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検索対象: 日本の街道8 日燃ゆる九州
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1. 日本の街道8 日燃ゆる九州

薩摩への道は、米津から井平水水 ) に入り、高風野 ( 高尾野 ) ・野 ) 田・阿久根・西方・川内・串木野・市木 ( 市来 ) ・伊集院から鹿児島 に入り、出水筋と呼ばれた。また、水俣から険しい山路をとり、大 ロ・横川を経て加治木に入り、鹿児島に至る大口筋もあった日向 からは高岡から都城をすぎると薩摩で、福山・加治木を経て、鹿児 島に至り、高岡筋といわれたしかし、いずれの道をとるにしろ、 さるかわ 出水筋の野問、高岡筋の去川など、国境には厳重な関所があって、 簡単には他国人を寄せつけなかった 磯庭園ーーもと島津家 の別邸て、仙巌園とも いわれる。桜島・錦江 湾などの雄大な自然を 取り入れた大庭園てあ ■を 霧島神宮ーーー古代は高 千穂峰の山項にあった と伝えられる。社殿は 正徳 5 年 ( 1715 ) 藩主島 津吉貴が寄進した。 ノ 3 イ

2. 日本の街道8 日燃ゆる九州

0 第ぐを洋 白銀坂ーーー明治の中ご ろまて、鹿児島から大 隅へ行くには、吉野の 台地を経て険しい白銀 坂を下り、重富へ出な ければならなかった。 - 宀翆 , ーを であった。徳川幕府への届には九州筋・日向筋と記 吉田や重富などの周囲七里にもわたる吉野の牧で いずみ している。江戸時代の後半には、前者を出水筋およ は、毎年四月、藩主自ら藩士を従えて、一一歳馬を取 にしめ ほらがい び大口筋、後者を高岡筋と改めたが、出水筋は西目 る馬追いの行事があった。法螺貝の合い図で大声を おろ 筋ともいわれた。大坂や江戸へ達するには、小倉筋発し、竹木をふるって馬を追い、大苙に落とし込む が鹿児島城下を出て豊前の小倉に至り、東目筋は日のである。この馬追いは各地でも行われたが、吉野 向細島 ( ) に出た。その先、両筋のコースは瀬の馬追いにまさるものはなかったという。 戸内海の船路、または陸路をとる。これら三筋の街 吉野台地の東南の海岸、城下寄りの磯には、早く せんがんえん 道には、鹿児島城下 ( 下町 ) の札の辻を起点に一里は江戸時代の初頭に島津家の別邸仙巌園がつくら 塚が築かれ、町木 ( 里程標 ) が立てられていた。 れ、くだって内憂外患の幕末期には、西欧文明を導 東目筋は、鹿児島城下と大隅地方を結ぶ重要な街入するための藩営の集成館機械工場や、わが国最初 ふくしようじ 道であった。城下北東の島津家菩提寺福昌寺近く の洋式紡績所が設けられている。しかし、鹿児島ー つづみがわ 。しげ・とみ ちょうさ の鼓川から、吉野の台地を経て重富に出、帖佐を磯ー竜ケ水ー平松ー重富を結ぶ街道の本格的整備 ぎようこう は、明治五年の明治天皇行幸の際で、現在の磯か 通って加治木に至る。天保六年 ( ~ 一し、薩摩に下っ た江戸の講釈師伊東凌舎の紀行文『鹿児島ぶり』 ら重富に抜ける国道一〇号線の開通は昭和三十三年 であった。 鹿児島出立、吉野の牧内を通り、関屋の七曲よ いま、その役割を失った白銀坂は、ただ国道西側 り白銀坂を壱里下る。薩摩の難所と云。御領内の山麓から県立吉野公園への登山道として名を残す 第一の難所なり。此坂上に薩摩大隅の境木あのみである。 り。且、吉田・重富の郷境なり。 大口筋の分岐点、加治木 と記している。鼓川から吉野の台地にかけては、 急勾配の坂道が九十九折りにつづき、薩摩と大隅の 重富の町を出て、渡瀬川 ( 平松川 ) を渡ると帖佐 国境をなす白銀の峠は領内随一の交通の難所であっ の松原がつづく。別府の船渡しから加治木に入る。 た。鹿児島から重富にかけての海岸線は、屏風のよ 加治木から霧島山麓の西側を北に縦断する大口筋 あいら うにそそりたっ姶良カルデラの断崖の連続で、大隅は、遙かかなたの球磨人吉、肥後佐敷に通じてい ふるかわこしようけん へ出るには吉野の原野を通り、険阻な白銀坂を越え た。古川古松軒の『西遊雑記』には、こう書かれ て重富に出る以外、道はなかった。 0

3. 日本の街道8 日燃ゆる九州

出水 高尾野 ロ 大 野田 阿久根 薩摩藩主の往く道 西目筋は豊前へ・東目筋は日向へ まち 町六町やかたの北にあり。武家やしきを中にし 根至都城 敷 七七万石の城下町 福山 分 て南を下町という、十二町あり、武家多し。此 島津氏が南九州に勢力を張ったのは鎌倉時代以降 外山西に西田町あり、西目道中の入口也。 のことで、薩摩・大隅・日向三州の守護としてこの とある。城の通り館の馬場は、屋形通りとも書か 湾 まの鹿児島県 第屮錦地に入国して以来、明治維新に至るまで、領主としれ、城下屈指の広い通りであった。い ながた 野 ての地位に変わることはなかった。 立博物館本館から東へ長田町の陸橋西口まで、一キ 吉 けいちょう いちょう ロメートルの銀杏並木の国道である。 関ヶ原の戦後の慶長七年 (&() 、島津家第一八 いえひさ 明治・大正・昭和と三代にわたり、鹿児島の早春 代の家久 ( 一¯) は鹿児島に鶴丸城を築き、以後 ころ・つき いろど 、、ー , この居城を領国支配の拠点とした。『三国名勝図を彩「た館の馬場の和も、甲突河畔〈移 0 て久し はす 会』には、「山によりて城とす。その山は鶴丸山く、蓮の茂る堀と石垣に囲まれた本丸のすぐ前を国 ( のちに城山 ) という。この山の形、舞鶴に似たり。 道一〇号線が東へ磯街道を走り、背後に城山がそび 故に名を得たりとぞ」とある。しかし、鶴丸城の実える。明治十年、西南の役で西郷隆盛ら薩摩隼人が 態は、「人は石垣、人は城」の言葉そのまま、天守最期をとげた城山には、青々と茂った杉・樟の大 ったかずら 閣もない、質素な屋形づくりの平城であった。 木・蔦葛・シダ類などの亜熱帯植物が生い茂り、 しもほうぎり かみほうぎり 城下は、城を境に東が上方限、西が下方限と二分眼下に甲突川の左右にひろがる美しい市街地と、紺 べききんこう され、城をめぐって武家屋敷がならんだ。『薩摩風碧の錦江湾をへだてて噴煙あげる桜島の雄姿が一望 される。 土記』には、 しらかねざか 鹿児島と申候は、西に山をかたどり、東南は海 鹿児島と大隅を結ぶ白銀坂 なり。北は日本の地っゞきなり。御屋形は山の かん こくらすじひがしめ まへ、前となり大身の武家方也。図の如し。上 城下から領外への重要な街道は、小倉筋と東目筋 霧島山△ 大口筋 串木野 市来 鶴丸城跡ーー - 鎌倉時代 以降 " 南九川の覇者 " として、その名を全国 に轟かせた島津氏の居 城跡。明治 6 年に焼失。 院 桜島 え した やかた 黒田安雄 愛知学院大学助教授 くす こん 755

4. 日本の街道8 日燃ゆる九州

の治世に育まれ、独自の文化を築き あげてきた。 西鹿児島駅から甲突川を渡った天 文館通りを中心とする街を、囲むよ 像 盛国ま - し隆 西 7 うに点在する史跡は、それぞれに眺 めがよい。北側の城山は、西南の役 の最後の激戦地となったところ。亜 熱帯植物の緑が多く、市街を一望で島吾 兄空 きる。その裾野には照国神社、旧二 の丸跡に建つ西郷隆盛銅像、天守閣 をもたない鶴丸城跡、薩摩義士像、 南州墓地などと、史跡が豊富な地で 鹿児島市街図 ある。 日豊本線に乗って鹿児島駅から北 む に向かうと、島津斉彬が嘉永五年 ( 一 を 執もえる九州の祭り 八五二 ) に造らせた近代工場跡の尚 古集成館と島津氏別邸の磯庭園がひ ら・博多どんたく ( 福岡市博多区・中馬にまたがり、町をパレードする。 ろがる。 ( 八時半ー一七時半磯庭園 カ央区一帯五月 = 「四日バレー ・博多祗園山笠 ( 福岡市博多区上川 と尚古集成館共通券五〇〇円無 庭出発地点は国鉄博多駅 ) 端櫛田神社七月一ー十五日集 休 ) 目の前に海がひろがる、桜島の 博多どんたくは、室町期に始まる団の山見せは市バス停留所呉服町天 が迫る景色がすばらしい 〇円 ) で昇ると、桜島と錦江湾を前領主への年賀行事であった。町人の神から徒歩一一分 ) 尚古集成館には、大反射炉や大砲、景に、空の青さと海の青さに挾まれ無礼講の日として、市内や城中など祭り好きの博多っ子が、一年のう ーするのがこの祭 ガラス製品、写真機などが陳列された鹿児島市内が一望できる。 ( 市内のを回り歩いたが、戦後は五月三、四ちで最もフィーバ ており、先見の明のあった島津斉彬観光には、定期観光バスが出ている。日に行われるようになった。陽気なり。鎌倉時代から七〇〇年以上っづ の人柄が偲ばれる。磯庭園の背後の西鹿児島駅前観光案内所〇九九二・しやもじのリズムが響くなか、福神 いており、盛夏を呼ぶ祭りとしても 丘にかかるロープウェイ ( 片道一六五三・一一五〇〇 ) の恵比須・大黒の面をつけた人々が名高い 9 プっェイ 庭園。 ウ園 ①神社 飛只部蒙地 第英戦寺記台調 品島馴前 島橋 版島松橋 朝日 嶺神社①。 集成館・い 巽 / \ 館 。程芍跡 ① 0 朝 。山 0 0 屋ス島 新エ居 薩英争記趾。 、帯植物園 。マリンをユ 0 田 騎射 至 見 RFJ 至・ 至指

5. 日本の街道8 日燃ゆる九州

宀元 ら「神武さま」と呼び親しまれておを祈願する。なかでも十五日に行わ傘を焼くための台場を築き、古傘をー当目 り、蜒々三〇キロにも及ぶ御神幸やれる「御前迎え」は古代の略奪結婚を焼く。そして裸になって川に飛びこ 仮装行列がつづく。日南海岸に臨む偲ばせる神婚神事。日没を待って姫み、台場を囲んで「曽我どんの傘焼 下円 城妙 鵜戸神宮ゆかりのシャンシャン馬も御前を迎えるときに、茅で作った松きの歌」をうたう。 島の 登場して行列に加わり、目抜き通り明の両端に火をつけて頭上で振りま・妙円寺参り ( 鹿児島城下から伊集一 、児復 の橘通りは人でいつばいとなる。 わす。火振りの神事といわれ、一面院まての往復十月十五日 ) おひ ・泰平踊り ( 飫肥市七月十五日の火の海となる、いかにも火の国にふ妙円寺参りが本格的に行われだしめた青少年が、鹿児島城下を出発す 盂蘭盆飫肥城跡飫肥駅から徒歩さわしい祭り。 たのは江戸時代の末からといわれる。る。妙円寺のある伊集院までの、往 一五分 ) ・ばした祭り ( 羆本市九月十五日鹿児島城下をはしめ、藩内のいたる復四〇キロメートルの道のりを「妙 飫肥城主伊東氏は秀吉の九州統一藤崎八旛宮羆本駅から市電て二〇ところで行われた御中教育の一つと円寺参りの歌」をうたいながら歩く。 後、明治維新まで歴代っづいてきた。分 ) してとりあげられた。青少年を鍛え若者たちの心や体を鍛えようという、 藤崎八旛宮の御神幸式のことで、 る行事で、よろいやかぶとに身を固鹿児島らしい行事である。 別名「随兵」とも呼ばれるのは、神 〕。輿のあとに「づく随兵頭の大よろい九朴 . 槊土の味しるヘ を着た馬上姿と、これに従う百騎の っ . ま甲胄姿が行列するところからきてい ス藻。これらを煮とかして型に流し、 一 0 田岡 のる。馬には独特の飾りをこらして、 固めたパリバ ) のものが沖、つとであ 紅白や青白の輪がつく。練り歩く勢福岡 ( 博多 ) を中心に、数百年のる。今から三〇〇年はど前に、博多 泰平踊りは、この伊東氏の功績をた子たちが「ばした、ばした」とはや 、庶民の朝食の菜として親しまれの東方、箱崎に住む漁師が海草を煮 たえており、元禄のころから飫肥藩して馬を追うので、ばした祭りとい てきたものに「沖うと」がある。夏て食べたのが始まりといわれている。 の行事として踊りつがれてきた。 われるようになった。 三、四時間くらい水に浸して、二、 の早朝に、 泰平の世の象徴である鶴と亀を意・曽我どんの傘焼き ( 鹿児島市六 しりまっ 「 4 わ医つ ) 、 4 わ」、つ A は、 ) 三ミリの幅で刻み、熱い湯に漬け、 味する型があり、いすれの組の踊り月一一十八日甲突川の高見橋近く ) せんな」 手早く水を切る。酢味噌やおろし生 手も、深編笠で顔をかくしている。 この祭りは、御中教育の一つで、 と売り歩く姿は、今ではあまり見姜にしようゆなどで食べるとおいし 熱いみそ汁の具にもよい 着流しに朱鞘の太刀を差したスタイ江戸時代の末に始まった。曽我兄弟られなくなったという。沖うとの原 ルは、武芸十八般に通しる舞の手をの「親孝行」「おちつき」「辛抱強さ」 料は博多近海でとれるエゴ藻とイギ庶民の味として忘れてならない料 さらに毅然としたものにしている。 「勇敢さ」などが鹿児島の青少年た 理に、博多名物の「がめ煮 ( 筑前煮 ) 」 ・田作り祭 ( 阿蘇三月十一一 5 十八ちにも身についてゆくようにとの意 里がある。野菜と鶏肉のごった煮のこ 日阿蘇神社豊肥線宮地駅から徒図が含まれている。当日は曽我兄弟 料と。豊臣秀吉が、文禄元年 ( 一五九 歩一〇分 ) の仇討の故事にのっとって、青少年 う一 l) に朝鮮へ出兵した折に、ガメ ( ス 二千年の伝統を受け継いでいるとたちが古い傘を集める。すべて大人 ッポン ) をつかまえて野菜と一緒に いう阿蘇神社の代表的祭りで、豊年の手を借りずに、甲突川の中ほどに 煮て食べたことから作られるように すいびはっ

6. 日本の街道8 日燃ゆる九州

九州の祭り ' をを第、、 , 第 : ぃ阜ゑ物を , す第、 00 七夕踊り - ー牛・鹿・ 虎などの作り物が踊り まわり、七夕に奉納さ れる。 400 年の歴史を もつ。 ( 8 月第 1 日曜・ 鹿児島市東町大里 ) 博多祇園山笠 - ーー鎌倉 時代、聖 - 国師の疫病 封じ祈願に始まったと いう。飾り山笠は豪華 絢爛てある。 ( 7 月 1 ~ 15 日・福岡・櫛田神社 ) おんだ祭 - ーー阿蘇神社 のお田植え神事て、神 輿に宇奈利 ( 昼食持ち ) がっく。 ( 7 月 28 日・態 本一の宮町・阿蘇神社 ) 九州っ子は祭り好きだ北州す一 九の専多祇園山笠、 祭などがあり、太宰府の曲水の宴、山鹿の燈籠祭 小倉太鼓祇園、戸畑提燈山笠など勇壮活発なもの りなどは優雅である宇佐・臼杵・中津は祇園祭 か多い「おくんち」とは、御宮日とか御九日と りか盛んだ神話の国日向では岩戸神楽をはじめ、 書き、祭りのことを意味する異国情緒豊かな踊宮崎神宮の「神武さま」などかある鹿児島では、 りか奉納される長崎くんち、唐津大明神に供奉し曾我どんの傘焼き、弥五郎どん祭り、といった変 て曳山か巡行する唐津くんちなどか代表的なものわった祭りもある だ火の国熊本では阿蘇神社の火振神事、おんだ

7. 日本の街道8 日燃ゆる九州

かん 正八幡宮 ) は、南九州における八幡信仰の中心とし上・西田・高麗・武之の五橋がある。ともに幕末期 ちょうや て、朝野の崇敬が篤い大隅国の一の宮であった。同の石造橋で、このうち城下入り口の西田橋は、鹿児 すずかけ ー十亠、ゝ しまも、鈴懸馬が人馬一体となり踊りながら島の代表的な石橋であった。 はつうま みようえんじまい 参拝する″初午祭〃や、古式ゆたかな〃御田植神 西田通りから伊集院への道筋は、また妙円寺詣 事〃の儀式で知られている。 りの街道でもあった。伊集院の妙円寺 ( 徳重神社 ) 福山の町は錦江湾の最も奥深い所に位置し、五〇は、関ヶ原の合戦に勇名をはせた島津義弘の菩提寺 〇メートルの断崖が海岸線に沿ってつづいていた。 である。鹿児島城下の士族の子弟は、西軍に組して 国分から敷根の門倉坂を越えて、当時薩摩藩領であ敗軍の将となった義弘が、意表をつく敵中突破を敢 もろかた みやこのじよう たかじよう った諸県郡の都城 ( 都 宮しに入り、高城を通って行したときの苦難を偲び、また徳川氏への恨みをわ さるかわのせき 北上すれば、日州ロの関所、去川関で知られる高すれまいと、関ヶ原の決戦のあった旧暦の九月十四 よろいかぶと 岡市 ) である。当時の薩摩藩領は高岡までで、 日、長途鎧兜に身を固めて、五里に 9 。 ) も離 これから日向細島へ行くには、さらに佐土原藩領のれた妙円寺まで夜詣りする慣わしであった。 たかなべ 伊集院から六道坂を越えると、慶長の役で来日し 佐土原県佐、 町 ) 高鍋藩領の高鍋 ( 宮崎県児湯〈こ ) を ゅ〉郡高鍋町 経由せねばならなかった。 た朝鮮陶工がやきものをはじめた″薩摩焼″ゆかり ちんじゅかん しまも沈寿官 の地苗代川 ( しに出る。ここでは、、 参勤交代路の出水筋 窯がその伝統を守っている。猛宗竹に囲まれた横道 たまやま 藩主の江戸参勤には高岡筋のほか、城下西の西田に入ると、陶工たちの守護神玉山宮がある。かって せんだい 通りから伊集院ー市来湊ー串木野ー川内ー阿久根ー は朝鮮伝来の歌舞がその祭日に奉納されたという 出水を通る″出水筋〃を多く利用した。江戸参勤のが、いまはわずかに歌詞だけを残している。 日が近づくと、歴代の藩主は、島津氏と縁故の深い 街道には、途中休憩をとる〃御茶屋〃が諸所に置 こばんちやや すわしやみなかた せりが ぎおんしややさか 城下の五社第一の諏訪社 ( 南方神社 ) や祇園社 ( 八坂かれていた。鹿児島本線の国鉄木場茶屋駅は、芹ケ 神社 ) に参詣して、盛塩と神酒三献を供える。鶴丸野の名で知られる串木野金山の峠を越えた所の″木 応島はの の碑守る 城を発駕した島津氏の参勤行列は、はじめ千石馬場場茶屋〃の名に由来する。 建墓太れ みつかん 跡創 ぐみぎき 寺 ) 寺三て から西田町へ入り、水上坂を登って伊集院に出、苗 日疋の、ん 日曰 3 キ . しろがわ 向田の御仮屋と久見崎 福い菩日伝 代川ー長里を経て市来湊に至る。北上する国道三号 山年のしを たまえしん 龍元氏り影 川内川は南九州随一の長流である。熊本県白髪山 王永津あ面線に並行して流れる甲突川には、上流から玉江・新 久見崎一一東シナ海に 面した久見崎には、文 禄・慶長の役て戟死し た夫をしのびつつ踊る " 想夫恋 " の踊りが残る。 しよう なえ こうらいたけの しの

8. 日本の街道8 日燃ゆる九州

←、をぼ , 隼人塚ー一家形に似た 三基の多重石塔を中心 に、それを守る四天王 像が配してある。熊襲 の霊を慰めるため建て 、られた。 大隅は東西狭く、南北長き山国にて、東は日 にて、大隅にては第一の市中といふ所なり。是 より肥後へ出る道あり、薩州侯御一代に一度、 向、西は薩摩、南は海、北へは長々と肥後の求 此道筋を通行有りて、御参勤有ると云。 磨郡まで入りこみし国なり。 ( 中略 ) 加治木の 当時、加治木は、島津氏一門の加治木島津家の小 町に至りて止宿せり。此所は外城と称して士家 およそ 凡三百家ばかり、船つきの町にて商家も数多城下であり、また交通の要衝、物資の集散地とし て、大隅第一の富邑であった。この地は島津家第一 七代の太守島津義弘 ( 一伍三 5 ) との関係が深く、今 に残る郷土芸能の太鼓踊りは、慶長年間 (L 五六 ) 、義弘が疫病退散を念じて家臣に踊らせたのに 始まるという。また、有名な蜘蛛合戦は、朝鮮に出 兵した薩摩武士の士気を鼓舞するためのものという 言い伝えがある。 霧島山麓から日向細島へ 加治木からの高岡筋は、さらに国分から敷根を横 断する形で福山に至る。 加治木から国分にかけての街道沿いには、薩摩の しの 〃源流〃を偲ぶ「隼人塚」が現存する。隼人の塚の うえには家形に似た石塔を中心に、あたかもそれを 守護するかのように二基の四天王像がならび、二基 は胸まで土に埋もれている。一千年の歳月に耐えた 風貌は、歴史の〃ひだ〃をしみじみと感じさせる。 らんしよう 国分は煙草栽培の濫觴地であり、かって律令国主 家による大隅支配の拠点でもあった。その名は天平摩 しようむ みことのり 十三年 ( 七四 ) 、聖武天皇が諸国に詔をして国ごと に建てた大隅国分寺に由来する。鹿児島神宮 ( 国分 太鼓踊り一一鹿児島は 太鼓踊りの宝庫てある。 七夕、盆、秋祭りなど、 飾りも美しく、はやし もにぎやかに威勢よく 踊る。

9. 日本の街道8 日燃ゆる九州

古代から中世にかけての九州の 道は、すべて大宰府に通じる道で あった。近世に入ると、筑前六 北九州市 宿街道といわれた黒崎 ( 八幡区 原田を結ぶ道が、長崎・薩摩 に至る基幹として、最も重要にな った。佐賀・長崎に向かう長崎路 も、久留米・熊本を経て鹿児島に 向かう薩摩 ( 肥後 ) 街道も、この 道を通らなければならなかった からである長崎路と薩摩街道 は、原田のつぎの田代宿の追分で 分かれた。豊前・豊後・日向に向 かうには、小倉から中津へ小倉街 道をとり、唐聿に向かうには、 倉から博多岡 ) を経て唐津に出る 唐津街道を利用した。秋月街道は、 筑前の飯塚から、黒田の支藩五万 抜ける道であった。

10. 日本の街道8 日燃ゆる九州

九 州 郷 土 の 味 し 料理 ( 産地 ) 沖うと ( 福岡 ) が , め煮 ( 福岡 ) 松浦漬 ( 佐賀 ) ムツゴロウ ( 佐賀 ) 汁 だ ( 大分 ) やせうま 城下ガレイ ( 大分 ) 卓袱料理 ( 長崎 ) たが快海 あ異 なを佐牟け貝 え有 物山 つ国 て鶏 作オ で漬 だゆ こて ムを これ す接 日庭変て こ松 ぐ点 と浦する し . ゴす で漬 富酒 ノヾゼ った に皿柱タ 煮ほ。 山を が賀 灘かな漬 魚ー 出長 ス有 さ崎 ッあ れと ら物 つる っか大で 干ム 感る の入 理地 っ鯨 ぇ地別道 身が 。チ ゴの な煮めを み袱 殊てのり ン科込ら使て に料 有日ひ ~ 食 理み 理る 藻名出し海 べイ なア い味 ゴ平 でわ でた にや イに一 オしラ たお 。角 い楼 飛や る器 外う 恵灘 魚五 の国 い椀独や 。初かん 自中 たが も汁代ら い海 るな取 歓一 って迎人 があ つで こ名 る後 てれ て全皿づ こを 皿る い部 刺意魚作 ア ゴ ( 長崎 ) 日の出南京 ( 宮崎 ) や汁 ( 宮崎 ) 辛子レンコン ( 熊本 ) ひともじの ぐるぐる ( 熊本 ) かるかん ( 鹿児島 ) 酒ずし ( 鹿児島 ) 後藤的ー商店 092 ー 621 ー 3383 宮崎市とその周辺て作られて 0985 ー 24 ー 7070 魚山亭 2 ー 2 ー 3171 ( 観光案内所 ) 平戸市の各土産物店 09 田 -25 ー 5151 ( 長崎市役所 ) 長﨑市の各料理店 877 た 2 ー 2511 ( 日出町役場 ) 日出町の各料理店 0975 ー 36 ー 5327 大分市こっこっ庵 0952 ー 25 ー 2148 ( 県観光課 ) 有明海に近い町に多い 09557-3 ー 6111 ( 唐津市役所 ) 唐津の各土産物店て 家庭料理 福岡市とその周辺て作られる 0992 ー 24 ー 1111 ( 市観光課 ) 鹿児島の各土産物店て 作られる料理 熊本市て古くからひな祭りに 0 % 3 ー 56 ー 1111 ( 熊本市役所 ) 熊本市の各土産物店て いる家庭料理 さつま路 892 ー 26-0525 博多近海てとれる、エゴ藻とイギス藻を煮込んて固めたもの。北九 少に数百年前から伝わり庶民の味として親しまれている。 豊臣秀吉が朝鮮出兵の折に、ガメ ( スッポン ) をつかまえて、季節の 野と一緒に煮込んだもの。家庭料理となっている。 、玄界灘ては鯨がよくとれた。捨てるところのないといわれてい る鯨の軟骨を入れた漬けもの。山海漬に似た味がする。 不知火のともる有明海の干潟に住むムツゴロウ。見ばえは悪いが、 味は淡白ておいしい。夏場が最高。佐賀市や鹿島市の旅館などて。 小麦粉を水て溶いて、手てちぎっただけの素朴な麺をみそ仕立ての 汁の中に入れたり、きな粉をかけたもの。 日出城下町に面する海中に淡水の湧くところがあり、そこに特殊な 藻がはえている。その藻を食べに集まってくるカレイが城下ガレイ。 オランダや中国の料理を巧みにとり入れて、日本人のロに合うよう した料理。豪華なメニューがつづき、 5 、 6 人て食卓を囲んて食べる。 海を飛ぶようにしてやってくる飛魚を、土地てはアゴと呼んている。 丸干しや焼いて背開きにしたものを食べる。 手のひらほど・の大きさの日向カホチャの中心をくりぬき、鶏肉をつ め、卵をのせた宮崎の郷土料理。 南国宮崎の夏は暑い。冷や汁は食欲のないときによい。みそ汁を冷 たくしてご飯にかけたもの。こくのあるみそ仕立の汁が特徴。 熊本城の外堀に栽培されたレンコンに、辛子みそを詰め油て揚げた もの。カリッとした歯ざわりのある郷土料理。 肥後藩の苦しい財政を建て直すために考えだされたという料理。春 のわけぎに辛子みそをつけるだけて、ひな祭りに作られる。 山いもと米の粉て作ったむし菓子。しっとりして甘味がおさえてあ 48 年の伝続をもつ郷土料理。酢を使わずに、地酒を飯にしみこま る。町なかのどんなお菓子屋さんても売っている。 せて、タイやイカ、桜島大根などの具をいれたもの。 て る 特 な を 工 て る カ 7 と の 日 に城下 し下ガ の 中 レ生産 長 崎 と府が大 し湾あ分 だ産 し み か け く っ た 珍 味 と 店海れ外も た 、は唐 な今鯨津界 の なは軟はで 、骨 の も の は 酒 も っ て い る の で 浜 : 毎 ifii る で る 、た白 て か ムら重 き 。し た い 玄 、あ る 豪 の焼風干に で 玉 開が利 これさ い 田 の 名 。海物は貝 も っ て し、 がれア秋は ま淡はがこ新崎 、な煮辺にな ズ フ リ と さ ら用ればと る 賀 つは方 有 明 の ほ ーこ も つ つ 、ら し 、わ り る し 、面たお も の ( ナ と し、 。てす 、海ろ鮮 る と と こ干れ島 か り の 大漬なぶ大 で も に る れ る に し す る イ フ べギた は 艮 と り緒似 し め り ん さ し、 。は サ出城に防 イ の 県 、は 。水 に 北 き 、長わ で も 尸 タリ 島 の 方 。で と び し た 、両 眼 カゞ 交尭のグウ佐 ロ し 、て い る に 女台 ま っ 佐 大 分 ロ ウ にたが っ い で し る し五理 ハ ノ、 ん で グ ) ふ と噌与 の い具が 。や し 、ポ明て味ク 、寒は海食はなれ料 べ 、華 で あ る の二煮 の り と ゴ珍こ味を が 多 ク ) ワかき ツはる の箸豪 ト ス 食慣さ枚な 魚 こ珍 員 し、 る フ 。料 囲け陶 習 ぇ る ハ イ中 に間ァ で 炎 . 白 豚 の ど カゞ く し、 出は・明 ッ ロ あ スげ名 し、 ま し と つ の 、海 有 る の 理 し い る 、ひ れ み ん 栄 養 な で 第 ) る ーで の 、幸周 ま レれ東 て し、 こ尾だ巧卓 k んチ と り い の 味 は オ ン 国 の 料 理 . し よ っ 豊本で の 科味れ 理がて オこ ぶ どが案 ャ ポ 焼 し、 た の と し 豕 イ乍 ら い 。り砂惣は し糖菜 し ン広め ま っ は わ ふ オご ク ) 生 の 四 海 の主来 う方考学ろ ム必な ら い たが行 ス んポる ン / っ 明 に時ポ 人たで が留あ か ら 、事 の と は ヤ ン 、皿 ど な ど