から多くの市場の立った鳥居前商業町であった。宇領内へ運送スルノ通津ナリ」と述べてあり大いに繁 えごうしゅう 治は内宮の鳥居前町で参拝観光客で賑わっている。 栄した。廻船衆らの会合衆による自治都市を形成 」うそ かどや 大湊は古く神領からの貢租の受け入れ港であり、中するまでになり、豪商角屋家もこの在の出身であ くき 世末には造船業もさかんで九鬼氏や秀吉の朝鮮出兵る。造船業は現在も盛んである。 おろし のときの軍船もここで建造され、近世には山田の外 河崎は多数の参宮者の消費財を山田に供給した卸 港となり『神境秘談』にも「凡大湊高城ハ諸国ョリ 商人の集中した商業町で、今も立派な蔵や屋敷、勢 米穀・魚鱗・材木・柴薪・海藻ャウノ物マデモ両宮田川岸に河岸を残し、歴史的都市景観をよくとどめ ている。『神都名勝誌』に「比の地運漕に便なるを ふくそう 市ルク日林 い御敷四袖、。 以て漁船賈舶つねに輻湊して米穀魚薪漿塩雑品を交 勢一へ、樹 宮屋な第い 尹タ 8 て葉る 大重 . クⅣ林照す易し其の盛んなること神境屈指の地なり」と記して き。瓦 へち生いに 門ゅ築棟 林 8 う原な材 いる。河崎商人は山田への米と魚の卸を独占し、豊 庫み移大オ 宮 5 ま少用 文島をて 神約めル数宮 、当宮福門門 勢域占一て造 かな財力で文化・芸術方面にも寄与している。 神師の脚瓦 伊南をタ本は 間の山は山田の尾上坂と宇治の牛谷坂を結ぶ間 で、切妻妻入の家並みは見事な景観をなしている。 参宮者で賑わった町並みも今は静寂そのものであ ふるいち る。街道のほば中央にあるのが古市で、七〇余軒の 妓楼がならびそのなかで一きわ大きかったのが油 屋・備前屋・杉本屋の三大妓楼であった。芝居小屋 もあり古市芝居で知られ遊芸の中心で、参宮者の多 くが足をとどめた。現在三妓楼ともなく、油屋でお並 いせおんどこいのねたば こった刃傷事件を素材とした『伊勢音頭恋寝刃』 の主人公お紺と孫福斎を葬る大林寺も古市にある。 このほか市中には江戸時代神職たちの学問の場と なった外宮の宮崎文庫と内宮の林崎文庫や、両文庫 の蔵書を継承し神宮ならびに神道関係では一等の図 書館である神宮文庫がある。宮崎文庫は慶安元年 けいあん
伊雑宮の御田植ーーー古第第 式の面影を残す祭りて ある。竹とりに始まり、 苗取り、田植え、踊り 込みの順に行われる。 ? 、ゞはを 1 材 , - い、・をを第ド $ : ふ 羯鼓踊ー一死者の霊を なぐさめるための盆踊 り。白馬の尾毛を束ね て作ったシャグマに腰 蓑姿て大鼓をたたきな がら踊る。 ねぎわたらい のぶよし (RS) 外宮禰宜度会神主出口延佳らが、林崎文庫は じようきよう・ えごうしゅう 貞享四年 (&li) 宇治会合衆の発起で創立され、 しばのりつぎん 本居宣長の「林崎みくらの詞」、柴野栗山の「林崎 文庫記」の碑がある。神宮文庫入口の門は神宮信仰 の普及に活動した御師福島みゆき大夫の屋敷門を移 築した貴重なものである。このほか神宮の博物館で ちょうこかん ある徴古館や農業館、県無形文化財の内宮と猿田彦 かっこおどり 神社の御田植、馬瀬の狂一一一一口、円座の羯鼓踊などみる べきものが多い。 あさま 朝熊かけねば片参り あさま 近世「伊勢へ参らば朝熊にかけよ、朝熊かけねば 片参り」といわれるほど参宮者は朝熊山 (h 9 メ , 」ん′」うしよう・じ の金剛証寺へ詣でた。寺は内宮の鬼門にあたり守 だいどう 護寺とされた。寺伝によれば大同二年 ()S 〇 ) 空海 こくうぞうぼさっ 砒 = 一五¯) が開山したといわれ、本尊は虚空蔵菩薩 きようつか である。本堂背後一帯から経塚が発見され、多く の経筒が出土し一部は国宝に指定されている。寺の まんきんたん 門前には全国に名を知られた売薬「万金丹」の本舗 鳥羽を根城の九鬼水軍 跡がある。 さかてすがとうし 鳥羽は、前面に坂手・菅・答志の島々がある天然 伊勢市宇治から朝熊山経由で鳥羽に至る伊勢志摩 く強 1 の良港で、古くから泊浦といわれ戦国期には九鬼水 スカイラインが通じ四季観光バスで賑わっている。 ぶんろく ふたみ おきたま 一五には「九鬼の浮城」 朝熊とともに参宮者の訪れたのが二見で、興玉神軍の拠点となり文祿三年 ( 九四 ) めおといわ ふたみがうら 社・夫婦岩 ( 興玉神社の神石 ) と景勝地二見浦があと称された鳥羽城が築城され城下町となった。また みしお り、また海岸には神宮に供進する塩を製する御塩江戸・大坂間の廻船の風待ち港として繁栄し、安 のりまとやこしか 乗・的矢・越賀とともに「志州四ケ津」とよばれ、 殿、野菜・果実を栽培する御園がある。 でん みその はしりかね 港のアダ花針師兼 とばあのりわたかのまとや 志摩国には鳥羽・安乗・渡鹿野・的矢・浜島など多 くの港町があり、ここには船乗りを相手とする遊女が おり、これを「はしりかね」と称した。 遊女たちは沖の入り船を待って小舟で沖へ出かけて 行く。その時衣類寝具その他の日用雑品を大風呂敷に 包みそれをたずさえていった。「はしりかね」は「は てんか りしかね」 ( 針師兼 ) の転訛といわれ、遊女が船中で 売色のかたわら、相客の衣類のほころびなどを縫うか らと伝えられ、情こまやかなものであったらしい 嘉永三年 ( 五 5 ) 鳥羽の戸数は八一六であるが、こ のうち船稼女を抱えた「下女商売」の家は三九戸で本 町だけに限られていた。うちわけは専業一八戸、兼業 二一戸で、このうち、専業者は大部分やもめが戸主と なっている。 あのりわたかの 安乗や渡鹿野では入り船に味噌汁の実にする菜を売 なうり りにいき売色を兼ねたので「菜売」とも称されてい ノ 48
金剛証寺本堂 - ーー摩尼 殿ともよばれ慶長 14 年 池田輝政が再建、元祿 14 年修理された。桃山 時代の様式てある。 3 孤独な斎王の地・斎宮 斎宮は神宮に奉仕する皇女すなわち斎王 ( 宮 ) の 住居の所在地で、天皇は即位すると未婚の内親王ま みつえしろ たは女王をト定し、伊勢に派遣して神宮の御杖代と さいし して祭祀にあたらせた。国の史跡に指定され発掘調 査中で、斎王の御所である内院、寮庁のある中院、 主神司と舎人司以下一二の司のある外院の三院から ほう なる斎宮寮に配され、盛時の規模は方三ないし四町 約三二七ないし 四三六メートル ) で、築地と溝をめぐらしていた。 へんばもち 宮川の渡津集落の手前の、返馬餅という珍しい名 の餅が旅人を喜ばせた。これからさき乗馬が禁止さ れているのでここで馬を返すため休息地となりこの おばた 名がおこった。小俣には斎王の日常の住居である斎 りきゅう 宮に対して、別殿ともいうべき離宮院があった。 斎宮から神宮まで遠いため祭祀のある時だけここか えんりやく ら参宮して奉仕に当たった離宮で延暦十六年 かんしゃ ($ 九 ) 設けられた。現在史跡に指定され、跡に官舎あり、ここと市中を結ぶのが京町で街道のおもかげ を残している。 ネ社があり、土居が少し残っているが遺構は明らか でない。 神都、伊勢の町まち 周辺の農村は「伊勢たくあん」の本場で、冬の季 節風にさらされているだいこん干しはこの地方の一 伊勢市は外宮鳥居前商業町の山田、内宮鳥居前町 うじせたがわ おおみなとかみやしろ 風物であったが、需要の減少で少なくなった。 の宇治、勢多川沿い港町の大湊・神社と問屋街の あいやま 小俣に対向する宮川の渡し場が中川原で、『宮川 河崎、山田と宇治を結ぶ間の山の町並みなど、それ 夜話草』に「宮川ノ東、人家列レリ是ヲ中川原ト云ぞれ異なる歴史をとどめる地域があって興味深い フ、諸国参宮人ヲ爰ニ出迎へナドスル茶屋アリ」と山田は現在伊勢市の中核をなす地区であるが、中世 ぼくてい 伊勢型紙 えじましろこ すずか 鈴鹿市の海岸にある江島・白子・寺家の三集落でつ くられているもので、和紙を柿しぶで張り合わせた地 紙に文様を彫りぬいたもので、友禅・小紋・中形・さ らさなどに文様を染めつけるときに用いられる。 この地は紀州徳川藩領であるが、藩の保護政策で発 てんまう 達し天保五年 ( 一一 ) の調書によると一五〇人の業者 が株仲間を組織し、全国に販路を確保していた。 きりぼ 小円の集合体からなる錐彫り、縞模様をあらわす縞 彫り、二枚の鋼を合わせて花鳥などの形を彫り抜く どうぐ 道具彫り、自由な文様を彫り進む突き彫りなどがあ り、それに応じて彫刀は異なる。 彫刻家の腕一本にたよる伝統工芸で、重要無形文化 財に指定されている名人も数人あり、これらの人びと のなかには彫刀を自作する人もある。彫刻台の前に坐 って行う仕事であるから、集落の景観には何の特徴も 力し っ 746
日賀茂別雷神社 京都の道 ( 色刷りは平安京 ) 、、 . ノ・挑山 、良の道 ( 色刷りは平城京 ) 都 今宮神社 植物園 奈良坂 東東 紀困 ~ - ロロ 寺、ロ固園ロ 第卍ロロロロロロ 春日山 卍卍可手向山神社 ム大日春日大社 新薬師寺 寺卍 詩仙堂 北京極 一条大路 二条大 大路 八条大 儿条大 ー乗寺 持明院 生駒神社幵 生駒△ 一条院 土御門殿ー御塹 " 遥 卩 凉極 霊山寺卍 京寺卍 仁和寺卍 東明卍 龕剛山寺卍 / ん片生ノ 一条大 △双ケ 大大 極 解 路 ' 路 路路 慈照 ( 銀 ロ田山 鳴滝 常盤 土門大路 真正極楽芍・ 繹光院 勝寺 メ 1 イこフ 松尾寺卍 岡本宮 法輪寺卍卍法 中宮寺 神法降寺卍卍 信貴山 神林寺 田道 3 4 竜田峠 天理線 人理 汀蓮院 三降寺 鉄橿原線 石上神宮 三条 四条 目 、道真邸 八坂神社 将車塚住 大五条大 六条大 ' 山の辺の 大和神社 / 名 石 ) t 与卍 当麻与卍 竹内街道 西鴻臚館鴻臚館 西本第 河原院 清水山、 条院 峠、上 法往寺殿 卍円通寺 幵大神神社 大和高田 桂離宮ロ 九条殿 耳成山 高田 竹内峠 九条 卍観寺 大和八本 朱雀大 卍法性寺 卍最勝金剛院 ・藤原宮跡 天香久山を ・飛鳥大仏 畝傍山 橿原神宮京 神宮 殿殿院殿 院三居松 閑東鴨高小 / 8 9 “ 0 宀元宀元宀元宀元宀元 、・文京学学可 弘左奨勧崛 寺寺院寺寺 市市安木伯興福 西東大葛佐元興 ⑧⑨⑩⑩⑩⑩⑩ 裏寺寺寺寺提寺 0 内華隆大原招師 大法西西菅唐薬 ①②③④⑤⑥⑦ 2km 新幹線 ェーー国鉄 私鉄 ー・区界 市街地域 近吉 南妙法寺卍 ~ 星都インター 上島羽 卍岡寺 石舞台古墳 橘寺卍 御所 談山神社日 多武峰△ 2 km
石上神宮の参道ーー一石 上神宮は布都御魂の剣 を祭り、多量の刀剣を 蔵していた。大和朝廷 の武器庫てもあった。 第 0 二ル第 4 わぎへ わが見がほし国は葛城高宮吾家のあたり やまむらごりゅう 華道山村御流 磐之媛が故郷の葛城の吾が家をみたいと、難波か 山の辺の道を南から北へ歩いて終わりに近づくこ ら山代川 ( 淀川 ) をさかのばり、奈良山をこえて奈 ろ、円照寺という禅林の威厳を保ちつつも何とはなく 良をすぎ、大和もすぎてやってきた、という意味で みやびやかさを秘めた寺がある。土地の人はこれを やまむら′」てん ほうじよううみ ある。この歌からも、大和が奈良の南にある大和盆 「山村御殿」とよぶ。三島由紀夫の遺作『豊饒の海』 地東辺の一地域であることがわかる。歌のなかの磐 に月修寺とあるのは、この寺をイメージとしている。 三百余年にわたるこの寺の法燈を護る尼門跡が華道山 之媛は、山の辺の道を奈良から大和へと南にたどっ 村御流の家元である。 ているのである。 寺の所在地の山村 ( 皿・ ) は、名のごとく大和高原 ところで道が少しあとがえりになるが、行燈山古 いくひだ のなだらかな裾の幾襞かに囲まれた静かな村である。 を洋墳と西殿塚古墳との中間に、天長九年 ( 「三 ) に弘法 その山陰に、また野辺に、強くあるいはひそやかに咲 ちょうがくじ 大師によって開かれたという長岳寺がある。地名 く四季折おりの花の姿を山村御流はこころとしてい ごみずのお とくど をとって釜ノロのお大師さんの名で親しまれてい る。それは、開山後水尾天皇第一皇女、得度して禅僧 あみだ 大道文智女王が、生母明鏡院に、春寺のまわりの花を る。平安後期の木造阿彌陀一一一尊像や鎌倉時代の楼門 とって捧花供養をしたのが流儀の始まりであるのとも などがあり、四月から五月にかけて八重桜やつつじ かかわっている。「花は野にあるごとく」を信条とし、 の花のながめも美しい 信仰に根付き山居の風をうっした山村御流に、自然と まじわること少なく迷い多き現代人が魅せられるのは 石上神宮と悲恋の影媛 もっともである。 かんごう 大和古墳群を通りぬけてしばらく行くと、環濠 しゅうらく 聚落の竹之内がある。このように村のまわりに堀に着く。左の道をとる、いったん下手へくだって北 をつくるのは自衛のためで、室町時代ごろの成立で上すると、道に接して西乗鞍古墳 ()* し、やや 全長七一一 さらにその北、天理大 あろう。ふつうは平野部に多く、山すそのたかみに東に東乗鞍古墳 ( 全長一八 ある環濠は珍らしい。古代の山の辺の道はもう少し学の運動場に接して前方後円墳の西山古墳 ( レ 低地を通っていただろう。 ' ) がある。天理図書館のあたりから右に曲がる おとぎ やっき 竹之内の北の乙木の集落をぬけたところに夜都岐と、石上神宮に行ける。 いそのかみ ふつぬし ネ社がある。道標に従って右の道をとると、石上 石上神宮は国譲りの神話に活躍する布都主神を祭 もののべ 神宮の神宮寺であった永久寺の跡を経て、石上神宮神とし、古代の軍事氏族として著名な物部氏が祭祀 しもて 7 02
国栖奏ーー - 吉野の山里、 国栖の人々が古代から 伝えてきた由緒ある素 朴な舞。朝廷の栄、 国の安泰を祈る。 0 既古式よみかえる 日神いな和 春い仰粛は だんざん しを厳真 か向下写 十一月第一一日曜日、桜井市多武峰の談山神社でな りゆ参以 祭式の儀う されるけまり ( 蹴鞠 ) まつりは、毎年十月十一日の 日古使の行 かきっ 春の勅祓を 同社嘉吉祭りとならんで、大和の祭事を多彩にす ふじわらのかまたり る。ともに祭神藤原鎌足にちなんでおり、嘉吉祭 りは一時橘寺に遷されていた鎌足の御影 ( 木像 ) かきっ が、嘉吉元年 (+) 多武峰にかえってまつられたの しんせん に由来する。その特別の神饌 (åに第」酒 ) である百 おんじき 味の御食は珍しい。 ふるいそのかみ 天理市布留の石上神宮は、タマまつりの古社と しての伝統を保持する。この古社の禁足地からは、 四世紀後半にさかのばる出土品を含む祭祀遺物が検 ななさやのたちてったて 出されたが、伝世の七支刀・鉄盾などの神宝も注目 みかさやま ふる された春日大社は、奈良市春日野町御蓋山の西麓にすべきものである。振神宮の「振」は、生命力を振 しず 鎮まる。もと二月と十一月の上の申日のまつりであ起するタマまつりに由来し、その鎮魂のいぶきは、 ごんしゅ ったが、明治十九年 ( ←し旧儀再興後は三月十三日毎年十一月二十二日おごそかに勤修 ({ 行」。とめ となった。その祭儀は王朝の氏神祭の要素をうけつれる鎮魂祭にもみなぎる。 いだ貴重な伝統のまつりとなっている。 大和の祭りの終わりをかざるのは、春日大社の若 おおやまと 四月一日の大和神社 ( 天理市新泉〈にず ) のちゃんち宮おん祭りである。保延一一年 ( 一一 L) にはじまるとい ゃん祭り、同社五月一日の神楽まつりなども、大和 うおん祭りは、十二月十六日の宵宮祭と御遷幸、十 祭事暦にいろどりをそえる。奈良市本子守町にある七日の渡御、十八日の後宴の能・奉納相撲とつづ ざかわにますおおみわのみこ さいぐさ 報川坐大神御子神社の = 一枝祭りは、六月十七日に く。なかでも時代行列ともいうべき渡御は圧巻であ とりおこなわれ、三枝すなわち百合の花をもってのり、時代風俗と芸能の動態展観のおもむきがただよ まつりであるのにちなんで、ゆりまつりともよばれう。古式にもとづく大和のまつりは、このほかにも あまた存在する。たとえば旧正月十四日、吉野町 ほうえん ごえん 7 ノ 0
はしりかね いぞう とくに鳥羽は賑わった。針師兼という船乗り相手のる。神路川沖積低地は「和名抄』の伊雑郷の地で志 かえい べつくういぞうぐう 遊女が多く口マンスの花が咲いた。嘉永三年 (lä) 摩地方最大の農業地域で、神宮の別宮伊雑宮があ の町方は八一六戸であった。現在は伊勢志摩国立公る。現在九郷の人びとが輪番で奉仕する六月一一十四 園の中心で観光地として賑わい多くの施設が整って日の御田植祭は三大御田植祭事として有名で、御料 しゅうふつ いる。南郊加茂川沿いの船津は古代の鴨部駅家 ( 四田修祓・竹とり・田植え・踊り込みの順で行われ ノ : 第新疋 ) の地と考えられる。磯部町に入ると五知で平家県の無形文化財に指定されている。 おんでん くつかけ うがた の隠田集落との伝承があり、沓掛は磯部駅家 ( 四 鵜方は先志摩への交通要地で、ここから東へ行く こう 疋 ) のあった所と推定され、安国寺跡を伝えてい と阿児町国府の集落がある。古代志摩国府の所在地 まき で、槇垣に囲まれた家並みが美しく、北端に国分寺 がある。ここは隠居制が行われ親は長子に家督を譲 ると同一敷地内の別棟の隠居屋敷に移り、息子夫婦 よめしゅうとめ とはまったく別の生活を営むもので、嫁姑の問 題はまったく起こらない合理的な風習が残ってい 海女たちの郷、志摩の村むら 国府からさらに雄大な太平洋を右に見ながら北上 あのり すると安乗の漁村で、近世には風待ち港として賑わ あのりぶんらく 、県の無形文化財に指定されている安乗文楽 (? 月十 五日 ) と古拙な舞台がある。このほか先志摩地方に なきりわぐ ′」ざしゆくたそ は大王崎の波切、和具、御座、宿田曾、浜島などのの 多くの漁村があり、海女による採貝漁業がいまもみ られる。神宮へ海産物を供進してきた所で、鳥羽市っ くさき 国崎ではのしあわびのそれが今日まで続いている。 かしこじま 賢島は先志摩地方の観光の中心で多くの観光施設 が整っている。 かもべ 五知の集落ーーー磯部町 の北端、野川の最上流 にある農村て、平家の 隠田集落のロ碑を伝え ている。 こくふ
吉野から賀名生への旧 道ーーー賀名生は南朝の 行宮 ( あんぐう ) の地、 また梅林て名高い。近 世の面影が漂うひなび た里てある。 あら 丹波に入り、小塩村 ( 京北町 ) 、板橋 ( 美山町 ) 、和知に入り、鳥羽城下をへて、安楽島 ( 鳥羽市 ) へ渡海 やまえ 村 ( 和知町 ) 、山家城下 ( 綾部市 ) から、十二月にな して越年した。 こうもり り川守町 ( 大江町 ) で皇太神宮の外宮、内宮に参拝 文政元年ーーー一月早々に安楽島を発ち、岩倉 ・し、福知山城下に入り、高槻村 ( 綾部市 ) に足をと村、松尾村など ( 以上鳥羽市 ) をへて、的矢 ( 磯部 あのり なきり どめて越冬した。 町 ) 、安乗浦 ( 阿児町 ) 、波切村 ( 大王町 ) をへて、二 文化十ニ年 二月に高槻村を出発し、綾部か月に、伊勢に入り、田丸城下 ( 玉城町 ) 、上楠村 ( 大 ひかみ ら福知山の近在を托鉢し、丹波の氷上郡一帯を廻台町 ) 、粕野 ( 紀勢町 ) 、長島 ( 長島町 ) 、船津村 ( 海山 おわせ り、三月に千原町 ( 夜久野町 ) 、畠中村 ( 福知山市 ) 、 町 ) 、尾鷲 ( 尾鷲市 ) 、木本村 ( 熊野市 ) と熊野灘沿岸 榎原村 ( 福知山市 ) あたりを廻ったあと、但馬に出に沿って、紀伊に入り、熊野本宮、湯の峰、新宮、 たいじ しおのみさき かけ、四月には丹波に舞いもどり、立原町 ( 福知山那智山に参詣し、三月、大治浦 ( 大地町 ) 、潮御崎 はりま す・さみ 市 ) から園部城下に赴き、播磨に転じ、加古川、明 ( 串本町 ) 、周参見 ( すさみ町 ) 、田辺城下を辿り、四 石をへて、五月、尼崎から大坂に来た。伏見に滞留月、日高道成寺 ( 川辺町 ) 、湯浅町、箕島 ( 有田市 ) 、 し、洛中洛外の社寺に納経し、六月、大坂に下り、 紀三井寺 ( 和歌山市 ) 、和歌山城下、根来寺 ( 岩出 まきお また伏見にもどり、近江に転じ、国分寺 ( 大津市 ) 、 町 ) を経て、五月、粉河寺、高野山、槇尾山 ( 和泉 いえはら ほんだ はちまん 八旗八幡 ( 近江八幡市 ) 、浄楽寺村 ( 安土町 ) 、多賀明市 ) 、家原文殊 ( 堺市 ) 、誉田八幡 ( 羽曳野市 ) 、道明 きのもと 神 ( 多賀町 ) に参詣し、彦根城下、長浜、木之本か寺 ( 藤井寺市 ) をめぐり、五月にかけて大和に入 たいま ら北陸路に向かった。 り、竜田明神、信貴山、法隆寺、当麻寺、金剛山、 ひだしなの これから泉光院は北越、飛騨、信濃、甲斐から東橘寺、岡寺、初瀬寺、室生寺、赤目不動 ( 三重県名 、関東、東海を巡歴し、文化十四年、美濃から伊張市 ) 、吉野山、多武峰、三輪明神、春日大社と大 勢にやってくる。 和の名刹をくまなく廻り、六月、木津から伏見に出 ほうしやく 文化十四年・ーー十二月、大垣から桑名宿に入て、愛宕山、宝積寺 ( 大山崎町 ) 、総持寺 ( 茨木 つなぎ さどはら り、国分寺 ( 亀山市 ) 、都那岐明神 ( 鈴鹿市 ) 、上野宿市 ) 、勝尾寺 ( 箕面市 ) を経て、大坂の佐土原藩蔵屋 むくもと ( 河芸町 ) 、白子観音 ( 鈴鹿市 ) 、津城下、椋本駅 ( 芸敷に着き、七月に山陽路を西下していった。 濃町 ) 、関の地蔵 ( 関町 ) をへて、伊賀に入り、上野 泉光院の行程をみると、主街道、脇往還はもとよ かいと 城下をへて、垣内駅 ( 白山町 ) から伊勢にもどり、 り、江戸時代後期の名もなき村里の道みちがうかが あさま 国分寺 ( 松阪市 ) 、伊勢神宮、朝熊山に参詣し、志摩われて興つきないものがある。 やくの か かちお
白毫寺への道ーーーゆる やかな石段に萩の花が 崩れかかる。ふりかえ ると、縁の豊かな大和 国原の展望が美しい。 2 をつかさどる、大和屈指の大社である。物部氏は河通ずる山の辺の道を奈良山へと急いだのである。 内を本拠とする氏族であるが、五世紀代に大和に勢 人麻呂の「歌塚」と寺々 力をのばし、武神の布都主神を祭るこの社を奉ずる ようになったらしい。物部氏はそれで、石上神宮の 石上神宮から北への道は、まず天理市の中心部を ある布留の地一帯を第二の故郷として勢力を張ったぬけてゆく。天理教神殿の壮大な建物が目を奪う。 と考えられる。 市街を出はずれたあたりから山脚部が西にはりだし ぶれつ さきに「海石榴市」の項で、即位以前の武烈天皇て、上ッ道との区別がはっきりしなくなる。別所の へぐりのしび が平群鮪と、物部影媛の愛を争った物語にふれた大塚古墳を右にみて一キロメートルあまりで櫟本で が、物語のなかでの影媛の家はこの布留の近くにあある。ここでは西名阪国道と交差するが、古代以 ったとみられる。というのは、この恋の争いに敗れ来ここから高橋川 ( 高瀬川ともいう ) の流れにそって なら た武烈が、影媛の愛をえて勝利者となった鮪を乃楽都祁野の高原にのばり、伊賀へ出る街道があった。 山 ( 奈良山 ) で攻め殺したとき、影媛は乃楽山にか またその近くにかって柿本寺があり、このあたり ひとまろ けつけて鮪の死をいたみ、つぎのような歌をうたっ が歌聖人麻呂を出した柿本氏の本拠地と伝えられ、 ているからである。 人麻呂の墓が作られたこともあった。寺も墓もいま いすかみふる 石の上布留を過ぎ薦枕高橋過ぎ はないが、「歌塚」と彫った大きな石碑が立ってい る。 物多に大宅過ぎ春日春日を過ぎ たまけ おさほ 妻隠る小佐保を過ぎ玉笥には飯さへ盛り 柿本氏は五六世紀に大きな勢力のあった和珥氏 たまもい 玉盤に水さへ盛り泣きそほち行くも影媛の一族だが、櫟本の西北に和邇の集落があり、和珥 あわれ 氏はここを中心として栄えたと考えられる。山の辺 もんぜき この歌には、布留をはじめ、高橋・大宅・春日・ の道はその和邇をすぎ、奈良県の三門跡寺院の一つ 現い ) をすぎて 佐保と地名がたくさんうたいよまれているが、それとして著名な円照寺のある山村 ( 良 じようざんに やまむらごりゅう らはいずれも布留から奈良山へ行く途中の山脚部のる。円照寺の門跡静山尼は、華道山村御流の家元 いちのもと 集落などの名である。すなわち高橋は天理市櫟本、である。ここからは古市の集落の東方の野道をたど の ろくやおん びやくごう びやくごう びやくごうじ 代 大宅は奈良市帯解または白毫寺、春日は春日山山り、鹿野園から白毫寺へ出るのがよかろう。白毫 じ 麓、佐保は佐保川上流にそれぞれ比定できる。物語寺では早春の五色椿、初秋の萩がことに趣ふかい。 3 0 ここまでくれば奈良の町までもう一息である。 の影媛は、涙に泣きぬれながら、これらの村むらを さわ はるひ ) 」もまくら わに
な、をを、え ー = を凄ソー第ミ。ーを ・・ヾ .1 こ - ニ - - ト第 英虞湾ーー志摩半島の南部 の英虞湾は、賢島・多徳島・ 間崎島など大小さまざまの 島をもち、養殖真珠て世界 的に有名てある。 めいおう のとき津と改称した。明応七年 (&) の大津波で港 は潰滅的打撃を受けたが、藤堂氏の入府と地理的位 たにがわことすが 置の良さから城下町として繁栄した。谷川士清の旧 あこぎつかとうどう 宅と墓は史跡に指定され、孝子平次の阿漕塚、藤堂 たかとら 山る宮雰 高虎の別荘であった偕楽公園などがある。 倉あ内な 高ては的 神宮放 の外開。 繁栄謳歌の港町 ) 物。いる 穀るる、 あった 祀明て 宮りを、つ 他方、東国からの参宮者は熱田から海上七里 ( 約 神あ神ても 大に大つを七キロメ ) の渡しで桑名に到達する。平安時代には間 受麓受違気 豊の豊と囲どお 遠の渡りと称され、中世には十楽の津として楽市・ さかい 楽座が発達し自由都市として堺とならぶ繁栄をとげ 。近世には城下町・宿場町・港町・市場町として せいそうけんぶんりやくし 賑わった。『勢桑見聞略志』に舟役一一一〇軒、回船 えきてい 持九軒、『駅逓志稿』に「東海道桑名駅船役ニ従事 スルモノ一日二十人、船四十八艘、船主二十五人、 水手百三十二人ニシテ : : : 」とあり、港町隆盛のさ まが知られる。御三家尾張藩の前衛的位置にあるた め城主には親藩が配され、城跡は九華公園となって ぶんめい 桑名の次の宿が四日市で、市は文明年間 (**S 九 田原忠秀の浜田城北側に開かれたのが始まりであ たてすはま る。一六世紀半ころ北・南・西のロ・縦・洲浜の五市 が四の日の定期市に発展し、さらに中の瀬古市が増 設され九の日も市が開かれた。これらの市場町が北神 たて 町・南町・西町・竪町・浜町・中町へと発達し今日 に及んでいる。都心となった北町と竪町のかどに陣 かいらく