高知市遠望ーー五台山 より望む。右の川は国を、、 分川、左は鏡川。町は、 鏡川のデルタ地帯に山 内一豊によって設営さ れた。 山本大 自由民権の雄叫び近代の曙光を追「て るような情勢になってきたため、四国会議の意義が 「四国会議」中止の背景 うすれてきたのである。結局、土佐の片岡健吉と谷 ぼしん かんじよう 鳥羽伏見の戦に端を発した戊辰の役は、薩長両藩干城は明治三年七月、東京からの帰途琴平に寄 を主力とする官軍の勝利に終わり、明治新政府が樹 り、藩の財政難を理由に会議の解散案を提出した。 立されることになったが、維新の原動力となった薩議論の末、九月二十三日廃止と決定した。廃止され 長の勢力は強く、藩閥専制権力が強化されることは たものの、公論の尊重、自由民権への路線が示され 必至であった。薩長とともに新政府樹立の一翼を担たという点で会議の意義は認められるであろう。 った土佐藩は、この情勢をみて、発一一一一口力を高め、事 「自由は土佐の山間より出づ」 態を有利に展開しようとして策をねった。それに は、まず四国一三藩の諸藩が一つにまとまって総力 青い空青い山青い海ここに若さと自由が を結集することが必要だと判断された。この意識の ある。明治七年高知に誕生した立志社は、この もとに、土佐藩の首唱で明治二年二月から三月にか 大自然を象徴して自由民権の理想を掲げ、日本 けて各藩への遊説が行われ、同意を得たのである。 近代化のために先駆した。「自由は土佐の山間 会議は丸亀で行われたが、第二回以後は琴平で行 より出づ」といわれた往年を懐想して、わたし われた。議題は公議人の担当事務、近路および海賊 たちは碑前に若さと自由をたたえよう。 の取り締まり、常備兵に関する事項、廃刀令公布の これは高知のはりまや橋の西、中央公園の東入り 上申、廃藩置県、廃仏・徒刑について、徳島藩の稲口に立っている立志社跡の碑文である。 田騒動の鎮撫や別子銅山および藩の境界に関するこ 明治六年十月、「征韓論」にやぶれて下野した板 となど、多様であった。反響は大きかったが、やが 垣退助・後藤象二郎らは翌年一月、愛国公党をつく て廃藩置県による中央集権的な郡県制度が施行されり、民選議院設立建白書を左院に提出したがいれら 高知大学名誉教授 かか 76 イ
メを : いンを当 「鰹節づくり」の図 土佐の鰹釣りは『延喜心・ 式』にもみえるほど歴 史は古い。この鰹節の 風味も、加工法の改良 を重ねたたまものだ。 土佐清水の鰹節加工場 近世初頭、紀州の / 魚師甚太郎が漂着し、 一本釣 / 魚法と鰹節製法 が伝えられ、今ては土 佐が本場となっている。 西条奉書は、もともとその技術を隣の小松藩から 阿淡を結ぶ道 導入した。一八世紀後半から、藩は紙方役所を設け ふくら て積極的に奨励し、良質の奉書は版画用として高価 淡路から四国への窓口、それは福良の港である。仁 に引き取られたので、藩財政を潤した。大洲半紙 治四年 ( 四に高野山の道範が、配流地の讃岐に下 たきのくち こうぞ るとき、淡路の岩屋から炉口まで船で、そこから国 も、藩の奨励で、明和八年 (\) に楮役所 + ) と が 衙を経て福良に三日間逗留したあと阿波に渡ってい 紙役所 ( 0 を置き、製品を納めさせて専売制を実 おうにん る。応仁の乱のころ、淡路の兵はたびたび畿内に出撃 施した。宇和島仙花紙は、戦国時代にはじまり、享 かみすき したが、このころ淡路は阿波の細川・三好の勢力圏に 保十八年 ( 一・しの記録では領内の紙漉業者約九〇〇 あったので、淡路の陸路はよく利用されていた。元和 人、藩納額四〇〇〇束となっている。文化年間から 元年 ( 一 ) 、蜂須賀至鎮が淡路を領有したので、徳 専売制とし、藩財政に重要な位置を占めた。しか 島藩政下にすつほり包み込まれた。 こうして阿淡の交流は深まっていったが、とくに支 し、その後は洋紙に押され、いまでは川之江市や三 城を置いた洲本の城下町と、阿波からの玄関福良との 島市で、洋紙だけが大量に生産されている。 いちむら 主要な動脈だった市村街道は、さまざまな歴史が刻み 製塩も伊予を代表する産業であった。まず波止浜 てんな 込まれている。三原平野の市村で起こった人形芝居 の塩田が天和三年 ( 一六 ) 八三から開発され、元禄十六年 も、この街道を通って阿波にもたらされたし、明治三 一七 ) には三八隻の塩船が、その積み出しを行って 年の稲田騒動という悲劇的事件のとき、徳島藩の兵隊 ほ、つえい いた。多喜浜塩田は宝永元年 (8\) に着工、西条藩 は、洲本の稲田家臣たちを襲撃するが、このときも、 の有力な産業となったが、い この街道が使われた。い ま塩田は見る影もな ま、当時をしのぶ松並木がな いのは残念というほかはない。 土佐ーー鰹と鯨に紙と木材 る。その後は隆盛に向かったが、『山内家文書』に 長い海岸線をもっ土佐湾の漁業と、広大な四国山よると、天保七年 (ß15) の漁獲高約一三〇万本、四 地の南斜面に展開した林業は、土佐産業の代表とな年後の同十一年には一九〇万本と記録されている。 っている。まず漁業では鰹の一本釣りと、豪快な捕その大半は鰹節に加工されて、有名な土佐節として 鯨の活躍が土佐らしい 藩外に積み出され、藩もその発展に力を入れた。そ 鰹の一本釣りは、土佐漁業の花である。この漁法の中心は宇佐と土佐清水で、生産はいまもますます は近世初頭の、紀州の甚太郎という漁夫を元祖とす盛大をきわめている。 にん 、」く 75 イ
愛に所子っ 県カ別あ 田 7 ちて 坑秋、う在 喜はての存 歓産ん山な 山銅盛銅的 銅のての表 子県いど代 〔友 . 入ま リ十 / ロカ・カメ、 / ー・レ 論、ツ・ ~ を さきやましゅう 後を継いだのが大川郡湊村翁鳥 ) の素封家向山周 讃岐三白ーー塩・綿・砂糖の由来 慶だった。この周慶が急病で苦しんでいる四国遍路 近世の讃岐の産物といえば、塩・綿・砂糖の讃岐を助けたので、その遍路は恩返しに薩摩の良質苗を さんばく きようわ 三白で知られる。そのほかに白い産物としての米周慶に届けた。こうして享和三年 (8 ノ ) 、研究成果 てんぼう は、讃岐米として良質の誉れ高いが、讃岐は川浅く がみのって白糖の製造を完成した。その後、天保六 よりひろ 水も乏しいので常水の川は一つもないと、『高松藩年 ( 一一しに高松藩九代藩主松平頼恕は、保護奨励に かえいあんせい 記』に記されているように、讃岐の農民は干害に苦乗り出し、幕末の嘉永・安政期 ( —六〇 一八四八 ) にはピー 朝しめられた。まさに水を得るたたかいは宿命的ですクとなった。明治維新後には讃岐志度製糖場や高松 らあった。そのたたかいの中から、良質米を生み出砂糖会社を、また明治十七年には讃岐糖業大会社を していった。 設立し、その発展に努力したが、外糖の大量輸入に こまたかとし かんえい 寛永五年 ( 一一 0 に高松藩主駒高俊に招かれた西よって讃岐の糖業も衰退し、明治二十九年には民間 島八兵衛は、その特技を生かして九〇に余る溜池をの砂糖会社も解散し、讃岐白糖は大きく後退してい っ , 」 0 築造し、新田開発の基盤を整えていった。こうして 讃岐に二人の異才が出ている。平賀源内と久米栄 讃岐米は評価を高めていくのだが、農家の耕地保有 面積は狭小で、小作の比率が八〇パーセントを占め左衛門である。源内は別として栄左衛門は讃岐地図 さかいで るようになり、西讃の丸亀藩や多度津藩では、寛延の作成と各種兵器の発明で知られ、坂出塩田も彼に 三年 (18) に大一揆が起こり、小豆島でもたびたびよって開発された。一九世紀はじめの高松藩は財政 危機の時代で、その克服は急務であった。そんなと 一揆が発生している。 明治末期から大正期にかけては、二五件におよぶき藩主頼恕は栄左衛門を重用し、塩田の開発を命 月イ争議が、また大正末期から昭和初期には三〇〇じ、彼は文政九年 ( 一「 ) に着工し、潮止めの難工事 件もの訴訟事件が起こるなど、米づくりの農民の生を克服して、同十三年に完成、その面積は一三一町 余であった。その後、曲折を経ながら、坂出塩田は 活はたいへんであった。 よりたか 日本一の生産量を誇るに至ったが、いまは塩田の転 砂糖は高松藩の五代藩主松平頼恭が、窮乏化した ばんす 藩財政建て直しの一環として、領内に栽培をはじめ用がすすみ、番ノ洲工業地帯など、近代産業の中核 に転身を遂げつつある。 たといわれる。頼恭は研究を藩医の池田玄丈に命じ げんろく たが、玄丈は研究を完成させないまま倒れた。その 讃岐の織物に保多織がある。元禄一一年 ( ←しに高 かんえん ぶんせい
四虫っ史 ど歴る しと、せ み置窓がさ 並位 , 壁し 町ーこ白感 の央したを 町中むしさ 田の 池国籠しの 常盤橋 - ー一高松城の外 堀にかかる橋て、城の 南入り口。高松からの こを起点と 街道は、 して延びている。 1 て、阿波境に上名の橋とて、大木一本に割を付 にしう 四国路の起点と道筋 け、打渡したる橋あり。それを過ぎて西宇のば け ( 歩危 ) とて三里の大難所あり。この道は岩 江戸時代になると、四国はさらに大きな変貌をと のなへら ( 滑 ) に少しづっ足懸りを切付け、又げる。阿波では徳島藩が、讃岐では高松藩・丸亀藩 かけ・はし おおずにい 梯には少しづっ割を付け、漸く一人づつはひ ( のち多度津藩を分かっ ) が、伊予では松山・大洲・新 うつほ ひじりなか いま洋り や 伝ひ通る。左空穂・犬帰り・聖鳴せなどと云ふ 谷・宇和島・吉田・今治・西条・小松の八藩が、土 ばかり 所あり。その道より下を見れば、川滝千尋計佐では土佐藩がそれぞれ成立し、城下町を形成し に見ゆる。三里の内一里分は馬を通す。是も おしみづな 所々馬の尾を取り、惜綱 ( 名残の綱 ) を付け、 城下の中央部には、たいてい高札場がつくられた かきくずし候所あり。大西近くなりて相川の橋が、城や橋のほか、こうした高札場を起点として街 とてあり。この橋爪 ( 詰 ) へ下る時は、跡 ( 後 ) 道が延び、道には距離を示す一里塚 ( 一里山・一里松 しざりにして下る。橋をばはふ ( 這 ) て渡る。 などともいった ) がつくられた。すなわち街道脇に塚 馬は河上へ廻り、道あれども是も自由に通ずる を築き、松や榎などを植えて憩いの場所にもしたの 所にて之無し。 である。国境や藩境には関所 ( 番所 ) を設置して、 おおぼけ 現在、大歩危・小歩危の奇勝を眺めながら走る国出入りの人々を厳重に取り締まった。藩政時代は、 どさん 鉄土讃線も、国道三二号線もこんな状態だったので城が政治経済の中核的存在であったので、街道名は ある。 城下町を起点にして名づけられていた。そのため同 一街道であっても、別の道のように思われる街道も 天正十三年 ( ←し豊臣秀吉の四国征討によって、 四国の状態は大きく変わる。長宗我部氏は土佐一国ある。 あんど を安堵され、領国経営に力をそそぐことになるが、 阿波では徳島城を起点として、吉野川の南岸を石 街道の整備に努力した。「長宗我部掟書」によると、井・上浦・川島と過ぎ、池田から白地の渡しを経て 六尺五寸をもって一間とし、二間を本道の道幅と定佐野の番所に至り、伊予に出る道を伊予街道とい むや め、庄屋に管理の責任をもたせた。定飛脚の制度を し北岸を撫養から脇町へとたどり、洲津の渡しを 創設して便宜を計るとともに、関所を設け、通行の経て池田で伊予街道に合する道を川北街道 ( 裏街 たいのはま 道 ) といった。徳島より北進して、古川・鯛浜・姫 判形を持たぬものは、海陸とも国外へ出ることをい 田を経て川北街道に合し、撫養から淡路の福良へ渡 っさい禁止したのである。 6
上板町の大藍師屋敷 藍玉の製造は、藩 から玉師株を得た藍師 たちが独占し、寝床と いう作業場をもっ巨大 な屋敷を構えていた。 風土の香り豊かな山海の恵み 四国路の物産・歴史と伝統 四国は島国である。だから島国特有の歴史を四県があり、阿波藍の盛時を象徴している。明治維新後 で共有する。しかも、四国は四つの顔をもつ。それも藍業は大いに発展したが、日清戦争のころから衰 が各地の産業史上の特徴を形成している。そんな四退に向かい、しかも、巨大な藍商資本も近代産業の 国路の物産を歴史的に素描してみよう。 育成に役立てられず、徳島県は産業上の後進地域と なっていった。い まではわずかに板野郡上板町を中 阿波ーー・伝統産業も時代に押されて 心に、細々とこの伝統産業を守っているにすぎな 産業史上で阿波といえば、吉野川流域の芳水七郡 で栽培され、加工された阿波藍で知られる。藍は輪 瀬戸内沿岸の十州塩田には、全国の塩の生産が集 むや 作できない作物だから、吉野川の毎年の洪水で上流中していた。そのうち阿波の撫養塩田翁門 ) は、四 から肥沃な土が運ばれる徳島平野は、米作には不適国で最初に開発され、近世を通じて播州赤穂につぐ だが、藍作には最適で、良質の葉藍が栽培された。 生産量をあげていた。関ヶ原の戦の直後から、初代 よししげ 徳島藩もそこに注目して、藩政の初頭から保護と統藩主蜂須賀至鎮の命で塩田づくりがはじまり、隠居 制に乗り出した。 していた藩祖の蓬庵は、はじめてできた塩を献上さ 藩は加工業者と他国販売業者を指定し、その利益れて「阿波を豊かにしていくものはこれだ」と大い を吸収しようと、つねに統制を強めていった。葉藍に感激したとする伝承がある。第二次世界大戦後 すくも は盛夏に刈り取って加工し、染料としての ~ 染や藍玉は、それまでの入浜式から流下式に転換したが、さ あわじ さぬき をつくる。その作業は重労働で、淡路や讃岐からも らに技術革新の波を受けて、塩田はすべて宅地とな 季節労働者を雇い入れなくてはならなかった。そのり、いまでは塩田の面影すら残っていなし ゝ。・鳥門 ~ 印 品質は抜群の評価を受け、全国に買い取られていっ の撫養町は塩の生産によって生まれた藩内有数の郷 オいまも各地に残る大藍師の屋敷は壮大で、風格町であった。 三好昭一郎 徳島市立高校教諭 750
土佐清水港ーー東の室 戸港とともに土佐湾の 西端を占める / 青水港は、 遠洋漁業の基地として 施設の整ったわが国て も代表的な良港。 松藩初代藩主の松平頼重が、京都から織師の伊兵衛今治藩が統制に乗り出した。生産のピークは明治十 を招いてはじめた高級織物であった。 年ごろで、四〇万反の生産を記録したが、その後は 輸入綿布に押され、明治十八年には約二万反に激減 伊予ーーー生きつづける地場産業 している。今治の綿替商矢野七三郎は、打開をはか べっし 伊予路に入ると、別子銅山の歴史に興味が湧く。 るために興修社を設立し、綿ネルの生産をはじめる この銅山も昭和四十八年、二八〇年の長い歴史を閉ことになった。 じた。この海抜一四〇〇メートルの銅山は、元禄四 今治はタオルの産地としても知られる。その創始 年 (l*f) に大坂の銅山師泉屋によって開坑され、そは大正初期で、大正五年には四五万ダースの産額を の後数年間で一五〇〇トンを産出した。二五年後のあげたが、四〇年後の昭和三十年には八五〇万ダー きようほう 享保元年 ( 一しには、幕府が長崎から輸出した銅スを記録し、驚異的な発展を示している。 の二二パーセントを別子産出の銅が占めたほどだっ さらに海岸線を進んで松山に入ると、ここは民謡 た。そこで幕府も徹底した保護政策をとり、経営は「伊予節」にも歌いこまれた伊予絣の伝統が生きて 順調に発展したが、明治のはじめ、総支配人となっ いる。その起源は松山藩政下で菊屋新助という人 たかはた た広瀬宰平は経営を近代化し、日露戦争後には年間 が、高機の改良に成功し、農家や下級藩士たちが副 六〇〇〇トンの産額を誇るまでになった。 業として縞木綿を織りはじめた。文化年間 ( 飫〇 八 「予州別子山の鉱業は万世不朽の財本」とは、明治 ) のこととされる。その後は不況期を経て、明治 十五年の『住友家法書』に記されるところである。 二十年ごろから伊予絣と名付けると、販路は急速に 昭和四十八年に鉱脈も尽き、閉山されたが、当時のひろがりはじめ、西日本一円に伸びていった。とく 鉱山所長の鷲尾勘解治による、新居浜の臨海工業コ に第一次世界大戦後の好況を背景として、約一〇〇 み ンビナートの造形など、新時代に生まれ変えられる万反の生産を記録したが、大正九年以来の大不況の の 代案のうえに、今日の工業都市新居浜がある。 ために衰勢に向かい、 いまでは伊予名産として、わ山 国道一一号線を西へ、小松町から今治にゆくと、 ずかに生産が維持されているにすぎない。 ここは伊予の有名な綿業地帯である。白木綿が享保 四国の山間農村では、古くから農家の副業として「〕 の から、この地方の農家の副業として発和紙づくりが盛んであった。近世の伊予では西条藩 風 ほうしよおおず せんかし 展した。一八世紀に入ると綿替商という買占業者が の奉書、大洲藩の半紙、宇和島藩の仙花紙が知られ 5 る。 副業農家を支配し、幕末の安政期 (L 四 ) には、
伊野の町と仁淀川 仁淀川下流の伊野は、 県下第一の土佐紙の大 生産地てある。土佐紙 は和紙の代表的な存在 てある。 Ⅲい物 ちょうそがべもとちか 一方、捕鯨は、すでに長宗我部元親のときから行 土佐の和紙は、古代から知られているが、大きく われていたが、寛永期 (L 亠四 ) に津呂浦戸 ) の発展したのは一七世紀末からで、その契機は野中兼 多田五郎右衛門は、漁船一三艘で捕鯨をはじめた。 山による楮栽培の奨励と、専売制の実施によって開 しかし、当時は「突き取り法」という原始的方法かれた。その後、専売制は廃止され、自由な生産が 行われるようになったため、良質紙が漉かれるよう で、危険度も高くしだいに衰えていった。元禄 ( しようとく 四一 ) —正徳期 C ) には復活し、年産四〇になり、土佐紙の人気は上昇しはじめた。そこに目 頭ほどの捕獲がつづいたという。幕末には土佐藩も をつけた藩は、再び統制を強化し、正徳四年 ( ~ し 捕鯨の有利さに注目し、その統制を強めていった。 の紙方役所設置、宝暦一一年 (l\l) の国産方役所の設 土佐の広大な山間で伐採された檜や杉は、慶長期置など、専売制強化をはかろうとした。 これに対して、同五年に津野山一揆が起こり、同 から良材として江戸や上方で注目され、 薪炭材も大量に取り引きされて、すでに当時から土十年には専売制を廃止、御蔵米を上納した余剰紙 佐では伐木による荒廃が心配されるほどだったとい は、自由に販売することを許した。その後、藩は紙 われる。 流通統制に失敗したため、天明七年 ( ←しに吾川郡 けんざん の農民が、松山藩に逃散するという事件も起こって その後、藩政改革をすすめた野中兼山 (L 埜五 は、土佐の山林を荒廃から救い、土佐林業を軌道に いる。こうした間に品質の改良もすすみ、近代にか 乗せるため、松・杉・檜については五〇—六〇年、 けて全国の和紙産額の二〇パーセントを占めてい た。第二次世界大戦後は衰退していたが、昭和五十 「、薪炭材は一五—二〇年の間の伐採を禁じ、木材の育 成をはかるという、輪伐制を採用したために、土佐一年に国指定の伝統工芸品となったこともあって、 林業の基盤は固まっていった。しかし、兼山が断行 これからの郷土産業の核として期待されている。 み した輪伐法は、伐木で有利な収入を得ていた山間農 四国の産業は、第二次世界大戦を境として、大き の 民にとっては、たちまち収入減となったので、安芸 く変化した。戦前には四県それぞれに、古きよき伝乢 かよ ちょうさん 郡の農民たちは、大挙して阿波に逃散し、とくに統産業が、四県の風土に根を張っていた。それらの かいふ 海部川上流の山間部に永住の地を求め、その技術を産業の大半は、もはや産業の主流から大きくはずれ の もって、この地方の林業発展の草分けとなったこと たところで、細々とその伝統が守られているにすぎ土 は注目される。この史料として海部郡各村の棟付帳ない。四国も個性を失いつつある。そのなかで四国 5 の個性をどう継承するか、大きい課題である。 戸籍 5) は興味深いものがある。 ほうれき
城川町土居ーー -- 甲之森 城主北之川氏の居館に 由来し、檮原と伊予を 結ぶ物資交換の要地て、 在町として発展した。 、の第ッグ彡 般には黒森越えで伊予に出る道が利用されていた。 土佐勤王党と大石弥太郎 ちなみに、那須・安岡は天誅組に参加して命を落と 文久元年 ( ~ 7 ) 八月、武市半平太を盟主として土 し、大石はのちに鹿児島造士館の教授となった。 佐勤王党が結成されたとき、盟約の檄文を起草したの 黒森越えの道は、土地では松山街道と呼ばれてい は大石弥太郎であった。弥太郎は郷士であったが、文 いまなり どうの る。越知町今成の集落から仁淀川左岸に沿って堂 久元年、洋学研究の藩命を受けて江戸に赴き、勝海舟 岡に至り、焼坂の急坂を越えて袖野に着く。ここか の門に入った。また、桂小五郎・樺山三円ら薩長やそ の他の志士と交わって時局にめざめ、国事に尽力しょ ら北方に清水の集落が見えるが、清水は文字通り良 うと決意した。 い水場で、ここでは薬師堂と呼んでいる。黒森山南 翌二年六月ごろ、京都で坂本龍馬に会い、藩主豊範 町方の、集落の結節点ともいうべき街道の要衝であ と随兵が上京したときの駐屯場所として、妙心寺の調 る。薬師堂からは山道にかかるが、黒森山 ( 七メ 査を依頼した。そして、姫路に赴いて上京途中の藩の せいすけ こみなみ しへと尾根が一直線に延びている。稲村・清助の 監察小南五郎右衛門と武市半平太に会い、藩主が参 集落を右に見て杉林の中をのばると、二所権現を祀 内すること、妙心寺を宿所とすること、容堂とともに った山頂に着くが、道は山腹をぬって鈴ケ峠に通じ 事に当たることを進言したという。十月には藩命で九 州へ行ったが、独断で藩主土佐守の使者と名乗って、 ている。雑木林や熊笹におおわれた道をたどり、よ 長崎奉行よりオランダの新式銃を分けてもらうことに うやく鈴ケ峠 ( ー 八四 9 メ ) に達する。 成功した。 峠には燈明台や杉の大木があって、昔の旅のけわ 文久三年八月十八日の政変ののち、勤王党の獄が起 ( しさをしのばせているが、ここから急な道を北に下 こった。弥太郎は武市らを救援するため、建白書を提 かりやまひうら ると狩山日浦 ( 齬Ⅷしに着く。西進して竹ノ谷から 出したが成功しなかった。しかし、藩主の心を動か もちい 用居川 ( 土居川 ) に沿って北西に進み、用居の関所 し、豊範は救援のため奔走したのである。このような ぞうし 弥太郎の陰の努力を忘れてはならない。 を通ってから水ノ峠より雑誌山の峰伝いに国境を越 ななとり えて伊予の東川 ( 上 美郡 ) に抜け、七鳥 ( 一里塚が現 ありえだ 存 ) ・有枝を経て久万に至る。いわゆる松山街道と などを持ち帰って販売したのである。 ちょうさん 久万街道とが合するわけで、この黒森越えの道が佐 この道はまた逃散の道であり、脱藩の道であり、 てんめい ー・松山を結ぶ街道であった。この道は、人の往来軍用道路であった。天明七年 ( ←し、池川・用居・ ひらがみ だけでなく物資運搬の道として利用されていた。須名野川の飢饉で苦しんだ農民は、藩の統制する平紙 おくりふ 崎や宇佐の商人が塩干魚を運び、帰りには椎茸や紙の自由販売と、送夫 (t の次の公用往来に出る る ) の制度の おか 9
! を当を一 土佐の捕鯨図ー - ー網取 り法の捕鯨図て、勢子 船に囲まれた鯨に来っ 第こき譱た海の男の勇ましい姿 が印象的てある。 け・いおう . されたが、紀州の熊野や西国からの捕鯨船が土佐沖 (5) に宮地氏の浮津組を、慶応二年 (*L*$) には奥 へ進出してきたため、獲物が減り中絶してしまっ宮氏の津呂組を、それぞれ藩営事業のなかに組み込 んだのである。 慶応二年二月に藩営の開成館が創立されたが、こ 「突き取り法」から「網取り法」へ れは参政吉田東洋の遺策に基づき、山内容堂が「皇 これを津呂浦の郷士多田吉左衛門が復興した。 国を保護するの道」という意図のもとに、勧業貨殖 きもいり かんぶん 寛文四年 (*l( し、鯨方肝煎人となり、当時紀州での事業を行う目的で設置したもので、軍艦・貨殖・ 行われていた「網取り法」による捕鯨のことを聞勧業・捕鯨・鉱山など一一の局がおかれていた。浮 てんな き、天和一一年 (<h) 熊野浦に行って「網取り法」を津・津呂の両捕鯨組合は開成館捕鯨局の管理下にお 学び、紀州の漁夫を招いて捕鯨業の立て直しをはか かれることとなり、藩営事業の一端を担い、鯨油な っ一」 0 どの特産品を生み出すようになった。明治時代に しいな 翌三年に安芸郡の椎名・津呂と幡多郡の窪津の沖なって経営も一一転三転したが、旧式な「網取り法」 を漁場に指定し、吉左衛門は津呂組を組織して捕鯨での捕鯨は、新しい「ノルウェー式捕鯨法」にはと への意欲をみせたのである。やがて津呂組から宮地うてい及ばず、明治四十年には解散することとなっ 武右衛門の管理する室戸の浮津組が分かれたが、双 げんろく 方相まって捕鯨は盛大となり、元禄六年 (ll*fi) から 以後、新式の捕鯨会社が設立されたが、昭和の初 しよう・とく 正徳二年 ( ~ しの間には年間平均四〇頭もとれるめ林兼商店に吸収されたのである。 さぬき さんけい よ一つになったとい一つ。 四国での捕鯨史上有名な人に讃岐の藤川三渓がい そののち、多田氏の津呂組は経営危機におちい あんえい たつみやかんのじよう てんぼう たかしましゅうはん り、安永八年 (lß) 高知の辰巳屋勘之丞に八年を限 天保十二年八 ) 長崎に遊学して高島秋帆に学 って事業をまかせて、寛政三年 (å) までは順調でび、捕鯨の重要性を深く認識したのである。明治維 あった。しかし、不漁がつづくようになったので、 新後、捕鯨業に専念し、捕鯨会社の開洋社を設立 もと おくのみや カイサク 元浦戸 ) の奥宮四郎右衛門があとを受けつぐこ し、『捕鯨図誌』を著して「海錯ノ利ニケル尽ク ととなった。 ルコト無シト称セラル。而シテ其ノ利ノ最大ナルハ このように土佐の捕鯨業は幾変遷を経ているが、 捕鯨ニ之レ若クハ莫シ」といっている。 こう・か 幕末になって藩は捕鯨の利益に注目し、弘化四年 やはり四国は海光る国である。 かんせい うきっ 75 ーー - 土佐の鯨とり
島枝 緩和を求めたがいれられず、二月十七日この道を越かって塚は道の両側にあったが、今は一つだけ残っ 七有るにつ 旧国国てと昔し すごうたいほう のとも ら残塚み へてつ沢の美 かが田工し えて約七〇〇人が伊予に脱走し、久万の菅生山大宝ている。米ケ岡は北川村野友の庄屋白石伝左衛門が 西っ走井町は みら切に軽のみ 里門旧の 寺にたてこもった。 並か横北の原並 藩政初期に開拓した土地と伝えられ、恩を受けた村 一寺はく匂 町寺を南予高家 の光道近のるの宝線を伊るの 幕末になって、元治元年八月十四日、浜田辰弥人は伝左衛門を祀る白石神社を建てたという。 鳥東のの活い 万大号西。れら おうすけ つが 七のヘ寺生て久はのるわが ( 田中光顕 ) は佐川上郷の屋敷を出て、井原応輔・那 米ケ岡から約二キロメートルで栂坂にかかる。 須盛馬 ( 片岡利和 ) ・橋本鉄猪 ( 大橋慎一一 l) ・池大六 〃笑い栂〃の伝説をもっ巨木があり、八七五メート こうち ( 山中安敬 ) らとともに、川内ヶ谷をのばって赤土峠ルの栂ノ峠を越えて杉並木をくぐると三里塚に着 おながわ く。野根山街道八カ所の一里塚のうち二つが現存し 一二 9 メ ) を越え、越知の女川におりて仁淀川を舟 で下り、横畠の舟戸川原に上陸し、黒森越えの道をているが、その一つである。三里塚の東に宿屋杉が たどって脱藩した。禁門の変を聞いて激情をおさえある。台風で倒れたが根元は残っている。木の穴に ることができず、黒森越えをして伊予に入り、松山四、五人の人が入れるところからこの名がついた。 から三津浜に至り、舟便を得て内海を渡って三田尻ここから少し下りになった坂を歩むと、左に蛇谷へ しようぞく に着いたのである。これについて松山藩内でなく大の道が通じている。前に進むと熊笹峠を経て装束 ぐんちゅう 廴 ( ~ 一洲藩内に入「て郡中港 ( 伊予 ) 市から三田尻へ向かっ峠に達する。標高一〇八三メートルで街道一の高所 ぼしん たとの説もある。また、戊辰の役で佐川の深尾の軍である。南に藩主専用の石畳のわき道があり、駕籠 勢が、松山征討の任務を果たすべくこの道を越えすえの石の残る藩主休憩のお茶屋場跡が昔の大名行 列を物語っている。峠を越えるとお産杉である。妊 婦と狼の伝説を残しているが、道は右にカナキの崩 藩主が越えた峠道、野根山街道 れを見て岩佐の関所に通じている。 高知から海岸筋を東に延びた街道は、現在、室戸 関所は街道の中心で、立川・用居とならんで土佐 なはり のねやま かんぼう を回るが、旧土佐街道は奈半利から分かれて野根山の三大関所の一つに数えられている。寛保三年 ( 七 の険にかかる。奈半利町の北のはずれから東に向か 0 の郷村調査には「岩佐新田地高十石戸数十藩 うと、北側に送番所跡があるが、さらに進むと″ひ五人口七十六人」と記されている。道の北側に藩誌 の とロ水〃″朝休み〃といわれる最初の休み場がある。主の御殿や番所の跡があり、正面の石段のところに 新 ここから山道をのばると、標高約六〇〇メートルの 「岩佐旧関所」の碑が立っている。北の山腹には、 。《米ケ岡開拓地に着くが、道の右側に一里塚がある。 関主の木下家の墓地があり、その中で「文政四巳年 ンい 一内・物 ス k 印第 当さ物 ? 」 0