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検索対象: 日本の街道8 日燃ゆる九州
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1. 日本の街道8 日燃ゆる九州

原城跡の天草四郎像 四郎を盟主に、島 原と天草の民がキリシ タンに立ちかえり一揆 を起こしてここに籠城 天草五橋ーー - 態本から 天草への出入り口にあ たる三角半島から、大 矢野島そして上島を結 ぶ。天草の乱の発端の ところで、「談合島」と呼ぶ。この大一揆の盟主が に攻撃されて討ち死にしたところで、その城跡の一 天草四郎である。 郭には現在、天草切支丹館が設けられている。 ′」りよう いつわ おおやの 本渡市の隣、五和町の御領には、迫害期のキリシ 「天草の乱の道」をたどるには、東の大矢野から西 いなきざ タン墓碑が散在している。「ペーの墓」「稲置座」の の富岡へ向かうのが順当なコースであろう。それは 大矢野が天草一揆勢の第一の拠点で、天草の支配者墓碑群は、その代表的なものである。この地 ( 旧・ の居城富岡城攻撃のため、このコースを進行したか御領村 ) は江戸時代後期には、富岡町につぐ三大村 らである。 ( 御領村・大島子村・町山口村 ) の筆頭にあげられたと ぎんし 大矢野には、有名な『蒙古襲来絵詞』の元所蔵者ころで、商業活動がさかんで「銀主」龕な大地主か であった大矢野氏の居城跡があるが、また、この地多く発生していた。なかでも、松坂屋石本家と国民 屋小山家の存在は大きい。前者は全国的規模で経済 は天草四郎の母の里であり、姉婿の兄渡辺小左衛門 活動をおこない、 いまも大きな屋敷跡が残ってい が、大庄屋および一揆勢の大将分として存在してい る。後者は長崎の大浦天主堂・グラバー邸などの建 たところでもある。現在、大矢野の宮津には、四郎 教会の跡や四郎公園があり、そこには四郎の供養墓設者として名高い れいほくしき や銅像が建立されている。 苓北町志岐へ入ると、天正十七年 ( ←しの志岐氏 こうつうら 有明町の上津浦は、中世上津浦氏の居城跡地で、 の居城跡がある。ここに天草の乱の一揆勢が陣を敷 南蛮寺跡もある。ここは天草の乱の第二の拠点とさ き、富岡城を攻略しようとした。そして、一時は富 れ、乱時には島原との乗降船がはげしかった。西隣岡城へ攻めのばったが陥落させることができず、 の島子は、天草の乱のとき、領主側との最初の激突 ったん在地へ引き返した後、有明海を渡って原城に はいり、島原勢とともに籠城したのである。志岐と 地で、一揆勢が大勝したところである。一揆勢は、 ほんど その勢いで本渡へなだれこみ、町山口川をはさんで富岡の中間地には初代代官鈴木重成が乱後まもなく てんぼう くびつか 草 建立した " 首塚。という供養碑 ( 国 要文財 ) がある。 第二の合戦がおこなわれた。そこには天保五年 ( ← 天 四 ) に架けられた日本一大きな多脚式石橋が現存し富岡は近世天草の中心であったので史跡が多く、ま 島 の ている。この本渡戦では領主側の大将富岡城代三宅た頼山陽や林芙美子らの文学碑のある町でもある。 詩 ひろせ 史 藤兵衛が討ち死にしたが、その墓碑が広瀬の丘にあ キリシタン里の道 る。本渡はこれより先天正十七年 ( 」し本渡城主天 草種元が熊本の加藤清正、宇土の小西行長の連合軍 天草灘沿岸コースの「キリシタン里の道」は、頼〃

2. 日本の街道8 日燃ゆる九州

古を偲び水に生きる筑後路 幸若舞と水郷柳川 やまと 江戸時代には新井白石 ( 一も一一五 5 ) が、明治時代に なかみちょ 筑後山門は不可思議の国 らが、そして現在は『誰 入ると那珂通世 ( 贏 ぞやま せたか 夏かすむ女山の岩の神籠石 も書かなかった邪馬台国』で地元瀬高の村山健治氏 うぐいす 老け鶯も谷にくだるか ( 白秋 ) が、柳川の北東八キロメートルにある女山し ひみこ 三世紀の北部九丼。。 ーこよ、一支 ( 壱岐 ) ・対馬・末 が卑弥呼の支配した国である、と主張しているので ら な 廬 ( 松浦 ) ・伊都 ( 怡土 ) ・奴 ( 那 ) ・不弥 ( 宇美 ) などある。 そうしゆっ の小国家群が簇出し、これらを統率する邪馬台国 女山に散在する一メートル余りの巨石頭「神籠 たた が存在したという。 石」を、手でふれたり、掘り出したりすれば祟りが あると、土地の人はこれを禁忌視している。″幻の きどう 国〃に生きる卑弥呼は、いまだに「鬼道につかえ、 よ まどわ 能く衆を惑す」のである。筑後の山門は、まことに 不可思議の国である。 かりじ 遠つ国狩道の池にすむ鳥の 防人〈さき たつもおるも君をしぞ思ふ ( もり〉の歌 つくし 「筑紫の国」といわれていた九州の北西四半の地域 が、筑前・筑後と国名で呼ばれるようになったの は、天武天皇の十二年 (l*fi 八 ) ごろであり、大宝元年 さいかいどう 七〇 ) には九州は五畿七道のひとつ、西海道と呼ば れた。 古代九州の外交・軍事の都督府、大宰府は、都か 7 第二 女山の道標ーー瀬高藤 尾集落の入り口に「左 巨泉山、右清水寺」と 刻まれた文久元年 ( 18 61 ) の石標がある。 0 」第を こう′」いし っしま まっ 半田隆夫 伝習館高等学校教諭

3. 日本の街道8 日燃ゆる九州

榎寺ーー菅原道真の配 所跡。一般に榎寺と呼 ぶ。境内の右端を南北 に、都ていう朱雀大路 が通っていた。 としたからであろう。しかし、現在のところ、都城 福岡・佐賀県境の人々 の四周に堅固な防衛施設、例えば壁・堀などの存在 みやき は確認されていない。 さらに都城の南限も一三条ま 福岡県小郡市と佐賀県三養基郡基山町・鳥栖市とは をいを。でだったかどうかも明らかでない。 距離にして約五キロメ 1 トルほど、みごとな直線状の 県境になっている。これが古代の筑後・肥前の国境 さて、最近、古代の駅路跡を空中写真によって判 で、ここに駅路が通っていたことは知られていない 定する方法が用いられている。戦後まもなくアメリ が、すぐ近くを九州縦貫道が直線に走るのも象徴的で カ軍が撮影した二日市周辺の空中写真をみると、帝 ある。 都の朱雀大路に相当する中軸線上にある御笠川両岸 古代には国境を越えることは簡単ではなかったが、 にその痕跡が約六〇〇メートル程度確認される。 ところ 現在県境を越えることに制限もなにもない。 また、筑紫野市南部の三本松付近から武蔵の北部 が、この県境に住む佐賀県側の人にとって県境が意識 されることがある。それは住民の半数以上が買い物に にかかる低い丘陵地上に、西南から北西にかけて掘 は小郡市、遊びは久留米市に行くのに、新聞の折り込 切り状の凹地が直線で約一四〇〇メートル続いてい み広告はすべて鳥栖市関係で、小郡・久留米二市の安 現在、道路の新設、家屋の建設に伴う、 るカ埋め立てなどでほとんどわからない ) 中軸線に達す 売りなどの情報が得にくい。しかも、運転免許証の交 このことから るとこれより北西には及んでいない 付は、三〇キロメートル離れた佐賀市まで行かねばな 明らかなように、この掘切りこそが、中軸線に連絡 らないのに対して、福岡県側に住む人は久留米市まで するためにつくられ、中軸線を通って南に向かう駅 七キロメートルですむ。 路だったのである。 要するに、行政上は佐賀県でも、生活は福岡県との えのきでら 関係が深いのが県境に住む人々なのである。 中軸線に沿う榎寺・ニ日市温泉 政庁跡前面に再び戻ると、ここから南に中軸線う道端で物を売る商人の声が騒々しかったのであろ ( 駅路 ) がのびていたが、現在は道路面よりも高うか。この榎寺は政庁にも近く、しかも中軸線に沿 く、かって道路があったなど、想像もできない。し う主要道路に接していたため、人々の往来も激し かし回り道して少し南に行くと、直線状の小道があく、 商人たちが大声で客を誘ったのであろう。『続 じんごけいうん って、やがて榎寺の西側に出る。ここで菅原道真は 日本紀』神護景雲三年 , ) 十月十日条には、「大 生活を送っていたのであるが、その著『菅家後集』宰府一一一一口。此府人物殷繁。天下之一都会也」とあっ には、「瑯西路北賈人声」と記してある。駅路に沿て、大宰府は人と物の往来で賑わう都市であった。 1 一 6

4. 日本の街道8 日燃ゆる九州

島はれつ の加メな 半町わ残 島る引か 摩覧いも 児れさ豊る 鹿流高はあ薩知とま の者い の。近が る付泉 の網にルレ」 る、の屋る 散央摩家い " 竜東治一主椿中薩武て マ . リートのかわりに、石を敷きつめオ 現代のコンク ワラジが、下駄 道であるもう何百年という間 が、馬のヒヅメが踏みつけた石だたみである。ポン ペイの石だたみの道が、馬車の車輪のあとだけが、 はっきリとすりへっているように、大名坂の石だた ばんでいるの みも、人馬の通ったところだけか、く である。一〇メートルも歩けば、息か切れるはどの 坂道だ。道の両側には、堆木林や竹藪が、暗いほど しげつている。人家をほとんど、みかけない。人に もまた会わないかっては、かなり使用された道で あろうが、現代は、この坂道は、あまり使われてい ないよ、つである 時たま、人家をみかける そういう家は、 がっちりとした大きな家で、冬に 春には、らんまんと桜 は椿か赤々と咲いていたり、 か咲いていたりした。古い時代からそこにあったと しう感しのする家であるしーんと静まりかえっ た、こういう古い道をたどって行くと、歴史を思う というより、何か、仙境への道をたどっているとい う感しがするのであった。 仙境といえは、この大名坂を登りきったところに 竜門司窯の陶工たちの里かあった。ここの陶工たち は、現在一〇人ぐらいであろうか細々であるが、 三〇〇年近くも、窯の火をたやさす伝統を守りつづ けている 小さくても民芸品として日本でも五本の 指に数えられる窯である私はこの窯が好きで、大 名坂を登っては、年に何度か訪ねて行くのである

5. 日本の街道8 日燃ゆる九州

0 ふきじ 風趣あふれる富貴寺への道 邪馬台国宇佐説 日本史の高校教科書に、平安時代末期、貴族文化 邪馬台国がどこにあったかは、国家成立にかかわる でんば 大きな問題である。近畿説、北九州説が有力な中で、 の地方伝播の例として、平泉の中尊寺とならんで富 宇佐説も一部の学者により唱えられてきた。最初に宇 貴寺があったことを思い出す人は多いはずである。 佐説を提起した富来説の根拠は、豊後をめぐる『日本 国東六郷満山文化の代表的な遺構である富貴寺 ヤマト 書紀』の記事や宇佐市に残る地名 ( 山戸 ) のほか、 は、満山寺院最初の別当寺であった西叡山高山寺に 『魏志』倭人伝の方位のズレや潮流の速さなどであっ れんげぎん コウゲ シモゲ 属す末寺で、山号は蓮華山という。末法の世にはい た。福岡県京都郡一帯の豊国と、上毛・下毛両郡一帯 ったため、九州一の財力をもっ宇佐大宮司家は、神 の邪馬国が合体したとする重松説は、ヤマトヨ↓ヤマ たしぶのしようふき トのなまりを想定する。しかし、やはり宇佐説の背景 領田染荘蕗の地に、中央の貴族と同様に阿弥陀堂 おおどう には、古代以来国家第二の宗廟と崇められてきた宇佐 を建てて、極楽往生を祈った。これが富貴寺大堂 ほうぎようづく 神宮の存在が大きい。邪馬台国は宇佐国と海人国の合 で、単層・宝形造りの堂内は、現在、剥落変色が じよろ・ちょう 体したウサアマ国と、豊国とが連合したヤマトヨ国で 著しいが、極彩色の壁画で飾られ、内陣には定朝 よう けつかふざ あるとする中野説は、八幡神 ( ヤマトヨ : ャパタイ・ - ↓ャ 様の阿弥陀如来が結跏趺坐する。その屋根は、法隆 ハタと変化 ) をその祭神とみる。また、方位のズレな 一 ) 寺の玉虫厨子にみる行基瓦を葺き、素朴な柱の面取 どから立論した久保説は、宇佐宮所在の亀山を卑弥呼 ひじき りや舟型肘木は、よく平安後期の姿を伝えている。 の墓とし、百体社をその殉葬者に関連づけている。 堂・仏像ともすべて富貴寺境内にあった榧の大木 でつくり、残りの材で真木大堂の諸像を作ったとい ス停龍ケ尾から、山中を抜ける道筋である。この途 くにさき かさとうば う伝承がある。このほか、境内には、笠塔婆・国東中には、遠来の客が興味を示す石造八幡鳥居、地元 と、フ たしぶやば 塔・五輪塔などが点在するが、春の梅林、秋の紅葉で田染耶馬と呼ぶ景観、熊野磨崖仏入り口、真木大 とマッチした風情は格別である。 堂などがあり、やがて田染中村に出る。 富貴寺への道は二筋ある。ひとつは、豊後高田市 ここで元宮磨崖仏を見た後、再び山間を約一一キロ メートル進むと富貴寺に到着する。両側に石殿があ を起点として、来繩郷高田港路翁い後 ) を桂川 沿いに遡り、バス停富貴寺入り口で分岐する支流沿る平安以来の石段を登り、石造仁王像が守護する仁 いの里道しを利用する道筋である。もうひと王門を過ぎれば大堂である。なお、日豊線宇佐駅前 つは、日豊線立石駅の後方を通る国道一〇号線のバ からは富貴寺・真木大堂・熊野磨崖仏を結ぶ定期観 かや みやこ せきでん

6. 日本の街道8 日燃ゆる九州

染付松文瓶ーー陶工李 参平は、有田泉山に磁 土を発見したのち、白驀ッ 川天狗谷に開窯したと いう。天狗谷窯出土。 ( 写真右 ) 色絵梅樹人物文壺ーーー 有田皿山て作られた色 絵磁器の輸出品として第気 , 著名なもの。のちにマ イセン窯などて写され ; ている。 ( 写真左 ) やきものの美・伊万里への道 ン わかに各地で製陶活動が盛んになった。鍋島直茂の 秀吉の〃やきもの戦争〃 領内においても同様のことがみられる。唐津領内で ようぎよう たけお 窯業は、火の国九州を代表する産業のひとつで おこなわれていた窯業が、佐賀県南西部の武雄市を あるが、その歴史はそれほど古い時代にまで溯るも中心にして新しい展開をみせるようになったのであ のではない。日本の各地に日用の雑器を焼く窯が生る。いま、唐津焼の呼称で知られているやきものの まれ、盛んに焼造をおこなうようになった平安時代多くは、唐津領よりも、佐賀藩の領内に分布する窯 末ごろから室町時代の終わりごろまでの九州は、もで焼かれたものであった。 つばら中国から陶磁器を舶載するのに忙しかった。 佐賀藩の領内西部の武雄・黒牟田地方、そして有 それは、いま福岡県を中心にして、各地の遺跡から田一帯に陶業が起こったその始まりには、鍋島侯が 出土する中国陶磁の豊富なことが物語ってくれる。 朝鮮半島へ出陣した際に連れ帰った陶工たちの力が 九州に陶窯が築かれ、現在につづく伝統的な窯業大きかった。このことは、江戸時代を通じて帰化陶 の中心的存在となったのは、桃山から江一尸時代にか工たちを保護しつづけた藩庁の様子を示す文書から けてのことで、一名を〃やきもの戦争〃ともいう豊も明らかである。また創業以来、有田地方の陶業を 臣秀吉の発した朝鮮半島への出兵が、その引き金に リードしたのが、これら帰化陶工とその子孫たちで まり なったといわれている。すなわち、朝鮮半島へ出陣あったといっても過言ではない。伊万里への道は、 した九州各地の大名たちは、帰国に際して陶工を連その起源を、遙かに海を越えた朝鮮半島へ、そして れて来て、おのおのの領内で窯業を営ませたのであ中国大陸までヘも求めることができる。 ただおき りさんべい った。細川忠興は現在の福岡県田川郡上野郷に上野 李参平の染付白磁伝説 焼を、黒田長政は福岡県直方市に高取焼を、島津義 弘は鹿児島県帖佐村に薩摩焼を開窯させるなど、に 伊万里焼とは佐賀県有田町一帯で焼成された磁器 西田宏子 慶義塾大学講師 6

7. 日本の街道8 日燃ゆる九州

ド大野城 - : 四天王寺卍 太宰府 刈都玄天満宮 水城萱府昉 卍音寺 高雄山 栄華の眠る万葉のみち 筑紫路・大宰府 おおきみとおみかど をたどるが、一二世紀末の鎌倉幕府の成立によって 大宰府は〃大君の遠の朝廷〃 古代が幕を閉じるまで存続した。 すがわらのみち 筑紫路という一 = ロ葉は、ロマンチックな響きをも 大宰府跡はその政庁の遺跡で、一般には菅原道 ち、それを耳にする人に梅の花を連想させるが、い 九〇三 ¯) の詩にちなんで都府楼跡の名で親しま わゆる街道ではない。奈良の飛鳥路と同じく万葉のれている。東西を月山と蔵司の丘で区画され、現在 だざいふ 路であり、大宰府とその周辺を指す代名詞として用に遺る巨大な礎石が示すように、築地や回廊によっ いられることが多い。そこには、特別史跡大宰府跡て囲まれたなかに、正殿や東西の脇殿など壮大な建 をはじめ、多くの古代遺跡が眠り、訪れる人びとに物が甍を並べていた。近年の発掘調査の結果、三度 かっての栄華のさまをしのばせている。 にわたって建物が建て替えられ、現在、地表に見え かんが すみとも 大宰府はもともと官衙籔 ) の名称で、六世紀前 る礎石は、一〇世紀中葉の藤原純友による焼き討ち 半以来の歴史をふまえ、七世紀後半に成立した。その後、再建された建物のものであることなどが明ら の後、西海道と呼ばれた九州の諸国島の政治を総管 かとなり、これにもとづいて、現地では平面復元が し、さらに中国や朝鮮に対する窓口としての役割を施され、建物の復元模型がつくられている。 果たしたが、これは小国分立時代以来の北九州地方 遙かなる平城京への想い の歴史的・地理的特殊性を直接に反映していた。そ てんびよう だざいのそっ の政庁は、中央政府をそのまま縮小したような構造 天平元年 @二 ) 前後の大宰帥は、万葉歌人とし かんが おおきみ おおとものたびと で、律令制下では最大の地方官衙であり、 " 大君のて有名な大伴旅人 (± 1 詳 ) であったが、彼は着任 とおみかど まぎ 遠の朝廷。とも称された。長官にはつねに高位高官早々に妻を失い、酒で悲しみを紛らそうとしてい やまのえのおくら をいただき、政庁で働く人びとの合計は二千人前後 た。そのころ、山上憶良 ()S ~ 「〇 ) が筑前守として にも達した。時代が下るにつれて、多くの紆余曲折 この地にあり、二人を中心とする筑紫歌壇は『万葉 ; 第新第を覊第まを 第百市 ↓至基肄城 ざね しらカ 倉住靖彦 九州歴史資科館

8. 日本の街道8 日燃ゆる九州

金城町石畳道ーー 16 世 紀前半に造られた王都 石畳道の一つて、国王 の別荘識名園に通じる 道路てあった。 屋敷獅子一一方言て「し いさあ」という。魔除 けのためにおかれ、い つも往来に面した屋根 の傾斜面にある。 ア またそのころから稲作を中心とする多くの民俗文化のため、潮流は黒々として渦流状をなし、かっ轟音 がこの道を辿って北から南下し、南島の民族文化のをたてて激流し、航海はもっとも困難をきわめる。 しちとうなだ 昔からこのトカラ海峡を、南島人は「七島灘」とよ 源流を構成するようになっていった。 び、航海時には、難所中の難所としておそれてきた。 黒潮の激流するトカラの島々 そのため、つい終戦直後の小型船時代までは、そこ 南の島々へ思いをよせる旅人ならば、味気ない飛を通る船は必ず豚や山羊などを海中に投下し、海竜 行機の旅をすて、ぜひ一度はこの「海上の道」の船ならびに竜宮の神などにそれを供養して、航海の安 旅をおすすめしたい。鹿児島の錦江湾を出た船は黒全を祈願していた。このような海上信仰の習俗は、 潮の潮流にやや逆らいながら一路南下していく。薩ひろく南島全域にあって、海路上の難所では必ずそ かいもんだけ 摩富士の開聞岳の勇姿を背にした船は、やがて屋久れを執り行ってきたのである。 しかし、ナギの日には島から島への距離もそう遠 の島影を目前に見ることができる。以後、トカラ あまみ くはないので、島々の姿はほとんど視界から消える ( 吐囈喇 ) の島々、奄美の島々、そして沖繩の島々へ ことがない。現在は村有船が数日がかりでこの海峡 といたる。往昔の人びとも、これらの島影をたより に風便を得て、島伝い、浦伝いに島々を確認しながを往復しており、「海上の道」や黒潮文化の伝来の 一端を偲ぶことができる。 ら航海していたようである。 あまみ しかし、この「海上の道」で、もっとも航海至難 「道の島々」、奄美 な場所は、何といってもトカラ列島である。現在は トカラ列島の最南端にある宝島から奄美の島に一 鹿児島郡十島村となっているが、実際は七島であ る。かっての竹島や黒島などが属していたころの名歩足を踏み入れると、これまでの様相とはまったく くち がじゃ 残である。島は北からロ之島・中之島・臥蛇島・平一変することに気づくであろう。家屋も食生活も、 道 たから すわのせ あくせき 島・諏訪瀬島・悪石島・宝島と並んでいるが、古その他諸々の習俗において格段の相違がある。トカ上 たから おくしちとう 海 ラでは、むしろ本土文化の影響が明確に存在してい くから「奥七島」「宝七島」とよばれてきた。ま ま 6 た、かって室町時代の前半までは、この列島中の臥ることに驚くのであるが、ここ奄美の地はそれこそす 潮 まったく異質の文化に接したという実感を誰しもが 蛇島が薩琉両国の版図上の分岐地点となっていた。 黒 いだくはずである。また、島人たちの生活感情や意一 この一帯はまた、黒潮がこれらの島々を包含する 6 形で大きく東に落ちながら北流する地帯である。そ識も、大いに異なるものがある。両地区の人びとは なか ひら

9. 日本の街道8 日燃ゆる九州

成仏寺修正鬼会 ごの鬼たちは仏の化身 といわれ、法舞の後、 堂外に飛びだし村人の 災疫を払う。 笋を 石仏がある。ここは地質が砂岩であるため、表面を仏 ( 緒方 ) 、普光寺石仏翁地 ) など、前記の磨崖仏同ル うるし 漆で仕上げた特異な手法を用いている。後世の追刻様、価値の高いものが散在している。 いたび と考えられる五体を含めた一七体からなるが、向か 造形美を見せる国東塔と板碑 って右端の十一面観音立像がわずかに原形をとどめ る程度で、他は尊容も不明の状態にまで崩壊してい 富貴寺、真木大堂などを訪れるとき、必ず目にす る。 るものに、国東塔の案内板や説明板がある。国東塔 ほ、つと、つ は宝塔の変形種で、大正三年、国宝富貴寺調査のた 高瀬石仏 ( 字 大大 ) は、大分川の支流七瀬川沿い の小丘端の龕内に、向かって右から馬頭観音、如意め来県した天沼俊一博士によって命名された。この しんじゃ 輪観音、大日如来、大威徳明王、深沙大将の像を彫型の塔は国東以外にも点在するが、造形上すぐれた り出す。配列の特異さもさることながら、深沙大将ものは国東半島に集中する。出色のものは、国東町 は他に例を見ない珍しいものである。 岩一尸寺にある弘安六年 ( ←一一 ) 在銘のものである。塔 こうざま 大分県はもちろん、日本の代表的石仏として有名の特色は、基礎や露盤の格狭間、塔身下の台座、宝 なのが、蓮城伝説をもっ臼杵磨崖仏である。平安後珠を取り巻く火焔で、現在約五〇〇基が確認されて 期から室町期にかけて造顕されたもので、国の特別 いたび 史跡と重要文化財の一一重指定を受けている。平坦地 板碑は関東風のものとは異なり、山形県地方のも しゅげん にせまる崖に、ホキ石仏二龕一六体、堂ケ迫石仏四のと酷似している。山岳修験と無関係ではなかろ 龕二五体、山王山石仏一龕三体、古園石仏一龕一三 う。碑身は厚く、額部が突出する型で、板碑という きばる ひで 体のほか、木原石仏、観音石仏が群在する。この群 よりはむしろ、修験者の残した碑伝に近いものとす しようおう 在の様態が蓮城様式の特色である。このほか日本でる説もある。最古のものは正応四年 0 一一 ) 在銘の ′」しようじ かたくなるのいた 一一番目、三番目に古い銘がある五輪塔や、日本最大護聖寺板碑の皺婀大 ) で、国東町大字東堅来の鳴板 とされる宝篋印塔もあり、臼杵川を隔てた大字前田碑は総高三・三メートル余におよぶ雄大なものであ る。 には一龕六体の大日石仏がある。 せきりつ もんじゅさん 臼杵磨崖仏への道は、大分市からバスを利用する 末山本寺石立山岩戸寺は、国見町境の県道文珠山 か、日豊本線上臼杵駅で下車し、江戸期の岡城路を浜線終点からやや山中に入ったところにあるが、こ てんねん 通るバスを利用するのが便利である。このほか、大れは国東町成仏寺、豊後高田市天然寺とともに平安 しゅじようおにえ 野郡犬飼石仏翁飼 ) 、菅尾石仏 ()l 重 ) 、緒方宮迫石以来の修正鬼会を伝える寺である。 ななせ

10. 日本の街道8 日燃ゆる九州

羅太宰府天満宮 菅原 道真を祀り、学問の神 様として参詣の人が絶 えない。本殿は桃山時 代の建築て重要文化財。 観世音寺ーーー 1300 年の 歴史をもっ鎮西の名刹。 菅原道真も聴いた境内 の梵鐘は国宝。この構 堂は元禄年間に再建。 観世音寺宝蔵ーーー金堂 や構堂から移された巨 像が立ちならぶ れも重要文化財て、そ の壮観さは九髄ー ひずめ 出発したが、その旅で彼に与えられたのは、蹄の傷など、いわゆる四度宴も整えられた。このような宮 とも ついた馬や艫の壊れた舟ばかりであったという。 廷行事は、道真崇拝もさることながら、官人たちが 大宰府での生活も悲惨なもので、住居として府の 小宮廷を再現し、しばし京洛に遊ぶ思いにひたろう 南館が与えられたが、屋根は破れ、井戸は砂に埋ま としたこととも無関係ではなかろう。こうして安楽 り、米や塩も途絶えがちであった。脚気や胃痛に悩寺は、大宰府の保護のもとで朝野の崇敬を集め、観 みながら、道真はただひたすらに謹慎の日々を送っ世音寺とは対照的に発展していった。 しろいろなことがあっ たが、「去年の今夜清涼に侍る秋思の詩篇独り腸 その後の一千年の間には、ゝ を断っ恩賜の御衣は今ここに在り捧持して日ご た。都を追われた安徳天皇 ( 「、五 / ) と平氏一 とに余香を拝す」と詠じた七一言絶句はあまりにも有は、ここでしばしを忘れ、南北朝の動乱にあけくれ 名で、その心情は察するに余りあるものがある。 た今川了俊 ( ~ 生 (&) は連歌を楽しんだ。戦国時代 幼児の死についで、都に残した妻の死も伝えら に兵火にかかり、小早川隆景 ( —」三 ) が再建した れ、延喜三年二月二十五日、彼は悲嘆のなかで栄光現在の社殿は重要文化財に指定されている。幕末に と苦難にみちた五九年の生涯を閉じた。 , 従者の味酒は、京を落ちた三条実美 (—九一 一八三七 ) らが滞在し、多 安行は、四堂の付近に遺骸を埋葬し、同十五年には くの勤皇の志士がここを訪れた。明治の神仏分離に 安楽寺を草創した。そのころ、都では道真の左遷に よって神社となり、現在は天満宮の総本社として北 加担した人びとの死や、清涼殿への落雷などの異変野・防府とともに三大天満宮とされている。菅公・ があいつぎ、いずれも彼の怨霊のしわざと考えられ天神様と親しまれ、学問の神様として多くの崇敬を えんちょう とノに一止 た。霊を慰めるため、延長元年 ()i 一 ) に本宮が復集め、四季を通じて参拝の人が絶えない。 しようりやく され、ついで北野神社も創建され、正暦四年 ( 九 九月三ガ日の参拝者数では、全国でも十指のうちに入 り、正月七日の鬼すべやウソかえ、九月の神幸式な 三 ) には太政大臣が贈られた。 かんえん ち 廟所である安楽寺でも、延喜十九年に醍醐天皇どには数万人の見物で賑わう。国宝の『翰苑』をは み じめ、社蔵の文化財も多く、飛梅に代表される梅の葉 九三〇 ¯) の勅命によって社殿が造営され、その神 万 る 格化が進むにつれて整備された。大宰府の官人があ名所でもあり、初夏の楠や梅雨期の花菖蒲などの自 眠 の いついで堂塔を建立し、荘園を寄進したが、天皇や然の恵みにあふれている。また茶店などで呼び声と 華 てんとく 栄 院の御願によるものも少なくない。天徳二年 ($ 五 ) ともに売られる名物の梅ケ枝餅は、悲運の道真を慰一 おののよしふる に大弐 6 小野好古 ( 八八四 九六八 ¯) が始めたという曲水の宴めたという故事をもっている。