日本の彳圭首ーーー全 8 巻 ( 書名と責任編集者 ) 第 1 巻風かけるみちのく仲野東北大、 / ロ学教授渡辺信夫 奥州街道羽州街道会津街道浜街道 学習院大学男玉幸多 第 2 巻江戸への道 名誉教授し 東海道日光道甲州路水戸・佐倉道大山道 第 3 巻雪の国北陸粤喆木下良 北国路越後路能登路三国街道千国街道 第 4 巻山なみ遙か歴史の道林英夫 信濃路木曾路伊那路美濃路飛騨路 大阪市立大 第 5 巻京への道 原田伴彦 学名誉教授′、 若狭路近江路丹波路大和路伊勢路紀州路 第 6 巻夢誘う山陽山陰大響谷口澄夫 山陽道吉備路安芸路出雲路長門路 第 7 巻海光る瀬戸内・四国山本大 遍路道金毘羅参詣道土佐路瀬戸内の海路 九州大学 第 8 巻日燃ゆる九州 助教授丸山雍成 筑紫路日向路薩摩路長崎路唐津街道 全巻完結 著者代表ーー山本大 編集者ーーー株式会社日本アート・センター 東京都千代田区神田神保町一ー一一五 電話ー東京・ 2 9 4 ・ 3 8 91 郵便番号 101 発行者ーーー堀内末男 発行所ーーー株式会社集英社 東京都千代田区一ッ橋一一ー五ー一〇 電話ー販売部東京・ 2 3 8 ・ 2 7 81 出版部東京・ 2 3 8 ・ 2 8 31 郵便番号 101 印刷所ーーー・共同印刷株式会社 製本所ーーーー中央精版印刷株式会社 製本には十分注意していますが、落丁・乱丁の際はおとりかえ いたします・ ⑥集英社 Printed in Japan 日本の街道 7 海光る瀬戸内・四国 昭和五十六年十月一一十一日第一刷発行 03 幻 - ヨ 76007 ー 30
カラー・讃岐 / 阿波 / 伊予 / 上佐 天守閣の影・水面に落としてーーー四国八城と城下町田中歳雄山本大 維新の志士・脱藩の道ーー九十九曲と野根山の峠を越えて山本大 瀬戸内の雄・水軍の往く道ーーー芸予・塩飽の島々と武将景浦勉市原輝士 海浜をめぐる潮の美高橋啓 祖谷山を越えた幻の落人みちーー平家のかくれ里をたどる前田和男 「天離る夷辺」と京を結ぶ道ーー・ー渓谷を行く北山越え前田和男 カラー可日 / 色巷 浜路・山路の祭りと民俗高木啓夫 踊りに託した暮らしの願い 山地を支え沃野を育む潤いの水ーー、生活の大河と溜池高橋啓 歴史の木樹がつつむ渓谷高橋啓 四国路に遊んだ文人・歌人の足跡ーーー文芸の舞台を訪ねて土佐文雄 風土の香り豊かな山海の恵みーー四国路の物産・歴史と伝統三好昭一郎 土佐の鯨とりーー、近世遠洋漁の盛衰山本大 港に始まる四国の鉄路ーー伊予・讒岐鉄道建設のみち伊丹正博 「海の大路」瀬戸内海のにぎわい山本大 自由民権の雄叫びーー・近代の曙光を追って山本大 12 1 14 2 16 2 1 5 6 164 1 5 8 1 3 6 126 144 10 8 1 5 0
宇和海の漁火ーーー南予 の宇和海は、 11 月力、ら 3 月にかけて、イカ , 魚 の漁火が海に映えて美 東宇和の農家 の南西、宇和川の潤す 宇和盆地は、美しい山 なみに囲まれ、ひっそ りと春を待つ。
0 ◆ 4 ◆も ドンを 讃岐平野遠望ーーー金刀 比羅宮本宮前の境内は 高台て、讃岐富士の飯 ノ山はしめ、讃岐平野 を一望てきる。 金刀比羅宮・本宮 明治 11 年に改築、大社 開棟造り、檜皮葺きて、 各所に蒔絵がほどこさ れた荘重な社殿てある。
祖谷渓ーーー剣山に源を 発し西流する祖谷川は、 数百メートルの断崖絶 壁のつづく祖谷渓を作 り、吉野川に合流する。 祖谷の段々畑ーー - 平家 の落人伝説をもっ祖谷 地方は、山また山の秘 境て、急峻な山問に段 段畑が重なっている。
新改西谷観音堂ーーー羆 野神社の神宮寺の名残 をとどめ、藤原時代の 聖観音立像と地蔵菩薩 立像を伝えている。 物ー第を ( 建立され、鎮守としてそれぞれに紀州の熊野神社が かんじよう 勧請されたが、この三勝寺の建立と熊野神社の勧 請にあたったのが八木氏であり、その八木氏の居館 を転用して設置されたのが頭駅なのである。 延暦一一十四年 ()i 〇 ) 各駅に配備されていた駅馬の ほかに、郡単位に置かれる伝馬が五疋加置される。 『日本後紀』延暦二十四年五月十日の条に「土左国 の駅路を帯びる郡に伝馬五疋を加え置かしむ。新開 の路、山谷峻深をもってなり」とある。「駅路を帯 びる郡」とはおそらく長岡郡であろう。新開の延暦 の道も決して楽な道ではなく、政府は伝馬を置くこ とで交通難の緩和をはかったのである。だがこうし た努力にもかかわらず、四国山地越えのこの道はす たれていった。一〇世紀前半に完成した『延喜式』 にはもはや伝馬はみられない。国司の赴任が海路に よるようになったことも原因の一つであろう。南海 道がすたれるとともに、沿道の駅もしだいに荒廃し ていった。頭駅でも厩舎などがあったと思われる北 方の築地内は放棄されて草地化し、南方の駅庁舎の 地と思われる築地内は八木氏の居館にもどったので譴 ある。 京 遠流の地土佐は、都を離れてはるかに遠く、波濤 ると銅 す宝文 の彼方にあり、重畳たる山並みの向こうにある。文夷 社座社襷 神鎮、裟 布にて袈 化も容易にとどかぬこの地に、南海道はさまざまの天 良流社のる 美中内個え 文化を伝えたに違いない。沿道につくられた社寺は 上川式 2 伝 あかし 部喜てを ) 尢物延し鐸その証でもあろうか。前記の社寺のほかに、長岡郡
祖谷渓ーーー祖谷川に沿 って十数キロメートル におよぶ雄大な渓谷が つづく。その奥にかす ら橋や平家伝説て知ら れた秘境祖谷がある。 高橋啓 歴史の木樹がつつむ溪谷 四国女子大 学助教授 けわしい山々を深くけずりとった典型的な > 字谷が えんえんとつづく。祖谷渓である。スケールの大き い山岳美・渓谷美で知られた峡谷である。その断崖 絶壁の山肌にしがみつくように、祖谷街道 (i がつづら折れにはしっている。道から谷底まで、深 いところでは二〇〇メートルを超えるであろうか、 めくるめくようなはるかな谷底を、祖谷川の渓流が 岩をかんで流れる。 祖谷川の険峻な峡谷は、長年にわたって人を寄せ つけなかった。そのため祖谷山は、ロマンと哀愁に つつまれた平家の落人伝説に象徴されるように、他 郷から隔絶された「秘境」であった。 秘境、祖谷渓への道 明治以前、祖谷山地方と吉野川沿いの町や村と おちあい 一五一九 都想えば月さえくもるよ は、小島峠 ( メ トし・落合峠 ( メー ト」 ) ・ノ峠 飛んでいきたいあの空へよ メート」などの峠道によって、わずかに結ばれて サ 1 ョイヨイヨ いた。雪解けの峠道に行商人の姿が見えるころ、祖 秘境祖谷への道は遠くけわしい。祖谷口にあたる谷山にもおそい春が訪れてきたという。 と谷四にとれ —\J 一庚は・も〉心 阿波池田は、吉野川の上流に位置する山峡の静かな 危のルと難に 歩流一との人 天下の奇勝、大歩危・小歩危 大上ケ美通る 町である。祖谷山へは、そこから吉野川の支流、祖 川ス谷交す 野の渓は旅 谷川の急峻な谷筋をさかのばらなくてはならない。 阿波池田から吉野川をさかのばって高知へ抜ける 危吉そ。て、た おおぼけ 、一つてれ 小引て国かしらその間、十数キロメートルにわたって、四国山地の途中に、「天下の奇勝」大歩危・小歩危がある。池 ノイ 2
高知城ーーー慶長 8 年 ( 16 03 ) 山内一豊によって 築かれた。大高坂山の 山頂に立つ天守閣と追 手門の対照がみごとて ある。 殿といわれている書院付きの建物が残っている。こ ようやく腹包丁にかかる。約四〇度の傾斜を二キ さやじり ロメートル余り、武士たちは刀の鞘尻が地にふれる こから国境の笹ケ峰 ()2 にしまでは昔の道をたど かご ることができる。頂上付近には駕籠立ての跡や茶屋ので、刀を腹のほうへ回して下ったのでこの名がっ っえたて うまたて 跡が残っており、杖立地蔵に出合ってほっとする。 いたという。腹包丁を下りると下付で、馬立川を渡 みずなし 峰を越えても、まだ水無峠・笠取峠の険があり、 って土居に着く。ここには山内家の本陣があり、庄 屋の石川家がその役をつとめていた。藩主はここで 伊予路の夢を結んだ。土居から新宮に至るが、新宮 は銅山川と馬立川の合流点で、阿波への道はここで 分かれる。 新宮の渡しを渡り、横峰 ( 法皇山脈 ) を越えて平 山から東金川へと下ってゆくと展望が開け、川之江 の家並みも近い。町に入って城山南麓の本陣の長野 家で疲れをやすめたのち、川之江港から丸亀または しもっ 備前の下津井へ寄港し、大坂へ向かった。 北山越えは、享保三年 ( ~ し、六代藩主豊隆の参 勤が最初であったといわれ、二月十一日高知発、十 にお 六日讃岐の仁尾着、二泊ののち備前の片上に上陸し ている。道路の整備や荷物の運送に労務者七〇〇〇 人、農民七〇〇〇人が動員されたというから、農村 とよのぶ の負担は大きかった。八代豊敷は宝暦十一一年 (AL\) 三月七日、立川で「くるしくも小屋のかりふきもる 雨にぬれてや民の夜をあかすらん」の歌を残して いるが、農民たちの苦しみがしのばれる。 ようどう 容堂の行列は約七〇〇人の供侍を配したという ぼしん じんしようたい が、戊辰の役では土佐藩の迅衝隊がこの道を越え て征途についた。 ( 山本大 ) ハい、 どうざん はらほうちょう とよたか
新改の大塚古墳跡ーーー 新改川の川岸近くにあ った円墳て、付近の開 拓て破壊され、わずか に畦畔にその姿をとど める。 から川を溯ると、前者は今でも上陸地点としてふさ わしいところであり、それゆえに後世まで「スヱ野 築地ノ内ミチ分」とホノギ ( 小字 ) が残ったよう に、道が通じていたのであろう。 一海路の発達ですたれた南海道 紀貫之が土佐守在任中の頭駅の駅長は、「やぎの やすのり」であった。頭駅は土佐の国府に最も近い ふとう ところにある駅、つまり府頭の駅であるだけに、 「やぎのやすのり」は折々国府に出入りしていたこ とであろう。貫之が任期を終えて都に帰るとき、彼 は餞別をもって国府に出かけたのである。貫之は 『土佐日記』に次のようにしるした。 やぎのやすのりといふひとあり。このひと、く じけ ににかならずしもいひっかふものにもあらざな えられ、吾椅駅は同郡本山町寺家にあったものと思 り。これぞ、たゝはしきゃうにて、むまのはな われるが、具体的な場所は不明である。一方、阿波 むけしたる。 官道に設置され、延暦の新道にもそのままひきつが 八木氏と新改との結びつきは深い。 現在、新改西 れた頭駅は、香美郡土佐山田町新改にあったもの だに 谷の観音堂に平安時代後期の観音・地蔵両菩薩立像 で、『長宗我部地検帳』に「スヱ野築地ノ内」とみ きようほう . える八町一反余の築地にかこまれた新改川沿いの地が安置されているが、享保四年 ( ~ しこれらの像 へいとく と、その南の「ヨ子力内西築地ノ内」がそれにあた を修理した際、地蔵の台座に永徳二年 (&IIII) の修理 やぎやすつな るものであろう。ただ前者は開発されて、現在は銘があり、八木康綱の名が記されていた。この両像 ちょうきゅうじ は、新改にあった長久寺の本尊、阿弥陀如来坐像 「スヱ野築地ノ内ミチ分中ニサネモリッカアリ」と ぜんしようじ みえる「サネモリッカ」Ⅱ新改大塚古墳の跡をとどの脇侍で、もとは善勝寺に祀られていたものであ さん る。平安時代、頭駅と新改川をへだてた谷間に三 めるのみで、築地などはまったく残っていないが、 しようじ しようふくじしようらくじ 後者は築地の一部および築地跡を残している。国府勝寺の名で呼ばれる、善勝寺・勝福寺・勝楽寺が きのつらゆき にし ノノ 6
、、ド專気泰ュを、 松山城ーーー慶長 7 年 ( 16 (2) 加藤嘉明が築城に 着手した。江戸時代は 久松氏の居城てあった。 扇の勾配の高石垣がみ ごとてある。 ばいの建築といえよう。 かんぶんえんぼう 城主の居館は、寛文・延宝 「 ) のころ、城 の西南の海を埋め立てて建築され、浜御殿と呼ばれ むねただ た。幕末、七代藩主宗紀 ( 一六九〇¯) はここに廻遊式 てんしゃえん 庭園を造成し、現在、国指定名勝天赦園として市民 じんでん に親しまれている。城下町は、城南神田川沿いに侍 たて 屋敷を置き、城東地区には、袋町・竪新町・横新 町・本町など一七カ町の町屋敷を造成、寺を外縁部 に配した。第二次世界大戦で戦災を受けたが、詩情 溢れる城下町のたたずまいは昔と変わらない。『鉄 おおわだたてき 道唱歌』の作詞者、詩人大和田建樹 ( 一八五七 5 ) よ、 一九一〇 この町出身であった。 肱川と大きな堀で固めた大洲城跡 おおず 愛媛県の中央部、四国山地から大洲盆地に流入す ひじ る清流肱川の南岸、高さ一一三メートルの小丘陵に平 山城の大洲城跡がある。 とよふさ 鎌倉末期、宇都宮豊房 ( ~ 一贏¯) が喜多郡地域支 破風を両側面にもち、三層は入母屋造りとして、正配の拠点として築いた地蔵ヶ岳城は、宇都宮氏八代 のきから 面と背面に軒唐破風を設け、軒唐破風の初層正面玄にわたっての根城となり、河港にちなんだ地名をも おおづ 関とともに、ひじように優美で安定感を抱かせる。 って大津城と呼ばれるようになる。近世初頭、最初 むらとき 五代藩主村候 ( 一七二五 —九四 ) が鶴島城と命名したのもの大津城主となったのは、喜多・宇和両郡で一六万 えんぶ うなずける。元和偃武から半世紀に及んだ太平の世石に封じられた戸田勝隆であり、池田氏を経て文禄 相を反映してか、この天守閣の破風は、天守の外観四年、藤堂高虎が城主となり、彼が今治城主に転じ わきさかやすはる の装飾となり、弓・鉄砲狭間の設備がなく、石落とてのちは、脇坂安治 ( 一伍五、 ) 父子が城主となっ しは天守のどこにも見当たらない。平和ムードいっ