平戸 - みる会図書館


検索対象: 日本の街道8 日燃ゆる九州
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1. 日本の街道8 日燃ゆる九州

ッ第 : , ダ・ / 第な : , をに 、物を一第ィ 0 三浦按針の墓ーー鎖国オランダ塀ーー塀の右 以前この一帯は外人墓手にあった商館を守る ために建造。高さ平均 地て、号砲を放ちなが ら出入りする母国船が 1.8 メートル、基底部の 手にとるように見えた。厚さ約 0 . 7 メートル。 を気トをに のが見える。 平戸は最も古いポルトガル貿易港の一つで、『日 本史』の著者フロイスらの布教の地でもあるが、生 隠れキリ 月島などの " かくれ。 ( 一タ一 ) をのぞけば、今は こんせき その痕跡をとどめない。ついで慶長十四年 (8 しに に成石ー 開かれたオランダ商館は、桟橋を降りたすぐ右手に 国造のは 開に地道 手留のるある。その区域は、なだらかな石段に沿った三〇メ 山居崎あ 坂南人長が ートルほどの「オランダ塀」より下、東南隅海岸の ダ・外。徴 ン東たみ特 ラりれたに 「常燈鼻」までで、その間に石庫の壁の一部が篠崎 オよさだ講 家の壁として利用されており、「オランダ井戸」 「オランダ川」 ( 溝 ) ・埠頭が残っている。 島原の乱を鎮圧した帰りの老中松平信綱 ( 伊豆 守 ) は、商館長に命じて「常燈鼻」に据え付けた大 砲で、対岸の標的を撃たせた。薩摩ー長崎ー博多ー 大坂を結ぶ幹線水路である平戸瀬戸は、完全にオラ ンダ艦砲の射程内にあったわけで、倉庫の破風に刻 まれた 618 ごというキリスト紀元の年号ととも に、商館破壊令の一因となった。 「オランダ塀」の坂を登りつめた山の頂には、徳川 ( 家康 0 外交顧問 0 もあり平戸 0 死んだ英人ウ→リア " 5 ) の墓があり、元寇西 ム・アダムズ ( 三浦按針、一六一一〇 の鷹島や壱岐・対馬が望見される。 坂の途中に鉄筋二階建の観光資料館があり、日本ン 平戸出身の嵐山甫安、 では最も古いオランダ外科免許状 ( 日付は 21,Januarij, 166 ) や、ジャガタラ文五通などを陳列する。このう ちコルネリヤのものは、平戸木引田町の判田五右衛 つき

2. 日本の街道8 日燃ゆる九州

/ 至武雄 3 杵 彼 キリシタン文化と東西貿易 港町・平戸と長崎 、長与 経ヶ岳△ 村 日見峠 上 浦 時 茂茂采 深 0 木 て、瀬戸内の水軍にならぶ一大海上勢力を誇った。 絹と胡椒の十字路 その海は、ひとまたぎで真北は釜山、真西は揚子 ひらど 博多発の急行「平戸」は、松浦線経由の長崎行き江下流域に達するので、彼の地の沿海民と合流した わこう である。唐津・伊万里を経て一一時間半で「日本最西「倭寇」の舞台は、九州西岸を南下して、琉球から ルソン 端の駅」平戸口に着く。長崎までのちょうど半路で呂宋・華南 ( 中国 ) 南部・インドシナまでのびている。天 ある。 文十二年 (ffl) わが国にはじめて鉄砲を伝えたポル トガル人も、マッラの海を根城にした中国人王直の ここから平戸島翁戸 ) へは、近年開通の平戸大橋 を、バス・車や徒歩で渡ることもできるが、渦を巻帰り船に便乗して種子島に着いたのである。有史以 初代オランダ商館長の名しは、や来、マッラの海は、日本と中国大陸、南海・琉球と いて流れる平戸瀬戸 ( 。 はり万葉人やザビエルらがたどったように、船で当朝鮮半島とを結ぶ、東西と南北の海の十字路であ ふとう り、それは東西の絹、南北の胡椒の十字路で、朱印 時の埠頭に迫るほうが趣が深い。どちらにしても、 船や南蛮・唐蘭貿易を通して、マカオ・ジャカル 三〇分内外のコ 1 スである。 さらにメキシコに 平戸を中心に、東は唐津付近から西南の五島列島タ・アラビア半島・ヨーロッパ、 いたる異国への路であった。 までの、直線で一五〇キロメートルにおよぶ沿岸一 まつら 帯は、古代から明治初年まで「肥前国松浦郡」であ そのぎ コルネリヤの涙 った。これと南の長崎辺の彼杵郡を含めた九州北西 平戸の緑は輝いている。フェリーが桟橋に近づく 沿岸部は、西海国立公園に代表される日本屈指の沈 と、ソテッ・ビロウが自生し、ホルトノキ・イヌガ 降海岸で、無数の浦と小島からなる。土地は狭く、 集落は孤立しているが、『魏志』倭人伝以来同じ海シなどの暖地性樹林の下に、石積みの塀と低い屋根 人族として固く結ばれ、中世には「松浦党」としの武家屋敷が点在し、その下の湾沿いに町屋が続く びと フェリ もん 中村質 九州大学助教授 てん 8

3. 日本の街道8 日燃ゆる九州

肥前 “毒は一 肥前の道は、佐賀平野を東西に走る長崎路が中心であ鍋島氏の大配分諫早を過ぎて、日見峠を越え、長崎に入 った。長崎路は、対馬藩領の田代から轟木・中原・神崎った。牛津で分かれた唐津街道は、厳木を経て譜代大名 六万石の唐津に出た。唐津からは伊万里・松浦・平戸口を ( 神埼 ) ・境原を経て、鍋島氏三五万七千石の佐賀へ入っ オこの道は、長崎・平戸・松浦・唐津と、 た。佐賀からは、つぎの牛津宿付近で北西に道をとる唐経て平戸に渡っこ。 津街道と分かれ、小田・成瀬雄 ) 、嬉野から俵坂峠を古代から近世にかけての海外文化の移入口であった そのき 越えて彼杵 ( 東彼杵 ) に出て、大村氏ニ万七千石の大村、 伊万里ーー天然の良港 て、江戸時代は有田焼 の積み出し港として栄 えた。「陶工の墓」は朝 鮮の陶工の霊を弔った もの。 鵜殿窟石仏群ーー中央 窟には、十一面観音に 持国天、多聞天を配し、 左右の壁に 50 体余の磨 崖仏が刻まれている。

4. 日本の街道8 日燃ゆる九州

長崎路の内野宿ーー・冷 水峠に近い内野宿は、 典雅なたたずまいの宿 駅て、今も往時の面影 を残している。 じようすけ′」う ここで唐津街道の道筋について簡単にふれておこ五街道などでいう定助郷で、これを助勢する他郡 う。当時、平戸から松浦・伊万里をへて唐津に至る が加助郷・増助郷にあたる。後者の常備人馬は、佐 道筋を唐津街道といったが、唐津ではこれを平戸街賀城下の六〇疋を筆頭に平均一〇疋程度で、長崎路 が並行する分岐道の多良・湯江などでは人足六人・ 道と呼んでいる。この街道は、天文十九年 (18) ポ ルトガル人の平戸来航以来、南蛮貿易がおこなわ馬二疋程度であった。ここでも、一般的な宿駅の継 しゆくつぎ かじんば れ、各国が平戸に商館をおいて殷賑をきわめたた立業務である宿継と、大通行時に郡単位で加人馬 ひんばん ぐんつぎ め、通行も頻繁となった。一方、佐賀より唐津への ( 助郷 ) を雇って継ぎ立てる郡継とがあった。 道筋も、唐津街道といった。 福岡藩の宿駅には、代官所のほか、郡屋・人馬継 めいわ 唐津を発ち、明和八年 (AL\) の大一揆と、風光明所 ( 問屋場 ) ・制札場・御茶屋・町茶屋・旅飯屋以下 眉で名高い虹ノ松原をすぎ、浜崎・深江・前原・今の施設があった。このうち、郡屋は大庄屋・庄屋以 宿・姪浜・博多・箱崎・疇町・青柳・赤間などをへ下が出張して、一般行政事務にあたるところで、郡 て、芦屋・若松へ達するのが、いわゆる唐津街道で屋守がおかれた。御茶屋は藩主の別邸で、これは長 ある。この道筋は豊臣秀吉との由緒が深く、諸所に崎奉行や日田郡代・他藩大名の休泊にも供したので たいこうみち 「太閤道」とか、秀吉にちなむ名所・旧跡が多いと本陣に相当し、他方、町茶屋は幕府代官やオランダ ころで、唐津・福岡両藩主の参勤交代路でもあつ人・御用物・長崎町年寄などが休泊するもので、脇 かいばらえきけん た。いまも部分的に点在する松並木や旧宿場が往時本陣にあたる。貝原益軒の『筑前国続風土記』によ の面影をよくったえている。 ると、宝え六年 (&) 福岡藩領には、筑前六宿以下 の一九宿に御茶屋 ( 「国 行館」之 ) が設けられていた。 長崎路の宿駅と助郷 佐賀藩領では、御茶屋だけで町茶屋がみられず、 長崎路のうち、福岡藩領の宿駅では、代官・下代藩営的性格はいっそう顕著であったが、江戸時代後 の下に、宿方は問屋・年寄、村方は大庄屋・庄屋・ 期には、しだいに民営の本陣も発生した。平戸藩主 組頭がいて、宿村の運営をおこなった。また、佐賀が参勤交代にときおり利用した前記の唐津街道で おとなうまさし 藩の宿駅では、別当・咾・馬散使がいて、正規の伝も、御茶屋以外に、平戸対岸の日の浦や志佐などで ふだうま 馬役負担者である札馬を指揮した。前者の宿駅常備は本陣がみられた。このほか一般旅人を対象とする すけごうやく の馬は二五疋—一五疋ほどで、その助郷役は広範囲旅籠や茶屋、それに両替所翁概しなども ぐんぶやく の農民が郡夫役として徴発された。宿駅特定の郡が出現した。 じゅく にじ ゆいしょ てんぶん いんしん ほうえ ) はたごや

5. 日本の街道8 日燃ゆる九州

異国情緒のただよう長崎は元亀元年 ( 一五七〇 ) 、キリ 移し鎖国時代の唯一の海外貿易港になった。唐人 ( 中国 シタン大名大村純忠が海外貿易のため開港したのに始ま人 ) に対しては、元禄元年 ( 一六八八 ) 、高い土塀と掘割 る天正十五年 ( 一五八七 ) 、豊臣秀吉か切支丹禁教令をに囲まれた唐人屋敷を設け、密貿易とキリシタンの潜入 出して公領となった。その後、寛永十三年 ( 一六三六 ) に、を防いだ幕末・維新の青年たちが、政治の改革を、文 てしま 徳川幕府が出島を完成、ホルトガル商館が置かれたか、 化の開花を求めて長崎への道を急いだのも、長崎が海外 同十八年、ポルトガルを追放、平戸からオランダ商館をの清勢を伝える唯一の窓口であったからである 一 , ~ ー - 啅を第気ネ : マ殀ーの 九十九島 佐世保か ら平戸に至る海上約 25 キロメートルにわたり 点在する島々の総称。 紺碧の海に浮かぶ白砂 の島々は、まさに天然 の美てある。

6. 日本の街道8 日燃ゆる九州

罩を ~ 平戸オランダ商館跡 湖水のような平戸 港は、ジャカルタ・喜 望峰を経てライン川や テムズ川につながって 4 → 屋ー平戸の海上一六里 ( メー 約六 = 洋。 ) を、往きは四時 〃民宿の起源 ? 間、帰りは三時間で、いま同地間をバスと快速列車 鎖国下唯一の開港場である長崎には、商人はもとよ を乗りつぐ ( 時間 ) よりもはるかに速い。平戸ー長 り各種目的の武士・文人墨客・芸人・奉公稼ぎ・流れ 崎間三五里 ( 。 約一三七じは、住きは二六時間、帰りは りょにん 者など、多数の「旅人」が出入りした。しかし、正徳 二日以上もかかった。当時の記録では朝出て午後に 五年 ( ~ 砒 ) の奉行所記録に、「当地の事は他所と違 は着くのが普通であるから、よほどの逆風か乗り筋 ひ、旅人の宿仕候と申もの無御座候」 ( 1 ・亠 : 、不案内だったのだろう。長崎で接した者はみな洗礼 るように、専業の旅籠はなかった。 名でよばれている。鎖国までの長崎住民はすべて そこで有史以来みな″民宿みである。つまり、巡見 ″キリシタン〃であったからだ。 使や突発事件に関する上使などの一行は、身分に応じ て町役人宅や有力商家に分散宿泊したのである。宿代 殉教と復活の路ーー時津道 は寄宿者が払うが、臨時に武家用に改造する費用まで は払わないので、改築費はそのつど長崎会所の貿易利 江戸時代、諸国から陸路で長崎へ入るには、主と ときっ ひみ 銀から支出した。幕末にはその節減のため寺院が宿所 して北からの時津道、東からの日見街道、南からの にあてられた。 いきりきながよ 茂木道の三つで、ほか深堀・伊木カ・長与の三ロは 一般の旅人は知人やってを頼り、それがない者には ローカルである。 手前の、日見・矢上・時津・茂木などの宿場で、「長 時津道は、今の長崎本線や国道三四号線の長崎バ 崎何町何某宅」と斡旋した。「何某」は唐物問屋か、 事実上の旅籠であろう。 イバス沿いで、比較的よく残っている。 長崎での処刑がきまったいわゆる二十六聖人は、 真向かいの丘である。 堺から船で小倉につき、陸路を博多・唐津駐峙 浦上村はもとの領主有馬晴信 ( プロタジオ ) が、 0 ・塚崎 (å) を経て、彼杵から大村湾を渡り時 約一二キ ートロメオ ) の長崎・茂木両村の寄進に 大村純忠 ( バ 津に着いた。ここから素足で長崎まで三里 ( 。メト , ) 。途中浦上村でひと休みして、長崎の街を見晴つづいて、天正十三年 ( 一五 ) 八五にイエズス会に寄進し かす西坂の刑場で四千人ほどの信者と祈りと歌声をた所である。その後も相つぐ迫害をかいくぐって、 ともにしながら殉教した。ときに慶長元年十二月、 七代にわたり信仰を保持した。慶応元年 (HIÆ) 大浦 以後二八〇年におよぶ迫害と殉教の幕あきで、西坂天主堂の宣教師プチジャンによってカトリックに復 だけでも千人に近い内外人の殉教をみる。長崎駅の帰した後も、明治政府は一村のほとんど三三九四人 2

7. 日本の街道8 日燃ゆる九州

長崎での主な買物 数量代銀 ( 匁 ) 備考 四巻半 緞子 ( どんす ) 一巻 緋緞子 しや香 〇・五斤 沈香 五斤一六匁 九匁 竜脳 蘇木 ( すおう ) 一一〇斤 手火矢 ( ピストル ) シャポン カッパ ( 合羽 ) 金の茶わん 硯箱 七宝るり皿 無量 沈香 阿仙薬 金の盃 七宝るりのびん 指金 五〇 一〇匁 7 七七・九 四五・二 一二〇・二ロ薬とも 一〇四 三〇〇〇本 一〇・八 ・小皿を一、も 自分の物 〇・四自分の物 三・八自分の物 二自分の物 自分の物 〇・九自分の物 「大和田近江重清日記」より 状」、倭寇のシンポル「八幡大菩薩」の旗、現存唯 一の秀吉のバテレン追放令、オランダ船首飾木像、 そして『甲子夜話』正続二〇〇巻を著した幕末の藩 主松浦静山が蒐集した内外の典籍・洋書、長崎の日 清・日蘭交易絵巻など、中世から明治にいたる平戸 の栄光が一目でわかる。 しかし、「西の都」とよばれた繁栄期は、ポルト ガル・オランダ・イギリス貿易時代で、鎖国後は西 国一小藩の城下町にすぎなくなった。ポルトガル人 が日本から締め出されたことに万歳を叫んだオラン ダ人は、二年後には「自由」な平戸から長崎の「国 立監獄」へ移された。コルネリヤの涙は商館や平戸 人の涙でもあった。繁栄期の藩主隆信宗陽の墓所か らは、教会と仏寺が交錯して見え、その時代を象徴 するかのようである。 かえい しよう 門と再婚した母すりしゃなどに宛てたもので、オラ 市街からやや離れるが、嘉永三年 (lä) 吉田松 やまが ンダ商館長の子である彼女は、姉や長崎出身のお春が入門した山鹿流兵学の積徳堂、朝鮮の役で連れ きよかん ( ジャガタラお春 ) らとともに、鎖国令でジャカルタ られてきた陶工巨関が築いた窯がそのまま残る中野 に流されたのである。東インド会社社員ピーテル・ 三川内焼 ) は貴重である。川内峠をこえると、「国 せんやていせいこう クノル ( このる ) と結婚し、裕福で円満な家庭生活姓爺」鄭成功の居宅趾、英商館長リチャード・コッ を反映して、茶包みのふくさに書いたこしよろのクス ( 一一 = 一年在しの日記によれば、「琉球から取り寄 「日本こいしや、こいしや」といった感傷はひとっ せた甘藷を日本で最初に栽培した」菜園がある。 もない。しかし、夫の死後裁判官と再婚したが不仲内浦は平戸港の副港で艤装地であった。 で、老後は悲嘆にくれる日が多かったらしい 文禄ニ年の長崎ショッピング 港を見下ろす細道をたどると、五、六分で旧藩主 邸の松浦史料博物館にいたる。松浦党の「一揆契諾 文禄一一年 (llfl) 七月、肥前名護屋で朝鮮渡海を待 オランダ埠頭ーー現在 わが国に残る最も古い 異国への埠頭。ジャガ タラお春もここから乗 船した。 ぶんろく なごや こく

8. 日本の街道8 日燃ゆる九州

重さ約一トンもする飾り山と曳き名けんか祭りともいわれる。遠く室途中、両 そして有名な龍踊りなど、初秋の三 日間を通して行われる。シャギリと 山が主役になる。圧巻は十五日未明町時代から行われており、トンテン岸を埋めた ' 呼ばれる笛や太鼓や銅羅の音に合わ の追い山で、櫛田神社境内を一周すトンと名がついたのは、神輿同士が観衆から御 来せて、長さ二〇メートルにわたる龍 るコースと、市内須崎までのコース戦うときの合図の太鼓の音のため。祝儀が川に のが、さながら生き物のように空中を とでタイムを競う。向こう鉢巻に白白神輿と荒神輿およびダンジリ ( 団投げこまれをま、 ( ッピ、締め込み姿で「オッシ , イ、車 ) が町内を練り歩き、荒神輿とダると、船の′・ ) 艦泳ぐさまは、実に壮観 ・平戸ジャンガラ踊り ( 平戸市八 オッショイ」の掛け声も勇ましく疾ンジリがけんかをする。圧巻は最終若者は寒流きを 走する。 月十八日平戸の各神社仏閣てそれ 日の夕刻、双方組みあ「たまま伊万の中に飛びを , それ特有に踊られる。最もポピュラ こんで泳い、ー ) ーなものは、平戸城内て行われる ) で受け取りに行くのが習わしとなっ 、多らかつぎあ ンている。若宮八幡に到着すると、若歌詞の内容から、農民の豊年踊り ン者たちは走って神社に参拝し、航海だと伝えられている。昔、踊りのは げた方が勝 やしがたまたま敵を退散させたこと ちで、その の安全と豊漁を祈る。 ン あ年の幸連の ・カッパ踊り ( 日田市十月十六日から、藩主松浦家では、敵退散の吉 里 例として毎年踊りを奉納させた。ジ 藝縁起を担う 一」大行事神社境内 ) ・唐津くんち ( 唐津市十一月一一 5 ことになる。 昔、西有田を流れる石松川を大行ャンガラとは、はやしの鉦や小鼓を 四日唐津神社を起点に市内の各町土地の若者 事八幡の神馬が渡っていたところ、打ちならす音のことで、祭り名はこ をめぐる ) たちが、夜 カツ。、がいたすらをしたので神馬はこに由来しているという。踊り手は 実りの秋を迎えるころになると、風をついて 一一、際カッパを陸にはねあげた。水をなく各家の長男でなければならす、小鼓 唐津では「ヤマばやし」が響いてく 川の中で大 一一一厩したカ〉〈は踊りを奉納することでを腹にくくり「けて打ちながら踊る。 る。約一六〇年前に作られた一番山暴れする勇 許しを請うたことに由来している。 名 かね 車の赤獅子を先頭に一四台の曳山を壮な祭りで 夜の八時ごろ、神社の境内で、鉦、 連ねて各町を練り歩く。曳山の大きある。 太鼓、笛の音に合わせて松明をとも ン さは四メートル以上。勇ましいはや・ホーライエンヤ ( 豊後高田市一した中で踊られる。赤装束に頭の上 ジ しに合わせて一台を五〇ー一〇〇人月一日若宮八幡、桂川 ) にシュロの皮をつけた子力ッハカト の曳き子が曳く。宵ヤマ、御旅所神豊漁と航海安全を祈願する行事で、ンポをきったりして激しく舞う。 はうらいせん 幸、町廻りの三日間、市内は祭り一大漁旗などで飾られた「宝来船」に・長崎くんち ( 長崎市十月七ー九 色となる。 乗りこんだ裸の若者たちが、「ホーラ日諏訪神社見物には神社の踊り ・宮崎神宮大祭 ( 宀呂崎市十月最終 ・伊万里トンテントン ( 伊万里市イエンヤ、エンヤ」の掛け声も勇ま馬場がよい ) 土、日曜日宮崎市内を練り歩く ) 十月第三金、土、日曜日伊万里神しく桂川を漕ぎのばる。桂川は豊後異国情緒を漂わせる長崎の代表的神武天皇を祀る古社で、広い境内 物り・・、、つーレ編っ 社、伊万里川を中心とした町内 ) 高田市を流れる川で、船は河口の磯郷土芸能。各町自慢の出し物を披露には杉や落羽松などの古木がうっそ 伊万里神社の神幸祭のことで、別町の岸辺から出発する。 する。鯨の潮吹きやオランダ万歳、うとしている。秋の大祭は、市民か 5

9. 日本の街道8 日燃ゆる九州

日燃ゆる九州 、ロロ n レ 筑紫路日向路薩摩路 長崎路唐津街道 ー、をみキ こ、下 ) み町を、を ・全巻内容 * 印は既刊 第 1 巻 / 風かけるみちのく * 第 2 巻 / 江戸への道 第 3 巻 / 雪の国北陸 * 第 4 巻 / 山なみ遙か歴史の道 * 第 5 巻 / 京への道 第 6 巻 / 夢誘う山陽山陰 第 7 巻 / 海光る瀬戸内・四国 * 第 8 巻 / 日燃ゆる九州 Ⅱ集英社 ケース表噴煙を上げる桜島 ( 鹿児島 ) 同裏日南海岸の朝焼け ( 宮崎 ) カバー表平戸市の寺院と教会 ( 長崎 ) 同裏通潤橋の放水 ( 熊本 ) 定価 1,800 円 0321 ー 176008 ー 3041

10. 日本の街道8 日燃ゆる九州

一、第当 唐津街道の虹ノ松原 唐津城の近くから、 玄海に面してつづくク ロマツの美林は、藩主 寺沢志摩守が植林させ た。国指定天然記念物。 て、ここから玄界灘・瀬戸内海の航路をとったが、 陸路は長崎路のうち筑前六宿をさけて秋月通りを通佐賀藩主と秋月通り ただ っている。これは、藩主鍋島勝茂が福岡藩主黒田忠 江戸時代のはじめ、佐賀藩主鍋島直茂・勝茂父子 かんぶん じよすい と、福岡藩主黒田長政およびその父如水とは親密な関 之と不和だったためで、寛文十一一年 ($() 藩主鍋島 係にあった。関ヶ原の戦後、福岡築城の際は直茂これ 光茂のとき和解して以来、筑前六宿街道を通行し に助力し、他方、佐賀築城には如水・長政その地を訪 た。他方、福岡藩主黒田氏も、はじめは城下の波止 みつげつ 問、また勝茂が長政より借銀するなど、両家の蜜月時 場からただちに乗船、博多湾を出て玄界灘ー瀬戸内 代がつづいた。しかし如水・直茂、さらに長政が没し ただゆきあと 海のコースをとることもあったが、多くは唐津街道 て、その子忠之が跡をつぐと、事態は急転回する。 の若松で乗船した。しかし後には、唐津街道の赤間 " 黒田騒動。で有名な忠之は、早くも寛永三年 ( 一 だいり こやのせ おおほり たかいしがき から長崎路の木屋瀬へ出て、黒崎から大里に至り、 ごろ、江戸藩邸に高石垣を築き、福岡城に大濠を掘 おおはやぶね り、また大早船を建造したことなどが幕府にきこえ ここで下関まで渡海するようになった。 とりつぶ て、黒田家取潰しが取沙汰されている。当時、帰国中 平戸藩主松浦氏も、玄界灘ー瀬一尸内海のコースか の彼は、信頼する勝茂 ( 当時 在府中からの報せがなけれ 、す ( ら、長崎経由、長崎路ー中国路のコースへと変更し きゅうび きよせつ ば虚説だとして驚きもせず、参府の途中もその急飛 きやく た。しかし、平戸の対岸日の浦より上陸、松浦・伊 脚の到来を待ちつづけたが、ついに期待は裏切られ きゅうこう 万里・唐津などをへて牛津で長崎路に合流するか、 て、「肥・筑旧好を変じて不和」となった。このた 稀には唐津街道のコースもとっている。このほか、 め、鍋島氏の参勤通路は、福岡藩が人馬継立・休泊業 かんしよう 務を直接管掌する筑前六宿街道をさけ、秋月通りに 豊後諸藩は、その海港から瀬戸内海の航路をとるの うかい 迂回して小倉へ達するコースをとったという。 が普通であるが、これも中期以降、長崎路の小倉で 合流する傾向がみられた。 このような九州大名の参勤交代路の変更、その海がある。一般的には小倉説が有力で、始宿は筑前黒 てんかん 路より陸路通行への転換が、長崎路への集中・合流崎とされている。もっとも、これは江戸時代前期ま いんしんてん をもたらし、しだいに筑前・豊前の諸宿の殷賑と伝で小倉を起点としたのが、中期以降、参勤交代の大 まやく 馬役負担の増大をまねく要因ともなったのである。 名通行が長崎路へ集中するようになったため、九州 だいり しゆくつぎ の最北端、大里まで宿次を延長させたことにより、 長崎路、その道筋 大里説も生じたとみるべきであろう。こうして大里 おちややおふなやしき 長崎路の起点については、豊前小倉、大里の両説にも、大名休泊・渡海のための御茶屋、御船屋敷な ゆき まれ しら