磁器 - みる会図書館


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1. 日本の街道8 日燃ゆる九州

有田焼の絵付けーーーや きものの絵付けにも機 械化の波は押しよせて いる。これは伝統の手 仕事てある。 3 帳には、実に多種多様な文様がみられ、また御好陶功した旨がまず述べられている。また白磁に金銀焼 器図案として、注文主の指定による文様もあったこ 付を試みたのも喜三右衛門で、鍋島侯のために献上 とがわかる。これは、江戸前期においてもおそらく 品を焼造し、長崎において加賀様の買物師やオラン 同じような形式がとられていたことと考えられる。 ダ人にも売り始めたことが記されている。 このように小回りのきく生産体制をもっていたこと いま、この喜三右衛門が焼造した草創期の色絵が が、中国の染付磁器にくらべ低い評価をされていた どのようなものであったのか、遺品で示すことはで 伊万里焼の販売競争を優位にし、さらに発展する契きないが、その技法はすぐに有田一帯の窯場でも学 機を与えたといえよう。 ばれていったにちがいない。京都鹿苑寺の鳳林禅師 江戸時代初期に、染付磁器を焼いた窯は有田町内の日記には、慶安五年 ( 五 0 正月二日に「今里之錦 の稗古場・猿川谷・岩谷川内・白川天狗谷・山小 手鉢」の到来があったことが記されている。これ 屋・楠谷・小樽などの窯を中心に黒牟田地区の山辺は、京都に伊万里焼の色絵磁器が届いていたことを 田、南川原地区の小物成・天神森・小構などがあ示すもっとも早い記録であるが、日記のなかには、 り、有田町ではないが東に山を越えた山内町の百間 この後しばしば錦手の器が記されているので、染付 につづいて色絵磁器も国内市場を得たことはまちが / 4 窯でもすぐれた染付が焼かれていた。 いあるまい 伊万里焼を飛躍させた色絵の成功 海外市場への進出 有田で色絵付の技術に成功したことは、白磁に新 しい華麗な装飾法を加え、染付磁器による国内市場 この色絵磁器の完成とともに、有田における磁器 進出につづき、海外市場獲得のための強力な武器と生産をひときわ大きく発展させたのは、海外市場へ しての魅力を加えたといえる。 の の進出であった。慶安三年 (l しに、見本として一 へ 色絵付の成功を伝えてくれるのが、有田町下南川 五〇個ほど輸出されたのがその始まりであった。中里 伊 原の酒井田柿右衛門家に伝わる『覚』と題する古文国陶器の買い付けが困難となり、その代替の商品を 美 の 書である。これは、喜三右衛門なる人物の覚書で、 探していたオランダ商人の目にとまったのは、前。 の 伊万里の陶商東嶋徳左衛門を通じて、長崎にいた中述べた喜三右衛門と同じように、各自の製品を持参 国人しいくわんから赤絵付の技法を習い、試行をく して出島に売りに来ていた陶工たちの店であったに り返したのち、ごす権兵衛なる人物の協力を得て成ちがいない。彼らは、それまで中国から買い付けて

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伊万里の町一一一伊万里 は、有田のやきものの 積出港てあった。土蔵 造りの船問屋が、両岸 に並んていた江戸時代 の面影はもうない。 有田の煙突ーー有田は ~ 両側に山の迫った、谷 合いの町てある。山を 背にした家々には、高 い煙突もあちこちに見 られる。 いた染付磁器に代わるものを求めていたので、輸出 染付磁器が活気づけた輸出事業のなかで、こんど の主流は中国染付磁器を模したものであったと思わは色絵物が大きく展開していくこととなった。すな れるが、既製の見なれた染付磁器とは異なった魅力わち、輸出向け色絵磁器として柿右衛門様式の色絵 そめにしきでじき ある製品は、なんといっても色絵磁器であったにち が完成し、染錦手磁器がつづいて登場した。白い 、刀し力し 素地に赤を中心にした華やかな彩色を施した柿右衛 色絵磁器は、中国では元時代に始められ、明時代門様式は、ヨーロッパではとくに好まれ、一八世紀 後期に至って盛んにおこなわれるようになった。海になってから各地でこれを模した磁器窯が開かれる 外へも大量に輸出されたが、主に東南アジア諸国が こととなった。染錦手とは、染付磁器に色絵で文様 その市場であったようで、ヨーロッパに大量に輸出を加えたもので、有田においては、色絵磁器の完成 ま、ヨーロツ。、こ されたということを聞かない。い ののちおこなわれた。多彩色の色絵を加えたもの 残る歴史的な収集にみる中国の色絵は、伊万里焼色と、赤と金彩のみを施したものがあるが、ともに一 絵を模したものか、いわゆる南京赤絵であって、明八世紀のヨーロッパで日本磁器としての存在を認め られているものであった。現在、ヨーロッパでみら 時代後期の作品は含まれていない。そこで、ヨーロ ッパに初めて送られた日本磁器のなかに色絵磁器がれる色絵磁器の多くは、この染錦手で、粗略な作行 多数含まれていたことは、白地に青い文様のある染きのものが主であるが、当時大いに賞玩されたもの 付磁器をみなれていた人びとの目にも、まったく新にちがいない。 しい魅力にあふれたものとみえたにちがいない。万 なぞに包まれた輸出品 治二年 (l*k) に送られた色絵磁器見本への対応は早 このように輸出品として大きな展開をみせた色絵 く、ただちに新しい器形を加えた注文が出されたの であった。 磁器であるが、国内市場においては、あまり遺品を 輸出磁器の多くが染付磁器であったのは、とくにみない。かって、色絵は輸出品として作られたもの 青いやきものだけを望む市場が大きかったこと、実であろうかと疑問を抱いたこともあった。しかし、 用品として好まれたことなどが理由と考えられる。 鹿苑寺の鳳林禅師晩年の日記のなかには、「錦手今 また、窯元からそのまま製品となるという点では、 利鉢」とか「錦手今里之茶碗十ケ」などを贈り物に 短期間で大量に生産しなくてはならない輸出向けに用いていることがみられ、京・大坂などの国内市場 の中心へも製品が送られていたことがわかる。ま 適していたといえる。 0

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色絵荒磯文鉢ーー中国 明時代の金手 ( きん らんて ) を写した色絵 鉢てあるが、より華や かに作られ、もっとも 声価の高かったものて ある。 ( ン を指すが、その実体は時代の流れとともに大きく変渡来した陶工も、唐津系の釉下鉄彩をおこなうとと 化していった。いま、伊万里焼は、初期伊万里染もに、その白磁の技術を用いて伊万里染付を完成さ 付、柿右衛門様式色絵、型物伊万里、伊万里染付大せたというのが、有力な伊万里焼創始説であった。 皿などと、その様式の展開によって異なった名称が ところが、有田における古窯跡の調査が進み、一 与えられている。 方では、伝来品のなかに、李朝の染付磁器と似たも 有田に、それまでの陶器とは異なった白く堅い磁のをほとんど見ることができないことが明らかにな 器を焼造する窯が起こった経緯については、地元に り、にわかに中国の染付磁器の影響ということが論 いくつかの碑文や古文書、伝承がある。そのなかでじられるようになってきた。たしかに、一六世紀後 りさんべい も、李参平なる帰化陶工が、有田泉山に磁鉱を発見半から一七世紀にかけての遺跡から出土する中国の し白川天狗谷に窯を築いて、染付白磁の焼造に成功染付磁器は多く、その分布も全国的な広がりをみせ した話は広く知られている。朝鮮半島では、李王朝ている。また、江戸前期の京都における伊万里焼の ろくおん ほうりん の下で一五世紀には白磁や染付を焼造しているが、 資料といわれる鹿苑寺の鳳林禅師の日記にも、伊万 染付の絵の具が不足したため、早期の染付は広州官里焼に先立って、中国の染付磁器が日用の什器とし 窯のみでおこなわれたという。白磁を焼く窯はその て用いられていた様子から、当時の人びとの好みが ゅうかてっさい しんしやさい のち各地に興り、釉下鉄彩や辰砂彩などで文様を施そのようなやきものにあったことを示してくれる。 このことは、有田の陶工たちにとって幸いなこと すことが主におこなわれていたといわれる。日本に であったにちがいない。すなわち、彼らには商品の 見本があり、その製品が売れるであろう市場も用意 されていたからである。また市場への流通路は、す でに唐津焼によって開かれていた。 本場中国をしのぐ伊万里焼 初期染付は、精選されていない土を用い、未熟な 技術で焼かれているが、荒々しいなかにも素朴さ にあふれる作品が多い。大皿から小皿まで各種の 皿・壺・鉢・瓶など、おのおのに多種多様な作行き 有田町の練塀ーー表通 りから一一歩横道へ入る と、谷を登る細い道と なり、両脇には練塀が つづく。 67 ーーやきものの美・伊万里への道

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有田採土場一一泉山は 有田窯業の始まりてあ り、それを永く支えて いまも細々と採 土がつづけられている。 : : ものはら をみせるものが焼造されていたことは、窯跡や物原 窯跡付近で古陶片の 色鍋島の魅力 散乱しているところ ) の調査で明らかになった。 昭和四十年に始まった白川天狗谷窯の発掘調査に 有田皿山で、輸出磁器の生産も軌道に乗ったころ、 けいちょう げんな よって、有田では慶長十九年 ( 一六 ) 一四から元和元年 新しい窯が築かれた。場所は大川内二本柳。有田から やまふところ は険峻な山を越えた、奥深い山懐の中であった。 ) ごろには、染付磁器が焼かれていたことが証 この窯が鍋島藩窯で、以来江戸時代を通じて、有田で 明された。しかしながら、この科学的な年代決定法 作られていた伊万里とも柿右衛門とも異なった、精緻 にも疑問をさしはさむ人もいるのが現状である。有 な作行きの磁器を焼きつづけた。藩御用のやきもので 田一帯の窯で焼かれた染付磁器は、地方の市場だけ あったため、市場に出ることもなく、庶民のまったく では満足せず、唐津焼と一緒に船で大坂に送られる 知らないものであった。そのためか明治以降、その格 ようになったのは、創業後まもなくのことであった 調高い色絵や染付に愛着を感じたのは、西欧の人びと ( こは、京都に至っ と考えられる。寛永十六年 ( 一一し。 が初めであったと聞く。 ていたことが、前述の鳳林禅師の日記の寛永十六年 やきものに対して、自由さに心をひかれてきた日本 人にとって、藩の権威の下に作られた、まるで規格品 閇十一月十一一一日条に「今利焼藤実染漬之香合」の到 のような作品は、受容されにくかったのだろうか。し 来品のあったという記述から明らかになる。九州の かし、寸分たがわない器形、統一された様式をもっ図 小さな町の谷あいで生まれたやきものが、伊万里焼 案、そして何よりも、限られた色彩をもっとも有効に としての存在を確認されたのであった。 用いたその調和のとれた色絵は、有田皿山の技術の粋 このことは、有田の陶工たちにとって確実な一大 を集めたものといっても過言ではない。、 心をこめて、 市場との遭遇であったといえる。それまで、京・大 仕上げてゆく手仕事の華がそこには美しく咲きほこっ ている。 坂の人びとは、好みの染付磁器を得るために、商人 を介して中国まで注文しなくてはならなかった。わ か、日本からの注文も間に合わないような状況にな が国の寛永期 (— 一四 ) は中国では天啓・崇禎年間 っていった。そのときに、京・大坂の人びとの注文 ) にあたり、景徳鎮の民窯で焼かれたとい しょんずい う古染付・祥瑞などとよばれている染付磁器が、 に応じて、好みの染付磁器を焼成しえた伊万里焼 大量に日本に向けて積み出されたときであった。と は、中国の染付磁器の模倣にとどまらず、日本人好 ころが、寛永末ごろになると、中国からの舶載品がみの製品を次々と生み出すことができたのであっ 急激に少なくなってゆくし、明朝末期の動乱のため た。幕末のころの伊万里津の陶商の家に伝わる図案

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有田の道すじ - ーー国道 にそってつづく町並み は、その家の造りに明 / 台の面影をよく残して いる。やきものを売る 店が軒を連ねている。 まィー 、、、な ~ 第働私を 3 た、当時日本から磁器を積み出していたオランダ東ある。 印度会社の記録によると、会社と契約をしていない 輸出時代は慶安三年 (G) に始まって、おそらく 陶工たちが、各自の製品をもって出島に売りに来て江戸時代末期までつづいたものと思われるが、一八 いたことがわかる。その商品のなかには、海外市場世紀中ごろまでがその盛んな時期であった。清朝の 向きでないものもあれば、輸出用磁器とは異なった もとで、再び熱心に陶磁器の輸出をおこなった中国 魅力をもっていたために、買い上げられた場合もあであったが、オランダ人は日本の磁器にそれなりの ったであろう。 いま、海外でときおり見かける型物魅力を認めていたようで、寛文十年 ()L しごろまで 古伊万里の皿や鉢、また古九谷様式の皿や青手の瓶有田では輸出磁器の生産を大きくおこなっていた。 などは、そのようなものであったのかもしれない。 苦難を乗り越えて いずれにしても、国内市場でも寛文年間 ( 一八世紀後半からの有田は、苦しい時期を迎えた 三 ) には「錦手今里」といわれた色絵磁器がみられ たことは明らかで、その実体を明らかにするのが今ようである。輸出の不振もその原因のひとつである が、絵薬の不足、藩による陶器の専売、運上金 ( 税 後の課題ともいえる。窯跡からの出土片のなかに しくつかの原因が考えられる。一 。しったいこれにどの金 ) の増加など、 ) も、色絵用の素地であるのこ、ゝ ような色絵文様が施されていたのか明らかでないも方では、伊万里焼は肥前のやきものとして全国に普 のもある。有田外山の山辺田窯跡から出土した大皿及し、有田の窯業は殖産事業を願う諸大名の垂涎の と思われる破片がそれで、底部や高台まわりには染的であった。各地に陶工が出向いて技術を伝えるよ 付線がひかれ、見込みの円窓にも染付線がまわり、 うになったのも、一八世紀末期から一九世紀前半に 青灰色のあまり上質ではない素地をしている。そのかけてのことであった。これは、伊万里が海をへだ 素地の灰味は、有田で好まれていた純白に近い白素てた国から受け継いだものを、じっくりと熟成し の へ 地とはまったく異なるもので、文様の区分線だけに数々の優品を生み出したあと、その技法を広く伝え里 伊 一染付を用いた色絵磁器は深鉢や瓶・壺などの、輸出つつ、自らが新しい方向を探っていた時期であった 美 の ー一物に多いが、皿にはきわめて遺品の少ないものであといえよう。一九世紀になると、染付大皿を次々と の る。大英博物館蔵の芙蓉手大皿はその一例である焼くと同時に、再び活気を取りもどした海外市場に が、窯跡や物原から出土するおびただしい量の色絵向けても焼造を始め、伊万里からの道を切り開いて いったのである。 素地にくらべると 、ゝかにも少ないことは明らかで 7

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染付松文瓶ーー陶工李 参平は、有田泉山に磁 土を発見したのち、白驀ッ 川天狗谷に開窯したと いう。天狗谷窯出土。 ( 写真右 ) 色絵梅樹人物文壺ーーー 有田皿山て作られた色 絵磁器の輸出品として第気 , 著名なもの。のちにマ イセン窯などて写され ; ている。 ( 写真左 ) やきものの美・伊万里への道 ン わかに各地で製陶活動が盛んになった。鍋島直茂の 秀吉の〃やきもの戦争〃 領内においても同様のことがみられる。唐津領内で ようぎよう たけお 窯業は、火の国九州を代表する産業のひとつで おこなわれていた窯業が、佐賀県南西部の武雄市を あるが、その歴史はそれほど古い時代にまで溯るも中心にして新しい展開をみせるようになったのであ のではない。日本の各地に日用の雑器を焼く窯が生る。いま、唐津焼の呼称で知られているやきものの まれ、盛んに焼造をおこなうようになった平安時代多くは、唐津領よりも、佐賀藩の領内に分布する窯 末ごろから室町時代の終わりごろまでの九州は、もで焼かれたものであった。 つばら中国から陶磁器を舶載するのに忙しかった。 佐賀藩の領内西部の武雄・黒牟田地方、そして有 それは、いま福岡県を中心にして、各地の遺跡から田一帯に陶業が起こったその始まりには、鍋島侯が 出土する中国陶磁の豊富なことが物語ってくれる。 朝鮮半島へ出陣した際に連れ帰った陶工たちの力が 九州に陶窯が築かれ、現在につづく伝統的な窯業大きかった。このことは、江戸時代を通じて帰化陶 の中心的存在となったのは、桃山から江一尸時代にか工たちを保護しつづけた藩庁の様子を示す文書から けてのことで、一名を〃やきもの戦争〃ともいう豊も明らかである。また創業以来、有田地方の陶業を 臣秀吉の発した朝鮮半島への出兵が、その引き金に リードしたのが、これら帰化陶工とその子孫たちで まり なったといわれている。すなわち、朝鮮半島へ出陣あったといっても過言ではない。伊万里への道は、 した九州各地の大名たちは、帰国に際して陶工を連その起源を、遙かに海を越えた朝鮮半島へ、そして れて来て、おのおのの領内で窯業を営ませたのであ中国大陸までヘも求めることができる。 ただおき りさんべい った。細川忠興は現在の福岡県田川郡上野郷に上野 李参平の染付白磁伝説 焼を、黒田長政は福岡県直方市に高取焼を、島津義 弘は鹿児島県帖佐村に薩摩焼を開窯させるなど、に 伊万里焼とは佐賀県有田町一帯で焼成された磁器 西田宏子 慶義塾大学講師 6

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秀際利はし のを真築 興き写移 塀復れ。に 多多が造内 博博は急境 のる人を社。 家よ町塀神の 井に多し田も 島吉博用櫛た を一第」ト しりとして最も注目に価するが、そのほか現代人が っているが、平蔵はそれらの商館に多額の金を貸し けんけんふくよう 常日ごろ拳拳服膺すべき戒めが数多く盛られてい ていたのである。また平蔵は、長崎の中島川にかか る。 る眼鏡橋など石橋の南蛮式架橋技術をとり入れて後 たとえば、宗室によれば、交遊をさし控えるべき世に伝えた。文化導入者としても優れたものをもっ 相手とは、けんか早い人、仲介ずきなおせつかい ていたのであろう。 えんぼう や、万事はで好みの人、大酒のみ、うそっき、遊芸 延宝四年 (l){) 密貿易が発覚して流罪に処せられ けっしょ ぎん に憂き身をやっす人だという。また、宗室は「朝夕たが、その闕所 ( 江一尸時代、追放以上の刑に処せられ ) 銀はゆ よくよく味噌をすり、こして味噌汁をつくり、味噌うに二、三万貫目を越えた。中小大名など足元へも かすには大根・かぶ・ねぎなどの皮やヘたをつけて寄りつけぬ、かけねなしの日本一の金貸しであった きよみずでら 味噌づけにし、使用人のお菜にせよ、米が高いとき ことはたしかである。長崎の清水寺に残る末次船 平蔵の出し はまず主人が雑炊をたいて食べ、その次に使用人に た朱印船 ) の絵馬に、全盛時代の平蔵の経営をわず も与えよ」ともいっている。捨てることを美徳と考かに偲ぶことができる。 えている現代人には、少々耳の痛い話ではないか。 巨利をむさばる密貿易 いとうこざえもん 日本一の金貸し 伊藤小左衛門の経営の本拠は博多であるが、彼の えんぼう はんと 延宝二年 (ALå) ごろ、藩政の運転資金に窮した熊経営上の版図は、西は朝鮮半島から東は山陽道・出 がねひたがね 本藩の重臣は、恰好な金づるとして長崎銀と日田金雲街道にまで及ぶ広大なものであった。主業は海外 ( 銀 ) をあげている。上方では借金をまともに返さ貿易、それも幕府の警戒の網の目をくぐって行う、 ないことで札つきの熊本藩でも、上方から遠く離れスリル満点の密貿易であったらしい。国内交易で いずも た長崎や日田では、大きな顔をして借金を切り出せは、出雲の特産物 ( 鉄・下布・紙など ) と伊万里もの たからであろう。 ( 磁器であろう ) の交換で巨利を得ている。夏は長崎 長崎銀は、長崎代官で大手の朱印船貿易家でもあ出店の天井にガラスをはめて金魚を泳がせたという すえつぐへいぞう しい伝えがあるくらいに、その生活は豪奢をきわ った末次平蔵 ()* 「 5 ) とその配下の商人の合同資 本であった。平蔵らの貸し付け先は西国大名をはじめ、長崎のオランダ商館長が耳にした巷の噂によれ めとし、内外の貿易商人ら多数に及んだ。現在、平ば、全盛時代の小左衛門は毎年金一一〇〇両を消費し 戸や長崎にはオランダ商館やイギリス商館の跡が残てもびくともしない金持ちだったという。福岡藩主

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は長崎での宿所に、小左衛門の長崎店を利用してい る。寛文七年 (\(li) 刑場の露と消えた小左衛門の霊 ′」くしょ みようらくじ は、博多御供所町の妙楽寺で永遠のねむりについ 資本の自由な発展のためには幕府の御法度の無視ている。 はちけんし もあえて辞さないという、彼一流の経営理念は、彼 日田金と八軒衆たち が生きた時代にはうけ入れられるはずがなかった。 はんかちょう 山紫水明の風光が旅人の心をなごませ、楽しませ 「犯科帳」に記された小左衛門の罪状は、朝鮮への る日田は、金融の町、文化の町として知られ、訪れ 武器の密輸であった。それも一度や二度の密輸では る人が絶えなかった。また貴金属や木材などの産地 なかったらしい を近くに控え、水陸両面の交通も至便であったこと 幕藩体制という枠ぐみの中で生きるにはあまりに も窮屈げなその人となり、スケールの大きさであから、幕府はこの地を直轄領にきめた。 八軒衆、つまり日田の豪商らは、資金のこげつき を防ぐのに幕吏 = 日田郡代を利用することを忘れな ひろせきゅうべえ かった。八軒衆の一人、広瀬久兵衛 ( 一八七一 一七九〇—) は博 多屋を名乗ったが、日田郡代の掛屋に取り立てられ て幕府公金を取り扱う一方、福岡藩や対馬藩の御用 はぜろう 商人として櫨蠑や畳表の売買に敏腕をふるった。 久兵衛の優れた商道を考える場合まことに興味深 の精家眠 ) かんぎえん 傑骨易が いのは、彼の兄が私塾咸宜園を開き、大村益次郎や 三反貿霊右 たんそう 多や密の真 博湛鮮門再高野長英ら多くの弟子を育てた広瀬淡窓だというこ は宗朝衛 に屋む左る とである。広瀬久兵衛は西海道の数少ない町人学者 寺神と小 の人に藤て の家で、文化の香り豊かな空気に浸りながら商道を こ一神伊っ 身につけたのである。 - を数ものた ちはらこうえもん もう一人の日田の豪商千原幸右衛門も、久兵衛同豪 寺中古貿あ 楽のが外て 妙寺史海寺様、郡代の掛屋を務めるほどの豪家であった。明治海 の歴のの 多け多こ 期、同家はビール生産の伝習に上方に赴くなど、近 - ' 寺博わ博は 楽るり世点 妙あと中拠代的経営への転換にも力を注いだ。 、まの みせ かんぶん

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南 チプサン古墳・弁慶ケ穴古墳 0 菊鹿 鍋田横穴群 0 山鹿 △小岱山 0 来民 0 菊水 0 菊池 、江田船山古墳 玉東 0 ラ四水 植木 0 合志 至熊本 菊池溪谷 豊かな民俗と装飾古墳の也日 、冫 ) 規工川宏輔 熊本大学助教授 高瀬から隈府へ 域農村からの物資の積み出しは、「高瀬下り」の名 城北を結んだ阿蘇からの流れ で長く親しまれてきた。 がいりんふかば 阿蘇の外輪、深葉山に源を発し、熊本県北部の菊 ここでは、菊池川流域と高瀬行名 ) から隈府 池・鹿本・玉名の三地方を潤しながら有明海へそそ池 ) まで溯りながら、その歴史や文化と風土との じよう・ほく しわゆる「城北」地方の関係をみることにしよう。 ロメートル く菊池川 ( 全長七五キ ) ま、、 シンポルといっても過言ではない。その流域面積は 菊池川水運の拠点、高瀬 九九六平方キロメートル。態本県内で「城北」とい もうら えば、菊池川の流域のほとんど全部を網羅する。近 高瀬は、菊池川下流にひろがる三角州平野の要に 代交通の発達以前、菊池川はこの地域を結びつける 位置し、かっては河港の町として繁栄したところで そう みん ずしょ 大動脈であった。全国的に知られる菊池川流域の装ある。中国の明時代の書『図書編』にも、「肥後六 しよくこふんぐん 飾古墳群は、古来ここが菊池川をメーン・ルートと港」の一つとして、「達加什」の港名があげられて して有明海に通じ、さらに朝鮮半島とも交流してき いる。南北朝時代、菊池川上流の隈府に城を構え たことを、よく物語っている。 て、一時は全九州にその勢威を誇った菊池氏も、高 また、わが国における鉄器使用の第一歩は、弥生瀬の地を門戸とする海外貿易には、つよい関心を示 てんすい はねぎ 前期の玉名郡天水町斉藤山遺跡の鉄斧に始まるが、 した。同氏は、高瀬の繁根木八幡宮に、出入りの船 その背景として、早くからの大陸文化の移入・吸収 舶に対する加護を祈らせるとともに、入港の船から と、菊池川の川砂に含まれる豊かな砂鉄の恵みとが津料を徴収することによって、社殿の維持をはかっ あった。 わ」とい、一つ。 菊池川の水運は、近世初頭の加藤清正の入国以 この貿易とともに、高瀬津をへて多くの学僧が大 降、とくに活発化し、その拠点となった高瀬への流陸と往来した。い つほう、繁根木八幡宮の裏れ跡 0 0 玉名 0 大津 てつふ たかせ かなめ 7 イ 2

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大部分が国宝 西海道にふくまれることになる。 や重文に指定 ) をみるとき明らかであろう。 えんぎしき たいほう 交通路としての西海道は、一〇世紀の『延喜式』 九州は律令時代のはじめ、大宝元年 (\0) に西海 ちくぜんちくごぶぜんぶんご ひぜんひ 道と定められ、筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥 ( 糠四年〈九六七〉に施行さ ) によれば、京から山陽道 ごひゅうが 後・日向の七国と壱岐・対馬の一一島がこれに包含さ経由で豊前の北辺をよぎり、博多湾近くから東折、 だざいふ さつま たね おおすみ れた。その後、薩摩と多を指定し、また大隅を日筑前の大宰府に至る大宰府道が大路とされていた。 とおみかど てんちょう 向から分置するなどし、天長元年 (ä ) 多を大「遠の朝廷」とよばれた大宰府からは、右の大路以 しようじ 隅に編入して、九国一一島の原型ができた。江戸時代外に五筋の小路が各国府へ放射状に発して、あたか も都から東海・東山以下の六道が放射するかたちに には、琉球が島津氏の支配下に入ったので、これも 似て、そのミニ版ともいうべきものであった。 中世には、こうした律令官道の体系はくずれてい きない るが、それでも畿内中央からの陸上交通ル 1 トは博 多、大宰府が終着点であり、また九州探題や大名・ ・」くが 武将の進軍路も古代以来の国衙龕の ) をむすぶ官 りゅうぞうじたかのぶ 道が利用された。戦国末期、龍造寺隆信など、新 公のに しい領国内の交通体系をつくりはじめた大名もあら こくふく 園金国近る あわれたが、完全にこれを克服するまでには至らなか 公む 印ぞ奴も っ ? 」 0 金の委の塔 のに掘養 。。、島湾、発供 一第醪蒙豊臣秀吉と九州の交通路 こうした九州の交通状況は、豊臣秀吉の天下統一 へんぼう てんしよう の過程で、大きく変貌をとげることになる。天正 十四年 ( ←し十二月、島津征伐を決意した秀吉は、 輪時か銅 指羅島やた 畿内・北陸・東山・東海・中国・南海の諸国大名に 製新ノ製し 金は沖銀土 の輪。に出九州出兵を命じて、軍勢二五万人を動員した。翌十海 土指品かも 出の来ほ輪五年三月には、大坂城を発ち、諸軍を率いて九州の こくら ノのはの 沖代ら製豊前小倉に上陸、これより南進して筑前・筑後・肥 沖ノ島出土の奈良三彩 沖ノ島からは多く の祭器が出土したが、 この奈良三彩もそのな かの一つてある。 関門海峡ーー大陸文化 ・が流入する要衝、関門 海峡は、また源平栄枯 にみるような歴史の哀 歓をのみこむ激流ても あった。 たいじ