ッ第 : , ダ・ / 第な : , をに 、物を一第ィ 0 三浦按針の墓ーー鎖国オランダ塀ーー塀の右 以前この一帯は外人墓手にあった商館を守る ために建造。高さ平均 地て、号砲を放ちなが ら出入りする母国船が 1.8 メートル、基底部の 手にとるように見えた。厚さ約 0 . 7 メートル。 を気トをに のが見える。 平戸は最も古いポルトガル貿易港の一つで、『日 本史』の著者フロイスらの布教の地でもあるが、生 隠れキリ 月島などの " かくれ。 ( 一タ一 ) をのぞけば、今は こんせき その痕跡をとどめない。ついで慶長十四年 (8 しに に成石ー 開かれたオランダ商館は、桟橋を降りたすぐ右手に 国造のは 開に地道 手留のるある。その区域は、なだらかな石段に沿った三〇メ 山居崎あ 坂南人長が ートルほどの「オランダ塀」より下、東南隅海岸の ダ・外。徴 ン東たみ特 ラりれたに 「常燈鼻」までで、その間に石庫の壁の一部が篠崎 オよさだ講 家の壁として利用されており、「オランダ井戸」 「オランダ川」 ( 溝 ) ・埠頭が残っている。 島原の乱を鎮圧した帰りの老中松平信綱 ( 伊豆 守 ) は、商館長に命じて「常燈鼻」に据え付けた大 砲で、対岸の標的を撃たせた。薩摩ー長崎ー博多ー 大坂を結ぶ幹線水路である平戸瀬戸は、完全にオラ ンダ艦砲の射程内にあったわけで、倉庫の破風に刻 まれた 618 ごというキリスト紀元の年号ととも に、商館破壊令の一因となった。 「オランダ塀」の坂を登りつめた山の頂には、徳川 ( 家康 0 外交顧問 0 もあり平戸 0 死んだ英人ウ→リア " 5 ) の墓があり、元寇西 ム・アダムズ ( 三浦按針、一六一一〇 の鷹島や壱岐・対馬が望見される。 坂の途中に鉄筋二階建の観光資料館があり、日本ン 平戸出身の嵐山甫安、 では最も古いオランダ外科免許状 ( 日付は 21,Januarij, 166 ) や、ジャガタラ文五通などを陳列する。このう ちコルネリヤのものは、平戸木引田町の判田五右衛 つき
第午・町 ~ をし、谷ン ト“宀当三 一 : 誉を 第を - ま、、 1 長崎・オランダ坂 開国後に外国人居留地 となった東山手にある 石畳の切通 ( きりどお し ) て、周辺は木造の 洋館が多い。 ゞ帚のサ物なを ' てき屮ゞ、 % は , 、い、八イ レこ 島原の武家屋敷ーー松 平氏 7 万石の城下て、 城の西に徒土屋妝が残 り、苔むした石垣が、 昔を偲はせる。 イ 3
子供八〇円年末を除いて無休 ) 市内は、城下町らしい町名がいた るところについている。唐津くんち だし 長崎市街図 ま至相望 に曳かれる山車があるのは西城内、 唐津城があるのは東城内という町で日本初の貿易巷として、また、徳川 たところから名づけられたオランダラス、帆をいつばいに張ったオラン ある。曳山展示場 ( 九時ー一七時三百年の長い鎖国時代にあって、唯坂など、数えあげればきりがない。 ダ帆船やべーロン船、中国から伝わ 大人一五〇円子供八〇円無休 ) 一の外国文化との接点として、異国エキゾチックな想いにかられるのった、海亀から作るべっ甲細工と、 には、唐津名産品を売るコーナーも情緒を漂わせてきた街である。 は、長崎の街に点在する土産物店の飽きることがない。この長崎の街を せゆとう ある。朝鮮風の施釉陶がいち早く取慶応元年 ( 一八六五 ) 、フランス居置く品物のせいもある。ギャマンとめぐるのに便利な足が県営バス。四 り入れられた唐津焼を売る店は、市留民の祈りの教会として建てられたいわれたガラス細工や、ステンドグつの定期観光コースが毎日出発して 内各所に点在しており、回り見て歩大浦天主堂。万延元年 ( 一八六〇 ) 、 いる。 ( 長崎県営バス〇九五八・一一 " 主 くのも楽しい。 ( 唐津市商工観光課アメリカ領事館館員の宿泊所となっ 〇九五五七・三・六一 た十六番館。イギリス商人のトーマ また、小倉へ通しる長崎路の古賀 " 大 る には、異国文化の一端をうかがえる ス・グラバー氏の邸宅跡であるグラ ~ 4 。 . 長崎エキゾチック街 ー園、ここは、蝶々夫人ゆかりの - び古賀人形が、今も作られている。素 海に沈むタ陽を見る長崎は、その地としても知られている。他に中国 そ朴な土人形は、オランダのキャピタ 海の彼方から異国の人々を迎えた。、風の崇福寺やオランダ屋敷の多かっ ンであったり、シャモを抱いた唐人 防風林として、唐津の初代藩主寺沢 氏が植えさせた。夏になると絶好の 海水浴場となっている。 東唐津から海にそそぐ松浦川にか かる舞鶴橋を渡ると、右手に唐津城 がそびえる。昭和四十一年に造られた もので、城内は郷土博物館となって いる。 ( 九時ー一七時大人一五〇円 む を 界 ム戯↑上イ ・滯上天王宝 中じ地 陸上競 山王社 ( 局足の島があう ) 爪町国茎地 。日爪聖人地 叔崎ム園諏 諏神 ス代町 穏佐国際墓 3 ①與福奇 出島相鶯商館 覚寺下 。人屋敷新 オコ ) 取 ( 石畳 ) 人館 ( 孔 ) 囚用岸西 ・園
長崎での主な買物 数量代銀 ( 匁 ) 備考 四巻半 緞子 ( どんす ) 一巻 緋緞子 しや香 〇・五斤 沈香 五斤一六匁 九匁 竜脳 蘇木 ( すおう ) 一一〇斤 手火矢 ( ピストル ) シャポン カッパ ( 合羽 ) 金の茶わん 硯箱 七宝るり皿 無量 沈香 阿仙薬 金の盃 七宝るりのびん 指金 五〇 一〇匁 7 七七・九 四五・二 一二〇・二ロ薬とも 一〇四 三〇〇〇本 一〇・八 ・小皿を一、も 自分の物 〇・四自分の物 三・八自分の物 二自分の物 自分の物 〇・九自分の物 「大和田近江重清日記」より 状」、倭寇のシンポル「八幡大菩薩」の旗、現存唯 一の秀吉のバテレン追放令、オランダ船首飾木像、 そして『甲子夜話』正続二〇〇巻を著した幕末の藩 主松浦静山が蒐集した内外の典籍・洋書、長崎の日 清・日蘭交易絵巻など、中世から明治にいたる平戸 の栄光が一目でわかる。 しかし、「西の都」とよばれた繁栄期は、ポルト ガル・オランダ・イギリス貿易時代で、鎖国後は西 国一小藩の城下町にすぎなくなった。ポルトガル人 が日本から締め出されたことに万歳を叫んだオラン ダ人は、二年後には「自由」な平戸から長崎の「国 立監獄」へ移された。コルネリヤの涙は商館や平戸 人の涙でもあった。繁栄期の藩主隆信宗陽の墓所か らは、教会と仏寺が交錯して見え、その時代を象徴 するかのようである。 かえい しよう 門と再婚した母すりしゃなどに宛てたもので、オラ 市街からやや離れるが、嘉永三年 (lä) 吉田松 やまが ンダ商館長の子である彼女は、姉や長崎出身のお春が入門した山鹿流兵学の積徳堂、朝鮮の役で連れ きよかん ( ジャガタラお春 ) らとともに、鎖国令でジャカルタ られてきた陶工巨関が築いた窯がそのまま残る中野 に流されたのである。東インド会社社員ピーテル・ 三川内焼 ) は貴重である。川内峠をこえると、「国 せんやていせいこう クノル ( このる ) と結婚し、裕福で円満な家庭生活姓爺」鄭成功の居宅趾、英商館長リチャード・コッ を反映して、茶包みのふくさに書いたこしよろのクス ( 一一 = 一年在しの日記によれば、「琉球から取り寄 「日本こいしや、こいしや」といった感傷はひとっ せた甘藷を日本で最初に栽培した」菜園がある。 もない。しかし、夫の死後裁判官と再婚したが不仲内浦は平戸港の副港で艤装地であった。 で、老後は悲嘆にくれる日が多かったらしい 文禄ニ年の長崎ショッピング 港を見下ろす細道をたどると、五、六分で旧藩主 邸の松浦史料博物館にいたる。松浦党の「一揆契諾 文禄一一年 (llfl) 七月、肥前名護屋で朝鮮渡海を待 オランダ埠頭ーー現在 わが国に残る最も古い 異国への埠頭。ジャガ タラお春もここから乗 船した。 ぶんろく なごや こく
グラバー邸ーーオペラ 「蝶々夫人」の舞台を思 わせる、幕末のイギリ ス商人トマス・グラバ ー ( 倉場 ) の邸跡。 着ン言 第を 民四人を伴って長崎に来航し、通商を求めた。幕府は、ただ一つ江戸町と石橋で結ばれ、出入りは門鑑 をもった役人・取り引き商人・遊女だけで、オラン は半年も待たせた翌年三月、使節らを立山奉行所に 呼び出して、「通商拒否、漂流民は今回は引き取るダ人は島の内外で厳重な監視をうけた。本船との人 が、以後はオランダ人に任せよ」と回答した。仙台や荷物の出入りは、今の出島電停付近の水門から小 領石巻の舟乗り一六人が、一〇年前アリューシャン舟でなされた。今は全面埋め立てられて石橋もない が、地面に鉄鋲をうって元の地形が示されている。 に漂着した。シベリアを横断して今のレニングラー トへ送られて女王に謁し、送還希望の津太夫ら四人貿易品のほか、館長のカロン、チチング、メイラ だけが大西洋・マゼラン海峡・カムチャッカ・八丈ン、医師のケンベル、チュンべリー、シーポルトら 島・薩摩沖を経て帰ってきたのである。うち一人は、日本と西洋の文化を相互に伝達した大きなかけ は、幕府が受け取りをためらう半年の間に自殺をは橋であった。 しゅう 出島から茂木道には、最初の洋式砲術家高島秋 かっている。右の幕令を伝えたのは目付遠山金四郎 景晋 ( 景一その子 ) 、立ち会いの一人に在勤の支配勘帆邸やポンべの小島養生所跡がある。深堀道にそっ しよくさんじんなんぼ て、「オランダ坂」の東山手や、大浦天主堂・グラ 定大田直次郎こと狂歌で有名な蜀山人南畝がい ー邸などの南山手は、幕末開港による外人居留地 た。この跡の一郭に県立図書館があり、重文クラス である。グラバーは幕府・諸藩を問わぬ軍拡競争を ほかの郷土史料が常時無料で陳列されている。 利用して産をなしたイギリスの冒険商人で、「蝶々 立山から日見街道に出たところに長崎代官所 小学 ) 、諸街道の起点が西奉行所 ( 覡新町ズスし夫人」の舞台を思わせるその華麗な庭園の対岸に 校 で、一帯は一五七一年ポルトガル開港時にできた最は、幕府の製鉄所・軍艦打建所に端を発する三菱造 古の六町である。坂を西にくだれば、長崎の海の玄船所の三〇万トンドックがみえる。 おおはと 幕末の豪商小曾根氏造成の小曾根町を過ぎて少し 関で、八月十五日の精霊舟も浄土へ向かう大波戸。 こすげ・ 行った小菅には、明治元年創業の″そろばんドッ 出島は、寛永十三年 ( 一一市内散居のポルトガル 人を集住させるために、有力商人一一五人が出資してク〃の施設が残っており、その先、香焼島を地続き 海中に造成した貸家街であった。彼らの追放で一時に埋め立てて作られたタンカー専用のマンモスドッ クとは好対照をなす。 空き家になったが、同十八年平戸オランダ商館がこ まさに、明治以降の日本経済の発展史を象徴する こに移されてより、家賃は江一尸時代を通じて年に銀 五〇貫目余の据え置きである。三九二四坪の小島かのようである。 かんえい はん イラ バッテ
三受ん心を 1 傘鉾祭 人柱となり 山国川の水害を救った お鶴・市太郎の霊を慰 める花傘鉾が練り歩く。 ( 8 月 25 ~ 26 日・大分 中津・八幡鶴市神社 ) 長崎くんち一一 - ・一長﨑独 特の竜踊り、鯨の潮吹 き、オランダ万歳など が奉納される。 ( 10 月 7 ~ 9 日・長畸・諏訪神 社 ) 高千穂夜神楽ーー天照 大神の「天の岩戸」か くれの故事に因んだ神 楽てある。い 1 月中旬 ~ 2 月上旬・宮崎高千穂 唐津くんち一一一一ハッヒ。 姿の若者たちが、鯛・ 鳳凧丸・飛竜などの曳 山を勇壮に引き回す。 ( 11 月 2 ~ 4 日・佐賀 唐津・唐津神社 )
異国情緒のただよう長崎は元亀元年 ( 一五七〇 ) 、キリ 移し鎖国時代の唯一の海外貿易港になった。唐人 ( 中国 シタン大名大村純忠が海外貿易のため開港したのに始ま人 ) に対しては、元禄元年 ( 一六八八 ) 、高い土塀と掘割 る天正十五年 ( 一五八七 ) 、豊臣秀吉か切支丹禁教令をに囲まれた唐人屋敷を設け、密貿易とキリシタンの潜入 出して公領となった。その後、寛永十三年 ( 一六三六 ) に、を防いだ幕末・維新の青年たちが、政治の改革を、文 てしま 徳川幕府が出島を完成、ホルトガル商館が置かれたか、 化の開花を求めて長崎への道を急いだのも、長崎が海外 同十八年、ポルトガルを追放、平戸からオランダ商館をの清勢を伝える唯一の窓口であったからである 一 , ~ ー - 啅を第気ネ : マ殀ーの 九十九島 佐世保か ら平戸に至る海上約 25 キロメートルにわたり 点在する島々の総称。 紺碧の海に浮かぶ白砂 の島々は、まさに天然 の美てある。
秀際利はし のを真築 興き写移 塀復れ。に 多多が造内 博博は急境 のる人を社。 家よ町塀神の 井に多し田も 島吉博用櫛た を一第」ト しりとして最も注目に価するが、そのほか現代人が っているが、平蔵はそれらの商館に多額の金を貸し けんけんふくよう 常日ごろ拳拳服膺すべき戒めが数多く盛られてい ていたのである。また平蔵は、長崎の中島川にかか る。 る眼鏡橋など石橋の南蛮式架橋技術をとり入れて後 たとえば、宗室によれば、交遊をさし控えるべき世に伝えた。文化導入者としても優れたものをもっ 相手とは、けんか早い人、仲介ずきなおせつかい ていたのであろう。 えんぼう や、万事はで好みの人、大酒のみ、うそっき、遊芸 延宝四年 (l){) 密貿易が発覚して流罪に処せられ けっしょ ぎん に憂き身をやっす人だという。また、宗室は「朝夕たが、その闕所 ( 江一尸時代、追放以上の刑に処せられ ) 銀はゆ よくよく味噌をすり、こして味噌汁をつくり、味噌うに二、三万貫目を越えた。中小大名など足元へも かすには大根・かぶ・ねぎなどの皮やヘたをつけて寄りつけぬ、かけねなしの日本一の金貸しであった きよみずでら 味噌づけにし、使用人のお菜にせよ、米が高いとき ことはたしかである。長崎の清水寺に残る末次船 平蔵の出し はまず主人が雑炊をたいて食べ、その次に使用人に た朱印船 ) の絵馬に、全盛時代の平蔵の経営をわず も与えよ」ともいっている。捨てることを美徳と考かに偲ぶことができる。 えている現代人には、少々耳の痛い話ではないか。 巨利をむさばる密貿易 いとうこざえもん 日本一の金貸し 伊藤小左衛門の経営の本拠は博多であるが、彼の えんぼう はんと 延宝二年 (ALå) ごろ、藩政の運転資金に窮した熊経営上の版図は、西は朝鮮半島から東は山陽道・出 がねひたがね 本藩の重臣は、恰好な金づるとして長崎銀と日田金雲街道にまで及ぶ広大なものであった。主業は海外 ( 銀 ) をあげている。上方では借金をまともに返さ貿易、それも幕府の警戒の網の目をくぐって行う、 ないことで札つきの熊本藩でも、上方から遠く離れスリル満点の密貿易であったらしい。国内交易で いずも た長崎や日田では、大きな顔をして借金を切り出せは、出雲の特産物 ( 鉄・下布・紙など ) と伊万里もの たからであろう。 ( 磁器であろう ) の交換で巨利を得ている。夏は長崎 長崎銀は、長崎代官で大手の朱印船貿易家でもあ出店の天井にガラスをはめて金魚を泳がせたという すえつぐへいぞう しい伝えがあるくらいに、その生活は豪奢をきわ った末次平蔵 ()* 「 5 ) とその配下の商人の合同資 本であった。平蔵らの貸し付け先は西国大名をはじめ、長崎のオランダ商館長が耳にした巷の噂によれ めとし、内外の貿易商人ら多数に及んだ。現在、平ば、全盛時代の小左衛門は毎年金一一〇〇両を消費し 戸や長崎にはオランダ商館やイギリス商館の跡が残てもびくともしない金持ちだったという。福岡藩主
有田の道すじ - ーー国道 にそってつづく町並み は、その家の造りに明 / 台の面影をよく残して いる。やきものを売る 店が軒を連ねている。 まィー 、、、な ~ 第働私を 3 た、当時日本から磁器を積み出していたオランダ東ある。 印度会社の記録によると、会社と契約をしていない 輸出時代は慶安三年 (G) に始まって、おそらく 陶工たちが、各自の製品をもって出島に売りに来て江戸時代末期までつづいたものと思われるが、一八 いたことがわかる。その商品のなかには、海外市場世紀中ごろまでがその盛んな時期であった。清朝の 向きでないものもあれば、輸出用磁器とは異なった もとで、再び熱心に陶磁器の輸出をおこなった中国 魅力をもっていたために、買い上げられた場合もあであったが、オランダ人は日本の磁器にそれなりの ったであろう。 いま、海外でときおり見かける型物魅力を認めていたようで、寛文十年 ()L しごろまで 古伊万里の皿や鉢、また古九谷様式の皿や青手の瓶有田では輸出磁器の生産を大きくおこなっていた。 などは、そのようなものであったのかもしれない。 苦難を乗り越えて いずれにしても、国内市場でも寛文年間 ( 一八世紀後半からの有田は、苦しい時期を迎えた 三 ) には「錦手今里」といわれた色絵磁器がみられ たことは明らかで、その実体を明らかにするのが今ようである。輸出の不振もその原因のひとつである が、絵薬の不足、藩による陶器の専売、運上金 ( 税 後の課題ともいえる。窯跡からの出土片のなかに しくつかの原因が考えられる。一 。しったいこれにどの金 ) の増加など、 ) も、色絵用の素地であるのこ、ゝ ような色絵文様が施されていたのか明らかでないも方では、伊万里焼は肥前のやきものとして全国に普 のもある。有田外山の山辺田窯跡から出土した大皿及し、有田の窯業は殖産事業を願う諸大名の垂涎の と思われる破片がそれで、底部や高台まわりには染的であった。各地に陶工が出向いて技術を伝えるよ 付線がひかれ、見込みの円窓にも染付線がまわり、 うになったのも、一八世紀末期から一九世紀前半に 青灰色のあまり上質ではない素地をしている。そのかけてのことであった。これは、伊万里が海をへだ 素地の灰味は、有田で好まれていた純白に近い白素てた国から受け継いだものを、じっくりと熟成し の へ 地とはまったく異なるもので、文様の区分線だけに数々の優品を生み出したあと、その技法を広く伝え里 伊 一染付を用いた色絵磁器は深鉢や瓶・壺などの、輸出つつ、自らが新しい方向を探っていた時期であった 美 の ー一物に多いが、皿にはきわめて遺品の少ないものであといえよう。一九世紀になると、染付大皿を次々と の る。大英博物館蔵の芙蓉手大皿はその一例である焼くと同時に、再び活気を取りもどした海外市場に が、窯跡や物原から出土するおびただしい量の色絵向けても焼造を始め、伊万里からの道を切り開いて いったのである。 素地にくらべると 、ゝかにも少ないことは明らかで 7
柳川 水の街を三め ぐり七めぐりし、川下 りの客を白秋生家・詩 碑苑に送り込むと、沖 端の舟どまりはドンコ 舟の日だまりとなる。 矢部のやん七さんな馬から来たが 造る水でもあった。しかも、それは灌漑の水であ 五島の権十どんな帆で逃げた ( 白秋 ) り、産物や人を運ぶカッパ舟を浮かべる水路として 約二キロ、、 柳川を南に約半里 ( メ ) 父長太郎の待っ沖も使用された。昭和三十五年に始まった川下りの舟 はた たわらもの ひのあしへい 端の北原家は、魚や干物類の俵物を商う海産物問 は、「ドンコ舟」と呼ばれており、火野葦平が名付 ふつどいや 屋で、藩の御用達を勤めて、「古問屋」と呼ばれけ親である。柳川生まれの自由律の俳人木村緑平や はせけん た。また、「油屋」の屋号の示すように、油製造一兀『あさくさの子供』で芥川賞の長谷健、直木賞の檀 かずお しにせ をも手がけた老舗であるが、祖父の代から酒造業を一雄ら文人も、この溝渠を舟で遊んだことであろ 始め、父はこれを本業とした。 家の前の沖端川の船着き場には、「平土、五島、 柳川を訪れる旅びとから、「溝渠の水が濁ってい る」と、よく耳にする。水が汚れ始めたのは、柳川 薩摩、天草、長崎等の船が無塩、塩魚、鯨、南瓜、 に上水道ができてからである。地下水や溝渠の水を 西瓜、たまには鵞鳥、七面鳥の類まで積んで来て、 「思ひ 0 ) 帰りの船荷は、柳飲み水にした柳川の人びとは、庭裏に " たんば。を 絶えず取引してゐた」 ( 出一 ろうそく さんでん ゅあみ すいじんさん 河近在の三田の瓦や下駄、蠑燭などで、マストのつ掘り、湯浴の水をそれに溜め、水神様を祀った。柳 川の溝渠には生活があり、水に四季がある。秋祭り いた三、四百石舟が開閉橋 ( 三明橋 ) を通って有明 海に帰っていった。 の準備に、「水門の扉は閉され、水は干され、魚は なま 白秋の作品には、「 Gonshan ( 娘 ) 」、「 Noskai 屋掬はれ、腥くさい水草は取り除かれ、溝どろは奇麗 なまり こわく さら ( 遊女屋 ) 」などのオランダ訛の蠱惑的な土語や土俗に浚ひ尽くされる ( 中略 ) 。この一騒ぎのあとか ひさし 的な南蛮語調、そしてエキゾチックな音楽性をもつら、また久闊ぶりに清らかな水は廃市に注ぎ入る」 みずも 「思ひ。′ 言語が、よく出てくる。これらは、有明海を渡って 出」 ) , 水落ち。がすむと、静かな水面を進む かさ くもで きた青いランプや、長崎ビードロ・西洋凧・から傘「コタッ舟」の行手に、蜘蛛手網が、空に拡がって路 とうじん 唐人 ( 柳川凧 ) ・オランダ訛の小歌などの異国の物と、 いるのに出くわす。柳川は、かっての美しい″水〃 柳川の風物とが混生した幼いころの地臭・体臭を感を取り戻すために、四五〇億円をかけて下水道工事生 じさせるのである。 を計画している。 水に生き、水で生き、水を生きる柳川である。そ 水に生き、水を生きる柳川 して = = = 柳川は、「廃市」ではない。 " 伝統。に生一 柳河の溝渠は、汲水であり、米磨ぎ水であり、酒を き、これとたたかう街である。 ほりわり ごん だこ ボウブラ おきの すく だん