。 ( 鯊をみ第 高梁川と成羽川一一一町 名のとおり、まさに落 ち合う。前方高梁川の やや下流、広瀬は備中 檀紙て有名だった。 成羽川の上流、川上郡備中町の新成羽川ダム堰堤 付近に、古くから「文字岩」と呼ばれた岩があっ とくじ そんかい た。それは、徳治二年 (8 し、成羽善養寺の尊海、 かさがみりゅうず じっせん 奈良西大寺の実専が、舟航の難所である笠神の竜頭 いのゆきつね の瀬一帯を、石切大工の伊行経をして改修させたこ とを自然の岩肌に刻んで記念したものである。ダム 建設により水没の厄にあってしまったが、これによ り成羽川・高梁川の水運が、すでに中世から重要だ ったことが明らかだ。新見・松山・玉島の発達は、 この川なしには考えられない。近世に入ってから、 新見・松山・成羽などの各藩は、高瀬舟によって年 貢米そのほかの物産を河口の玉島へ送り、そこから 大坂の全国市場へ積み出した。 高瀬舟の発生地、吉井川 高梁川をはじめ、旭川、吉井川などのいわゆる県 下三大河川の水運は高瀬舟によった。高瀬舟といえ ば、森鵐外 ( 一八六一了 一九一 = 一 ) の名作『高瀬舟』によって、 京都のそれを知らぬ人はまずいまい。だが、本当の 高瀬舟の起源は吉井川にある。すなわち、京都嵐山 すみのくらりようい の大悲閣にある嵯峨出身の豪商角倉了以 (L 『 1 四 ) の顕彰碑によれば、 わけ 慶長九年 (Æ) 甲辰、了以作州和計川に往き、 おもえ 鉷船を見て以為らく、凡そ百川皆以て舟を通ず すなわ さかのぼ 可しと。乃ち嵯峨に帰り、大井 ( 堰 ) 川を泝 原漢 ) ロロ・し、
厳島神社ーーー市杵島姫 神が主神て、海路守護 神として平清盛はとく に崇敬し、海を敷地と 、した社殿・回廊の配置、 第平家納経て知られる。 い物とされていた米穀の輸送は、政府も輸送費の格に記しているのでおもしろい。海路をとった例で 安な海路を利用せざるをえなかった。『延喜式』に は、すでに平清盛が唐船 ( 宋商船 ) を用いて厳島参 こうおう よって、米を京都に運ぶ海陸の運賃規定で計算して詣をしたことは知られているが、足利義満も康応元 みると、例えば周防国からは、陸路では石別一石八 年 ( ←し三月四日に京都を発って兵庫に着き、ここ さぬき 斗三升余となって運賃のほうが高くつくが、海路に で讃岐の細川頼之が準備した一〇〇余艘の船に、随 よると石別二斗一升五合となり、 しかに海路をとる 行の諸大名とともに乗り込んで内海を巡航する旅に ほうが輸送費が安くつくかが知られよう。このようでた。 に瀬戸内という一つの道筋において、陸路と海路が このとき随行した九州探題今川貞世が、その紀行 併存して、その利用状況が競合したのは山陽道の特を書きのこしたのが前記の『鹿苑院殿厳島詣記』で 色であり、陸路山陽道を知るためにはこの点は無視ある。船団は播磨から備前の海岸沿いに牛窓に至 しえず、また、このような関係は後世までつづくのり、ここから島伝いに讃岐の宇多津出 ) に渡って である。 頼之の歓待をうけ、さらに備後尾道沖に渡り、山陽 おんど 古代から中世にかけての山陽道に関する数少ない 筋の海岸を西下して音戸の瀬戸を通って、三月十日 いまがわさだよりようしゅん 紀行文の中で、九州探題今川貞世 ( 了俊、五に一一夜に厳島に着いている。 〇一 ) が、陸路で西下したときの『道ゆきぶり』 ろくおんいんどのいつくしまもうでき 江戸幕府の政略で脇街道に格下げ や、海路の道中記としての『鹿苑院殿厳島詣記』 などはとくに注目される。『道ゆきぶり』は、今川 東国が名実ともに日本の中心になったのは、江戸 けんと′、 貞世が九州探題として、建徳一一年 (ALI}I) 二月に、京幕府が開かれてからである。全国を統治するととも 都を出立して九州へ下向したときの紀行文とされ、 に江戸を防衛するために、また、やがては一〇〇万 陽 京都ー山崎ー芦屋ー須磨ー明石浦から備前に入っ という江戸の大人口の生活物資を確保するために 山 からかわ かがと びっちゅう て、香登ー福岡ー辛川へ、さらに備中の吉備津宮も、幕府は江戸を中心とする交通政策を早急に樹立 れ ー屋蔭 ( 矢掛 ) ー尾道浦から糸崎・厳島・岩国を経しなければならなかった。かくして、全国の交通体用 併 ーカ て西下している。貞世は、古代からの官道に沿って系は、従来の上方中心から江一尸中心へ編成替えされ 路 の紀行だけではなく、香登・福岡や尾道など、官道ていくが、山陽道の地位も必然的に低下することを 陸 からはずれて「中々名高きかた」や、「面白き所」免れなかった。 をめぐり歩いて風物をめで、各地のポイントを上手 2 江戸幕府の交通政策は、関ヶ原の戦 ( 慶張¯) 以 よりゆき
高梁ーー明治以前は備 中松山といわれ、周囲 を山て囲まれた高梁川 沿いの古い城下町て、 小京都といわれる面影 を残している。 倉敷 - ー一高梁川の河港 として、米をはじめ諸 物産の積出港として栄 え、白壁の土蔵や倉庫 が川面に影を落とす町 人文化の町てある。 3 「 - 、」第 : ・討 41 41 吉備路 - ーー総社の南東、 備中国分寺跡一帯を 「風土記の丘」といい、 五重塔を望みながら、 多くの史跡が訪ねられ ー、アの物み第い ら = な , 驟 -1 長第 を軽を第ま : ′ーき ~ 、 : を「朝物、みす 47
2 御手洗港金子家ーー慶 応 3 年 ( 1867 ) 10 月 26 日夜、芸川・長州両藩 の家老・総督・参謀な どが金子家に会合し、 御手洗条約を結んだ。 艦購入のため、薩摩藩から金一〇万両を借り、その くりわた 返済方法として、毎年米一万石と銅・鉄・繰綿など を送っている。薩摩藩からは六—七人の役人を送 り、広島藩からの商品を受け取って同港の薩摩藩船 やど 宿などに保管し、便船を得てこれを薩摩に送った。 薩芸交易の始まった文久三年、いわゆる八月十八 さんじようさねとみ 一八三七 日の政変によって尊王攘夷派の三条実美 ( ら七卿が長州兵に守られて都落ちしたことは有名で ある。ところが、翌元治一兀年七月、長州藩は大軍を 京都に進め、勢力の挽回をはかって蛤御門で戦い 結局敗戦となり、これが長州戦争の原因となること はすでに記したとおりである。 さんじようにしすえとも このとき、 = 一条実美・三条西季知 (l 〔一 ) ・四 じようたかうた みぶもとなが ひがしくぜみち 条隆謌 (L 獗 ) ・壬生基修 ( ・東久世通 禧 ( 贏三三¯) の五卿は、京都における長州軍の勢力 さぬき 挽回とともに入京しようとして、長州を出て讃岐の たどっ 多度津まできていたが、京都における敗北を知って 長州へひき返した。その途中、七月一一十二日から二 十四日にかけて御手洗港に寄港し、庄屋竹原屋で旅 の疲れをいやしている。町役人は藩に対し、そのと きのようすを大要次のように報告している。 一長州の御家中が多人数乗組んだ船が当月二 十二日につぎつぎと当港に入港した。二十三日 とうしようがた に堂上方が船に乗っておられ、御入湯したい ので庄屋勘右衛門宅に準備するよう申され、さ っそく準備したところ昼九ッ時に上陸された。 とみ ( 七 ) ふな 御手洗港のオチョロ舟 港町に遊女はっきものであった。御手洗町にも、江 戸時代四軒の茶屋と一二〇 5 一三〇人の遊女がいた。 一時は、町の人口の二割以上を遊女が占めていたので ある。小さな町であるので、町民から遊女は親近感を もって遇せられた。とくに町の祭礼・行事には、必ず 彼女らの参加があって彩りをそえた。文斑十一年 ( 八 こうのいけ 八 ) 、この町に大坂の豪商鴻池家が住吉神社の社殿 を寄進した。その鎮座祭の行事には、多くの遊女が参 加したが、来町した鴻池の名代は彼女らをみて「竜宮 の乙姫かとまちがうほどで、京・大坂の遊女も顔まけ する」とたたえている。御手洗の遊女には、茶屋・揚 や 屋で接待するオカゲイシャと、オチョロ舟と呼ばれる 部屋つきの舟で漕ぎつけるオキゲイシャの区別があっ た。とくに、停泊した船の間に漕ぎ入れてゆくオチョ ロ舟の存在は御手洗遊女の特徴であった。 わかえびすや いまも県史跡として残る若胡屋跡は繁栄した往時 の茶屋のおもかげを残している。 三条殿・三条西殿・四条殿・壬生殿・久世殿 その他一一一条殿御付属や長州藩の人数も多く上陸 とどこおり になった。そして同夜五ッ時滞もなく乗船 され、翌二十四日早天に御出帆になったので、 ここに書付を以て御報告いたします。 薩長芸三藩同盟の上洛 さきに記したように、慶応三年十月三十日の新湊 6
備前 / 播磨 備は古代から吉備国として早くから開けたと岡山に入る。岡山からは、旭川沿いに北上して、 ころで、総社にかけて、吉備津彦神社・吉備津神美作の津山とも結ばれた。播磨は古代から畿内の 社・備中国分寺跡・国分尼寺跡・造山古墳・千足西玄関として開け、近世でも京都と西国を結ぶ重 装飾古墳・こうもり塚古墳・角力取山古墳・作山要な入り口であった。播磨の中心は酒井氏一五万 古墳などがあり、吉備路と呼ばれている。近世で石の城下町姫路で、ここは、山陽道はもとより、 は、備前の中心は池田氏三一万五千石の城下町岡中国山地を越えて山陰の但馬や因幡・伯耆・出雲 山であった。山陽道は三石から片上・伊部を経て などと結ぶ交通の要衝でもあった。 岡山・後楽園 - ーー藩主 池田綱政が津田永忠に 命じて 14 年間かけて造 らせた林泉回遊式庭園 て、日本三名園の一つ。 イイ
源平激戦の嵐吹く瀬一尸内の道 壇ノ浦に散った公達 平家一門の都落ち じゅえい 寿永二年 ( 八 IIII) 七月二十五日、さしも栄華を誇っ あんとく けんれいもんいん た平家一門は、幼帝安徳天皇 (é) と国母建礼門院 ( 高倉天館しを奉じ、神器を携えて、都を落ちて 西海に赴いた。木曾義仲の軍勢が、北陸から近江に 入り、まさに京都に突入するかまえをみせたのに追 われたのである。 三年前にも平家は都をすてて、一時、琵津の福原 もちひと に移ったことがあった。そのときは、源頼政が以仁 おう 王を奉じて挙兵した直後のことではあったが、遷都 当時には頼政も以仁王も平家の追討軍に追われて敗 死していたし、清盛 ( —八一 ノ ) も健在でその威令は 徹底しており、後白河法皇・高倉上皇 (l 奉じて都を離れたものの、わずか半年で再び都に帰 ることができた。しかし、こんどの都落ちは大きく 条件が違っていた。 病身であった高倉上皇はすでに亡く、一門の中心 清盛も死んだ平家が北陸に派遣した義仲追討軍は、 みじめな敗戦を重ねて、義仲軍は怒濤の勢いで都近 石田善人 岡山大学教授 せ 82
のりもりみちもりなりもり かじわらかげとき 子を、教盛は通盛・業盛の一一子を戦死させた。清盛士は、いったん鎌倉に引き揚げた。重衡は梶原景時 ともあきら ただのり の末弟忠度も討たれ、知盛の子知章は父の身代わにつれられて鎌倉に下ったが、頼朝は重衡を意外な りとなって討ち死にした。知盛とともに平家の軍事ほど厚遇した。 めのとご 面での指揮官であった常勝将軍重衡は乳母子の後藤 同年八月、大軍を率いて上洛した範頼は、九月に 盛長に裏切られて捕われた。ともかく、とり返しの平家追討のために西国に発向した。『平家物語』は つかないほどの大打撃をうけて、平家は再び屋島に範頼が室・高砂に滞留し、遊君遊女を召し集めて遊 逃げ戻らざるをえなかったのである。 興の月日を空費したように書いているが、事実は西 あきすおう あかまがせき 一ノ谷の敗戦は、平家が法皇の和平交渉を信じて進して安芸・周防から翌年正月には赤間関に至って ゆきもり 油断していたことに最大の敗因があった。法皇の陰 いる。その間、十二月七日には佐々木盛綱が平行盛 ふじと 謀であったのか、源氏の将士らが法皇の和平交渉を を破った備前藤戸合戦があった ( 『平家物語』は九月 無視して攻撃しかけたのかは明らかではないが、油二十六日のこととする ) 。 ひょうろう 断していた平家首脳部の責任は逃れられない。 範頼軍は船をもたず兵糧も欠乏し、従軍する武 それでも法皇は、重衡を介して神器帰還の交渉を士は望郷の思いを募らせながら、豊後の臼杵惟隆・ 進める。『平家物語』が伝える院宣に対する宗盛の緒方惟栄兄弟の献じた八二艘の兵船で豊後に渡っ 返書と、『吾妻鏡』が伝えるそれとは趣を異にする。 た。筑前葦屋浦では大宰少弐原田種直と戦ってこれ 前者は格調の高い毅然たる態度の主戦論であり、後を破ったが、結局は兵糧の欠乏のために周防国に退 かなければならなかった。 者は法皇の和平交渉と源氏のだまし討ちを強く批判 かんぎよ しながらも、全体としては源氏の武士が天皇の還御 平家は屋島を本営とし、知盛は九州の官兵を率い を妨げているので、和平と還御を保証する院宣を要て門司関を固め、彦島に陣営を構えて瀬一尸内海を制 求するという和平論の立場である。事実は後者なの圧していた。そのため、源氏の兵糧補給が思うに任 であろうが、法皇は平家の提案を無視して、徹底的せず、場合によっては、せつかく制圧した山陽道を 追討につき進む。 放棄して、都に引き揚げなければならない破目に追吹 いこまれそうな情勢になっていたのである。 西国で苦戦する範頼の軍 平家、壇ノ浦に減ぶ 一ノ谷の合戦の後、義経は京都に留まって、法皇 範頼軍の苦戦にもかかわらず、義経は京都の治安 に重く用いられるが、範頼をはじめとする多くの武 ーノ谷遠景ーーー摂津と 播磨の境。景色のよい 須磨海岸の西端て、国 鉄・山陽電鉄・国道 2 号線が並行する。現在 はテトラボットの護岸 となっている。
粟津の義仲寺 -- ーー木曾 義仲戦死の地に巴御前 が草庵を営んだのには じまるという。寺中に 宝篋印塔の義仲の墓と、 松尾色蕉の墓がある。 は、義仲をせき立てて平家討伐に赴かせ、その留守か、義仲の根拠地北陸道をも頼朝に与えようとした ことについて、法皇の不信行為を非難した。義仲と の間に、頼朝との提携をいっそう進めていた。 はりま 義仲は法皇に命じられるままに摂津から播磨に入法皇との関係はしだいに険悪化していった。 ったが、率いる軍勢も少なく、都の法皇の動きが気 義仲、近江に敗死する になって、播磨にとどまっている間に、部将足利義 うんのゆきひろ びっちゅう しげひらみち 清・海野幸広らの先遣隊が備中水島で平重衡・通 法皇はついに義仲に対抗するために兵を集め、院 もり 盛 ( 『平家物語』では平知盛・教経 ) らの平家と戦って御所を警固させるに及んだ。義仲も憤激して、法皇 敗死するという痛手を受けた。応援のために播磨か の御所法住寺殿を攻撃した。いわゆる法住寺合戦で せのお ら備中に入ろうとした義仲は、ここでも備中の妹尾あって、寿永一一年十一月十九日のことである。この かねやす えんけい みよううん 兼康の反撃にあう。 合戦で、天台座主明雲と、園城寺の円恵法親王 (% 兼康は北国の戦いで加賀の倉光成澄のために生け 皇 ) が戦死し、法皇は摂政近衛基通の五条第に逃 捕られ、このたびの合戦の道案内をさせられていたれたが、捕えられて幽閉される。 むねやす 法住寺合戦の後、義仲は院の近臣ら四〇余人を解 のだが、嫡子宗康が五〇騎を率いて播磨の国府まで まつどの もろいえ みついし 出迎えにきたのをさいわいに、備前の三石宿で警固任し、前関白松殿基房の子で、わずか十二歳の師家 、孱の武士を殺して脱走した。そして、備前・備中・備を摂政内大臣とした。 ふくりゅうじなわ いんぜん クーデターに成功した義仲は、頼朝追討の院宣 後三カ国の武士二千余人を糾合して、福隆寺繩 てささせまり 手・篠の迫の要害に城を構え、義仲軍を阻止しよう 院司が上皇あるいは法皇 ) を法皇に強要して出させた のりより としたのである。 が、頼朝は弟範頼に大軍を率いて京都に進発させ ゆきいえ 義仲と不和になった源行家は、抜けがけの功名をて、さきに頼朝から派遣されて伊勢や近江に出没し むろやま よしつね あせって播磨の室山城に拠る平知盛・重衡らを攻めていた義経を助けさせた。また、法皇に義仲を讒言 戸 していた叔父行家は、室山合戦で大敗して和泉に逃 て大敗し、高砂から和泉へ逃げ帰った。 備中の万寿荘敷 ) で屋島へ押し渡る準備をしてげ帰っていたが、当時は河内にあって義仲に反抗す吹 いた義仲は、都の留守においた樋口兼光からの使者る勢いを示していた。 の知らせで、にわかに兵を率いて京都に戻った。 義仲は平家との和議をはかったり、法皇を奉じて 帰洛した義仲は、法皇が頼朝の上洛を促したこ 北陸に下ることも考えたが、範頼・義経軍の急迫の と、頼朝に東海・東山道の支配権を与えたばかり ために、寿永三年 ( ←し正月二十日、近江の粟津で くらみつなりずみ
屋島一一一 , 谷岩台地て屋ミ、物当・まき・ 根の形にみえるのて屋 島という。今は陸繋島。 眺望良く、瀬戸内海の 要地。山上に四国第 84 第 番札所屋島寺がある。 ようわ じしよう 養和元年 ( 治承五年、← l) 四月には、宗盛の強い推 減びゆくものへの挽歌『平家物語』 薦で大宰府官人中の最有力者で、平家の家人でもあ だざいのしよう 平家の勃興と没落は『平家物語』がこれを詳述す った原田種直が、現地の最高責任者として大宰少 に る。とくに筑前琵琶で聞く『平家物語』は、哀切きわ 弐に任命された。八月には平貞能が九州を鎮定し、 まりない。語りものとしての『平家物語』は、前半の 兵を集めるために九州に派遣された。これらの事実 平家の勃興と栄華よりも、後半の没落過程を得意とし は、平家が大宰府を京都放棄後の根拠地と考えてい て聞かせる。それは滅びゆくものへの挽歌であり、滅 びの美学に対する共鳴である。 たことを示すと考えてよさそうであるが、平貞能の ちよぎゅう 『滝ロ入道』を書いた高山樗牛は、『平家雑感』のな ( 一、九州鎮定は必ずしも円滑に進まなかったらしく、都 かで、源氏となって興るよりは平家となって滅びた 落ちの直前に貞能が千余騎の兵を率いて上洛してき と願った。『平家物語』に魅せられたひとりとい たときには、数万の援軍を期待していた平家の首脳 える。 をかえってひどく落胆させた。 『平家物語』が文学作品として成功した理由のひとっ このたびの都落ちでも、平家は大宰府に入るまで は、清盛・義仲・義経といった主役を引き立てた脇役 たちの描写に成功したことにある。平家では重衡・維 に一カ月を要した。大宰府には原田種直らのカで入 盛らがその重要な脇役をつとめている。 ったものの、肥後の菊池氏や豊後の臼杵氏・緒方氏 しかし『平家物語』の叙述は、平面的であり、画一 らの国人はかって平家から受けた恩誼を忘れて平家 ぐかんしよう 的である。法住寺合戦の叙述は慈円の『愚管抄』が に離反した。とくに緒方惟能 ( 惟義 ) は大宰府に攻 はるかにすばらしいし、うちつづく乱世を崇徳院と藤 め寄せる始末で、結局、彼らに追われて、箱崎から 原頼長の怨念の仕業と考えて御霊社に祀ったことを記 やまが ゃなぎがうら 藤原秀遠の山賀城に移り、さらに船で柳浦に逃れ した『玉葉』にくらべると、政治や世相の洞察は皆無 とももり た。結局、九州を追われて、平知盛の知行国長門の にひとしい。「平家物語』の限界でもある。 もくだいきいみちすけ さぬき 目代紀伊道資が献じた大船百余艘で讃岐の屋島に着 き、ここに根拠地を設定した。 水島・室山合戦と義仲の帰洛 平家は都を出て屋島に落ち着くまでに三カ月かか っている。いったんは大宰府をめざしながら、屋島 一方、平家を追って京都に入った木曾義仲の評判 しげよし に根拠地を設けたのは、阿波の田口成良 ( 『平家物はひどく悪かった。義仲の率いた士卒の京中での狼 語』では阿波民部重能 ) が平家を受け入れたからであ藉が激しかったからである。 京中の狼藉を禁圧する力をもたない後白河法皇 る。 8
東行庵ー一高杉晋作がを 病臥した家を東行庵と 称した。彼の遺骸を清 水山に葬ったのち、東 行庵も清水山に移した。 きんもん と戦った ( 禁門の変 ) 。しかし、長州軍は敗れ、朝敵 の名を負うこととなり、第一回の長州戦争が始ま る。 せいちょうそうとく 幕府は征長総督に尾張の前藩主徳川慶勝 (Æに ) を任じ、中国以西の諸藩に芸州ロ、石州ロ、そ のほか海路よりの出兵を準備させた。幕府は総督の 本営を広島に置き、十一月十八日を総攻撃の期日と したため、十月から十一月にかけて各藩の兵隊は部 署についた。芸州ロの攻撃を命じられた諸藩兵も広 島に到着し、市内の寺院などを宿所とした。 せ」よう、」う しかし、幕府は一方では征長の軍を進めながら、 は、日清戦争のさい明治天皇 ( 一八五一了 一九一二 ) が行幸 し、みずから作戦を指揮した大本営が置かれた。ま早くから戦わずして長州を屈服させることを考えて うじな たかもり た、第五師団や宇品の陸軍船舶運輸部などがあっ いたために、ひそかに薩摩藩の西郷吉之助 ( 隆盛、 あっせん て、広島は戦前、西日本最大の軍都であった。 一八二七 ) を長州に送り、和平の斡旋をさせていた。 しかし、明治以降に軍都となる前に、広島には幕当時、長州藩は四国艦隊によって下関を砲撃、占領 末に一一度も長州戦争の本営が置かれ、大軍を集結さ され、尊王攘夷派は気勢があがらず、保守派が政権 せた軍事経験をもっていたのである。これが、明治をとっていた。このため長州藩では山口城を破却す ふくはらえち′」 ますだうえもんのすけ 以降の陸海交通の要衝である条件とあいまって、 ること、益田右衛門介 ( 一 ~ 四 ) ・福原越後 ( ←以 ~ 一 くにししなの 広島を軍都とし、大陸出兵の拠点としたのである。 四 ) ・国司信濃「 ) の三家老を死罪に処して謝 さんか あの原爆の惨禍を招いた遠因も、長州戦争に果たし罪することなどを条件に、停戦することとなった。 た広島の役割に根ざすところがあったといえよう。 十一月十二日、長州藩は三家老の首級を芸州藩に送 文久三年五月十日に、長州藩が下関で外国船を打 り、芸州藩を経由して幕府の実検をもとめた。征長 ロ久ら年藩 山文か 3 を ち払ってから、約三カ月後の八月十八日、京都で政総督がまだ広島に着いていなかったので、尾張藩家 旧は城応ロ なるせはやとのじよう 氏萩慶山 変が起こり、長州藩の尊王攘夷派は京都から追放さ老成瀬隼人正 ( 一九一一「 ) が、十一月十四日に広島 門毛り月た こくたいじ 城 移 2 めれた。翌元治元年七月、長州藩は勢力挽回をはかつ国泰寺において首実検を行い、十八日と定められて 刀定 城舎 ( はまぐり′」もん ロ庁年ロ跖と 山県 3 山い府て大軍を上京させ、蛤御門で会津・桑名などの軍 いた進撃は中止された。 1 3 0 前田砲台跡ーー - 長篇 は十数カ所の砲台を築 いて関門海峡を防衛し たが、四国連合艦隊に 攻撃され占領された。 よしかっ