、、ド專気泰ュを、 松山城ーーー慶長 7 年 ( 16 (2) 加藤嘉明が築城に 着手した。江戸時代は 久松氏の居城てあった。 扇の勾配の高石垣がみ ごとてある。 ばいの建築といえよう。 かんぶんえんぼう 城主の居館は、寛文・延宝 「 ) のころ、城 の西南の海を埋め立てて建築され、浜御殿と呼ばれ むねただ た。幕末、七代藩主宗紀 ( 一六九〇¯) はここに廻遊式 てんしゃえん 庭園を造成し、現在、国指定名勝天赦園として市民 じんでん に親しまれている。城下町は、城南神田川沿いに侍 たて 屋敷を置き、城東地区には、袋町・竪新町・横新 町・本町など一七カ町の町屋敷を造成、寺を外縁部 に配した。第二次世界大戦で戦災を受けたが、詩情 溢れる城下町のたたずまいは昔と変わらない。『鉄 おおわだたてき 道唱歌』の作詞者、詩人大和田建樹 ( 一八五七 5 ) よ、 一九一〇 この町出身であった。 肱川と大きな堀で固めた大洲城跡 おおず 愛媛県の中央部、四国山地から大洲盆地に流入す ひじ る清流肱川の南岸、高さ一一三メートルの小丘陵に平 山城の大洲城跡がある。 とよふさ 鎌倉末期、宇都宮豊房 ( ~ 一贏¯) が喜多郡地域支 破風を両側面にもち、三層は入母屋造りとして、正配の拠点として築いた地蔵ヶ岳城は、宇都宮氏八代 のきから 面と背面に軒唐破風を設け、軒唐破風の初層正面玄にわたっての根城となり、河港にちなんだ地名をも おおづ 関とともに、ひじように優美で安定感を抱かせる。 って大津城と呼ばれるようになる。近世初頭、最初 むらとき 五代藩主村候 ( 一七二五 —九四 ) が鶴島城と命名したのもの大津城主となったのは、喜多・宇和両郡で一六万 えんぶ うなずける。元和偃武から半世紀に及んだ太平の世石に封じられた戸田勝隆であり、池田氏を経て文禄 相を反映してか、この天守閣の破風は、天守の外観四年、藤堂高虎が城主となり、彼が今治城主に転じ わきさかやすはる の装飾となり、弓・鉄砲狭間の設備がなく、石落とてのちは、脇坂安治 ( 一伍五、 ) 父子が城主となっ しは天守のどこにも見当たらない。平和ムードいっ
幕末からの宿屋として、虎屋・岡本屋・紅葉屋・ 左側に、神馬舎がある。大祭奉仕の神馬が飼育され 小島屋・備前屋などが知られ、旅行者の手記にも登ている。 ひしゃ きようわ 参道の両側には無数の燈籠や玉垣があり、全国各 場する。菱屋平七が享和元年 (5) に書いた旅日記 に「丸亀では大黒屋清太夫方に宿をとる。四月一日地からの奉納者の名前が刻まれている。現在、国指 に金毘羅参詣、町は旅籠屋、茶屋多く、丸亀より賑定の重要有形民俗文化財である。参道の途中、旭 さかき やかなところ。小島屋利右衛門の宿に休み、荷物を社・賢木門を経て間もなく、胸突き八丁ともいう本 あずけて宮山に参拝。終えて降りると小島屋では酒社前のかなり急傾斜の石段を上りつめると本殿前に 飯を用意して待っていた。云々」とある。 着く 虎屋の前から本社に達するには七八五段の石段を ここから讃岐富士の美しい姿が目にとびこんでく る。眼下の讃岐の平野には条里制の遺構や用水路が 上る ( = 一 奥はで一 ) 。四季を問わず全国からの参詣者は あとをたたず、金毘羅信仰は根強く民衆の日常の生展開し、遠く瀬一尸内海の島々が見える。 活と結びついている。銅鳥居は初代高松藩主、松平 千両役者が出演した金毘羅大芝居 頼重 ( 徳翹厩圀 ) の寄進である。鳥居をくぐると、町 民に時を知らせる「時太鼓」の楼がある。楼の東に 天保六年 ( 一一し、金毘羅芝居の定小屋 ( 金毘羅大芝 清少納言の塚がある。 居 ) が完成し、こけら落としが行われた。設計は金 大門をくぐると、大きな傘をさして金毘羅飴を売毘羅新町の大工嘉助という者で、大坂の大西座 ( 浪 る「五人百姓」と呼ばれる露天商五人が並んでい 花座 ) をモデルにした。棟梁西屋長兵衛、大工勘助 が建築にたずさわった。金光院では、琴平を信仰の る。天保四年 (IIIIIÄ) の記録によると、善太夫・治郎 太夫・五郎太夫・久太夫・伊八郎という五人が造営中心としてだけではなく、庶民の観光遊覧地として ち み に力をつくした功績により、その子孫が境内で特別 も力をいれ、富くじ・遊女・芸者・金丸座などの保 信 の に営業を許されている。 護政策を進めた。 下 天 その前を過ぎると、少し上り坂の石畳の参道がっ 建築費用は、門前町の「お酌」たちの花代をピン む 望 づき、陽春のころには桜花らんまんの風情をたた はねして積み立てした約一一万両のうちから、約一千を 富 え、桜の馬場と呼ばれている。社務所下の堂々たる両を出費した。完成すると、三月・六月・十月の三 石垣と塀の見える構えが金光院である。あたかも城回、花形役者を呼んで興行した。十月興行は大歌舞 5 み第 , 》郭のような風格さえ感じさせる。社務所前の階段の伎を迎え、三〇日間を興行日数としたが、人気によ 郡家の茶堂跡ーーー参詣 の人たちが、たばこに 火をつけ茶をすすり、 往来の話を語りあう休 憩所だった。 北神苑の高燈籠ー一丸 亀街道終着点の北神苑 にあり、安政 6 年 ( 18 59 ) に建立。日本最高 の高燈籠て有名だ。 ろ
物部川と香長平野ーー - 物部川流域から西にひ ろがる香長平野は、県 下第一の穀倉地帯て、 米のニ期作地てもある。 : - 国 朝野川 「天離る夷辺」と京を結ぶ道 渓谷を行く北山越え ただし阿波国は境土を相接し往還甚だ易し、請う此 険難の南海道と新道「北山越え」 国についてもって道路となすことを」 (&) と土 佐の国司は政府に願い出て、阿波から直接土佐に入 土佐の国府は、長岡郡国府村龕国 ) に置かれてい ひえ た。北に比江・左右の小高い丘陵地帯をひかえ、東る道の開削が認められたのである。 かみとさやまだひらやま と南には香美郡土佐山田町平山に源を発した国分川 阿波から直接土佐に入るこの新道の開削は、それ りようせきがわ が、途中領石川を合わせて、ゆるいカープを描い までの伊予まわりの道にくらべて、都との距離を大 て流れる天然の要害の地を占める国府は、国分川のきく短縮することになったのだが、伊予の国府との 流れを下れば国府の外港大津を経て浦戸湾に至り、 連絡の必要上、伊予まわりの道も官道としてそのま 流れを溯れば陸路阿波や伊予に出るという交通の要ま使用された。新しい官道は、阿波の国府から南下 なかがわ 衝地でもあった。この土佐の国府と都を結ぶ官道をして、那賀川の河口に至り、那賀川を溯って峠を越 南海道と呼んだ。 えて物部川流域を下るもので、下流で香美郡土佐山 しんがい 南海道は、都を出て紀伊から海を渡って淡路・阿田町新改を経て新改川を下って国府に至った。 はた ものべむらえんぎしき 波に至り、讃岐・伊予を経由して幡多郡に入り、東 香美郡物部村に延喜式内社小松神社が鎮座し、神 つうじ 進して土佐の国府に至るものであり、その道のりは 通寺と呼ばれる大寺院が営まれ、同郡香北町に延喜 ちょうじよう おおかわかみびらふ 長く、山谷重畳して険しい道であった。四国をほ式内社大川上美良布神社が鎮座しているのも、この とんど一周するほどの距離をもっこの道は、旅をす阿波経由の新官道と無関係ではない。当時の道は、 る人びとにとってはつらい道のりだったろう。誰よ物部川流域でも那賀川流域でも現在の国道のはるか りもその不便さを感じていたのは、土佐の国司たち上を通っていたし、近世においてもまたそうだっ ようろう だった。養老二年 (Y) 「公私の使直に土佐を指せた。しかし、この道もやがて「南海道の駅路迥遠に うえん ば、その道伊与国を経て行程迂遠、山谷険難なり、 して、使令を通じ難し」といわれ、新道にとってか 土佐山田 い ~ 賀川 - △剣山 土佐 ス紀伊水道 ) 府 0 ・ 前田和男 高知県立高知追 手前高校教論 じん 774
潮流渦まく四国の玄関、鳴門 瀬一尸内海は、周囲を陸地にかこまれた東西に細長 い海である。そこに備讃・芸予・防予の各諸島をは じめ、大小七〇〇余の島が点在する。瀬戸内海は、 その美しいたたずまいによって旅する人の詩情を育 んできたが、そこには自然の与えるめぐみやきびし さの中で懸命に生きる人びとの生活や、長い歴史の いとなみがかくされている。 ところで、瀬戸内海では島々の間の狭い海峡を瀬 なだ 戸と呼び、反対に島の少ない広い海域を灘と呼んで はりま ひうち いる。播磨灘・燧灘・伊予灘などがそれである。瀬 戸は潮の流れも激しく複雑であり、古くから海の難 所として恐れられているところが多い。 鳴門は瀬一尸内海の東の入り口にあたり、内海の播 磨灘と太平洋へひらく海のはざま、紀伊水道をつな ぐ海峡である。海峡の南北では、潮の満ち干が正反 対となるため、狭い海峡に潮の流れがひたおしにお し寄せ、激しい潮流と直径十数メートルにもおよぶ 豪快な渦をまきおこす。「天下の奇勝」として、古 高橋啓 四国女子大 学助教授 ノ 0 イ
はこうして生まれたものであるが、山々で焼かれた 炭もまた、俵につめられて尾根道を伝うのであっ しゆくとこ た。それは宿床と呼ばれた山中の集積所に集めら れ、そこから別子銅山へ運び込まれていった。四国 の尾根道にはそうした賑わいが、鉱山の開発ととも に随所に見られたのである。 木を伐るといえば、炭焼きよりはるかかなたか ら、四国の尾根道を通った人たちがいた。それは紀 ー、伊水道を渡り、瀬戸内を渡ってきた木地師たちであ っ ? 」 0 彼らは惟喬親王を祖神として、近江の国から各地 の深山に良材を求めて、漂泊の旅に出ていた。四国 山中いたる所の奥深く「木地床」と呼び慣わしてき た所がある。彼らはそこにうつげの木を逆さに立て ろくろ て、荒神様におことわりをして轆轤を回したとい う。そうしてできた椀・鉢などを近くの山里に運ん 一では商「ていた。その彼らの漂泊地に、何年かに一 を、を度は故郷近江からの巡国人が訪れて、故郷の消息 をもたらしていた。彼らは愛媛県川之江から別子川 に沿って四国の尾根にたどり着き、吉野川北岸を東 おおず に進んで、高知県高岡郡、伊予大洲あたりに至ってし 反転し、帰路は吉野川南岸を経て阿波祖谷渓に消え ていった。四国の尾根道は木地師の通る道でもあっ た。しかし、山の文化が里に下りるにつれて、海光 る四国路を見下ろす尾根の街道はしだいに忘れられ ていったのである。 これたか きじとこ
璃いの いなければならず、無礼打ちにあうこともあった。 ( 一瑠」たる むや 徳島城と紀淡を渡る大名船旅 寺つあ 雲あも 徳島を起点とした撫養・讃岐・伊予・土佐の街道 瑞が号合 ちょうそがべもとちか てんしよう 雲院泉の併 には、国境あるいはその近くにそれぞれ北泊・大 四国を制覇した長宗我部元親は、天正十三年 ( 五 。一こ瑞光温山に はちすかいえ はくちしし , 、い の日、泉寺 , 、 野山が温楽五 ノ ) 豊臣秀吉に敗れ、阿波一七万五千石は蜂須賀家坂・白地・宍喰の番所が置かれ、取り締まりを行っ まさ いちのみや 光うて安 政に与えられた。家政は一宮城に入ったが、秀吉 たが、徳島の津田番所を含めて五大関所といわれて いのやま えきろ の命により交通の便利な渭山城を修築し、山麓の寺 いる。また街道には旅人の難儀を考えて駅路寺が置 島城もあわせて築城したのである。そして瀧を徳かれた。阿波独特の制度で、慶長 = 一年 (k) 初代藩 ; 世の公神 第中信菅天 島と改め、城も徳島城と呼ぶこととなった。城の繩主家政のときに設置されたが、長谷寺翁市 ) ・安 のぶよし ・野の 張りは家臣の武市信昆らによって行われたが、まず楽寺の町 ) は撫養・讃岐の街道に対応し、伊予街 寺忠縁た 谷常のつる 梅田東あす山上の本丸・二ノ丸・三ノ丸を構築し、家政は天正道には福生寺 (# 町 ) ・長善寺 ()l し・青色寺 (} の武。が称 くるわ 野の営祠と 十三年の暮までに移転した。ついで山麓に屋敷曲輪町佐 野 ) が、土佐街道には梅谷寺市 ) ・打越寺 桑末造の坊 ( 居館 ) 、西ノ丸・藩庁・倉庫などをつくり、内城の 杣河 ) ・円頓寺翁喰 ) が駅路寺と定められた。 体裁を整えたのである。徳島・寺島・福島・住吉 その趣旨は「辺路の輩、或は出家・侍・百姓に寄 にあい 島・常三島・出来島・ひょうたん島を阿波七島と呼らず、行き暮れ一宿相望むにおいては似相の馳走あ んだが、徳島と寺島に重臣を配し、寺島には寺院をるべき事」と定めた掟にあったが、その半面、犯罪 集め、一部に生活必需品を売る町家を置いた。 者や隠密、挙動不審な者を監視する番所の役目もか さんげ ねていた。寺の住職は宿所の主人であるとともに、 御山下と呼ばれた城下町を、凍は福島の潮見寺、 西は佐古の二本松、南は富田 ( 勢見 ) の大岩、北は秘密警察もっとめる大きな権限を与えられていたの 大岡の江西寺の範囲内と定め、のちに寺島にあったである。 びさん て 寺を南の眉山山麓に移転させて寺町をつくった。城徳島藩の参勤交代は、大坂までは海路であった。 郭は維新の際と太平洋戦争の空襲とで破壊されて残徳島城を出た藩主の行列は、ふつう福島に至り、波落 面 っていないが、寺町は今も昔の姿をとどめている。 止場から川御座船に乗り、供侍の乗った船を従えて 水 城から遠ざかるにしたがい下級家臣を配置したが、 渡海用の御座船に向かうのである。千石積の朱塗の の みだいどころ それにしても島々をめぐる水の都であるだけに、相御座船と御召替船、御台所船がそれぞれ一艘あ守 互の連絡は橋と渡し船とによって行われた。城下のり、十反帆の船など総数一一〇—三〇艘の船が出帆し 通行は厳重で、渡し船の中では一般庶民は平伏してたと伝えられている。渡海用の御座船に移る前に船 8
頓証寺殿ーーー悲運の崇 徳上皇が荼毘にふされ 祀られている寺。勅額 門もあり、国の重要文 化財に指定されている。 た。私は東山裾からロープウェーで登った。この山 わが国怪異小説の白眉である上田秋成の『雨月物 は勝山と呼ばれ、意外とふところが深い。ロープウ語』には、この寺での西行法師と崇徳上皇の怨霊と エーの着地点は広場になっていて、みやげ物店がずの出会いの光景がすさまじく描かれている。 らっと並んでいる。たくさんの観光客だ。 その白峰をめざして私は登っていった。山頂への そこからさらに登っていくと、ようやく城壁にた 道はドライプウェーになっていて、じつにきれい すじがねもん どりつく。太鼓門があり、一ノ門・筋鉄門などいく だ。巡る眼下には坂出の塩田も、光る瀬戸内も手に つかの門をくぐっていくと、向こうに天守閣がそびとるように見える。そんな絶好の場所に、大きな白 えている。 亜の保養センターも立っていた。たいへん明るい山 けいちょう よしあき 慶長年間 ( 一伍九六 ) の中 ) 」ろに加藤嘉明が築い だと思っていたら、白峰寺への山門をくぐって、参 たといわれる城だ。天守閣は高い城壁に支えられ、 道へ向かうと、参道はうっそうと繁った松林に包ま その下は鳥しか通えぬ深い雑木林だ。足下に松山のれていて、さきほどまでの展望のきいた明るい雰囲 町が広がり、北に瀬戸内海が一望できる。内海をへ 気とはがらりと変わってくる。裏山の仄暗い静寂さ だてて遠く、中国地方を目に入れることもできる。 の中へと入っていく 。『雨月物語』ではそこをこう 東に道後平野が広がり、石手川の長い堤が見える。 描写している。 そして南には石鎚山系がかすんでいる。子規の句が 松柏は奥深く茂りあひて、青雲のたなびく日す ちごがだけ 脳裡に浮かんでくる。 ら小雨そばふるがごとし。児ケ嶽という嶮しき 南無大師石手の寺よ稲の花 嶽うしろに聳だちて、千仞の谷底より雲霧おひ 石手寺へまわれば春の日くれたり のばれば、まのあたりをもおばっかなきここ地 せらるる。 ちょうかん 上田秋成『雨月物語』の白峰寺 長寛二年 (*l&) の昔、皇位争いの末路として暗 坂出市の五色台はきれいな山だ。標高三〇〇—四殺された崇徳上皇の遺体は、坂出の高照院近くの八 〇〇メートルの熔岩台地で、五つの峰があり、五色十癶で、二一日間、泉に浸されていたが、念願の都 だび の霧のたなびくところからその名がある。北から順へ帰ることもついに許されず、白峰寺で荼毘にふす に黒峰・青峰・黄峰・赤峰・白峰と並び、そしてこ ためにこの道を登ったのである。 しらみねじとん の西の端の白峰に、崇徳上皇を祀ってある白峰寺頓 参道の途中の松林の中には、このあわれな崇徳上 しようじでん 証寺殿がある。 皇の霊を弔う二基の立派な十三重塔がひっそりと立 さかいで みね
南宇和・西海の海辺 深い入江をもつリ アス式海序。急な斜面 の段畑に、みかんが実 3 、 = みを : る。西海の鹿島には野 生の鹿や猿が棲みつく。 ま ~ 毎と小と 来より多くの文人墨客がこの地を訪ねている。 燧灘と安芸灘を分ける来島海峡は、鳴門海峡につ 門れ大とる 、ん 鳴門は渦潮とともに、ワカメ・鳴門鯛など海の幸 ぐ潮流の激しい瀬戸である。この海域は、古来より 潮れ海は 潮いらがてでも知られている。激しい潮の流れはこまやかな海瀬戸内の海上交通の要衝であり、かつ中世の瀬戸内 渦し知渦ん こう・の の激ての結 の味を生みだすといわれる。鳴門はまた、古くから海を制圧した河野・村上水軍の本拠地でもあった。 門は朝一数に 鳴峡渦無も 海にひらいた四国の玄関でもあった。土佐から京都彼らはすぐれた航海術を駆使して、瀬戸の海を自由 きのつらゆき わこうけんみん に帰る紀貫之もこの地で風待ちをしたといわれ、ま に乗りまわしただけでなく、倭寇や遣明船の水夫と た古代の四国路の官道は鳴門を起点にしていた。近して遠く中国沿岸にまで進出した。塩飽衆が船出の むや 世には、藍・塩など阿波の特産物が撫養の港から積とき歌ったという「十七、八が二度候かよ、枯木に み出された。四国遍路や淡路のデコまわしが往来し花が咲き候かよ」ということばには、島の若者たち たのも、この海の道であった。 のみずみずしいエネルギーと海にたくすロマンチシ くつな ズムがあふれているようだ。芸予や塩飽・忽那の 瀬戸の島々に生きる海の男の伝統 島々では、ゝ しまも海運業や海外に雄飛する人が多い 讃岐の屋島山上からの眺めは、おそらく瀬一尸内海という。海に生きる伝統は、瀬戸の島々に脈々と流 だんうらおぎ 屈指のものであろう。源平の古戦場、壇ノ浦や男木れているようだ。 島・女木島などを眼下に、小豆島や備讃の島々が遠 「耕して天に至る」宇和海岸の段畑 く近く緑の宝石をちりばめたように点在する。はる しわく か西方には、塩飽諸島の島影ものぞまれる。塩飽 豊後水道に突き出した佐田岬半島は、「岬十三 は、かって塩飽衆と呼ばれた海の男たちのふるさと里」とも呼ばれ全長五〇キロメートル、最大幅二キ である。 ロメートルという日本一細長い半島である。先端の 瀬一尸内海の中央部にほっかりひらけた広い海域、 岬に立てば、九州の山々がつい目の前にせまる。佐 燧灘は、東西の両水道から流れこむ潮流が出合うと田岬は、四国の西の果てである。 ころである。ここを東行する船は、沿岸で潮待ちを 対岸の九州、佐賀関半島の地蔵岬との間にできた ぶんご はやすい しながら、機をみては豊後水道からの満ち潮に乗っ豊予海峡は、速水瀬戸とも呼ばれ、はげしい潮流と て、いっきに燧灘をおし渡ったという。瀬戸や灘が 岩礁のため海の難所として知られる。半島には小さ 入り組み、潮流の複雑な瀬戸内海に船を進めるに な集落と夏みかんの段畑が点在するが、そこには狭 は、熟達した技術と勘がとりわけ要求された。 い土地にしがみつくようにして生きる人びとのせつ あ し、 くるしま 705 ーー海浜をめぐる潮の美
山へ野置 根内、が 野畿て所 ら道関 ー刀 - オ 跡佐要にた 「を . ・。←を関はう山て ( 佐えか山れ 岩越向根か 室戸岬ーー土佐湾の東 端にあり、岬全体が黒 潮に包まれ、山肌には アコウやウバメガシの 樹林が自生する。 山峠を越えようとして、折柄の吹雪に道を見失い 瀕死の難儀に逢った。京から歩いて三〇日、海路二 五日というところに土佐はあったのである。 峰々には狼が棲み、峰から峰へと仲間と呼びかわ す吠え声は、生きた心地もしない恐ろしさであった。 野根山の麓の鉄砲鍛冶の若嫁は、婆さまがものす ごく飯をたくさん食うので困り切っていた。家のも のをみんな何でも食べてしまう。こちらは夜の野根 山峠、旅の若侍が折あしく産気づいてしまった妻の ため野宿を余儀なくされ、大木の根方に妻を寝かせ、 狼の襲来にそなえてたくさんの木の枝を三方に積み あげ、火を煌々と焚いて妻を守っていた。やがて峰 峰で狼の呼び合う声がおこり、刀を抜いて待っ若侍 の周りにしりじりと寄ってくる。闇の中に数十の青 い炎のような眼が光る。凄い唸り声。この中の頭目 をやつつけなければならない。若侍は必死の思いで その一匹を闇に光る眼の中に探し求めた。中でもひ ときわ青くぎらぎらと輝く、この一匹と思う大きな 狼の眼を目がけて、小刀をますはっしと投げつけた。 ぎやっという獣の悲鳴、さらに大刀をも投げた。嵐 のような騒然とした一瞬、青く燃える炎の眼は消え て闇が残った。 その夜、麓の鉄砲鍛冶の家では血まみれになって 帰った婆さまに大さわぎ。抱きあげて寝かせるが、 やがて息が絶える。そして夜が白々と明けるころ、 婆さまの身体にはごわごわと黒い毛が生えはしめ、 手足は狼の手足になってゆき、やがて年経た狒々狼 の姿になった。 子供のころ、祖母はこういう街道の昔噺をたくさ ん聞かせてくれた。「昔まっこう、たきまっこう、猿 の尻ぎんがり」でおしまいなのである。
室戸岬ーー一四国の東南 端。鋭く太平洋に突き 出した岬。その突端に は、白亜の燈台がはる か蒼い水平線をにらん て立つ。 か一ま る。段畑は、ひたいに汗して働く農民のつくりだし 冖」 1 毋ノ・こ 山湾石の望 た芸術品である。かっては麦とさつまいもが中心で 音毛岩然眺 観宿な自の ・ら大。美あった段畑も、いまはみかん栽培にきりかわってい 岸か雄く形 海岬はづ造 る。波静かな宇和海を背景に、たわわに実るみかん 堂摺てつる 大足けがざ が、段畑にあざやかなしま模様を描く風景は、この 地方の秋をいろどる風物詩でもある。 さいはての岬、足摺岬・室戸岬 瀬戸内海のおだやかな美しさに対して、南四国の 海はたけだけしく男性的である。 つくもなだ 九十九洋と呼ばれた土佐湾は、弓なりにつらなる ないまでのいとなみがうかがえる。 雄大な海岸線をもっている。沖には黒潮が流れ、南 南予の宇和海沿岸は、沈降性のリアス式海岸であのかなたに太平洋が果てしなくひろがる。土佐湾の る。そのため、いたるところに深く切れこんだ入江中央部に切れこんだ浦一尸湾は、古代以来、畿内と土 佐をむすんだ海の道の終着地でもあった。その先 がひらけ、屈曲にとんだ美しい海岸線をもってい かつらはま る。この地方で目を奪うのは、海岸に沿ってひらか 端、桂浜は「月の名所」と歌われた風光明媚な海 のれたみごとな段畑である。海岸の急斜面を、石垣を岸であり、幕末の先覚者坂本龍馬の像が太平洋の荒 めぐらせた段畑が幾重ものしま模様をきざみなが波に向かっている。 土佐はよい国南をうけて ら、頂上までつづいている。ところによっては、高 あらし 「よさこ さ二〇〇メートルに達するところもある。 薩摩嵐がそよそよと ( 幕末の政情とからめて、南の薩摩から海を越えて 段畑は瀬戸内海の景観を特徴づけるものである が、宇和海沿岸のそれはまさに「耕して天に至る」襲ってくる「あらし」を心地よいそよ風になぞらえ あお の形容がびったりであり、圧巻だ。宇和海の蒼い海て歌ったものである。豪放な土佐の海とそこに生き に段畑の映える風景は美しい。段畑はこの地方の農る土佐人の心意気を示しているようだ。 や 南四国の男性的な海を代表するのは、土佐湾の両 民が生きるために、痩せた狭い土地をコッコッと切 むろと りひらき、長い年月をかけて築きあげたものであ端から大きく太平洋に突き出した足摺岬と室戸岬で 4 あしずり