ときでもある。 は、この神社の御神体を奉納する神当麻お練りは、正しくは一一十五菩が参拝者にまかれる。 花会式 ( 薬師寺三月三十ー四月五事。ちゃんちゃん祭りと呼ぶのは、薩来迎会といし 、恵心僧都が大衆を・夏の祭り 日近鉄橿原線西の京駅から徒歩五奉納する行列に僧侶も加わって、道浄土信仰に導く祭りで、無形文化財神剣渡御祭 ( 石上神宮六月三十日 分 ) みち鉦を鳴らしながら進んだところともなっている。悲劇の運命の糸に天理市よりバス一〇分、布留下車 ) 薬師寺は美しい裳階をつけた三重からきている。のどかな田畑の畦道あやつられた中将姫が、旧暦の五月山の辺の道にあたる神宮は、くろ 塔で有名な寺である。塔の項には、 を本殿に向かって歩くさまは、やは十四日に、生身のまま成仏したことぐろとした森に囲まれている。御神 ふつのみたまのつるイ 、神武天皇東 に由来している。当日は寺内の牡丹体は布都御魂剣といい 奏楽の飛天が透し彫りにされた相輪り古代の息吹きを感しさせる。 部水煙があり、その姿は、最も大和大茶盛り ( 西大寺四月第一一土・日が咲き揃い、華麗な庭園を一一十五菩征の折に、熊野の高倉下に捧げたも の。祭りは、その神剣を錦袋に入れ、 を表しているといえよう。花会式は、曜日、十月第一一日曜日。近鉄西大寺薩に仮装した行列が続く。 堀河天皇の時代 ( 一一世紀ごろ ) 、皇駅から南へ一一分 ) 鏡をかけ、早苗を持って、デンデン と太鼓を打って練り歩く。 后の病気平癒を祈願するために、梅、けたはすれに大きい、茶筅に茶碗 桜、桃、山吹、椿、アヤメ、藤、牡 ( 直径三〇センチ、高さ二〇センチ、 薩歩夏を呼ぶ先駆の祭りで、この時期 丹、菊、百合の一〇種一二瓶の造花重さ四キロ ) などを用意して、宇治 になると、大和には青葉濃い緑が目 立つ。 を薬師如来に供えたことから始まつの抹茶を立て、まわし飲みにする茶「 すと蛙とび ( 金峰山寺七月七日ケー ている。四月五日の結願の夜は、赤、会として有名。大きな茶碗を持ちき 青、黒の鬼たちが松明を持ってあばれす助け合って飲む姿は、ユーモラ かをプル吉野山駅から本堂まて徒歩一五 上姿 びしやもんてん れるのを、毘沙門天がおさえつける。スでほはえましく、一般の人々も参 分 ) また、「西の京の破れ鐘」がっかれる加できる。 昔、吉野山の奧に控える金峰山に えんのをようじゃ のもこのとき。 うちわ撤き ( 唐招提寺五月十九日修行した役行者が、未熟なために神 室生寺練供養 ( 室生寺五月十日 おおやまと ちゃんちゃん祭り ( 大和神社四月近鉄大阪線室生ロ大野駅からバス三近鉄奈良駅から尼ガ辻経由法隆寺行力で蛙にされてしまった。そこで全 山の僧が読経して、もとの人間に戻 バス約一五分、唐招提寺前下車 ) 一日国鉄桜井線長柄駅から五分 ) 〇分 ) 山の辺の道にあるこの神社は、崇室生川の清流に沿ってさかのほる天平宝字三年 ( 七五九 ) に、唐僧鑑したことにちなむ祭りである。橿原 神天皇のころの創建で、古代では地と、室生の里。そして「女人高野山」真和上によって創建された寺だ。そ市の弁天池に咲く、蓮の花一八〇本 主神としてあがめられていた。祭りと刻まれた彫りの深い石標に出会う。の後一時衰えたが、鎌倉時代に覚盛を蔵王堂に迎えて法要し、その後に 室生川にのぞむ標高四〇〇メートル上人が復興させ、その覚盛上人の忌大僧正が本堂の前で、三度、跳ぶと の山腹は、老樹におおわれ、春には日に行う行事である。上人は修行中、 て かあぶ か行桜、つつじ、しやくなげの美しい花蚊や虻の襲うにまかせて、い「さい大柳生太鼓踊り ( 夜支布山口神社 向のが咲きほこる。とくにしやくなげのこれらを払わなかったので、彼の徳八月十日、十八日夜近鉄奈良駅か へ束 ら柳生月ケ瀬行バス三五分、大柳生 社装美しさは広く知られ、五月十日の練を偲んで「うちわ」を作って供し、 神白 、すゾ和く供養は、花の里の風情を増している。法要を営んだことから始まっている。下車 ) 大歩 村の長老のうち、回り明神の頭人 当麻お練り ( 当麻寺五月十四日午後四時からは、僧たちの手作りハ ート型のうちわとともに、仏供小餅に選ばれた者が、身心ともに清くし 近鉄当麻寺駅から西へ一〇分 ) びん いそのかみ
関・西の追分 -- ーーーー関町 の西端にあり、東海道 ( 右 ) と伊賀街道 ( 左 ) の分岐点。中央の道標 は元祿 4 年建立のもの。 がもううじさと 封ぜられた蒲生氏郷が、潮田長助の砦のある松坂の野・初瀬の諸街道の会合する交通上の要地であり、 よいほのもり みいと 地の利に注目し、天正十六年 ( ←し四五百森に築城近在の御糸五郷 ( 東・西黒部、上・下御糸、機殿 ) は わみようしよう しまもめん し城下を経営したのが松坂のはじまりである。入城『和名抄』にみえる縞木綿の産地であるため、こ と同時に氏郷は四五百森を松坂と改称し『蒲生軍の松坂木綿を商う松坂商人を輩出した。長谷川・三 記』に「氏郷松ヶ島ニ封ゼラレテョリ武名尚盛ンナ井・鈴木・小津・長井・殿村家がそれで、このほか いざわ おうか レバ我家松ノ字ヲ吉祥スト云テ四五百森ヲ改テ松坂射和の富山・家城・国分・竹川家、相可の西村家な 町道 ト名付ラル」とある。 どがある。松阪市魚町には長谷川家の屋敷が残り、 関海居る 東道島残 もとおりのりなが 、街のが 氏郷は松ヶ島の町人を強制移住させたほか、前任豪商の生活がしのばれる。国学者本居宣長の出生地 すずや 追あ勢神道 地の江州日野の近江商人や近在の豪商を呼んで城下で旧宅の鈴の屋は魚町から城内に移築公開され、国 のに伊 東端と岐燈 ・熊の特別史跡で、多くの遺品が保存されている。氏郷 ・東分夜の商業の発展につとめた。そのうえ和歌山・伊勢 関の ( の常 は松ヶ島通過の伊勢街道を松坂経由に変更したので 宿場町としても栄えた。彼独特の都市プランが施行 され、自動車社会の現在はきわめて不便となってい るが、それだけに町並みには城下町の風情がよく残 っている。 くしだ 櫛田川を渡ると祓川で、橋がなく渡船で用をた たまる さねばならなく船株二〇株の運上米一二石が田丸の さいくろ・ 紀州領代官に納められた。稲木・竹川・斎宮・上野 の美しい街村が静かに並び、かっての参宮の賑わい を西追 がしのばれる。この地域から伊勢市にかけての民家並 きりづまつまいり はほとんど切妻妻入住居であるが、限られた街道沿 いの空間では間ロの狭いこの様式がふさわしいこと きりづまひらいり や、神宮が切妻平入造りであるのでこれを避けたこ となどが要因と考えられる。街道沿いのただ一列だ けの住居で、裏はただちに農地という街村の家並み が伊勢市まで続く。 はらい
鈴鹿峠ーー近江と伊勢 を結ぶ要衝て、箱根・ 逢坂とともに東海道三 関に数えられた。九十 九析れの難路も、今は 峠下のトンネルを国道 が走りぬける。 伊勢街道の見事な町並み 鈴鹿川を渡ると神戸で名は神宮の神領に起源し、 室町時代には一円を支配した神戸氏の居城があり、 近世には一柳・本多氏の城下町となった。 白子は和歌山藩領で、伊勢・尾張・美濃・三河の 木綿・菜種・紙の積み荷を独占した白子組商人があ り、江戸の大伝馬組と結んで活躍し、近世伊勢湾岸 だいこくやこうだゅう で一、一一を競う港町として繁栄した。大黒屋光太夫 てんめい らの乗り組んだ「神昌丸」は天明一一年 (L 七 ) ここか ら出帆した。白子のほこる伝統産業として友禅染め かたがみ などに使用される伊勢型紙がある。紀州藩発行の鑑 さっ ちょうちん 札と紀州御用の提燈をもつ行商人によって全国に 市場をもった。 上野付近は見事な街村をなし、海岸には平行して いっしき 屋、南町には本陣・問屋場が設けられて宿場町の機一色をはじめ漁村がならんでいる。ヒシコ・コウナ しろこ 能を整えた。また白子・鳥羽・江戸・大坂へ廻船を ゴの小魚を煮る煮干し加工場があり、砂浜で干され る景観は、珍しい風景となった。伊勢煮干しとして 通じ、市場町・宿場町・港町となり文化八年 ( ~ 八 ) には武士を除く町方の総戸数一六二八・本陣二・脇全国に出荷され、夏から秋は庶民の味が溢れる土地 本陣一・旅籠九三・茶屋四があった。阿倉川台地をである。 ばんこやき しとも 中心に明治から始まった万古焼は名高い やがて志登茂川に出るが、ここにかかる橋が江戸 ひながおいわけ 南郊に日永の追分があり東海道と分かれ伊勢街道橋で、渡った所で伊勢別街道と合流する。 ( 伊勢路 ) に入る。追分には「右京大坂道左いせ参 栄華を誇った松坂の豪商 宮」の道標や伊勢神宮の鳥居・常夜燈がある。以降 おばた てんしよう のぶかっ 神戸・白子・上野・津・松坂・小俣・山田の七宿が 天正八年 ( ←し織田信雄が築いた松ヶ島城主に ある。 かんべ かん 744
イを 蔵王堂ーー修験道の根 本道場て蔵王権現をま つる。金峰山寺の本堂 てある。山容とよく調 和した広壮な堂てある。 ざおう のずっと下流に位置していた。 山寺の本堂蔵王堂。棟までの高さ三四メ 1 トル、東 % かわやぎ いりもや かわず 河蝦鳴く六田の川の川楊の 大寺大仏殿につぐ重層入母屋造りの大木造建築であ ねもころ見れど飽かぬ川かも り、影繁を迎えての大衆僉議はこの蔵王堂において よ と『万葉集』にも詠まれており、この渡しが吉野行われたという。 山への第一の関門だったのである。が、いまはむろ 南朝の皇居は、蔵王堂の前を向かって左に下りた ん渡しはなく、かわりに橋が架かっている。 谷に営まれた。そこにはもと実城寺という寺院があ その橋を渡って急坂を上ると、やがて前方にあら ったというから、堂塔すべて南朝にあけ渡され、さ われるのが吉野神宮だ。祭神は後醍醐天皇。明治一一らに増築を加えて皇居に改められたのであろう。皇 十二年の創祀と歴史は新しいが、大塔宮が吉野に籠居となってからは金輪王寺とも呼ばれたが、後述す どううん こうのもろなお った時、幕府軍の主将一一階堂道蘊が本陣を置いた故る高師直の兵火にかかって蔵王堂もろとも炎上し、 地である。境内も社殿もまことに宏壮なわりに、い 今は「吉野朝宮址」と刻んだ大きな石柱が建ってい っ訪れても参詣者の姿が見かけられず、そのたたずるばかりである。 まいは哀愁の気を帯びている。 ところで、先の大衆僉議の折り、率先して後醍醐 よりき さて、神宮を出てしばらく行くと、右側に峰の薬天皇への与力を唱え、山内の意見をリードしたの よしみず そうしん 師と呼ばれる行者堂、それと大塔宮の身替わりとな は、吉水法印宗信という僧であった。宗信はまた、 よしてる って自刃した村上義光の墓があり、左手前方は花の吉野山に天皇を迎えると、自分の住持する吉水院を あんざい 名所下の千本である。下の千本が尽きるあたり、道 行在所として差し出した。 は近鉄「吉野」駅に通じ坂道と合流して三叉路とな 花にねてよしゃ吉野の吉水の せめ いわばし る。この三叉路を攻ケ辻というのは、ここで大塔宮 枕の下に石走る音 と幕府軍との間に激戦が繰り広げられたからだ。 吉水院における天皇の御歌である。 攻ケ辻のすぐ先に吉野三橋の一つ大橋が朱塗りの この吉水院は、明治初年山内を吹き荒れた廃仏 ぎぼし きしやく 擬宝珠を見せており、大橋を渡るとそろそろ吉野山毀釈の嵐の際、神社に衣がえして生き残り ( 吉水神 な道るびた しつび 山る出きっ 社 ) 、蔵王堂の少し南にこじんまりと鎮まってい の中心部である。道の両側に櫛比 ( くしつ歯のようにたく すへのあ れ野ちて のない こと 熊た道 ) する土産物屋や旅館に目を奪われながら黒る。単層入母屋造りの書院は室町初期と桃山時代の 者か、者の 行えは行行、 発心門を過ぎ、仁王門をくぐると、そこにヌッ特徴を備えた珍しい造りで、重文に指定されている の見くの修 きんぶ 野に多験い とばかりそそり立っているのが、吉野山修験道金峰が、その桃山時代の部分に後醍醐天皇玉座の間が設 吉みの修し せんじ はいぶつ
京の祭り 節分祭ーー一節分前日の蹴鞠 ( けまり ) 初め 平安時代に盛んだった 追儺式は「鬼やらい」 貴族の遊戯て、神社に といわれ、平安初期の 宮中の儀式てあった奉納され一般に公開さ れる ( 1 月 4 日・下鴨 ( 2 月 3 ~ 5 日・吉田 神社 ) 。 神社 ) 。 あおいまっリ 古都千年の歴史を誇る京都は、葵祭、祇園祭、 ど桜の名所にこと欠かない 壬生狂言、葵祭がす 時代祭の京都三大祭をはじめ、祭りと行事は一年ぎると、京の氏神「祇園さん」の祇園祭となり、 中絶えない 新春には初喟、初釜、書き初めをは祇園ばやしが街々に鳴り響くそして地蔵盆、千 じめ「初」の字のつく行事が行われ、節分になる燈供養が終わると秋がくる。時代祭のころはすで きよみす と追儺式が各神社や寺々で開かれる。嵯峨の「虚に高雄、大原、東山、清水、嵐山などを紅葉が美 空蔵さん」の十三参りが終わると、春である。祇しくいろどる。八坂神社のおけら参りがすむと元 園、円山、平安神宮、嵐山、清滝、御室、醍醐な 旦である 壬生寺の 葵祭ー -- ー平安時代の優壬生狂言 中興の祖、円覚上人が 雅な装束を着けた人々 や牛車の行列が、絵巻仏教の教義を織り込ん だ無言劇 ( 4 月 21 ~ 29 物を展開する ( 5 月 15 日・壬生寺 ) 。 日・上加茂、下鴨神社 ) 。 44
師が庵して、「徒然草』を書いたとこ ろだ。双ケ岡を南に見ながら、鳴滝 を周山街道に曲がらすに、まっすぐ 西へ向かうと、桜並木の続く広沢の 池にでる。桜の花びらが湖面を彩る さまは、春の名残を思わせる。ま た、貴族たちが舟遊びをしたという 大沢の池を過ぎ、北嵯峨の道を辿る と、嵯峨御所と呼ばれた大覚寺にで る。 田園と緑濃い竹林を縫う道には、 風情のある寺々がひっそりとたたず んでおり、素通りするには惜しい ワラジをたくさんつけた茅葺きの 仁王門のある常寂光寺、笠と蓑が簡 石畳が美しい坂道からは、西に八坂真葛ヶ原の花の名所として知られた 素な田舍家を表わす落柿舎、楓が色 の塔が見え隠れし、正面に高台寺境なだらかな丘陵地帯である。春の夜 づくころは、目もくらむばかりの参清水焼の店が多い五条坂をのばる内が見える。喧噪から逃れる閑静な桜のかがり火に映し出された姿は、 道になる一一尊院、平家物語に登場すと、東大路から清水寺に向かってい道すがら、京の小物、竹細工、千代まさしく京の稚といえるだろう。 る悲劇の白拍子、紙王が庵を結んだる清水坂と出会う。みやげものを置紙細工を置く店を楽しめる。 京都の人たちが″祗園さん。と呼び リようざん 祇王寺、そのはす向力し ( ( 、、こま悲恋のく出店が両側に並び、道なりに進む霊山護国神社への参道は維新の道親しんでいる八坂神社は、すぐその 舞台となった滝ロ寺、そして約八千と、清水寺。 裏手。四条通りに控える花街祇園が 体の石仏がびっしり並ぶ化野念仏寺。清水寺からのぞむ京の景色も素晴 けんがい 第 1 〕る近いため、朱の鳥居もひときわ華や 毎年八月二十三日には、全石仏にろらしいが、懸崖造りの舞台も四季を をかな雰囲気をもつ。七月十七日にく うそくの火が灯り、千燈供養で知ら通じて訪れる者の目を飽きさせない。 りひろげられる祇園祭は、数々の ら れている。 宝亀十一年 ( 七八〇 ) 、坂上田村麻呂 か山鉾で彩られ、その賑わいは全国の 大堰川が流れる嵐山では、平安のが創建した、古い歴史をもっ寺だ。 坂人を集めている。 ころ殿上人が大堰川に舟を浮かべて清水坂を七味唐辛子を売る店で北 三知恩院の南門をくぐる神宮通りは、 遊んだという。 ( 毎年五月第三日曜日に曲がる階段が産寧坂 ( 三年坂 ) であ 東側に寺院が続く。こんもり茂る樹 三船祭 ) る。京の小路にふさわしく、急階段だ。坂本龍馬や中岡慎太郎、桂小五木に囲まれて、知恩院の三門、黒門 〕置金閣寺ー市バス二〇四、竜安脇には千本格子の家々が並び、民芸郎などの墓が建てられており、風雲そして青蓮院は、趣深い散歩道をつ 寺、仁和寺ー市バス二六「嵐山ー市品や、陶器、怦酒などを置いている。急を告げた時代がよみがえる。そしくる。神宮通りの西側は、その趣の バス二八、京都バス七一、七二。 ゆるやかに北へ続く道が二年坂。て、北に向かうと、やがて円山公園。ままに、静かに抹茶を味わえる茶屋 あだしの 東山あたり 三宅 ①円通 △西山 」の送り 入写 さんわい 守下り松 的仙至 △瓜主山 白Ⅲ天届呂 ①銀閣 ①広文 東奇写 霊蕋寺山 蓿王孑秤社 山ム園護呆山、 1 磨 寧販 E 算 ) 水山△ 至ー ①泉芍 まくす 山へ
出口 増ロ 吉野大橋 吉町役場 吉 ロ 士野神宮幵 スハプ定されているのはほほえましい。書院の奥の間は宝ば本通りであり、元来吉野は峰入り修行の第一関門 しんびつ だったのだ。一方、左折すると、すぐ中の千本の桜 物陳列所になっていて、後醍醐天皇の宸筆皿の ) ほかをおさめている。 並木に差しかかり、桜樹のトンネルをそのまま進ん によいりんじ だ先には、一〇世紀の開創という古寺如意輪寺が待 怨念と悲傷の地 ちかまえている。この如意輪寺もまた、南朝の哀史 さて、吉水神社を辞しさらに道を進むと、四〇〇とたいへん縁が深い。 しずかごぜん メートルほどで、静御前が吉野大衆に捕まって法楽 南朝悲史をうんぬんする時、年配の方がまず例外 かって しようなんこうくすのきまさつら の舞いを強いられたという勝手神社に着く。神社のなく思い浮かべるのは、小楠公楠木正行の面影で れ、。 . 箞二第ご前は岐れ道になっており、直進すると、上の千本、 あろう。「太平記』の伝えるところによると、正行 えんえん みなとがわ まさ . しげ・ 吉野水分神社、奥の千本を経て、大峰山まで蜿蜒と は桜井の駅で湊川に出陣する父正成から、南朝に じんすい こんこん 続く険しい行者道に連なる。この道が吉野山のいわ尽瘁すべきことを懇々と説かれて以来、父の遺誡を じゅんしゅ じようわ 遵守してきたが、貞和四年 ()\ し四条畷の合 戦において若い生命を散らす。その直前、つまり四 条畷に出陣するにあたって、正行は如意輪寺に参拝 あずさゆみ 返らじと兼て思へば梓弓 なき数にいる名をぞとどむる やじり との辞世の歌を本堂の扉に鏃で刻んだといわれる 力いまも如意輪寺には「正行公辞世の扉」という のが伝えられている。 たか、如意輪寺において、最も南朝の悲哀を感じ させるのは、何といっても境内に設けられた後醍醐 とうのお 天皇塔尾陵であろう。 てんびよう 古陵の松柏天に吼ゅ せきりよう 山寺春を尋ぬれば春寂寥たり びせつ 眉雪の老僧時に帚くことをやめ 吉野町 茄子田 村上義光Ⅱ ープウェイ・ 黒門 わか みくまり 銅の鳥居 王堂 ( 金峰 吉野朝宮址・ 仁王尸 船岡山 幵吉神社 手社如意輪寺 中千本卍 工後醍天皇陵 上千本 吉野山 至金峰神社 かね なわて
リ、を ;i 当、 . 第、らを朝 を曇第 神都へつづく歴史の家並み伊勢路藤本利治 宿かとりたや小竹屋に 京を出発した参宮者は東海道の大津・草津・石 みなくちっちゃま すずかとうげ 部・水口・土山の宿を経て、鈴鹿峠 (ILI メ ) にい たり伊勢国へ入る。急坂を約二キロメートル下った さかのした ところに坂之下の宿があり、さらに東進すると関の せべっ 宿である。ここから東海道と分かれて伊勢別街道に むくもとくぼた いしんでん 入り、椋本・窪田・一身田を経て津に至る。 くわな 他方、東国の参宮者は桑名に上陸すると四日市で 東海道と分かれ伊勢街道に入り、神戸・白子・上野 の宿を経て津で伊勢別街道と合流し、参宮街道を伊 勢に向かうのである。まず伊勢別街道を歩いてみよ 、つ 坂之下は江戸時代の要衝鈴鹿峠の峠下にある宿場 町で山間の小さな谷平野にあるが非常に賑わった。 はた′」 戸数約三〇〇軒、大きな旅籠が軒をならべ本陣には 鶴屋・松屋・梅屋・大竹屋があり、そのほか小竹屋 かみゆい など約五〇軒の旅籠屋のほか、茶屋・髪結・ふろ屋 など旅人に必要な営業ばかりで純粋な宿場であっ た。「坂之下では大竹・小竹、宿がとりたや小竹屋 かんべしろこ せき 740
戻橋 - ー -- - 平安期ある僧 の念カて死んだ父がよし、 みがえり、その葬列が 引き返したことから、 一条戻橋の名がついた という。 浄福寺通りをすぎると、右側は秀吉が造営した聚 楽第の跡地である。原野になっていた大内裏跡の東通り名の歌 ごうしゃ まるたけえびすにおしおいけあねさんろっ 北隅の一画を占めていたわけだが、豪奢をきわめた 京都の通り名を連ねた「丸竹夷二押御池、姉三六 かくたこにしきしあやぶったかまつまんごじよう 角蛸錦、四綾仏高松万五条」の唄はよく知られてい その第も今は幻となり、むしこ ( 虫籠 ) 造りに格子 る。丸太町通りから五条まで、中心部の東西の通り名 構えの民家がどこまでもつづいている。 えんげん が並んでいるから、覚えておくと便利である。 一条大宮のあたりは、南北朝時代の延元元年 ( 一 碁盤の目の町だから、これに南北の通り名を覚える ) 、激しい戦いがあったところだ。大宮通りを少 といっそう便利だ。江戸時代の中ごろにそれを考えた なわながとし し下がった東側に、宮方の武将名和長年 ( 生 = = 三 人があって、次のような歌が残っている。 を顕彰する大きな碑が立っている。長年は異説もあ 寺御幸麩屋富柳堺高 るが、ここで戦死をしたとされているのである。 間の東に車烏丸 りようむろころも いのくまじよすい こがわ 両が室衣新釜西小 , 一条猪熊の如水町は、聚楽第が築かれたころ、黒 いのくま 油堀川葭屋猪熊 田如水が住んでいたところからついた名前だ。この ひぐらし 黒大宮松日暮に智恵光院 町を過ぎるとやがて、幅二、三メートルの細い一条 浄福千本さては西陣 通りがいきなり堀川通りへ出るので、広場へほうり すべて通り名の頭を取って並べられているわけで、 出されたような気分を味わう。 以上を覚えると、だいたい二・三キロメートル四方ほ か 堀川に架かる橋が鬼女伝説で有名な戻橋、名前を どの京都の中心部がカバーできる。南北の通りは途中 で途切れたりもしているが、実際に使う上ではさほど 忌んで嫁入りの行列は決して渡らなかったそうだ 支障を感じないだろう。 が、戦地へ赴く軍人はわざわざ渡りに来たそうであ こがわ る。この橋のすぐ下手で、東から流れて来た小川が 合流していたのだが、その小川は地下に姿を消し、 か、りぼり 堀川も今は巨大な空濠のようになり果てている。 一条通りは堀川からざっと七〇〇メートル、烏丸 通りで京都御苑に突き当たって終わる。三・七キロ メートルの道に刻まれた歴史は、そのまま京都の歴 史の縮図であり、景観の変化にも富んで歩くに楽し い道である。 7 7 6 5
高穴穂宮址ーーー景行、 成務、仲哀の三天皇の 六十年間の宮址といわ れる高穴穂宮付近は穴 太衆のふるさと。 徳川初期、城の石垣つくりに盛んに動員された技内裏、朝堂院や役所の建物も左右対称の配置をとら 術集団穴太衆のふるさとは、京阪電車坂本終点から ない小規模なものだったろうと推定している。 たかあなほ 三つ目の穴太駅付近だが、ここには高穴穂神社があ また焼土や灰などが、まったく検出されないこと けいこうせいむちゅうあい り、景行、成務、仲哀の三天皇の皇居跡だといわれから、天智天皇崩御ののち大友皇子 ( 弘文天皇 ) と おおあまのおうじ じんしん てきた。ところが、昭和の敗戦後の古代史の自由な大海人皇子 ( 天武天皇 ) が争った壬申の乱で大津京 すじんすいにんけいこう 研究によると、崇神、垂仁、景行の三天皇は実在のは焼けたのではなく、勝者となった天武天皇によっ 可能性があるが、それにつづく成務、仲哀の二天皇て、あとかたもなく破壊されたのであろうと推測さ は実在しなかったというのである。 れている。 しかし、この地が日本書紀や古事記の作成時に、 ともあれ、大津京については、まだまだ謎の部分 大和朝廷形成過程で重要な意味をもったところだと が多く、幻の都という感じは拭えない くだら いうことはみとめられている。それは、琵琶湖西岸 母国滅亡のために亡命してきていた百済の貴族を のこの地域に、大規模な古墳が築造されはじめた時はじめ、文人、学者たちを招いてたびたび宴を張 期と一致しているからだ。 り、後の万葉和歌に多くの影響を与えた漢詩がさか こうごねんじゃく んに作られた。「近江令」や「庚午年籍」 ( 戸籍簿 ) ろ、つ」第、 しようこ 幻の万葉の都、大津京址 を定め、漏刻を作って時をはかり、鐘鼓が打ち鳴ら たかあなほ すうふくじ 高穴穂宮趾が伝説の幻の宮趾とされ、成務、仲哀された。滋賀里の山の崇福寺をはじめ西近江路に沿 まのきぬかわ 両天皇の存在さえ疑問視されているとき、史実とし って真野・衣川・穴太・南滋賀に朱塗りの寺が並ん てはっきりしている天智天皇の大津京の確たる位置でいた。唐崎の湖岸から美しく着飾った大宮人が、 が、最近まで判然とせず皮肉な話とされていたので蒲生野の遊猟に船出して行ったことなど、唐の文化 ある。 に心酔し、ハイカラ好みだった天智天皇全盛時代の にしごおり ところが昭和四十九年の暮れ、大津市錦織二丁大津京の全容が解明されるまでには、まだ相当の時 目の「志賀皇宮遺跡」の石碑のあるあたりから、大日を要しそうだ。 津京の門や回廊とみられる掘立柱の建物跡や倉庫跡 しかし近江神宮の高台から、大津京址を見おろし が発掘され、滋賀県教育委員会は五十三年二月にていると、柿本人麻呂の長歌を借りずとも千三百年 にしごおり 「大津宮は錦織にあった」と宣言した。その区域は前、 ここで暮らしていた人たちの姿が、ひとりでに まぶた 東西四〇〇メートル、南北五〇〇メートル程度で、 瞼の裏に浮かんでくる。 だいり