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検索対象: 日本の街道6 夢誘う山陽山陰
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1. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

十七日弥栄神社、町内 ) 村の福田神社 ) 厳島神社最大といわれる儀式で、 八十八カ所をめぐる遍路道をは 昔、大山道沿いにあった八束村に もとは京都祇園祭の日に行われてタ方五時ごろ、美しい輦を大鳥居 じめ金毘羅宮や剣・石槌山など いたが、天文十一年 ( 一五四一 l) 、 伝わる盆踊りで一風変わっている。 沖の御座船まで運び、対岸の地御前 への信仰・修験の道、瀬戸内の 三〇 5 四〇人の老若男女が楕円形の津和野城主吉見正頼が山口を経て、神社に向かう。ちょうど西日が海面光る海に航跡を記した海人たち の道、また龍馬をはじめ維新を 輪をつくって踊る。何人かは、「てん津和野に導入した。雌雄二羽の鷺のを染めるころなので、なんともいえ 築いた志士脱藩の山越えの道な こ」と呼ばれる独特の衣装を身につ姿をまね、白衣に鷺頭、白く塗ったす神々しい雰囲気をつくりだす。まど、歴史に彩られた " 青の国。 け、頭からてぬぐいをはおかぶりし薄板の羽根をつけ、優雅に舞うもの。 た、地御前神社で日暮山の儀式をし南海道を訪ねます。 次回配本ーーー年田月日発売予定 て踊る。踊りには「あおい」「しっし」導入した当時そのままで、囃子も笛・た後に、三管・三絃・三鼓の雅楽が 「まねき」の三種類があり、ユーモラ太鼓・羯鼓・鼓・などの古式ゆか流れる中、長浜神社、大元神社を回第 7 巻 しいものである。 スな踊りである。 漕する。 毎光る瀬戸内・ ・津山祭り ( 津山市宮脇町十月十 舞・鯛綱 ( 福山市鞆町五月一日ー五、冫 月三十一日鞆ノ浦 ) 八日亠一十三日徳守神社 ) る 遍路道金毘羅参詣道 江戸時代後期からつづく、津山の 今から約三五〇年ほど前に瀬戸内土佐路瀬戸内の海路 み を海で活躍した水軍の雄、村上氏の一責任編集・山本大 ( 高知大学名誉教授 ) 総鎮守である徳守神社の秋祭り。六イ . 、、 , ・、 四人でかつぐ大は全国でも屈指 族である村上太郎兵衛の創案による 雅 ・主な内容 のものであり、神社から出発して町 もの。瀬戸内海の伝統漁法を伝える 優 街道小史山本大 を練り歩く。これに武者奴の長い行 ただ一つのものとして、繰りひろげ 八十八カ所露道三好昭一郎・土佐文雄 列がつづき、竜や虎などが素彫りさ・牛突き ( 隠岐Ⅱ都万村那久九月られる。この時期になると、 龜羅参詣・庶罠の道市原輝士 にハチマキ姿の漁師たちは、古式漁 れた山車を引く。町中が秋祭り一色一日茶山 ) 剣・石槌ー修験の道武田明 に塗られる賑やかな行事。 承久の変 ( 一二二一 ) で隠岐に流法にのっとって、たくましい声をか城下ねて田中歳雄・山本大 けながら網を引く。 ・福迎え ( 大社町一月三日三歳された後鳥羽上皇を慰めるために、 志士脱藩・維新への道山本大 瀬尸内海のたち景浦勉・市原輝士 社 ) 行われるようになった行事。毎年九先帝祭 ( 下関市四月一一十三日 5 一一 水の恵みー宀・水流の美高橋啓 福の神である大国主命を祀る出雲月一日に開かれる本場所では、それ十五日赤間神宮 ) 工豕落人の行く道前田和夫 大社では、毎年、一月三日にその年までに選び抜かれた約三〇頭の猛牛壇ノ浦悲話にちなむ祭り。生き残 夷辺のみち・流人の地前田和夫 が、横綱・大関・ の福を新たに迎える。福を授けても った平家の官女たちは、その後壇ノ 南栂道の民話ねて高木啓夫 らおうと、遠方からも多くの人々が き関脇などの番付で浦近くで遊女に身を落としたという。 四国路・文芸の旅土佐文雄 やってくる。また、「吉兆さん」と、 牛勝敗を決する。一しかし、安徳天皇が入水した命日に 人々の潤いー岳 A. 物産三好昭一郎 「ばんない」が行われるのもこの日。 のトンを越える巨体は身を清めてお参りしたという故事鉄道建設のみち伊丹正博ほか 隠がふつかりあうさにならって、行われるようになった。 出雲大社の町を歳徳神の吉兆や厄払 ・カラー いの「ばんない」に扮装した人が練 まは、迫力満点。五人の太夫が官女・稚児などを従え 随想大原富枝富士正晴 ・管弦祭 ( 宮島町旧六月十七日 り歩き、町は福の神でうまる。 て水元門へ行列するところが見もの。街道のうた / 遍路道 / 海の美ほか ( 旅行ライター・萩田佐智子 ) ・鷺舞 ( 津和野町七月一一十日、一一厳島神社 )

2. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

ト衂 神戸から西へ・十余年の長い道太嚶 山陽鉄道建設の苦闘桑田康信 わが国における鉄道網整備の過程について、その 問題を産業資本確立期における軍事機構の問題とし てとらえ、軍事警察運輸機構としての特質を指摘し たのは故山田盛太良 ( の経済学者 に大正・昭和期 ) であった。この指 摘は、鉄道建設を単なる文明の発達とみるのではな 、軍事警察的色彩を濃厚にもっておこなわれた日 本資本主義確立との関連で取り上げるべきである、 という重要な提言を含んでいる。 最初の民営、山陽鉄道会社の設立 明治十九年十二月二十二日、会社を創立し、同三 ばかん 十四年五月二十七日、神戸・馬関 ( 明一 + 五年六調 を全通した山陽鉄道は、当時の民営鉄道、日鉄・関 西・九鉄・北炭と並ぶ五大幹線鉄道の一つであった が、他の鉄道とちがい自社工場で機関車の製造を手 がけ、また食堂車・寝台車・室内電灯の採用などを 本初村原し 陽当永栗張積極的に進め、その先進性において際立った特徴を 山は松て主 る設は経をみせていた。 通敷局を案 を道当村る 明治十九年十一一月二十二日、神戸で官設鉄道に接 市鉄町波す 道道山達 尾尾らに 続し、神戸から姫路まで山陽道を縦貫する鉄道を建 、′物・物等物・

3. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

宅して鳥居の立っ円政寺などが並んで 一帯は、広い敷地に樹木が目立ち、博文・山県有朋などのパネルが飾っ 日 その樹木の陰にひっそりと旧武家屋てある。また、境内の入り口の左手 作 晋 には「吉田松陰歴史館」もできて、 敷や庵が立っている。 杉 高 山口県の西北部にあって、日本海明治維新に活躍した松陰の生涯が窺 に面し、三方を山に囲まれた萩は静える。 ( 九時 5 一七時三八〇円無 丁山陰の小京都と呼はれる津和野は、 横島根県に属し、四方を山に囲まれた かで、透きとおった美しい町。山陰休谷〇八三八一一・五・四八五六 ) 菊小さな盆地にある城下町。山陰本線 本線を利用するならば、萩駅よりも東萩駅から萩橋を渡り、萩市内の 北を東西に走る道をまっすぐ進むとこらしたという由緒ある茶亭である。の益田から山口線に乗り換え、山口 東萩駅のはうが便利である。改装一 新した東萩駅前にはレンタサイクル突きあたりが海をのぞむ萩城跡。途指月橋側には、萩史料館 ( 三月ー県の小郡から出発する「やまぐ くまや が並んでいる。 ( だいたい八時 5 一七中、萩藩の御用商人だった熊谷家の十一月八時半ー一七時十一一月 5 一一ち号」の終着駅でもある。 時三時問四〇〇円一日八〇〇円美術品を公開している、熊谷美術館月八時半ー一六時半無休一一五〇萩とは距離的には近いが、列車だ 三一 l) やと乗り換えなけれはならない。その ( 八時 5 一七時五〇〇円無休円谷〇八三八一一・五・一一一 ぐらい ) 萩の町は見るべきところが多く、 谷〇八三八一一・一一・〇一八〇 ) や、 旧厚狭毛利家萩屋敷長屋 ( 入館は萩ため、東萩駅と津和野駅を直接に結 、一う ぶバスが日に五本でている。約一時 広いので、レンタサイクルを利用す江戸中期に建てられた楼門が残る亨城跡と共通券一一〇〇円 ) がある。 る人も多いようだ。これといった坂 いすれも、広い敷地に時代をよみが間五〇分。山の中を走るコースだが、 館 道もなく、海岸近くや堀割、武家屋 術えらせるような姿で立っており、ま萩の町と津和野の町を眼下に一望で 敷町を走るとよい た、現代を匂わせる建物がほかになきることもあって、人気がある。 熊 いために、人気がないときに歩くと津和野の町は、津和野川に沿って 東萩から松本川を渡らすに、山陰 た し思わず時のエアポケットに吸い込ま細長い。本町通りと殿町を中心に堀 本線を越えて東に行くと、松下村塾 割が走り、鯉が放されている。吉見 然れそうになる場所だ。 のあった松陰神社にでる。維新胎動 整 萩の町で、いちはん時代を錯覚し一四代、坂崎一代、亀井一一代とい 期に、吉田松陰がわずか一一年半の間 そうなのは、国指定史跡にもなって 開いたという松下村塾は、境内の左徳寺などが点在する。 割 手の平屋。八畳をはしめ数部屋があ指月小橋を渡ると、そこがもう萩いる江戸屋横丁、伊勢屋横丁、菊屋 る るだけの建物の中には、松陰に教え城跡。苔むした石垣を囲むようにし横丁の通り。何気ない町の通りから て を請うた高杉晋作や久坂玄瑞・伊藤て、内堀が張りめぐらされている。覗きこむと、完璧に保存された江戸 れ すぐうしろに指月山を控え、城は取時代の顔に出会って、一瞬びつくり 放 E : ( 、二村り壊されてしまったが、趣深い。現する。菊屋横丁には高杉晋作旧宅 ( 四 松在は指月公園として公開されている。月ー十月七時ー一八時十一月ー三 公園内には、家老だった福原家の書月八時ー一七時無料 ) があり、江戸う永い城下町の歴史にふさわしく、 ま院や、抹茶を注文できるをが屋横丁には木戸孝允旧宅 ( 高杉晋作町並みもしっとり落ち着き、どこか 時立つ。ここは、元藩主毛利敬親の別旧宅に同じ。ただし建物内は見学てら見ても背景に山を置く。なかでも 当 邸で、維新時には志士たちも密議をきない ) 、青木周弼旧宅、道にはみだ堀割にたくさんの鯉が泳ぎまわる養 津和野

4. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

山陽鉄道の食堂車 明治 32 年に連結して業 者委託として開業。利 用者は 1 等 2 等の乗客 に限られ、洋食て、ラ ムネや酒類もあった。 設する計画を進めるために山陽鉄道会社が設立さ げて官営とするか、または別会社を設立してこれと れ、同月二十七日、その創立願書が兵庫県知事内海合併してもよいこと、第三に鉄道線路に当たってい 忠勝に提出された。この願書の発起人一六名の中に る官有地はすべて会社に貸し付けること、第四に鉄 道線路に当たっている民有地は、公用土地買上規則 は、大阪の藤田伝三郎田 ) 、横浜の原六郎盟 によって政府がいったん買い上げてのち、これを会 し、東京の荘田平五郎 ( しらの富豪が名前を連ね ていた。 社に払い下げること、第五に鉄道用地はすべて免租 その願書によれば、 とすること、などであった。 田神戸・姫路間に鉄道を敷設するが、これは追っ このようにして、ついに明治二十年四月七日、中 かみがわひこじろう て岡山まで延長したいこと、 上川彦次郎 ( 福測門下の俊秀、のち = 一井財閥の中心人物となる 図鉄道事業の創業に際しては官有地を下付され、 を委員総代として山陽鉄道会社創立を届け出た。 民有地については政府がこれを買い上げて会社に下 これに対して、明治二十一年一月四日、鉄道局長 付されるべきこと、 官より免許状が下付されたが、これは私設鉄道条例 ③鉄道敷設工事についても政府が管理するように によるわが国最初の免許状であった。これによれ 計らってほしいこと、 ば、山陽鉄道会社の設立、神戸・馬関間の鉄道敷設 ④鉄道に使用したいっさいの土地は免税にされたおよびその運輸営業を免許するとともに、免許状下 いこと、 付の日より起算して神一尸・岡山間は三カ年以内、岡 6 非常の兵乱があれば、政府は自由に鉄道を使用山・広島間は六カ年以内、広島・馬関間は九カ年以 してよいこと ( ただし有償 ) 、 内に工事を竣工させることとなっていた。 などをその主な内容としていた。 鉄道建設をめぐる財閥・軍部の思惑 この出願書は翌一一十年一月十四日、兵庫県知事よ り内閣総理大臣伊藤博文に提出されたが、ときの鉄 このようにして、山陽鉄道会社は資本金一三〇〇 道局長官井上勝は意見書を下付し、次のようにその万円をもって、社長に中上川彦次郎、副社長に村野 企画の修正を促した。それは第一に、神戸・姫路間 山人、常議員に難波一一郎三郎ら一一名の役員をもっ の線路を延長し、岡山・広島を経て馬関まで延長すて発足した。会社の当面なすべき第一の課題は、い ること、第二に姫路以西の敷設については、もし完かにして資本金を集めるかにあった。会社は明治一一 遂できないときは敷設に要した費用で政府が買い上十一年三月中に、資本金五五〇万円 ( 株式数五万五〇 な

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東行庵ー一高杉晋作がを 病臥した家を東行庵と 称した。彼の遺骸を清 水山に葬ったのち、東 行庵も清水山に移した。 きんもん と戦った ( 禁門の変 ) 。しかし、長州軍は敗れ、朝敵 の名を負うこととなり、第一回の長州戦争が始ま る。 せいちょうそうとく 幕府は征長総督に尾張の前藩主徳川慶勝 (Æに ) を任じ、中国以西の諸藩に芸州ロ、石州ロ、そ のほか海路よりの出兵を準備させた。幕府は総督の 本営を広島に置き、十一月十八日を総攻撃の期日と したため、十月から十一月にかけて各藩の兵隊は部 署についた。芸州ロの攻撃を命じられた諸藩兵も広 島に到着し、市内の寺院などを宿所とした。 せ」よう、」う しかし、幕府は一方では征長の軍を進めながら、 は、日清戦争のさい明治天皇 ( 一八五一了 一九一二 ) が行幸 し、みずから作戦を指揮した大本営が置かれた。ま早くから戦わずして長州を屈服させることを考えて うじな たかもり た、第五師団や宇品の陸軍船舶運輸部などがあっ いたために、ひそかに薩摩藩の西郷吉之助 ( 隆盛、 あっせん て、広島は戦前、西日本最大の軍都であった。 一八二七 ) を長州に送り、和平の斡旋をさせていた。 しかし、明治以降に軍都となる前に、広島には幕当時、長州藩は四国艦隊によって下関を砲撃、占領 末に一一度も長州戦争の本営が置かれ、大軍を集結さ され、尊王攘夷派は気勢があがらず、保守派が政権 せた軍事経験をもっていたのである。これが、明治をとっていた。このため長州藩では山口城を破却す ふくはらえち′」 ますだうえもんのすけ 以降の陸海交通の要衝である条件とあいまって、 ること、益田右衛門介 ( 一 ~ 四 ) ・福原越後 ( ←以 ~ 一 くにししなの 広島を軍都とし、大陸出兵の拠点としたのである。 四 ) ・国司信濃「 ) の三家老を死罪に処して謝 さんか あの原爆の惨禍を招いた遠因も、長州戦争に果たし罪することなどを条件に、停戦することとなった。 た広島の役割に根ざすところがあったといえよう。 十一月十二日、長州藩は三家老の首級を芸州藩に送 文久三年五月十日に、長州藩が下関で外国船を打 り、芸州藩を経由して幕府の実検をもとめた。征長 ロ久ら年藩 山文か 3 を ち払ってから、約三カ月後の八月十八日、京都で政総督がまだ広島に着いていなかったので、尾張藩家 旧は城応ロ なるせはやとのじよう 氏萩慶山 変が起こり、長州藩の尊王攘夷派は京都から追放さ老成瀬隼人正 ( 一九一一「 ) が、十一月十四日に広島 門毛り月た こくたいじ 城 移 2 めれた。翌元治元年七月、長州藩は勢力挽回をはかつ国泰寺において首実検を行い、十八日と定められて 刀定 城舎 ( はまぐり′」もん ロ庁年ロ跖と 山県 3 山い府て大軍を上京させ、蛤御門で会津・桑名などの軍 いた進撃は中止された。 1 3 0 前田砲台跡ーー - 長篇 は十数カ所の砲台を築 いて関門海峡を防衛し たが、四国連合艦隊に 攻撃され占領された。 よしかっ

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地蔵河原の一里塚 可部町から可部峠 ( 南 原峡 ) に向かう石見街 道にある。塚の原形は 失われているが、クロ マツの樹勢はさかんだ。 道である。 町下部 ) が、県史跡に指定され、わずかに往時浦 あかな 出雲街道は、松江から宍道・木次・赤名を経て山の面影を伝えている。 こうざんいち あかなとうげ 陽側の布野・三次へ越し、ここから吉舎・甲山・市『芸藩通志』によると、赤名峠越えから尾道まで 村を経て尾道にでる道と、三次から吉田・可部を経の街道は、上布野・三次・吉舎・甲山・市村の五駅 きゅうさか と、つげ - て広島に達する道に分かれる。前者の布野・尾道間 と、その間に一里塚一九、急坂八、峠九、谷四が は、約二〇里。 ) へだたり、行程二日半、後記され、三次・広島間は、吉田・可部の両宿駅と、 二日の 一里塚一六、急坂四、峠二、船渡し二を記してい 者の三次・広島間はほば一六里 ( 約」結 ) 、 一日程であった。 る。また、三坂峠から可部までの街道には、中山・ また、石見街道は、浜田・今市・和および大本地両駅と、一里塚一一、急坂一、峠 = 一が記してあ ~ 」 ( 一、、森・川本・出羽の = 筋の道が中国山脈を越えて、安る。」ずれも、難所の多」山道で、明治にな 0 てか 芸の新庄に合し、中山・本地・可部を経て広島に らも、なかなか車交通にきりかえられなかった。山 しろともえ 一日代巴は、『荷車の歌』で描いた三次地方の生活のな 達する。中山・広島間は、一二里 (f 聖結 ) 、 半の行程であった。 かに、依然として交通における人力の負担が大きく けいちょう・ これら両街道は、慶長年代 ( ~ 伍九 5 ) に開通をのしかかっていたさまを、あますところなく甦らせ みており、さらに寛永十年 (ßl*l<) 、道幅を七尺に定ている。 め、一里塚を築き、 川には橋を架け、宿駅を設けて 明治三十年代の初め、随筆・紀行などで文名をは てんま 一〇—二〇疋の伝馬と同数の人足を常備し、かっ公せた杉村楚人冠は、創立間もない三次中学校の教師 きやくや かみね 儀の客をもてなす客屋を建てるなどの整備が行われ に招かれたが、広島まで来て、上根の峠を越すの た。客屋は、のちに駅所の本陣に転用され、常備の に、馬が人力車の前引きをすると聞いて、そのまま だちんかせ 伝馬・人足は、公用の合間に駄賃稼ぎと呼ばれる、 東京へ引き返したという逸話もある。 商売上の諸荷物の輸送にもあたった。また、土や石 鉄荷改めと駄賃稼ぎ を積んで塚とし、榎や松の木を植えた一里塚は、旅 みちしるべ 行の里程を知る道標となったが、明治維新ののち、 石見の国境に近い中山駅は、寛永十年 ( 一 I*I() ごろ しようとくきよろ・ほう これを保護するものがなくて、大半を失った。出雲 に設置され、正徳・享保期 (L 〔一 ) には、本陣と やまが しもそうめんや 街道では、山家一里塚 ( 三次市山家、 町神之瀬 ) 下素麺屋・中山伝馬一五疋、問屋五軒、家数二八軒でなりたってい じぞうがわら 両一里塚 ( 双三郡吉 舎町吉し、石見街道では、地蔵河原一里た。公用通行は、浜田藩主の参勤交代や天領・山陰 かんえい そじんかん みさか

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・第を、を言をヤをこ 朝をす 福山城ーー水野勝成が 元和 5 年 ( 1619 ) からわ ずか 3 年て築城した。 昭和 20 年戦災て天守閣 を焼失し、昭和 41 年に 復元した。 1 新ⅱ祠汽 広島 ( 鯉 ) 城一一 - 毛利輝 元が天正 17 年 ( 1589 ) に 築き、維新後も天守閣 は残されたが、昭和 20 年原爆て焼失、昭和 33 年に復元した。

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4 銃眼のある土壁 - 一一海 に面した萩城二の丸の 土壁て、銃眼を通して 美しい菊ケ浜がすぐ眼 前に見られる。 キリシタン墓地ーー較 国武士の血気を失わぬ 羆谷元直らの殉教の歴 史をしのぶにふさわし い萩城二の丸南側の静 かな場所にある。 いるが、広島開府の当初には、封建都市ながら、す 熊谷氏の城と菩提寺 でに開かれた性格がみられたのであった。 熊谷元直は萩に移る以前は、源平合戦の勇将直実を みいりかべ 萩城とキリシタン殉難 祖先にもっ安芸国三入・可部 ( 北区可部町 ) の領主であ り、祖父信直は元就の中国征覇戦の最大功労者で、伯 萩城は高さ一四三メ 1 トルの指月山を詰丸とな 母は元就の次男吉川元春に嫁している名門であった。 し、その南麓に本丸・二の丸、さらに東につづいて ていかく 元直の安芸での本拠高松城跡は、山頂に一〇余の大規 三の丸を梯郭式に配置した平山城である。指月山は 模な郭をもつ、高さ二二〇メートルの堂々たる山城 もと石見国津和野の三本松城主、吉見氏の出城であ で、北西麓に築地石垣をめぐらせた土居屋敷跡があ ったところで、山頂に石垣・土壁が残っている。本 る。また相対して根の谷川右岸に菩提寺の観音寺跡が 丸は内堀と天守台が残っているが、五重五層の天守 あり、前面に巨石で築いた一一〇メートルの石垣があ り、内側に小堂と熊谷氏墓所がある。また谷奥には鎌 閣は、明治七年に解体されてしまった。二の丸跡で 倉時代以来の旧城伊勢ケ坪城跡もある。 は、中堀は大正十三年、すぐ東側に運河が掘られた 元直はこの伝統と実力により他大名からの招きもあ ときの土で埋められたが、東門跡から潮入門に至る り、キリシタン仲間を通じて大坂城の豊臣氏に同情し 南北六〇メートルほどの土塁の上には、銃眼のある た。これが輝元から死罪に処せられた要因である。元 土壁が残存し、復元・修理されている。 直の死後も熊谷氏の名跡は存続を許され、同家は江戸 関ヶ原の敗戦で、わずかに防長両国三六万九千石 時代末には再三使者を遣わし、墓参をかねて安芸国で の故地を調査させている。 余の領有を許された毛利氏は、徳川氏に対して恭順 を示さなければならなかった。萩城築造の許可が幕 府から出されたのも、関ヶ原の戦から四年もたった方の工事作業者三人を捕えたことから、このささい けいちょう とみえた事件が築城工事を遅延させ、ついに毛利氏 慶長九年 (Æ) 二月になってからである。工事を 急ぎ、輝元は同年十一月、あらかたできた本丸に入の運命を左右する事態に発展した。 ますだもと 城し、残った工事の最高監督者として重臣の益田元 益田方は三人を斬首して和解を求めたが、天野方 くまがいもとなお うしろだて 一五五七 5 は熊谷元直を後盾として、首は石の代わりになら 襯 ( 一六 ) と熊谷元直 ( ~ F8$) を、現場監督に 元直の女婿天野元信らを任命した。ところが翌十年ぬと承引せず、一一一〇〇荷という莫大な石の返還を 三月十四日、天野氏が二の丸東門の松の木の下に積あくまで要求し、ついに互いに親類縁者を味方につ んでおいた工事用の五郎太石 (? しを盗んだ益田けて藩の裁決を求めた。輝元は、ことが徳川秀忠の

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後、逐次整備されていった。寛永十二年 ( 一一 0 に参古代の山陽道からやや南寄りのコースをとる近世の幻 まんじ 、、、 ( 一勤交代制が確立され、万治一一年 ( , し以後、大目付山陽道は、東は西宮を起点とし、西は長門の下関ま 燾および勘定奉行からそれぞれ一名ずつ、道中方を専でと考えてもよかろう。しかも、山陽道は令制では 任に扱う道中奉行を兼帯するものができ、この体制「大路」として最高の地位にあったが、江戸時代で 、最も重視された。 は五街道からはずされて、脇街道の地位に転落し くらい 、 : 江戸から四方に出る東海道・中山道・甲州道中・日 た。街道の位づけも、政権所在地との位置関係、つ 道中奉行の管轄下におまり当時の政治的・軍事的な役割などによって規定 かれた。 されたわけである。 五街道のなかで最も重要視された東海道は、江戸 山陽道と「長州藩主用道中案内記」 載日本橋を起点とし、京都を終点とするが、大坂およ にしのみや び西宮まで実質的に延長されたともいえる。幕府 西国諸藩が山陽道の整備を画期的に行ったのは寛 は、参勤の諸大名が途次に入京することを禁止し、 永年代 (L 四 ) である。すなわち、寛永十年 ( やましな 大津から山科を迂回して伏見に行くことに定め、そ ) 幕府の巡見使が西国へ派遣されるのを契機に、 ひらかたもりぐち こから淀川の左岸に沿って、淀・枚方・守口を経て各藩では臨時に道路普請奉行・御茶屋奉行などを任 大坂に至る道筋は、京街道、または大坂道ともいっ 命して、道路・橋梁や宿駅施設の整備・拡充にたい あくたがわ ふくいん た。また、伏見と摂津西宮との間に、山崎・芥川 へんな努力を払った。山陽道は、道路の幅員を二間 こおりやま 約四キロ 郡山・瀬川・昆陽の五つの宿駅を設け、この街道半 (f いしとし、沿道に松を植え、一里 ( メ を山崎通りといい道中奉行の管轄下においた。 ごとに一里塚を築き、要所には茶屋を三軒ずつ設け 東海道から引きついで大坂から西へ、尼崎・西宮るといったぐあいである。山陽道に設けられた宿駅 を経て西下する街道は、正式には中国路といわれ、 を東から西へたどると、兵庫県下では西宮から有年 みついし 西国街道とか山陽道ともいわれた。伏見から山崎を まで八宿駅、岡山県下では三石から高屋まで九宿 かんなべ 経て南西下する山崎通りの終点は西宮であり、京街駅、広島県下では神辺から玖波まで一〇宿駅、そし 道 ( 大坂道 ) の終点大坂から、さらに尼崎を経て西て山口県下では関戸より下関まで一九宿駅で、合計 宮に至る街道も、大坂道といわれたようである。しすると四六宿駅となる。もっとも、宿駅間には間の しゆく たがって、東海道およびその実質的な延長の行きっ宿が五カ所ほどあり、宿駅の数え方も人によって、 くところは、摂津の西宮であったとみられるから、 間の宿や予備の宿を計算に入れることもあって、若 旧船坂峠ーー兵庫・岡 山両県境にある旧山陽 道の峠て、標高 180 メ ートル。古代山陽道のソ 坂長駅は西方に置かれ 尾道の町並みと港 12 世紀後半に高野山領 大田庄の倉敷地に指定 されて以来、内海屈指 の港町として栄えた山 陽道の宿場町てある。 をこ , こや かんえい

10. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

山陽鉄道の寝台車 明治 33 年、直通列車に 1 等寝台車を運行、翌 年には夏季夜行列車に 軽便蚊帳の貸し付けが 行われた ( 料金 5 銭 ) 。 ー , しンを第ィー 設を本 に政府が鉄道敷設用地を買い上げたうえ会社がこのした。姫路・岡山間は揖保川・千種川・吉井川・旭 架法に ) を方年 在 意同、こ 払い下げを受けることができなくなり、会社が直接 川の河川を擁しており、線路選定には、船坂山経由 ・第ーしつ」ナ′ 現 . (. 一な亠し 橋にけ町成土地の収得をしなければならなくなったことであの山間盆地線と、赤穂を経由する海岸線の二線が考 鉄年つ。完 をたが る。これについて、山陽鉄道会社は政府筋に対し えられていた。前者は途中に多くの長大隧道の掘削 古治干っ梁 ロ日冖闌レ」意同 カ日ー て、従来通りの方式の採用を申請したが却下される を必要とし、また後者は平坦地であるが人口密集の こととなった。しかし、政府も山陽鉄道の重要性を区間であった。これは結局のところ前者が採用され 認め、内務大臣より地方官へ訓令を発し、地方官に るところとなった。 おいて土地買収について会社を援助させることとし この区間の工事では、注目すべき事柄が二つあっ た。その一つは、有年から船坂村に至る線路の勾配 他の一つは、姫路以西の鉄道敷設資金の募集が困のとり方であった。当時、官鉄でも山間部の勾配の 難となったことである。とくに明治二十三年にはじ とり方は、建設費を節約するため二・五パーセント まる恐慌は、これに輪をかけることとなった。会社 が常識であった。しかし当時の社長中上川は牽引力 側は政府命令の期限内に完成できないことを恐れ、 の経済的効率を検討し、かたくなに、それよりもは 政府に対して特別補助金の下付を申請した。この申るかに緩やかな一バ ーセント以下の緩勾配を主張 請は姫路以西の鉄道一マイル ( 豐いじについて一一し、この区間は中上川の意見が実現した。 〇〇〇円の割合で特別補助金を下付されたいという 他の一つは、船坂峠越えの船坂隧道の難工事であ げ・んころ・ 、、。 \ ものであり、政府はこの申請を明治一一十三年三月に った。船坂山は元弘の昔、後醍醐天皇が隠岐配流の 認可するとともに、工事竣工期限についても若干のとき、児島高徳らがその奪還を企図したといわれる 調整をおこなった ( 姫路・岡山間ー明治二十二年四月一一一天険の地であった。この船坂隧道は長さ一一三七・ 十一日以内、岡山・尾道間ー明治二十四年十二月三十一日五メートルの長大隧道であり、明治二十二年四月ご の 以内、尾道・広島間ー明治二十五年十二月三十一日以内、 年 ろから工事に着手していた。難工事であったうえ、 広島・徳山間ー明治二十六年十二月三十一日以内、徳山・ 工事中にコレラが流行し、また工事労務者の逃亡も へ 赤間関〈馬関〉間ー明治二十七年十一一月三十一日以内 ) 。 相次ぎ、会社は隔離病院の建設、衛生対策、労務者訥 徴発などの対策に腐心した。こうして、この難工事戸 神 鉄道が開通して の隧道は約九カ月間、二四万円の工費を費やしてや 9 そして工事は、岡山・尾道間は予定期限内に完成っと完成をみたのであった。 こじまたかのり ちぐさ