阿波 - みる会図書館


検索対象: 日本の街道7 海光る瀬戸内・四国
59件見つかりました。

1. 日本の街道7 海光る瀬戸内・四国

阿波の北東に淡路島がある。淡路は阿波路 で、古代の政治・文化の中心地、畿内から阿 波へ渡る道を意味していた。阿波は北・西・ 南を高い山地で囲まれ、讃岐・伊予・土佐と 接する。この問を縫って東に流れる吉野川は 徳島平野を潤して海に注いでいる。江戸時代、 阿波は、藍・煙草・塩を特産にし、経済的に 豊かであった。阿波の中心は、蜂須賀氏ニ五 万七千石の城下町徳島で、徳島から吉野川 沿って伊予に向かう道、阿波池田から分かれ おおよけ て大歩危・小歩危の難所を通り、土佐へ向か う道、日和佐・牟岐・宍喰を経て土佐に入る むや に撫養から鳴門海峡を経て淡路にる 道、大坂峠越えで讃岐に入る道などがあった。 阿波はまた、四国霊場八十八カ所巡礼の入り ロでもある。 徳島一一吉野川河口に 阿波蜂須賀氏の城下町 として栄え、寺島・ひ ようたん島、沖川など、 島と川の水の都てある。 69

2. 日本の街道7 海光る瀬戸内・四国

阿波踊り 鳴門の渦 石鎚山系 - ー -- - 石鎚山項・ 潮を思わせる激烈な群の天狗岳を中心に、東 舞の隆盛は天正年間の西に山々が連なり、四 ころといわれ、その起国の脊梁山地をなして 源は古い。 いる。 物ー、むを 鳴門の渦潮ー・一渦潮は 瀬戸内海と外海の潮位 差から生まれ、時速 20 キロメートルにもなる 潮流は、中瀬の岩礁に 遮られ大小無数の渦を なく踊り手たちが姿を見せては消えてゆく。太鼓・ かね 鉦・四ッ竹・三味線などの鳴り物の響きが一つに重 なり合って、その後を追うように町かどから遠のい てゆく。 それはあたかも現れては消えてゆく〃鳴門の渦 潮〃のようである。まさに「踊る阿呆に見る阿呆、 同じ阿呆なら踊らにやそんそん : : : 」の群舞の渦巻 きである。 この踊りを「阿波踊り」と呼ぶようになったの は、昭和一一十一年からのことで、それまでは徳島の 盆踊りであった。先祖供養の芸能であるから、その てんしよう 起源は古くからのものであろうが、天正十三年 ( 五 し、阿波領主となった蜂須賀家政の " 阿波藍。産 業振興策とともに風流さを増し、藍商人の隆盛とと もに華美を競ってきたのである。そして、それはま た風流と華美を支えながらも、苦難と貧困に耐えて きた人々の、素朴な情感の表現でもあったのであ る。阿波踊りはこの地方の歴史と生活の渦巻きであ っ ? 」 0 八幡船と大漁旗も出る阿波の秋祭り 道行く名もなき人々にとっては、自分の住まいす る所が道の起点であり、また旅する者にとっては旅託 寝の草むらですらその起点であった。そうした個々 の起点がいくっとなく、長い長い時の流れに重なり 合って道は縦横に巡ってゆく。

3. 日本の街道7 海光る瀬戸内・四国

) いツ証い い第 杉の花のはろはろろに散るや かなた街の屋根はしづか 可は流れ山は青み 菜種咲きて霞む遠野、 み寺めぐる人ら行きて 阿波の春よ、鐸は鳴りつつ。 ( 大木惇夫「阿波の春し

4. 日本の街道7 海光る瀬戸内・四国

上板町の大藍師屋敷 藍玉の製造は、藩 から玉師株を得た藍師 たちが独占し、寝床と いう作業場をもっ巨大 な屋敷を構えていた。 風土の香り豊かな山海の恵み 四国路の物産・歴史と伝統 四国は島国である。だから島国特有の歴史を四県があり、阿波藍の盛時を象徴している。明治維新後 で共有する。しかも、四国は四つの顔をもつ。それも藍業は大いに発展したが、日清戦争のころから衰 が各地の産業史上の特徴を形成している。そんな四退に向かい、しかも、巨大な藍商資本も近代産業の 国路の物産を歴史的に素描してみよう。 育成に役立てられず、徳島県は産業上の後進地域と なっていった。い まではわずかに板野郡上板町を中 阿波ーー・伝統産業も時代に押されて 心に、細々とこの伝統産業を守っているにすぎな 産業史上で阿波といえば、吉野川流域の芳水七郡 で栽培され、加工された阿波藍で知られる。藍は輪 瀬戸内沿岸の十州塩田には、全国の塩の生産が集 むや 作できない作物だから、吉野川の毎年の洪水で上流中していた。そのうち阿波の撫養塩田翁門 ) は、四 から肥沃な土が運ばれる徳島平野は、米作には不適国で最初に開発され、近世を通じて播州赤穂につぐ だが、藍作には最適で、良質の葉藍が栽培された。 生産量をあげていた。関ヶ原の戦の直後から、初代 よししげ 徳島藩もそこに注目して、藩政の初頭から保護と統藩主蜂須賀至鎮の命で塩田づくりがはじまり、隠居 制に乗り出した。 していた藩祖の蓬庵は、はじめてできた塩を献上さ 藩は加工業者と他国販売業者を指定し、その利益れて「阿波を豊かにしていくものはこれだ」と大い を吸収しようと、つねに統制を強めていった。葉藍に感激したとする伝承がある。第二次世界大戦後 すくも は盛夏に刈り取って加工し、染料としての ~ 染や藍玉は、それまでの入浜式から流下式に転換したが、さ あわじ さぬき をつくる。その作業は重労働で、淡路や讃岐からも らに技術革新の波を受けて、塩田はすべて宅地とな 季節労働者を雇い入れなくてはならなかった。そのり、いまでは塩田の面影すら残っていなし ゝ。・鳥門 ~ 印 品質は抜群の評価を受け、全国に買い取られていっ の撫養町は塩の生産によって生まれた藩内有数の郷 オいまも各地に残る大藍師の屋敷は壮大で、風格町であった。 三好昭一郎 徳島市立高校教諭 750

5. 日本の街道7 海光る瀬戸内・四国

をナ」、、をみ」、 0 大坂峠の碑ーー徳島・ 香川県境の峠て標高 270 メートル。古代の官 道て、源義経もここを 越えて屋島に向かった。 っこ ( 『日本。 子 / . 紀略』 駅っしから四国山地の笹ケ峰を越えて土佐に たじかわ あはし 入り、丹治川 (å伏 ー ) ・吾椅 ( 長岡郡本 山町寺家 ) の駅を経『日本後紀』延暦十六年一月二十七日条に、阿波の しんがい こくぶ て、頭駅 ( 山 香しに至り、新改川・国分川に沿駅家若干と、伊予の一一駅、土佐の一二駅を廃し って南下して土佐の国府龕国 ) へ到着した。もっとて、新しく土佐に吾椅・舟川の二駅を置いたことが みえているが、舟川は前記の丹治川である。こうし も、当初は伊予の国府から西南に進み、大津 ( し から宇和島へと伊予の西部を南下し、土佐西部の幡て、平安時代以後の官道が正式に定まったが、『延 た 多路を通り、東行して土佐の国府に至る遠い迂回路喜式』の流刑の距離からみて、西廻りの旧道も依然 がとられていた。『延喜式』にみえる流刑の制では、 として利用されていたのであろう。 ところで、駅には駅馬が置かれていたが、淡路の 土佐は一一三五里 ( 吶ハ」六キ トレ ) の遠流の国、伊予は五 三駅と阿波の二駅は各駅五疋、讃岐の六駅は各駅四 六〇里 ( 約 = 詫」キ 」 ) の中流の国となっている。伊予へ の道のりよりも、土佐は現里程でさらに約四四四キ疋、伊予の六駅と土佐の三駅は駅ごとにそれぞれ五 ロメートルの遠距離である。 疋と定められていた。しかし、これを利用できるの は公用の使者で、一般庶民は調を運ぶにもみずから 古代駅制と旅程 歩いて運搬しなければならず、四国路からの輸送は しよくにほんぎようろう 『続日本紀』養老二年 ( 些 ) 五月七日条による大変だった。南海道諸国の国府から京師に至る、 よう と、土佐の国司は、伊予国を経て都へ行くのはあま調・庸運送の行程を『延喜式』によって表示する りにも遠く、山や谷が険難であるが、国境の接した と、別掲の表のとおりである。 阿波国を通るのは往来が容易だから、阿波経由に変 紀伊・淡路はともかく、四国、とくに土佐はずい 更してほしいと申請して許されている。この阿波経ぶん日数がかかっている。上りが下りにくらべ倍の のね 由の道について、従来、土佐の野根山を越えて阿波日数を要したのは、調・庸の貢上品をもっていたた の海岸筋に出る道といわれていたが、物部川筋をさめであるが、往復の旅は飢えや病気に苦しむことも っ きとう なか おび 宀な かのばり、峠を越えて阿波の木頭に入り、那賀川筋多く、猛獣や野盗の襲撃に脅え、ときには樹の根を 点 起 を下る道であろうという説もある。これは川筋に延枕に野宿することもあった。 ーカ 町 喜式内社があることから推定されるが、この道もや 下 えんりやく 源平合戦と海上の道 はり遠く、公使の旅も大変であるので、延暦十五 じようへい 年 ()\ 九 ) 二月に廃止され、新道が開かれることとな 紀貫之が海路帰京した承平四年 (f 三 ) から五年幻 ものべ ちょう

6. 日本の街道7 海光る瀬戸内・四国

鳴門で見落とせない産物に鳴門ワカメと足袋があ送られていたことが、平城京跡から出土した木簡 ちょう る。ワカメは奈良朝の昔、阿波からの調として都に に書きしるしたものからも確認されている。鳴門の渦 潮にもまれたワカメは、その舌ざわりがなめらか で、いまも阿波を代表する名産品として重宝がられ ている。 撫養の町は、また足袋産業の栄えたところである が、第二次世界大戦中の転業と、戦後の生活様式の 激変によって、すっかり衰退してしまった。 徳島市の安宅町は、明治維新まで阿波水軍の下級 藩士が集住していた。ここでは軍船の建造や修理の とき、多くの木くずができたが、それをもらい受 け、下級藩士たちが内職に加工して、鏡台づくりを はじめた。それが今日の全国有数の木工地帯に発展 したのである。 吉野川下流域の阿讃山麓一帯は、かって高級な砂 糖の阿波和三盆糖の産地として知られたところであ る。その発祥地上板町の引野は、農業がふるわなか った。そんなとき日向からきた遍路が、この地が砂 糖に最適であることを教えた。それを知った徳弥と あんえい かんせい いう一青年は、安永五年 (AL\() と寛政四年 (RI) の 二度も日向に入り、さらに改良を加えて和三盆糖を乢 完成した。その後は急速に発展し、明治十二年には 六万四〇〇〇樽の生産高をあげている。そのころか ら外糖の大量輸入に押されて衰退の一途をたどった が、いまも全国の高級和菓子の原料として堅実な販 路を維持している。 番ノ洲工業地帯一一一番 ノ洲埋め立ては昭和 40 年に終了し、川崎重工 の 35 万トンドックが昭 和 42 年秋に完成した。 わさんぼん もっかん

7. 日本の街道7 海光る瀬戸内・四国

物部川と香長平野ーー - 物部川流域から西にひ ろがる香長平野は、県 下第一の穀倉地帯て、 米のニ期作地てもある。 : - 国 朝野川 「天離る夷辺」と京を結ぶ道 渓谷を行く北山越え ただし阿波国は境土を相接し往還甚だ易し、請う此 険難の南海道と新道「北山越え」 国についてもって道路となすことを」 (&) と土 佐の国司は政府に願い出て、阿波から直接土佐に入 土佐の国府は、長岡郡国府村龕国 ) に置かれてい ひえ た。北に比江・左右の小高い丘陵地帯をひかえ、東る道の開削が認められたのである。 かみとさやまだひらやま と南には香美郡土佐山田町平山に源を発した国分川 阿波から直接土佐に入るこの新道の開削は、それ りようせきがわ が、途中領石川を合わせて、ゆるいカープを描い までの伊予まわりの道にくらべて、都との距離を大 て流れる天然の要害の地を占める国府は、国分川のきく短縮することになったのだが、伊予の国府との 流れを下れば国府の外港大津を経て浦戸湾に至り、 連絡の必要上、伊予まわりの道も官道としてそのま 流れを溯れば陸路阿波や伊予に出るという交通の要ま使用された。新しい官道は、阿波の国府から南下 なかがわ 衝地でもあった。この土佐の国府と都を結ぶ官道をして、那賀川の河口に至り、那賀川を溯って峠を越 南海道と呼んだ。 えて物部川流域を下るもので、下流で香美郡土佐山 しんがい 南海道は、都を出て紀伊から海を渡って淡路・阿田町新改を経て新改川を下って国府に至った。 はた ものべむらえんぎしき 波に至り、讃岐・伊予を経由して幡多郡に入り、東 香美郡物部村に延喜式内社小松神社が鎮座し、神 つうじ 進して土佐の国府に至るものであり、その道のりは 通寺と呼ばれる大寺院が営まれ、同郡香北町に延喜 ちょうじよう おおかわかみびらふ 長く、山谷重畳して険しい道であった。四国をほ式内社大川上美良布神社が鎮座しているのも、この とんど一周するほどの距離をもっこの道は、旅をす阿波経由の新官道と無関係ではない。当時の道は、 る人びとにとってはつらい道のりだったろう。誰よ物部川流域でも那賀川流域でも現在の国道のはるか りもその不便さを感じていたのは、土佐の国司たち上を通っていたし、近世においてもまたそうだっ ようろう だった。養老二年 (Y) 「公私の使直に土佐を指せた。しかし、この道もやがて「南海道の駅路迥遠に うえん ば、その道伊与国を経て行程迂遠、山谷険難なり、 して、使令を通じ難し」といわれ、新道にとってか 土佐山田 い ~ 賀川 - △剣山 土佐 ス紀伊水道 ) 府 0 ・ 前田和男 高知県立高知追 手前高校教論 じん 774

8. 日本の街道7 海光る瀬戸内・四国

海上 2 時間半の離島て ! ぐ第当 周囲 22 キロメートル。 人を寄せつけない。 洲津の渡し - ー - 池田町 の東、伊予街道と川北 街道をつなぐ要津て、 吉野川はこのあたりか ら緩流となる。 第第めイを第弩 をかまえ、水陸にわたって兵力を強化するが、一 じぞうがたけ 方、地蔵嶽城 ( 大洲城 ) を中心とする宇都宮氏、黒 瀬城 ( 東郡 ) を根拠地とした西園寺氏の南予制圧 などがあって、戦乱の道も複雑な姿を呈してくる。 峠を馳せ抜け、白山・前田から牟ネ ( 牟 。い木細しに押し 戦乱で開かれた道 寄せ、火を放って屋島の合戦に勝利を得た。 こうのみちのぶ ひかん この合戦で、伊予の河野通信の率いる水軍が源氏 細川氏の被官から起こった土佐の長宗我部氏は、 もとちか てんしよう に加勢し、さらに壇ノ浦の戦でも源氏方の主力とな 元親の代に四国を統一する。天正三年 ( 一五 ) 七五から って戦い、平家を殲滅した。これは「船に乗るより一〇年の期間を費やすが、この間、四国の道は軍道 潮に乗れ」といわれた、瀬戸の激流の中できたえた と化する。戦いは山道をぬって行われたが、土佐駒 河野水軍の巧みな操船術の結果によるものであっ といわれた小さな馬が軍用として用いられた。四国 た。それにしても、一の谷・屋島・壇ノ浦と相つぐ山地の峠道や海岸筋の道では、このとき開かれたも なはり 戦いの過程の中で、身をもって逃れた平家の将兵ものが多いという。長宗我部軍は東では奈半利から野 ひわさ ししくいかいふ 多かった。ここに祖谷山をはじめ、多くの平家落人根山を越えて阿波に入り、宍喰・海部・日和佐を経 うしき 伝説が生まれることとなる。四国の山あいは、敗残て牛岐 ) に入城している。 の身の格好な隠れ場所であった。南北朝時代の阿波 西の伊予へは、おもに三方面から進撃した。北方 ゆすはら みたき 山岳武士をはじめ、あちこちに身をひそめた人たちでは檮原より桜峠を越えて三滝城を攻め、中予は江 かわさき きほく どいなか によって、四国山地の山路が開かれていったものと 川崎から広見川を上り、鬼北盆地へ出て、土居中 すくも 思われる。 の間 ) の大森城へ進み、南は宿毛より松尾峠を越え みしよう 南北朝の内乱期には、細川氏や河野氏の活動が活て緑城翁辺 ) ・御荘方面へ兵を進めている。だが、 よりゆき うたづおかやかた 発となったが、細川頼之は讃岐の宇多津・岡館 ( 婚中央部の吉野川上流を下っての進撃は容易ではなか しょよノ . い あきづき ) 、阿波の秋月 ( 髜曁勝瑞 ( 嬲しなどに居った。元親が阿波の大西城 ( ) を攻撃したときのソ 館を定め、阿波・讃岐・土佐の土豪たちを家臣に組進撃路について、『元親記』には次のように書いて みこんでいった。相互の間の往来は激しくなり、とある。 わざ くに阿波で生産力の高い吉野川流域の街道筋が整備 大西への道筋、日本一の難所なり。カ態に越さ ゅづき とよなが された。伊予においても河野氏は道後湯築城に本拠 るる所にて之無く、先づ豊永の船渡しを過ぎ幻 せんめつ

9. 日本の街道7 海光る瀬戸内・四国

を′を′し第 ↓を第、 さん′」うしいき の著『三教指帰』にある話。 太竜寺から阿南市新野町の田園地帯に出ると第一一 十二番平等寺だ。その本堂に三台の足の不自由な人 のための車が奉納されている。よくもこの車を曳い たものと驚き、この寺で全快した感激を記した霊験 記を読み、いよいよ遍路の功徳の大きさを思う。 平等寺から山越えに国道に出ると、一路阿波国最 後の第二十三番薬王寺をめざす。門前は賑わい、参 詣人の数は徳島県では抜群。仁王門から参道を行 くと、三三段の女厄坂、ついで四二段の男厄坂、 つも石段にはところ狭しと硬貨が供えられている。 ひわさ 本堂前から歩いて日和佐の門前町の尽きるところ に、太平洋の雄大な眺めがあり、「ああ阿波一国も 終わったか」という実感がこみあげてくる。ここか ほっみさきじ ら土佐の札始め、第二十四番最御崎寺までは、気の 遠くなる道中だ。その途中に八坂寺がある。弘法大 師が、馬子が手にする鯖を海に帰してやったとい さばせ う、鯖施大師の伝説は名高く、この番外寺院に立ち 寄る遍路は多い。 旧道には「道標」「茶堂」が散見でき、四国遍路て 史を肌で感じさせてくれる。高野山の碩学水原堯栄流 博士は、こんな四国路を見て「阿波の密教的風土」 と称している。この名著『高野板の研究』の一文所 は、私たち遍路の実感でもある。もちろん、霊場巡 拝が目的だが、心洗われる旧道にさまざまな歴史を 再発見することは、限りない楽しみであり、私もい

10. 日本の街道7 海光る瀬戸内・四国

亀山一一 - 紀夏井が京都 の亀山になそらえて名 づけたという。夏井の 邸はこの頂上に立って いたものと伝える。 ほうげん 問われたものである。保元元年 (ll,) に起こった保路も遠く成にけり」と配所の親王の姿を伝えてお すとく 元の乱で、崇徳上皇方について戦死した藤原頼長のり、『新葉和歌集』には「わが庵は土佐の山風さゆ もろなが 子師長は、父の罪に連坐して土佐に流された。保元る夜に軒もる月も影氷るなり」「住みなれぬ板屋 まれよし の乱につづく平治の乱では、源頼朝の弟の希義が土の軒のひまもりて霜夜の月の影ぞ寒けき」など配 っちみかど 佐国介良庄龕知 ) に流され、承久の変で土御門上皇所のわびしさを詠んだ歌が数多くおさめられてい が土佐国に流された。 じようきゅう 土御門上皇は、承久三年 ( 一一一一 ) 閏十月、京都を 歴史のかなたにおばろな配所跡 あとに配所土佐の幡多へ向かったが、阿波から土佐 に入り、安芸郡の野根山の道を越えるとき吹雪にあ 香美郡野市町佐古の亀山を訪れると、山丘上の平 い、「うき世にはかかれとてこそ生まれけめこと 坦地に「史跡紀夏井邸跡」の碑が立ち、かたわらに じようおう ぶよう ぼだい はり知らぬわが涙かな」と詠んだという。貞応二 小さな祠がある。亀山の南の地名に父養寺・母代寺 年 ( 一一 ) 、阿波に移ることになり、もと来た道を再があり、夏井の孝養を示すものとされる。近年まで つきみやま び阿波へと向かったが、途中香美郡の月見山で「鏡亀山から布目瓦などが出土していて、これが夏井の 野やたがいつはりの名のみしてこふる都の影もう邸跡とされるゆえんでもあるが、亀山には窯跡があ つらず」と詠じて都に思いをはせたという。阿波に るので、必ずしも家屋敷と直結するものではなかろ かんぎ 移って八年余り、寛喜三年 ( 一一一 ) 帰京の夢かなわずう。また夏井の孝養はよく知られており、小伝に母 阿波で亡くなった。 の死にあたって草堂を建て、遺骸を安置して三年の げんこう 元弘の変で捕われて隠岐に配流された後醍醐天皇喪に服し、毎日大般若経五〇巻を読んだとある。夏 たかなが の皇子尊良親王は、元弘二年 (l}lllll) 三月土佐の幡多井が母のために母代寺を営んだという説はここから おおがたのごうおくみなとがわ に流された。尊良親王は幡多郡大方郷奥湊川の生まれているわけだが、母の死去が配流中のことな ありいがわ 領主大平弾正に迎えられ、同郷有井川の有井庄司のか、また、土佐で死去したのかも確証がない。 京 ( 三郎左衛門豊高 ) らに近侍されて居所を移しながら 一般に土佐へ配流されたとあっても、土佐のどこ 配所のわびしい生活を送った。『太平記』は「彼畑に流されたのかは明らかではないのが普通である。 すさき と申は、南は山の傍にて高く 、北は海辺にて下れ源希義の場合などは、むしろ珍しい例である。須崎天 り。松の下露扉に懸りて、いとゞ御袖の泪を添、磯市野見の金比羅山に親王宮と呼ばれる祠があり、こ 打波の音御枕の下に聞へて、是のみ通ふ故郷の、夢こに天文二十四年 (1 し十月十六日の銘の入った供 のみ てんぶん のいちさこ