吉野 - みる会図書館


検索対象: 日本の街道5 京への道
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1. 日本の街道5 京への道

攻ケ辻ーーーかって南朝 ツ . 軍と幕府軍が激突した この三叉路は、桜の名 所下の千本が尽きるあ たりにある。 吉野の朝 この山な みを修験者たちが駆け ぬけ、時に都落ちの貴 族たちも悲愁の暮らし をこの山にすごした。 あんぐう るのだが、本稿では南朝の行宮が営まれた吉野山と離れており、一夜にしてその道を踏破したというの その周辺を叙述対象とすることにしたい。 は、信じられない。 ともあれ、こうして賀名生に難を避けた天皇は、 後醍醐天皇脱出の道 影繁を遣わしてただちに吉野山へ助力を要請する。 けんむ 延元元年 = ) 十二月二十一日の夜陰のこと今でこそ吉野山は、本邦一の花の名所としての名ば 建武三年 ( 一 あしかがたかうじ かり高いが、当時の吉野山は修験道を中心とした宗 である。先に将軍足利尊氏との講和を受け入れて比 叡山を下り、花山院に幽閉されていた後醍醐天皇が教の霊場といった性格が強く、多数の僧兵いわゆる だいしゅ 忽然と姿を消した。のちに判明したことでは、刑部吉野大衆を擁していた。そのような吉野大衆の武力 大輔景繁という者の手引きで、女装して花山院を脱を、天皇は再起のための頼みとしたのである。 さて、景繁を迎えた吉野山では、満山の衆徒が寄 出したのだが、南北朝時代はこの後醍醐天皇の脱出 せんぎ 劇をもって幕を開く。 り集って僉議を行い、天皇の味方をすることに決し もりなが 『太平記』によると、天皇はこの時、奈良街道を通 た。すでに数年前、彼らは天皇の皇子大塔宮 ( 護良 なしま って、まだ夜の明けないうちに、ひとまず梨間の宿親王 ) を盟主に仰ぎ、鎌倉幕府の大軍と鉾を交えた に入ったという。梨間の宿は、現在の京都府城陽町経験があったからだ。やがて天皇は出迎えの若大衆 なしま 奈島にあたる。そこで行装をあらためた天皇とその三〇〇人ほどに護衛されて賀名生を出発し、かくて うちゃま 一行は、白昼に奈良市街を通りぬけ、夕方には内山吉野山は南朝の本拠となる。なお、天皇が賀名生か という所についた。さらにそこから馬に乗って先を ら吉野入りした道筋については後述する。 急いだところ、空中に光り物があらわれて前途を照 あのう 石柱も悲し南朝の皇居址 らしてくれたので、明け方には賀名生に着くことが できたという。 当然のことながら、吉野山には南朝関係の遺跡が そまのうち 内山は、いまの天理市杣之内の旧名だといわれすこぶる多い。山中に四通八達した道を辿りなが る。そうすると天皇は、奈良から山の辺の道沿いのら、主なところをのぞいてみよう。 昨今吉野山を訪れる人は、可半が近鉄電車に乗っ 官道を一路南下し、桜井で山田道に入って飛鳥の里 をななめに縦断、重坂峠越えのコースを辿って賀名て吉野川を渡り、終点の「吉野」駅におり立つよう 生へと入ったのでもあろうか。ただし天理市と賀名だが、南北朝時代にはまだ舟渡しだった。その渡し むた 当第 . ッ生とでは、直線距離にしても三〇キロメートル以上場は、柳の渡しまたは六田の渡しといい、近鉄鉄橋 ごだいご 7 ノ 5 一 -- ー吉野の山に散った南朝の悲歌

2. 日本の街道5 京への道

・ 3 キ、いの 三小、 4 、いヤ 、ャ宀 い、い要 込、イ霜当 : ン 0 0 す を第い 吉野山の桜ーーー神木と して信仰に支えられて きたものて、 4 月上旬 から下旬にかけて、下 千本、中千本、上千本、 奥千本と移り咲く。 前川佐美雄氏に吉野の花吹雪に ついて聞いたことかある。よくよ く運のいい花見客でなければ、こ の花吹雪を見ることは出来ない 前川氏も、花時の吉野へは何度も 行ったが、花吹雪を見たのは一度 だけたという それは花が満開と見えるころ、 一陣の風が谷から吹き上って、満 目の花を空中高く舞い上らせる、 その現象を一一一口う。どこの花にも、 花吹雪とい、つことはあろうか吉 野の花吹雪の壮観はまた特別なの だ。しかもそれは、大和に居住し て、何度も吉野の花見に行ったこ とのある者でも、めったに見るこ とは出来ないのだ、という。 ( 山本健吉『遊糸繚乱』より )

3. 日本の街道5 京への道

出口 増ロ 吉野大橋 吉町役場 吉 ロ 士野神宮幵 スハプ定されているのはほほえましい。書院の奥の間は宝ば本通りであり、元来吉野は峰入り修行の第一関門 しんびつ だったのだ。一方、左折すると、すぐ中の千本の桜 物陳列所になっていて、後醍醐天皇の宸筆皿の ) ほかをおさめている。 並木に差しかかり、桜樹のトンネルをそのまま進ん によいりんじ だ先には、一〇世紀の開創という古寺如意輪寺が待 怨念と悲傷の地 ちかまえている。この如意輪寺もまた、南朝の哀史 さて、吉水神社を辞しさらに道を進むと、四〇〇とたいへん縁が深い。 しずかごぜん メートルほどで、静御前が吉野大衆に捕まって法楽 南朝悲史をうんぬんする時、年配の方がまず例外 かって しようなんこうくすのきまさつら の舞いを強いられたという勝手神社に着く。神社のなく思い浮かべるのは、小楠公楠木正行の面影で れ、。 . 箞二第ご前は岐れ道になっており、直進すると、上の千本、 あろう。「太平記』の伝えるところによると、正行 えんえん みなとがわ まさ . しげ・ 吉野水分神社、奥の千本を経て、大峰山まで蜿蜒と は桜井の駅で湊川に出陣する父正成から、南朝に じんすい こんこん 続く険しい行者道に連なる。この道が吉野山のいわ尽瘁すべきことを懇々と説かれて以来、父の遺誡を じゅんしゅ じようわ 遵守してきたが、貞和四年 ()\ し四条畷の合 戦において若い生命を散らす。その直前、つまり四 条畷に出陣するにあたって、正行は如意輪寺に参拝 あずさゆみ 返らじと兼て思へば梓弓 なき数にいる名をぞとどむる やじり との辞世の歌を本堂の扉に鏃で刻んだといわれる 力いまも如意輪寺には「正行公辞世の扉」という のが伝えられている。 たか、如意輪寺において、最も南朝の悲哀を感じ させるのは、何といっても境内に設けられた後醍醐 とうのお 天皇塔尾陵であろう。 てんびよう 古陵の松柏天に吼ゅ せきりよう 山寺春を尋ぬれば春寂寥たり びせつ 眉雪の老僧時に帚くことをやめ 吉野町 茄子田 村上義光Ⅱ ープウェイ・ 黒門 わか みくまり 銅の鳥居 王堂 ( 金峰 吉野朝宮址・ 仁王尸 船岡山 幵吉神社 手社如意輪寺 中千本卍 工後醍天皇陵 上千本 吉野山 至金峰神社 かね なわて

4. 日本の街道5 京への道

落花深き処に南朝を説く してはばからない、時代に突出した合理精神を備え ( 藤井竹外 ) ていた。したがって、吉野山が伝統の法力をふりか 天皇は、回天の志を果たせないまま、失意のうち ざしてみせても何の効果もなく、高兄弟は遠慮会釈 どうとうがらん なく堂塔伽藍に火を放って、一山を焼土と化してし に暦応二年 ( 延元四年・ ) 吉野行宮に息をひきとっ ぎくこったとい まうのである。 た。時に天皇は、「玉骨ハ縦南山 ( 吉野山 ) ノ苔ニ うずも こんばく ほっけっ のぞま 埋ルトモ、魂魄ハ常ニ北闕 ( 京都 ) ノ天ヲ望ン」と 後村上天皇と南朝の人々は、かねてから高兄弟の 遺言したので、塔尾陵はその遺言どおり北向きに築非道ぶりを知っていたので、寄せ手が山上に迫る以 ごじゅうえんおんかたち 月に、吉野行宮を脱出した。彼らが目ざしたのは、 き、遺体も荼毘に付すことなく「御終焉ノ御形ヲ苅 かんかくあっく 改メズ、棺槨ヲ厚シテ御坐ヲ正シ : ・ : 」て、埋葬さ かって後醍醐天皇が身を潜めた賀名生であり、ここ れたという。してみれば、一見もの寂びた如意輪寺に南朝流転の第二ページが開かれることになる。 の境内にこそ、天皇の怨念と悲傷は最も深く凝めら 吉野山と賀名生の間には、吉野山をはさんで二本 れているわけである。 の道が通じている。ほかに山越えの険路もないでは ないが、南朝の人びとはおそらく、 北から迫る高兄 おび 南朝流転、吉野落ち 弟の軍に怯え、吉野川の左 ( 南 ) 岸沿いの街道を賀 ごむらかみ 後醍醐天皇亡きあと、南朝は後村上天皇と老臣北 名生へと急いだのではないだろうか。 ばたけちかふさ 畠親房のもとに結束し、幕府の攻勢を頑強にはね この街道はかって大峰入りの白衣の行者でにぎわ しもいち のけて、ほば一〇年間吉野山を守りぬいた。だが、 った道で、大和下市を経て、五条市で右岸の道 ( 伊 斜陽の南朝を支える唯一の武人ともいうべき楠木正勢街道 ) と合流する。下市は、その行者たちを相手 ~ 物 つるべ 靱行が四条畷に敗死したあと、ついに南朝は吉野山に栄えた街村で、「義経千本桜」で有名な釣瓶鮨屋 を手放さなければならなくなる。 が、街道筋にいまなお古色をたつぶりとどめて営業 南朝の息の根をとめようとして、吉野山に攻めか を続けている。当主は何と四八代目という。 ほふ こうのもろなお かってきたのは、四条畷に正行を屠った高師直・ 下市町に隣接する五条市は、四方から街道が集ま 鮎伎イ、〕仕の な鮎百のと もろやす 舞てに野 う桜九本と 師泰兄弟であった。この兄弟は既成の権威などとい ってくるという立地のよさに加え、吉野川の舟運に 歌出物吉 よ、前千飯 屋、に曲て のみ人上葺 て′」のし うものをまったく歯牙にもかけず、「どうしても天よって古くより商都として賑わった町で、江戸時代 仕はての 瓶助形け 釣弥瓶魚 にしい屋物 皇が必要なら、本物の天皇はどこかへ島流しにし には代官所も置かれて、この地方の政治、経済の中 のの勺・こ 鮨桶ずら茶名 。ん物瓶物姿く守に 下す「る込名釣曲の円子も て、かわりに木か金属で像を造ったらいい」と放一言 心となった。 1 1 りやくおう こ きた

5. 日本の街道5 京への道

イを 蔵王堂ーー修験道の根 本道場て蔵王権現をま つる。金峰山寺の本堂 てある。山容とよく調 和した広壮な堂てある。 ざおう のずっと下流に位置していた。 山寺の本堂蔵王堂。棟までの高さ三四メ 1 トル、東 % かわやぎ いりもや かわず 河蝦鳴く六田の川の川楊の 大寺大仏殿につぐ重層入母屋造りの大木造建築であ ねもころ見れど飽かぬ川かも り、影繁を迎えての大衆僉議はこの蔵王堂において よ と『万葉集』にも詠まれており、この渡しが吉野行われたという。 山への第一の関門だったのである。が、いまはむろ 南朝の皇居は、蔵王堂の前を向かって左に下りた ん渡しはなく、かわりに橋が架かっている。 谷に営まれた。そこにはもと実城寺という寺院があ その橋を渡って急坂を上ると、やがて前方にあら ったというから、堂塔すべて南朝にあけ渡され、さ われるのが吉野神宮だ。祭神は後醍醐天皇。明治一一らに増築を加えて皇居に改められたのであろう。皇 十二年の創祀と歴史は新しいが、大塔宮が吉野に籠居となってからは金輪王寺とも呼ばれたが、後述す どううん こうのもろなお った時、幕府軍の主将一一階堂道蘊が本陣を置いた故る高師直の兵火にかかって蔵王堂もろとも炎上し、 地である。境内も社殿もまことに宏壮なわりに、い 今は「吉野朝宮址」と刻んだ大きな石柱が建ってい っ訪れても参詣者の姿が見かけられず、そのたたずるばかりである。 まいは哀愁の気を帯びている。 ところで、先の大衆僉議の折り、率先して後醍醐 よりき さて、神宮を出てしばらく行くと、右側に峰の薬天皇への与力を唱え、山内の意見をリードしたの よしみず そうしん 師と呼ばれる行者堂、それと大塔宮の身替わりとな は、吉水法印宗信という僧であった。宗信はまた、 よしてる って自刃した村上義光の墓があり、左手前方は花の吉野山に天皇を迎えると、自分の住持する吉水院を あんざい 名所下の千本である。下の千本が尽きるあたり、道 行在所として差し出した。 は近鉄「吉野」駅に通じ坂道と合流して三叉路とな 花にねてよしゃ吉野の吉水の せめ いわばし る。この三叉路を攻ケ辻というのは、ここで大塔宮 枕の下に石走る音 と幕府軍との間に激戦が繰り広げられたからだ。 吉水院における天皇の御歌である。 攻ケ辻のすぐ先に吉野三橋の一つ大橋が朱塗りの この吉水院は、明治初年山内を吹き荒れた廃仏 ぎぼし きしやく 擬宝珠を見せており、大橋を渡るとそろそろ吉野山毀釈の嵐の際、神社に衣がえして生き残り ( 吉水神 な道るびた しつび 山る出きっ 社 ) 、蔵王堂の少し南にこじんまりと鎮まってい の中心部である。道の両側に櫛比 ( くしつ歯のようにたく すへのあ れ野ちて のない こと 熊た道 ) する土産物屋や旅館に目を奪われながら黒る。単層入母屋造りの書院は室町初期と桃山時代の 者か、者の 行えは行行、 発心門を過ぎ、仁王門をくぐると、そこにヌッ特徴を備えた珍しい造りで、重文に指定されている の見くの修 きんぶ 野に多験い とばかりそそり立っているのが、吉野山修験道金峰が、その桃山時代の部分に後醍醐天皇玉座の間が設 吉みの修し せんじ はいぶつ

6. 日本の街道5 京への道

吉野から賀名生への旧 道ーーー賀名生は南朝の 行宮 ( あんぐう ) の地、 また梅林て名高い。近 世の面影が漂うひなび た里てある。 あら 丹波に入り、小塩村 ( 京北町 ) 、板橋 ( 美山町 ) 、和知に入り、鳥羽城下をへて、安楽島 ( 鳥羽市 ) へ渡海 やまえ 村 ( 和知町 ) 、山家城下 ( 綾部市 ) から、十二月にな して越年した。 こうもり り川守町 ( 大江町 ) で皇太神宮の外宮、内宮に参拝 文政元年ーーー一月早々に安楽島を発ち、岩倉 ・し、福知山城下に入り、高槻村 ( 綾部市 ) に足をと村、松尾村など ( 以上鳥羽市 ) をへて、的矢 ( 磯部 あのり なきり どめて越冬した。 町 ) 、安乗浦 ( 阿児町 ) 、波切村 ( 大王町 ) をへて、二 文化十ニ年 二月に高槻村を出発し、綾部か月に、伊勢に入り、田丸城下 ( 玉城町 ) 、上楠村 ( 大 ひかみ ら福知山の近在を托鉢し、丹波の氷上郡一帯を廻台町 ) 、粕野 ( 紀勢町 ) 、長島 ( 長島町 ) 、船津村 ( 海山 おわせ り、三月に千原町 ( 夜久野町 ) 、畠中村 ( 福知山市 ) 、 町 ) 、尾鷲 ( 尾鷲市 ) 、木本村 ( 熊野市 ) と熊野灘沿岸 榎原村 ( 福知山市 ) あたりを廻ったあと、但馬に出に沿って、紀伊に入り、熊野本宮、湯の峰、新宮、 たいじ しおのみさき かけ、四月には丹波に舞いもどり、立原町 ( 福知山那智山に参詣し、三月、大治浦 ( 大地町 ) 、潮御崎 はりま す・さみ 市 ) から園部城下に赴き、播磨に転じ、加古川、明 ( 串本町 ) 、周参見 ( すさみ町 ) 、田辺城下を辿り、四 石をへて、五月、尼崎から大坂に来た。伏見に滞留月、日高道成寺 ( 川辺町 ) 、湯浅町、箕島 ( 有田市 ) 、 し、洛中洛外の社寺に納経し、六月、大坂に下り、 紀三井寺 ( 和歌山市 ) 、和歌山城下、根来寺 ( 岩出 まきお また伏見にもどり、近江に転じ、国分寺 ( 大津市 ) 、 町 ) を経て、五月、粉河寺、高野山、槇尾山 ( 和泉 いえはら ほんだ はちまん 八旗八幡 ( 近江八幡市 ) 、浄楽寺村 ( 安土町 ) 、多賀明市 ) 、家原文殊 ( 堺市 ) 、誉田八幡 ( 羽曳野市 ) 、道明 きのもと 神 ( 多賀町 ) に参詣し、彦根城下、長浜、木之本か寺 ( 藤井寺市 ) をめぐり、五月にかけて大和に入 たいま ら北陸路に向かった。 り、竜田明神、信貴山、法隆寺、当麻寺、金剛山、 ひだしなの これから泉光院は北越、飛騨、信濃、甲斐から東橘寺、岡寺、初瀬寺、室生寺、赤目不動 ( 三重県名 、関東、東海を巡歴し、文化十四年、美濃から伊張市 ) 、吉野山、多武峰、三輪明神、春日大社と大 勢にやってくる。 和の名刹をくまなく廻り、六月、木津から伏見に出 ほうしやく 文化十四年・ーー十二月、大垣から桑名宿に入て、愛宕山、宝積寺 ( 大山崎町 ) 、総持寺 ( 茨木 つなぎ さどはら り、国分寺 ( 亀山市 ) 、都那岐明神 ( 鈴鹿市 ) 、上野宿市 ) 、勝尾寺 ( 箕面市 ) を経て、大坂の佐土原藩蔵屋 むくもと ( 河芸町 ) 、白子観音 ( 鈴鹿市 ) 、津城下、椋本駅 ( 芸敷に着き、七月に山陽路を西下していった。 濃町 ) 、関の地蔵 ( 関町 ) をへて、伊賀に入り、上野 泉光院の行程をみると、主街道、脇往還はもとよ かいと 城下をへて、垣内駅 ( 白山町 ) から伊勢にもどり、 り、江戸時代後期の名もなき村里の道みちがうかが あさま 国分寺 ( 松阪市 ) 、伊勢神宮、朝熊山に参詣し、志摩われて興つきないものがある。 やくの か かちお

7. 日本の街道5 京への道

竹内街道ー竹内峠の付 近の旧道。むかしの当 麻 ( たいま ) 路。大和 と河内を結ぶメーンス トだった。 さ力い ( 大坂 ) に上陸し、堺から紀伊路を南下し、田辺か 道は、庶民のための商業路として賑わってくる。こ ほんぐう らいわゆる中辺路の山中を熊野本宮へ、さらに海岸 とに美濃・近江は商業が発達し、東海道をめぐり、 しもへじ しんぐう 沿いの下辺路を新宮に至るルートである。この道中 いくたの脇街道が発展しはじめた。 つくもおうじ には九十九王子の社と宿坊がもうけられた。 つぎに平安末にはじまる街道の特色の他の一つは もう 熊野詣では密教信仰と深く関係していた。これと 社寺への参詣道路が整えられることであった。 しゅげんどう こうやもう 並んで高野詣でや吉野への修験道の道が生まれてき その代表的なものが、いわゆる熊野道中である。 ほらがとよノげ・ すうけい 熊野三山への崇敬が高まり、朝廷、貴族をはじめ武た。淀川の橋本から洞ケ峠をこえて河内の古市から きみとうげ しらかわ 家の間にもその信仰がひろがった。その参詣は白河紀見峠をこえるコースの、いわゆる高野街道がそれ ごしらかわ である。 天皇は八回、鳥羽天皇は一六回、後白河天皇に至っ ては三四回に及んだ。京から淀川を下り、渡辺の津 中世の軍政的重要道路 へんせん 南北朝時代から室町にかけて、政治地図の変遷に より畿内には新しい街道がクローズアップされる。 その代表的なものを一、二あげると、ひとつは竹内 街道である。吉野にあった南朝は、摂河泉への進出 路としてこの道を重視した。このルートは古代には たじひみち 丹比道といわれ、河内と飛鳥を結ぶ重要な古道であ った。平城京 ( 奈良 ) の建設とともに、大和と難波 を結ぶ道としてはいったんさびれるが、堺が南朝方 の軍港として、また室町時代に商港として大発展を せつつやまと とげると、このルートは、摂津と大和を結ぶ主要路 として復活したのである。 たんばじ さんいんどう もうひとつは、山陰道、すなわち丹波路である。 因伯地方の山陰は、ながらく政治的には後進地域でべ あったが、南北朝いらい、守護大名の山名氏が、十 余力国の守護職をしめ、「六分の一衆」と称される幻 なかへじ たなべ なにわ

8. 日本の街道5 京への道

第 : にいを 施福寺ーー西国三十三 カ所の 4 番礼所。山号 は槇尾山。南海本線泉 大津駅からバスて行き、 1 キロメートルの山道 を登る。 清水寺ーー - ー京都観光の 名所。境内からの眺望 もみごと。門前町の賑 わいも京情緒の一つて ある。 善峰寺ーーー京の西山の 名刹。谷川ぞいの杉の 巨木の参道を辿ると、 正面に仁王門 ( 楼門 ) がそびえ立つ。 壺坂寺ーー平安のはじ はをめ盲僧長仁が一心に千 手観音に祈り開眼した という話が義招撰「感 霊録」に記されている。 イをを、発、 なべたに 間にある標高八五〇メートルの鍋谷峠をこえていく のであるが、ほとんどの巡礼は高野山へ参る。もち ろん高野山は三十三の札所ではない。しかしこの霊 山は古くから西国巡礼の順序のなかにくみ入れられ てきたのである。高野からおりて、第四番の施福 ふじい 寺、第五番の葛井寺と河内の寺をめぐり、大和へと 、むか一つ 0 じようるりつぼさかれいげんき 浄瑠璃『壺坂霊験記』によって喧伝された第六番 つぼさか 壺坂寺は、大和から吉野への古い道すじにあたり、 きんぶせん 平安時代には吉野の金峰山詣での道にあたって栄 え、『枕草子』にもその盛大なさまがのべられてい あすか る。壺坂寺から明日香村の第七番岡寺をすぎ、第八 番長谷寺にいたる。ここも伊勢と大坂をむすぶ道す じのほば中央に位置し、北上する道は奈良の都へと 通ずる。またここは早くから水源の山岳信仰の場と してもしられていた。そういえば壺坂寺への道も修 かみのだいごじ 験者の道であり、第十一番の上醍醐寺も修験の山 である。こうした古くからの道にそった寺々が三十 三の札所にえらばれ、その道は巡礼たちによってさ らにふみかためられていくのである。 西国巡礼のもっともふるい記録のひとつに長谷寺 を第一番とし、岡寺・壺坂寺・粉河寺・紀三井寺・ の位智観名 山に那の有 東陵新野て那智の如意輪堂と南下し、そこで折り返して施福寺よ の丘を熊称 京の号今俗 へというコースを記したものがある。中世の伊勢信古 奥山「、の あまてらす 仰のたかまるなかで、長谷寺の本尊が伊勢の天照 寺寺るいん 音涌すとさ 観置山音大神の本地であるとされたこともあり、この寺は おおみかみ

9. 日本の街道5 京への道

吉野の山に散った南朝の悲歌 南朝行宮の地吉野山周辺 南朝と北朝が分立してそこに室町幕府がからみ、 相争ったのは前後六〇年弱で、そう長い期間ではな りつりよう い。たが、南北朝時代は、古代律令体制がほば圧 げ・こくじよう 殺され、下剋上の風潮のもとにやがて近世へとっ ながるさまざまの新しい芽が萌え出た、政治的にも 文化的にも大変な激動期であった。 ただ、非常にわかりにくいのも、この時代の特徴 である。たとえば、『太平記』をひもとき『平家物 語』と読み較べてみると、おそらくその難解さに辟 えき 易されるであろう。『平家物語』では敵味方の区別 が判然としているのに、『太平記』の方は、昨日の 友は今日の敵といったふうに、離合集散がめまぐる たど しくて、内容を味読するどころか、筋を辿るのさえ 容易ではないのである。 そして、この混乱の極ともいうべき無秩序と反覆 常なき無節操が日本全土をおおったのが、偽らざる 南北朝時代の実態であった。したがって南朝悲歌に 関連する地域なり道筋もまた、日本全土に及んでい 百瀬明治 歴史家 7 ノ 4

10. 日本の街道5 京への道

国栖奏ーー - 吉野の山里、 国栖の人々が古代から 伝えてきた由緒ある素 朴な舞。朝廷の栄、 国の安泰を祈る。 0 既古式よみかえる 日神いな和 春い仰粛は だんざん しを厳真 か向下写 十一月第一一日曜日、桜井市多武峰の談山神社でな りゆ参以 祭式の儀う されるけまり ( 蹴鞠 ) まつりは、毎年十月十一日の 日古使の行 かきっ 春の勅祓を 同社嘉吉祭りとならんで、大和の祭事を多彩にす ふじわらのかまたり る。ともに祭神藤原鎌足にちなんでおり、嘉吉祭 りは一時橘寺に遷されていた鎌足の御影 ( 木像 ) かきっ が、嘉吉元年 (+) 多武峰にかえってまつられたの しんせん に由来する。その特別の神饌 (åに第」酒 ) である百 おんじき 味の御食は珍しい。 ふるいそのかみ 天理市布留の石上神宮は、タマまつりの古社と しての伝統を保持する。この古社の禁足地からは、 四世紀後半にさかのばる出土品を含む祭祀遺物が検 ななさやのたちてったて 出されたが、伝世の七支刀・鉄盾などの神宝も注目 みかさやま ふる された春日大社は、奈良市春日野町御蓋山の西麓にすべきものである。振神宮の「振」は、生命力を振 しず 鎮まる。もと二月と十一月の上の申日のまつりであ起するタマまつりに由来し、その鎮魂のいぶきは、 ごんしゅ ったが、明治十九年 ( ←し旧儀再興後は三月十三日毎年十一月二十二日おごそかに勤修 ({ 行」。とめ となった。その祭儀は王朝の氏神祭の要素をうけつれる鎮魂祭にもみなぎる。 いだ貴重な伝統のまつりとなっている。 大和の祭りの終わりをかざるのは、春日大社の若 おおやまと 四月一日の大和神社 ( 天理市新泉〈にず ) のちゃんち宮おん祭りである。保延一一年 ( 一一 L) にはじまるとい ゃん祭り、同社五月一日の神楽まつりなども、大和 うおん祭りは、十二月十六日の宵宮祭と御遷幸、十 祭事暦にいろどりをそえる。奈良市本子守町にある七日の渡御、十八日の後宴の能・奉納相撲とつづ ざかわにますおおみわのみこ さいぐさ 報川坐大神御子神社の = 一枝祭りは、六月十七日に く。なかでも時代行列ともいうべき渡御は圧巻であ とりおこなわれ、三枝すなわち百合の花をもってのり、時代風俗と芸能の動態展観のおもむきがただよ まつりであるのにちなんで、ゆりまつりともよばれう。古式にもとづく大和のまつりは、このほかにも あまた存在する。たとえば旧正月十四日、吉野町 ほうえん ごえん 7 ノ 0