 この氏神から渡船場までの美濃路の家並みは、忘 にも似た動力織機の音が町にひびいている。この動 カ織機の金属的音律が、古い町のたたずまいと少しれていた落ついた暮らしの日の静けさを伝えてくれ この起の宿は美濃路七カ る町通りである。ことに渡船場の石畳を川に向かっ も違和感を感じさせない。 きーもいり て降りる手前の奥まった民家は、かって船方肝煎で 宿のうち、もっとも古い宿場町の姿をよく残してい れんじ′」うし る町である。連子格子の家、屋根が低く落ちついた木綿問屋でもあった家で、バランスのよくとれた、 の いつまでも見あきないたたずまいの家である。明治 家並み、道幅も江戸時代とまったく変わってはいな 。本陣の加藤家も史料を今に伝えている。この加十九年濃尾大地震でこのあたりの大部分の家は、倒 いそたり の もとおりのりなが 藤家から本居宣長門に入って国学を学んだ加藤磯足壊したが、この家は倒れることはなかった。この家ち が出ている。また、隣村の中島村には、画家三岸節は地震以前、おそらく江戸末期の建築と思われるこ 武 の地方では数少ない民家の一つである。 子氏の生家がある。なお、政治家市川房枝氏も、こ 3 やしろ 起宿の波戸場の右側の水神を祀った社に天保十三 の尾西市の出身である。 ばた みぎし て る。 えのき