秀吉 - みる会図書館


検索対象: 日本の街道8 日燃ゆる九州
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1. 日本の街道8 日燃ゆる九州

神屋宗湛肖像 紫の坊主 " と天下人秀 吉に親しまれた神屋宗 / 甚の満ちたりた晩年を しのは・せるものがある。 7 ばじとうふう た当時の博多人は、馬耳東風とうけ流したであろ主一人ニ能ミセョ」と秀吉から直々声をかけられ、 面目をほどこしたと、宗湛はいとも満足げに日記に 一五世紀ごろの博多は、琉球ー薩摩ー博多ー対馬書いている。 ー朝鮮という大陸への海の道や薩摩街道を含むライ 宗湛はこの茶会を契機として、地域の商人から天 あかまがせき ンと、朝鮮ー対馬ー博多ー赤間関ー兵庫という海の下の豪商に仲間入りしたのである。宗湛は秀吉の朝 へいたん 道と山陽道をつなぐラインの交差点として、かたや鮮出兵の兵站を担当することで自分の経営を急速に かんごうせん 中国本土との勘合船の発着港として、文字どおりの拡大したが、秀吉の権力と資本を利用して博多の復 国際貿易都市としての伝統の炎を燃やし続けてい 興、町割りに成功しなければ、郷土の恩人として今 かみやそうたん しまいそうしつ 日まで博多の人びとの尊敬を集めることはなかった た。博多の豪商神屋宗湛 (l 伍 五¯) と島井宗室 ( ← ) は、そうした伝統をふまえて歴史の表舞台であろう。博多駅から海岸へ向かう旧電車通り一帯 に登場し ' た人びとである。 は、太閤町割りの名残を留める数少ない場所だとい 、つ 神屋宗湛の町割り 島井宗室の遺訓 富の獲得をめぐって繰り返された激戦で焦土と化 秀吉に接近し、天下の豪商に成長したという点で した博多をあとにし、家族ともども身を寄せていた かんし は同じでも、秀吉の朝鮮出兵を諫止するなど思いき 唐津から、宗湛が思うところあって上洛にふみきっ った行動に出た点で宗湛とひと味違う人物が、島井 たのは、天正十四年 (&\?) 十二月、宗湛三十四歳の ときであった。 宗室である。 おおともそう か 当時博多を支配していたキリシタン大名の大友宗 『宗湛日記』によれば、唐津を出た宗湛は、筑前加 すいぎよ ふり 布里から唐津街道を利用して下関に行き、海路兵庫麟とは水魚の交わりを絶やさなかったが、生涯けっ してキリシタンをうけ入れなかった。りようりよう へ向かい、兵庫から山陽道を通って京へ入ってい しゅうえん る。大徳寺で法体となり、上方の茶人兼豪商の天王たる気概の持ち主だったのである。人生の終焉を 寺屋一族や千利休らとじっこんとなり、茶の湯の修目前にした宗室が養子の徳左衛門にあてた遺訓は、 てんか 業に努めたおかげで、宗湛は天正十五年 ( ←し天下最も古い商家の家訓として一般に知られている。投 びと 人秀吉が催す大坂城の大茶湯会に招かれた。「筑紫資にあたっては、危険分散のために小額ずつ何回に ノ坊主ドレゾ : : : ノコリノ者共ハノケテ、筑紫ノ坊も分けて行うべしというくだりは、近代的経営のは ほったい りん 87 ーー西海道の豪商たち

2. 日本の街道8 日燃ゆる九州

に封入した加藤清正 ( 北部半国 ) ・小西行長 ( 南部半 鎮圧された肥後の国衆一揆 国 ) は、それぞれ隈本古城・宇土古城に入り、領内 統治と城の修復に力をそそいだ。小西行長は翌年、 天正十五年豊臣秀吉の島津征伐に際して、 肥後の国衆 ( 在地領主 ) は秀吉のもとに馳せ参じ、 新城建設を始めて、普請役賦役を拒否した天草国人 知行を安堵された。九州を平定した秀吉は、佐々成層を、加藤清正の援助でおさえ、目的を達成した。 政に肥後を与えて支配させたが、国衆の支配などに新宇土城の完成がいっかはっきりしないが、「宇土 ついては、五カ条の制書を与えていた。その内容城旧絵図」などによれば壮麗な三層の天守閣をもっ は、①五二人の国人には従来どおり知行させる、②本丸や二の丸・三の丸などをそなえた近世城郭であ 三年間検地をしない、③農民らの痛みなきよう善政った。この天守閣が小西氏の滅亡後、熊本城へ移さ をする、④一揆が起きぬよう配慮する、⑤大坂でのれ、今に残る宇土櫓だという。 清正は隈本古城に入る、と、城下町の整備や坪井川 普請役は三年間免除する、というものである。 これでは肥後支配は不可能に近いので、成政はあの付替工事、古城の石垣築造などをおこなった。本 えて禁制をおかして検地を強行した。このため、国格的な新熊本城の造営は、慶長六年 (JN) に始まっ 鈴木登編「熊 衆の不満は高まり、成政入国の翌七月、まず隈府城たともいう ) 。熊本城は、丘陵と浸蝕谷 本の城」 によって幾重にも防備される茶臼山丘陵全域をとり 主隈部親永が反旗をひるがえすと、これに呼応して 入れた壮大な規模の平山城である。それは丘陵を城 甲斐親秀・菊池武国、赤星・城氏など旧菊池系、和 仁・辺春・大津山氏ら肥後北部衆、詫磨・小山・鹿郭に、浸蝕谷を空濠に用い、また坪井川をひき廻 し、井芹川に合流させて内濠とし、白川を外濠とし 子木氏ら隈本周辺の国衆がつぎつぎと一揆に参加し た。秀吉は九州大名にその鎮圧を命じたので、黒田て、その間に城下町を配した。慶長十一一年、新城は 孝高・毛利勝信・島津義弘・立花宗茂らが肥後に出竣工し、これを機に「隈本」を「熊本」とした。 兵、国衆一揆を鎮圧した。秀吉は一揆参加者の親 城下町のうち、熊本城南側の古町は、方一町 (f 類・同調者などすべて斬首に処して国衆勢力を一掃 〇九し・道筋三間 ( 約五・四 ) 余の繩張りによって区画 したが、佐々成政にも責任を問い、 切腹させた。 された「一町一寺制」による市街である。古府中か ら寺院・商工業者を移住させ、北から唐人町・魚屋 「隈本」から「熊本」へ 町・万町・阿弥陀寺町、東から紺屋町・米屋町・呉 つほう、大手門近くの新 服町・細工町と並べた。い 天正十六年 ( ←し佐々成政に代わって新たに肥後 阿蘇山一一火の国のシ ンホルて活火山。阿蘇 登山とは、噴煙をつづ ける中岳噴火口を火口 縁から見物すること。

3. 日本の街道8 日燃ゆる九州

大浦天主堂 7L 冫ロノし 年 ( 1864 ) 、外人宣教師 が建てた日本最古の天 主堂て、国宝てある。 正式には日本二十六聖 人殉教聖堂という。 豊臣秀吉の切支丹禁教 令により、 1597 年宣教 師をふくむ 26 人の教徒 が殉教、聖人に列せら れた。

4. 日本の街道8 日燃ゆる九州

大部分が国宝 西海道にふくまれることになる。 や重文に指定 ) をみるとき明らかであろう。 えんぎしき たいほう 交通路としての西海道は、一〇世紀の『延喜式』 九州は律令時代のはじめ、大宝元年 (\0) に西海 ちくぜんちくごぶぜんぶんご ひぜんひ 道と定められ、筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥 ( 糠四年〈九六七〉に施行さ ) によれば、京から山陽道 ごひゅうが 後・日向の七国と壱岐・対馬の一一島がこれに包含さ経由で豊前の北辺をよぎり、博多湾近くから東折、 だざいふ さつま たね おおすみ れた。その後、薩摩と多を指定し、また大隅を日筑前の大宰府に至る大宰府道が大路とされていた。 とおみかど てんちょう 向から分置するなどし、天長元年 (ä ) 多を大「遠の朝廷」とよばれた大宰府からは、右の大路以 しようじ 隅に編入して、九国一一島の原型ができた。江戸時代外に五筋の小路が各国府へ放射状に発して、あたか も都から東海・東山以下の六道が放射するかたちに には、琉球が島津氏の支配下に入ったので、これも 似て、そのミニ版ともいうべきものであった。 中世には、こうした律令官道の体系はくずれてい きない るが、それでも畿内中央からの陸上交通ル 1 トは博 多、大宰府が終着点であり、また九州探題や大名・ ・」くが 武将の進軍路も古代以来の国衙龕の ) をむすぶ官 りゅうぞうじたかのぶ 道が利用された。戦国末期、龍造寺隆信など、新 公のに しい領国内の交通体系をつくりはじめた大名もあら こくふく 園金国近る あわれたが、完全にこれを克服するまでには至らなか 公む 印ぞ奴も っ ? 」 0 金の委の塔 のに掘養 。。、島湾、発供 一第醪蒙豊臣秀吉と九州の交通路 こうした九州の交通状況は、豊臣秀吉の天下統一 へんぼう てんしよう の過程で、大きく変貌をとげることになる。天正 十四年 ( ←し十二月、島津征伐を決意した秀吉は、 輪時か銅 指羅島やた 畿内・北陸・東山・東海・中国・南海の諸国大名に 製新ノ製し 金は沖銀土 の輪。に出九州出兵を命じて、軍勢二五万人を動員した。翌十海 土指品かも 出の来ほ輪五年三月には、大坂城を発ち、諸軍を率いて九州の こくら ノのはの 沖代ら製豊前小倉に上陸、これより南進して筑前・筑後・肥 沖ノ島出土の奈良三彩 沖ノ島からは多く の祭器が出土したが、 この奈良三彩もそのな かの一つてある。 関門海峡ーー大陸文化 ・が流入する要衝、関門 海峡は、また源平栄枯 にみるような歴史の哀 歓をのみこむ激流ても あった。 たいじ

5. 日本の街道8 日燃ゆる九州

都督府古跡ーー - 「遠の 朝廷」大宰府は、大野 城・基肄城・水城 ( 大 堤防 ) などて防衛され た大政庁てあった。 あしやはかた て、小倉ー芦屋ー博多の順で名護屋に至るコースを つぎふねこう を新 ( , イ後・薩摩・大隅〈と進んだ。 そのルートは、小倉ー馬ケ嶽ー岩石 ( 以上、豊とり、淀丨名護屋間、計二〇港が継船港となった。 前 ) ー尾熊ー秋月 ( 以上、筑前 ) ー高良山 ( 筑後 ) これと同時に、秀吉は一里Ⅱ三六町制を施行し つくし もと さしき やっしろたうら 南関ー高瀬ー隈 ( 熊 ) 本ー隈庄ー八代ー田浦ー佐敷筑紫では一里 五〇町であ。し、大坂より中国路経由、名護屋に至る あくね , 默第 ー水又 ( 俣 ) ( 以上、肥後 ) ー出水ー阿久根ー高城ー 道筋に一里塚を築かせ、さらに宿駅、港津における 泰平寺ー平佐ー山崎ー鶴田 ( 以上、薩摩 ) ー曾木 ( 大継立の運賃を統一し、一里につき、人足一人 = 一 隅 ) の順である。 銭、馬一疋または船一艘 = 一〇銭と規定した。 秀吉は、島津氏の屈服により、往路と同じコース 当時、秀吉が大坂ー名護屋間を往復した際の九州 はこ」き ろんこうこうしよう を反復して筑前箱崎に至り、この地で論功行賞を内のコースは、前記の小倉以下の宿順であるが、翌 ちぎようわり さたけよしのぶ おこない、諸大名に知行割をした。一方、その弟二年八月、佐竹義宣の家臣大和田重清が名護屋から ひでなが べつどうたい ひゅうが ひたち 秀長を将とする別働隊は、日向路を南下して、日向常陸水一尸へ帰国したときの行程もほば同じで、名護 げきは はま′、ぼ 高城付近の根白坂で島津軍を撃破したが、これは江屋ー唐津ー浜窪ー博多ー上 ( 植 ) 木ー小倉の順であ 戸時代の日向街道筋とみられている。 った。これは江戸時代の唐津街道筋の大半部分に相 当し、その途中の赤間から東折して植木経由、長崎 秀吉は、同十八年 (lb) 七月、関東小田原の後北 条氏を征伐し、奥羽を平定して全国制覇をなしとげ路に合流するコースである。それはまた、後の唐 一 : ' → ) 、を、 ( をると、次には大陸・朝鮮半島、の侵略をくわだて津・福岡両藩主の参勤交代路ともほば一致する。秀 た。そして、文禄元年 (III) 八月には、その大本営吉の朝鮮出兵にともなう交通政策によって、まず北 である肥前名護屋と京坂地方とをむすぶ通信・輸送部九州の唐津街道がいち早く全国的交通体系の一環 路を確保するため、陸・海二路の交通制度を定めにくみこまれたことを、よく物語っている。 幕藩制下の交通と参勤交代路 このうち陸路は、京都から中国路 ( 山陽道 ) を経 あかま けいちょう 由して、赤間関 ( 下関 ) を渡海、九州では小倉ー斜慶長五年 (88) の関ヶ原の戦以降、徳川家康が かたなじまふかえ なごや げんな 像ー、名島ー深江の順で名護屋に達するコースで、京全国政治の実権をにぎり、さらに元和元年 (} しの しゆくじんばつぎたて ひでより 都ー名護屋間、計二五宿が人馬継立の宿駅に指定大坂夏の陣によって豊臣秀頼を滅ばして天下を統一 よど された。また、海路は、淀を始港とし、大坂から瀬すると、徳川氏による幕藩制的全国支配の基礎は確 げんかいなだ てんませい 戸内海を経由して、赤間関以西では玄界灘を航行し立した。家康は慶長六年正月、まず東海道伝馬制を みなまた おぐま ぶんろく なごや

6. 日本の街道8 日燃ゆる九州

染付松文瓶ーー陶工李 参平は、有田泉山に磁 土を発見したのち、白驀ッ 川天狗谷に開窯したと いう。天狗谷窯出土。 ( 写真右 ) 色絵梅樹人物文壺ーーー 有田皿山て作られた色 絵磁器の輸出品として第気 , 著名なもの。のちにマ イセン窯などて写され ; ている。 ( 写真左 ) やきものの美・伊万里への道 ン わかに各地で製陶活動が盛んになった。鍋島直茂の 秀吉の〃やきもの戦争〃 領内においても同様のことがみられる。唐津領内で ようぎよう たけお 窯業は、火の国九州を代表する産業のひとつで おこなわれていた窯業が、佐賀県南西部の武雄市を あるが、その歴史はそれほど古い時代にまで溯るも中心にして新しい展開をみせるようになったのであ のではない。日本の各地に日用の雑器を焼く窯が生る。いま、唐津焼の呼称で知られているやきものの まれ、盛んに焼造をおこなうようになった平安時代多くは、唐津領よりも、佐賀藩の領内に分布する窯 末ごろから室町時代の終わりごろまでの九州は、もで焼かれたものであった。 つばら中国から陶磁器を舶載するのに忙しかった。 佐賀藩の領内西部の武雄・黒牟田地方、そして有 それは、いま福岡県を中心にして、各地の遺跡から田一帯に陶業が起こったその始まりには、鍋島侯が 出土する中国陶磁の豊富なことが物語ってくれる。 朝鮮半島へ出陣した際に連れ帰った陶工たちの力が 九州に陶窯が築かれ、現在につづく伝統的な窯業大きかった。このことは、江戸時代を通じて帰化陶 の中心的存在となったのは、桃山から江一尸時代にか工たちを保護しつづけた藩庁の様子を示す文書から けてのことで、一名を〃やきもの戦争〃ともいう豊も明らかである。また創業以来、有田地方の陶業を 臣秀吉の発した朝鮮半島への出兵が、その引き金に リードしたのが、これら帰化陶工とその子孫たちで まり なったといわれている。すなわち、朝鮮半島へ出陣あったといっても過言ではない。伊万里への道は、 した九州各地の大名たちは、帰国に際して陶工を連その起源を、遙かに海を越えた朝鮮半島へ、そして れて来て、おのおのの領内で窯業を営ませたのであ中国大陸までヘも求めることができる。 ただおき りさんべい った。細川忠興は現在の福岡県田川郡上野郷に上野 李参平の染付白磁伝説 焼を、黒田長政は福岡県直方市に高取焼を、島津義 弘は鹿児島県帖佐村に薩摩焼を開窯させるなど、に 伊万里焼とは佐賀県有田町一帯で焼成された磁器 西田宏子 慶義塾大学講師 6

7. 日本の街道8 日燃ゆる九州

水ノ浦ルルド洞窟 水ノ浦は、五島列島福 江島の北にあり、キリ シタン弾圧当時、多く の信者が逃れて移住し 開拓した。 にツじ乙 キリスト教は、天文十八年 ( 一五四九 ) 、フランシスコ・ザビエル によって日本にもたらされ、一時は三〇万人以上の教徒かいたとい われるしかし秀吉の禁教令以後、取り締まりの対象となり、徳川 家康を経て三代将軍家光の寛永年間に鎖国令がしかれると、すさま じい弾圧か行れたとくに、キリシタンの多かった長崎・五島・天 草では、血ぬられた惨劇か繰り返された加えて、旱魃かつづき、 この地方の人々は圧政と飢饉に苦しんだこれに抵抗して起こった のか島原・天草の乱であるこの乱は平定されたが、その後も隠れ キリシタンとしてニ〇〇年以上も命脈を保ち、幕末から明治にかけ て復活して、キリスト教史上の奇跡として世界の人々を驚かせた 大浦天主堂内部一一外 観は清楚たが、内部の 祭壇はすべてステンド グラスて作られ、豪華 な雰囲気てある。

8. 日本の街道8 日燃ゆる九州

異国情緒のただよう長崎は元亀元年 ( 一五七〇 ) 、キリ 移し鎖国時代の唯一の海外貿易港になった。唐人 ( 中国 シタン大名大村純忠が海外貿易のため開港したのに始ま人 ) に対しては、元禄元年 ( 一六八八 ) 、高い土塀と掘割 る天正十五年 ( 一五八七 ) 、豊臣秀吉か切支丹禁教令をに囲まれた唐人屋敷を設け、密貿易とキリシタンの潜入 出して公領となった。その後、寛永十三年 ( 一六三六 ) に、を防いだ幕末・維新の青年たちが、政治の改革を、文 てしま 徳川幕府が出島を完成、ホルトガル商館が置かれたか、 化の開花を求めて長崎への道を急いだのも、長崎が海外 同十八年、ポルトガルを追放、平戸からオランダ商館をの清勢を伝える唯一の窓口であったからである 一 , ~ ー - 啅を第気ネ : マ殀ーの 九十九島 佐世保か ら平戸に至る海上約 25 キロメートルにわたり 点在する島々の総称。 紺碧の海に浮かぶ白砂 の島々は、まさに天然 の美てある。

9. 日本の街道8 日燃ゆる九州

名護屋城から『葉隠』の里へ 玄海の島々と唐津・佐賀 れ、元寇の際は多くの被害者を出した。 松浦党の海洋進出と倭寇 松浦党の人びとは、海へ出て、貿易を行ったが、 わこう 『魏志』倭人伝には、「末盧国に至る。四千余戸有この武装集団が倭寇として略奪行為に走ることも少 かろく り。山海に沿うて居る。草木茂盛し、行くに前人をなくなかった。すでに『明月記』に、嘉禄二年 ( 見ず。好んで魚鰒を捕え、水深浅と無く、皆沈没し 、 ) 「鎮西の凶徒松浦党と号し、数十隻の兵船をか てこれを取る」とあり、肥前国松浦の地理的環境を まえ」高麗で略奪した、とみえるが、その後、李氏 かいとうしょこくき よく表現している。この地は朝鮮半島に近く、海の朝鮮側の『海東諸国記』にも、「肥前州に上下松浦 なながまたてがみ 幸に恵まれて、七ッ釜・立神などの海岸の美しい柱郡あり。海賊の居る所にして、前朝の末に、我が辺 状節理を生み、最近では観光資源にもなっている。 に寇する松浦党は壱岐・対馬の人と共に相率いて到 ようりゅう 一方、土地は、松浦川下流域を除くと、玄武岩のる者多し」とある。鏡神社の仏画『楊柳観音』 うわば 風化した赤褐色の土壤で、上場台地と呼ばれて、農や、恵日寺の大平六年 ( 一一しの銘のある「朝鮮鐘」 の渡来は貿易によったのであろうか。 業には適さず痩せている。このため、人びとは海へ 進出していった。源平合戦、とくに、壇の浦の戦に 豊臣秀吉の朝鮮出兵と名護屋城 おいて、松浦党三〇〇余隻は平家方の軍船であっ 秀吉は、九州を平定し、小田原の北条氏を討って た。松浦地方の中小武士団が、おのおの家の独立性 を保ちながら、協同体制を維持してきたのが松浦党全国を平定すると、天正十九年九月、朝鮮出兵を命 こうださし いししやつなみはたよぶこ である。神田・佐志・石志・八並・波多・呼子・名じ、十月には肥前名護屋城の築城を始めた。彼は倭 ごゃありうらちか まだらしま 護屋・有浦・値賀・斑島等々の地名を名乗る小豪寇を禁圧し、貿易の再開を求め、明や朝鮮に対し いっきけいだく て、大名や商人の海外進出の動きを背景に無謀な出 一る盟約 よ ) を結んだ。鎌倉時代には、 これら松浦党の面々は御家人となって地頭に任ぜら兵を行った。肥前名護屋城は玄海の島々、加部島・ 物を馬渡を松島 第加部島 0 呼 凸護屋城跡 ーま界 加唐島 虹 / 松原 唐津城 ^ 東松浦 0 玄海 0 肥前 至佐賀、 まつら 小宮睦之 佐賀北高等学校教諭

10. 日本の街道8 日燃ゆる九州

唐津くんち一一曳山の 飾りがユニークてある。 歴史上の英雄たちの巨、つ、 大な兜、獅子頭、しや ち、鯛などを豪快に引 きまわす。 3 1 0 どの博物館となっている。 ささばると、つげ・ 佐賀と唐津をニ分する笹原峠 歴代城主は寺沢・大久保・松平・土井・水野・ 笠原の諸氏で、寺沢氏以外は譜代大名である。なか 笹原峠は佐賀と唐津を結ぶ唐津往還にある、標高一 ながみち 二〇メートルほどの藩境の峠で、佐賀藩の多久領では には水野忠邦や小笠原長行など、後に幕閣で活躍し こざむらい きゅうらぎ なかしま 小侍番所、唐津藩厳木では中島の鉄砲足軽が警備 た人もいた。唐津藩の幕府への献上品は、「唐津焼 するめ した。峠の南側には旧街道の番所の石垣跡がある。 ・御茶碗・鯣・串海鼠・串鮑・葛」の五品で、これは 佐賀から長崎路を牛津の宿へ向けて進み、途中から 朝鮮半島の技術をうけついだ唐津焼、玄海の自然の 北〈向かうと、小京都といわれる小城、元禄八年 ( 幸など、まさに唐津を象徴する品物である。 九 五 ) 起工の四哲を祀る聖廟がある多久、峠を越えて厳 うどのいわや 現在は十 唐津神社の祭礼は、旧暦の九月二十九日 ( 木宿、相知の磨崖仏「鵜殿窟」を左に見て石炭を積 んだ川舟が往復した松浦川沿いに唐津に入る。佐賀の ) に行われるが、文政二年 ( 贏 ) 製作の刀町の赤 有明海、唐津の玄海は景観も海の幸も対照的で、有明 子をはじめ、一四台の曳山が「エンヤー、エンヤ うみたけ 海の海茸・ワラスボ・ムツゴロウは潟育ち、玄海は ー」の掛声と、鉦と笛の囃子にのって、往時の面影 鯛、鮑など磯物で、住人の気質も笹原峠で二分され を残す町並みの通りを練りまわる。その「唐津くん る。地味で重厚な佐賀、淡白で明るい唐津。天保九、 ち」の客の接待に、年間所得の三カ月分を消費する 一八三八、 みつき + 年 ( 三 ) の幕領一揆で農民たちが佐賀藩の多 という″三月だおれ〃の華美な風習がつづき、″唐 久領へ逃散をこころみた舞台であり、捕縛された農民 を物 0 津っ子。の金銭に淡白な性格を吐露している。 一行が筑後の三池まで護送されたのも、この峠を通っ てであった。 鍋島藩の猫化け騒動 佐賀県庁は旧佐賀城内にあって、堀に囲まれてい 隆信の下でその信望をえていた。天正十二年 隆信は島原の有馬氏を討とうとして、逆に島原で戦 る。佐賀城は龍造寺氏の居城村中城を、鍋島直茂が 慶長七年 (&fi) から同十六年にかけて改築、完成し死した。隆信には子の政家、孫の高房がいたが、家 たものである。現在は遺構として、堀・石垣・鯱の臣団の信望は鍋島直茂に集まった。直茂は秀吉の九 州進出の際、秀吉の信望をえて、朝鮮出兵では隠居 門および続櫓が残っている。 戦国大名、龍造寺隆信は、大友宗麟の肥前進出をの政家に代わって従軍した。こうして文禄五年 ( 五 抑えて、一時は五州二島の太守と呼ばれたほどであ六 $) には、龍造寺一門や家臣団が直茂とその子勝茂 に忠誠を誓っている。藩の実権が鍋島氏に移ったの る。九州を大友、島津の一一氏と三分し、鍋島直茂は 獅日三 はやし 6