力士像ー一高野山、遍 照光院の山門にある。 柱を支えるその姿は行 人 ( ぎようにん ) とよば れる下級法師を象徴す るかのようてある。 高野聖が語り歩いた道 験の山であり、空海は修験にみちびかれてこの山を 巡礼びとで賑わう高野七ロ 知ったようである。空海はこの山を賜るために朝廷 巡礼でにぎわう紀州路は、異国の人びとの目に に提出した上表文に「吉野より南に行くこと一日に ほど ゅう 〃宗教共和国〃とうつることもあったようである。 して、更に西に向かって至ること両日程、平原の幽 てんしよう 天正十三年 ( ←し宣教師ルイス・フロイスは、本地有り、名づけて高野と曰う」と書いており、 そうれいぎんかんさしはさ はくほうへきらくっ 国への報告書のなかで次のようにのべている。 葱嶺銀漢に挾み、白峯碧落に衡く ( 青あおと した峰は銀河をはさみ、白い山々は青空にそびえた 紀ノ国と称する他の国があり、悉く悪魔を尊崇 っ ) する宗教に献ぜられていた。此国に四五の宗派 おおみね というこの山に空海は吉野から大峰をへてきたの があり、各々一大共和国の如きもので、宗旨の 古い為め同国は不可侵で戦争によって亡すことである。いまこの道から入山する人はほとんどな 。西国巡礼もいまでは橋本から電車で極楽橋ま 能わず、多数の巡礼が絶えず同地に赴いてい で、そこからケープルで山上まではこばれる。ふる ここでいう古い大きな宗派が、高野山と熊野をさ くは高野山に登る道が七つあり、高野七ロとよばれ た。高野街道西口、京街道不動ロ、竜神街道湯川 すことはいうまでもなく、西国巡礼・高野詣で ロ、熊野街道相之浦ロと大滝ロ、大峰街道東ロ、大 野詣での巡礼がたえなかったというのである。 こっき 和街道粉撞ロである。いま登山電車や有料自動車道 さきにふれたように、西国巡礼の人びとは、ほと こかわ んどが粉河寺から四番の施福寺へ行く前に高野にのとなっているのは、不動ロへ通ずる京街道にそって 峯根 & 尖く 4 の轄 おり、自動車道は途中から高野街道西口への道にそ ばる。お伊勢参りをすませて熊野に詣で、西国巡礼 〕る輪が れ。九珠 って大門までのばる。 さう。宝の道を北上して高野に参る、というように、高野に いレの ちょういし 大徴とト色 高野山への道で町石をみおとすことはできない。 はさまざまな人びとが、各方面から登ってくる。 山象塔一金 野の大メに メートレ一」 高寺本 5 頭 高野山は空海 ( 七 八 = 一五が入山する以前、山岳修町石というのは山寺の参道にほば一町 ( 約一〇九 赤井達郎 奈良教育大学教授 728
り、雄岳と雌岳との間の岩屋峠越えのほかに、二上 と表現しているが、それは原伝承の改変であり、近 あなむし おおさかみち けんそう みや 飛鳥宮とは、河内の飛鳥宮 ( 顕宗天皇の宮神とする ) 山の北側穴虫峠越えの道 ( 大坂道であろう ) もある。 であった。 河内飛鳥から大和への道は、竹内峠越えとならんで 穴虫峠越えも利用された。『万葉集』には、難波の ほがいびと ほがい 難波から大和へ至る路 乞食者すなわち寿詞・寿歌を唱えて祝言した市の かに なにわ 難波から南下し、堺市の金岡神社のあたりで東、 芸能者の歌が収められている。その″蟹の歌〃に みにえ しおづ は、難波から河内飛鳥をへて塩漬けの蟹を御衄とし 南へと進み、河内飛鳥をへて、大和の飛鳥へとたど みちゅ すいこ る古道が、『日本書紀』の推古天皇 (X 紲砌め ) 二十て大和の都へ献じた道行きが詠みこまれている。そ 一年十一月の条にしるす、「難波から京に至る大の乞食者のコースは、河内飛鳥から穴虫峠越えで大 道」である。大道は古代の主な官道の一つであっ和の都へたどるものであったとみなすことができ くにびと た。難波と大和の飛鳥を結ぶ歴史の道で、外つ国人る。 もまた往来した要路となった。 今の竹内街道は、舗装され整備されて、いにしえ 大阪市天王寺区に大道町があり、堺市金岡神社の のおもむきとはかなり変貌した。明治十八年 ( 八し あたりが大道町であり、さらに太子町山田の地域が の竹内峠の拡張ばかりでなく、近時さらに車道化し 古くから山田大道町とよばれていたのも、「大道」 て、峠のあたりも車の騒音が谷間にこだまするほど としての古道にちなんでの町名であった。奈良県北 となっている。しかし路傍に注意すれば、大峰まい こあぎ えんのぎようじやどう 葛城郡当麻町竹ノ内の小字名に大道があり、橿原市りの道ともなった道標や役行者堂、峠茶屋跡など 、」ろ・レ」く 小綱町の小字に大道が残るのも、けっして偶然では があるのに気づく。そして太子町山田の伝孝徳天皇 力し ささぎ〉はこ古墳とする説もある ) から河内飛鳥への 難波からの道は、堺市南花田町の北方で、長尾街道をとれば、竹内街道の往古がしみじみとよみがえ ってくる。街道にそって流れる河内飛鳥川の風情、 、を」道 ( 大津道 ) と交わり、さらに約一・九キロメートル たじひみち 内 ばかり南下して竹内街道 ( 丹比道 ) と交わる。竹内河内飛鳥からのぞむ二上山のたたずまい、そこには 竹 峠越え ( 当麻道であろう ) となる道で、後に竹内街道大和の飛鳥とは、ひとあじもふたあじも異なった歴鳥 と称されるようになった。古代の「大道」が、今の史のひだが浮かぶ。そしてその背後に、東アジア世河 竹内街道に重なるのである。竹内峠は秀麗な一一上山界とも脈絡をもった古道の面影がただようのであ 3 ( 大津皇子を葬った墓と伝える墓は雄岳にある ) の南にある。 太子町山田 この道 は、古代の道と伝える。 あたりに奈良の王族た ちの墳墓が集中的に存 在し、華麗の昔を残し ている。 たいまみち
友好の道・彦根への道ーーー・朝鮮人街道徳永真一郎 霧にけむる丹波路の宿竹岡林 カラー・大和路 / 高野路 古代の恋歌を求めてーー山の辺の道直木孝次郎 よみがえる古京と古道ーーー飛鳥の大いなる遺産上田正昭 古式ゆたかな大和の祭りごよみ上田正昭 河内飛鳥と竹内街道上田正昭 吉野の山に散った南朝の悲歌百瀬明治 古寺によせる浄土への願いーー西国巡礼の道赤井達郎 高野聖が語り歩いた道赤井達郎 九十九王子を辿る熊野御幸の道白洲正子 カラー・熊野路 / 伊勢路 神都へつづく歴史の家並みーー・ー伊勢路藤本利治 伊賀街道と忍者の里藤本利治 風光と茶の葉がうたう要道ーーー東海道近江路岩井宏實 京と中国路を結ぶ古代の官道ーー西国街道原田伴彦 畿内の大河・淀川 岩井宏實 三十石船と茶船のにぎわい 紀州路岩井宏實 「天下の台所」と葵の御紋 13 7 150 1 12 128 1 14 109 130 163 140 120 158 152 104 160
寺町今出川の道標 若狭街道の起点。東は 下鴨・比叡山・吉田・ 黒谷・真如堂・坂本越 の道と刻まれている。 鮮魚が京へ上る山あいの道 〃鯖街道〃若狭路 か口に入らない。そこで若狭の魚が喜ばれた。若狭 若狭までニ五里の行程 の海で一塩して、商人の肩にかつがれて二五里の道 てらまち でまちゃなぎ 京都側の起点は出町柳である。寺町今出川の路のりを運ばれてくるうちに、塩がしみ渡ってよい味 加減になる。 傍に、ほっんと道路標識の御影石が立っているが、 京の人は、この鯖を焼いたり煮たりしたばかり 買い物に急ぐ主婦や、この近くにある同志社の大学 か、三枚におろして、鯖寿司をつくった。京料理の 生や女学生たちは、なんとも思わず、そこにそんな 発達は、材料が乏しいため、工夫に工夫を重ねて、 ものが立っていることすら知らないで、毎日、通り すぎて行く。それはこの道標が、今は無用の記念碑調理法を考え出した所にある。鯖寿司も、工夫の産 もったい 物で、なお残った鯖のアラを捨てるなんて勿体ない となったことを物語っている。 ななくち おおはらぐち ことはしない。 このアラをだしにして、薄く切った 京街道七口からいうと、この道は大原口に当たっ わかさ ているが、一般には若狭街道と呼んでいた。だから大根を煮込んだ。これをセンバと称し、熱いうちに こうして骨まで愛されたか 鯖街道というのは別称で、正しくは若狭路というべ食べると結構うまい。 じようぶつ きだろう。 ら、若狭の鯖も成仏でき、商人もさかんに鯖街道 わかさおばま を通ってきたのである。 この道標から、若狭小浜の城下まで一一五里ハ くつきだに ト ) 、それが若狭路の全行程である。 近江耶馬渓「朽木谷」の美 なぜ鯖街道と呼ばれるようになったかというと、 ひとしお 小浜の城は、海を背に、左右に南川と北川を控え 若狭の海で獲れた鯖を、海辺で一塩して、京まで背 て、海の町小浜にふさわしい海城の構えをみせてい 負ってきたからである。 る。 内陸部の盆地に位置しているため、京都は魚とい つるが こい この小浜や隣の敦賀は、昔から、京都や奈良との 5 うと淡水で育った鯉や鮒、ゴリなどといったものし ふ な 邦光史郎 作家
竹内街道ー竹内峠の付 近の旧道。むかしの当 麻 ( たいま ) 路。大和 と河内を結ぶメーンス トだった。 さ力い ( 大坂 ) に上陸し、堺から紀伊路を南下し、田辺か 道は、庶民のための商業路として賑わってくる。こ ほんぐう らいわゆる中辺路の山中を熊野本宮へ、さらに海岸 とに美濃・近江は商業が発達し、東海道をめぐり、 しもへじ しんぐう 沿いの下辺路を新宮に至るルートである。この道中 いくたの脇街道が発展しはじめた。 つくもおうじ には九十九王子の社と宿坊がもうけられた。 つぎに平安末にはじまる街道の特色の他の一つは もう 熊野詣では密教信仰と深く関係していた。これと 社寺への参詣道路が整えられることであった。 しゅげんどう こうやもう 並んで高野詣でや吉野への修験道の道が生まれてき その代表的なものが、いわゆる熊野道中である。 ほらがとよノげ・ すうけい 熊野三山への崇敬が高まり、朝廷、貴族をはじめ武た。淀川の橋本から洞ケ峠をこえて河内の古市から きみとうげ しらかわ 家の間にもその信仰がひろがった。その参詣は白河紀見峠をこえるコースの、いわゆる高野街道がそれ ごしらかわ である。 天皇は八回、鳥羽天皇は一六回、後白河天皇に至っ ては三四回に及んだ。京から淀川を下り、渡辺の津 中世の軍政的重要道路 へんせん 南北朝時代から室町にかけて、政治地図の変遷に より畿内には新しい街道がクローズアップされる。 その代表的なものを一、二あげると、ひとつは竹内 街道である。吉野にあった南朝は、摂河泉への進出 路としてこの道を重視した。このルートは古代には たじひみち 丹比道といわれ、河内と飛鳥を結ぶ重要な古道であ った。平城京 ( 奈良 ) の建設とともに、大和と難波 を結ぶ道としてはいったんさびれるが、堺が南朝方 の軍港として、また室町時代に商港として大発展を せつつやまと とげると、このルートは、摂津と大和を結ぶ主要路 として復活したのである。 たんばじ さんいんどう もうひとつは、山陰道、すなわち丹波路である。 因伯地方の山陰は、ながらく政治的には後進地域でべ あったが、南北朝いらい、守護大名の山名氏が、十 余力国の守護職をしめ、「六分の一衆」と称される幻 なかへじ たなべ なにわ
橋につく。東海道五十七次という勘定である。この コースは淀川の左岸に沿う道で、これは豊臣秀吉 —魎 ' ) が、大坂城や伏見城にあったときに、太 閤堤といわれる淀川の堤を改修すると同時に、軍事 道路として整備したもので、このため京街道という 名称も生じた。また大坂道ともいう。 のぼ あずま 京へは上り、東へは下り あまがさきにしのみや 大坂から西へ、尼崎、西宮をへて西下するコー あかし スは、正式には中国路という。西宮から兵庫、明石 ばんしゅう さい′」くかいどう をへて播州にむかうのが、西国街道、いわゆる山 ようド一う 陽道である。ただし中国路は、政権の中枢が江戸に 移ったため、令制では「大路」として最高の地位に 「一 ~ い。蕙あ「たものが、江戸時代には脇街道 = 転落した。な お、西宮から中国路と分かれて京都にむかう淀川右 岸のコースも山陽道といし 、また西国街道ともいっ こや 。幕府は西宮宿と伏見宿の間に、昆陽、瀬川、郡 やまあくたがわ 山、芥川、山崎の五つの宿駅をもうけた。 中国路と東海道は、参勤交代の公用路であった。 文政年間の記録では、東海道を通る近畿、中国、四 国、九州などの大名は一四六家に及び、全国大名一一 四〇余家の六割に及んでいる。またこの道は、朝鮮京 かびたん 通信使、琉球使節、長崎オランダ甲比丹などの参府 するいわゆる大通行の公用路であった。 しわゆる東 ただし上方から江戸へ向かうのは、ゝ 下りであった。京への道は伝統を保持して上りであ幻 のぼ あずま 」おり さん
を↓はま第、つ 0 ! ' 一ま ↓村ミ ! 一丁十 0 村 3 一第 、ゝ か表 5 な丁 ( をーを第諱を第純を等 ツの壽 0 、呀 一第を 「亠 1 物を。、まを、物第、一第 - え洋 4 、 ~ キ長をに義らを可を を 0 を 3 よを 圏〒域 1 物月 0 〒囀 ャオロ、 1 毳ー いをおヾ ) 、を第、 それより水西・正明寺・今安を経て福知山市小田 付近の前浪駅に入り、一宮・下中上佐々木・雲原を 経て大江山の西に横たわる与謝峠三六三メートルを まがりかね 越して丹後国に入り、勾金駅より丹後国府に達す 絵図による近世の街道 「延喜式』のころの山陰道は、亀岡盆地から西へ、 あまびき 天引峠を越えて篠山盆地に入り、鐘ケ坂峠より柏原 に入り、但馬国に続いている。これに対し近世の山 陰街道は、亀山 ( 亀岡 ) から園部、観音峠を越えて しゅうち うばら 須知、菟原、福知山を経て但馬国へ入り、ほば現 在の国道九号線沿いの道順をとっている。そして亀 岡から芦山、埴生、天引峠、篠山の古代山陰道は篠 山街道の名をもって親しまれてきた。 寛政十一年 (R) の『丹波国大絵図』によると、 道は次のとおりであった。太字は城下町、 * は一里 旅籠屋 ) を表す 山陰街道老坂峠町ーー王子ーーー篠村ーー亀山 なびか ーーー宇津根ーーー並河ーーー千原ーーー下川関ーー八木新 * ロ おやま * 町ーー・鳥羽ーーー・ - ・小山ーーー園部ーーー観音峠ーー水一尸ー ロ△ ー須知ーーー曾根ーー檜山ーー井尻ーー水原ーー・・ー下大 久保ーーー菟原下ーーー千束ーー上野ーー・生野ーーー池田 たっ * はゼ あらが * ーーー山石崎ーーー土師新村ーー福智山ーー下荒河ーー・ー立 おだ たかうち * おぐら 原ーー上小田ーー池内ーーー日置ー亠局内ーー小倉村 より但馬国野間村へ一一九町 ( 吶三い」キ。 レ ) 鳥羽より若 8 わら * ロ△ すいさい はぶ * ロ△ ロ * ロ△ *
熊野本宮大社 - ーー中辺 路の湯の峰温泉をすき、 山中から突然平地に出 たところにある。旧大 社は洪水て流され、明 治 22 年 ( 1889 ) この地に 遷された。 明治二十二年の洪水に流失し、現在の熊野本宮大社 は山側に移っている。中洲の本宮趾は、うっそうと した樹林にかこまれ、社殿のあったあたりは、広い 芝生になっていて、春は桜、秋はもみじが美しい 私はここが好きで、熊野へ詣でる度に訪れている が、度度いうように、なまじ何かあるより自然のま まに放置されている方が、静かに昔を偲ぶことがで きる。 かち 徒歩で行った時代には、京都から本宮まで十日あ まりの日数を費やしたという。私は三日しかかけな かったが、毎日車に一二時間も乗りつづけたのは、 現代では苦行のうちに入るかも知れない。旅という ものは、出発点から終着点に至るその間に味がある ので、たとえばお寺を訪れるにしても、 いきなり門 前へ乗りつけたのでは、半分の興味もなくなる。熊 ようはいじよ が生きている証拠であろう。伏拝とは、遙拝所の意野街道は、三山へお参りする一つの道程で、いって みればお寺の参道にひとしい。その長い道中の間 味であるが、たとえ信仰のないものでも、こういう に、私たちは美しい景色に接したり、面白い人びと 景色に接すれば、思わず手を合わせたくなるに違い 力し と出会ったり、辛い思いをしたり、暖かい人情にふ れたりして、得がたい体験をするのである。日本人 はぐく 旅の終わりに は、古代から、そういう文化に育まれてきた。その 智座といのる 一例として、「熊野街道」をとりあげてみたが、実 今、私は熊野本宮と書いたが、正確には本宮趾と 那鎮滝多智あ にが那て は京都から熊野本宮へ至る道はほかにもある。大辺 いうべきだろう。それま旨【予ー 冫里月と音無川と岩田川が 中は滝の布 + 一のにど・、異 ( 対林中ほ近窈寄り合う中洲に建っており、鎌倉時代の「一遍聖路、下辺路、小栗街道などがそれであるが、それら 智始山る社大 那原。れ大最絵」には、・往時の壮観があますところなく描かれての中ではもっとも古くて正確な「御幸の道」にしば 熊山すいが滝 って書いた。 いる。残念なことに、荘厳を極めた多くの社殿も、 川旧ⅷ第Ⅲ
鈴鹿峠ーー近江と伊勢 を結ぶ要衝て、箱根・ 逢坂とともに東海道三 関に数えられた。九十 九析れの難路も、今は 峠下のトンネルを国道 が走りぬける。 伊勢街道の見事な町並み 鈴鹿川を渡ると神戸で名は神宮の神領に起源し、 室町時代には一円を支配した神戸氏の居城があり、 近世には一柳・本多氏の城下町となった。 白子は和歌山藩領で、伊勢・尾張・美濃・三河の 木綿・菜種・紙の積み荷を独占した白子組商人があ り、江戸の大伝馬組と結んで活躍し、近世伊勢湾岸 だいこくやこうだゅう で一、一一を競う港町として繁栄した。大黒屋光太夫 てんめい らの乗り組んだ「神昌丸」は天明一一年 (L 七 ) ここか ら出帆した。白子のほこる伝統産業として友禅染め かたがみ などに使用される伊勢型紙がある。紀州藩発行の鑑 さっ ちょうちん 札と紀州御用の提燈をもつ行商人によって全国に 市場をもった。 上野付近は見事な街村をなし、海岸には平行して いっしき 屋、南町には本陣・問屋場が設けられて宿場町の機一色をはじめ漁村がならんでいる。ヒシコ・コウナ しろこ 能を整えた。また白子・鳥羽・江戸・大坂へ廻船を ゴの小魚を煮る煮干し加工場があり、砂浜で干され る景観は、珍しい風景となった。伊勢煮干しとして 通じ、市場町・宿場町・港町となり文化八年 ( ~ 八 ) には武士を除く町方の総戸数一六二八・本陣二・脇全国に出荷され、夏から秋は庶民の味が溢れる土地 本陣一・旅籠九三・茶屋四があった。阿倉川台地をである。 ばんこやき しとも 中心に明治から始まった万古焼は名高い やがて志登茂川に出るが、ここにかかる橋が江戸 ひながおいわけ 南郊に日永の追分があり東海道と分かれ伊勢街道橋で、渡った所で伊勢別街道と合流する。 ( 伊勢路 ) に入る。追分には「右京大坂道左いせ参 栄華を誇った松坂の豪商 宮」の道標や伊勢神宮の鳥居・常夜燈がある。以降 おばた てんしよう のぶかっ 神戸・白子・上野・津・松坂・小俣・山田の七宿が 天正八年 ( ←し織田信雄が築いた松ヶ島城主に ある。 かんべ かん 744
社寺と神仏にあふれる大和路には、「街道」 の原点ともいえる道が今も遺っている大和 盆地の東に連なる春日山から三輪山への山裾 を縫って、北は奈良旧市街から南は桜井市へ 走る「山の辺の道」、大和飛鳥から西へ、橿原 を経て竹内峠を越え、河内飛鳥から大坂難波 へ至る竹内街道などがそれである「山の辺の 道」は日本の歴史に登場する最古の道であり、 竹内街道は推古天皇のときに設けられた最初 の官道という。このほかにも大和盆地からは、 京や大坂を結ぶ奈良街道、伊賀上野へ出る伊 賀街道、柳生へ至る柳生街道など、道は四方 に通じていた やま たカうら 東大寺ーー東大寺は創 建以来、たびたび天災 や兵火て伽藍 ( がらん ) を失いながら、よくそ の偉容をとどめ、昭和 55 年 ( 1980 ) に大修復が なり盛儀が行われた。 蟻第を = 東大寺大仏ー。ー聖武天 皇の発願により、天平 勝宝 4 年 ( 752 ) に開眼 した盧舎那仏 ( るしや なぶっ ) て、東大寺の 本尊てある。