瀬戸内 - みる会図書館


検索対象: 日本の街道6 夢誘う山陽山陰
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1. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

十七日弥栄神社、町内 ) 村の福田神社 ) 厳島神社最大といわれる儀式で、 八十八カ所をめぐる遍路道をは 昔、大山道沿いにあった八束村に もとは京都祇園祭の日に行われてタ方五時ごろ、美しい輦を大鳥居 じめ金毘羅宮や剣・石槌山など いたが、天文十一年 ( 一五四一 l) 、 伝わる盆踊りで一風変わっている。 沖の御座船まで運び、対岸の地御前 への信仰・修験の道、瀬戸内の 三〇 5 四〇人の老若男女が楕円形の津和野城主吉見正頼が山口を経て、神社に向かう。ちょうど西日が海面光る海に航跡を記した海人たち の道、また龍馬をはじめ維新を 輪をつくって踊る。何人かは、「てん津和野に導入した。雌雄二羽の鷺のを染めるころなので、なんともいえ 築いた志士脱藩の山越えの道な こ」と呼ばれる独特の衣装を身につ姿をまね、白衣に鷺頭、白く塗ったす神々しい雰囲気をつくりだす。まど、歴史に彩られた " 青の国。 け、頭からてぬぐいをはおかぶりし薄板の羽根をつけ、優雅に舞うもの。 た、地御前神社で日暮山の儀式をし南海道を訪ねます。 次回配本ーーー年田月日発売予定 て踊る。踊りには「あおい」「しっし」導入した当時そのままで、囃子も笛・た後に、三管・三絃・三鼓の雅楽が 「まねき」の三種類があり、ユーモラ太鼓・羯鼓・鼓・などの古式ゆか流れる中、長浜神社、大元神社を回第 7 巻 しいものである。 スな踊りである。 漕する。 毎光る瀬戸内・ ・津山祭り ( 津山市宮脇町十月十 舞・鯛綱 ( 福山市鞆町五月一日ー五、冫 月三十一日鞆ノ浦 ) 八日亠一十三日徳守神社 ) る 遍路道金毘羅参詣道 江戸時代後期からつづく、津山の 今から約三五〇年ほど前に瀬戸内土佐路瀬戸内の海路 み を海で活躍した水軍の雄、村上氏の一責任編集・山本大 ( 高知大学名誉教授 ) 総鎮守である徳守神社の秋祭り。六イ . 、、 , ・、 四人でかつぐ大は全国でも屈指 族である村上太郎兵衛の創案による 雅 ・主な内容 のものであり、神社から出発して町 もの。瀬戸内海の伝統漁法を伝える 優 街道小史山本大 を練り歩く。これに武者奴の長い行 ただ一つのものとして、繰りひろげ 八十八カ所露道三好昭一郎・土佐文雄 列がつづき、竜や虎などが素彫りさ・牛突き ( 隠岐Ⅱ都万村那久九月られる。この時期になると、 龜羅参詣・庶罠の道市原輝士 にハチマキ姿の漁師たちは、古式漁 れた山車を引く。町中が秋祭り一色一日茶山 ) 剣・石槌ー修験の道武田明 に塗られる賑やかな行事。 承久の変 ( 一二二一 ) で隠岐に流法にのっとって、たくましい声をか城下ねて田中歳雄・山本大 けながら網を引く。 ・福迎え ( 大社町一月三日三歳された後鳥羽上皇を慰めるために、 志士脱藩・維新への道山本大 瀬尸内海のたち景浦勉・市原輝士 社 ) 行われるようになった行事。毎年九先帝祭 ( 下関市四月一一十三日 5 一一 水の恵みー宀・水流の美高橋啓 福の神である大国主命を祀る出雲月一日に開かれる本場所では、それ十五日赤間神宮 ) 工豕落人の行く道前田和夫 大社では、毎年、一月三日にその年までに選び抜かれた約三〇頭の猛牛壇ノ浦悲話にちなむ祭り。生き残 夷辺のみち・流人の地前田和夫 が、横綱・大関・ の福を新たに迎える。福を授けても った平家の官女たちは、その後壇ノ 南栂道の民話ねて高木啓夫 らおうと、遠方からも多くの人々が き関脇などの番付で浦近くで遊女に身を落としたという。 四国路・文芸の旅土佐文雄 やってくる。また、「吉兆さん」と、 牛勝敗を決する。一しかし、安徳天皇が入水した命日に 人々の潤いー岳 A. 物産三好昭一郎 「ばんない」が行われるのもこの日。 のトンを越える巨体は身を清めてお参りしたという故事鉄道建設のみち伊丹正博ほか 隠がふつかりあうさにならって、行われるようになった。 出雲大社の町を歳徳神の吉兆や厄払 ・カラー いの「ばんない」に扮装した人が練 まは、迫力満点。五人の太夫が官女・稚児などを従え 随想大原富枝富士正晴 ・管弦祭 ( 宮島町旧六月十七日 り歩き、町は福の神でうまる。 て水元門へ行列するところが見もの。街道のうた / 遍路道 / 海の美ほか ( 旅行ライター・萩田佐智子 ) ・鷺舞 ( 津和野町七月一一十日、一一厳島神社 )

2. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

けて水島灘を横切り福山湾に至り、芦田川を溯り備 っ島れ だ黒わる 後国府へ至るルートが推定される。播磨灘ー吉備穴 島港ぶおあ 黒良かおが との浮に墳海ー水島灘ー備後灘へ抜ける海路は、古代において 聿然に林円 の天湾樹後 備讃瀬戸を縦断するには最も安全な航路であった。 窓、窓、方 牛来牛は前 吉備の東南端に位置し、播磨灘に面する天然の良 港を形成する牛窓湾は、内陸部から東へ突出した牛 窓半島とその前面に点在する黒島・前島・黄島・青 島によって守られ、古代以来近世に至るまで内海航 路の寄航地として栄えた。この牛窓湾をめぐって天 じんやまかぶやま はかやまふたづか 神山・鹿歩山・黒島・波歌山・双塚の五基の前方後 に、瀬戸内に面する国々への交通路でもあった。 円墳が点在し、古墳時代の中ごろ、この地が重要な 『延喜式』に記された吉備三国に至る海路行程日数意味をもっていたことをうかがわせる。 おは、備前国九日、備中国一二日、備後国一五日を数 児島翁鴕は ) の東端をかすめて吉備穴海に至る えている。そして『延喜式』の巻二三には、「凡山と、そこは吉備の中心地に入りこんだふところのよ 陽、南海、西海道等府国、新任官人赴レ任者、皆取うな入り海で、南を吉備の児島によって守られて いる。吉備穴海に浮かぶ高島は古くから島全体が神 海路一」とあって、瀬戸内沿岸の国司の赴任には きのつらゆき 海路が利用されたことがわかる。紀貫之が『土佐日聖なところとされ、対岸の宮浦には高島神社の拝殿 記』を著したのも、国司の任を終えて帰国する船旅のみが建てられている。近年、発掘調査が実施さ いわくら のようすを記したものであ 0 た。 れ、島中央部の磐座周辺からは古墳時代中ごろの遺 はりまなだ ともあれ、吉備三国に至る海上の道は、播磨灘か物が多数発見され、古代祭祀跡であることが判明し うしまど こじま あなうみ ら牛窓山 ) に至り、東児島を抜けて吉備穴海 ( 現た。 在の児島半島の北側の広大な平野は、中・近世における新 吉備穴海の西端、源平合戦で有名な藤戸の瀬戸を 田開発によるもので、かってこの地域は海で、古代には吉抜け、しばらく行くと水島灘に入る。水島灘と備後 おおひじま 備穴海と呼ばれていた ) に入り、旭川を溯り備前国府灘の境に位置する大飛島岡 ) は、備後灘に面した 孤島で、この島の砂州のつけ根から三彩の小壺、緑 へ、他方、穴海から足守川を溯り吉備の津 ( 皿 周 ) に至り、備中国府へ、そして児島の北端を抜釉片、銅鏡、金銅の鈴、須恵器などの貴重な遺物が 大廻山・小廻山の水門 石組みーーー江戸時代の 古地図に「第三の木戸」 と記されているのがこ の水門てある。 てん

3. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

万鍬による浜ひき作業 入浜塩卍て最も重 要な作業。海水て湿っ た撒砂の乾燥を速める ため 1 日に数回、約 20 キロメートルをひいた。 が、長直は入部と同時に新塩田の開拓に着手し、三底流には赤穂流製塩技術の吉良塩田への伝播という さきしんはま しおや かりや 事実があったものと思う。 崎新浜村・塩屋村・加里屋村に、総計一二七町 (f 瀬戸内風物詩の一つとして、人びとに親しまれて 二七 ( ク ) 余りの塩田を開拓した。三崎新浜村のう カく ち、正保三年に築造された三十郎瑯・元沖槨・中浜きた塩田も、時代の波には抗しきれず、昭和四十六 瑯、計二九町五反九畝六歩は、従来の塩田とは異な年度をもって、長い歴史の幕を閉じることとなっ 、外海の水圧・波浪に耐えうる強固な堤防によっ た。赤穂塩田とて例外ではない。それから一〇年を いり・。は・ま て囲まれた大規模な入浜塩田であった。そして、塩経たこんにち、往時の塩田の面影をしのぶことはむ あらい まとがた 田開発と同時に、播州的形路 ) ・荒井・曾根ずかしい。しかし、赤穂城跡の一隅に塩業資料館が 龕砂 ) 方面から浜人 ( 塩業者 ) を招いて、この地に建てられ、その中に、模型ながら各時代の塩田が再 定住させた。技術集団の移住である。 現され、陳列された各種の製塩用具とともに、われ 日本製塩技術史のうえで画期的な意味をもっ赤穂われに塩田の歴史を物語ってくれる。 三崎新浜は、近世大名の土木技術と製塩技術集団と 塩で栄えた安芸の竹原 の結合によって成立したといえる。やがて、赤穂を でんば 源流とする入浜式製塩技術は、瀬戸内各地に伝播 山陽筋で、赤穂についで大規模な入浜塩田が開発 あきたけはらしもいち し、一八世紀の中ごろには塩浜軒数も一一〇〇〇軒を されたのは安芸国竹原下市 ( 拡しである。赤穂か けいあん じよーうおう こえた。赤穂流製塩技術の伝播は瀬戸内だけではな ら技術者二人を招き、慶安三年 (QS) から承応元 じようきよう はじがみ 。貞享元年 ( ← 0 には、遠く仙台領波路上年 ( 一 ) 五一一にかけて約六〇町 9 ( ) の塩田が開発 かんえい ) にまで及んでいる。 された。竹原下市は、寛永十五年 ( ~ 一しの検地帳に げんろく ひっすう 筆は一区 レ」い , っ , 画のこと 元禄十四年 (d) 三月十四日江戸城松の廊下でのよると屋敷の筆数が一七四筆 ( にんじよう 刃傷事件の原因を、吉良領への赤穂流製塩技術導規模な商業と港の町であった。ところが、塩田がで いんしん 入問題にもとめるむきもある。吉良家では浅野家に きたことによって、たちまち、殷賑な商業町として ー製塩技術の伝授を請うたが拒否され、しかたなく、 経済的繁栄を示すに至った。塩田開発から四〇年後道 ろけん おんみつ いちゅうし 技術を盗むため隠密を赤穂へ送りこんだが、露見の元禄六年 (ll*fi) に著された『竹原下市一邑志』に こうずけのすけ し、殺害されたという。このことが、上野介が内よると、「農工商之戸」六五八軒、人口も三五三五の 匠頭を憎んだ原因であるというのである。もとより人を数え、そして「酒屋十七軒、紺屋十軒」の立ち こうせつ 巷説の域を出るものではないが、その話の生まれた並ぶ街道は「往来白丁絶えざるが如く」と、その活 はまにん

4. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

山・作山などの巨大な古墳を築造した吉備の 吉備路は古代遺跡の宝庫 豪族たちは、一方で、古事記日本書紀』に 古墳時代の中ごろは、いわゆる倭の五王の多くの反乱伝承を残している に′んレ第ー、 おうしん 時代にあたり、仁徳・応神・履中陵の三大古豊穣な岡山平野の農業生産を基盤に、中国 墳をはじめとする、巨大古墳がさかんに築造山地の鉄、瀬戸内沿岸の塩などの経済力と、 された時期でもあった。 瀬戸内海航路の要衝を占めるという地理的優 吉備もまた同様に、全長一九ニメートルの位性がからみあって、吉備は畿内に匹敵する 叮よっぐうさん 両宮山古墳 ( 山陽町 ) 、全長三五〇メートルの巨大な政治集団を形成していた。吉備の中心 造山古墳、全長ニ七〇メートルの作山古墳 ( 総地と目される「吉備路風土記の丘」 ( 岡山市・ 社市 ) などに象徴されるように、 この地方が山手村・総社市 ) 一帯には、数々の古代遺跡 が点在している なみなみならぬ勢力を誇っていたことをうか がわせる、数々の古代遺跡が眠っている。造 や木戸 噛き古瀬 や日 第大町 両宮山古墳 0 備前国分寺跡。山 牟佐大塚古墳 0 和気町 。楯築遺跡 造山古 0 備中国分尼寺 こうもり塚古墳 0 0 宿寺山古墳 備中国分寺 栢廃寺跡 0 備中国府跡 0 00 市 鹿波天播 双古古古窓 塚墳墳墳気 古・ 0 0 0 9 。 6 ~. = 終黄島 黒島古墳 常楽寺 積石状の遺跡 大廻・小廻山遺跡 吉備は古代のまほろば 太古、大自然のなかで人間たちが日々の糧を求め て、みずからの足で山野を駆け巡り、それがひとっ の法則性をもってくりかえされると、そこに名もな し道が生まれるのであった。このように自然発生的 に生まれる道は、なにも人間の諸活動によるものだ けものみち けではなく、動物の通り道である獣道も同様であ しかみちししみち り、鹿道、猪道などがそれにあたる。しかし、人間 のつくりあげた道は、時代や社会の変化とともに、 しだいに人と人とを結び、村と村とを繋ぎ、各地の 交流をも担う重要な社会的意味をもつものに変化し ていった。 古代国家が成立すると、道はかっての素朴な在り ようから一変して、地方から都へ通じる官道翁 道 ) へと変貌して、各国々から納められる租税の輸 送をはじめとする古代国家にとって重要な役割を担 のる代れ 潮す古さ った道となる。しかし、古代官道に関する記録は、 没、見 出に発 現在ではわずかしかのこされておらず、古代人たち 跡て根が 遺つけ跡 がみずからの租税を運ぶために往来した古代山陽道 のよっ遺 島にのの 飛州祀 は、いたるところで分断し、その全貌を今に伝えて 大干砂祭た . し十 / 、し えんちょう えんぎしき へんさん 延長五年 ($ 一 ) に編纂された『延喜式』には、 えきか 各国々への陸路・海路の日数とともに駅家 ( うま びぜんのくに さかながかまたかっきつだかびつ や ) が記され、備前国 ( 坂長・珂磨・高月・津高 ) 、備 ちゅう っさかかわのべ おだしつき やすなほんじ 中国 ( 津蜆・河辺・小田・後月 ) ・備後国 ( 安那・品治・ ~ 、、を・こ : ン、ニお気 ( 根木修 ) つな かて

5. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

小瀬川一一 - 向かって右 側が広島県、左側が山 口県。長少月兵は川を渡 って攻めこみ、優秀な ライフル銃て征長車を 悩ませた。 はしむ、酔へば則ち己れも亦其群に入て共に踊伏見の戦で状況は一変した。上京命令を受けた両軍 もと ) 」うはい り行く、此等固より偶然の戯事に過ぎずと雖と のうち、芸州軍は海路を、長州軍は福山藩の向背を すなわこれ とも も亦以て人心の帰向する所を知るヘし、乃ち不ただした後に鞆より海路上京するのである。 よいじゃないか 二是好耶一の曲を作る、 維新への道を開いた御手洗港 是よいじゃないかよいじゃないか これ長これ薩誰かさえぎるものある 広島県竹原市の西南、瀬戸内海の中国・四国のほ きけいべんぶ 畸形抃舞人かきの如し ば中ほどに大崎下島が浮かんでいる。付近の島々を へんぽん 美女翩翻蝶花にたわむれる ふくめて山頂までよく耕され、蜜柑畑となってい ふずい 天上此時符瑞をくだす る。晩秋から冬にかけて、島の畑は蜜柑色にかがや えんとう おおちょう 簷頭連夜燈華をてらす き、美味な「大長みかん」を産するのである。 けいうん 空中おのずから慶雲の動きあり 大崎下島の東端に御手洗港がある。江戸時代の初 かまびすし きたまえぶね 沿道の歓声我をむかうるに譁 期に「北前船」と称する廻船が東北・北陸地方から 大政奉還後の上方の政情が武力倒幕へ向かいなが 日本海を南下し下関に入り、瀬戸内海を通って大坂 らも、なお表面は無気味な静まりをみせているなか に貨物を運ぶようになった。すると、瀬戸内海の中 で、尾道の民衆はお札降りとええじゃないかの狂躁央部に位置する大崎下島の一小村が北前船の待・ しおまち にひたっていたのである。しかし、芸長両軍の幹部潮待の港として栄え、ついには「中国無双の良港」 は岡山藩や福山藩の使者と応接し、また、しばしば と称されるまでに発展するのである。御手洗港も瀬 両軍幹部の集会を開いている。とくに、芸長軍幹部戸内海航路の要衝を占めているだけに「明治維新へ の会談のあとには、妓女を招いてにぎにぎしく酒宴の道」として数々の歴史を秘めているのである。 を開くのが常であった。なかには「タ方六時頃より 安政の通商条約を結んでからのち、瀬一尸内海にも まかり 、窄 , 一一 ( 一一一右胡平方〈参り、岡田・山田・才木・泰吉罷、酒外国船が入るようになる。とくに、下関戦争や薩英新 宴にて、妓女六人参り賑々敷事にて、後頃皆々床取戦争ののちは攘夷の気風もうすれ、御手洗港にもフ に相成候。 : : : 但し泰吉付之分年十六歳にて至極気ランス船やイギリス船がしばしば停泊し、異人が上 一を。一一 ( 一耄、纛一「質入和もの、随分気領 ( 器量 ) よかりしより」など陸している。 と出張日記に記しているものもある。 また、御手洗港で文久三年から慶応元年にいたる さっげいこうえき こうした事情も、慶応四年一月三、四日の鳥羽・ 三年間ほど、薩芸交易が行われている。芸州藩は軍 こへい とうか みかん

6. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

ミ一 0 日一■ 三次の古い町並みと道 標ーーー出雲・石見と瀬 戸内を結ぶ要衝て、 16 世紀末に三吉氏の城下 町となり、鉄・紙・牛 馬市て栄えた。 負担した。 常連大名となり、清末・唐津・佐賀・大村・島原の 五藩主も常連化したといわれる。 瀬戸内の海駅と四通八達の脇往来 瀬戸内沿岸から中国山地を越えて山陰諸国へぬけ まろ・き だいせん 古代の「大路」山陽道の時代以来、陸路と併行し る陰陽連絡路としては、耆往来・雲往来・大山 とうじよう て瀬戸内海路による交通運輸は栄えていたが、江尸道・東城往来・路・長門路、そのほか幾筋も 時代にはいっそうの発展をみた。 数えられ、とかく東西性の優位な中国地方の交通網 海路のうちには、海岸沿いのいわゆる「地乗り」 に、小道・枝路ながら南北性の存在意味と役割を示 と、やや沖合いをぬける「沖乗り」の航路があっ している。これらの南北連絡路は、山陽側の塩・ こうぞ 。地乗り航路では、兵庫・室・牛窓・下津井・玉米・木綿、山陰側の鉄・木材・紙格・海産物など、 がまかり 島・鞆・尾道・蒲刈・上関・下関などの港町があ諸物資の輸送に大きな役割を果たしたが、とくに石 みよし じようげ り、そのなかには各藩から海駅に指定されたものも見から三次を経て尾道へ、あるいは上下・府中を経 あった。幕命による物資輸送、西国大名の海路によて笠岡に達する石見路は、大森銀山の諸荷物を輸送 る江戸参勤、長崎奉行や朝鮮信使の往来など、公用する道筋として重要視されていた。また、岡山城下 こんびら 船舶の利用に備えて、海駅には山陽道宿駅なみの本より児島沿岸に至る金毘羅往来のように、さらに海 ひき たか 陣・継船・曳船はもちろん、船頭・水夫なども常備路を讃岐丸亀へ通じる往来や、高瀬舟で知られる高 かわむらずいけんかんぶん されていた。このことは、河村瑞賢が寛文十二年梁 ( 松山 ) 川の舟運なども注目されてよかろう。 山陽道は明治以後いよいよ性格を一変する。明治 七 ) 、西廻り航路を開いてから栄えた沖乗り航路 についてもほば同様である。 三十四年の山陽本線の全通、昭和十七年の関門トン 幕府御用・参勤大名など特権通行の推移をみる ネルの開通、さらに戦後の臨海工業地帯の造成、五 えんぼう と、寛永ー延宝期 (— 一坐一四 ) は、陸路通行は失費も十年三月、山陽新幹線の博多までの開通、中国縦貫 多く、徒歩長旅の苦痛もあってか、内海通行が圧倒自動車道の建設、旧山陽道に沿う山陽自動車道の建 ほうえいしようとく 的多数を占めており、宝永ー正徳期 (L\? 四 ) に入設計画などは、すべて東西交通網の飛躍的な発展で ると、正徳二年 ( 一に新井白石の献策で、幕府がある。しかし、これに対し、新しい陰陽横断道の企 ほんし 施行した駅制の整備によるものか、陸路通行がやや画、現在着工中の本四連絡橋による南北交通、ひい 増加の傾向を示し、以後、浜田・津和野・広島・長ては東西線への波及効果などを考え合わせれば、今 ー・福岡・久留米・薩摩の七藩主が、山陽道通行のや瀬戸内交通の夢は現実化しつつあるといえよう。

7. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

安芸 / 備後 広島一一 - 毛利輝元によ り天正 17 年 ( 1589 ) に開 かれ、江戸時代は浅野 氏 42 万 6 千石の城下町 として栄え、水の都と 呼ばれた。 厳島神社ー一宮島の北 の砂浜に鎮座し、本社 の各社殿・摂社などが 回廊によって結ばれ、 満潮時にはその美しい 全容を海に浮かべる。 安芸の中心は広島である。古代、安芸の国府中町 ) どの古い港である。尾道は瀬戸内海に面し、中世 も近くに置かれたし、近世、毛利 ( 五千石 一 = 〇万 ) . 一邑以来、港町として栄え、大坂商人に対抗する財カ と気風をもっていた。山陽道は国分寺のあった神 島駟九万 ) ・浅野 = 万 ) と城主が代わ 0 ても、 広島城下の殷盛は変わることがなかった。備後の辺から、福山・尾道・三原を経て、広島に至った。 中心は福山と尾道であった。福山は水野・松平・また、広島から可部を経て備北の三次と結ばれ、 阿部と譜代大名が代わったが、一〇万石の城下町可部からは山陰の浜田へぬけた。三次は尾道とも として栄え、近くの鞆ノ浦は万葉にうたわれるほ直接結ばれていた レ一ーン 38

8. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

、 : 彎第物姦第義 両宮山古墳ーーー濠をも っ巨大な前方後円墳て、 水面に影を落とすその 威容は、古代吉備の 栄をしのばせる。 和気清麻呂碑ー - 一地方 出身の官僚てまれにみ る昇進を果たした清麻 呂の故地に立っ顕彰碑。 近くを山陽道が走った。 熊山遺跡ーーー古代山陽 道と吉井川の交点近く の羆山山頂に立っ特異 な宗教遺跡て、その石 積みは謎てある。 都 ) の計一一の駅家が書き上げられている。しか し、『延喜式』の編纂された一〇世紀は、律令体制 の崩壊期にあたり、それらのルート、ゝ 力いかに現実性 をもっていたかは不明である。 ちなみに、『延喜式』にみる古代山陽道ルートと 古代寺院跡の分布を合わせてみると、古代寺院の密 集地を縫うように山陽道は通っているが、備前東半 ( : 部は古代寺院密集地を迂回していることがわかる。 ともあれ、古代山陽道が吉備を通過するルートと その周辺には、古代吉備国が栄えたころの豊富な遺 跡が点在している。それらは、巨大な古墳であった り、国分寺をはじめとする古代寺院跡や石積みの古 代宗教遺跡、あるいは山陽道を見下ろす小高い要害 の地には、古代山城が築造されていたりする。 かって吉備は大国であった。それは、現在の岡山 県全域と広島県東半部を含む広大な地域で、のちに 備前・備中・備後に分かれ、その後、備前国の北半 みまさか 分を割いて美作国が建てられ、都合四カ国に分けら れた。吉備は、中国筋で最も強大な勢力を誇り、大 和に匹敵する文化を生みだし、地方ではまれにみる 大国であった。 吉 瀬戸の島々に残る古代信仰の跡 瀬戸内海の海上の道は、古代律令制が確立した後 は、都から九州の大宰府、そして遠く朝鮮半島、中 国大陸へと通じる大陸文化の通り道であるととも

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、 - 3 心 : こ - ユいミをミ第ニーニ言ゴ第ぃなこニよ、を。を感物ミを三こ 一一十数軒の旅籠屋が軒を連ね、土産の木綿打紐・ 真田織・小倉帯地などを売る商家が賑わうさまが手 にとるよ一つに一つかか一つことかできる。 ちょういし 瑜伽の門前町を町石の立っ山道を南に三〇町 (lf 三〇メ ) 下ったところが田ノロ港である。金毘羅参詣 しののめ の乗合船は夕方に港を発ち、翌朝、東雲のころに丸 亀港に着いたから、田ノロ港は船待ちの町として栄 えた。その繁盛ぶりを『金毘羅参詣名所図会』は、 次のように記している。 金毘羅参詣の旅客円亀に渡る船場なるゆへ、浜 たてつらな 方にハ船宿建烈り、瑜伽山参詣の道条にハ、 くみひも 此地の名産とて左右の家毎に木綿糸の組紐・打 いろいろ 紐、種々に染色うつくしく、太きあり細きあ さなだ うわ り、又真田織ハ一重・夏帯・袋織・箱掛・上 いろいとまじ 括に至るまで彩糸を雑へて縞をなし、所せきま でに並べたて旅人に進む。尚、小倉織の帯地を きれい よき も織出せり。何れも奇麗にして、家土産にハ能 品なれバ求むる人多し。故に至ってにぎハしき ふなっき 船着なり。 ヒ日 瑜伽の門前町、田ノロ港の賑わいはこの記述から 一三ロ も明らかであるが、瀬戸内十州の塩業者の年に一度の いつくしま の集会も、文化十年 (llfl) 以後は安芸の厳島とこ 権参羅し 大の毘とす の瑜伽山が隔年に会場とされ、瑜伽山では島屋嘉三 加現金港残 瑜権た廡を 大つは影 郎の宿屋を当てられることが多かった。このことか 羅わ今面 ご ) 港毘賑。の ら、瀬戸内では瑜伽は厳島と肩を並べる殷盛の地で ロ金て港日 ノと客の昔 , ~ 〔田現詣船てあったことかうかかえる。 まるがめ

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日本の彳圭わ首ーーー全 8 巻 ( 書名と責任編集者 ) ・印は既刊 / 〇印は次回記本 ・第 1 巻風かけるみちのく仲野浩学教授渡辺信夫 奧州街道羽州街道会津街道浜街道 学習院児玉幸多 ・第 2 巻江戸への道 東海道日光道甲州路水戸・佐倉道大山道 ・第 3 巻雪の国北陸粤喆木下良 北国路越後路能登路三国街道千国街道 ・第 4 巻山なみ遙か歴史の道林英夫 信濃路木曾路伊那路美濃路飛騨路 大阪市立大 ・第 5 巻京への道 原田伴彦 学名誉教授 若狭路近江路丹波路大和路伊勢路紀州路 ・第 6 巻夢誘う山陽山陰谷口澄夫 山陽道吉備路安芸路出雲路長門路 〇第 7 巻海光る瀬戸内・四国山本大 遍路道金毘羅参詣道土佐路瀬戸内の海路 ・第 8 巻日燃ゆる九り 九州大学 助教授丸山雍成 筑紫路日向路薩摩路長崎路唐津街道 ( 10 月刊行 ) 著者代表ーー谷口澄夫 編集者、ーーー株式会社日本アート・センター 東京都千代田区神田神保町一ー一一五 電話ー東京 郵便番号 101 発行者ーーー堀内末男 発行所ーーー株式会社集英社 東京都千代田区一ッ橋二ー五ー一〇 電話ー販売部東京・ 2 3 8 ・ 2 7 81 出版部東京・ 2 3 8 ・ 2 8 31 郵便番号 101 印刷所ー・ーー共同印刷株式会社 製本所ーーーー中央精版印刷株式会社 製本には十分注意していますが、落丁・乱丁の際はおとりかえ いト」ー ) ま 6 す・ ⑥集英社 Printed in Japan 日本の街道 6 夢誘う山陽山陰 昭和五十六年九月一一十一日第一刷発行 032 にロ 6006 ー 30 引