歴史 - みる会図書館


検索対象: 日本の街道6 夢誘う山陽山陰
28件見つかりました。

1. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

二第を こ 1 をン 一メ鴛 山陽道の景ー - ー古代か ら中国地方の幹道が通 っていた吉備路には、 数多くの古墳や古社寺 が点在している。 古代において政治や文化の中心地であったあたり に、いわゆる「風土記の丘」を造成したり、著名な 古戦場などを訪ねるために、しゃれた遊歩道をしつ らえたり、また、昔の庶民生活の面影をとどめるム ラを、「ふるさと村」として甦らせるなど、日常生 活に満たされない現代人は知恵をはたらかせる。歴 史への郷愁が、過去をさまざまに復元して歴史散歩 にいざなうのである。 そのような歴史の「新名所」を探訪することは、 ちょうど都会の雑踏のなかにある民芸調の「食事 処」で、手作りの山菜料理を食べるのと一脈相通じ るものがある。昔ながらの本物ではないにしても、 本物の味を回想しようとする心のはたらきがある。 古今東西を通じて、人の歩く道は作られるべくし て作られた生きものである。道が歩くものであった 昔の人ほど、この生きものとしての道との因縁は深 かった。道には歴史の息吹きや人情が刻みこまれて いるから、人間と道との語らいは尽きないものがあ 現代では、古代からの官道はもちろん近世の公路 兵庫教育大学学長 いんねん

2. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

戦国と維新を結歴史 0 糸、ー串〔 000 宅「 00 000 。。「是 = 松影に探る吉備の古代路臼井洋輔根木修 航海の神・金毘羅への参詣道ーー岡山から下津井・田ノロの港へ柴田一 源平激戦の嵐吹く瀬戸内の道ーー壇ノ浦に散った公達石田善人 神戸から西へ・十余年の長い道ーー山陽鉄道建設の苦闘太田健一桑田康信 カラー・石見 / 出雲 / 出雲大社 / 伯耆 / 因幡 / 但馬 / 中国路の祭り 『出雲国風土記』の道を訪ねてーー神々の国の土地と民俗内藤正中 大山への道は庶民の道ーーー山なみと国境を越える伯耆往来齋藤伸英 神の鎮まる地・山陰の神話 , ーー『記紀』にみる国つくり内藤正中 松岡利夫 「海の国」の幸ゆたかな道ーー山陰の海浜をめぐる 山陰山陽をつなぐ参勤交代道ーー出雲往来齋藤伸英 物資の往き交う山越えの道ーー・東城往来と周辺の道鶴藤鹿忠 中国をめぐりて幾山河ーー歌人・文人の息吹を求めて山本遺太郎 鉄の道・塩の道ー・ー諸国へはばたく山海の恵み土井作治渡辺則文 歴史を語る悠久の流れーー高梁川の舟路富岡敬之 161 13 6 1 3 0 143 126 一 8 154 1 5 0 1 19 1 12 9 9 8 8

3. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

0 広瀬 出雲。 ( 富田月山城 ) 虫雲 ) ( る見、 。江津 大 ! ( 旧 0 山城 ) 一 , 0 甲田 ( 、龍山城 ) 0 ノ田 ( 郡山城 平 0 向原 0 三原 ( 三原城 ) 0 、 0 益田 本郷 丿廿日市 ( 新高山城 ) 。尾道 / ( 桜尾城 ) c- 広島 ( 広島 : ' 山城厂 萩 ( 萩礒 ) つ一、 海田 ー / 周防岩国。厳島神社 長門 / 。山口 0 戦国と維新を結ぶ歴史の糸 中国路の雄・毛利氏の居城をめぐる に押し込められて、広島から退去しなければならな 戦国の雄、毛利氏の本拠地 っ , 」 0 広島から、陰陽連絡の国道五四号線を四五キロ 防長に移った毛利氏は新藩庁として、内心は山口 えのかわ こうのみね メートル北上すると、可愛川 ( 江をう〉 流 ) に沿って吉田の高嶺か、防府の桑山かの山陽側に築城を望んだ こおりやま の町並みがあり、その北側に横たわる郡山城は、 が、遠隔地に毛利氏を封じ込めておきたい徳川氏の もうり 武家の名門毛利氏が二五六年間本拠を置いたところ意向によって、第三候補であった萩に築城した。日 もとなり しづきさんあぶがわ である。戦国の英傑毛利元就 ( 一四九七 一五七一 ) が現れる本海に突出した指月山と阿武川河口デルタを取り込 と、毛利氏の勢力圏は中国地方一帯だけではなく四んだ萩城とその城下は、珠玉のような景勝の地で、 国の伊予や北九州に拡大し、吉田には諸国大名から かっての中国地方の覇者毛利氏とその家臣たちはこ の使者が往来し、政治ルートは西日本各地に通じて こに集住し、封建体制下の時の流れに身を任せてい いた。商人・職人も集まり商業活動も活発で、また るかにみえた。ところが一六〇年後、ここが討幕、 公家や芸能人たちが都の文化を持ち込んできた。 維新回天運動の震源地となった。そして、明治維新 天下が統一されて豊臣政権下に入ると、毛利氏の激動が一過すると、再び萩は静かに眠る地方都市 は、東国の徳川氏に対比できる西国最大の大名に似 に帰るが、それがかえって、萩が城下町の風情を伝 つかわしい広島城とその城下町を、漁村が点在した える数少ない街として多くの人たちの心を捉えるこ にすぎない広島湾頭の太田川デルタに大規模に築造ととなった。歴史の糸で結ばれたこれらの城と城下 した。それまでに吉田に集積されていたいっさいのを、歴史の声に耳を傾けながら訪れてみよう。 ものが広島に移されたが、城が完成した直後、わず 元就の菩提寺跡、郡山城 かに一二年で関ヶ原の戦に敗れた毛利氏は、徳川氏 から中国地方九カ国一一二万石を削られ、防長両国 郡山城は径約一キロメートル、比高一一〇〇メート 福山 萩城下一一一萩城詰丸の 指月山山頂からの展望 て、阿武川河口に設営 された城下町の配置が よくわかる。 河合正治 広島大学名誉教授

4. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

さえも、その面影は失われつつある。古い道は現役って一戸一馬を養い、正丁 (? 齢制¥、課の人頭税を負担 を退いたというべきであろうか。そこで、歴史のな ) は、課役を免じられて駅子として駅務に従 「新名所」を訪ねたり手作りの山菜料理を口にする 、駅子のうちで資力のある者を選んで、駅長 心にも似て、退役した一つの重要だった道「山陽と呼び室町初期まで存在し たが、戦国期に中絶した ) とした。駅には駅田がおか 道」を回想して、この道のもっさまざまな意味でのれ、大路は四町、中路は三町、小路は一一町で、近く ふゅそでん とさ 動脈としての役割の消長を、たどることにしよう。 の田があてられ不輸租田 ( 蚣馮・準公用に供するた れた。「大路」山陽道には駅ごとに二〇疋の駅馬を えんぎしき 古代の大動脈、山陽道 備える定めで、『延壹〕式』 ( 康保四年〈九六七〉に施行さ ) りようせい はりま 都と九州大宰府を結ぶ山陽道は、令制では全国によれば、ほとんどの駅は二〇疋であったが、播磨 びぜん 唯一の「大路」として、早くから整備され、かっ最の明石 ( 三〇疋 ) ・賀古 ( 四〇疋、日本最大 ) や備前の つだか も重んじられた。古代のわが国の歴史は、対内的に津高 ( 一四疋 ) のように、駅による差異がみられ きびのくに つくし は早くから吉備国から筑紫にかけての西国に目が向た。 けられ、対外的には朝鮮、中国など当時の先進国と 駅館の施設や駅馬・駅子を利用できたのは、外国 こくが の外交・文化の関係が盛んであった。したがって、 使節や中央政府と地方国衙との連絡にあたる官吏な ぶえき 瀬戸内は海路・陸路ともにまさに、わが国の歴史的どであり、官物の輸送や夫役の徴集、反乱の征討の な大動脈の役割を果たし、政治・軍事・外交・文化 ワ立ま泛 1 すん第、 ためなどであったから、官道はまさに政治・軍事用 0 のメーンルートであった。山陽道が「大路」と格付の道路であって、庶民のために作られたものではな かった。 けされたゆえんである。なお、東海・東山両道は ・おミあらま 「中路」、北陸・山陰・南海・西海の諸道は「小路」 山陽道は山谷峻険なところが多かったが、着々と であり、山陽道は江戸時代の東海道に匹敵するもの整備されて活発に運用された。山陽道の駅館は他の をし第をであった。 官道と異なり、外国使節の往来に備えて建築の偉容 えき すでに『大化改新の詔』 (4 〔四 ) には、諸国に駅をととのえ、国家の体面を損じないことが必要であ用 ばてんま すずしるし びんご あきすおうながと かわらぶ った。備後・安芸・周防・長門などの駅館は、瓦葺 馬・伝馬を配置し鈴契 (} 垣び関に し ) を作らせたと 記されているが、以後逐次、駅制は整備されていっ きの白壁造りとする規定であった。しかし、その維 ごとに持に多大の経費を要し、人民が疲労して負担に耐え た。令制では、官道には三〇里翁在の約一六 一駅を設けさせた。駅には駅家と呼ばれた集落があがたくなったのと、外国使節の入京も海路によるこ 宮市の宿ーー松崎神社 ( 防府天満宮 ) の社頭に 開けた宮市は、付近に 周防国衙・国分寺の遺 跡があり、重源の説話 も多く、宿場としても 賑わった。 ( 「行程記』 ) だざいふ うまや せいてい

5. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

始始 日年喟休年年休休休休年始 目海を見る坂の町 末 0 末末 年 年年 館年ー 集英社 . 末瀬戸内海を一望する尾道は坂の町 回困の調 6 引頂 休曜あ無曜曜無無無無曜年 である。山陽本線の北側は、すぐそ 問塒塒塒時時時時時時時ばまで山が迫り、段々畑よろしく家 が並び立つ。南側には、すぐ尾道水 用館 ~ . ~ ~ 夢誘う山陽山陰 道が流れ、その向こうに向島が浮か 禾料円染円円円円円円円円斗 : 。したがって、尾道は比較的、横 本書を読んで街道を旅すると、ゆかりの町や伝説、民芸品、食べもの、・設圓圓圓洋 祭りなどに出あいます。このガイドはそれらをまとめたものです。 に長い町。昔から良港として栄え、 施館板館館館館館館館館館 風光明媚なところから、多くの文人 名陶術古芸一郎念学史 墨客が訪れた。 に美考民土、 - 記歴敷 彼らの歩いた道が、今、「文学のこ 館 山陽・山陰歴史の町 施術敷敷敷島紡イ敷 みち」として、千光寺公園内に設け 大恫倉倉倉日児倉ア倉倉られている。公園は、大宝山の中腹 蔵を利用した、倉敷民芸館・倉敷考 にあり、眺めがよく、春は桜、初夏 ー白壁が美しい町 古館・日本郷土玩具館・倉敷歴史館どが立ち並んでいる。倉敷駅からそ はつつしの花で飾られる。 倉敷で美観地区として保存されてが開かれている。また、昭和五年にう遠くないため、歩いて散歩できる 長江口からロープウェーに乗って いる一郭は、まさに江戸時代・明治大原孫三郎氏が建築したギリシア申 ネコースである。 時代の流れを感しさせるところ。倉殿風の大原美術館には、世界各国か 至岡山 ル神 敷と呼ばれるようになったのは、もら集めた絵画百余点が陳列されてい ス ともと備中米を船積みする港であつる。 たところから、倉庫が置かれるよう アイピースクエアとして親しまれ團 守 ~ 図 になったためである。 ているのは倉敷代官所跡・倉紡記念 豆含ロ念 江戸時代初期には地主や豪商が競館である。この地に幕府の代官所が ってりつばな土蔵を建てたという。置かれたのは寛永十九年 ( 一六四二 ) 現在、この一郭には、昔使われたのこと、以後一一〇〇年以上もつづい 館・叡術叡館・倉 館分館言美倉芸館 た。明治維新後、代官所跡に倉敷紡をー・ / 民貝 4 敷績所が創立され、レンガ造りの近代倉 蔵的建築になった。といっても優に百 の年の歴史をもっており、ったの葉が 叡灯 、第、・地からまる姿は旅行者に人気がある。 美美観地区には、このほかに民芸品 店やアンティックなものを置く店な : 膿川 至尾至木島 2

6. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

夢誘う山陽山陰 山陽道吉備路安芸路 出雲路長門路 川Ⅲ川・ Ⅱ集英社 ・全巻内容 * 印は既刊 * 第 1 巻 / 風かけるみちのく * 第 2 巻 / 江戸への道 * 第 3 巻 / 雪の国北陸 * 第 4 巻 / 山なみ遙か歴史の道 * 第 5 巻 / 京への道 * 第 6 巻 / 夢誘う山陽山陰 第 7 巻 / 海光る瀬戸内・四国 * 第 8 巻 / 日燃ゆる九州 ケース表伯耆富士・大山の秋 ( 鳥取 ) 同裏周防・岩国の錦帯橋 ( 山口 ) カバー表備中・倉敷のタ景 ( 岡山 ) 同裏備中・豪渓の紅葉 ( 岡山 ) 定価 1,800 円 0321 ー 176006 ー 3041

7. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

三瓶山一一一出雲・石見 の国境に、男三瓶・女 三瓶・子三瓶・孫三瓶 など 7 峰が聳える。夏 から秋にかけて見られ る雲海は壮観てある。 石見の西の中心は浜田である。松平氏六万石の城下町 で、石見国分寺の置かれた古い町である。浜田の西の益 田は、鎌倉時代、七尾城の城下町としての歴史をもち、 亀井氏四万三千石の城下町津和野に至る道が分かれてい た。温泉津は天然の良港で、西廻り海運の主要地であり、 石見銀山の積出港であった。東の中心は大田で、三瓶山 を背後に物資の集散地として栄えた出雲の中心は、古 代には出雲国庁の置かれた松平氏一八万六千石の城下町 松江である。伯耆の米子から中海に沿って、鋼の町安来・ 揖屋を経て松江に入った。松江からは宍道湖畔を通って 出雲大社のある大社へと出た。このほか、備中から来る 道、備後の三次から来る道などがあった。 石見の海 - 一一石見の日 本う毎沿岸の大田浜田 益田は、石見の三田と 呼ばれ、物資の集散地 として古くから栄えた。 98

8. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

山陽鉄道の機関庫 山陽鉄道の明治 24 年の 車両保有台数は、機関 車 25 、客車 170 、貨車 514 てあった。 0 主張と対立した。陸軍当局は軍事的観点から、会社滅して国有鉄道となった。い ま、われわれはこのよ の主張する海岸線沿いの敷設案に反対し、内陸敷設うな山陽鉄道の歴史的意義をいかに考えるべきであ を主張した。陸軍案は、工事費用の点で会社案の四ろうか。 倍の巨額を必要とした。両者の関係を心配した当時 第一に、山陽鉄道は一部の富裕なる者や政府の手 の陸軍参謀本部の児玉源太郎 (* しが折衷案を作成によって作られたものではないということである。 し、現在の路線になったといわれている。 山陽鉄道会社には、東京・大阪在住の富豪層のほか このようにして、明治三十年九月には広島・徳山 に、兵庫・岡山・広島・山口四県の在住者たちが株 みたじり 間、三十一年三月には徳山・三田尻間、三十三年十式投資という形をとって参画しているし、また建設 二月には三田尻・厚狭間、三十四年五月には厚狭・ に当たっての工事労務者や、会社の社員 ( 明治二十 馬関間が開通し、ここに名実ともに念願の神戸・馬五年の時点で一一三八人 ) には、地元在住者が随分参 関間五一三・三キロメートルの山陽鉄道が全通した 画していることが予想されるのである。 のであった。 第二に、山陽鉄道の路線をみるとき、それは単な 明治三十四年、神戸・馬関間全通を記念して『山る会社側の意向によって決定したものとみるべきで 陽鉄道案内』が発刊された。それには駅所在地・名はなく、政府や軍部、市町村当局、地権者や地元住 所旧跡・官衙・銀行・会社・街道・里程・宿屋・物民など、当時の国民諸階層の生々しい要求とたたか いの結果、い 産などが掲載され、旅行者のよき伴侶となったが、 まあるように敷設されたものとみるこ 全線については次のように紹介された。 とが必要であろう。 山陽鉄道沿道の好風景に富めることは全国鉄道 第三に、山陽鉄道がわが国の資本主義発達のため 中他に其比を見ず、山容の奇、水態の妙は一た にもたらした貢献と意義を正しく評価する必要があ び山陽線を乗車せし人の普く認むる所、若し夫ろう。山陽鉄道は貨物輸送をめぐって、伝統的な瀬 れ須磨・舞子の明媚、岡山公園の瀟洒、安芸宮戸内海運業と競合したというが、その実態は未だ明 島の幽韻、岩国錦帯橋の奇巧、大畠海峡の雄麗らかではないし、各地の商品流通や商工業に大きな なるに至ては遊心勃躍禁ずる能はざるものあ影響を与えたといわれているが、その解明も今後の 課題であろうと思われるのである。 明治三十九年三月一日、鉄道国有法が公布される 参考文献『公文類聚』『山陽鉄道会社創立略記』『山陽鉄 道会社創立史』『日本国有鉄道百年史』『岡山県 が、これにより同年十二月一日、私鉄山陽鉄道は消 の歴史』『広島県史』『山口県文化史』 9

9. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

中国路の祭り を↓第 第員 : は : 沖いは ーを - 物日日ト 0 ミ 桃の節句 この日に は、災厄を雛に託して 川に流す「流し雛」 ( 旧 3 月節句、鳥取市・用 瀬町 ) の行事がある。 ホーランエンヤ - 一一一 12 年ごとの古式の船神事 て囃しことばから「ホ ーラン . 工 . ン六フ」という。 ( 5 月 15 日、松江市 ) 山陽道の祭りは、姫路の「鹿のけんか祭り」、手の神事」、美保関の「青柴垣神事」「諸手船神事」、 岡山の「西大寺会陽 ( 裸まつり ) 」、防府の「防府安来の「月の輪祭」と神話にまつわるものが多く、 天満宮神幸祭 ( 裸坊まつり ) 」のような勇壮なものまた、津和野の「鷺舞」、鳥取の「流し雛」は、京 が多いが、宮島の「厳島神社管絃祭」、下関の「赤風が伝わり残ったものである。そのほか、夜を徹 問神宮先帝祭」、笠岡の「白石踊り」、広島・大崎して踊り抜く高梁の「松山踊り」のように、山国 下島の「弓祭」など、源平合戦の歴史による祭りの人々の心意気といえるものもある も多い 一方、山陰道では、鳥取・気高町の「百 鷺舞ーーーー京都八坂神社 の舞から継承したもの。 素朴て優雅な舞てある。 ( 7 月 20 ・ 27 日、島根県 / 聿和野町弥栄神社 ) 3 0 0 770

10. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

万鍬による浜ひき作業 入浜塩卍て最も重 要な作業。海水て湿っ た撒砂の乾燥を速める ため 1 日に数回、約 20 キロメートルをひいた。 が、長直は入部と同時に新塩田の開拓に着手し、三底流には赤穂流製塩技術の吉良塩田への伝播という さきしんはま しおや かりや 事実があったものと思う。 崎新浜村・塩屋村・加里屋村に、総計一二七町 (f 瀬戸内風物詩の一つとして、人びとに親しまれて 二七 ( ク ) 余りの塩田を開拓した。三崎新浜村のう カく ち、正保三年に築造された三十郎瑯・元沖槨・中浜きた塩田も、時代の波には抗しきれず、昭和四十六 瑯、計二九町五反九畝六歩は、従来の塩田とは異な年度をもって、長い歴史の幕を閉じることとなっ 、外海の水圧・波浪に耐えうる強固な堤防によっ た。赤穂塩田とて例外ではない。それから一〇年を いり・。は・ま て囲まれた大規模な入浜塩田であった。そして、塩経たこんにち、往時の塩田の面影をしのぶことはむ あらい まとがた 田開発と同時に、播州的形路 ) ・荒井・曾根ずかしい。しかし、赤穂城跡の一隅に塩業資料館が 龕砂 ) 方面から浜人 ( 塩業者 ) を招いて、この地に建てられ、その中に、模型ながら各時代の塩田が再 定住させた。技術集団の移住である。 現され、陳列された各種の製塩用具とともに、われ 日本製塩技術史のうえで画期的な意味をもっ赤穂われに塩田の歴史を物語ってくれる。 三崎新浜は、近世大名の土木技術と製塩技術集団と 塩で栄えた安芸の竹原 の結合によって成立したといえる。やがて、赤穂を でんば 源流とする入浜式製塩技術は、瀬戸内各地に伝播 山陽筋で、赤穂についで大規模な入浜塩田が開発 あきたけはらしもいち し、一八世紀の中ごろには塩浜軒数も一一〇〇〇軒を されたのは安芸国竹原下市 ( 拡しである。赤穂か けいあん じよーうおう こえた。赤穂流製塩技術の伝播は瀬戸内だけではな ら技術者二人を招き、慶安三年 (QS) から承応元 じようきよう はじがみ 。貞享元年 ( ← 0 には、遠く仙台領波路上年 ( 一 ) 五一一にかけて約六〇町 9 ( ) の塩田が開発 かんえい ) にまで及んでいる。 された。竹原下市は、寛永十五年 ( ~ 一しの検地帳に げんろく ひっすう 筆は一区 レ」い , っ , 画のこと 元禄十四年 (d) 三月十四日江戸城松の廊下でのよると屋敷の筆数が一七四筆 ( にんじよう 刃傷事件の原因を、吉良領への赤穂流製塩技術導規模な商業と港の町であった。ところが、塩田がで いんしん 入問題にもとめるむきもある。吉良家では浅野家に きたことによって、たちまち、殷賑な商業町として ー製塩技術の伝授を請うたが拒否され、しかたなく、 経済的繁栄を示すに至った。塩田開発から四〇年後道 ろけん おんみつ いちゅうし 技術を盗むため隠密を赤穂へ送りこんだが、露見の元禄六年 (ll*fi) に著された『竹原下市一邑志』に こうずけのすけ し、殺害されたという。このことが、上野介が内よると、「農工商之戸」六五八軒、人口も三五三五の 匠頭を憎んだ原因であるというのである。もとより人を数え、そして「酒屋十七軒、紺屋十軒」の立ち こうせつ 巷説の域を出るものではないが、その話の生まれた並ぶ街道は「往来白丁絶えざるが如く」と、その活 はまにん