古代から中世にかけての九州の 道は、すべて大宰府に通じる道で あった。近世に入ると、筑前六 北九州市 宿街道といわれた黒崎 ( 八幡区 原田を結ぶ道が、長崎・薩摩 に至る基幹として、最も重要にな った。佐賀・長崎に向かう長崎路 も、久留米・熊本を経て鹿児島に 向かう薩摩 ( 肥後 ) 街道も、この 道を通らなければならなかった からである長崎路と薩摩街道 は、原田のつぎの田代宿の追分で 分かれた。豊前・豊後・日向に向 かうには、小倉から中津へ小倉街 道をとり、唐聿に向かうには、 倉から博多岡 ) を経て唐津に出る 唐津街道を利用した。秋月街道は、 筑前の飯塚から、黒田の支藩五万 抜ける道であった。
筑後の中心地は、筑後川か潤す筑紫平 野に位置する、有馬氏ニ一万石の久留米 であった久留米には、長崎路の田代か ら薩摩 ( 肥後 ) 街道を南下した。久留米か ら能【本に向かうには勢高 ( 瀬高 ) でニっ に分かれ、瀬高・南関・山鹿を経て熊本 に出る道と、瀬高から海沿いに、江ノ浦 田 ) 、大牟田を経て、肥後に入る道があ った山越えの南関には、筑後にも肥後 にも関所があった。久留米は、肥前佐賀 に向かう道、豊後日田に向かう道も通り 交通の要所であった筑紫平野は筑後川 を境に、佐賀・筑後平野に、さらに筑後 平野は南北に甘木・ 川平野に分けられ、 立花氏一ニ万石の柳河川 ) は、その中 心地であった。 いユ” . を 38
岩戸寺国東 - ー -- -- -- - 県下 国東塔中最古のものて、 最も美しい姿の塔。弘 安 6 年在銘。総高 3. 四 メートル。重要文化財。 を ~ ・獰を : を れんじよう 杖を借りることをすすめたい。 朝した蓮城法師を、それぞれの作者という。 登りより降るときに 熊野磨崖仏へは、前述した熊野磨崖仏入り口から 役に立つからである。山道を約四〇〇メートル登 のこぎり 鋸の歯のように見える山にむかって約二・五キロ り、小さな石橋を越えると鳥居がある。これからの いまくまの メートルの山中にある。平野地区にある今熊野権現急坂が、鬼が一夜で築いたと伝える石段である。石 いまくまさん の鳥居を過ぎると、やがて本山末寺今熊山胎蔵寺が段というよりはガレ場に近く、一〇〇段近く登ると かけ・はとけ ある。ここで寺宝の懸仏についての説明を聞く 急に林間が開ける。左手には、岩壁に彫り出された と、磨崖仏と権現との関係がよく理解でき、磨崖仏巨大な像がある。これが大日如来で、異国的な容貌 への感銘が深まるはずである。 は深山の神秘さをいっそう印象づける。 ところで、磨崖仏をめざすに際しては、若い人も 大日の左側には、大日の神秘さとは逆に、思わず 微笑したくなる風貌の、巨大な不動明王が姿を見せ る。ともに腹部以下を彫り出していないが、その雄 大さに深い感銘を受けるはずである。平安以来、不 定期に実施された峰入りの出発点として、石仏の前 で護摩を焚いた理由もうなずけるであろう。 このほか、国東地区には、大小さまざまな磨崖仏 にちら があるが、いずれも時代はくだる。日羅伝説をもっ 大分市内の磨崖仏は、熊野磨崖仏の深山幽谷型とは がん 異なり、平野部にある崖の龕内に、ほとんど丸彫り ぎき に近い状況で造顕されており、諸尊の配列は儀軌 法則、 によらぬ特異なものである。国道一〇号線仏 儀法 沿いの大分元町石仏は、丸彫りに近い薬師如来を中と 尊とし、向かって左に ' 不動三尊像、右に毘沙門天像 を厚肉彫りにする。中尊以外は損傷が著しい 云 蓮城伝説をもっ臼杵の石仏 元町石仏の南約二〇〇メートルのところに岩屋寺
豊後街道は、九州を東西に横断する熊本藩主の参勤文代の道であ った。これは、参勤交代の港として栄えた鶴崎から府内綟分 ) に出 て、府内から熊本に向かうもので、野津原・今市・堤 ( 神堤 ) を経 て、万葉集に詠まれた久住山麓の久住に出る久住からは、中川氏 うらのまさ 七万石の竹田に向かう道と分かれ、大利・坂梨・内牧と阿蘇の山岳 地帯を抜けて、熊本に出た。豊後から日向に入るには、府内から佐 賀関に出て、臼杵・野津・三重から、旗返峠を越えて重岡に至り、 宗太郎越えで日向の延岡に入った。西国郡代役所があった日田は、 中津から耶馬渓を通る中津街道、肥後の月国へ出る小肥後街道など、 四方に道が通じていた 初夏の日田一一日田盆 地を貰く筑後川の上去 = 隈川に沿った水の町 て、江戸時代は西国郡 代役所が置かれた。 1 を 1 . 気を 竹田武家屋敷 後の小京都」と呼ばれ る竹田に残る武家屋敷 は、静まりかえり、サ ルスペリの花が美しい。 岡 ( 竹田 ) 城址ーー断 崖の上に高い石垣が残 り、廉太郎の名曲 「荒城の月』は、 生まれた。
大宰府から六方に走る駅路 古代の道をもとめて その駅路跡は、国道三号線に沿う旧道とみてよい 大宰府・水城間の駅路 その旧道と国道三号線の交差するところが水城東門 とおみかど 「遠の朝廷」といわれた大宰府政庁跡は、多数の大跡で、旧道脇には門柱の穴のある大きな礎石が一つ かんが きな礎石を残し、西海道 (%) を統治した官衙跡と置いてある。元の位置から移動しているようだが、 の実感がわいてくる場所である。現在、政庁跡南側大宰府防衛のため天智天皇三年 ({ 六 ) に築かれた水 の道路は、交通の往来が激しいが、よくみると政庁城を出るところだけに、門の張番所で警衛の兵士が 跡南側の曲線部分を除けば、直線で東西に延びてい 通行人や荷物を検閲していたのであろう。 るのがわかる。この道路は、平城京・平安京でいう 大伴旅人は天平一一年 (8 三 ) 十一月大納言に昇進、 二条大路にあたるが、古代には、東西から政庁にい 翌月の半ばごろ都へ出発したが、このとき多数の部 たる駅路であった。 下に送られ、水城に馬をとめて大宰府をふりかえっ ますらお 政庁から東に向かう駅路は、西鉄太宰府線付近まて歌った。これが『万葉集』所収の、「大夫と思へ で直線で進むが ( ここまでが大宰府郭内 ) 、郭外に出る るわれや水茎の水城の上に涙のごはむ」である。当 と地形的な障害もあって直線状には進めず、高雄山時、水城は大宰府都城の出入り口だという観念が役 の北から坂部を通り、米ノ山峠を越えて飯塚・田人たちにあったのであろうか。 水城を出た駅路は、福岡市東部・北九州をへて京 丿・行橋をへて豊後国府分 ) に達した。 いつほう、政庁から西に向かう駅路は、国道三号に向かう。このルートが七道のなかで唯一の大路で 線との交差点の関屋まで直線になっているが、ここあった。大同二年〇 ) 十月の官符によると、関門 から先は直線ではない。それはここで駅路が一一手に海峡を渡るまでに筑前国に九駅、豊前国に二駅の計 分かれるからで、一方は国道三号線に沿いながら北 一一駅、そして大宰府ー京間では計六八駅あった。 みずき 上する駅路となって、水城東門に達したのである。 関屋から分かれたもう一方の駅路は、しばらく御 1 ゞ辺な 日野尚志 佐賀大学助教授 2
る。西海道の人びとの目が常に海外に向かって大き 中国貿易がもたらした富と文化 く開かれていたのは、当然であろう。 では、西海道の豪商たちは、どのような共通点を 中国使節の迎賓館であり、日唐貿易の拠点でもあ こうろかん もっていたであろうか。まずはじめに気がつくの った鴻臚館。その鴻臚館時代を経て博多は、かの は、西海道の商人には大商人が多く、地域の領主、 『平家物語』で名高い平清盛ら平氏政権のカで、日 たとえば商人の出身地の大名と一心同体で行動する宋貿易の中心として新しく発足することになった。 者が多いことである。封建制の時代の商人は、多か 今日、福岡県の海岸一帯には、鯛の生き造りなど、 れ少なかれ領主と無関係では生きられないが、西海新鮮な魚で名を売る漁港が少なくない。それら漁港 道の商人の場合、領主への寄生性が極端に強いので のいくつかは、かって宋船の出入りで賑わったもの かいじん 一、ーある。領主が中央政権へ反旗を翻すとき、豪商たち らしい。年に一度の〃海人祭り〃や交通の神様とし むなかた も領主に協力して反体制的な動きをあらわにする。 て県人に親しまれている宗像神社の大宮司は、宋の 」、 ! 当中世末、西海道の南や北ではびこ「た倭寇は」うま女性と国際結婚をして」る。宗像神社が」かに日宋 の一でもなく、江戸時代の鎖国制のもとでも、西海道に貿易に深くかかわっていたかがわかるであろう。 、 ~ 第当抜け荷が絶えなかったわけがうなずけるであろう。 博多帯や博多織りネクタイなどで知られる福岡名 ネ倭寇も江戸時代の抜け荷も、実は西海道の領主と豪産博多織りの製織技術は、ちょうどこのころ中国か 」第商の合作だ「たのだといったら、読者の方々は意外らはいってきたといわれるし、茶もはじめて禅僧栄 つくし に思われるであろうか。 西の手で中国から筑紫の国に輸入された。栄西が書 きっさようじようき 西海道の商人のもうひとつの特徴として、海洋性 いた『喫茶養生記』によれば、茶は諸病の薬であ をぜひともあげなければならない。海や河川を利用って、今日のように飲んで楽しむというものではな して経営を大きくした商人が多いのである。貿易業かったらしい。将軍源実朝に茶をすすめて深酒をや や捕鯨業などは、西海道の商人に好まれたせいか、 めさせたのも、栄西だといわれている。 げ・んこう それを主業として豪商となった例が少なくない。当 中国との貿易は元寇後も続き、博多に富をもたら けんころ . ほうし 然ではあるが、それらの豪商はおしなべて船持ち商した。兼好法師が『徒然草』の中で、「無ければ困 人であった。 るというわけでもない唐物を、航海の危険をおかし 以下西海道の代表的な商人を拾って、その足跡をて輸入するなんて、愚の骨頂だ : ・ : 」ときびしく批 たどってみることにしよう。 判したとて、貿易がもたらす富や文化に満足してい 鴻臚館ーー古代中国の 使節を接待する迎賓館 のことて、遣唐使の宿 泊にも使われた。現在 の福岡城内がその跡地。 6
ニ日市温泉ーーー温泉街 のなかを南北に走る道 路 ( 写真手前の道路 ) が、都ていう朱雀大路 にオ目当する。 ・、『御則譚一第 1 しをは・をこ の 0 物一 えんぎ また延喜三年 ()i 〇 ) 八月一日の太政官符には、博が、その手前約一〇〇メートルの地点から、前述し 多大津に唐人商船が来着したとき、諸院・諸宮・諸た掘切りの凹地を南に向かう駅路となる。やがて三 王臣家などが、貿易の取り引きなどを決める大蔵省本松で一一手に分かれ、東に向かう駅路は筑紫平野を の官使が到着する前に、大宰府に使者を派遣して争約二五キロメートル直線で進んで筑後川右岸に達 買したことが記されている。また、大宰府瑯内の富し、日田・豊後森をへて豊後国府に達した。 きいじよう 豪たちが遠来の品物の値段をつりあげて取り引きす 山道を通る基肄城からの道 るので、唐物が基準より高くなり、このためこうし た不正行為の禁止と取り締まりを命じたのである。 三本松から南進する駅路は、萩原付近から山越え ここにも、西海道の中心都市大宰府で活躍する富の道となるが、現在の国道三号線のルートよりは近 豪や、商人たちの一端がうかがわれる。 道であった。具原益軒は『筑前国続風土記』で「今の 榎寺以南は、道路が曲がって直線で進めないが、 原田道より近し」と城の山道の行程を記している。 地形図上で線を延長してみると、筑紫野市役所の前 しかし古代の駅路は、近世の山道より西側、すなわ きいじよう を南に向かう道路に達する。この道路をさらに南下ち基肄城の東北門から基肄城水門跡にいたるルート すると、やがて道路の左右に旅館街が並ぶ。ここがであった。『万葉集』には、「今よりは城の山道は さぶ 湯町と呼ばれる二日市温泉で、かっては武蔵温泉と不楽しけむわが通はむと思ひしものを」と、右の駅 いった。その歴史は古く、『万葉集』にある、「次路が山道を通る淋しい駅路であったことを示してい た 田温泉」を継いだとみてよい 。とすれば、中軸線る。基肄城内を通るだけに当然、門の張番所には見 ( 駅路 ) に沿う交通の便がよい温泉であったといえ張りの兵士がいたはずである。 だざいのそっ る。大宰帥として赴任していた大伴旅人は、療養 基肄駅の位置ははっきりしないが、ここで駅路は じんき てんびよう 路 のため、神亀五年 (? 二 ) から翌天平元年まで秋冬 二手に分かれ、一方は筑後・肥前国境 ( 現在の福岡 ) ・佐賀県境 駅 二日市に湯ノ原と呼ばれ る の時節に温泉に入り、湯の原 ( る小字〈こあざ〉がある ) 通って南下し、大隅国府 ( 国 鹿児島県 ) に達した。ま 走 で鳴く蘆鶴を歌った。政庁からほど近いために、数 た、別のルートは、肥前国府 ( 難驪部 ) をへて島原な ら 多くの役人たちが温泉に入ったことであろう。 半島に達する。 カ 温泉街の中を南に進み、街並みに別れをつげる このように、大宰府からは駅路が六方に放射して宰 大 と、急に道幅が狭くなるが、道路はさらに直線コー いた。これは帝都から六道 ( 畿 ) が放射する スで進む。やがて正面に四車線の県道が目につく ハターンに類似している。 6 すき
溺れ谷の浅茅湾 こ上見坂展望台からの 眺めは、対馬の屋根に 立つ観がある。手前の 陸は下島、海の向こう は上島。 された街づくりがされている。往時の宗氏の繁栄をわるようになったが、 , 彼らは対馬を中継地として朝 % ばんしよういん しのばせるものに、万松院の宗氏歴代の墓所、金鮮方面へ向かった。対馬は倭寇の道となったのであ しゅうそく みやだに くた る。一六世紀末、倭寇が終熄すると、今度は豊臣 石城址、宮谷一帯の武家屋敷、久田のお ( 御用船 の船だ などがある。なお、歴史民俗資料館には、考古秀吉による朝鮮侵略がおこり、対馬でも厳原の清水 民俗歴史などの貴重な資料が展示されているが、朝山に山城が築かれるなど、戦時一色となった。文 禄・慶長の役併せて三〇万の軍隊がここを中継地と 鮮との関係を物語る品々も多い して朝鮮へ渡ったため、島内ではたちまち食糧が底 、、、、霜、外寇も、侵略も をついた。駐留兵士らが鶏や犬、猫などを住民から 対馬は大陸と日本との間の交易や文化伝播の道と奪って食糧とするのを禁じた文書もある。 くだって幕末には、ロシアが極東での南下政策の なったが、ひとたび大陸との関係が悪化すると、大 陸から九州本土へ侵攻する道、また逆に日本から朝一環として、文久元年 (*l(l<) 二月、軍艦ポサドニッ 一 2 鮮・中国を侵略する道ともなった。 ク号を派遣し、浅茅湾内の堺 (#) を占拠した。 古くは大和朝廷が百済救援に出兵して白村江で敗対馬藩では幕府の指示を仰ぎつつ繰り返し退去を要 らち れると、対馬は国防の最前線として防人が置かれ、 求したが、埒があかず、結局は英国の圧力によっ 天智天皇の六年 ()S 六 ) には金田城が築かれた。金田て、ようやく半年後にロシア艦は退去した。芋崎に くろせじようやま いまもロシア人が掘った井戸が残っている。 城は浅茅湾に面した黒瀬の城山 (#) に比定さ れ、いまも壮大な朝鮮式山城の跡が残っている。 明治政府は、日本海と東シナ海の制海権をめざし 古代から中世にかけて、対馬はしばしば外敵の侵て、明治十六年、対馬の竹敷浦を軍港とした。対馬 攻を受けた。その主なものに、弘仁三年 ( 「 ) ・寛は再び国防の最前線として島の大半が要塞地帯とさ びよう 平六年 (ä九 ) の新羅海賊、寛仁三年 ( ~ しの刀伊れ、その状態は第二次大戦の終わりまで続いた。明 ぶんえい こうあん ( 女真 ) の賊、文永十一年 (ALÆ) ・弘安四年 ( ←一一 ) 治三十八年、日本海海戦のとき、ロシアが回航した おうえい バルチック艦隊を迎え撃った日本の連合艦隊は、浅 のモンゴルの来襲、応永の外寇 ( 賊掃討のためおこな「た しなどがある。文永の役では、対馬の支配者宗茅湾内の竹敷や尾崎から出動したもので、海戦の砲 資国らが下島西海岸の佐須で壮絶な最期をとげた声は対馬へとどいたという。先のポサドニック号占 こもド、 が、近くの小茂田浜にその記念碑が建っている。 拠からわずか半世紀足らず後のこの大捷を対馬の 一四世紀になると、倭寇が朝鮮・中国を荒らしま人びとまゝゝ 。し力なる感慨で迎えたであろうか。 3 かんにん こうにん さきもり かん たいしよう
キリシタン洞窟礼拝堂 世界にも類の少な い凝灰岩壁をくりぬい た礼拝堂。豊後キリシ タンの殉教の歴史を物 語るものだろうか。県 指定史跡。 礒をリプダン 岡城 - ーー中川氏 7 万石 の居城、岡城は、中世 山城の雰囲気を残す要 害の平山城。滝廉太郎 の「荒城の月』作曲の イメージとなったとい う。国指定史跡。 には、キリシタン洞窟礼拝堂がある。竹田を中心と 朝倉文 ) などがある。廉太郎は、東京生まれである が、直入郡長となった父に従い、少年期を竹田で過した一帯は、豊後キリシタンの一つの拠点であっ た。洞窟は二つあり、凝灰岩壁をくりぬいたドーム ごした。彼の『荒城の月』作曲のイメージに、岡城 型の天井で、奥の正面には祭壇が祀られている。洞 の景観が与えた影響は少なくない。 竹田城下町に外部から入るには、どの道を通るに窟から竹田荘への道は武家屋敷なども残っており、 しても必ず山をくり抜いたトンネルをくぐらねばな伝統的な家並みを残している。 山陽は、一泊の予定であった竹田滞在を一週間に らない盆地で、「レンコンの街」などともいわれて いる。そして、周囲の奇岩怪石のたたずまいは、南延ばしている。竹田荘での二人を中心にした詩酒の 画の世界そのままである。この風土のなかで、田能交歓は、非常に楽しく、またなごやかなものであっ た。二人の交友の場の竹田荘二階座敷や、山陽の泊 村竹田を頂点とする豊後南画は誕生したのである。 ちくでんそう 岡城から竹田の旧宅、竹田荘へ向かう途中の崖下まった茶室も残っている。田能村竹田は、岡藩侍医 たにぶんちょう の家に生まれ、のち唐橋世済に詩作、谷文晁・村 こうてい 瀬栲亭に詩文・書画を学び、文人としての名をあ げ、「画聖」とまで呼ばれるようになった。このと き以来、二人の仲はさらに深まり、竹田が京都に遊 ぶときは必ず山陽と楽しいひとときを過ごし、交友 を深めたのである。 ひたがね 日田往還と「日田金」 山陽は竹田から日田へ赴いたが、この二〇里 ( 七 くじゅう 八キメ ) の道は途中、肥後熊本藩領の宿場町久住を 通り、九州の最高峰久住山のふもと久住高原を横切 せもと って、肥後国瀬ノ本・黒川 ( 山陽はここで一泊 ) ・宮の 原を経て日田に至っている。 おちやや 久住町は、熊本藩の御茶屋 ( 本陣 ) が現在の久住 小学校の敷地におかれ、同藩主が参勤交代に向かう なん はる みやの
を確み蠡 旧宮良殿内一一文政 2 年 ( 1819 ) の建造。沖縄 の旧上級士族屋敷の一 つ。門構えや赤瓦屋根、 庭園などにその面影を とどめている。 をイン かわった。わずかに那覇港のみは中国からの冊封使日本文化の南限地帯である。八重山の石垣島や与那 船 ( 冠船 ) が来航して昔日の賑わいをとどめること国島などでは平家の落人説があり、今日でも、海岸 やまと まきみなと うんてん があったが、北部の運天港や中部の牧港はいずれ線の近くには平家の残党の伝承をとどめる「大和 やしまばか も衰微してしまった。運天港は、源為朝がかって伊墓」や、「八島墓」とよばれる古墓がある。この八 豆の大島から運を天にまかせて船出したのち漂着し重の潮路の彼方なる南の島々には、大和瓮の戦 たといわれる港で、そのため運天の名でよばれ、一陣から落ちのびてきた哀れな武士団の伝説があり、 方、牧港は、為朝が後日この港から日本に向かってまた倭寇の渡来した話や彼らの住居跡といわれる所 船出したという。そのため、彼の妻子はこの地に居があって、旅人の眼をとめるものがある。 を構え、為朝の帰来をひたすら待ちわびていたの 南島の島々は、南下すればするほど海の色があざ で、いっしか「待ち港」とよばれるようになり、そやかとなる。原色そのものの博物館である。最果て まきみなと の「待ち港」が転訛して「牧港」になったといわの与那国島にいたっては、まさに国境の島であり、 れる。その真偽のほどははかりかねるが、あくまで国境の町である。台湾にいたる距離は、なんと県庁 伝説的紛飾の濃い決め手のない民間伝承である。し所在地の沖繩本島の那覇までの約三分の一に過ぎな かしながら、この二港は那覇港同様中世にはきわめ 。わずか一七〇キロメ 1 トルである。快晴の日に て栄えていた港である。運天の港は今日ではまさに は台湾の山々が眼前にくつきりとそびえ立ってい 静寂という言葉がびったりするような静かな佇まい る。いやがうえにも、その勇姿を見せつけられる。 の入り江である。しかし牧港は、まったく跡形もな また、島のすぐそばは黒潮が轟音をたてて激流し、 く、昔日を偲ぶよすがすらない。 南からの文化を運ぶ大道脈となってきた。 沖繩本島からさらに南に下ると、宮古・八重山の 人びとはこの最南端の与那国島から奄美にいたる 島々がある。しかし沖繩から宮古島にいたる間は、 琉球弧の島々を南北のかけ橋と見がちである。事実 道 いわゆる宮古水道で何ひとっ島影がない。 この水道また、その部分はきわめて多い。日本が世界の博物上 海 を越えると、そこには先島の島々が群立している。 館といわれるように、 ここ「海上の道」の中心地帯 」ま 文化的には琉球弧の中でもっとも南方的文化の色彩 は、南北文化の博物館的性格のつよい地帯である。 潮 のつよい地域である。明らかに南部琉球文化圏とも南九州の海岸から旅路の枕をとりつつ南下する船旅 黒 いうべき一帯である。しかしながら、北からの文化 は、好個の旅情があり、南島情趣を限りなく満喫さ 7 6 の南進がないわけではなく、多分にあって、そこが せるものがある。 ばか ぐに