御嶽山一一 - 古代から神々の 降臨する山として崇められ、 江戸時代には庶民信仰の山 となり、民謡「木曾節』に も唄われている。 雪の木曾川上流ーー木曾川 は木曾の山々に源を発し、 美濃を経て伊勢湾に注ぐ。 上流の棚田は、山国の厳し い暮らしを思わせる。 ,. 一をトイを : チょを、一
夏でも寒いョイヨイヨイ いわれている。今でも原始林的な林相をもっ王滝の 袷ナアーナカノリサン 国有林の中へ一歩足を踏み入れると、昼なお暗い溪 袷やりたやナンチャラホイ 谷に二百年から三百年を経たヒノキやサワラの大木 たび 足袋添えてョイヨイヨイ が生い茂り、冷気がただよって、夏でも寒い王滝村 の民謡『木曾節』の元唄である。 を実感としてとらえることができるというものであ 信仰の山として、毎年夏になると北は北海道、南る。江戸時代、王滝の山中奥深くはいり込み、木を は九州まで、全国各地から「御嶽まいり」とよぶ三伐り、木材を冷たい谷月 ! ーこ流す仕事にたずさわって 、一、 : 第ハ義十万人の登山者が集まってくる御嶽は、まさに夏で いた人たちには、まさに「夏でも寒い」御嶽村であ ったわけである。 も寒い霊峰であり「御嶽といえば木曾節、木曾節と いえば御嶽」と、両者は切っても切れない深いつな 故郷を遠く離れ、夏でも寒いというおんたけ村 がりをもって全国的にその名が知れわたっている。 ( 王滝村 ) へ山仕事に出掛ける夫に袷を仕立て、足 ところが「夏でも寒い御嶽」とは、初めは信仰の袋も添えてやりたいという妻の愛情の発露が「袷や りたや足袋添えて」の歌になり、さらに 山御嶽のことを歌ったのではなく、その山麓の村 じゅばん 「王滝」のことだという。江戸時代おのたけ村とか 八袷ばかりもやられもすまい襦袢仕立てて足袋 そえて おんたけ村とよばれた王滝村は、ヒノキの美林で知 と歌わせている。 られた木曾谷中でも、美林中の美林地帯で、谷中一 番面積の大きい村の大部分を広大な国有林で占めら 袷や襦袢に足袋を添えておくろうと歌う妻たちは れている。 また かむえだ 「木曾の御嶽夏でも寒い」の歌詞は、江戸時代の初 八東神枝伐るなよ主さ東神枝神の木だ けがあやま 期に作られた『山家鳥虫歌』という本にでてくる、 と歌って危険な仕事に従事する夫に怪我や過ちの 八みすじふろがや朝寒むござるこたつやりまし ないように神に祈っている。杣人たちはカムエダと よ炭そえて いって、樹幹が中途で二つに分かれ、捕り物用の十 」た古お て て人なな の替え歌で、みすじふろがやを木曾のおんたけ村、手状になった木は、山の神が腰をかけてお休みにな 立の虔もる 座里敬今い 御山、がて こたっと炭を、袷と足袋におき替えたものである。 る尊い木だから決して伐ってはならないとしてい 「よ从工 0 十′ トに生づ 江戸時代、諸国から木曾山へ入りこんでいた杣・ る。素朴な夫婦間の愛情をこめた素晴らしい歌声に っ 講素間卩 ひょう 嶽の信き 心暖まるものがある。 御ちい生日雇とよばれた山林労務者の数は八千人に及んだと 第を 木曾踊り ( 明治時代 ) 音頭に合わせて合 唱しながら踊るその高 くひびく歌声が、四囲 の山々にこだまする。 あわせ そま ぬし そ。ま ) と じっ
会田宿の常夜燈一一道 の両側に立つ堅牢な常、製 夜燈は、信仰する人々 の足元と心も照らしっ づけたことてあろう。 麻績宿の歌碑と冠着山 かっては、善光寺 参りや戸隠登山の行者 たちは冠着山を見て歩 きつづけたのてある。 ますがた 桝形の角に岡田番所があった。番所の東角に「右江氏が鎌倉時代に入って来て会田氏とも名のり、館や こく、つぞう 戸海道、左せんく王うじ道」の道標がある。江戸へ虚空蔵山城を築いたところから発展した集落で、新 いなぐら ほ、つふく 町の角に「左せんかうし道、右いせ道」の折れた道 は稲倉峠、保福寺峠を越えて行った。 あだざか 刈谷原峠仇坂の異名のように相当な難所。頂上には 標がある。坂道の本町には上下の問屋と、防火用の つり 茶屋跡や井戸が残る。一キロメートルほど下ると地蔵吊壁のついた家も残る。宿端には立派な善光寺 ばとうかんぜおん じようやとう 清水があり地蔵が苔むして立ち、馬頭観世音も所どこ 常夜燈が二基あり、明治まで毎晩燈火された。こ ろに立つ。一里塚跡も右手にわずかに残る。ここから まったけ たち しが の本町は鉄道開通以後まったくさびれてしまった。 立峠までは四賀村で、会田盆地とも いい松茸の産地で しゆく ぼだいじ こうでん この宿には会田氏の菩提寺の広田寺や、鎌倉時代の ある。 ちょうあん だいかくぜんじ 大覚禅師像を持っ長安寺があり、少し西方には鎌 かんじよう 刈谷原宿 倉時代に勧請された会田神明宮がある。 むりよう 岩井堂弘法大師袈裟掛の松と芭蕉の句碑のある無量 中世太田氏の守る刈谷原城より発展した集落で、 寺大門を通り、集落を出た岩山に信濃二十番の室町時 小規模な宿場である。上問屋の荷物倉と下問屋の倉 せんじゅかんのん あまざけ 代の千手観音を安置する観音堂があり、石仏や巡礼供 がわずかに残る。この宿の名物は栗こわ飯と甘酒で げんろく 養塔も多く、弘法大師が草庵を結んだという霊場であ あった。宿の上の沢端には元祿一一年 ( ←しのみごと る。この付近は石炭の産地で炭鉱跡が残る。 こうしん はなが な庚申像がある。 立峠うつつの清水と一里塚からまっすぐ登ると花川 とろ・ころ・ 洞光寺街道端に木曾義仲がかぶとを置いて参詣した 原峠、左の山道へ入ると急峻な立峠で頂上には茶屋跡 やくし こうぼうだいしけ という「かぶと石」があり、薬師堂前には弘法大師袈 もある。ここからの眺めはすばらしい。江戸時代には さがけ 裟掛の松と山犬石があり、裏の墓地には武田氏に滅ば この峠を中心にして坂南、坂北と呼んだ。指呼の間に しん′」ん された太田氏の墓がある。本堂にある真言八祖の画像 ある虚空蔵山城は武田氏や小笠原氏に攻略されて会田 しようがくじ にし′」り 八軸は県宝。平安初期の定額寺となった錦織寺はこ 氏は滅んだ。下りは広くなだらかで石畳が復元されて にしきべ ばんば 4 っ / 、ほ′、 の寺であろうといわれる。この地は錦部と呼ばれ、奈 いる。ここから猿ガ馬場峠までは筑北地方と呼ばれる。 良・平安のころ朝鮮より錦を織る文化人が派遣された 地域で、ここから会田へ行く丘陵地帯は渡来人による 須恵器の大製造地である。 会田宿 みだれはし 峠の下の間の宿で、坂道に古い民家が並ぶ。高札 場跡の奥に観音堂がある。道は集落を過ぎ再び中の うんの ものぐさ ちいさがた 小県方面で古代より栄えた滋野氏の一族、海野峠へ登る。低い峠の頂には物臭太郎の墓がある。馬 こけ わら
洗馬宿追分一一右の道 をとれば下諏訪宿に 左をとれば松本から善 光寺に向かう。街道の 静かな朝てある。 浄土への熱い想い善光寺街道の宿 みだ 「身はここに心は信濃の善光寺、導き給へ彌陀の浄善光寺街道、善光寺西街道あるいは北国西街道など 土へ。遠くとも一度は詣れ善光寺、救い給ふは彌陀 と呼んでいた。しかし古文書に出る正しい呼び名は ほっこくわきおうかん の誓願」 北国脇往還である。この道は古くからあったが、一 けいちょう 善光寺参りの道者たちは、御詠歌を唱えながら幾里塚や宿場が成立されたのは慶長十九年 ( 一し , 十百里の道を善光寺へ集まった。「牛に引かれて善 ろである。以後、明治三十五年に鉄道が開通するま 光寺参り」のことわざは古くから全国に行きわたでは、もつばら善光寺参りの人々がこの道を通っ ′」くらくおう り、一生に一度は善光寺参りをしなければ極楽往 じよう 生することはできぬと信ぜられてきた。善光寺信仰 以下、宿場を追いながら、史跡などを訪ねてみよ りやく の特色は現世利益でなく、浄土へ行けるという心の 安らぎであった。また善光寺は何宗にも属さず、女 洗馬宿 性の参詣者が鎌倉時代から多かったこともあって、 とくに江戸時代には女性が半ばを占めていた。善光 洗馬宿北端の追分に「右中山道、左北国西往還」 あみだ 寺信仰の普及は、平安時代中期の阿彌陀信仰と浄土の道標が立つ。ここからが善光寺街道。 れいげんじよ きそよしなか 思想の普及、霊験所めぐりの風習、諸国を遊行する 太田の清水郷原宿との中間にあり、木曾義仲 ( 一一 ひじり 生年不詳— 四 ' ・ ) の挙兵の際に ~ 「蜘兼平 ( 一一八四がここで会 聖の活躍により全国にひろがった。光寺さん』 、義仲の馬の足を洗ったという、洗馬の語原となっ 江戸時代には善光寺へ向かう道はたいてい善光寺 た清水で、句碑が立つ。 ききよう 道といわれていたが、とくに名古屋方面から中山道 ′」うはら 桔梗ガ原太田から郷原の東方一帯は桔梗ガ原と呼ば たけだしんげん を来て洗馬宿で分かれ、郷原、村井、松本、岡田、 かりやはらあいだあおやぎおみ れ、武田信玄 ( —七 ~=ー) が松本の小笠原と戦「て勝「 かいこん 刈谷原、会田、青柳、麻績、稲荷山の宿を通って篠 た古戦場で、江戸中期以後開墾され、現在は県下第一 ノ井追分で北国街道に合流して善光寺へ行く道を、 のブドウの産地。鉄道開通ころは松林も多く、狐が出 郷原宿本陣ー一一建坪約百 坪、里光りする大柱や 家の重厚な構えなど、古 い時代の豊かな暮らしの あり方をよく示している。 ほっこく ぜんこうじ ごえいか いなりやま う 0 宮川清台 長野県歴史の道調査員 きつね
善光寺 善光寺の歴史は古く、わが国に仏教が伝来した欽明天皇のと もののヘ きに、百済の聖明王が献じた仏像を礼拝するか否かで物部氏と 蘇我氏が争い、イ像は難波の堀江に沈められたが、それを救い あげ祀ったのがご本尊だといわれている現在の本堂は、江戸 幕府と諸国への出開帳で受けた寄進によって宝永四年 ( 一七〇 七 ) に建てられ、その後、たびたび修復されたものである善 光寺宿は、全国から集まる参詣者のために、旅籠や茶店が多く、 また、境内の院坊は、善光寺講中の宿泊所であった。この門前 町の発展したのが、現在の長野県庁所在地、長野市である ミ煢当 - ' 0 き , 、を , 才を第一・当ト . -. 、 1 ぃ くたら 善光寺全景ーー善光寺 の境内は広く、本堂、 三門のほか、二つの本 坊 ( 大勧進・大本願 ) と、これに所属する院 坊がある。 雪の善光寺ーー信′農は 雪国てある。江戸時代 から庶民信仰の中心と なった善光寺は、宗派 の別なく参詣てきる寺 てある。 物第第 善光寺本堂ー一本堂は 金堂とも呼ばれ、本尊 の阿瀰陀如来像は、白 雉 5 年 ( 654 ) 以来、誰 の目にも触れたことの ない秘仏てある。 イ 0
追分宿桝形 ( ますがた ) 茶屋ーーー「つがるや」は 昔の宿はずれの分去れ 近くにあり、桝形茶屋 の名て知られる。 信濃路の清流 「姫 の宿」と呼ばれ、宮家 や大名の姫君が多く泊 まったという小田井宿 近くの清澄な情景。 をも 1 ッ第 茂田井宿ーーー白壁造り が江戸時代の面影を残 す茂田井の造り酒屋。 往昔の中山道の静かな たたずまいてある。 笠取峠ーーーー笠取峠に今 も立つ松並木は、慶長 7 年 ( 182 ) 街道が整 備されたときに植えら れた。 第を ' - 。ニ廴を
起宿の民家ーーーかって の渡船場「肝煎」小川家 て、江戸時代の建築。 落ついたただずまいを もっ民家てある。 ト ' いので、「与惣右工門」という推測の名前を刻んで この起の宿駅の家並みに入る前、富田という所に 鎮魂の碑としたのである。これも水が生み出した悲一里塚が道の両側に榎とともにみごとに残されてい しい伝説の一つである。 この一里塚のあたりの中島佐兵衛氏の家が街道沿 また、この起宿のあたりの木曾川の底には、いく ふしみ えび いにある。ここの家で「起土人形」で知られる伏見 つかの村が沈んでいる。海老街道村・加納村は、そ てんぼう の一つである。数年前、木曾川が干上がり、川底が系の人形が江戸末期の天保いらい製作され、今日に みえじ 浮き上がって旧村の姿が見られたし、当時使用した及んでいる。中山道美江寺宿の縁日に売られる美江 ますみだ とみられる陶器などが発見されたりしたことがあっ寺の蚕鈴や、尾張一宮の真清田神社の飾り馬などの 川にまつわる悲しい物語は、起宿から墨俣、大郷土玩具は、代表的な作品である。 いちょう 町の中ほどに、起村の氏神「大明神社」が、銀杏 垣へと、美濃路に絶えることはない。 びさい 起は、現在周辺を合併して尾西市と称し、その中の大木の下にある。この神社の境内の一郭に「福島 心的な町となっている。そうして尾西毛織物の最大正則駒つなぎの木」と称する落雷で枯れた杉の木が 産地として尾張一宮市とならんで代表的な織物の町ある。これは慶長五年 (8 し関ヶ原戦争にさいし、 でもある。昭和十年代ごろまでは、女の人たちの手福島正則の一隊が渡河した地点であることを伝える 機を織るのどかな音が町に流れていたが、今は轟音伝説の木である。 この氏神から渡船場までの美濃路の家並みは、忘 にも似た動力織機の音が町にひびいている。この動 カ織機の金属的音律が、古い町のたたずまいと少しれていた落ついた暮らしの日の静けさを伝えてくれ この起の宿は美濃路七カ る町通りである。ことに渡船場の石畳を川に向かっ も違和感を感じさせない。 きーもいり て降りる手前の奥まった民家は、かって船方肝煎で 宿のうち、もっとも古い宿場町の姿をよく残してい れんじ′」うし る町である。連子格子の家、屋根が低く落ちついた木綿問屋でもあった家で、バランスのよくとれた、 の いつまでも見あきないたたずまいの家である。明治 家並み、道幅も江戸時代とまったく変わってはいな 。本陣の加藤家も史料を今に伝えている。この加十九年濃尾大地震でこのあたりの大部分の家は、倒 いそたり の もとおりのりなが 藤家から本居宣長門に入って国学を学んだ加藤磯足壊したが、この家は倒れることはなかった。この家ち が出ている。また、隣村の中島村には、画家三岸節は地震以前、おそらく江戸末期の建築と思われるこ 武 の地方では数少ない民家の一つである。 子氏の生家がある。なお、政治家市川房枝氏も、こ 3 やしろ 起宿の波戸場の右側の水神を祀った社に天保十三 の尾西市の出身である。 ばた みぎし て る。 えのき
奥の細道むすびの地 色蕉は元禄 2 年春、奧 州の旅に出、大垣に 9 月 3 日に着き、 奥の細道の旅を終えた。 根性が成長した。 など、水害に対する人々の生活の知恵が輪中の風物 本流支流が入り組み、いわば大小の数多い川中島誌を形づくっていった。 めぐ があるようなこの地域では、廻らされた堤防、広が 平常の穏やかな川々では、多くの人々が漁業を行 う力い る堀田と水路、高い水屋や屋内につり下げられた舟っていた。なかでも、長良川の鵜飼が領主の保護の もとに続けられた。 場はえ住 岐阜の北、鵜飼荘の荘民が、鎌倉時代、東側を流 着り栄は 船たて物 れていた長良川の主流で鵜飼を行い、 魚年貢を納 のあ船建 あゆ のといる 湊人高あめ、朝廷へ鮎を献上していた。その下流の江口あた 揖の商、て 、このて台 りで、室町時代の末に乙津寺に宿泊した一条兼良が 垣国地燈 大諸た吉 鵜飼を見物し鮎を賞味したこともあった。 その後、主流が岐阜の」 匕側に移ると、鳥飼は長 良・小瀬で行われるようになった。織田信長 ( 四 ) は業者を鵜匠として遇する一方、多くの鮎を納 めさせた。関ヶ原戦後、岐阜・長良の地が幕府の直 あゆずし 轄領となると、鮎鮨が将軍に献上され、鵜匠も保護 をうけた。以来、鮎鮨は江戸城へ二昼夜以内に運ぶ 特送便で送られることとなった。そしてこの地が尾 張藩領に編入されたのちも、鮎鮨は江戸藩邸へ送ら れ、将軍に献上された。 みようじたいとう 鵜匠は、扶助を与えられのちには苗字帯刀を許 されるなど、藩の保護下におかれてきたが、納入すを る鮎の量が多くなると次第に人数は減少した。 当時すでに鵜飼はめずらしい漁法となっていた。 藩侯も観覧して楽しみ、岐阜を訪れた芭蕉もその風 青に興をそそられ、「おもしろうてやがてかなしき 鵜船かな」と詠んでいる。 ノ 5 ノ
美濃紙干し一一一江戸時 代、美農 11 郡 1 % ケ村て 生産され、大矢田 ( 美濃 市 ) て紙市が立ち近江 商人が諸国に普及した。 、ミまミ、さ、、ミミゞ。きドごミトミ 木曾川のへたか舟 木曾川の舟運は、木曾材の川下げの合間をぬって 行われたので、はじめはそれほど発達しなかった が、川下げが冬に行われるようになり、また、農民 の商品生産が発達するにつれて、大きく伸びていっ かなやま くろせ いぬやまおお 上流の兼山 ( はじめ金山 ) ・黒瀬、中流の犬山・太 うぬまかわだきたがた たかわいかつやまおおわき 田・川合・勝山・大脇 ( 土田 ) ・鵜沼・河田・北方・ っしまさや えんじようじかさまっ おこし 円城寺・笠松、下流の起、支流の津島・佐屋、木曾 し・もあ・そう みなと ひだ 川に合流する飛騨川の下麻生などの湊 ( 港 ) ・河岸が 発達した。 ながよし 兼山は、永祿八年 (*l&) 森可成 (— 一五八 ) が入っ て城下町を整え市を立てると、湊としても発達し、 くわな うんそう 以来、東濃地方の物資を笠松・桑名・名古屋へ運漕 のぼ し、塩をはじめとする諸物資を登せる (*() 拠点暮 となった。ことに、兼山の塩問屋が広い後背地への 塩販売を一手に握った。東濃・飛騨南部の山間地に 至る塩の道は、この湊を起点としていた。 しかし、江戸時代もなかばをすぎると、兼山の上 高牧實 心女子大学教授
「さらしなは右、みよしのは左にて、月と花とを追分の宿」と道標に 記した信濃追分は、中山道と北国街道 ( 善光寺東街道 ) との分岐点で ある。中山道は小田井、岩村田を過ぎ、塩名田で千曲川を渡る。八幡、 望月を経て、江戸時代の面影を今に残す茂田井、そして芦田、松並木 の笠取峠を越えると、長久保から和田に至る。和田峠から下諏訪まで の五里一八町 ( 約ニニキロメートル ) は、冬から春にかけて雪が深く 難所であった。古くから湯治場として栄えた下諏訪から日本の分水嶺 にあたる塩尻峠を越えると塩尻の宿となり、木曾路に至る。また、つ ぎの宿場洗馬近くから右に道をとると、松本を経て善光寺に向かう善 光寺西街道があった。 みらしるヘ