伯耆の国は大山・蒜山と、山で代表される国である。伯 耆とは、山峡が道に迫る意味の峰岐が転化したといわれる ほどの山の国である日本海沿いには米子・御来屋・赤碕・ 由良・橋津・浜村を経て因幡の鳥取へ入ったが、畿内への 往来は、主に中国山地の峠越えであった。伯耆の中心は国 分寺の置かれた倉吉だった。因幡は稲葉が転化した楯そよ ぐ国といわれ、池田氏三ニ万五千石の城下町鳥取が中心で、 鳥取からは浦富海岸を通って但馬の香住海岸へ、因幡国府 のあった国府を経て但馬へ、若桜を通って播磨へ、用瀬・ 智頭を通って美作へと道が通じていた。いすれにしろ、因 伯の地は、古代から畿内と出雲を結ぶ神話の回廊だった。 たいせんひるぜん 裏大山一一大山は日本 海側からは表大山、中 国山地側からは裏大山 と呼ぶ。鏡ケ成高原か ら見る裏大山は美しい。 伯耆の海ーーー - ー東の浦富 海岸を除いて、海岸線 は大きな出入りに乏し いが、西の弓ケ浜は一 大砂嘴てゆるやかな曲 線を描いている。 赤碕付近の野菜畑 後醍醐天皇ゆかりの地 として知られる船上山 のある赤碕付近は、農 林・漁業の地てもある ( 705
- 一を、い引 か近の仰参を 原境川信山蔵 ケ県旭源大地 鳩る、水、の 至は に池め々につ 蔵屋王た人中い 地蚊竜のい途て 上下の流厚のん 、らイ、原・に亠拝〕 プ 1 み る。 が開催される間は、延助の宿は人と牛馬で満ちあふ 4 れ、近郷の人は牛追いに雇われ、また牛馬のための 牛馬の往来で賑わった延助宿 草刈りに忙しかった。また延助でも牛馬の市が立っ ごうばらちんきん た。宿の夜は酒と女で華やかにふけていったとい 大山詣りの格好の土産品として、「郷原沈金」と してもてはやされた郷原漆器の産地、郷原の宿の北 「私娘さわ同姉たき、たへ共御願御座候ニ付伊勢参 に、延助の宿が位置する。「府 ( 津山 ) を去ること十 宮 = 仕度奉存上候 : : : 文政二年 : ・」という文書が残 三里二一町結 ) 」伯耆の国に接する美作の北 る。このような古文書がこの地に多い。よその地と の国境の宿であった。東西に連なる大山道の両側に は四六戸の家屋が並んでいた。宿の西入り口に「市同じく、この地の人々も伊勢信仰が強く、老幼男女 えびす を問わず伊勢参りは人気があり、その人々は大山道 恵比須」の祠を祀り、東西の入り口に道標が立つ。 宿屋はいずれも二階建の大きなもので、牛馬係留のを伊勢道と呼んでいた。 ため、家の裏手に広い庭をもつ。宿の南に流れる旭 北に大山、東に蒜山を望む絶景 川より導いた用水が、町のなかを貫流する。 延助の宿の西端に「右大山米子、左志庄 ( 新庄 ) 清流には「バイカモ」 ( 地元の人は〈ウダゼリ〉とい う ) が灰緑色の細長い糸状の葉と茎をなびかせる。 根雨道天保三年辰四月吉日」と記す道標が立つ。 東流する川のウダゼリが美味しいと聞く。大山牛馬大山道はここで大きく北に曲り、鳩ヶ原に向かう。 市は江戸時代までは春 ( 五月 ) 、夏 ( 七月 ) 、秋 ( 九鳩ヶ原は郷原などと同じく火山灰土の覆う洪積台地 月 ) の年三回開かれていたが、明治以降、四月と十で、東に蒜山盆地の全景を見、北に大山の雄姿を見 月が入って年五回となる。明治以後、畿内に農村工る絶景の地である。多くの道標・地蔵を残すのもこ 業が発達すると、砂糖搾り、高野豆腐製造、吉野林の地で、草木に覆われた古い大山道が、延助から鳩 業の木出しの「きんま牛」、「牛車」など牛の力がケ原の台地に上るまで残る。純粋な意味でいうと、 この道が大山道であろう。 動力として要求され、広い原野で育った筋骨のたく 馬麓要れの 牛山重採」 ましいこの地方の牛は、東へ東へと向かい出した。 県境付近に川上地蔵大権現がある。「上徳山小内 山のて師 大へ辺塗た 落な耆周「つ 大山牛馬市と対応する美作一宮牛馬市は、「牛凡山大山往還の路傍に在り、下流毎に大山に詣ずれば 集ん伯たるあ のぼり の盛、ま塗も ) とあり、背に幟を立則ち、必ず地辺に到りて之を過ぎ、蓋し水恩を謝す 千三百・馬凡百頭」場 屋のて。をて 蚊牧地宿漆落 下放のなる集てた「登り牛」の群れが延助の宿を通った。牛馬市る也」と『新訂作陽誌』は記している。地蔵の前の 0 ツ 1 ーい笠・第 =
・須佐神社ーー・一 須佐之男 命を祭神とし、 8 月 15 日の切明神事は県下に 残る唯一の念仏踊りと して無形民俗文化財に 指定されている。 2 る。自分の名は石や木にはつけまい」といって、大 古代の農漁業と神の湯 須佐田、小須佐田という御名代田を定めたことか もろもろ あ ら、郷名を須佐という。須佐之男命を祀る須佐神社 風土記には、各郡ごとに「諸の山に在るところ くさぐさ がある。意宇郡安来郷は、国めぐりの途中この地にの草木」「海に在るところの雑の物」として、そ 来て「私の心は安らかになった」といわれたことに の地の物産を列挙している。ただそれは、作ったも させ もとづいている。大原郡佐世郷は、佐世 ( 笹 ) の葉のというよりも、自然の恵みとして取れるものであ をかざして踊っていたところ、ここで落としたのが る。山の幸・海の幸についてである。 地名由来になっている。 耕作ということでは、出雲の大川、すなわち斐伊 おおくにぬしのみこと おおなむちのみこと 大国主命である大穴持命は、さすがに各地で 日について記してある条で、「河の両辺は、土地が ゆた 活躍している。出雲郡杵築郷の地名は、大穴持命の豊沃で、五穀、桑・麻が稔って枝を傾け、農民の膏 つど か 宮を造営しようと多くの神が集って築いたところ、 腴なる薗」という記述があるくらいのものである。 あわび 神門郡朝山郷は、この地の真玉著玉之邑日女命を妻 漁労については、出雲郡で「鮑は出雲の郡尤も優 たね みさきあま にして毎朝通ったことにちなみ、飯石郡多禰郷は、 れり。捕る者は、謂わゆる御碕の海子、是なり」と たてぬい むらさきのり 稲の種子を落としたことから、大原郡屋代郷は、矢あり、楯縫郡では「紫菜は、楯縫の郡、尤も優 きすき 場をつくって弓矢を射たことから、同郡来次郷は、 れり」と、鮑と紫菜の特産地をあげていることが注 あさくみ 「八十神はこの美しい青山をめぐらした土地には置目されてよい。また島根郡では、朝酌渡しに漁場が くまい」といって追い払ったとき、この地まで来てあることと、独特の漁法を使って魚をとっているこ 追いついたことにちなむ。仁多郡の郡名も、「このとを次のように記している。 せとのわたし 地は大きくもなく小さくもなく、 川上は木が生い茂 朝酌促一尸渡。東に通道あり、西には平原あり、 て うえ わた って枝をさしかわし、川下は河芝生がよく生長し 中央は渡なり。則ち筌を東西に亙す。春秋に入訪 くさぐさ とき ほとり て、にたしい ( 豊潤な ) 良い土地だ」と大穴持命が 出る大き小さき雑の魚、臨時として筌の辺に道 あつま おどろきは お いったことにもとづいている。 来湊りて、語験ねて、風のごとく圧し、水の ひおな 風 もちろん、以上の三神のほかにも、多くの神が地 ごとく衝き、或は筌を破壊り、或は日魚と製り 国 出 名伝承には出てくる。それぞれの地域社会に根づく て鳥に捕らる。大き小さき雑の魚にて、浜が にぎわ いちくら 国っ神の営みが、出雲国の各地の地名伝承に現れて しく、家開い、市人四方より集い、自然に郭 7 を成せり。 やしろ っ つど
至 を延助の道標ーー「右 大せん米子左志ん 庄 ( 新庄 ) 根雨道」と 己されており、大山道 の道標は延助付近に集至 米 中する。 子 卍大山寺 倉吉 屋延助 山机下 大山への道は庶民の道 山なみと国境を越える伯耆往来 では牛乳・大根・椎茸などの生産が人々の生活の支 緩斜面につづく塩と信仰の道 えとなっている。しかし、生産の基盤は米を中心と 東中国山地の産物とその輸送についての最古の資する農業であった。 しよくにほんぎしようむ さんちゅう じんき 人々はこの地を「山中」と呼び、同一の生活共 料は『続日本紀』聖武天皇神亀五年二 ) の条であ る。租税を米ですると、その輸送が困難であるか同体意識をもっていた。その広さは南北約二〇キロ ら、今後は米を「綿ノ軽キニ換ヘン」と記してあメートル、東西約三〇キロメートルにおよび、道が り、これを通してこの地の産業と地形を推察するこ縦横に発達し、瀬戸内・山陰から運ばれる「塩の 道」であった。「山中」の中に立ち、ひときわ高く とができよう。これは八世紀初めの中央から見たこ 一七二九 の地方の概観であるが、この地を訪れる人々の驚き遠望できるのが、山陰側に孤立する大山 ( メ は、山の中に入って山らしい感じのないことであの火山体である。大山信仰はこの地の人々の山の神 る。中国地方東部に位置する岡山・鳥取両県は、中 に寄せる素朴な信仰で、牛馬守護、農耕の豊作、雨 せきりよう まっ 十三歳になる男の子がなど、 , 人・山に祀 国山地の脊梁部によって分けられているが、古乞い、十三参り ( 正 いなほうき みまさかびっちゅう 来、山陰の因幡・伯耆の国と、山陽の美作・備中のる神仏混淆時代の大智明権現 ( 大神山神社 ) に春秋 と正月に通っていた。 国の国境は今と変わることなく山岳国境であった。 その脊梁部は山陰側に偏在していて、山陰側が急 山岳密教と牛馬市の由来 斜面であるのに対し、山陽側、とくに大山道の通る ただまさ 美作は広大な緩斜面が展開し、平坦な丘陵性の高原 慶長八年 (&r) 、美作に入府した森忠政は、翌 がつづく。これが東中国山地の特色で、明治中期ま九年より領国内の諸道の整備に着手した。出雲往来 せ ( 出雲街道 ) の支枝として、久世より北に延びる道を では砂鉄の大産地であり、漆器の生産地でもあっ 伯耆往来とした。 た。その後、和牛・煙草と特産物は変遷して、今日 蒜山三座 一三ロ 大挾峠 下長田 藤森 石 立 羽部湯本 土居 0 釘貫小川 三坂峠 ) 至 新 出 来 だいせん けいちょう 齋藤伸英 岡山県立岡山 朝日高校教諭 ノ 79
、 : 彎第物姦第義 両宮山古墳ーーー濠をも っ巨大な前方後円墳て、 水面に影を落とすその 威容は、古代吉備の 栄をしのばせる。 和気清麻呂碑ー - 一地方 出身の官僚てまれにみ る昇進を果たした清麻 呂の故地に立っ顕彰碑。 近くを山陽道が走った。 熊山遺跡ーーー古代山陽 道と吉井川の交点近く の羆山山頂に立っ特異 な宗教遺跡て、その石 積みは謎てある。 都 ) の計一一の駅家が書き上げられている。しか し、『延喜式』の編纂された一〇世紀は、律令体制 の崩壊期にあたり、それらのルート、ゝ 力いかに現実性 をもっていたかは不明である。 ちなみに、『延喜式』にみる古代山陽道ルートと 古代寺院跡の分布を合わせてみると、古代寺院の密 集地を縫うように山陽道は通っているが、備前東半 ( : 部は古代寺院密集地を迂回していることがわかる。 ともあれ、古代山陽道が吉備を通過するルートと その周辺には、古代吉備国が栄えたころの豊富な遺 跡が点在している。それらは、巨大な古墳であった り、国分寺をはじめとする古代寺院跡や石積みの古 代宗教遺跡、あるいは山陽道を見下ろす小高い要害 の地には、古代山城が築造されていたりする。 かって吉備は大国であった。それは、現在の岡山 県全域と広島県東半部を含む広大な地域で、のちに 備前・備中・備後に分かれ、その後、備前国の北半 みまさか 分を割いて美作国が建てられ、都合四カ国に分けら れた。吉備は、中国筋で最も強大な勢力を誇り、大 和に匹敵する文化を生みだし、地方ではまれにみる 大国であった。 吉 瀬戸の島々に残る古代信仰の跡 瀬戸内海の海上の道は、古代律令制が確立した後 は、都から九州の大宰府、そして遠く朝鮮半島、中 国大陸へと通じる大陸文化の通り道であるととも
土居宿ーーー美作と播磨 の国境にあって旅人て 賑わった。道の両側に 本陣・脇本陣・旅籠が 並び、往時の宿場町のド第 面影を今に残している。 めいれき ここ美作の高原や、国のさかひの那義山の 大名の接見も行い、明暦年間 (I ) に「御対面 たに 谿にこもれる初嵐 : 島物珱を所」 ( 胆衆楽〈しゅラらく〉園として一般公開 る ) をつく じようきよう すすきだきゅうきん っている。貞享五年 ( ←し、井原西鶴は『日本永 と薄田泣菫 ( 贏酖砒¯) は「公孫樹下にたちて」 ぞう 代蔵』の「三匁五分曙のかね」の中で津山の町人蔵の中で詠い上げているが、むかしの人はなにを感じ ごうよろずや 合・万屋の極端な勤倹と金力に頼る意地を紹介してて通っていただろうか。有吉佐和子は『出雲の阿 いるが、津山には全国より町人が集まり、元禄十年国』の中で、阿国が江戸初期、権力と踊りに疑問を (Å)) の記録には「津山惣町の人口二万四千人」と残し、出雲に去る途中、この奈義に身を寄せ、かっ あり、当時としては大きな城下町に成長していた。 ての恋人、森忠政に仕官した名護屋九右衛門が、鶴 きちがはら 城下の宿駅は木知ヶ原町翁・堺 ) とその北の二階山城築城について意見の対立から斬られた津山を眺 町であり、前者は宿泊、後者は荷物輸送を主とするめ、男の意地と生き方を回顧させている。那岐山 まかた てんめい は、このようなロマンに満ちた地である。 馬方町であった。天明一一年 ( ← (I) 、京町の町会所が 宿駅の役場になっている。津山は往来の中心地だけ 宿場町の姿を一部に留める勝間田駅から西約七里 ではなく、吉井川高瀬舟の中心地でもあった。京都 ( 約に ) に土居駅がある。道は丘陵から丘陵へと すみのくらりようい 飛雲閣境内の角倉了以の顕彰碑文にも、「ここで つづく山道である。土居駅の東約一キロメートルに まんのたわ 行われている舟運の方法ならば、どこの河でも舟を万能乢がある。東は急傾斜で播磨国に接するが、現 通すことができる」と記され、全国の河川舟運の発在の国道一七九号線は、出雲往来の北側に昭和九年 祥の地といわれているほどであり、物資の輸送は高に建設されたものである。森忠政入国の際、この地 瀬舟中心であった。 の土豪三〇〇〇人が入国阻止のため、この険を固め たという歴史が残る。 出雲の阿国が涙で仰いだ那岐連峰 土居駅は往来六町二九間 (f 9 ) の両側に本 かねだ かわなべ 津山の東の入り口、兼田橋ー河辺ー西吉田ー池ケ陣、脇本陣、問屋、平旅籠が並び、「いかなる大名 原ー黒坂ー勝間田駅の間は、津山盆地南縁の丘陵地も土居どまり」であったので、宿場町として栄えて を通る約三里 (f 」」 ) の道程である。北に一二〇 いた。本往来に並行する脇往来もあり、複路村龕 にほん 〇メートル級の那岐連峰と、その麓野に広大な日本 が二本ありいずれ島宿場 ) を形成している。 さよ 原が展開する一大パノラマを眺めながら通る道であ 万能乢をすぎると、播磨の国、佐用へと達するの る。 である。 くに ノイ 2
但丐 浦富海岸ーー浦富湾の 西海岸は山陰松島と呼 ばれ、千貫松島・菜種 島など変化に富んだ景 勝の地てある。 中で野どニた 央合をの万 但た を流通 陣六泉 ー馬ま 屋千都は 冫ルしつ れたて ・石・カ、泉 城のら都 る 円豊豊下園松カ 山岡岡町部平ら 川は を、氏丹 冫ル泉経朽 - , 五波 域極崎ミて木き万を は氏に但氏石経 豊ー向馬三のる か万かに万亀山 な五う入ニ山陰 農千道る千 岡現 業石と 石市 . の 地のは姫の亀入 帯陣 、路福 で屋和か知小口 あ町田ら山出だ るで山生な氏つ つ焼 の地城氏出 たな生と崎石 ど活しは万は ははて角石 、厳知業の古 らも城事 し 国 れ盛下記 く 農 るん町 家 豊がででに の岡 、あ″見 副の し つイ旦え 業杞かた馬る と柳 し のほ し細 て工山た京歴 生・ 々 、都史 ま , の但″ 重馬と古 れ な牛いく た も のわ る の出但飼れ仙 だ石馬育た石 708
江戸時代鉄山業稼行地帯 。境 米子 宍 0 広瀬 0 0 、 ' : % 大森門 ヾ、ノ根雨第・ 6 , 倉吉 \ 圀幡 ( 浜。第 = 、 0 市川本 6 赤ゑ 美作 勝馴 新庄・ 0 布野 。西城 津山ノ 中山 ~ = 次東城望〈 0 新見 0 日原 / 可部 / 畄 \ 。酉大寺ー 広島 ~ 。 . ー牛窓種保 。尾 子代 土井作治 広島県史編纂室専門員 鉄の道・塩の道 渡辺則文 諸国へはばたく山海の恵み とうじようみよしかべ おのみち 陽側の備後東城・三次・可部などを経て、尾道・ 四方に延びる鉄の道 広島へ送られる荷物があった。 せきりよう 江戸時代、中国地方の脊梁山地は、鉄や釼の宝 このように、山陽側では、内陸の津山・勝山・新 げんぶん 庫であった。元文元年 ( 一一し、諸国から中央市場大見・東城・三次・可部などが鉄荷の集散地として賑 はりまびつ うしまど 坂へ集まった鉄類の九〇パーセントまでが播磨・備わいをみせ、牛窓・西大寺・玉島・尾道・広島など あき ちゅうみまさかびんご ほうき 中・美作・備後・安芸・・叫気・伯耆の国々の が積出港として繁栄した。同じように山陰側では、 人里離れた山中で、もつばらたたら製鉄法によって倉吉・広瀬・宍道・木次などが集散地となり、海港 づくてつけらてつ ゅのつ 製錬された銑鉄・鉧鉄と呼ばれた材料鉄であった。 には米子・境・安来・温泉津・江津・浜田などがあ けんそ うんしゅうてつ これらの鉄荷は、険阻な山道を通って鉄問屋のい げられる。雲州鉄を集める安来は、「安来千軒、 る集散地に送られ、そこから舟運を利用したり、山名の出たところ」という文句ではじまる民謡「安来 陰・山陽間を横切る脇街道を馬で運んで、海港に集節」で名高く、その一節に「十神山から沖見れば、 はくしゅうてつ められた。『鉄山必要記事』によると、伯州鉄は、 いずこの船かは知らねども、滑車の元まで帆を巻い にぶみぞぐち 日野・河村両郡の産地から日野川沿いに一一部・溝ロ て、ヤサホ、ヤサホと鉄積んで、上のばる」と歌わ よな′」 しんじようみ を経て米子に送られる荷物と、美作国新庄・美れている。これら海港地に集められた鉄荷は主とし かもかつやま 甘・勝山に出て、旭川を舟運で三蟠に送られる荷て大坂へ海上輸送され、さらに京都・江一尸をはじめ くせ 物、さらに勝山から久世・坪井・津山に送られ、吉全国に売りさばかれていった。 さいだいじ 井川の舟運を利用して西大寺に至るなど、いわゆる 砂鉄七里に木炭三里 出雲街道 ( 出雲往来 ) と舟運を利用していた。出雲・ しんじ きすき かんななが 石見の鉄荷は、広瀬・宍道・木次などの集散地から たたら製鉄法では、鉄穴流しによって砂鉄を採取 やすぎごうつ たたらかじゃ 山陰の海港安来・江津・浜田へ送られるものと、山し、これを高殿鑪・鍛冶屋で材料鉄に仕上げたが、 高Ⅳ世 る見 / 市へ Ⅲ川 川川 川井 周防 さんばん はがね かみ 広島大学教授 754
院庄の作楽神社ーーー美 作国守護職の館の跡て、 江戸時代初期に神社と なった。昭和 48 年の発 掘調査によって往時の 土塁が再現された。 ' ミ、レ 線は、断層によって渓谷をなす新庄川沿岸を通る が貫き、旭川水運の河岸場があり、年貢米を積み出和 が、その道路より一〇〇メートルも高い山の中の道す交通の中心地であり、商業の盛んな地であった。 であった。美甘駅はその中間にあったが、新庄駅よ 出雲往来に面し街村状に並ぶ町並みは、「うなぎ の寝床」と称せられるように表間口が狭く、奥行き り一〇〇年ほど遅れて御茶屋 ( 松 9 宿 ) ができてい ぶんきゅう 一八、又ム る。ここには馬持株があり、民間の運送業の発達もの長い民家の集合であった。文久三年 ( 六 ) みられた。 江藩主帰国の際、総勢六四三人の宿舎として七〇軒 中国山地内の往来が、盆地の高田駅に出るところの民家に宿舎の割当てをしているが、これ以上の家 でまた険しくなる。神代から杉ケ乢・寺河内を経てが久世にはあったことが推察できる。代官領となっ めしもりおんな 本郷川に沿い高田に出ていた。山地から盆地に出るてからは、宿場町につきものの「飯盛女」もいた 道はこれ以外に、東の星山の南麓を経て高田に出る 、出雲往来ではめずらしい遊興の施設もあっ 道もあり、安定したものではなかったようである。 た。現在、この地方の商業の中心地となっているの けいちょう 高田は慶長八年 (8N) より明和元年 ( 一しまでも、このような伝統によるものであろう。 津山領であり、その後三浦氏が三万三千石を領して 出雲往来の要衝津山と鶴山城 を三入封してから陣屋町として栄えた。新庄川が旭川に じよ、」とば 合流する地点であり、旭川の高瀬舟の起点であるに 「久米のさら山」とは、多くの歌に使われた序詞 もかかわらず、宿場町としては繁栄しなかった。 で人々に知られているが、久世から津山までが久米 き。よら・ほう 久世は享保十二年 ( 一一し、津山領から幕府領との村々である。この間に宿場町の姿をとどめる坪井 いんのしよう しゆく なり、代官所支配となる。それまでは藩営の休泊施駅と、その東西に宿場町ではな」が出雲来の姿を 設があり、それを「御殿」「御茶屋」と称し、幕府残す院庄・追分・宿 ( 現・落合町 上河宿 ) がある院庄は津 役人、諸藩主通行の際の接待所とし、本陣の機能を山・坪井の中間点にあり、美作国守護職の館があっ 果たしていた。険しい山道の出入り口に、津山藩は たところで、中世美作の中心地である。後醍醐天皇 あんぎい 接客のための出先機関を置いたともいえよう。その隠岐配流の際、備前の将児島高徳が天皇の行在所で 後、出雲諸藩は本陣を久世に置き、合わせて七里飛あった館にしのび込み、桜の幹に詩を刻み勤皇の意 きんめい さくら しゅご 志を伝えた伝説が残り、作楽神社として当時の守護 脚詰所を併置した。久世は欽明天皇一六年 ( 砡五 ) 、 しらいのみやけ やかた 白猪屯倉の置かれた地である。南に備前往来が岡山館の姿を残している。「出雲・石見・伯耆・備中往 くらよし やど へ、北に伯耆往来が倉吉へ、そして東西に出雲往来来の旅人毎に此に次る。但駅伝に非ず。相伝う。此 いわみ
山陽鉄道の食堂車 明治 32 年に連結して業 者委託として開業。利 用者は 1 等 2 等の乗客 に限られ、洋食て、ラ ムネや酒類もあった。 設する計画を進めるために山陽鉄道会社が設立さ げて官営とするか、または別会社を設立してこれと れ、同月二十七日、その創立願書が兵庫県知事内海合併してもよいこと、第三に鉄道線路に当たってい 忠勝に提出された。この願書の発起人一六名の中に る官有地はすべて会社に貸し付けること、第四に鉄 道線路に当たっている民有地は、公用土地買上規則 は、大阪の藤田伝三郎田 ) 、横浜の原六郎盟 によって政府がいったん買い上げてのち、これを会 し、東京の荘田平五郎 ( しらの富豪が名前を連ね ていた。 社に払い下げること、第五に鉄道用地はすべて免租 その願書によれば、 とすること、などであった。 田神戸・姫路間に鉄道を敷設するが、これは追っ このようにして、ついに明治二十年四月七日、中 かみがわひこじろう て岡山まで延長したいこと、 上川彦次郎 ( 福測門下の俊秀、のち = 一井財閥の中心人物となる 図鉄道事業の創業に際しては官有地を下付され、 を委員総代として山陽鉄道会社創立を届け出た。 民有地については政府がこれを買い上げて会社に下 これに対して、明治二十一年一月四日、鉄道局長 付されるべきこと、 官より免許状が下付されたが、これは私設鉄道条例 ③鉄道敷設工事についても政府が管理するように によるわが国最初の免許状であった。これによれ 計らってほしいこと、 ば、山陽鉄道会社の設立、神戸・馬関間の鉄道敷設 ④鉄道に使用したいっさいの土地は免税にされたおよびその運輸営業を免許するとともに、免許状下 いこと、 付の日より起算して神一尸・岡山間は三カ年以内、岡 6 非常の兵乱があれば、政府は自由に鉄道を使用山・広島間は六カ年以内、広島・馬関間は九カ年以 してよいこと ( ただし有償 ) 、 内に工事を竣工させることとなっていた。 などをその主な内容としていた。 鉄道建設をめぐる財閥・軍部の思惑 この出願書は翌一一十年一月十四日、兵庫県知事よ り内閣総理大臣伊藤博文に提出されたが、ときの鉄 このようにして、山陽鉄道会社は資本金一三〇〇 道局長官井上勝は意見書を下付し、次のようにその万円をもって、社長に中上川彦次郎、副社長に村野 企画の修正を促した。それは第一に、神戸・姫路間 山人、常議員に難波一一郎三郎ら一一名の役員をもっ の線路を延長し、岡山・広島を経て馬関まで延長すて発足した。会社の当面なすべき第一の課題は、い ること、第二に姫路以西の敷設については、もし完かにして資本金を集めるかにあった。会社は明治一一 遂できないときは敷設に要した費用で政府が買い上十一年三月中に、資本金五五〇万円 ( 株式数五万五〇 な