第 7 巻 監修・児玉幸多 明治 42 年 ( 1909 ) 長野県に生まれる。 東京大学卒業。学習院大学文学部史学 科教授、同大学学長を経て、現在、学習 院大学名誉教授・地方史研究協議会会 長・交通史研究会会長。著書「近世宿 駅制度の研究」ほか。 ・責任編集・山本大 大正元年 ( 1912 ) 高知県に生まれる。 東京大学卒業。高知大学文理学部教授、 同大学付属図書館長を経て、現在、高 知大学名誉教授・四国女子大学教授・ 文化財保護審議会委員 ( 高知県・高知 市 ) 。著書『土佐長宗我部氏』ほか。 装幀・アルク : 高村光治 地図作製・実森光一郎 / 藤井龍二 写真・預幡真一 / 安部繁夫 / 井出憲男 / 猪保 重喜 / 今井高嶺 / 岡崎禎広 / 小川智 / 奥田実 / 小原直久 / 勝井規和 / 川崎研 / 川添日魯史 / 神山典之 / 新居義久 / 高田芳裕 / 高橋善幸 / 登野城弘 / 富田 文雄 / 西村和雄 / 林重信 / 実田謙一 / 宮沢守 / 望月久 / 森田敏隆 / 矢野建彦 / 矢萩和巳 / 山内住夫 / 山梨勝弘 / 渡 辺まなぶ / 渡辺良正 / 国際フォト / サ ンエイフォト / ジェイ・オー / 水産航 空 / 世界文化フォト / ダンディフォト / ポンカラー / ユニフォトス ほかに執筆者提供の写真がありま が表示は省略させていただきます。 資料協力・大山祇神社 / 高知県立図書館 / 木挽社 / 地福寺 / 大護八郎 / 西ヶ谷恭弘 / 浜 田千津美 / 東祖谷山村教育委員会 / 村 上和馬 ( 五十音順 ) 編集協力・小田利雄 / 徳留徳 / 萩田佐智子 / 渡辺
もちろん、 土佐っ子の気性をも表しているとい業から乾燥・漂白まで、すべて自分箋に至るまで幅は広い。 手漉きによる民芸紙も数多く作られ う。しめなわの化粧まわしをつけた、 たちの手を使う。 ・坊さんかんざし「土佐の高知の体格の立派な土佐犬を模した人形は、高知藩では和紙を専売にし、保護ている。 ( 高知市内の民芸店て。直接 はりまや橋で坊さんかんざし買う いかにも強そう。木彫りや布製などしつづけたので、製紙業は昔から盛手漉き作業を見学したい方は、和紙 を見た : : 」の「ヨサコイ節」で歌種類も多く、大きさもまちまち。 ( 市んだった。日常生活に使う、障子紙のふるさとといわれる伊野町へ。谷 われているところから生まれた相合内の民芸店て。本物の闘大を見学しはもとより、書道用紙やノート、便〇八八八九・三・一 一一町役場 ) 傘に入った人形。モデルとなった純 たい方は、月の名所て名高い桂浜の 信という坊さんの首が振り子のよう闘大センターへ ) 祭り・行事一覧 になっており、風に吹かれるとキョ ・サンゴ細工土佐のサンゴは、元 ロキョロあたりを見まわすようにな禄 ( 一六八八ー一七〇四 ) のころ、 ・小豆島春の例大祭五月三日小 っている。また、べっ甲や、サンゴ土佐湾の沖合で発見されたのに始ま 豆郡土庄町肥土山離宮八幡宮交 おおえよう とのしよう る。以後、その産地を求めて足摺岬・長尾観音大会陽一月七日大川通高松・宇野港から船、土庄港から キ形や沖の島、小笠原付近、フィリピン郡長尾町長尾寺交通高松琴平電バス問い合わせ先谷〇八七九六 一一 ( 町役場 ) ロ人の方まで足をのばしたが、加工技術鉄長尾駅下車問い合わせ先谷〇八二・ ョの キ傘が秀れていたために、土佐のサンゴ七九五・二・二五一一 ( 町役場 ) ・満濃池のユル抜き六月中旬仲 が合 ・善通寺大会陽 ( 裸祭り ) 一一月一一十多度郡満濃池交通高松琴平電鉄榎 首相細工の名は全国にひろまった。指輪 や帯留、ネックレス、プローチ、ネ日に近い土・日曜善通寺御誕生会井駅下車問い合わせ先谷〇八七七 ん動 一一 ( 町役場 ) さとクタイピン、カフスなど、いろいろ旧六月十五日善通寺通土讃本七・五・二一 気坊ロ 〇 な種類に加工されている。 ( 高知市内、線善通寺駅下車問い合わせ先谷 ・十六度市旧六月一日大川郡志 で作られたかんざしも、売られてい はりまや橋近辺、桂浜などの専門店八七七六・二・ 一一 ( 市役所 ) 度町志度寺交通高徳本線志度駅 ももて る。 ( 高知市内の土産物店て。はりまて ) ・百百手祭り旧二月一日坂出市下車問い合わせ先谷〇八七八九・ や橋近辺には、高知の物産を扱った ( 町役場 ) 「い櫃石王子神社交通予讃本線坂出四・一一 土産物店が多い ) 駅下車問い合わせ先谷〇八七七四・ ・ひょうげ祭り旧八月三日に近し 類 ・鯨舟・鯨車・闘大昔から捕鯨と 一一 ( 市役所 ) 日曜香川郡香川町池の宮交通 種 鰹の一本釣り、あるいは土佐犬同士 の・金刀比羅宮桜花祭四月十日金予讃本線高松駅からバス、道端また いてめ の闘犬の盛んな高知では、これらに 細刀比羅宮田植祭四月十五日金刀は台下車問い合わせ先谷〇八七八 ちなんだ郷土玩具が多い。鯨舟は、 一 ( 町役場 ) ゴ比羅宮奉納、けまり大会五月五日、七・九・三二一 当時の捕鯨船の女船をかたどった サ七月七日金刀比羅宮大祭十月九 もの。それに車輪がついたのが鯨車。・土佐和紙四国の南部は紙の原料日ー十一日仲多度郡琴平町交通 へさき 舳先がそりあがって極彩色の模様がとなるコウゾやミツマタの産地であ土讃本線琴平駅下車問い合わせ先・大山寺のカ餅一月第三日曜板 ほどこしてある。 り、この地方では紙を漉く家が多い。谷〇八七七七・五・二一 一一 ( 金刀野郡上板町大山寺交通徳島本線 一方、江戸時代からつづく闘犬は、原料が手近にあるので、木をはぐ作比羅宮 ) 板野駅からバス、神宅下車問い合 7 高知県 香川【県 たいさん 徳島県
日街道あるきーー富士正晴 佐、横最 土てを国 昭和十五、六年ごろと思うが、高知高等学校にい とっ地四た 波あ山はっ た弟とその同級生を連れて、徳島県の西杣山村の 阿に国昔あ く四。て 若林 ( 京上の手前 ) から、た歩危のあたりを通って高 近が谷所 危境川渓難 知市まで二日で歩いたことがある。トラックが楽に 歩国野るの 大の吉切大 すれちがえるいい道であったが、その新道はおそら く昔の街道をある程度なぞり、鍬程度の道具よりは ずっと効率の、 しいトラックやダイナマイトやプルド ーザーなども利用できる点で新しい近道も作ったの にちかいな ししい道であった。しかし、昔の街道を なぞったという証拠に、第一夜をすごした小さな宿 は昔の街道のときそのままの古い家で、その布団の 下のゴサからはノミがびつくりするはど出て来てお ちおち眠れす、また、枕元近くで馬が大きい音をた てて小便をした。 のみ なるはど、「蚤しらみ馬の尿する枕もと」とかい、つ 句の面影はこういうことなのかと、そのとき大へん 感心した覚えがある。一日で祖谷山村から高知まで 歩いた強行軍のききめはてきめんで、高知高等学校 の近所の風呂屋へついたら、服をぬいで湯舟に行く のに、立ったままでは足の裏が痛く、三人ともはっ て行ったざまはなかった。 その前後、徳島県三好郡池田町のあたりからハイ どうざん ャーで、銅山川沿いの山城谷村 ( 今は山城町 ) 信正の わたしの先祖が貞永元年 ( 一一一 ) に居ついたところへ 行ったが、この川沿いの街道は古い街道をひろげた 78
大洲城からの肱川 肱川の流れは流域の人 びとに多くの恵みを与 え、水郷大洲の豊かな 風土を育んてきた。 山田堰ーー - 近世初期に 野中兼山により築造さ れた。物部川の豊かな 水を利用して米どころ 香長平野をうるおす。 ん』の舞台として脚光をあびるなど、大洲は情緒ゆする大切な交通路であった。 つるぎさん たかな静かなたたずまいを見せている。肱川沿いに 剣山地に源流をもつ物部川は、高知平野の東部 かちょう 位置する大洲城は、規模は小さいが、肱川の流れを ( 香長平野 ) をうるおしながら、土佐湾にそそぐ。そ こう ひらやまじろ 巧みに利用した要害堅固な平山城であり、 いまも高の下流、香長平野は「土佐はよい国、南をうけて年 らんやぐら 「よさこ 欄櫓・台所櫓など重文級の遺構が現存し、往時を い節」 ) と歌われた米の二 にお米が二度とれる」 ( しのぶよすがとなっている。なお最近では、六月か期作の本場であり、つとに「高知の穀倉地帯」とし うかい ら九月にかけて肱川の清流で鵜飼が行われ、水郷大て知られるが、その開発は主として近世以降のこと のなかけん 洲の新しい名物となっている。 である。とくに土佐藩の初期藩政を主導した野中兼 大洲はまた「伊予の小京都」とも呼ばれ、宇和島山 ( 」 ~ 〔一一五 ) は、領内の開発政策の一環として物部 とならんで学問・文化のさかんな土地柄であった。 Ⅱを使って灌漑し、香長平野を美田化しようという なかえとうじゅ ぜき わが国における陽明学の創始者、中江藤樹 ( ←四壮大な計画を実施した。山田堰・野市堰の築造がそ ノ ) が多感な青春時代を学問の研究にうちこんだのれで、この結果、香長平野一帯に新たに三万石の良 もこの地であった。以来、大洲には好学の土壌がっ田が開発されたと伝えられる。土佐山田・後免 ( も ちかわれ、幕末維新期にかけて朱子学・陽明学・国と御免 ) ・野市などは、このときに設定された在郷 れいめい 学・洋学の諸分野に幾多の俊才を輩出させ、黎明期町が発展したものである。なお、米どころの香長平 のわが国の学問をリードした。南予の辺境の風土野と上中流の山間諸村との間には、阿讃の村々で見 が、人びとの学問に対する憧憬をかきたてたのであられたように、 かっては春秋二度にわたる素朴な ろ一つか 「借耕牛」の風習が行われたという。 米どころを育んだ物部川 仁定日に沿う和紙のふるさと ちょうじよう 高知県は、背後に四国山地の重畳たる山々を背 仁淀川は石鎚山系に源をもち、高知県のほば中央 負い、前面には黒潮の洗う太平洋をかかえている。 部を流れる四国第三の河川である。流域のほとんど この山と海をむすんで、南北にいくつかの川が流れは深い山々におおわれるが、その川筋は古来より土 によど しまんと る。物部川・仁淀川・四万十川などがそれである。 佐と伊予をむすぶ重要な交通路であり、いまも仁淀 川とその 山や海でなかば閉ざされたこの地方では、 川の清流に沿って深い谷あいを幹線道路が高知・松 流域は人びとの生活の拠点であり、他の地域と連絡山間を連絡している。 もののべ ざん ごめん 7 イ 0
高知市遠望ーー五台山 より望む。右の川は国を、、 分川、左は鏡川。町は、 鏡川のデルタ地帯に山 内一豊によって設営さ れた。 山本大 自由民権の雄叫び近代の曙光を追「て るような情勢になってきたため、四国会議の意義が 「四国会議」中止の背景 うすれてきたのである。結局、土佐の片岡健吉と谷 ぼしん かんじよう 鳥羽伏見の戦に端を発した戊辰の役は、薩長両藩干城は明治三年七月、東京からの帰途琴平に寄 を主力とする官軍の勝利に終わり、明治新政府が樹 り、藩の財政難を理由に会議の解散案を提出した。 立されることになったが、維新の原動力となった薩議論の末、九月二十三日廃止と決定した。廃止され 長の勢力は強く、藩閥専制権力が強化されることは たものの、公論の尊重、自由民権への路線が示され 必至であった。薩長とともに新政府樹立の一翼を担たという点で会議の意義は認められるであろう。 った土佐藩は、この情勢をみて、発一一一一口力を高め、事 「自由は土佐の山間より出づ」 態を有利に展開しようとして策をねった。それに は、まず四国一三藩の諸藩が一つにまとまって総力 青い空青い山青い海ここに若さと自由が を結集することが必要だと判断された。この意識の ある。明治七年高知に誕生した立志社は、この もとに、土佐藩の首唱で明治二年二月から三月にか 大自然を象徴して自由民権の理想を掲げ、日本 けて各藩への遊説が行われ、同意を得たのである。 近代化のために先駆した。「自由は土佐の山間 会議は丸亀で行われたが、第二回以後は琴平で行 より出づ」といわれた往年を懐想して、わたし われた。議題は公議人の担当事務、近路および海賊 たちは碑前に若さと自由をたたえよう。 の取り締まり、常備兵に関する事項、廃刀令公布の これは高知のはりまや橋の西、中央公園の東入り 上申、廃藩置県、廃仏・徒刑について、徳島藩の稲口に立っている立志社跡の碑文である。 田騒動の鎮撫や別子銅山および藩の境界に関するこ 明治六年十月、「征韓論」にやぶれて下野した板 となど、多様であった。反響は大きかったが、やが 垣退助・後藤象二郎らは翌年一月、愛国公党をつく て廃藩置県による中央集権的な郡県制度が施行されり、民選議院設立建白書を左院に提出したがいれら 高知大学名誉教授 かか 76 イ
・椿さん旧一月七日 5 九日松山西条市交通予讃本線伊予西条駅下 わせ先谷〇八八六九・四・三一 ( 町役場 ) 市伊予豆比古命神社交通予讃本車問い合わせ先谷〇八九七五・六・阿波踊り 五一五一 ( 市役所 ) ・砂灸三月彼岸の中日徳島市上線松山駅からバス、椿宮下車問い 「踊る阿呆に見る阿呆同じ阿呆 合わせ先谷〇八九九・四八・六五五・闘牛一年中宇和島市天満山 なら踊らなそんそん」というはや 八万町支新高徳本線徳島駅からバ 市営闘牛場交通予讃本線宇和島駅し文旬にのって踊る阿波踊りは、 ス、田中下車問い合わせ先谷〇八五 ( 市役所 ) 八月十二日 5 十六日までの四日間。 ・五十崎大凧合戦五月五日喜多下車問い合わせ先谷〇八九五二 ・一一七一 ( 市役所 ) 徳島市では祭りのときにこられ ・阿波十郎兵衛祭り六月第一日曜郡五十崎明ま通内子線五十崎下車二・八四一一五 ( 市観光情報センター ) ない観光客のために、徳島駅前の を中心に三日間徳島市川内町宮島問い合わせ先谷〇八九三四・四・二 産業観光会館で、阿波踊りを披露 通徳島駅からバス、十郎兵衛屋敷一一一一 ( 町役場 ) してくれる。阿波踊り教室もある。 ・和霊大祭七月二十一二日ー二十四・かなむこさん旧一月十四日中 前下車問い合わせ先容〇八八六 ( 徳島市産業観光会館谷〇八八 五二・八七七七 ( 十郎兵衛屋敷 ) 日宇和島市和霊神社支通予讃村市市周辺の町村通中村線中 ・二一一・八五五六 ) ・阿波踊り八月十二日ー十六日本線宇和島駅下車問い合わせ先容村駅下車問い合わせ先〇八八〇 一一 ( 市役所 ) 一一 ( 市役所 ) 三・四・一一 徳島市、市内一円交通高徳本線徳〇八九五・二四・一一 り旧一月十四日曜中村市丸の内大神宮境内支 ・五反田の柱祭り八月十四日八・野見の潮はか 島駅下車問い合わせ先容〇八八六・ 一一七一 ( 市役所 ) 幡浜市文通予讃本線八幡浜下車須崎市交通土讃本線須崎駅下車通中村線中村駅下車問い合わせ先 一一 ( 市役 二容〇八八〇三・四・一一 問い合わせ先谷〇八八九四・二 問い合わせ先容〇八九四二 ・おごく八月十三日鳴門市撫養 所 ) 三一一 ( 市役所 ) 一一 ( 市役所 ) 町宇佐八幡神社交通鳴門線鳴門 ・高知どろんこ祭り四月第一日曜・志那椥祭八月一一十四日ー一一十五 駅からバス、島病完蔔 ロドド月問い合わ・潮ごり祭り四月七日大洲市 はたき 一一 ( 市祇園神社交通予讃本線八多喜駅下をはさむ三日間高知市長浜若宮日高知市一宮土佐神社支土 せ先谷〇八八六八・六・ 役所 ) 車問い合わせ先谷〇八九三二・四・八幡宮支贏高知駅からバス、南海讃本線土佐一宮駅下車問い合わせ 一一一 ( 市役所 ) 中学校前下車問い合わせ先谷〇八先谷〇八八八・一三・八一一一 ( 市 ・葛城神社秋祭り十一月五日鳴二 役所 ) 門市北灘町葛城神社交通鳴門線・抜穂祭旧九月九日越智郡大三八八・一一二・八一一一 ( 市役所 ) ・ドロメ祭り五月第二日曜香美 島町た乢譱神社交通尾道港・今・御田祭り五月三日室戸市吉良 鳴門駅からバス、葛城口下車 , 怛御田八幡宮交通高知駅から郡赤岡町海岸交通土讃本線後免駅 合わせ先谷〇八八六八・二・〇一三治港から船。宮浦港下船問い合わ ハス、吉良川町下車問い合わせ先からバス、江見町通り下車問い合わ せ先容〇八九七八・二・〇五〇〇 ( 町 五 ( 葛城神社 ) 谷〇八八七二・二・ 一一一 ( 市役せ先谷〇八八七五・四・三〇一四 ( 商 ・人形浄瑠璃四月 5 十一月徳島役場 ) 工会 ) ・加茂神社御供馬十月十日 5 二十所 ) 市川内明阿波十郎兵衛屋敷内交 ・四ッ白武士踊り十一月二日高 Ⅲ田加茂神社支贏・シットロト踊り旧六月十日室 通徳島駅からバス、十郎兵衛屋敷下車日越智郡菊 問い合わせ先容〇八八六・六五・二二予讃本線菊間駅下車問い合わせ先戸市浮津ま通土讃本線後免駅下車岡郡佐川町仁井田神社交通土讃本 〇 線西佐川駅下車問い合わせ先谷 谷〇八九八五・四・三四五〇 ( 町役問い合わせ先容〇八八七二・二 〇一一 ( 人形浄瑠璃上演館 ) ( 町役場 ) 場 ) 一一 ( 市役所 ) ( 旅行ライター・萩田佐智子 ) ・西条祭り十月十五日 5 十六日 ・女郎ぐもけんか大会八月第一日 愛、鰀県 むや ぬ強、は」、い 高知 ~ 県
四国力ルストー一四国 山地の西部にあり、標 高 180 メートル以上の 石灰岩山地の尾根道。 平家落人の伝説もある。 2 ひがしつの 四国力ルストは、高知県高岡郡東津野村天狗高 芳奈の泊まり屋、土佐の「若衆宿」 原から、愛媛県喜多郡野村町大野ヶ原に至る一一十数 青年団の前身を若者組といったことは高知県に限っ キロメートルの石灰岩山地である。その幅は二 たことではないが、彼らが毎夜集まって寝泊まりして キロメートル、大野ヶ原では四キロメートルにも及 いた「若衆宿」の建物を今に残しているのは、四国で ぶ。石灰岩山地であるから、風雨や水流によってさ すくも よしな も高知県宿毛市山奈町芳奈だけである。芳奈には道ノ まざまな形をした岩石が、限りなくつづく。源氏ケ ・靴抜・浜田・下組の四集落にそれぞれ一棟の泊ま だば & 駄場、平家ケ駄場、小松ケ池といった伝説の地とと り屋がある。その中で国重要民俗資料に指定されてい もに、それらの奇岩奇石もまた信仰の対象となって るのが、浜田の泊まり屋である。桁行二間・梁間二間 っ ? 」 0 」しナ / の木造高床式平屋建てで、南国風情をみせる建物であ このあたりにも神楽太鼓が響き渡っているが、四 ぶんろく かっては、小学校を出ると若者組に入らなければな 国の神楽で最も古いものは文禄一一年 (l 五 ) の文献が らない義務的なものがあった。そこで集落の警備や神 あることが知られている。 祭りの準備などを通じて、村の慣習やきまりを体得し ていった。一方ではカくらべをしたり、稲作について ル廃坑と木地師たちの道 話し合ったり、知識と教養を高める場でもあった。 尾根道は難所苦行に開悟の念を得る道筋でもあっ 屋根瓦の「若者」の文字には、かっての村の原動力 であっ・た彼らのバイタリティーをみる思いがする。 たが、一方では新世界を求める逞しき人々の通る道 でもあった。 四国の尾根には、大小無数の鉱山が発掘されてい その歴史は「別子銅山記念館」 ( 野新田町 新居浜市角 ) にとど た。今でも朽ち果てた廃坑を山中に見るが、精錬術められているが、その間数知れない遭難をくり返 の進歩とともに四国各藩が積極的に鉱山を営んだこ し、赤い鉱毒の水に苦しみ、さらに煙害に苦しみ命 ともあって、その賑わいはきわめて大きいものであを絶った者も数多く、苦難と悲哀の歴史の中で、尾 べっし った。別子銅山はその最も代表的なもので、「歓喜根から瀬戸内の浜辺へとつづく道には、鉱山に働く 山猟なは げんろく 四人朝道坑」は最初の別子銅山発見の地とされている。元禄人々の群れが行き交ったのである。新居浜の町はこ の落鉱国の らの・四々 三年 (l し住友鉱山の前身「泉屋」が炭焼きに案内うして開けていったところである。 か国師た人 山戦地った された所である。それからおよそ二八〇年余り、鉱 一方、尾根の山々では炭焼く煙があちこちで漂っ 銅本行れ のら 子 別地師ど忘脈尽き果てて昭和四十八年三月ついに閉山した。 ていた。精錬に要する木炭の煙であった。住友林業 3 73 イ
立川番所ーーー土佐から 伊予に向かう街道の関 所。享保 3 年 ( 1718 ) 以 後参勤交代路となり、 御殿と呼ばれる本陣が 設けられた。 ぬしま 歌が歌われ、御座船は沼島を見て紀伊の川田に向か 二ノ丸が完成したので、浦戸から移った。慶長十五 くうきよう ちくりんじ って紀淡海峡を横断するが、紀伊北部の沿岸から和年、五台山竹林寺の空鏡上人が、文殊の智恵にち 泉路へと航路をとり、大坂の安治川の河口に着船なんで高智と命名したという。翌十六年、三ノ丸が きよう・ほう し、ここで川御座船に乗り移り、藩の蔵屋敷下まで完成、その後整備されたが享保十二年 ( 一一し焼失 一七こようやく旧に復した。 船歌を歌いながら進んだ。歌の数は多かったが、例し、宝暦三年 ( 五一 ) 。 えば、 一豊は城下町の設営に努力し、東は廿代筋から堀 かしばた ますがた 阿波の鳴門に身はしづむともよ 詰まで、西は江ノロ川の河岸端から舛形・金子橋、 かく 君の仰せはそむくまじとは思へども 南北は鏡川と江ノロ川で区切り、その範囲内を郭 ちゅう かみ 世の中の人の心はあすか川 中といって上士の居住区域とした。舛形より西を上 まち しもまち のような歌がゆるやかなテンボで歌われたとい 町、堀詰より東を下町とし、上町には下士、下町に は商人や職人を居住させた。はりまや橋はもと下町 江戸への往復はたいてい東海道を通行したが、との御用商人、播磨屋と櫃屋の屋敷の間にかけられた きには中山道を利用することもあった。ふつう徳私橋であったが、のち藩営の公道となり、幕末の純 島・江戸間を一四、五日で旅している。行列の先駆信・お馬のラブロマンスで有名となった。 は、陣場方といわれた道中になれた飛脚がっとめた 高知城を起点に、主要街道は東西と北に延びてい かんのうら た。参勤交代路は、はじめは東街道を通って甲浦 と伝えられているが、感状 ( 戦功を賞して主君か 書 ) の入っ ながもち た長持を行列に組み入れていたので、他藩の敬意を に至り、ここから乗船して大坂に行った。ときには 受けながら行進したという。 浦戸から外洋を船で行くこともあったが、のちには 北山越えの土佐街道を行くようになり、この道が正 高知城と北山越え 式の道となった。 りよう 関ヶ原の戦ののち、長宗我部盛親は国を除かれ、 高知から東へ向かい、中島で東街道と分かれ、領 せき 山内一豊が土佐二四万石の大守に封じられた。一豊石から本山に向かって北上し、本山からさらに東へ かみぜきしもぜき 上関・下関を通るが、下関には藩主の休息所であっ は慶長六年 (8 六 ) 、浦戸に入城したが、土地が狭く たじかわ 国都にふさわしくなかったので、背後に高知平野をた庄屋屋敷が残っている。川口から北上して立川を おおたかさ ひかえた大高坂に居城を定めた。百々越前守安行をめざす。立川には番所があり、警備が厳しかった。 総奉行に任じて築城に当たらせ、慶長八年、本丸・ 参勤交代の行列はここで一泊するが、現在、立川御 0 もりちか ほうれき ひっ
四国 味 の 旅 電話 ( 店・問い合わせ先 ) 特徴 良質の小麦枌を無漂白のままイ吏い、季節によって塩分の調節をして打 讃岐うどん ( 高松 ) 0878 ・ 22 ・円 56 ( 川福 ) っ讃岐うどん。高松市にはいたるところにうどん屋がある。 瀬戸内海てとれる鰆は春の縁起物として料理される。その鰆の真子を 鰆のカラスミ ( 高松 ) 0878 ・ 2 い 3530 ( 魚徳 ) 天日に干して作ったカラスミは、夏の間だけ味わえる珍味てある。 400 年という長い伝統を誇る小豆島のそうめん。麺棒てのばさず、麺の 08797 ・ 5 ・ 0039 島そうめん ( 小豆島 ) ( 手延べそうめん組合 ) 重みを利用して上下に引いてのばしたもの。 フナのてつばい 溜池の多い香川県に多くとれるフナを、火を通さず、白みそと甘酢を 香川県の各家庭で作られる ( 香川 ) しみ込せる。泥臭さを感じさせない、昔から伝わる家庭料理。 08868 ・ 6 ・ 7722 鳴門ワカメは干しワカメが有名。灰干し、塩抜き、水さらしの三段階を 鳴門ワカメ ( 徳島 ) ( 徳島鳴門漁協組合 ) ふんだワカメは、新鮮な縁を保つ。春のワカメ舟は鳴門渦潮の風物詩。 深い渓谷の里、祖谷は、高冷地のうえ、やせ地てある。また、霧がかかり 088388 ・ 2034 祖谷そば ( 祖谷 ) ( 祖谷そは本舗 ) やすいところから、そば作りが盛ん。かずら橋とともに、祖谷の名物。 大歩危アユすし 大歩危のアユは、俗に「歩危の百匁アユ」と呼ばれている。ー尾て 6 人 0878 ・ 5 い 8647 ( 祖谷温泉 ) 祖谷 ) 前もとれるほどて、季節には渓流釣りにいそしむ人が多いようだ。 0886 ・ 53 ・ 7755 万葉の昔から栽培されていた伝説をもっスダチは、最近自然食品とし スダチ ( 徳島 ) ( スダチ・ゆこう消費宣伝 ) ても人気がある。豊富なビタミン C を有するためて、調味料とされる。 松山の鯛めしは、新鮮な鯛の切身をこくのあるしようゆにつけ、真白い 鯛めし ( 松山 ) 0899 ・ 45 ・田 93 ( 伯味 ) ご飯にたれごとかける。その上に番茶をかけた、手軽て豪華な味。 0899 ・ 23 ・Ⅱ 愛媛の山問部ては、ミカンの青々とした木々が生い茂る。むきやすい皮 伊予ミカン ( 松山 ) ( 愛媛県青果農業協同組合 ) と、風味が喜ばれており、最近は一年を通して産することもてきる。 赤・青・黄・茶・白といろどりも美しい五色そうめんの色は、天然着 五色そうめん ( 松山 ) 0899 ・ 46 ・田 23 ( 森川 ) 色。梅肉・抹茶・鶏卵・山芋粉を使っており、長い伝統をもつ。 宇和島かまばこ 上等な工ソという魚を原料とする宇和島かまぼこは、豊富な種類と独 0895 ・ 22 ・ 64 引 ( 宇和島 ) ( 宇和島かまばこ組合 ) 特の歯ごたえが特徴。なかても真鯛を使ったびり鯛は、高級品。 土佐名物、一本釣りの鰹は、たたき、刺身から、鰹節、なまりにいた 鰹 ( 高知 ) 高知市の各郷土料理店 るまて、捨てるところがないほど。どの店ても味わえる。 皿鉢料理とは、南国土佐の海の幸を、極大の皿に盛りつけたもの。祭 皿鉢料理 ( 高知 ) 高知市の各郷土料理店 りや行事には欠かせない料理て、座を盛りあげるのにふさわしい。 ら れ茶色め白 辺そ美 と は お の と ン れめ の 五 五 を 、はん と だ 久 伊茶た て の し し カゞ つ る し 五色 い黄天は 色通が場主 丿虱 い た ど予 漬 ぇ と く のは 〇そ し が産味オ濃ん が る いそ け も れ上 た の で 。鶏着伊 て ろ ン 地 い な っ カゞ カ と よ か鯛あ評豪 た レ め 卵色予 どめ店は と ン緑 い く 山 て ら を る判華 則 ン ん 、で松 ん頭夏 ズな り は・ の番た の間 し がな ジ え は 茶 、山 も こ十甘 つれ色木部 の よ い刺茶 れ よ よ ン す歴 き赤 こ赤 ( も と っ ち身 を て て の がで カ っ し、 ら で史 はが伝れ カ栽 さ おむ育 も 。ばがか い ゆ と ン 山梅 っ ン培れ り き る つ 王 け真 ( 手 ン 月 るな 芋肉 が さ 、や 。カ 国 て る 白 軽 コ 、そ五黄並 粉 い 松す イ尹 オし ン の れ 青、 っ 色・ が い 予 の愛 た オこ っ 食 ぶて コ 使がめそ茶 冂媛 市皮 く と の飯 、か 天然着色の五色そうめん わ抹 ん カ 近 な歯 と で も 々 り ら ち た く 満肉 と 鰹 べ 包 よ と れ・ た ま こ島る 土 のキ、 か朝 よ 、火 ろ鰹 腹 り ラ科れて鰹 , 産 っ ばびる丁 り っ な廷 呈 力、 の の い 宇 工 ン ん おト . 、塩 を 感刺 ( 理だイ た し 、ギん り で ま ソ和な味 ( は 、理を ・通 身か酢 た ではすキ土 よ も し ン だは、 と島色わ も い っ 角 し生す は . 感 き も あ 。が佐 て く あ のけ や と 飯 い献 がる と 不重 か あ い 煮 と よ も ほ し よ は り は よ る の い醍 の し類 と上 い の っ ま よ 、わ醐 さ 日 の 、魚ばが り お た ノし っ の 冫 / つ 多 そ 煮 ( 。物 せ も ろ切食ど ゆ ら持 れ味 も か歯 、夏れ だ ・さ のけ も も ポ特を 初鰹 ク こ・身・ の鰹 れち が 、すこ る れ 食季オ る べ で 味 の 多 の 鰹は て も リ 徴 の ら 店 は真あ 手 ( ひ た で上欲 ( と コ 。た 生 肉 れでた い良上鯛 え有バ作等 ュ ツ は で と を る し、 腹 ひ臭ががる ま も 、 . 里 い等を 。ち た る 人が名 らな 増涼 ん刺 いあ厚 。安 き 春潮 品使 ぎ気あ ム る た ェれ材す風 ク ) ば身 で こ匂 る く 土心力ゞ 先 ( が り 。をな つが ァ た科 つ 、佐 ポ と は あ 、ない か洗 し て あ 、む た 宇で よ め イ り 牛る を ま らわ 軽 お あ か 食 ピ る 酒 と あ の て ぶ ら 4 味 ( 産地 ) 高知県
立志社の碑ーー一高知市 の中央公園東入り口に 立つ。立志社跡は今は デバートとなっている が、この碑が自由の尊 さを教えている。 片岡健吉の銅像ーー - 高 知県議会議事堂前に立 つ。板垣退助とともに 自由民権運動の先頭に 立ち、立志社社長・県 会議長・衆議院議長と なる。 ~ を 0 れなかった。板垣は高知に帰り、片岡健吉・林有造 くることを目標にしているのである。 らの協力により、同年四月十日立志社を設立した。 板垣退助と立志社の挫折 本部を京町西端の旧町会所跡に置き、藩営の旧開成 館に立志学舎を開設して政論を展開し、西洋近代思 明治十年、西南戦争が起こると、林有造を中心と 想の紹介と普及につとめ、自由民権運動の第一声をする挙兵派と自重派とが対立したが、挙兵計画は実 あげたのであった。 行されず、同年六月九日、社長の片岡健吉が代表と 土佐藩は大政奉還の建白を行い、明治維新出現のなって国会開設建白書を提出した。しかし、却下さ 原動力となったが、奉還建白の基となったのは坂本れて憲政への願いは実らず、かえって立志社の動き 龍馬の「船中八策」の構想であったといわれてい に対する政府の監視は強化され、林有造は挙兵を画 る。そのなかに「上下議政局を設け、議員を置き、 策したものとして東京警視庁に留置され、社長の片 万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事」 岡健吉ら幹部一五人をはじめ社員は相ついで検挙投 の一条がある。「公議に決す」は、はじめは限られ獄されるに至った。いわゆる立志社の獄が起こった た人びとによる決議であったにせよ、有司専制を排のである。板垣は激発しようとする社員を制し、言 し衆意に問うことを意味しており、自由な民権の実論によって民権運動を展開しようと活動をはじめ、 現を志向するものであった。このような先駆的土壌立志社の機関誌として『海南新誌』と『土陽雑誌』 のなかから立志社の民権運動が生まれてきたともい を発刊し、自由民権の論陣を張り、政談演説を行っ えよう。立志社は「人民はすべて同等で一定の権利て藩閥政府を攻撃した。一方、大阪に愛国社を再興 を有する」との原則にたち、「設立趣意書」で次のし、全国の同志とともに国会開設運動を展開した。 ように述べている。 高知では立志社を盟主とする小結社が生まれた この権利なるものは、権威もって之を奪うを得 が、おもなものに江ノロの有信社、上町の嶽洋社、 ず、富貴もって之を圧するを得ず。けだし天の浦戸町の修立社、北新町の共行社などがあった。共 もってひとしく人民に賦与する所のものにし行社はのちに反民権的であるとの理由で立志社から て、而してこの権利を保有せんと欲するもの、 除名された。これら結社の活動はめざましく、連合 また人民のよろしく勤勉すべき所のものなり。 して士気をたかめ、「民権数え歌」まで流行するよ そして人民の権利をのばすためには、民会をつく うになったが、民権思想啓蒙のため遊説員が各地へ らねばならぬとし、まず自治組織としての民会をつ派遣され、民権運動は非常なたかまりをみせた。な ふよ ノ 65 ーー自由民権の雄叫び