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検索対象: 日本の街道8 日燃ゆる九州
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1. 日本の街道8 日燃ゆる九州

町は一町一寺制をとらず、互い違いの大通り二本が に向かった頼山陽の詩碑には、「大道平々砥もしか ゅうじよう せいぶろうさん 城の西南を通りぬける形をとり、古町とは対照的でず熊城東に去ればすべて青蕪老杉道を挾んで ある。新町は、城に物資を供給する商人や旅商人の他樹なし欠くる処時々阿蘇を見る」とある。 豊後街道を開いたのは、加藤清正である。慶長五 宿など各種サービス業者が店を構えていた。 年 (&S) 関ヶ原の役で東軍徳川家康に味方した清正 熊本からの参勤交代路 は、小西行長を宇土城に攻め、戦後は小西の遺領を 併せて肥後全域を手中にしたが、まもなくキリシタ 熊本城主加藤・細川両氏の江戸・大坂への道は、 ンの多い天草郡二万一千石を返上し、江戸・大坂へ 豊後街道と豊前街道であった。豊後街道は鶴崎筋、 大津街道ともよばれ、熊本ー大津ー内牧ー久住ー野の交通路にあたる豊後国の所領との交換を願って許 津原ー鶴崎のコースで、鶴崎からは海路大坂へ向か された。これによって加藤・細川氏の参勤交代は、 つ」 0 ) しつほう、豊前街道は小倉筋、薩摩街道とも主として豊後街道を用い、鶴崎から海路室津へ向か しし砿本ー鹿子木ー味取新町ー山鹿ー南関ー瀬高う道筋をとることとなった。 ー松崎ー山家ー内野ー飯塚ー黒崎ー小倉のコース 豊後街道を行く大名行列 で、小倉から下関へ渡海した。薩摩の島津氏、球磨 の相良氏などの大名は、熊本藩領内を通過する際、 熊本を朝立ちした旅人は、まず大津に向かう。 約二 C ) たいてい豊前街道を通るが、加藤・細川両氏は主に『西遊日記』には、「熊本札辻より大津へ五里 ( キ。メ レ 豊後街道を通った。 ト ) 、熊本町外レニ町所あり、大津ロといふ、是 江戸時代、肥後の道路元標は新一丁目札之辻であより豊後街道なり」とある。この大津は、御茶屋・ る。熊本の町はずれは、現在の国道三号線の浄行寺御客屋・旅籠以下、三五〇軒が立ち並ぶ宿場で、こ てながかいしょ 付近で、ここを立田口とよんだ。近くの赤鳥居の額のほか藩の米蔵気 ) や大津手永会所 ( 駄 0 もあ ち み る在町であった。 には立田口大神宮の名が見える。ここから一里木・ 代 大津から、高尾野・新小屋をへて、旧道を二重峠交 二里木・三里木を通る。このあたりは加藤清正が慶 参 の 長年具一 尸燾に植えた屋久杉の並木で名高い所へのばると、外輪山に囲まれた阿蘇盆地が一望でき 国 の る。この二重峠は、外輪山の中でもっとも低い。こ である。彼は並木の杉を保護して、「一枝を折らば、 火 き 一指を斬るべし、一株を伐らば、一首を馘るべし」 こは阿蘇開発の神、健磐龍命が阿蘇の湖水を流下さ 9 との制札を出したという。文政初年ここを通り竹田せるために蹴破ろうとした地点だという。しかし、 豊後街道の里数木 名称 位置 里木熊本市黒髪五丁目、大榎、昭和三十年代枯死、石碑 一一里木熊本市龍田町一一里木、バス停 三里木菊池郡菊陽町三里木、バス停 四里木菊池郡蔔陽町南方、榎、大正三年鉄道敷設 五里木菊池郡大津町構ロ際、標木 六里木菊池郡大津町構ロ際、標木 七里木菊池郡大津町構ロ際、標木 八里木阿蘇郡阿蘇町車帰 九里木阿蘇郡阿蘇町狩尾、九里塚 十里木阿蘇郡阿蘇町内牧 十一里木阿蘇郡阿蘇町今町、石碑 十一一里木阿蘇郡一の宮町塩塚 十三里木阿蘇郡一の宮町坂梨 十四里木阿蘇郡波野村小地野、四里塚 十五里木阿蘇郡波野村笹倉 ニ重峠坂下一一一石畳の 坂道がえんえんと外輪 山を登って行く。二重 峠は阿蘇山と態本平野 を見はるかす峠だ。 ツ .

2. 日本の街道8 日燃ゆる九州

肥後には、筑後の南関から入ってきた道が、「山鹿千軒盥なし」 て、八代海にのぞむ水俣川河口の水俣 ($* イ ) に出たこの三つの峠 といわれた湯の町山鹿を通り、細川氏五四万石の熊本に入り、薩摩越えは厳しく、難所三太郎峠越えといって旅人を悩ませた佐敷で、 ( 肥後 ) 街道と呼ばれた。熊本からは、川尻・ ト川、細川氏の支城が相良氏ニ万ニ千石の人吉 ( の道が分かれる水俣から米 やっしろ あった八代を過ぎ、日奈久から赤松 ( 太郎 ) 峠を越えて田ノ浦を過入れば薩摩であるまた熊本からは阿蘇を通って、府内分 ) に向 ぎ、佐敷 ( 太郎 ) 峠を越えて佐敷に出て、津奈木 ( 太郎 ) 峠を越えかう豊後街道があった。 ーノ′ 何蘇中岳噴火口一一一南 北 1100 ( メートル。以 下同し ) 、東西 400 、周 囲約 480 、深さ約 100 の火口をもっ活火山。 通潤橋ーー阿蘇外輪山 の南麓、矢部町にある。 安政元年 ( 1854 ) に作ら れた水道橋て、橋の内 部に通水管が通る。 730

3. 日本の街道8 日燃ゆる九州

豊後街道は、九州を東西に横断する熊本藩主の参勤文代の道であ った。これは、参勤交代の港として栄えた鶴崎から府内綟分 ) に出 て、府内から熊本に向かうもので、野津原・今市・堤 ( 神堤 ) を経 て、万葉集に詠まれた久住山麓の久住に出る久住からは、中川氏 うらのまさ 七万石の竹田に向かう道と分かれ、大利・坂梨・内牧と阿蘇の山岳 地帯を抜けて、熊本に出た。豊後から日向に入るには、府内から佐 賀関に出て、臼杵・野津・三重から、旗返峠を越えて重岡に至り、 宗太郎越えで日向の延岡に入った。西国郡代役所があった日田は、 中津から耶馬渓を通る中津街道、肥後の月国へ出る小肥後街道など、 四方に道が通じていた 初夏の日田一一日田盆 地を貰く筑後川の上去 = 隈川に沿った水の町 て、江戸時代は西国郡 代役所が置かれた。 1 を 1 . 気を 竹田武家屋敷 後の小京都」と呼ばれ る竹田に残る武家屋敷 は、静まりかえり、サ ルスペリの花が美しい。 岡 ( 竹田 ) 城址ーー断 崖の上に高い石垣が残 り、廉太郎の名曲 「荒城の月』は、 生まれた。

4. 日本の街道8 日燃ゆる九州

に封入した加藤清正 ( 北部半国 ) ・小西行長 ( 南部半 鎮圧された肥後の国衆一揆 国 ) は、それぞれ隈本古城・宇土古城に入り、領内 統治と城の修復に力をそそいだ。小西行長は翌年、 天正十五年豊臣秀吉の島津征伐に際して、 肥後の国衆 ( 在地領主 ) は秀吉のもとに馳せ参じ、 新城建設を始めて、普請役賦役を拒否した天草国人 知行を安堵された。九州を平定した秀吉は、佐々成層を、加藤清正の援助でおさえ、目的を達成した。 政に肥後を与えて支配させたが、国衆の支配などに新宇土城の完成がいっかはっきりしないが、「宇土 ついては、五カ条の制書を与えていた。その内容城旧絵図」などによれば壮麗な三層の天守閣をもっ は、①五二人の国人には従来どおり知行させる、②本丸や二の丸・三の丸などをそなえた近世城郭であ 三年間検地をしない、③農民らの痛みなきよう善政った。この天守閣が小西氏の滅亡後、熊本城へ移さ をする、④一揆が起きぬよう配慮する、⑤大坂でのれ、今に残る宇土櫓だという。 清正は隈本古城に入る、と、城下町の整備や坪井川 普請役は三年間免除する、というものである。 これでは肥後支配は不可能に近いので、成政はあの付替工事、古城の石垣築造などをおこなった。本 えて禁制をおかして検地を強行した。このため、国格的な新熊本城の造営は、慶長六年 (JN) に始まっ 鈴木登編「熊 衆の不満は高まり、成政入国の翌七月、まず隈府城たともいう ) 。熊本城は、丘陵と浸蝕谷 本の城」 によって幾重にも防備される茶臼山丘陵全域をとり 主隈部親永が反旗をひるがえすと、これに呼応して 入れた壮大な規模の平山城である。それは丘陵を城 甲斐親秀・菊池武国、赤星・城氏など旧菊池系、和 仁・辺春・大津山氏ら肥後北部衆、詫磨・小山・鹿郭に、浸蝕谷を空濠に用い、また坪井川をひき廻 し、井芹川に合流させて内濠とし、白川を外濠とし 子木氏ら隈本周辺の国衆がつぎつぎと一揆に参加し た。秀吉は九州大名にその鎮圧を命じたので、黒田て、その間に城下町を配した。慶長十一一年、新城は 孝高・毛利勝信・島津義弘・立花宗茂らが肥後に出竣工し、これを機に「隈本」を「熊本」とした。 兵、国衆一揆を鎮圧した。秀吉は一揆参加者の親 城下町のうち、熊本城南側の古町は、方一町 (f 類・同調者などすべて斬首に処して国衆勢力を一掃 〇九し・道筋三間 ( 約五・四 ) 余の繩張りによって区画 したが、佐々成政にも責任を問い、 切腹させた。 された「一町一寺制」による市街である。古府中か ら寺院・商工業者を移住させ、北から唐人町・魚屋 「隈本」から「熊本」へ 町・万町・阿弥陀寺町、東から紺屋町・米屋町・呉 つほう、大手門近くの新 服町・細工町と並べた。い 天正十六年 ( ←し佐々成政に代わって新たに肥後 阿蘇山一一火の国のシ ンホルて活火山。阿蘇 登山とは、噴煙をつづ ける中岳噴火口を火口 縁から見物すること。

5. 日本の街道8 日燃ゆる九州

木ま謡哀 五山民は 立ロり貝 橋南あ守る 本に子め っ羆中のわ の、の本き 峡は山を 山村た伍切 熊本城一一 - 大坂城・名 古屋城とともに三名城 といわれ、慶長 12 年 ( 1 607 ) 加藤清正によって 築城された。 ノ 3 /

6. 日本の街道8 日燃ゆる九州

南 チプサン古墳・弁慶ケ穴古墳 0 菊鹿 鍋田横穴群 0 山鹿 △小岱山 0 来民 0 菊水 0 菊池 、江田船山古墳 玉東 0 ラ四水 植木 0 合志 至熊本 菊池溪谷 豊かな民俗と装飾古墳の也日 、冫 ) 規工川宏輔 熊本大学助教授 高瀬から隈府へ 域農村からの物資の積み出しは、「高瀬下り」の名 城北を結んだ阿蘇からの流れ で長く親しまれてきた。 がいりんふかば 阿蘇の外輪、深葉山に源を発し、熊本県北部の菊 ここでは、菊池川流域と高瀬行名 ) から隈府 池・鹿本・玉名の三地方を潤しながら有明海へそそ池 ) まで溯りながら、その歴史や文化と風土との じよう・ほく しわゆる「城北」地方の関係をみることにしよう。 ロメートル く菊池川 ( 全長七五キ ) ま、、 シンポルといっても過言ではない。その流域面積は 菊池川水運の拠点、高瀬 九九六平方キロメートル。態本県内で「城北」とい もうら えば、菊池川の流域のほとんど全部を網羅する。近 高瀬は、菊池川下流にひろがる三角州平野の要に 代交通の発達以前、菊池川はこの地域を結びつける 位置し、かっては河港の町として繁栄したところで そう みん ずしょ 大動脈であった。全国的に知られる菊池川流域の装ある。中国の明時代の書『図書編』にも、「肥後六 しよくこふんぐん 飾古墳群は、古来ここが菊池川をメーン・ルートと港」の一つとして、「達加什」の港名があげられて して有明海に通じ、さらに朝鮮半島とも交流してき いる。南北朝時代、菊池川上流の隈府に城を構え たことを、よく物語っている。 て、一時は全九州にその勢威を誇った菊池氏も、高 また、わが国における鉄器使用の第一歩は、弥生瀬の地を門戸とする海外貿易には、つよい関心を示 てんすい はねぎ 前期の玉名郡天水町斉藤山遺跡の鉄斧に始まるが、 した。同氏は、高瀬の繁根木八幡宮に、出入りの船 その背景として、早くからの大陸文化の移入・吸収 舶に対する加護を祈らせるとともに、入港の船から と、菊池川の川砂に含まれる豊かな砂鉄の恵みとが津料を徴収することによって、社殿の維持をはかっ あった。 わ」とい、一つ。 菊池川の水運は、近世初頭の加藤清正の入国以 この貿易とともに、高瀬津をへて多くの学僧が大 降、とくに活発化し、その拠点となった高瀬への流陸と往来した。い つほう、繁根木八幡宮の裏れ跡 0 0 玉名 0 大津 てつふ たかせ かなめ 7 イ 2

7. 日本の街道8 日燃ゆる九州

熊本城ーー加藤清正は 茶臼山の地形を利用し、 7 年の歳月を投して壮 大な平山城を築いた。 桜や楠の木立が美しい。 細川藩の御座船波奈之 ( なみなし ) 丸ーー - 西国 大名の水軍は参勤交代 の輸送船団を務めた。 波奈之丸の華麗な船屋 形は羆本城内に陳列さ れている。 は暑寒風雨もいとはず、骨折て貢を納め、夫役 は六四軒、一揆参加者は阿蘇郡だけで八八 Q ) C ) 人に をつとめ、老人子供病者にさへ、暖に着せここ のばる。二月下旬から三月上旬にかけて猛威をふる ろよく養ふことを得ざるは、全く年貢夫役のか った阿蘇の大一揆は、警視隊によって鎮圧され、多 らき故なりと、我ふかく恥おそる、いかにもし くの犠牲者を出した。 て此くるしみをとかむとおもへども、今直に本 同年の二、三月には県内の各所で政府軍と薩軍が 免をくつろぐることを得ず、先左之通 衝突したが、熊本城天守閣は薩軍包囲の三日前 ( 二 一、上米一、ロ米三稜一、会所並村出米 月十九日 ) 突然炎上、三時間余で焼失した 銭 建 ) 。『戦闘日記』には、「本日午前第十一時四十 たまたま 右稜々を差ゆるしぬ、はた又壱歩半米は凶年損 分、本城火ヲ失ス、偶々西南ノ風烈シク瞬間四方ニ 毛償の為に備をきし事にさむらへども、向後を 延焼シ、遂ニ天守台ニ及プ、時ニ午後第三時、漸ク さむるに及ばず、是迄の請免を仮の定免とここ 鎮火ス」とある。天守閣炎上の原因には、失火・放 ろへ、いよいよ農業に精を入れ、老幼養育し、 火・自焼などの諸説があるが、真相は不明である。 あまりあるものは親族組合等の難渋をすくひ、 藩政改革を追慕する知事塔 相互に人にこの道をつくすべきもの也。 知事 七月 明治三年五月、細川護久が熊本藩知事に、弟の長 これをよろこんだ民衆は、後年布告の全文や細川 岡護美が大参事に任命されると、実学党系の人びと が登用され、藩政改革が推進された。徳富蘆花が家の九曜紋を刻みこんだ知事塔をたて、知事様祭を して知事細川護久の恩徳を追慕した。知事塔は豊後 「肥後の維新は、明治三年に来ました」頂手 たのは、この改革のことである。藩知事細川護久は街道に沿った阿蘇郡波野村五カ所 ( 荻岳山頂・笹倉・ 小池野・楢水野・赤仁田 ) 、産山村山鹿、阿蘇町湯浦と 雑税 ( ①上げ米、②ロ銭、③会所および村出米銭 ) 廃止 ち 旧熊本藩領の大分県直入郡久住町二カ所 ( 白丹・納み を布告して、民力の恢復をはかった。 交 池公園 ) の計九カ所に建てられている。とくに阿蘇 村々小前共え 参 の 今度我等知藩事の重任を蒙候に付ては、朝廷之郡で他領と近接した地点、明治一一年に減税要求の一 国 御趣意を奉じ、正四位様箭知事邦 ) 厚き思揆が起きた岡藩領に近接して建っているのが特徴での 召を継て、管内の四民うゑこごえのうれいなあるが、これは同時に、明治初年の藩政改革を追慕 ねが 4 、各其処を得せしめむ事を希ふ、中にも百姓するものでもあった。

8. 日本の街道8 日燃ゆる九州

島原半 0 大矢 天草五物 0 有明 当。ノ天草上島 ~ 0 栖本 富岡 0 霻坂瀬川 0 五和 北 0 都呂々 天草下島ザ = , , 。 , 0 小田床 。℃高浜 0 小宮地 0 天草 0 今富 大江 0 0 崎津 0 宮野河内 。深海 歴史と詩の島・天草 キリシタンとレジスタンスの道 道となった。しかも、昭和四十一年九月からは、天 ′」きよう 天草の海と生活の道 草の東部の島々を結ぶ「五橋」ができて、熊本への 天草は「キリシタンの島」「レジスタンスの島」従属がいっそう強まった。しかし、天草の生活交流 「歴史と詩の島」など、いろいろといわれてきた。 圏は昔から、下島の東北部は鬼池を起点に島原へ、 うしぶか 天草は四つの海に囲まれている。西は東シナ海へ西北部は富岡を起点に長崎へ、南部は牛深を起点に しらぬ 続く天草灘、東南は不知火海、東北は有明海、西北 薩摩へと結ばれていた。 ちぢわ は千々石湾である。天草は平野が少ない島である。 天草の歴史探訪とか歴史散歩をする場合、①有明 このため、天草には他国と結ぶ「天草街道」とか、 海沿岸コースⅡ「天草の乱の道」、②天草灘沿岸コ 「天草路」といった呼び名はない。陸上交通は海岸 ース = 「キリシタン里の道」、③下島南岸コースⅡ ぞいの道か、山越え、あるいは山の尾根の道だった 「明治三大騒動の道」、④上島南岸コース = 「農民一 ので、海上交通のほうが便利で、さかんであった。 揆の道」、以上の四つの道に分けられる。 天草の道は、それぞれ〃往還〃と呼ばれて、すべ しもしま とみおか 天草の乱の道 てが天草下島西北部の富岡町へ通じていた。この町 すいちょう 有明海沿岸コースの「天草の乱の道」は、有明海 が愛長八年 (&lfi) から明治六年まで天草の 中心だったからである。そのため、海陸とも、富岡をはさんで、対岸の雲仙岳が東西に長い裾野を垂れ への年貢米を運ぶ道から発達した。 て、いつも美しく見える。有名な天草・島原の乱 明治六年三月以後、天草の中心地は、富岡から本は、寛永十四年 ( 一一し十月、島原南目と天草北目の たちかえ 渡へ移った。また、これまで天領として肥前の島原農漁民がキリシタンに立帰り、一体となって一揆を や長崎の管轄下にあったのが、熊本県へ所属が移っ展開したものである。島原と天草を結ぶ有明海の真 たため、それ以後の天草の道はすべて熊本へ通じるん中に浮かぶ湯島は、両地の幹部が作戦を談合した 0 御所浦島 獅子島 。伊唐島 魚貫 0 0 牛探 ほん 鶴田文史 態本史学会会員 . おにい・す . 746

9. 日本の街道8 日燃ゆる九州

九 州 郷 土 の 味 し 料理 ( 産地 ) 沖うと ( 福岡 ) が , め煮 ( 福岡 ) 松浦漬 ( 佐賀 ) ムツゴロウ ( 佐賀 ) 汁 だ ( 大分 ) やせうま 城下ガレイ ( 大分 ) 卓袱料理 ( 長崎 ) たが快海 あ異 なを佐牟け貝 え有 物山 つ国 て鶏 作オ で漬 だゆ こて ムを これ す接 日庭変て こ松 ぐ点 と浦する し . ゴす で漬 富酒 ノヾゼ った に皿柱タ 煮ほ。 山を が賀 灘かな漬 魚ー 出長 ス有 さ崎 ッあ れと ら物 つる っか大で 干ム 感る の入 理地 っ鯨 ぇ地別道 身が 。チ ゴの な煮めを み袱 殊てのり ン科込ら使て に料 有日ひ ~ 食 理み 理る 藻名出し海 べイ なア い味 ゴ平 でわ でた にや イに一 オしラ たお 。角 い楼 飛や る器 外う 恵灘 魚五 の国 い椀独や 。初かん 自中 たが も汁代ら い海 るな取 歓一 って迎人 があ つで こ名 る後 てれ て全皿づ こを 皿る い部 刺意魚作 ア ゴ ( 長崎 ) 日の出南京 ( 宮崎 ) や汁 ( 宮崎 ) 辛子レンコン ( 熊本 ) ひともじの ぐるぐる ( 熊本 ) かるかん ( 鹿児島 ) 酒ずし ( 鹿児島 ) 後藤的ー商店 092 ー 621 ー 3383 宮崎市とその周辺て作られて 0985 ー 24 ー 7070 魚山亭 2 ー 2 ー 3171 ( 観光案内所 ) 平戸市の各土産物店 09 田 -25 ー 5151 ( 長崎市役所 ) 長﨑市の各料理店 877 た 2 ー 2511 ( 日出町役場 ) 日出町の各料理店 0975 ー 36 ー 5327 大分市こっこっ庵 0952 ー 25 ー 2148 ( 県観光課 ) 有明海に近い町に多い 09557-3 ー 6111 ( 唐津市役所 ) 唐津の各土産物店て 家庭料理 福岡市とその周辺て作られる 0992 ー 24 ー 1111 ( 市観光課 ) 鹿児島の各土産物店て 作られる料理 熊本市て古くからひな祭りに 0 % 3 ー 56 ー 1111 ( 熊本市役所 ) 熊本市の各土産物店て いる家庭料理 さつま路 892 ー 26-0525 博多近海てとれる、エゴ藻とイギス藻を煮込んて固めたもの。北九 少に数百年前から伝わり庶民の味として親しまれている。 豊臣秀吉が朝鮮出兵の折に、ガメ ( スッポン ) をつかまえて、季節の 野と一緒に煮込んだもの。家庭料理となっている。 、玄界灘ては鯨がよくとれた。捨てるところのないといわれてい る鯨の軟骨を入れた漬けもの。山海漬に似た味がする。 不知火のともる有明海の干潟に住むムツゴロウ。見ばえは悪いが、 味は淡白ておいしい。夏場が最高。佐賀市や鹿島市の旅館などて。 小麦粉を水て溶いて、手てちぎっただけの素朴な麺をみそ仕立ての 汁の中に入れたり、きな粉をかけたもの。 日出城下町に面する海中に淡水の湧くところがあり、そこに特殊な 藻がはえている。その藻を食べに集まってくるカレイが城下ガレイ。 オランダや中国の料理を巧みにとり入れて、日本人のロに合うよう した料理。豪華なメニューがつづき、 5 、 6 人て食卓を囲んて食べる。 海を飛ぶようにしてやってくる飛魚を、土地てはアゴと呼んている。 丸干しや焼いて背開きにしたものを食べる。 手のひらほど・の大きさの日向カホチャの中心をくりぬき、鶏肉をつ め、卵をのせた宮崎の郷土料理。 南国宮崎の夏は暑い。冷や汁は食欲のないときによい。みそ汁を冷 たくしてご飯にかけたもの。こくのあるみそ仕立の汁が特徴。 熊本城の外堀に栽培されたレンコンに、辛子みそを詰め油て揚げた もの。カリッとした歯ざわりのある郷土料理。 肥後藩の苦しい財政を建て直すために考えだされたという料理。春 のわけぎに辛子みそをつけるだけて、ひな祭りに作られる。 山いもと米の粉て作ったむし菓子。しっとりして甘味がおさえてあ 48 年の伝続をもつ郷土料理。酢を使わずに、地酒を飯にしみこま る。町なかのどんなお菓子屋さんても売っている。 せて、タイやイカ、桜島大根などの具をいれたもの。 て る 特 な を 工 て る カ 7 と の 日 に城下 し下ガ の 中 レ生産 長 崎 と府が大 し湾あ分 だ産 し み か け く っ た 珍 味 と 店海れ外も た 、は唐 な今鯨津界 の なは軟はで 、骨 の も の は 酒 も っ て い る の で 浜 : 毎 ifii る で る 、た白 て か ムら重 き 。し た い 玄 、あ る 豪 の焼風干に で 玉 開が利 これさ い 田 の 名 。海物は貝 も っ て し、 がれア秋は ま淡はがこ新崎 、な煮辺にな ズ フ リ と さ ら用ればと る 賀 つは方 有 明 の ほ ーこ も つ つ 、ら し 、わ り る し 、面たお も の ( ナ と し、 。てす 、海ろ鮮 る と と こ干れ島 か り の 大漬なぶ大 で も に る れ る に し す る イ フ べギた は 艮 と り緒似 し め り ん さ し、 。は サ出城に防 イ の 県 、は 。水 に 北 き 、長わ で も 尸 タリ 島 の 方 。で と び し た 、両 眼 カゞ 交尭のグウ佐 ロ し 、て い る に 女台 ま っ 佐 大 分 ロ ウ にたが っ い で し る し五理 ハ ノ、 ん で グ ) ふ と噌与 の い具が 。や し 、ポ明て味ク 、寒は海食はなれ料 べ 、華 で あ る の二煮 の り と ゴ珍こ味を が 多 ク ) ワかき ツはる の箸豪 ト ス 食慣さ枚な 魚 こ珍 員 し、 る フ 。料 囲け陶 習 ぇ る ハ イ中 に間ァ で 炎 . 白 豚 の ど カゞ く し、 出は・明 ッ ロ あ スげ名 し、 ま し と つ の 、海 有 る の 理 し い る 、ひ れ み ん 栄 養 な で 第 ) る ーで の 、幸周 ま レれ東 て し、 こ尾だ巧卓 k んチ と り い の 味 は オ ン 国 の 料 理 . し よ っ 豊本で の 科味れ 理がて オこ ぶ どが案 ャ ポ 焼 し、 た の と し 豕 イ乍 ら い 。り砂惣は し糖菜 し ン広め ま っ は わ ふ オご ク ) 生 の 四 海 の主来 う方考学ろ ム必な ら い たが行 ス んポる ン / っ 明 に時ポ 人たで が留あ か ら 、事 の と は ヤ ン 、皿 ど な ど

10. 日本の街道8 日燃ゆる九州

日天草の道ー山崎朋子 そ、一二 . に津 、 3 を一を 0 ドをぎ . や 叮こ , を第、きま、を物を 女性史研究 ~ 豕 あれはたしか、昨年の雛祭りのころだったように 思う。美しいしつかりとした文字で綴られた女名前 の手紙を受け取ったわたしは、読みすすむうちに思 わす胸のなかで小さな声をあげていた。 島、つ集 本て五をる それは、わたしのからゆきさんについての本を読 ⅲ不一・ーし 九ぶ違のて 結の術れんだ高校生からのものであったが、彼女はなんと、 いつらにうた を形技ら 橋島に 天草下島の「一町田」というバス停近くの雑貨屋の 五草いが架 草天伝橋て 娘なのだという。勉強が好きで、熊本のキリスト教 天と島のめ 系の全寮制女子高に学んでいるが、クラブ活動の女 性史班で「からゆきさん」についての研究をしたい ので力を貸してはしいと書いてあった。 「一町田」は、熊本市内から天草島を結ぶ有名な五 橋を渡って二時間近くもバスに揺られた山間の町で ある。わたしは、親しくなった元からゆきさんのお 婆さんに逢うためにここから更にバスを乗り継いで 下島南岸の「崎津」まで行くのだったが、どう工夫 しても乗り継ぎには三〇分の便待ち時間か必要だっ た。ハス停の前は小学校で、、ハスか到着すると校庭 で遊んでいた子どもたちが砂埃りを浴びてバスを眺 めに集まってくるのだった。この女子高校生の家だ という雑貨屋はバス亭から一五メートルばかり離れ た場所にあったか、待ち時間をもて余したわたしは、 必すその店まで行って、アンパンや袋菓子や洗濯挾 みやソックスなどを買ったものだ。 声を掛けると三十半はくらいのおかみさんが出て きて、新聞紙に品物を包んでくれるのだったがその とき、おかみさんの着物の裾にまつわるようにしな がらわたしを見ていた女の子が、手紙をくれた女子