道 - みる会図書館


検索対象: 日本の街道6 夢誘う山陽山陰
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1. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

戦国と維新を結歴史 0 糸、ー串〔 000 宅「 00 000 。。「是 = 松影に探る吉備の古代路臼井洋輔根木修 航海の神・金毘羅への参詣道ーー岡山から下津井・田ノロの港へ柴田一 源平激戦の嵐吹く瀬戸内の道ーー壇ノ浦に散った公達石田善人 神戸から西へ・十余年の長い道ーー山陽鉄道建設の苦闘太田健一桑田康信 カラー・石見 / 出雲 / 出雲大社 / 伯耆 / 因幡 / 但馬 / 中国路の祭り 『出雲国風土記』の道を訪ねてーー神々の国の土地と民俗内藤正中 大山への道は庶民の道ーーー山なみと国境を越える伯耆往来齋藤伸英 神の鎮まる地・山陰の神話 , ーー『記紀』にみる国つくり内藤正中 松岡利夫 「海の国」の幸ゆたかな道ーー山陰の海浜をめぐる 山陰山陽をつなぐ参勤交代道ーー出雲往来齋藤伸英 物資の往き交う山越えの道ーー・東城往来と周辺の道鶴藤鹿忠 中国をめぐりて幾山河ーー歌人・文人の息吹を求めて山本遺太郎 鉄の道・塩の道ー・ー諸国へはばたく山海の恵み土井作治渡辺則文 歴史を語る悠久の流れーー高梁川の舟路富岡敬之 161 13 6 1 3 0 143 126 一 8 154 1 5 0 1 19 1 12 9 9 8 8

2. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

田儀の町並みーーー出雲 国の西端て、日本海に 面した国境の町。古代 には多伎郷と多伎駅が あった。 志戸坂峠旧道 - ーー畿内 と因幡国を結ぶ幹道て、 智頭街道て鳥取に至る。 因幡国司になった大伴 家持も、この峠を越え おおとものやかもち にいた大伴家持は、山陰道を使わないで、志戸坂〃 峠の山越えの道を利用して播磨国へゆき、山陽道で 都へ上ったことがわかっている。『播磨国風土記』 には、因幡や出雲の人の通行についての記述を多く みることができるのである。 そうすると、出雲国庁から山陽道へゆく山越えの ほうき 道はどうなるのであろうか。正東道で伯耆国へゅ き、日野川をさかのばる江戸期の出雲街道 ( 出雲往 来 ) が、まず考えられる。後醍醐天皇の隠岐配流は ひい このルートであった。しかし古代では、むしろ斐伊 にた せんつうざん 川をさかのばり、仁多郡の船通山を経て高梁川・旭 きび 川を下って吉備国にいたるルートではなかったかと 思われる。 出雲国での吉備の文化は、船通山から斐伊川に沿 いいしみとや って北進している。飯石郡三刀屋町の松本一号墳や かんばら 神原神社古墳は、吉備の勢力を象徴するかたちで築 造されており、能義郡の西比田にある一宮明神や飯 たく 石郡粟谷の吉備津明神、多久和の託和社、上山の吉 きびつひこのみこと 志戸坂峠を越えて都へ 備津明神などには、吉備津彦命が祭神に祀られて このであっこ享保一一年〈一七 官道の山陰道であるからといって、とくに整備さ しオオ一七〉『雲陽誌』 れていたわけではない。宍道湖南岸を通る玉作街へ そうすると、風土記にある正南道が山越えの道と たいら の道路でも、「或は峻崛しく、或は平土にして、並して重要になる。正南道は、玉作街で正西道より分 かよいじ びに是、通道の経るところなり」であった。それだ かれて大原郡家にいたる。ここで飯石郡への南西道 よどのつかい にた けに、国司や四度使 ( 地 告するための四の使 ) が、都に往と、仁多郡への東南道とに分かれる。東南道は、仁 あしびえ 来するのに官道を利用したかどうかは疑問である。 多郡家で分岐し、伯耆の国境にある阿志砒縁山 ( 阿 出雲国についての記録はみられないが、因幡国府毘縁山 ) に通じる東道と、備後の国境にある遊託山 ゞ第ー第 」を第洋二 たかはし

3. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

中山峠付近の道標ーー 自然石または馬頭観音 の石仏に地名を刻み、 旅人の安全をはかった 山道の道案内石板。 東城より芸備線沿いに ある馬頭観音ーー - 牛馬 が事故て死ぬと飼主が 施主となり、寄付を集 めて守護神兼供養碑を 立てた。 したた 家が野呂にばらっく宇山野呂の野呂道や尾根道であの緑滴る雑木林や、植林した杉、檜の美しさ。秋 さいじよう る。宇山道がさらに西へ西城道、庄原道へとつづ には真紅に紅葉する山々を眺望し、谷間を鳥瞰しな いている。東城から千駄瓦ー宇山野呂道ー金原ー有がら歩くのだが、山にはすべて顔がある。焼山であ おんばし 帝釈川にかかる った山、牧場であった山、砂鉄をとった山、草刈り 頭ー禅仏寺谷を経て雄橋 ( 石灰岩の天然橋 ) を渡るが、 このあたりは雄橋道と呼ばれている。つづいて、神山、茅刈り山、炭焼き山などと、山はフルに利用さ かじやどこ れていた。 石町相渡ー板橋ー吉ー鍛冶屋床から、「中山三里く ねくねと・ : 」と唄われている中山乢を経て、庄原へ 焼山とは焼畑のことで、昭和三十五年ごろまで たけわたり 達するものと、有頭から上帝釈ー竹渡ー中山乢 は、夏の土用に山に火入れをして焼き、蕎麦とか あずき 庄原へ出るものとがある。 小豆を作った。米は年貢米としてとられたので、蕎 うれん 西城へは竹渡から雨連ー仮屋原ー真名ー西城へ達麦が、かっては主要な食糧であった。牛馬の放牧 よしがさこ する。また、竹渡から南へ鍛冶屋床ー吉ケ迫ー呉ケは、初夏の八十八夜ごろから十一月下旬ごろの降雪 さく 峠ー福山への道もある。さらに、西城へは東城からをみるまで、山には木柵をしないで、放し飼いにし 比奈ー下菅ー三草ー陰地ー宮原ー長谷ー西城への道た。自由放牧山であった。一帯にはたたら跡が多く もある。 みられるように、谷間の水田や棚田のなかには、砂 じなら 出雲道は、東城から西北へ、比奈ー下菅ー三草ー 鉄採取後を地均しして、造成した流し込み田が少な こぬか きすき 槇ケ峠ー湯谷ー小奴可ー栃木ー上高尾から木次へ出くない。 る道であり、伯耆道は小奴可から北へ栃木ー板井谷 チゴ池の雨乞い ー持丸を経て、道後山」」六 レ ) と三国山 ( 」 , 9 レ 自然のままで、雑木の多い雑木山のころには、昆 ト ) の間の山道を北上する道であった。小奴可から 東へ行けば虫原峠を越えて、日長谷・市岡を経て新虫や野鳥が多く棲みついていたが、杉、檜の植林が 見に達する。 ふえていくにつれて、自然のバランスが崩れたの 東城から西の宇山道や西城道、庄原道、さらに、 か、以前より昆虫や野鳥が少なくなった。 明治末年ごろまでは、長者とか分限者とかいわれ 北の出雲道や伯耆道などは、山また山の連なりの山 道である。馬子が馬をひいて歩いていると、鹿の群 た家の娘が、嫁入りには馬に乗り、馬の鞍へは嫁入 かなくそ れが駆けていたという。たたら跡には金屎 ( 鉱滓 ) り道具をつけ、山道を行った。夕方に発ち、夜中に が散らばっており、馬頭観音碑が諸所にある。春夏結婚式を挙げるのであった。信仰の道でもあって、

4. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

二第を こ 1 をン 一メ鴛 山陽道の景ー - ー古代か ら中国地方の幹道が通 っていた吉備路には、 数多くの古墳や古社寺 が点在している。 古代において政治や文化の中心地であったあたり に、いわゆる「風土記の丘」を造成したり、著名な 古戦場などを訪ねるために、しゃれた遊歩道をしつ らえたり、また、昔の庶民生活の面影をとどめるム ラを、「ふるさと村」として甦らせるなど、日常生 活に満たされない現代人は知恵をはたらかせる。歴 史への郷愁が、過去をさまざまに復元して歴史散歩 にいざなうのである。 そのような歴史の「新名所」を探訪することは、 ちょうど都会の雑踏のなかにある民芸調の「食事 処」で、手作りの山菜料理を食べるのと一脈相通じ るものがある。昔ながらの本物ではないにしても、 本物の味を回想しようとする心のはたらきがある。 古今東西を通じて、人の歩く道は作られるべくし て作られた生きものである。道が歩くものであった 昔の人ほど、この生きものとしての道との因縁は深 かった。道には歴史の息吹きや人情が刻みこまれて いるから、人間と道との語らいは尽きないものがあ 現代では、古代からの官道はもちろん近世の公路 兵庫教育大学学長 いんねん

5. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

尾道ーーー瀬戸内海に面 し港町として栄えた。 大同元年 ( 8 % ) 創建と 伝えられる千光寺はじ め、古寺が多い。 蒜山三座ー - ー美作と伯 耆にまたがり、西から 東へ上蒜山・中蒜山・ 下蒜山の 3 山をいい、 美しい姿を見せている。 いこ、つす・る。 かうのだが、横道の少ないのにはよくへ とくに山陰は横道が少なく、民窯を訪れるときなど、 いちいち海辺の山陰道九号線までもどり、すこし進 んでまた山へむかうというような、厄介な旅をしな ければならない もちろん山道などはあるのだが、 舗装した道がないだけのことであるから、その厄介 さにぶつかると、道は歩くもので走るものではない ことを、思い知らされる。 南北に走る道にしてもそうである。この数十年の うちに、路面は舗装され、道幅も広くなったが、そ のよごれかたはひどいものである。鳥取・姫路間の 九号線なども、改造されたはかりのころは、気持 ちよく走れる路であったが、一〇年たたぬうちに沿 道にちゃちな家が建ち、たちまちというように、景 色までが崩れてしまった。自然の美は、ヒトのため の価値だというのに、もったいないことである。そ れにひきかえむかしの街道は、雨が降ればどろんこ 道になり、 いささかは不自由であったが、おもむき があったものだ。それに街道の端には、村の者たち が誕生したなどの記念に、松や桜を植えるので、街 道は年旧るにしたがい美しくなっていく。これは国 土づくりとただの道づくりの差なのであり、年々国 土をきたなくするようなものをつくってもらっては 困るのである。 それはそれとして、南北道のことごとくが薄ぎた ないわけでもない 江津から川ぞいの道を千代田へ行く二六一号線は、 たんきょ まだ薄よごれていなくて、秀逸である。ことに断魚 渓根 ) のあたりは景色がひなびており、車を出て歩 きたくなるはどである。おすすめしてはばからな け

6. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

さえも、その面影は失われつつある。古い道は現役って一戸一馬を養い、正丁 (? 齢制¥、課の人頭税を負担 を退いたというべきであろうか。そこで、歴史のな ) は、課役を免じられて駅子として駅務に従 「新名所」を訪ねたり手作りの山菜料理を口にする 、駅子のうちで資力のある者を選んで、駅長 心にも似て、退役した一つの重要だった道「山陽と呼び室町初期まで存在し たが、戦国期に中絶した ) とした。駅には駅田がおか 道」を回想して、この道のもっさまざまな意味でのれ、大路は四町、中路は三町、小路は一一町で、近く ふゅそでん とさ 動脈としての役割の消長を、たどることにしよう。 の田があてられ不輸租田 ( 蚣馮・準公用に供するた れた。「大路」山陽道には駅ごとに二〇疋の駅馬を えんぎしき 古代の大動脈、山陽道 備える定めで、『延壹〕式』 ( 康保四年〈九六七〉に施行さ ) りようせい はりま 都と九州大宰府を結ぶ山陽道は、令制では全国によれば、ほとんどの駅は二〇疋であったが、播磨 びぜん 唯一の「大路」として、早くから整備され、かっ最の明石 ( 三〇疋 ) ・賀古 ( 四〇疋、日本最大 ) や備前の つだか も重んじられた。古代のわが国の歴史は、対内的に津高 ( 一四疋 ) のように、駅による差異がみられ きびのくに つくし は早くから吉備国から筑紫にかけての西国に目が向た。 けられ、対外的には朝鮮、中国など当時の先進国と 駅館の施設や駅馬・駅子を利用できたのは、外国 こくが の外交・文化の関係が盛んであった。したがって、 使節や中央政府と地方国衙との連絡にあたる官吏な ぶえき 瀬戸内は海路・陸路ともにまさに、わが国の歴史的どであり、官物の輸送や夫役の徴集、反乱の征討の な大動脈の役割を果たし、政治・軍事・外交・文化 ワ立ま泛 1 すん第、 ためなどであったから、官道はまさに政治・軍事用 0 のメーンルートであった。山陽道が「大路」と格付の道路であって、庶民のために作られたものではな かった。 けされたゆえんである。なお、東海・東山両道は ・おミあらま 「中路」、北陸・山陰・南海・西海の諸道は「小路」 山陽道は山谷峻険なところが多かったが、着々と であり、山陽道は江戸時代の東海道に匹敵するもの整備されて活発に運用された。山陽道の駅館は他の をし第をであった。 官道と異なり、外国使節の往来に備えて建築の偉容 えき すでに『大化改新の詔』 (4 〔四 ) には、諸国に駅をととのえ、国家の体面を損じないことが必要であ用 ばてんま すずしるし びんご あきすおうながと かわらぶ った。備後・安芸・周防・長門などの駅館は、瓦葺 馬・伝馬を配置し鈴契 (} 垣び関に し ) を作らせたと 記されているが、以後逐次、駅制は整備されていっ きの白壁造りとする規定であった。しかし、その維 ごとに持に多大の経費を要し、人民が疲労して負担に耐え た。令制では、官道には三〇里翁在の約一六 一駅を設けさせた。駅には駅家と呼ばれた集落があがたくなったのと、外国使節の入京も海路によるこ 宮市の宿ーー松崎神社 ( 防府天満宮 ) の社頭に 開けた宮市は、付近に 周防国衙・国分寺の遺 跡があり、重源の説話 も多く、宿場としても 賑わった。 ( 「行程記』 ) だざいふ うまや せいてい

7. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

霧の三次ーー西城川・ 馬洗川・可愛川が合流 して江ノ川になる三次 盆地は、秋から春にか けて霧の海となる。 日山陰より山陽ヘーー 藤原審爾 作家 すえき かまあと 古い須恵器のころの窯跡の分布をみると、岡山、 広島県あたりでは、まだ中国山地を越えたばかりで ある。朝鮮より渡来してきた人たちは、はじめ山陰 の平野に住み、そのうち川ぞいに中国山地へ入って いく。もとより川も山も生活資源であり、とくに木 は火のためのものであり、そういう環境を求めたと ころからの移住であろう。 しかも高い山々にぶつかり、山麓を横に移住して 別の川をさがさず、彼らの子孫たちは中国山地を越 え、山むこうの川を求めて、山陽側に出ている。よ りあたたかい土地を求めて山を越えたのでもあろう が、しかしそこに人間の能動性の発露あるいは人間 のやみくもな衝動を感じさせられる。そうして彼ら は、たとえば備前のような海辺までくだっていった のである。 山陰から山越えして山陽へ出る道は、西の益田か ら広島、浜田から広島、江津から千代田、松江のて まえから尾道、倉吉から津山、鳥取から姫路・岡山 というような道があるが、倉吉から福山への新しい 道をのぞいて、どの道も東南の方向にのびている。 その東南の線を北西へのばしたところに朝鮮半島が あるのである。分布図をみていると、渡来人たちが、 あさひ ひたすら朝陽にむかって進んでいき、それが道にな ったような神秘なものを感じさせる。とりわけそれ らの道をつなぐ東西へのびた道が、まったく少ない のが、神秘感をいっそうかきたてるのである。 わたしは備前が故里なので、これらの道をよくっ ・る、ごと 6

8. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

後、逐次整備されていった。寛永十二年 ( 一一 0 に参古代の山陽道からやや南寄りのコースをとる近世の幻 まんじ 、、、 ( 一勤交代制が確立され、万治一一年 ( , し以後、大目付山陽道は、東は西宮を起点とし、西は長門の下関ま 燾および勘定奉行からそれぞれ一名ずつ、道中方を専でと考えてもよかろう。しかも、山陽道は令制では 任に扱う道中奉行を兼帯するものができ、この体制「大路」として最高の地位にあったが、江戸時代で 、最も重視された。 は五街道からはずされて、脇街道の地位に転落し くらい 、 : 江戸から四方に出る東海道・中山道・甲州道中・日 た。街道の位づけも、政権所在地との位置関係、つ 道中奉行の管轄下におまり当時の政治的・軍事的な役割などによって規定 かれた。 されたわけである。 五街道のなかで最も重要視された東海道は、江戸 山陽道と「長州藩主用道中案内記」 載日本橋を起点とし、京都を終点とするが、大坂およ にしのみや び西宮まで実質的に延長されたともいえる。幕府 西国諸藩が山陽道の整備を画期的に行ったのは寛 は、参勤の諸大名が途次に入京することを禁止し、 永年代 (L 四 ) である。すなわち、寛永十年 ( やましな 大津から山科を迂回して伏見に行くことに定め、そ ) 幕府の巡見使が西国へ派遣されるのを契機に、 ひらかたもりぐち こから淀川の左岸に沿って、淀・枚方・守口を経て各藩では臨時に道路普請奉行・御茶屋奉行などを任 大坂に至る道筋は、京街道、または大坂道ともいっ 命して、道路・橋梁や宿駅施設の整備・拡充にたい あくたがわ ふくいん た。また、伏見と摂津西宮との間に、山崎・芥川 へんな努力を払った。山陽道は、道路の幅員を二間 こおりやま 約四キロ 郡山・瀬川・昆陽の五つの宿駅を設け、この街道半 (f いしとし、沿道に松を植え、一里 ( メ を山崎通りといい道中奉行の管轄下においた。 ごとに一里塚を築き、要所には茶屋を三軒ずつ設け 東海道から引きついで大坂から西へ、尼崎・西宮るといったぐあいである。山陽道に設けられた宿駅 を経て西下する街道は、正式には中国路といわれ、 を東から西へたどると、兵庫県下では西宮から有年 みついし 西国街道とか山陽道ともいわれた。伏見から山崎を まで八宿駅、岡山県下では三石から高屋まで九宿 かんなべ 経て南西下する山崎通りの終点は西宮であり、京街駅、広島県下では神辺から玖波まで一〇宿駅、そし 道 ( 大坂道 ) の終点大坂から、さらに尼崎を経て西て山口県下では関戸より下関まで一九宿駅で、合計 宮に至る街道も、大坂道といわれたようである。しすると四六宿駅となる。もっとも、宿駅間には間の しゆく たがって、東海道およびその実質的な延長の行きっ宿が五カ所ほどあり、宿駅の数え方も人によって、 くところは、摂津の西宮であったとみられるから、 間の宿や予備の宿を計算に入れることもあって、若 旧船坂峠ーー兵庫・岡 山両県境にある旧山陽 道の峠て、標高 180 メ ートル。古代山陽道のソ 坂長駅は西方に置かれ 尾道の町並みと港 12 世紀後半に高野山領 大田庄の倉敷地に指定 されて以来、内海屈指 の港町として栄えた山 陽道の宿場町てある。 をこ , こや かんえい

9. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

~ 杵築郷戸 出木社出 = ( 朝山郷 ) 松江 墨山陰道 ( 屋代郷 ) 萄 0 大東 西北田 0 - ーー 田ーゝ他耆 通山 日野川 次郷 ) 出雲国庁が置かれていたところは、松江市大草町 で、八雲立っ風土記の丘センターの近くである。国 おう くろだのうまや 庁は、出雲国府・意宇郡家・意宇軍団・黒田駅の 四機関をふくむ合同庁舎であり、近くには出雲の総 ろくしょ 社である六所神社、国分寺、国分尼寺もあった。こ まひがし まにし きたにまがれる 紀れ形大 の国庁を中心に、正東道・正西道・枉北道・正 世ら内にる みなみ ひつじさる たつみ 4 み畿墳み て、円を南道・南西道・東南道が、幹線道路として設け 雲る後カ 墳出な方勢 られていたのである。 号らに前備 さと - 力、つ士ロ 本葉よ墳・ 国の東の堺より西に去くこと一一十里一百八十歩 松中る古和 にして野城橋に至る。長さ三十丈七尺、広さ一一 丈六尺あり。飯梨河なり。又、西二十一里にして くにのまつりごとどの じふじのちまた 国庁、意宇郡家の北なる十字街に至り、 即ち分れて二つの道となる。一は正西の道、一は枉 北道なり。 正東道について、風土記には以上のように記して ある。 あさ 枉北道は、国庁のある十字街から北に向かい、朝 くみのわたし おき 酌渡を渡船で渡り、島根郡家を経て、隠岐国へ行 ちくみ く千酌の水駅にいたる。十字街から西へゆく正西道 しんじこ かんど は、宍道湖の南岸を通って玉作街、出雲郡家、神門 郡家、そして多伎駅を経て石見国へ入る。 ごとに駅を置くこ 大宝令では三〇里翁豐六 , 沈空に泉 えんぎしき かも色」 とを定め、『延喜式』には「出雲国の駅馬、野城・ さゆふたき タ妙く道 「と精ゅの 黒田・宍道・狭結・多伎・千酌、各五疋あり」と記 るきて国 め ~ れ神してある。水駅の千酌のほかは、いずれも官道であ一 - 冫じ・、ら 道は驚め雲 宍みも染八 る山陰道に設けられた駅である。 多刀 久屋 ( 多禰郷 ) ( 三沢郷 ) 尸 / 備 たき いわみ っえさか うまや 7 ノ 3 「出雲国風土記』の道を訪わて

10. 日本の街道6 夢誘う山陽山陰

い、 イ第を 石燈籠の台座に、「弘化五年備前国岡山荒物屋久三 郎下蚊屋日埜屋勝五郎」の名が刻まれている。こ れは当時の水源 ( 川上 ) 信仰の現れで、岡山の町な かを流れる旭川の水源のひとっ竜王池がここにある からである。地元の人々はその地蔵を「カミタレ地 蔵」と呼ぶ。噛んだ紙を地蔵に投げると諸願成就す る、と素朴な信仰を集めつづけてきた地蔵である。 うつみ 県境は西に急坂の内海乢である。ここから見る大 山の西方の展望は、火山特有の放射状谷が幾通りも 展開し、谷底に集落が点在する雄大なものである。 さがりがや 眼下の放射状谷の集落が下蚊屋である。「かや」地 名は中国山地の僻村の俗称であった。火山の麓野は 水利が悪く、谷底に民家が寄りそうように散在する のである。この村は郷原と同じく、漆器の塗師が多 かった。下蚊屋から御机までは丘陵越えである。今 も道らしい道はない。牛馬市の折には道をつけるた め、草刈りをしたという。御机から大山麓野の広野 が展開する。古くから牛馬の産地で、今も放牧慣行 が残っていて、近村の農閑期の牛を放牧している。 大山牛馬市は、その背景に牛馬の産地という条件が あったのであろう。 御机から「横手三里」の道にかかる。横手とは大 山の横手という意味で、岩壁のそそり立っトロイデ 溶岩円兵 ) の山体の西を迂回して、大山寺に向かう ますみず かえい 道である。湧泉由来の地名、枡水を通り、嘉永七年 舅。し建立の大山の大鳥居に至る。 ノ 25 ーー大山への道は庶民の道