まさき 徳川方に尽くした勲功により、松前七万石から伊予晴らしさを物語っている。 かとうよしあき 松山や秋より高き天主閣 ( 子規 ) 松山城が誇る第二は、広壮な天守閣である。創建 ) が、慶長七 5 八年に松山平野のほば中央に位 しようほう かつやま 置する独立丘陵勝山 (L 」←メ ) に、二〇万石の貫禄当初、五層五重であった大天守閣は、正保二年 (41( にふさわしく新たに築き上げた近世城郭である。寛し、松平定行によって三層三重地階付に改築。と てんめい がもうただちか ころが天明四年 ( ←し元旦の落雷によって全天守閣 え四年 ( 一一 0 、加藤氏のあと入城した蒲生忠知 (8{ あんせい による二ノ丸完成で築城は完了。寛永十二 が焼亡。焼失後七〇年経過した安政元年 (l し、慶 年、それまで外様大名で占められていた中国・四国長ごろの様式により再建。したがって現在の大天守 ふしよく 地域に徳川の勢力を扶植する先鋒として、家康の異は、全国近世天守閣のうち最新の建築といえる。な さだゆき 一五六〇 5 父弟松平定勝 ( 一六二四 ) の子定行 ( 一 ん砒が松山お、大天守を除く天守閣のすべての建物は、昭和八 一五万石に入封し、以後廃藩まで一四代にわたって年怪火により焼失したが、昭和四十三年、復元落成 した。 松平氏が城主となり、松山城は親藩歴代の城とし この天守閣は姫路城天守閣とともに、近世城郭の て、瀬戸内中央地域に威容を誇った。 松山城の素晴らしさの第一は、全国屈指のその高最高度に発達した連立式天守閣である。本壇の中央 さにある。天守閣の立っ約一ヘクタールの広さの本に立った地階付三層三重の大天守閣と、その南隣の 丸は、もともと南北両峰の山頂を削って間の谷を埋二層二重の小天守閣、両天守の西側に立っ南・北両 め、短冊型の平坦面を造成し、周囲に高さ一〇—一隅櫓、それら四基の櫓を連絡する多聞櫓・十間廊下 五メートルの石垣をめぐらしたもの。本丸の西北部などの渡櫓から成り、中庭を囲んで立ち並ぶ各々の 建物は、石落とし・鉄砲狭間・矢狭間の俯射装置を に築かれ、城の中核となっている本壇っ籬北五四 こは、さらに高さ八 5 一四メートルの石垣を完備し、太鼓壁とともに戦う天守閣の姿が見受けら 築き、その上に高さ二〇メートルの大天守閣を建てれる。本丸には、天守閣のほかに重要文化財とし ているから、城下から仰ぎ見る城の高さは一六〇メて、乾櫓・野原櫓のほか四つの門櫓、七つの門 ートルをこえる。城山をめぐる松山市街の各所はも七つの門塀が国から指定され、近年復興再建された ちろん、松山平野の各地から、西方に広がる伊予灘筒井門・同東西続櫓、太鼓門・同続櫓、太鼓櫓、天 の海面から、城の高い石垣とその上にそびえる天守神櫓などの諸建築とあわせ、四国の他城にくらべ質 閣を望見できる。このことは天守閣からの眺望の素量ともにすぐれた城である。 大洲本町の町並み 肱川筋と並行する東西 に走る通り。旧城下町 の中心街てあり、城下 の香りが今に漂っ。 かん 2
、恥蠱第叫 高松城ーー海潮の寄せ る石垣上に立っ月見櫓 ( 出入り船を監視する 着見櫓 ) ・続櫓 ( 中央 ) ・ 水手門 ( 手前。海側の 大手門 ) を望む。 第を ち、二ノ丸は本丸の北東にあり、高さ九メートルの 石垣に囲まれ、東西一二六メートル・南北一一三メ ートル、城主邸と六櫓が立っていた。本丸・二ノ丸 の周囲には、内回り外周一キロメートル余、幅五四 メートルの広い内堀がめぐらされていて、海上の浮 城という感じがする。上級侍屋敷・櫓・門のあった 三ノ丸は、内堀の周辺にあり、幅三六メートル余、 外周二・四キロメートルに及ぶ三ノ丸堀で囲まれ、 この堀の北東隅には、海城にふさわしく舟入りが掘 り込まれ、御船蔵の施設があった。三ノ丸の外側に は下級侍屋敷があり、幅約一五—三一メートル、外 周三・六キロメートルの辰ノロ堀で囲んでいた。城 の櫓数一一三、門数九。明治初年すべて破壊され、現 在本丸・二ノ丸の城塁と内堀を残すだけである。 慶長の築城の際の建立とみられる五重の天守閣 は、同十三年 (8 し、伊賀・伊勢両国へ転封した藤 堂高虎が、翌々年、丹波国亀山城修築に当たり、城 主園部長盛に寄贈したので、解体され、当城から姿 を消した。寛永十二年 ( 一一 0 、藤堂氏の後を受け さだふさ て、松山城主松平定行の弟定房 ( 3 ¯) が三万五 千石で今治に入部し、以後廃藩まで一〇代にわたっ ート造りの天守閣が、本丸跡に再建された。 て松平氏が城主となった。御親藩のゆえか、小身の 城下町人町は、東西約三二七メートル・南北約四 大名でありながら城持ちを許されたが、天守閣の再三六メートルの方形をなし、城北地区に建設され 建など思いもよらなかった。ついに「幻の天守閣」 た。町の中央は二ノ丸辰ノロ門につづく本町で、本 かざはやなかはまかたはら に終わった。昭和五十五年、幻が現実となって、五町と平行に海岸方向へ風早・中浜・片原の三町、内 こめやむろ 層六重、地上から高さ三一メートルの鉄筋コンクリ 陸方向へ米屋・室の二町がならんでいた。このほか 近世城郭史に残る四つの天守閣 近世初頭、四国に建設された高松・丸亀・今治・松 山・大洲・宇和島・高知・徳島のいわゆる四国八城に は、それぞれ天守閣が建てられていた。現存している のは、丸亀・宇和島・高知・松山の平山城に建てられ た四天守閣で、全国にある近世建築の天守閣一二のう ち、三分の一を占めている。丸亀・宇和島が近世前 期、高知が近世中期、松山が近世後期にそれぞれ再建 されたものである。おもしろいことに、遅れて再建さ れた天守閣に古い建築様式がみられ、早い時期に建造 されたものほど新しい建築様式がうかがえるのは皮肉 である。 戦国期の面影を残す高知城の望楼式天守閣、近世初 頭の城郭建築の最高度に発達した松山城の連立式天守 閣は、戦う天守閣の姿を示している。近世前期の平和 な時代相を反映した丸亀・宇和島両城の独立式天守閣 は、いずれも小規模で、小型天守として国内で一、二 を争うくらい いずれもこぢんまりとまとまって美し 。後者は防御設備が少なく、まったく装飾的建造物 となり、戦えない天守閣の姿を示している。 ( 田中歳雄 ) 8
ーをまお ィを一、み第 とみたのぶたか に移り、代わって富田信高 ( 生不詳 ) が板島城主と げんな なったが改易となり、元和元年 (; し、伊達政宗 一五六七— ) の長子秀宗 ( (¯) が宇和郡一〇万石 の領主となり入城した。板島の地名が、宇和の郡名 と組み合わせた宇和島に改められたのはこのころと みられる。 当時の城の構えは、『宇和島・吉田藩誌』による と、天守閣は土台より高さ七間、本丸・二ノ丸・三 くるわ ものさま ノ丸より成り、曲輪まわり一六町、物狭間数一〇〇 こうじ 五、丸之内小路一三町、櫓数三五、城内外番所二〇 カ所、門数一〇とあり、城は平山城で不等辺五角形 の平面、北と西の二辺は海、南から東にかけての三 辺は潮入りの城堀をめぐらし、水際城の特色を発揮 していた。 現在、城堀はほとんど埋められ、建物は 天守閣と上り立ち門を残すだけとなったが、本丸は じめ城山にある各曲輪の跡・城塁・石垣などほば完 全に残っていて、昔をしのぶことができる。 現存する国指定重要文化財の天守閣は、一一代藩主 だてむねとし かんぶん 伊達宗利 ( ~ も ) が、寛文四年 (*l({) から七年に かけて建立した独立式天守閣であり、切り込みハギ ぬりごめ のきれいな石垣の上に総塗籠造り三層三重。土台か ら棟までの高さ一五・八メートル、天守としては小 型のほうで、初層は約一一メートル四方、一層ごと に約二メートル逓減する層塔風の建築である。初層閣 守 ちどりはふ には千鳥破風を正面と背面に二個ずつ、西側に一個 をもち、二層にも千鳥破風一個を正面と背面に、唐
宇和島の流れ一一詩情 豊かな町の、落ち着き を見せる姿てある。 の須賀川河畔には、夏 祭りて名高い和霊神社 が立っている。 さだやす こよノらん 脇坂転封ののち、加藤貞泰 ( 一五八〇 5 一六一一三 ) か大洲六万に台所櫓、南に高欄櫓があり、いずれも天守と渡櫓 石の城主となり、廃藩まで一三代にわたって治封。 でつながれ、複連結式天守閣になっていた。城山の 大津城が近世城郭として建設整備されたのは、藤中腹には、南東から北西にかけて本丸を囲み、西側 一五九六 から南側にかけて幅一八メートル余の内堀をめぐら 堂・脇坂両氏が城主のころ、慶長年 ( 一 おわた みられる。なお、大津の城名が大洲と改称されたのした二ノ丸 (#I,I 一メートル余 ・ ) があり、苧綿櫓な まんじ は、万治元年 (l しころからである。 ど七つの櫓と数個の小門があった。南から西へ本 かんえい 寛永四年 ( 一しころのこの城の状況は、南北五四丸・二ノ丸を囲んだ三ノ丸翁晒〇八メート ~ 余・ ) は、 メートル、東西三六メートル余の広さの山上の本丸平地で東と西に幅二七メートル余の外堀をめぐら の、西南の隅に四層四重の天守閣が立ち、天守の東し、南隅櫓ほか数個の隅櫓や門が立ち、大部分が侍 屋敷となっていた。肱川と城山の地形をたくみに利 用し、石垣と大きな城堀で固めたうえでの築城は、 小規模ながら要害堅固といえよう。 天守閣はじめ櫓・門の多くは、明治初年に取り壊 され、現在、国指定重要文化財の台所・高欄・苧 綿・三ノ丸南隅の四櫓などが残っているにすぎな 。このうち肱川畔に立っ苧綿櫓の姿は、水郷の興 趣をそそる。 大洲城下町は、城の北東部肱川南岸沿いにならぶ 本・中・裏 ( 末広 ) の三町とそれと直交する塩 ( 志 保 ) 町などからなり、戦災を受けない近世以来の古 い町並みは、川霧の立ちこめる肱川の清流に洗われ落 とみすやま て、町の対岸の富士山の麗姿とあわせ、山紫水明の面 「伊予の小京都」と呼ばれている。 、いべ親藩一五万石の威容を誇る松山城 松山城は、慶長五年 (&S) の関ヶ原の戦に際し、 彡 /
0 ーみ、をい朝第、 ; 、当 . ら′をゞは第 丸亀城石垣ーー一本丸を 囲む、「扇の勾配」と呼 ばれる石組みて築かれ た高石垣 ( 最高 21 . 6 メ ートル ) の姿は壮観て ある。 きようごくたかかず に鍛冶屋町・塩屋町が置かれた。城下町人が綿替資元年京極高和九 ) が六万石で入封、廃藩まで 本となって今治領内で製織された白木綿は、近代に七代にわたって城主となった。 入って綿ネル・タオル工業へ推移し、綿工業都市と 京極氏最盛時、城の建物は櫓一一一 ( 天守を含む ) 、 して今治市が発展し、城下町の面影は、城跡にかす御館御屋敷五、門八、番所六などがあったが、現在 日 ) 以上国指定 かに残っているにすぎない は天守閣・大手一ノ門・同二ノ 目ー重要文化財 ) ・御殿 長門・番所・長屋などが残っているにすぎない。 ニ〇年の歳月を費やした丸亀城 東西四一メートル・ 亀山の頂上の本丸 ( 南北四九メートル ) の北寄りに立 讃岐平野の西部、内海に臨む標高六六メートルの っ天守閣は、東西一〇メートル余・南北九メートル かめやま まるがめ の基礎の上に立っ三層三重の総塗籠造りの建物で、 小丘陵亀山 ( る 亀の形して ;) に丸亀城が立ち、その北 方平地に丸亀城下町が連なる。丸亀城は、讃岐一七近世建築天守閣一二のうち最小である。しかし、北 こまちかまさ 万石の領主に封じられた駒親正 ( 一「 ) が西讃方城下町から真正面に見える東西側の最上層には、 の押さえとして、高松城の支城を、慶長二年から五入母屋造りの屋根をつけ、格子付きの大窓を開き、 カ年をかけて築城したことにはじまる。寛永十七年二重目には唐破風をつけるなど工夫し、城下町から やまざきいえはる 仰視したところ、小さいながらもみごとな石垣の景 ' ) 、生駒氏改易、翌年、山崎家治 ( 一五九四 一六四八カ 西讃五万三千石の領主として入城し、元和一国一城観とあわせて堂々とした感じを受ける。 令で廃城となっていたものを修築して居城とした。 城北に広がる城下町は、生駒氏以来の古町に、山 寛永十九年再建に着手、老臣たちが分不相応として崎氏時代に造成された新町が加わり、京極氏時代に 諫止したと伝えられるくらいの大工事は、小藩の財は城の大手が南から北の城下町方向に移されたこと 力を尽くしてえんえんとつづけられた。 も手伝って、本格的な発展をみることになる。 て 再建は普請を主として進められ、無数の花崗岩の ーレ 船上からのぞむ高松城と城下 切石を、切り込みハギの手法で、扇の勾配と呼ばれ 面 亠ハメートルに た曲線を描いた石垣 ( 高いところは二一 本州・四国連絡船の船上から、南方海岸に浮城と 水 たまも 達する ) が、本丸・二ノ丸・三ノ丸と三段にえんえ も見まがう高松城 ( 玉藻城 ) と、その背後に広がる の らせん んと築きあげられた。螺旋式繩張りによる築城と天高松城下町が望見される。高松城は、天正十五年守 まんじ 天 守閣が完成したのは、着工一一〇年後の万治三年 (*L ( ←し、讃岐国一七万余石に封じられた生駒親正 8 0 であった。その間、山崎氏は三代で断絶。万治が、香東郡箆原荘に城地を選定し、その名も高松と のはら
松山城ーー桜の名所て、 小天守閣・多聞櫓など は昭和 43 年の再建だが、 往時の優雅さを失って し、なし、。 ノ 5
′今治城天守閣ー - 慶長 年問の藤堂高虎創建の 天守閣に模して本丸に 昭和 55 年再建された五 層六重の新天守閣。 簽ま專まきををい 第三に城地の広大なことがこの城の一大特色であ 名月や伊予の松山一万戸 ( 子規 ) ( 虚子 ) る。本丸につづいて勝山の西南山腹に石垣をめぐら 城山の鶯来啼く士族町 した面積一・六ヘクタール余のほば正方形の台地 第二次世界大戦の戦災で旧城下町はほとんど焼失 に、二ノ丸が造成され、藩主邸・門・櫓が築かれてしたが、広葉常緑樹林に覆われた城山とその頂にそ いた。三ノ丸は西南山裾につづく約九・八ヘクター びえる天守閣は、それを取り囲んだ新市街に、城下 ルの平地に藩主邸・藩庁・侍屋敷が建てられ、総延町の風情を存分に漂わせている。 長一二三八メートル余の字型堀をめぐらしてい 藤堂高虎の傑作〃海城み今治城 た。このほか勝山の北山裾に六三アールの北ノ郭、 くるしま 東南の山腹に二・六ヘクタールの東ノ郭があり、こ 瀬戸内海の中央部、渦潮逆巻く来島海峡の南にひ いま学・り れら面積を合計すると松山城創建当初の城地総面積ろがる今治平野に今治城とその城下町がある。慶長 は、二五・七八ヘクタールにも及んでいたことにな五年、関ヶ原の戦功により、板島八万石から伊予半 こくぶやま る。このほか東ノ郭の補強のための一六五メートル国二〇万石に加増され、国分山城 ( 黔市 ) に入城し の外堀もあった。 た海将藤堂高虎は、城地を不適とみて、来島海峡に い・まばり 松山城築城と同時に、加藤嘉明によって、城西に近く、芸予諸島と高繩半島を支配する適地今張の浦 こまち くらしき と呼ばれていた蔵敷村の海辺に、慶長七年から同九 古町三〇町が建設され、元禄 ( 5 ¯) のころには 外巡町一一三町・水呑町一八町が造成され、計七一町年九月にかけて新たに石高にふさわしい平城を築 からなる城下町となった。美しくて優しい山野、海き、蔵敷と北隣の今治の両村の一部に家中屋敷を、 の風光と、瀬戸内の温暖な気候風土に恵まれた城下今治村の一部に町人町を建設し、今治の古地名に改 町には、早くから藩士・町人のうちに文芸愛好の風めた。 て 尚が生まれ、明治に入って俳句の革新運動を起こし 築城の名手とうたわれ、さきに板島丸串城を築い たかはまきよし まさおかしき た経験をもっ藤堂高虎がもくろんだ繩張りは、海水落 た正岡子規 ( をはじめ、高浜虚子 ( かわひがしへきごどう ないとうめいせつ とつながり海水を存分に活用した三重の堀に囲まれ面 九 ) ・河東碧梧桐 ( ~ ) ・内藤鳴雪 (l ゃなぎはらきよくどう た海城の特色をもっている。城域の中央に、小砂堆影 ) ・柳原極堂 ( 贏¯) ら旧松山藩士出身の俳 人が数多く輩出した。 吹揚・美須賀城の捌称 ) を利用した本丸があり、東西七守 七メートル・南北七五メートルで、高さ一四メート 城下をうたった名句あげると 春や昔十五万石の城下哉 ( 子規 ) ル余の石垣に囲まれ、五重の天守閣と櫓四つが立
、、ド專気泰ュを、 松山城ーーー慶長 7 年 ( 16 (2) 加藤嘉明が築城に 着手した。江戸時代は 久松氏の居城てあった。 扇の勾配の高石垣がみ ごとてある。 ばいの建築といえよう。 かんぶんえんぼう 城主の居館は、寛文・延宝 「 ) のころ、城 の西南の海を埋め立てて建築され、浜御殿と呼ばれ むねただ た。幕末、七代藩主宗紀 ( 一六九〇¯) はここに廻遊式 てんしゃえん 庭園を造成し、現在、国指定名勝天赦園として市民 じんでん に親しまれている。城下町は、城南神田川沿いに侍 たて 屋敷を置き、城東地区には、袋町・竪新町・横新 町・本町など一七カ町の町屋敷を造成、寺を外縁部 に配した。第二次世界大戦で戦災を受けたが、詩情 溢れる城下町のたたずまいは昔と変わらない。『鉄 おおわだたてき 道唱歌』の作詞者、詩人大和田建樹 ( 一八五七 5 ) よ、 一九一〇 この町出身であった。 肱川と大きな堀で固めた大洲城跡 おおず 愛媛県の中央部、四国山地から大洲盆地に流入す ひじ る清流肱川の南岸、高さ一一三メートルの小丘陵に平 山城の大洲城跡がある。 とよふさ 鎌倉末期、宇都宮豊房 ( ~ 一贏¯) が喜多郡地域支 破風を両側面にもち、三層は入母屋造りとして、正配の拠点として築いた地蔵ヶ岳城は、宇都宮氏八代 のきから 面と背面に軒唐破風を設け、軒唐破風の初層正面玄にわたっての根城となり、河港にちなんだ地名をも おおづ 関とともに、ひじように優美で安定感を抱かせる。 って大津城と呼ばれるようになる。近世初頭、最初 むらとき 五代藩主村候 ( 一七二五 —九四 ) が鶴島城と命名したのもの大津城主となったのは、喜多・宇和両郡で一六万 えんぶ うなずける。元和偃武から半世紀に及んだ太平の世石に封じられた戸田勝隆であり、池田氏を経て文禄 相を反映してか、この天守閣の破風は、天守の外観四年、藤堂高虎が城主となり、彼が今治城主に転じ わきさかやすはる の装飾となり、弓・鉄砲狭間の設備がなく、石落とてのちは、脇坂安治 ( 一伍五、 ) 父子が城主となっ しは天守のどこにも見当たらない。平和ムードいっ
天守閣の影・水面に落として田中歳雄 山本大 四国八城と城下町 - 伊 ~ しは が美備 ル又 0 ニ - 一口 五角形の平山城、宇和島の鶴島城 閣宗たの 守主い装 う・わかい 一 ( 天藩築武い 四国の西南部を縁どる宇和海の、リアス式海岸の 城代 ( にはな 一に。れ 和氏年姿ら中央部東へ深く湾入した宇和島湾頭、標高一〇〇〇 宇達文い見 メートル級の鬼ケ城山系の西麓、緑濃い亜熱帯の樹 叢に覆われた高さ八〇メートルの城山に、白亜の天 守閣が姿を見せ、城山を囲んで落ち着いたムードの 城下町宇和島が展開する。 いたしままるくし つるしま うわじま 鶴島城 ( 宇和島城 ) は、戦国期、板島丸串城と呼 ばれ、土豪たちの居城であったが、天正十三年 ( 五 こばやかわたかかげ による伊予平定から一尸田 し、小早川隆景 (—魎」 勝隆 ( 生年不酵—) 所領のころにかけては、番城程度に すぎなかった。この城が近世城郭の規模を備え始め とうどう たのは、当代きっての築城の名手とうたわれた藤堂 たかとら ぶんろく 高虎 ( 一 6 ) が、文禄四年 (l し、宇和郡のうち けいちょう 七万石の領主として入部し、本城と定め、慶長元 年 (k) から同六年にかけて、城堀・石垣・天守 やぐら 閣・櫓などの構築にとりかかってからである。慶 長五年には、関ヶ原の戦功により二〇万石に増封さ れた高虎は、同十三年にはみずから築城した今治城 大州ーーイ尹予の西、四 方を山て囲まれ、肱川 沿いに開けた加藤氏 6 万石の城下町。「伊予の 小京都」と呼ばれる。 高知大学名誉教授
観音寺・琴弾公園 砂て作られた「寛永通 宝」の珍しい銭形て、 丸亀藩主生駒氏の巡視 を歓迎して一夜て造っ たという。 讃岐平野ーー讃岐には 大きな川がなく、雨も 少なく、人々は水利に 苦しみ、大きな溜池が あちこちに造られた。 丸亀城ーー慶長 2 年 ( 15 97 ) 生駒親正が築城。 江戸時代は京極氏の居 城て、美しい天守閣が 高い石垣の上に聳える。