高山 - みる会図書館


検索対象: 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道
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1. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

男女のワラ人形をみこしとして、笹せ、次の村へ送る。引 ドい合わせ先飯ごとにこの飛騨の山中で開化してい 削り過ぎが許されないこの彫り物 竹 ( 馬の絵や字を書いたもの ) とあわ田市観光課谷 2 ・ 4511 る。日常生活に必要な小物から、家は、大胆なカットであるにもかかわ 具、道具、あるいは子供の玩具かららす、流線的である。 祭りに手るまで。 高山の街を歩いて気づくことだが、 川をたどる道飛騨路 高山祭りは、飛騨のエ匠の技術を一刀彫りは、どの店にも置かれてい にみつけたのが温泉郷の発端だとい象徴している。四月十四、十五日のる。それらのすべてが、エ匠の手仕 う。ことはどさように、下呂温泉の山王祭りと、十月九、十日の八幡祭事から成るものはかり。高山にいる 名古屋から高山本線で約三時間 歴史は古く、江戸時代の学者、林羅 りに繰り出される屋台がそれを物語八十人以上の彫り師たちが、毎日、 鉄道は飛騨川にびったりと寄り沿う山は、有馬、草津と並ぶ、天下の三 っている。絢爛豪華に飾りつけられノミを動かしている。彼らはちょっ ように北に登る。車窓から見る飛騨名泉の一つだとはめているはど。 とした軒裏、千本格子の奥にすわっ たくみ 日は国定公園にも指定されており、 て、一日九時間以上もの間、彫りつ 町 工匠の里高山 変化に富んで美しい デづけているのだ。 特に、飛騨金山から下呂までの約下呂を過ぎると、高山まであとわ 高山の町で、何気ない民家の格子 二八キロは、「中山七里」といわれ、すか 内戸の奧に、キラリと光るものを見た 溪谷のすはらしさで名高いところ。 高山は、東に乗鞍岳を中心とする 山なら、それは飛騨のエ匠の持っ伝統 高 秋ともなれば、深紅に染まった紅葉北ア連峰、西に白山、南に御嶽、北 の技であるだろう。 や蔦が川を彩る。 日は時にゆったりに立山と、日本の名立たる峰に囲また屋台のすばらしさは、一口には表 と淡い緑の流れをみせるかと思えば、れた山の中にある。町中を宮川、江しがたい。からくり人形が仕掛けら 乳白色の花崗岩に打ちくだけるよう子名川、苔川が静かに流れ、碁盤のれたり、おのおのの屋台には、彫刻、 中山道美濃路十六宿は、中津川を に身をまかせたりする。 目状に、おくゆかしく家並みがつづ染色、織り、金具、塗りと、エ匠の過ぎて西に進むと、木曾川を渡る。 そして、温泉郷下呂。ほのかな湯く。そのたたすまいは、飛騨の小京あらゆる技のさえが一同に互して、 「木曾でかけはし、太田で渡し碓 けむりの町は、美しい丿 日と山に恵ま都と呼ぶにふさわしく、玄関の格子、一分の隙もない鮮やかさだ。 水峠がなくばよい」と詠われたよう れている。三百年前に開かれた温泉出桁造りの二階、黒光りする瓦屋根 に、木曾川が街道と交差する太田の 一位一刀彫り 寺が町を見守るように建っている。 と、見る者に安らぎを与えている。 渡しは、旅人たちにとって、中山道 伝説では、千年も昔に、白鷺が最初 また、合掌造りで名高い白川郷は 一位とは、アララギの木の別名での三大難所の一つに数えられたのだ。 さらに山深く分けいった奧飛騨にあもある。高山市の南にある位山に多満々と水を湛えながら、見た目より る。飛騨の工芸品は、つとに有名だく育つ。その名のとおり、木は枝葉すっと急な流れの木曾川。その流れ 里が、これらの伝統工芸を伝えてきたが少なく、年輪が作る木目が美しい は今も変わらないが、舟は橋になり、 山のが、「飛騨のエ匠」である。それは、飛騨のエ匠たちが、この美しい木を車で走れば、渡りきるのに一分とか 線誰という名差しの人ではなく、人か生かしはしめたのは、今から約八百からないだろう。太田の宿に残る、 山ら人、手から手へと伝わってきた技年前のこと。江戸時代の終わりには、川畔の脇本陣が、わずかに当時の遺 高 術と心意気のこと。伝統の技は、み一刀彫りは大成された。 構を伝えているようだ。 山ひだの道 さん -0- ワ】、 6 LO ・ 川を縁にして

2. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

ーをー要ご物をヂ 飛騨路は、中山道藪原宿から境峠・野麦峠を越えて高根・朝 日・高山へと出る道、中津川宿から苗木・付知・下呂・宮ノ峠 を越えて高山へ出る道、郡上街道の金山から難所中山七里を通 って下呂・高山へ出る道と、いずれも険しい道であった。高山 からは古川・神岡・大沢野を経て富山へ出た。飛騨盆地にある 高山は、この地方の交通の要衝であり、産業の集散地であった。 飛騨の小京都として独自の文化が発達したのも、また無理から たくみ ぬことといえよう。飛騨びとが天平の時代から「飛騨の匠」と して皇居や寺院の建立に当たったのも、木材を扱い、木工の技 にすぐれた山国の人びとであったからで、その歴史と伝統は今 も飛騨路に残っている。 白川郷の合掌づくり飛騨の車ーー飛騨の 高山の奥、白川人びとの生活は、樹 郷は平家落人伝説てて明け木に暮れた。 知られ、切妻合掌づ木材を運ぶには、険 くりは大家族制の名 しい山道を堅牢な車 残てある。 て運んだ。 高山の囲炉裏 -- - ーー独高山三町 ( さんまち ) 特の工芸の発達した筋ーー一高山の真ん中 高山ては、囲炉裏も を流れる宮川の東の 三町筋は城下町高山 建築と調和させ、精 緻な空問を構成しての商人町て、昔の面 影が今も残っている。 いる。 730

3. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

御救小屋と乗鞍岳 - ー - 野麦峠の道は、冬場は ことに困難をきわめ、 乗鞍を還望する絶景も 時として非情てあった。 この道は、飛騨の側からは、信州街道・江戸街道 野麦街道の遭難 と呼ばれた。 ひらゆどおり 明治八年二月、奈川村民が野麦街道で遭難した話 一方、″山道〃は、飛騨道 ( 飛州平湯通 ) と、松 あぼう 治八 ) に報告されてい が、『信飛新聞』 ( 年 = 一ル十六日付 本平の人びとが呼んだ道である。安房峠・平湯峠越 る。 約九九キロ えで、松本・高山間、二五里半 ( メ ) のル 1 ト 材木渡世高宮庄左衛門 ( 三十 ) は、飛騨国益田郡上 であった。 ケ洞村へ出掛け、二月一日の帰途、野麦村へわずか半 いねこき にゆうやま つのがだいら 松本ー四里半ー稲核ー三里ー入山ー一里ー角ケ平ー一 里ほどのところで、深雪に片足をふみこみ、横死し いたはぎ 里ー大野川ー八里ー平井 ( 湯 ) 村ー二里ー大手村ー一里ー た。二月七日には、板剥職の忠地金三郎 ( 歳 はたほこ ( 旗鉾 ) ー一里ー足立ー一里ーこの ( 小野 ) 村甲州から帰国しようと、甲信国境の境峠で凍死したの で、雪風に馴れた強壮な男も油断すると生命を落とす ー一里ー堤ー一里ーまこもー一里ー高山 と、奈川村民はいましめあった。また、二月六日に この〃山道〃の角ケ平の取付から藪原へぬける道 は、牛方の忠地半七が、牛一五頭を牽いて島々からの ゆきなげ があり、途中、寄合渡から西に入ると野麦峠へ通じ 帰途、入山の近くで″雪投″ ( なだれ ) にあった。烈し ぜんこうじ た。野麦から、松本や善光寺をめざす人びとにとっ い風雪のため、妻子と男三人が迎えに出たが、男二人 て、寄合渡で北に折れ、入山・稲核とたどる道は、 が雪に埋もれて絶命した。最初の牛五頭をつらねて山 路を登る途中の″雪投〃で、ハナウシは圧死。中の三 " 本道。より五里 ( メ 約二〇キ 0 ) ほど短く、やがて、こ 一五〇メ 頭は五〇甦。 ( ートル余 ) の谷底に落ちたが無事で、シ れが野麦街道と呼ばれるようになる。いまも、松本 ンガリのヒキウシは、〃雪投〃に驚いて引きさがり、 の方から入山の集落に入る路傍に、自然石の碑がた そのおり、忠地半七の長男兼吉を角にかけて逃げたの たずんでいる。「嶮道新造塔」で、険しい斜面に新 で、牛とこどもが助かった。ふだん、兼吉少年が牛を しい道を開通したときの記念碑である。刻みつけら 可愛がったためだろうと、もつばらの評判であったと れた「天保十五載辰七月吉旦」の文字と発起人の 名から、天保十五年 (") の夏、商人や牛方をふく む人びとが、この道を開いたことがわかる。 県ができた。この県の、松本の県庁と高山の支庁を 結ぶ公用道路が、野麦峠越えの道であった。たとえ ごんれい 御救小屋が生命を救った ば、明治八年、権令永山盛輝みずから、稲核・入 明治四年 (ljl<) 、廃藩置県と直後の合県で、信濃山・寄合渡・川浦・野麦峠から高山へのルートを往 ちくま 『信飛新聞』第八九号。明。 また、筑摩県で 国中信・南信と飛騨高山とを一つの県域とする筑摩復している 治八年十月十四日付 てんぼう ひ 2

4. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

昭和初期のポッカ 大を連れ荷車を引いて 行くホッカの、変遷か ら終焉を暗示する興味ミ 深い写真てある。 飛騨路の荷背負人〃ボッカ〃稼業 ら、できることなら馬の背にたよりたかったが、飛 ドオ馬 騨の山路の条件がそれを許さなかった。街道筋の宿 かなもりごろはちながちか うまつぎ うしつぎ 金森五郎八長近 ( 一 一六 d 七が豊臣秀吉の命令を受場に馬継でなく牛継としてあるのは、そうした事情 ひだ けて二つの道から進み飛騨国を平定してから、飛騨による。主な街道でもそうなのだから、奥山をぬう たかやま 山道はいうまでもない。 は江戸時代の前半期は金森氏が城下町を高山とし、 げんろく じきりよう うまかた 馬をひくこと 元祿五年 (lfi) 以後は幕府の直領として高山陣屋 荷は、道が険しく狭いため馬方 ( を業とする人 かたぼっか に治められてきた。いずれにしても飛騨一国は高山方・負荷 ( 歩荷 ) にたよるほか、川を利用して川下 だいはちぐるま の町を中心として、まとめられてきた。したがっ げを行っていた。大八車は、初めはなかった。大 て、道は高山を中心にして各地に通じ、人と生活に 八車の初めは、ズンド切り車といって、ケヤキやナ 必要な物資は運ばれていた。 ラの大木を十センチくらいの厚さに輪切りし、中央 かんえい しんぼう 高山と地方を結ぶ主な街道は、江戸初期の寛永 に穴をあけて心棒を通して車輪とするものであった ましだ が、それも、できたのはずっと後のことだった。 —四四 ) のころ三つあった。一つは益田街道とい どしま 、高山町から南下し美濃へ通っていたし、一つは えっちゅう 度市参とポッカ 越中街道といい高山町から北へ通じていた。残り しんしゅう 一筋は信州街道といし 、高山町から信州境をめざ 牛に荷をつけたり、馬に荷をつけたりしたほか といや して東へ走っていた。三街道は旅人も多く、物資も に、人が荷物を背負って運ぶことがあった。問屋へ 多く動いていたが、道幅があまり広くないため、荷荷をよせて、牛・馬の代わりに運んだのである。背 えた を運ぶには馬にたよれなくて、牛の世話になること板に、頭の上まで荷をつける。一〇人も一五人も並 が多かった。馬よりは牛の方が、険しく狭い道を通んで重い荷物を運んで歩く。休むときには、持って じよう *. ることは上手であった。ただ牛はのろかった。だか いる棒で荷をつつかえて休んだ。少し行っては休 みの 吉岡勲 岐阜市文化財審議委員 うし 760

5. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

22 21 8 ・ 野麦峠を通った荷物と人 ( 弘化二年八月 ) -8- ・ 1 人 越中四方 ゅ折敷 ( 七東 ) 箱 ( 八組 ) 面桶 ( 六五 ) 作右衛門 刻煙草 ( 一貰二〇〇匁 ) 小八町方村 中牛 ( 四匹 ) 彦有衛門 信州稲技村 十こんにやく二貰匁 ) 信州松本 利七 売薬 ( 二貰匁 ) 次衛 信州高遠 石蔵 8 ・ 3 難卵 ( 二〇〇 ) 信州松本 当薬 ( 五八斤 ) 高山川原町 清助 売薬 ( 三〇〇匁 ) 大疾衛 信州高遠 新張村 林檎 ( 五十 ) 柿 ( 八〇匁入 ) 清有衛門 越中石動 8 ・ 6 面桶 ( 九二 ) 越中上市乂四郎はか一人 8 ・ 7 硯箱 ( 四二 ) 高山五之町 次助 8 ・ 8 蚕種 ( 二〇枚 ) 州 - い亠田 善衛 林檎 ( 一石 ) 阿多野郷野麦村助次郎 ・間売薬 ( 六〇〇匁 ) 信州稲孩村 林左衛門 売薬 ( 七〇〇匁 ) 上州大仁田村三蔵 玉子 ( 三〇〇 ) 高山片原町 卯助 新張村 林檎 ( 一石五 + ) 小間物 ( 六〇〇匁 ) 信州牟礼宿 生冂・月 子 ( 三〇 O ) 高山神明町 子 ( 四〇〇 ) 高山八幡町 惣有衛門 玉子 ( 三六〇 ) 高山壱之町市三郎 子 ( 三〇〇 ) 高山八幡町 卯助 玉子二八〇 ) 庄八 占城郡四ち 紋有衛門 子 ( 一八〇 ) 玉子 ( 四 O 〇 ) 高山沂町 浅吉 青大に 小間物 ( 三〇〇匁 ) ゞ、、′白い 刻煙草 ( 三貰六〇〇匁 ) 高山八幡町 久左衛門 合羽二枚 ) 与十郎 濃州大井宿 鰹節 ( 四八本 ) 信州八五原宿忠吉 子 ( 一〇〇 ) 高山八幡町浅占 野麦村 当薬二二斤 ) そそけ ( 一六 ) 子 ( 二〇〇 ) 高山片原町 政蔵 越中水橋 文吉 売薬 ( 三〇〇匁 ) 蚕種 ( 三枚 ) 信州上田 太吉 上膳 ( 二三八枚 ) 高山三之町 嘉助 刻煙草 ( 一貫八〇〇匁 ) 高山向町 玉子二〇〇 ) 刻煙草二貫八〇〇匁 ) 高山向町 茂助 玉二〇〇 ) 越中高岡 面桶 ( 二八 ) 、イ」白い 小梨 ( 三〇〇 C ) ) 高山穴町 次衛 子 ( 八〇〇 ) 州松本 小梨 ( 七 0 〇 ) 真綿 ( 一一贒七 ( 〔 ) 匁 ) 高山新町 いカ ・真綿 ( 三貰七七〇匁 ) 高山穴町 作衛 間物 ( 三 C ) 〇匁 ) 信飯Ⅲ 小間物 ( 六〇〇匁 ) 越中氷見八十八はか一人 信州田 蚕種 ( 一八枚 ) 8 14 12 人 重助 しそいで村役人に届けること、御林の木は一 個 ) 、八月二十四日に玉子 ( 一〇〇個 ) ・小梨 ( 七〇〇ⅵ 個 ) を運んでいる。高山に近い新張村の兵蔵は、八 本でもみだりに切ってはならず、薪など入用の分は りんご 村役人の指図を受けること、などが番人重助の守る月四日に林檎 ( 五斗 ) 、八月十二日にも林檎 ( 一石 かたはら 五斗 ) を持って通った。高山片原町の政蔵は、八月 べき条々であった ( 黻世 ) 。 御救小屋には、その後、さまざまな変遷があった 二十一日に玉子三〇〇個 ) 、八月二十六日にも玉 が、しばしば文字どおり、通る人びとの生命を救う子 ( 四〇〇個 ) のロ役銀を取り立てられた。一カ月 小屋となった。明治後半から、大正期においても、 に二回、峠を越えて商品を運ぶ者が、何人かいたの 製糸工女が、この救小屋で一息ついた話が残ってい である。八月一日から八月二十九日までに、番所で る。 御ロ役銀を払った人は五二人。多い日は五人、まっ たくなかった日は、九日十三日・十八日の三日間 峠の番所の通行税 だけであった。 野麦峠から飛騨側に下りた上ケ洞にあったロ番所 なお、野麦街道の信州側の番所は、川浦 ( 尾張 しまじまだに そうが 嘉永年間に寄 は、峠を通って荷物を運ぶ者たちから御ロ役銀をと藩、 ) 、島々谷の橋場 ( 松本藩 ) 、宗賀の 合渡へ移す ころ・か 本山 ( 尾張藩 ) などにおかれた。 った。弘化二年しの夏、八月の記録によると、 上ケ洞番所で、御ロ役銀を払った人の住所や荷物が 飛騨の娘の稼ぎ道 わかる。信州稲核村の人の牛や売薬、松本の人の干 こんにやく・鶏卵・小梨、信州上田からの蚕種、信 野麦峠を下った信州側の最初の村は、尾張藩領の たかとお むれ 州高遠の人の売薬、信州の牟礼宿・飯田の者などの筑摩郡奈川村である。明治九年の村勢をみると、三 おおにた 一三戸・一一九五人、民業は、農家八〇戸・牛逐賃 」間物、遠くは、上州大仁田村の人の売薬、草津の いするぎ ひみ 人の小間物。一方、越中は石動の人の柿、氷見の人付営業三六戸・雑業二〇戸・農猟兼業八戸・工業一 ひえだたんせ の小間物、高岡や上市の人の面桶がロ役銀を課せら四七戸・計二九一戸となっている。稗田八反七畝一 すずり きざみたばこ れ、高山からは、硯箱・玉子・刻煙草・小梨・上五歩、畑三〇一町八反二畝と、水稲はできなく、稗 でかせ ぜんまわた 膳・真綿などをたずさえた者が野麦峠を通った。さ田と畑作の村である。そのため、出稼ぎや商品販売 による現金収入を必要とした。とくに、牛をつかっ まざまな生活用品が、牛などとともに、番所を通っ ているのである。 た駄賃稼ぎが、この村の生計を助けてきた。この村 うしかた 信州松本の石蔵は、八月三日に鶏卵三〇〇の男たちは、冬期、牛方 ( 牛士 ) として、牡牛を追 かみいち

6. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

1 。 139 。 138 。 137 。 37 。 街道地図 ー江戸時代ー 都道府県界 ー国界 信 ) 農 昔の国名 五街道 道中奉行管轄下の脇街道 その他の主要街道・脇街道 0 城下町 おもな宿場町 回 宿駅のある城下町 ▽ 郡代・代官の陣屋 関所 おもな峠 〔注〕斜線内は本巻収載の地域 栃木 能 登 山 潸 飯山 小谷 善光寺 ( 長野 ) 須坂 富 越 中 松代 浅問 川上田 加 軽井沢 碓氷峠 追分 訪島 和諏高 本尻 高山 洗当 奈井 福井 埼 野麦峠 鳥居峠 福島 36 36 。 上諏訪 言田 道 越 月リ 御嶽山 高 八王子 妻籠 禾リ 馬籠 苗木 中津川 岩村 奈模 神相 , 坂大竡 富士山 大山 関ヶ原 小田原 相 模 湾 足助 桑名・ 35 。 35 。 刈谷 遠天竜 ・岡崎 島田一 イ尹 鈴鹿 御油 吉田 ( 、讐橋 ) ・ 0 西尾 粐湾 ・一山津 駿 湾 河 付 伊賀 伊努 50 137 139 。 138 。 構成・仲浩

7. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

飛騨高山の祭り 0 み ( ) 朝 第いをい 片野のカンカコカン ( 闘鶏楽 ) で始まる「高山祭り」の起源がいっかという ことは、はっ 0 り・わからない 。しかし高山城主金森氏、天正十四年 ( 一五八六 ) から元祿五年 ( 一六九ニ ) の問であったと記録されている。元祿時代に屋台が 登場し、幕府直轄の天領となってからも飛騨郡代が祭りを奨励している。大原 騒動 ( 一七七一 5 八九 ) 前後に旦那衆と呼ばれる豪商が競って屋台を作り、組 に寄附するなどして、屋台に関心が高まっていった。飛騨の匠の技術と結びつ : んらん いて絢爛豪華な屋台芸術が発展してきた。現在、春祭り ( 山王祭 ) 一ニ台、秋 祭り ( 八幡祭 ) 一一台の屋台がある。ここでは春祭りを扱った。 麒麟台 - ー国主金森氏 より拝領の麒麟 ( きり ん ) の香炉がこの組内 にあったことから名が ついた。最も豪華な屋 台て、名工谷口与鹿の 唐子群遊の彫刻が自幔。 五台山一一屋台の 王者といわれる。 下段の飛獅子の彫 刻は名工和四郎の 作てあり、彼は " 幕 末の左甚五郎 " と まていわれた。 732

8. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

赤カプを洗う高山の人 たち一一一山の町の川の 、流れは、野菜を洗い米 、一をとぐなど村の共同の 暮らしの場てもあった。 が、ほとんどは高山の商人が買い、岐阜加納の傘は 明治時 ) こよ 今から七十年ほど前 ( 代末期 日和田米の飯やお盆か正月 り用に出した。大雪のときは村中総出で雪をどけて とうたったくらいである。三度のご飯にお米が食歩いた。したがって、役場から日和田の道は確保で べられるようになったのは大正の中ごろからで、アきたわけである。 はだかむぎ ワやヒ工にまぜて食べたのである。裸麦を作って 遊びというと、踊りのほかは何もなかった。夏の ちゅうがら 成功したこともある。「ソバは中稈」といって、ソ祭りや盆にはむろん踊るが、正月も六晩か七晩つづ けて神社の森で踊るのである。正月一日に新年宴会 バは二尺五寸から三尺くらい ( 約七六九〇セ レ ) の稈が さかな いちばんいい実がとれるが、四尺—五尺 ( 約 五メートル ・ ) をする。一軒に一人ずつ肴を持ち寄って酒を飲んで になるとだめだった。農耕馬は、六、七戸は自分の騒いでから、あとは若い衆がみな神社へ行って踊 馬を使っていたが、他は全部素封家の馬小作で、そる。火もたかずにカチカチに凍った上でドンドンと たび こには、盛りには二、三百頭の馬がいた 踊るのだ。紺足袋にガマ緒のゾウリばきだが、その 馬小作とは、馬を飼い、 こどもをとって、その子ゾウリまで凍ってしまうのだった。 を二歳にして売り、親方と小作が半分ずつわけるも そして昔は、こどもは家で母親に教えを受けた。 のである。そのためには飼料の草刈りは大切な仕事「家へはいるとこの土台は踏むなよ。あれは親のま だった。大正末期まで盛んで、山唄にもうたったも くらじゃぞよ」 のである。 「秋葉さまの影を踏むなよ。なまづめを起こす ( は 草を刈るかよ刈り干しょ刈るか がす ) ぞ。ばちがあたる」 さと 鎌が切れぬかおいとしゃ などと諭したのである。 業 こうした飛騨の生活の中から、運送を担当する者稼 ′踊りが唯一の遊び カ としてポッカは生まれ出た。品物を集めた問屋で受 にな 現金収入としては、日和田では馬小作とワラビ粉け取り、集団を組んで運んだ。五貫目以上を担って 人 しよう 負 だった。馬小作は素封家から、ソバを五升、ヒ工あるく集団であった。険しい山路をのろのろと歩い 背 を一斗とか借りてきて、馬を売っては清算してい て物資をはこぶ集団であった。これが海のない飛騨の た。ワラビ粉はワラビの根を掘りとってきれいに洗へ塩を運んで生活を成立させてくれた。この道は信騨 ちんでん 、水車でついて、でんぶんを沈澱させて、とっ 州にまで通じて、飛騨は山地なのに海魚がくるとさ 3 食料としてもうまい。信州へも多少は出した え錯覚された。参考文献岐阜県立図書館「山と水に生きる』 かま かさ

9. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

ポッカによる荷物の運 送ーーーー背負子て重い荷 を運ぶのは今ては山小 屋の荷物運搬などてあ る。木曾てはショイコ をモチコという。 ッ背中に落ちてきて、背中が塩むけをして痛くてたのかすであるおからを城端から買ってきて食べた。 まらなかったという。 今なら牛に与えても、見むきもしない。 うち 着るものは、みな家で織った。夜昼、糸ひきをし はんてん 飛騨プリの由来 て、機織りをし、家の中の布を織った。半纏とたっ つけ ( 裁衣、 まカま ) を乍って、仕事をするときはい 天保九年 ( 一一し高山御役所の御用板を運ぶはずの の一種 , 1 牛方がさかな荷をつけて運んだため、御役所から注つもそれを着た。 意されている。民需としての塩魚が大切であったた 昔は「ことばし ( 小燈 ) 」があった。城端で石油 約〇・五四 めであろう。このように信州松本へは越中 ( 富山 を三 ( リ ) 入るカンに買ってくる。プリキの とぼ 県 ) の海魚が高山を通して流れこんだ。「飛騨プカンであったが、それだけで一年中点した。その時 しおけ リ」と松本でいうが、四方を山で囲まれた飛騨に海分はまた、塩気が大切だった。一軒に二俵ずつの割 で獲れる魚などあろうはずがない。高山をポッカが合で、合計一〇〇〇俵の塩を役場で買っておいて、 背負って通ったというにすぎない。その証拠に高山ずっと何年越しにも分けて使った。あとになると値 では越中プリと呼ぶ。みんなポッカが運んでくる土が高くなるからといって、皆でいっしょに一〇〇〇 地の名をつけて呼んだものだ。 俵買ったのである。ところが雨がふると、塩がポッ ポッカは、わらじばきであった。道はそこらじゅ ポッと溶けてきて下に落ち、かえって損をするよう う馬ぐそや牛ぐそがあった。雨が降ると馬ぐその玉な苦労もあった。 ひわだ がこわれて、こまかくなっていた。足がくたびれて 日和田というところは飛騨の東の方にあたるが、 きたら、その馬のくその上を歩くようにと教えた。 ここでは焼き畑耕法を戦後までやっていた。一度焼 石には毒な石があって、その石を踏まないように用 くと三年目まではどうにか作物が穫れるから、四年 心せよと教えたのである。 目にまた別の山で木を伐って火で焼いた畑を作っ 焼ききってしまうと、割に木の根を掘り起こす 貧しかったポッカの暮らし 手間はかからない。 ソバはよく穫れた。山地のこと ポッカの暮らしといっても、ふつうの飛騨の暮ら とて、ソバ ・ヒエ・ジャガイモがよく穫れた。とく しと違わなかった。荘白川では昔は米が穫れなかっ にソバは米の代わりの常食となっていた。小学校の もち たので、あわれな生活だった。人も牛の食糧と変わ昼弁当にも、ソバ餅といって味噌をつけて焚き火で あぜ りはなかった。畦のヨモギを取りにいったり、豆腐焼いた餅を生徒が持ってきた。 てんぼう はた ノ 62

10. 日本の街道4 山なみ遙か歴史の道

を三気ー′ ぃ : 第し ~ ・をを 3 一 峠を越えた娘たち 出稼ぎのみち野麦街道 野麦街道と呼ばれるまで しんしゅうまつもと 近世中期、北アルプスを踏み越えて、信州松本 のむぎ ひだたかやま から飛騨高山へ歩く道に、「野麦道」と「飛騨道」 きよ、つほう . があった。享保九年 ( 一一しに書きあげられた『信 ほんみち 府統記』には、松本から高山への道として、本道 やまみち ( 野麦道 ) と山道 ( 飛騨道 ) がしるされている。 しおじり ″本道〃は、松本から南下し、いまの塩尻市から木 よりあいど ながわ ゃぶはら 曾郡に入り、藪原から奈川村の寄合渡・川浦、飛騨 国大野郡高根村野麦へとすすんだ。川浦から野麦峠 約六キロ、 レ ) 信飛両州の境に 一はしまでは一里半 ( メ ささ′」 は、西に野麦峠、東に笹子峠がある、と『信府統 = = ロ』はしるしている。つぎのよ , つなルートによる みちのり レ ) とみつ " 本道。の道程は、二八里一六町 ( 吶一」 1 キ もられている。 ′」うはら 松本ー一里三〇町ー村井ー一里一〇町ー郷原ー一里半ー洗 りさた白 にえかわ もとやま 吊難れ ( 馬ー三〇町ー本山ー二里ー贄川ー一里半ー奈良井ー一里半ー る険離る れのをめ ゅ山里深溪藪原ー一一里ー芝原ー三里ー寄合渡ー一里ー河原 ( 川浦 ) 、人を水 は、愁冠 三里ー野麦ー三里ーかみか洞 ( 上ケ洞 ) ー三里ーきびう 橋道り郷泉 りの語の温 吊橋を旅骨 ( 黍生 ) 谷ー二里ーかぶと ( 甲 ) ー一里ー高山 上條宏之 信州大学助教授 97 ーーー峠を越えた娘たち