ツヴ「つ」・第物 , ラ第・ 唐津城ーー慶長 13 年 ( 1 608 ) 、唐津藩主寺沢広 高が名護屋城の解体資 材て築城した。天守閣 は昭和の復元。 イ 7
】 1 筑後川の災害 筑後川の水は、このように灌漑用水として利用さ れるだけでなく、舟運や筏流しなど交通手段として も利用され、近代交通機関が発達するまで重要な役 割を担ってきた。このような川と人間の結びつきは 〃母なる川〃の恩恵を受けている姿である。しかし いつも人間に従順であるとはかぎらない。今 けんろう 日のような堅牢な堤防工事がなされていない昔は、 ひとたび大雨が降れば一夜にして筑後川は哮り狂っ た奔流となり、 川幅を一挙に広げ、一面を泥流の海 と化したであろう。筑後川流域では、天正元年 ( 五 三から明治二十二年の大洪水までの三一七年間 に、一八三回の洪水があったという。二年弱に一度 の割合である。現在のような河道に安定したのは、 大正十二年から昭和九年にかけての改修工事による ものである。しかし昭和二十八年六月に起こった大 洪水は、これまでの堤防をずたずたに切り崩し、ま た甚大な災害をもたらした。堤防決壊二六カ所、死 者一四七名、流失家屋四四〇〇戸、被害総額四八〇 億円にのばった。この二十八年の災害は上流松原・ しもうけ 下筌ダム建設の直接の誘因となったのである。 下筌ダムと蜂の巣城 筑後川は日田盆地では三隈川と呼ばれる。そこで は、阿蘇外輪山から流れ下ったいくつかの支流を合 たけ 57 ーー - 母なる大河の恵みと闘い
の実はわ 島れ四れ 阜身 天出 郎主子島 四盟童野 し矢る 乱し大れ 大江天主堂ー - ーー天阜町 大江の丘に 、ユっている 」フランス人宣教師ガル = 工神父により、昭和 7 年に建てられた畳敷 きの教会てある ノ、第
母なる筑後川 水を 冶め、利用するため流 域の人々の生活は川と の闘いてあった。中云 部には四大堰がある。 〃ル やり方に対して憤ったのである。彼は、ダム建設計 画の不備を突きながら国家と対決するとともに、ダ しすい ムサイト試錐地点である蜂の巣岳山腹に砦を築い くものす た。当時評判になった黒沢明の映画『蜘蛛巣城』を もじって、その砦はいっしか「蜂の巣城」と呼ばれ るようになった。 昭和三十五年六月、日本全体を揺るがせた安保反 対のデモ隊が国会をとり巻き、闘争がまさに最高頂 に達していたころ、規模こそ違うが、人里離れた熊 本県小国の山中では蜂の巣城攻防が展開されていた のである。知将室原の実力闘争・法廷闘争の前に国 側は大きな試練に立たされたのである。晩年の一三 わせた大山川と、九重山地の支流を合わせた玖珠川 年間をダム反対闘争に捧げた室原知幸は、昭和四十 とが合流し、大河の趣きをそなえ始めるのである。 五年六月二十九日急逝する。彼の息のある間、ダム 筑後川上流に治水ダムを設けることは、二十八年の に水を貯めることはできなかった。今日松原下筌 災害によって緊急事となった。九州地方建設局が大ダムを訪れてみると、あの激しかった闘争もうその 山川の支流津江川と杖立川が合流する地点に松原ダように静まりかえり、青々とした湖面に緑の杉が美 ムを、さらに上流津江川に下筌ダムの二段式ダムを しく映えている。しかし、室原らの村はない。 建設することを最終決定したのは昭和三十二年のこ 川をめぐる問題に対して流域の人びとすべてに満 とである。これらのダム建設に反対したのが、志屋足を与える解決はむつかしい。今日筑後川はこれま むろはらともゆき の山林地主室原知幸を中心とした、ダム建設によっ での農業用水に加え、都市用水としての役割を負わ て水没することになる四つの村の人たちであった。 されようとしている。最近ようやく妥結をみた筑後 下流の水禍を救うためには上流の村々が沈まなけれ大堰の問題も、有明海のノリ漁民との関係が最後の ばならないのか。室原はこのこと自体に反対したの難関であった。源流から河口まで、川は流域の人び かさ ではない。国家権力を嵩にきて、上から頭ごなしに ととともに生きてきたし、また生きていくのであ る。 計画を押しつけ、次々に既成事実を積み上げていく
1 高千穂峰ーーー天孫瓊瓊 杵尊が降臨したといわ れる。東西に二ツ石・ 御鉢のニ峰を従え、山 項に天ノ逆鉾が立つ。 埋没鳥居ーー桜島の東 岸黒神地区にあった島 居て、大正 3 年と昭和 21 年の大噴火の灰てこ こまて埋められた。 .735
朝ツ第き誓、。を , 秋の雲仙岳ーー島原半 島の中央にあり、普賢 岳を主峰に、西の国見 岳、妙見岳をふくめて、 雲仙岳と総称する。四 季折々に美しい。 雲仙の秋の草々妹か眼にも 山口誓子 : , いに翆・置第年 春の島原城 -- ーー森岳城 とも呼ばれ、島原の乱 ては叛徒六千に囲まれ ても陥ちなかった名城。 天守閣は昭和の復元。
島原半 0 大矢 天草五物 0 有明 当。ノ天草上島 ~ 0 栖本 富岡 0 霻坂瀬川 0 五和 北 0 都呂々 天草下島ザ = , , 。 , 0 小田床 。℃高浜 0 小宮地 0 天草 0 今富 大江 0 0 崎津 0 宮野河内 。深海 歴史と詩の島・天草 キリシタンとレジスタンスの道 道となった。しかも、昭和四十一年九月からは、天 ′」きよう 天草の海と生活の道 草の東部の島々を結ぶ「五橋」ができて、熊本への 天草は「キリシタンの島」「レジスタンスの島」従属がいっそう強まった。しかし、天草の生活交流 「歴史と詩の島」など、いろいろといわれてきた。 圏は昔から、下島の東北部は鬼池を起点に島原へ、 うしぶか 天草は四つの海に囲まれている。西は東シナ海へ西北部は富岡を起点に長崎へ、南部は牛深を起点に しらぬ 続く天草灘、東南は不知火海、東北は有明海、西北 薩摩へと結ばれていた。 ちぢわ は千々石湾である。天草は平野が少ない島である。 天草の歴史探訪とか歴史散歩をする場合、①有明 このため、天草には他国と結ぶ「天草街道」とか、 海沿岸コースⅡ「天草の乱の道」、②天草灘沿岸コ 「天草路」といった呼び名はない。陸上交通は海岸 ース = 「キリシタン里の道」、③下島南岸コースⅡ ぞいの道か、山越え、あるいは山の尾根の道だった 「明治三大騒動の道」、④上島南岸コース = 「農民一 ので、海上交通のほうが便利で、さかんであった。 揆の道」、以上の四つの道に分けられる。 天草の道は、それぞれ〃往還〃と呼ばれて、すべ しもしま とみおか 天草の乱の道 てが天草下島西北部の富岡町へ通じていた。この町 すいちょう 有明海沿岸コースの「天草の乱の道」は、有明海 が愛長八年 (&lfi) から明治六年まで天草の 中心だったからである。そのため、海陸とも、富岡をはさんで、対岸の雲仙岳が東西に長い裾野を垂れ への年貢米を運ぶ道から発達した。 て、いつも美しく見える。有名な天草・島原の乱 明治六年三月以後、天草の中心地は、富岡から本は、寛永十四年 ( 一一し十月、島原南目と天草北目の たちかえ 渡へ移った。また、これまで天領として肥前の島原農漁民がキリシタンに立帰り、一体となって一揆を や長崎の管轄下にあったのが、熊本県へ所属が移っ展開したものである。島原と天草を結ぶ有明海の真 たため、それ以後の天草の道はすべて熊本へ通じるん中に浮かぶ湯島は、両地の幹部が作戦を談合した 0 御所浦島 獅子島 。伊唐島 魚貫 0 0 牛探 ほん 鶴田文史 態本史学会会員 . おにい・す . 746
有田採土場一一泉山は 有田窯業の始まりてあ り、それを永く支えて いまも細々と採 土がつづけられている。 : : ものはら をみせるものが焼造されていたことは、窯跡や物原 窯跡付近で古陶片の 色鍋島の魅力 散乱しているところ ) の調査で明らかになった。 昭和四十年に始まった白川天狗谷窯の発掘調査に 有田皿山で、輸出磁器の生産も軌道に乗ったころ、 けいちょう げんな よって、有田では慶長十九年 ( 一六 ) 一四から元和元年 新しい窯が築かれた。場所は大川内二本柳。有田から やまふところ は険峻な山を越えた、奥深い山懐の中であった。 ) ごろには、染付磁器が焼かれていたことが証 この窯が鍋島藩窯で、以来江戸時代を通じて、有田で 明された。しかしながら、この科学的な年代決定法 作られていた伊万里とも柿右衛門とも異なった、精緻 にも疑問をさしはさむ人もいるのが現状である。有 な作行きの磁器を焼きつづけた。藩御用のやきもので 田一帯の窯で焼かれた染付磁器は、地方の市場だけ あったため、市場に出ることもなく、庶民のまったく では満足せず、唐津焼と一緒に船で大坂に送られる 知らないものであった。そのためか明治以降、その格 ようになったのは、創業後まもなくのことであった 調高い色絵や染付に愛着を感じたのは、西欧の人びと ( こは、京都に至っ と考えられる。寛永十六年 ( 一一し。 が初めであったと聞く。 ていたことが、前述の鳳林禅師の日記の寛永十六年 やきものに対して、自由さに心をひかれてきた日本 人にとって、藩の権威の下に作られた、まるで規格品 閇十一月十一一一日条に「今利焼藤実染漬之香合」の到 のような作品は、受容されにくかったのだろうか。し 来品のあったという記述から明らかになる。九州の かし、寸分たがわない器形、統一された様式をもっ図 小さな町の谷あいで生まれたやきものが、伊万里焼 案、そして何よりも、限られた色彩をもっとも有効に としての存在を確認されたのであった。 用いたその調和のとれた色絵は、有田皿山の技術の粋 このことは、有田の陶工たちにとって確実な一大 を集めたものといっても過言ではない。、 心をこめて、 市場との遭遇であったといえる。それまで、京・大 仕上げてゆく手仕事の華がそこには美しく咲きほこっ ている。 坂の人びとは、好みの染付磁器を得るために、商人 を介して中国まで注文しなくてはならなかった。わ か、日本からの注文も間に合わないような状況にな が国の寛永期 (— 一四 ) は中国では天啓・崇禎年間 っていった。そのときに、京・大坂の人びとの注文 ) にあたり、景徳鎮の民窯で焼かれたとい しょんずい う古染付・祥瑞などとよばれている染付磁器が、 に応じて、好みの染付磁器を焼成しえた伊万里焼 大量に日本に向けて積み出されたときであった。と は、中国の染付磁器の模倣にとどまらず、日本人好 ころが、寛永末ごろになると、中国からの舶載品がみの製品を次々と生み出すことができたのであっ 急激に少なくなってゆくし、明朝末期の動乱のため た。幕末のころの伊万里津の陶商の家に伝わる図案
崎津天主堂ーー - 元天草 の隠れキリシタン地域 て、明治 6 年徴兵令反を、ー 対の " 血税騒動 " も発 生したところにある。 4 山陽の詩で有名な「雲か山か呉か越か」の東シナ海 の水平線と、そこへ落ちるタ陽が雄大に見える。こ 〃からゆきさん〃の系譜 の道は石炭と陶石の道でもある。天草の石炭は無煙 江戸時代、長崎では日本人や唐人・紅毛人を相手と 炭で全国有数であり、陶石は日本一の質と量で著名 する遊女がいた。″丸山遊女″の名でひろく知られて である。これらの鉱石は下島西部の山地に埋蔵され いる。その出身地は、長崎を中心として九州全域にわ さかせがわ たるが、島原半島や天草島の農民の子女も少なくなか ているが、石炭の産地は、ヒゝ 」カら坂瀬川・志岐・都 いまとみ いっちょうだおにき った。後者の場合は、島原・天草の乱で農村が荒廃し 呂々・今富・一町田・魚貫・牛深であり、陶石の うちだ しもっふかえおだとこたかはま たため、幕府も種々復興策を講じたが、低劣な土地生 産地は内田・都呂々・下津深江・小田床・高浜であ ほろ・れき 産性、貢租過重、人口増加などの悪条件が重なり、多 る。この高浜では宝暦十二年 (L\) より明治まです くの農民はその子女を口べらしのため、他地方へ放出 ぐれた白磁が焼かれて、高浜焼として名高い するほかなかった。 天草のキリシタン布教の始まりは、永禄九年 ( 五 明治維新後も、この地方の生活水準は実質的に向上 せず、鎖国制が解かれたことを契機として、国外ー中 (S) である。その後、非常な発展をみたが、禁教に 国・シベリヤ・東南アジア方面ーへと出稼ぎ地が拡大 ともなう迫害と殉教、そして転びがあり、乱後はこ し、その立地条件や海洋的気質と相まって、海外売春 の西海岸の地に隠れキリシタンが潜伏したのであ 婦を続出させることとなった。いわゆる〃からゆきさ る。それが文化二年 (Æ) に約五千人が崩れ ( 発 ん″である。それは近代資本主義が機織工女の半奴隷 覚 ) て取り締まりを受けるという大事件が今富・崎 的な労働力を糧として発展したのと同じく、遠く海外 津・大江の三村、ついで高浜村に発生した。この高 まで人身売買の対象として流出し、日本の植民地拡大 " ま浜村の旧庄屋上田家は当時のままの大きな役宅が現 を底辺から支えた、ほとんど奴隷的な境遇のあわれな 女性たちであった。 ( 丸山雍成 ) 存し、大江村旧大庄屋松浦家も屋敷が残っている。 明治六年 ( 」 0 にキリシタンは解禁され、大江・崎 津・今富村では復活キリシタンとなった。大江と崎きな目標にして通った道でもある。この五人のうち 津に明治十六年と十八年に天主堂が創建され、昭和高浜の十三仏岬には与謝野鉄幹夫妻の、大江教会前 七、九年に改築された教会が現存する。 には吉井勇の歌碑 ( 白 切支丹卸庭 ) が立っている。 この「キリシタン里の道」は、北原白秋ら五人の 天草キリシタンの最たる繁栄を意味し、日本の教 青年詩人 ( " 五足の靴。ともいう ) が明治四十年の夏に 育文化史上に不朽の名をとどめる天草コレジョは、 ーテル ( パ ードレ ) さん。に逢うことを一つの大その所在地は従来、本渡とみられていたが、昭和三 えいろく
丸山城ーー近世九川の 天領支配の中心地、日 田代官所 ( 西国筋郡代 役所 ) は、小川光氏の 築いた丸山城のふもと にあった。 ンを 豆田の町並みーーー豆田・ 隈の両町には八軒衆と いわれた豪商が軒を並 べ、今もその姿を残し ている。正面の草野家 ( 升屋 ) は、町家の代表 的な建物。 1 道の要地であった。久住町から久住高原へのばり、 おんた 小鹿田の里 しばらく進むと、右手に高さ二メートルほどの石燈 からうす 籠がある。この石燈籠は、この街道の一里塚でもあ 陶土を砕く唐臼の音がこだまする静かなやきものの った。この先、豊肥国境の草原には松並木が残って 里、それが小鹿田である。日田から中津へむかう国道 二一二号線に日田市藤山町からわかれて左手の県道を 一おり、貴重な遺跡となっている。また諸所に石畳な 登りつめると小鹿田につく。 ども残り、かっての「代官道路」の面影をよく伝え 宝永二年 ( 瓧 ) 、福岡県小石原から陶工を招き、 ている。 爾来民窯として庶民の日用雑器を作りつづけてきた。 近世において行政地名としての「日田」は存在せ 現在の窯元は一〇戸で、うち個人窯五、共同窯一であ すいきよう くままめた ゃなぎむねよし ず、水郷「日田」は隈・豆田の両町を中心とする る。小鹿田焼は昭和のはじめ、柳宗悦によって民芸 一帯の総称であった。隈町には近世初期、隈城がお 品として古格美を認められたが、昭和二十九年にはバ ーナード・リーチが浜田庄司、河井寛次郎らを伴って かれ、豆田町にも慶長五年 ( 〇 0 から丸山城 この里を訪れ、小鹿田焼の名は世上に喧伝されること しがおかれて、元禄二年 (& し以来、豆田・隈とも となった。 町制を布いている。 小鹿田焼の手法では、飛びカンナがとくに有名であ 日田代官所 ( 永圸布政所、明和四年以 ) は旧永山城址か るが、製造の工程がとくに手作りであることが最大の じようきよう こしっち ら、一七世紀末の貞享ころに、その山麓に移され 特徴である。原土の採掘、唐臼での粉砕、漉土にして た。明治元年 (*I(É) からは、そこに日田県令松方正 胎土とする土造りにはじまって、蹴ロクロでの手と足 義が日田県庁をおいたが、ながく九州の天領支配の による成形、大小のヘラなどでの模様づけ、釉薬原料 の採取・調合・薬掛け、登り窯による薪窯と、まさに 中心であった。 ひたがね 日本で唯一ともいえる、一貫した地元の原料による伝 いわゆる「日田金」とは、両町の町人が享保以降 かいまいようたしかけや 統的技法を継承していることは貴重なものである。 日田に定着する代官所との関係で、廻米用達・掛屋 小鹿田焼は、今後も意匠の美というスマートなもの などを勤めることによって財をなし、代官所の権威 ではなく、生活の用具として使いこなすことによっ を背景として、ひろく大名貸・村貸などの金融業を て、材質・意匠・文様の美が発揮される「機能の美」 行うことによって発展した姿をさしている。 として生きつづけていくであろう。 はちけんし なかま これらの金融業者は、「八軒衆」、「掛屋仲間衆」 などと呼ばれ、隈の森・山田家、豆田の草野・広は、これら豪商を中心として町場が形成され、いま も往時の繁栄を伝える町筋が残っている。 瀬・千原・手島家などがその中核であった。両町に し 778