大宰府 - みる会図書館


検索対象: 日本の街道8 日燃ゆる九州
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1. 日本の街道8 日燃ゆる九州

大宰府都府楼跡ーー現 在地の大宰府は、天智 3 年 ( 664 ) に唐の都城 を模して大和朝廷が設 置した。都府楼は政庁。 秋月の家並みーーー黒田 長政の三男長興が、元 和 9 年 ( 1628 ) に城をお いた城下町て、武家屋 敷が残っている。 太宰府天満宮ーー天満 天神菅原道真を祀る天 満宮の総本社てある。 春の初めには、境内に 約 6 千本の梅が咲きほ - - ずを気をイ、瓠な参 :. ア第 : を、 , 、を イ 一臨 3 /

2. 日本の街道8 日燃ゆる九州

大宰府から六方に走る駅路 古代の道をもとめて その駅路跡は、国道三号線に沿う旧道とみてよい 大宰府・水城間の駅路 その旧道と国道三号線の交差するところが水城東門 とおみかど 「遠の朝廷」といわれた大宰府政庁跡は、多数の大跡で、旧道脇には門柱の穴のある大きな礎石が一つ かんが きな礎石を残し、西海道 (%) を統治した官衙跡と置いてある。元の位置から移動しているようだが、 の実感がわいてくる場所である。現在、政庁跡南側大宰府防衛のため天智天皇三年 ({ 六 ) に築かれた水 の道路は、交通の往来が激しいが、よくみると政庁城を出るところだけに、門の張番所で警衛の兵士が 跡南側の曲線部分を除けば、直線で東西に延びてい 通行人や荷物を検閲していたのであろう。 るのがわかる。この道路は、平城京・平安京でいう 大伴旅人は天平一一年 (8 三 ) 十一月大納言に昇進、 二条大路にあたるが、古代には、東西から政庁にい 翌月の半ばごろ都へ出発したが、このとき多数の部 たる駅路であった。 下に送られ、水城に馬をとめて大宰府をふりかえっ ますらお 政庁から東に向かう駅路は、西鉄太宰府線付近まて歌った。これが『万葉集』所収の、「大夫と思へ で直線で進むが ( ここまでが大宰府郭内 ) 、郭外に出る るわれや水茎の水城の上に涙のごはむ」である。当 と地形的な障害もあって直線状には進めず、高雄山時、水城は大宰府都城の出入り口だという観念が役 の北から坂部を通り、米ノ山峠を越えて飯塚・田人たちにあったのであろうか。 水城を出た駅路は、福岡市東部・北九州をへて京 丿・行橋をへて豊後国府分 ) に達した。 いつほう、政庁から西に向かう駅路は、国道三号に向かう。このルートが七道のなかで唯一の大路で 線との交差点の関屋まで直線になっているが、ここあった。大同二年〇 ) 十月の官符によると、関門 から先は直線ではない。それはここで駅路が一一手に海峡を渡るまでに筑前国に九駅、豊前国に二駅の計 分かれるからで、一方は国道三号線に沿いながら北 一一駅、そして大宰府ー京間では計六八駅あった。 みずき 上する駅路となって、水城東門に達したのである。 関屋から分かれたもう一方の駅路は、しばらく御 1 ゞ辺な 日野尚志 佐賀大学助教授 2

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ド大野城 - : 四天王寺卍 太宰府 刈都玄天満宮 水城萱府昉 卍音寺 高雄山 栄華の眠る万葉のみち 筑紫路・大宰府 おおきみとおみかど をたどるが、一二世紀末の鎌倉幕府の成立によって 大宰府は〃大君の遠の朝廷〃 古代が幕を閉じるまで存続した。 すがわらのみち 筑紫路という一 = ロ葉は、ロマンチックな響きをも 大宰府跡はその政庁の遺跡で、一般には菅原道 ち、それを耳にする人に梅の花を連想させるが、い 九〇三 ¯) の詩にちなんで都府楼跡の名で親しま わゆる街道ではない。奈良の飛鳥路と同じく万葉のれている。東西を月山と蔵司の丘で区画され、現在 だざいふ 路であり、大宰府とその周辺を指す代名詞として用に遺る巨大な礎石が示すように、築地や回廊によっ いられることが多い。そこには、特別史跡大宰府跡て囲まれたなかに、正殿や東西の脇殿など壮大な建 をはじめ、多くの古代遺跡が眠り、訪れる人びとに物が甍を並べていた。近年の発掘調査の結果、三度 かっての栄華のさまをしのばせている。 にわたって建物が建て替えられ、現在、地表に見え かんが すみとも 大宰府はもともと官衙籔 ) の名称で、六世紀前 る礎石は、一〇世紀中葉の藤原純友による焼き討ち 半以来の歴史をふまえ、七世紀後半に成立した。その後、再建された建物のものであることなどが明ら の後、西海道と呼ばれた九州の諸国島の政治を総管 かとなり、これにもとづいて、現地では平面復元が し、さらに中国や朝鮮に対する窓口としての役割を施され、建物の復元模型がつくられている。 果たしたが、これは小国分立時代以来の北九州地方 遙かなる平城京への想い の歴史的・地理的特殊性を直接に反映していた。そ てんびよう だざいのそっ の政庁は、中央政府をそのまま縮小したような構造 天平元年 @二 ) 前後の大宰帥は、万葉歌人とし かんが おおきみ おおとものたびと で、律令制下では最大の地方官衙であり、 " 大君のて有名な大伴旅人 (± 1 詳 ) であったが、彼は着任 とおみかど まぎ 遠の朝廷。とも称された。長官にはつねに高位高官早々に妻を失い、酒で悲しみを紛らそうとしてい やまのえのおくら をいただき、政庁で働く人びとの合計は二千人前後 た。そのころ、山上憶良 ()S ~ 「〇 ) が筑前守として にも達した。時代が下るにつれて、多くの紆余曲折 この地にあり、二人を中心とする筑紫歌壇は『万葉 ; 第新第を覊第まを 第百市 ↓至基肄城 ざね しらカ 倉住靖彦 九州歴史資科館

4. 日本の街道8 日燃ゆる九州

殿。その横に形の良い枝ぶりの梅が とびうめ 一本植えられており、「飛梅」と書か ′石跡 燾弯礎楼 集英社れた立て札がある。 囿本の鵆日 ( 。、北月都 東風吹かはにはひおこせよ梅の花 をす あるしなしとて春なわすれそ 山残 野を 菅原道真が、京から九州に下る折 大み 日燃ゆる九州 に別れを齏しんで庭の梅を詠んだと 本書を読んで街道を旅すると、ゆかりの城、遺跡、食べもの、祭 ー一六時半月曜休館一〇〇円 ) ころ、あとを追って京から九州へ飛 りなどに出会います。このガイドはそれらをまとめたものです。 都府楼跡と太宰府天満宮との間に んできたとししイ 、 ) 云えられている梅で ある観世音寺・戒壇院は、時代もち ようど、飛鳥時代と平安時代の間の 早春につける淡いうす紅色の梅は、 美しさの中に、ある種のせつなさを奈良時代にできた。天智天皇が、母 日本の興亡を物語る九州の街道 も感しさせている。 ( 太宰府天満 ~ 呂へである斉明天皇の追悼のために、八 〇年の歳月をかけて造った寺院で、 西海道と呼ばれた九州の街道は、 た、菅原道真が祀られている太宰府は西鉄太宰府駅から徒歩五分 ) いつほう、太宰府の西に点在する西日本一であった。現在の造りは元 個性豊かな道が多い。本書、「街道小天満宮がり、訪れる人は多い。 史」には、それぞれの道がもっ歴史今、駅を背にして右手につづく参都府楼跡や観世音寺は、太宰府天満禄元年 ( 一六八八 ) の再建だが、梵 や文化が興味深く描かれている。 道を歩くと、「梅ケ枝餅はいらんかね」宮よりも、もっと古い時代に造られ鐘は天智天皇の時代から伝わるもの。 とおみかど あん 「遠の朝廷」として栄えた大宰府にの売り声が賑やかだ。こし韜を中にた。大宰府は、本書によれば六世紀日本最古の鐘といわれ、国宝となっ 通しる京からの大路や、大陸に近い入れて焼いただけの素朴なこの餅 ( 一前半以来の歴史をふまえ、七世紀後ている。観世音寺横に建てられた宝 ため、外国との接点として日本の歴個六〇円 ) は、太宰府の名物である。半に成立したという。現在、発掘調蔵庫には重要文化財の巨仏や美術品 史に影響を与えてきた長崎路や唐津参道脇にはこの餅のほかに、筆や硯、査が進み、東西二・六キロメートル、が収められている。 街道、そして、江戸に向かう参勤交小梅漬、木ウソなどの民芸品を置く南北一一・四キロメートルを有する広 唐津玄界灘を望む里 さをもっていたことがわかっている。 代路などと、改めて地図を見直す道土産物店が並んでいる。 が多いのに気づく。忘れかけたそれ参道を抜けて、心字池にかかる橋その造りは、平城京の条坊制になら松浦川が町田川と合流して玄界灘 らの道をたどって、今も当時の面影を渡ると、前方に見えてくるのが本って碁盤の目のように道が交差してに流れ込む入江にある街が唐津。大 陸へ渡る「みなと」であったところ を色濃く残す里を訪れてみよう。 しかし、今私たちがその場に立つから名付けられたという唐津は、海 神 太宰府、子紅色の里 る と明るい陽光に恵まれた城下町であ て、「遠の朝廷」をうかがえるのは、 太宰府は、福岡県博多市から、西 か発掘された礎石からだけである。大る。福岡駅から海岸線を走る筑肥線 鉄で約四〇分のところにある小さな 想野山を背にした雄大な空間は、想像や国道二〇二号線は、すばらしい松 の翼をひろげる者にのみ、古代を甦原沿いを走っている。 町。「遠の朝廷」として栄えたといわ れる都府楼 ( 政庁 ) 跡や観世音寺、ま らせている。 ( 太宰府展示館九時半虹ノ松原と呼ばれる黒松並木は、 を

5. 日本の街道8 日燃ゆる九州

朝なしみ川Ⅷ、一 山と呼ばれるようになった。 薬師寺とともに、天下の三戒壇と称された。これに よって観世音寺は大宰府管内の寺院や僧尼を監督下 平安時代に栄えた観世音寺 に置き、平安時代前半ごろまでは大いに栄えた。現 大宰府跡前面の県道は、かっての五条大路とみら在は東京芸術大学の所蔵で、国宝に指定されている えんぎ れているが、これを東に進むと、西海道の秀才が学延喜五年〇 ) の「資財帳」翁しや、宝蔵に安置 んだ府学校の跡があり、その東側には、天智天皇が されて重要文化財に指定されている一八体の仏像な あさくらのたちばなのひろにわのみや どが、そのさまを伝えている。 朝倉橘広庭宮で崩じた母帝斉明天皇の追善の ために発願した観世音寺がある。その後の内外情勢 しかし、平安時代の中葉以降は、火災などがあい ほうあん が多事多端であったこととも無関係ではないだろう 一こはついに ~ 果 ついで次第に衰退し、保安元年 ( 一一し。 が、完成までには八〇年という長い年月を要した。 大寺の末寺となった。創建当時を伝えるものは、文 ようろろ・ 養老七年 (\) 二 ) には「しらぬひ筑紫の綿は身につ武二年 ()5 九 ) に作られた京都妙心寺の鐘と兄弟鐘と たくしょ けていまだは着ねど暖かに見ゅ」という歌で知られもいわれる国宝の梵鐘のみであるが、謫所の菅原道 しやみまんせい 」る沙弥満誓が、その造営にあたり、天平七年の天然真が「観音寺はただ鐘の声をのみ聴く」と詠じたの 痘の大流行に際しては、府の大寺として鎮静を祈る は、これであろう。なお、現在の金堂と講堂は、元 ための読経が行われた。 禄年間 ( 一六八八 ) に福岡藩主黒田光之が再建したも このころには寺院としての体裁がかなり整えられので、福岡県の文化財に指定されている。そのころ ていたのであろう。天平十七年には、玄昉法師をそ戒壇院が観世音寺から分離独立して今日に法燈を伝 るしゃなぶつ の造営にあたらせた。五年前、少弐藤原広嗣が彼や え、本尊の盧舎那仏は重要文化財である。 きびのまきび 吉備真備の排除を求めて反乱をおこしたときは聖武 悲運の菅原道真と太宰府天満宮 天皇 Cßl,) の信任も厚い僧正であったが、一介の 法師に貶とされたうえに、遠く筑紫に左遷されたの 昌泰四年 (f 〇 ) 正月、左大臣藤原時平とともに である。翌年六月の落慶供養の日、彼は導師を勤め従二位に昇叙されたばかりの右大臣菅原道真は、突 ごんのそっ ていたが、忽然として姿を消し、数日後その首が平 如として大宰権帥に左遷され、四人の子もそれぞ こち 城京の興福寺唐院に落ちたという。 れ諸国に流された。数日後、「東風吹かばにほひお てんびようほうじ には、西海道の出家志願者こせよ梅の花あるじなしとて春なわすれそ」という 天平宝字五年 (\ 六 ) しもつけ に戒を授けるための戒壇が設けられ、東大寺・下野有名な歌をのこし、道真は幼児をともなって謫地に しようたい

6. 日本の街道8 日燃ゆる九州

羅太宰府天満宮 菅原 道真を祀り、学問の神 様として参詣の人が絶 えない。本殿は桃山時 代の建築て重要文化財。 観世音寺ーーー 1300 年の 歴史をもっ鎮西の名刹。 菅原道真も聴いた境内 の梵鐘は国宝。この構 堂は元禄年間に再建。 観世音寺宝蔵ーーー金堂 や構堂から移された巨 像が立ちならぶ れも重要文化財て、そ の壮観さは九髄ー ひずめ 出発したが、その旅で彼に与えられたのは、蹄の傷など、いわゆる四度宴も整えられた。このような宮 とも ついた馬や艫の壊れた舟ばかりであったという。 廷行事は、道真崇拝もさることながら、官人たちが 大宰府での生活も悲惨なもので、住居として府の 小宮廷を再現し、しばし京洛に遊ぶ思いにひたろう 南館が与えられたが、屋根は破れ、井戸は砂に埋ま としたこととも無関係ではなかろう。こうして安楽 り、米や塩も途絶えがちであった。脚気や胃痛に悩寺は、大宰府の保護のもとで朝野の崇敬を集め、観 みながら、道真はただひたすらに謹慎の日々を送っ世音寺とは対照的に発展していった。 しろいろなことがあっ たが、「去年の今夜清涼に侍る秋思の詩篇独り腸 その後の一千年の間には、ゝ を断っ恩賜の御衣は今ここに在り捧持して日ご た。都を追われた安徳天皇 ( 「、五 / ) と平氏一 とに余香を拝す」と詠じた七一言絶句はあまりにも有は、ここでしばしを忘れ、南北朝の動乱にあけくれ 名で、その心情は察するに余りあるものがある。 た今川了俊 ( ~ 生 (&) は連歌を楽しんだ。戦国時代 幼児の死についで、都に残した妻の死も伝えら に兵火にかかり、小早川隆景 ( —」三 ) が再建した れ、延喜三年二月二十五日、彼は悲嘆のなかで栄光現在の社殿は重要文化財に指定されている。幕末に と苦難にみちた五九年の生涯を閉じた。 , 従者の味酒は、京を落ちた三条実美 (—九一 一八三七 ) らが滞在し、多 安行は、四堂の付近に遺骸を埋葬し、同十五年には くの勤皇の志士がここを訪れた。明治の神仏分離に 安楽寺を草創した。そのころ、都では道真の左遷に よって神社となり、現在は天満宮の総本社として北 加担した人びとの死や、清涼殿への落雷などの異変野・防府とともに三大天満宮とされている。菅公・ があいつぎ、いずれも彼の怨霊のしわざと考えられ天神様と親しまれ、学問の神様として多くの崇敬を えんちょう とノに一止 た。霊を慰めるため、延長元年 ()i 一 ) に本宮が復集め、四季を通じて参拝の人が絶えない。 しようりやく され、ついで北野神社も創建され、正暦四年 ( 九 九月三ガ日の参拝者数では、全国でも十指のうちに入 り、正月七日の鬼すべやウソかえ、九月の神幸式な 三 ) には太政大臣が贈られた。 かんえん ち 廟所である安楽寺でも、延喜十九年に醍醐天皇どには数万人の見物で賑わう。国宝の『翰苑』をは み じめ、社蔵の文化財も多く、飛梅に代表される梅の葉 九三〇 ¯) の勅命によって社殿が造営され、その神 万 る 格化が進むにつれて整備された。大宰府の官人があ名所でもあり、初夏の楠や梅雨期の花菖蒲などの自 眠 の いついで堂塔を建立し、荘園を寄進したが、天皇や然の恵みにあふれている。また茶店などで呼び声と 華 てんとく 栄 院の御願によるものも少なくない。天徳二年 ($ 五 ) ともに売られる名物の梅ケ枝餅は、悲運の道真を慰一 おののよしふる に大弐 6 小野好古 ( 八八四 九六八 ¯) が始めたという曲水の宴めたという故事をもっている。

7. 日本の街道8 日燃ゆる九州

神を先祖神とすることと無関係ではないであろう。 『記』『紀』神話では、出雲を幽の世界としてとらえ ているのに対し、筑紫の日向を顕の世界として描い ているという神話研究者の指摘がある。 『延喜式』による日向の駅路 「記紀神話」のなかで、皇室の祖先の発祥地とされ る日向が、国名としてはじめて史料に確認されるの は、文武天皇二年九 ) 日向から海が献ぜ られたとある『続日本紀』の記事においてである。 当時、日向はまだ薩摩・大隅を含む九州の東南部を 指したが、八世紀初めには薩摩・大隅の両国が分置 さしと され、日向国の国域が定まった。国府は、現西都市 三宅の国分とみられ、付近に国分寺・国分尼寺跡の 地名もある。 『延喜式』によれば、日向国は律令制下の国の等級 大・上・中・下のうち、人口が少なく、面積の狭い ″中国〃に位置づけられている。国府を中心に、大 宰府・薩摩・大隅を結ぶ交通が発達するが、日向国 なが、 かわのべかった の駅は、『延喜式』によれば、長井・川辺・刈田・ くに みねさるとびこゆたいま いしだ 美禰・去飛・児湯・当磨・石田・救麻・救弐・亜々 やのじりひなもり まさきみなまたしまづ 椰・野後・夷守・真斫・水俣・島津の一六駅であっ 大宰府よりの道は、豊後の丹生・三重・小野の諸鼾 駅を通 0 て日向国に入り、長井・川辺・刈田・美一 禰・去飛・児湯の六駅を経て国府にいたる。

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大部分が国宝 西海道にふくまれることになる。 や重文に指定 ) をみるとき明らかであろう。 えんぎしき たいほう 交通路としての西海道は、一〇世紀の『延喜式』 九州は律令時代のはじめ、大宝元年 (\0) に西海 ちくぜんちくごぶぜんぶんご ひぜんひ 道と定められ、筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥 ( 糠四年〈九六七〉に施行さ ) によれば、京から山陽道 ごひゅうが 後・日向の七国と壱岐・対馬の一一島がこれに包含さ経由で豊前の北辺をよぎり、博多湾近くから東折、 だざいふ さつま たね おおすみ れた。その後、薩摩と多を指定し、また大隅を日筑前の大宰府に至る大宰府道が大路とされていた。 とおみかど てんちょう 向から分置するなどし、天長元年 (ä ) 多を大「遠の朝廷」とよばれた大宰府からは、右の大路以 しようじ 隅に編入して、九国一一島の原型ができた。江戸時代外に五筋の小路が各国府へ放射状に発して、あたか も都から東海・東山以下の六道が放射するかたちに には、琉球が島津氏の支配下に入ったので、これも 似て、そのミニ版ともいうべきものであった。 中世には、こうした律令官道の体系はくずれてい きない るが、それでも畿内中央からの陸上交通ル 1 トは博 多、大宰府が終着点であり、また九州探題や大名・ ・」くが 武将の進軍路も古代以来の国衙龕の ) をむすぶ官 りゅうぞうじたかのぶ 道が利用された。戦国末期、龍造寺隆信など、新 公のに しい領国内の交通体系をつくりはじめた大名もあら こくふく 園金国近る あわれたが、完全にこれを克服するまでには至らなか 公む 印ぞ奴も っ ? 」 0 金の委の塔 のに掘養 。。、島湾、発供 一第醪蒙豊臣秀吉と九州の交通路 こうした九州の交通状況は、豊臣秀吉の天下統一 へんぼう てんしよう の過程で、大きく変貌をとげることになる。天正 十四年 ( ←し十二月、島津征伐を決意した秀吉は、 輪時か銅 指羅島やた 畿内・北陸・東山・東海・中国・南海の諸国大名に 製新ノ製し 金は沖銀土 の輪。に出九州出兵を命じて、軍勢二五万人を動員した。翌十海 土指品かも 出の来ほ輪五年三月には、大坂城を発ち、諸軍を率いて九州の こくら ノのはの 沖代ら製豊前小倉に上陸、これより南進して筑前・筑後・肥 沖ノ島出土の奈良三彩 沖ノ島からは多く の祭器が出土したが、 この奈良三彩もそのな かの一つてある。 関門海峡ーー大陸文化 ・が流入する要衝、関門 海峡は、また源平栄枯 にみるような歴史の哀 歓をのみこむ激流ても あった。 たいじ

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都府楼跡ーー大宰府 政庁跡。政庁東側の丘 ( 森 ) が月山。西側 ( 手 前 ) の丘 ( 森 ) が蔵司 て役人の官舎跡てあろ 点街左道 位置であるところから関が設けられたのであろう。 笠川左岸に沿いながら吉松にいたる直線状の道路に 差旧は国 交と石は の跡礎側 踏襲されて、水城西門跡に達する。水城西門跡は、 大宰府の権帥として赴任した菅原道真 ( ノ 九〇三 道門の右る 街東掛。あ国鉄水城駅のすぐ近くにあり、現在でも乗用車が一 は、「刈かやの関守にのみみえつるは人も許さぬ道 と水東園線 道。公号 嶄古今 ) と歌ったが、それは、ものも 台通れる程度である。ここにもやはり、東門と同じべなりけり」和歌集』 国道側 3 く兵士がいたと考えられる。 のしい警備に驚いたためではなかろうか。いずれに 水城を出た駅路は、北上して福岡市中央区の動物しても、苅萱関跡に近い「関屋」が、古代の関に関 園付近を通り国鉄筑肥線に沿って西進し、唐津をへ連する地名であることは確かであろう。 そうぎ よぶこ て東松浦半島先端に近い呼子に達した。ここは船で 宗祇法師 ( 一四二一 ) の『筑紫道記』には、「刈萱 壱岐・対馬、大陸に渡るルートに連絡していた。 の関にかかる程に、関守立ち出でて、坊が行末を怪 かるかや しげに見るもおそろし。数ならぬ身をいかにとも事 かのにイ 文書に見られる苅萱関 とはゞ いかなる名をか刈萱の関」とみえるが、ま 側前側す型 府手内水模 一五三四 5 宰。の排面 西鉄大牟田線都府楼駅の北西二〇〇メートルには た、細川幽斎 ( ) の『九州道ノ記』にも、 大跡城を断 城水水の苅萱関跡の記念碑が線路脇に立っている。ここは二 「ここかしこ見めぐりて、帰りける道に、刈萱の関 フ . ′を 跡た物っネ 城み造まン つの駅路が合流する地点であり、さらに政庁に近い のありとて教へけるに、今後の陣衆名のらせてかへ 水ら構たト さるる事あるよしを伝へ聞きて、名のらせてやうや う通す陣かえり兵糧米やかるかやの関」とある。室 町末期まで古代の関が継承されていたのだろうか。 大宰府の都城プランと中軸線 平城京・平安京では、都城の中央を南北に通じる 路 すざく 駅 朱雀大路が主要道路であった。大宰府の都城も左右る 対称になっていたが、条里地割をそのまま踏襲した 方 、ら プランであったため、帝都の都城プランの基準にな 府 った一町ⅱ四〇丈」」 9 ) のそれより一割狭い 大 また帝都のように左京・右京と呼ばず、左郭・右 郭と呼んだのは、大陸に近く、防衛を強化した都城 とふろう

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ニ日市温泉ーーー温泉街 のなかを南北に走る道 路 ( 写真手前の道路 ) が、都ていう朱雀大路 にオ目当する。 ・、『御則譚一第 1 しをは・をこ の 0 物一 えんぎ また延喜三年 ()i 〇 ) 八月一日の太政官符には、博が、その手前約一〇〇メートルの地点から、前述し 多大津に唐人商船が来着したとき、諸院・諸宮・諸た掘切りの凹地を南に向かう駅路となる。やがて三 王臣家などが、貿易の取り引きなどを決める大蔵省本松で一一手に分かれ、東に向かう駅路は筑紫平野を の官使が到着する前に、大宰府に使者を派遣して争約二五キロメートル直線で進んで筑後川右岸に達 買したことが記されている。また、大宰府瑯内の富し、日田・豊後森をへて豊後国府に達した。 きいじよう 豪たちが遠来の品物の値段をつりあげて取り引きす 山道を通る基肄城からの道 るので、唐物が基準より高くなり、このためこうし た不正行為の禁止と取り締まりを命じたのである。 三本松から南進する駅路は、萩原付近から山越え ここにも、西海道の中心都市大宰府で活躍する富の道となるが、現在の国道三号線のルートよりは近 豪や、商人たちの一端がうかがわれる。 道であった。具原益軒は『筑前国続風土記』で「今の 榎寺以南は、道路が曲がって直線で進めないが、 原田道より近し」と城の山道の行程を記している。 地形図上で線を延長してみると、筑紫野市役所の前 しかし古代の駅路は、近世の山道より西側、すなわ きいじよう を南に向かう道路に達する。この道路をさらに南下ち基肄城の東北門から基肄城水門跡にいたるルート すると、やがて道路の左右に旅館街が並ぶ。ここがであった。『万葉集』には、「今よりは城の山道は さぶ 湯町と呼ばれる二日市温泉で、かっては武蔵温泉と不楽しけむわが通はむと思ひしものを」と、右の駅 いった。その歴史は古く、『万葉集』にある、「次路が山道を通る淋しい駅路であったことを示してい た 田温泉」を継いだとみてよい 。とすれば、中軸線る。基肄城内を通るだけに当然、門の張番所には見 ( 駅路 ) に沿う交通の便がよい温泉であったといえ張りの兵士がいたはずである。 だざいのそっ る。大宰帥として赴任していた大伴旅人は、療養 基肄駅の位置ははっきりしないが、ここで駅路は じんき てんびよう 路 のため、神亀五年 (? 二 ) から翌天平元年まで秋冬 二手に分かれ、一方は筑後・肥前国境 ( 現在の福岡 ) ・佐賀県境 駅 二日市に湯ノ原と呼ばれ る の時節に温泉に入り、湯の原 ( る小字〈こあざ〉がある ) 通って南下し、大隅国府 ( 国 鹿児島県 ) に達した。ま 走 で鳴く蘆鶴を歌った。政庁からほど近いために、数 た、別のルートは、肥前国府 ( 難驪部 ) をへて島原な ら 多くの役人たちが温泉に入ったことであろう。 半島に達する。 カ 温泉街の中を南に進み、街並みに別れをつげる このように、大宰府からは駅路が六方に放射して宰 大 と、急に道幅が狭くなるが、道路はさらに直線コー いた。これは帝都から六道 ( 畿 ) が放射する スで進む。やがて正面に四車線の県道が目につく ハターンに類似している。 6 すき