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検索対象: 「文明論之概略」を読む 中
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1. 「文明論之概略」を読む 中

「仁」にたいする批判があり、もう一つ、積極的には、前述しましたように、自主独立、ある いは中村正直訳の『西国立志篇』 ( 明治四年 ) で有名にな 0 た・スマイルスの「自助」の精神が 強く、人に依存心を起させることは何によらずよくないという考え方、また人の世話になるの は恥だ、という考え方が根底にあります。 昨日も、あるフランス人と話していたのですが、その人は、日本人はどうも人に頼り、人の 好意にすがるのをあまり恥と思わないようだ、という意味のことを話のついでに言っていまし た。よほどそういう態度が目についたのでしよう。「何とかを励ます会」などというのがやた らにあるのも、その一つのあらわれかもしれません。その意味では維新の時代の考え方の方が むしろ日本人離れしている、とさえいえるでしよう。 慈善は、仁政主義的にいうと、人に善を施すことですから、結構ずくめのはずです。ところ が、それには限界があり、下手をすると、かえって施主が怨まれるようなこともある。これも やはり徳義が及ぶ社会的範囲がせまい証拠だ、ということになります。とすれば、 たくま 徳義のカの十分に行はれて毫も妨げなき場所は唯、家族のみ。戸外に出れば忽ち其の力を逞しふ ひながた すること能はざるが如し。然りと雖ども、人の説に、家族の交りは天下太平の雛形なりと云ふこ とあれば、数千万年の後には、世界中一家の如くなるの時節もあらん歟。且っ世の事物は、活動 ) 」う 274

2. 「文明論之概略」を読む 中

人の心の働きなり。一人の身に就てこれを見れば、固より其の働きに規則ある可からずと雖ども、 たと 其の国の事情に異変あるに非ざれば、罪人の数は毎年異なることなし。譬へば人を殺害する者の あらかじ いかり 如きは、多くは一時の怒に乗ずるものなれば、一人の身におて誰か預めこれを期し、来年の何月 かぞ フランス みず 何日に何人を殺さんと自から思慮する者あらんや。然るに仏蘭西全国にて人を殺したる罪人を計 ふるに、其の数、毎年同様なるのみならず、其の殺害に用ひたる器の種類までも、毎年異なるこ となし。尚これよりも不思議なるは、自殺する者なり。抑も自殺の事柄たるや、他より命ず可き あざむ に非ず、勧む可きに非ず、欺きてこれに導く可からず、劫してこれを強ゅ可からず。正に一心の 決する所に出るものなれば、其の数に規則あらんとは思ふ可からず。然るに、千八百四十六年よ ロンドン り五十年に至るまで、毎年竜動におて自殺する者の数、多きは二百六十六人、少なきは二百十三 さだ 人にして、平均二百四十人を定まりの数とせりと。以上「ボックル」氏の論なり。 ( 文七二ー七三頁、全五五ー五六頁 ) ヾックルの中に、ちょうどこれに当る文章があるのではなく、福沢は、「一般序説」の一七頁 明から二一頁 ( 福沢手沢本の頁数、以下同様 ) にかけて出てくるバックルの論述を、彼の言葉で要約 しているのです。 福沢がバックルから引いている例について、原文ではどうな「ているか、参考までに例示し てみますと、まず殺人について。 そもそ おびやか

3. 「文明論之概略」を読む 中

自由を得せしめず、却て人を無為無智に陥れて実の文明を害するが如きは、余輩の最も悦ばざる 所なり。 ( 文一四二頁、全一一三頁 ) これは、実質的にすでにのべたテーゼ ( 文一二八頁 ) のリフレインです。「世界中を籠絡せんと し」と、また「籠絡」というマイナス・シンポルが登場します。つづく「受身の私徳 : : : 」以 下も、もはや説明の要はないでしよう。ただ、そこで「私徳を脩むるも元と一身のためにする ものにて」云々とあるのは、つづいて「他人のために徳を脩むる者あらば、即ち是れ偽君子に て」と対照させているので、今日俗にいう「自分のため」「ひとのため」と意味が正反対なこと に注意して下さい これは、『論語』憲問篇の「古の学者は己れのためにす、今の学者は人のた めにす」という用法と同じで、「人のために」というのは「人に見せるために」という意味で す。だから偽君子を作ることになる。人が見ていようが見ていまいが、自分の良心のために 前に出た言葉をつかえばーー屋漏に恥じない行為をするというのが「己れのためにす」で す。ですから、福沢はここでは、明らかに論語の用法を踏襲しています。そうして福沢得意の、 人間の生き方を導き出します。 元来、人として此の世に生れ、僅かに一身の始末をすればとて、未だ人たるの職分を終れりとす かえっ 220

4. 「文明論之概略」を読む 中

たがってだんだん悪くなり、やがて多くのドイツ人が組むと戦争をおつばじめるようになる。 私もそれにならって、日本でこういう喩を作ったらどうなるか考えてみたことがあるのです が、どうもうまい言葉が出てきません。一応「一人の日本人は利ロである。二人の日本人は人 の噂をする」と、ここまで考えたのですが、三人目が出てこない。結局ドイツ人と同じく「戦 そ 争をする」に結着してしまう。これからはそうならなければい、 しと思いますけれども : れは冗談ですが、これがさきほどの「衆智者結合の変性」という問題です。 福沢はとくに欧米を幕末に見てまわってそのことを痛感したのですね。日本人というのは知 を作るの 的レベルが高い。にもかかわらず、自発的結社ーー彼のいう「仲間の申し合せ」 神がまずい。その自発的結社という結合タイプと対照的なのがムラ共同体です。 精 の ムラ共同体ですと、人がそのなかに生まれるもので、他人同士が集まってこれから何かしょ 議 衆うとする結合体ではないでしよう。自発的結社の習慣がないと、「衆議」の精神も生まれにく 造 これは日本だけでなく、あとの方でインドのカ 1 ストを例に出しているように、アジアに 構 論共通する問題と考えているのですが、日本の場合に即して現状をこうのべます。 衆 こと ひたすら 講 暴政府の風にて故さらに徒党を禁ずるの法を設けて人の集議を妨げ、人民も亦只管無事を欲する 第 の心よりして、徒党と集議との区別を弁論する気力もなく、唯政府に依頼して国事に関らず、百 ただ かかわ 123

5. 「文明論之概略」を読む 中

今又、この衆論のことに就て二箇条の弁論あり。即ち其の第一条の趣意は、衆論は必ずしも人の 数に由らず、智力の分量に由て強弱ありとのことなり。第二条の趣意は、人々に智力ありと雖ど も、習慣に由て之れを結合せざれば、衆論の体裁を成さずとのことなり。 ( 文八八ー八九頁、全六八頁 ) さて、福沢はこの章で二つのことを論じようと言う。 一つはいま述べたこと、すなわち衆論 は必ずしも人の数に由らず、智の総量だということ。もう一つは、智の総量といっても、それ は単なる算術的合計ではなく、人間相互の組み合せ方によって智力や議論の働き方がちがって くるということです。いわば積分的になるわけです。 精まず第一、多数における「質」の問題が論じられます。 の 議 衆 第一一人の論は二人の論に勝たず。三人の同説は二人を制す可し。其の人数愈よ多ければ、其 また・ いわる 造 の議論の力も亦愈よ強し。所謂、寡は衆に敵せざるものなり。然りと雖ども、此の議論の衆寡強 構 の 弱は、唯才智同等なる人物の間に行はるゝのみ。天下の人を一体に為して之れを見れば、其の議 論 衆 論の力は、人の数の多寡に由らずして、智徳の量の多寡に由て強弱あるものなり。 講 ( 文八九頁、全六八ー六九頁 ) 第 右の論はこれまでの説明で十分と思います。腕力の例を挙げて智徳の分賦をいろいろ比較し ただ たか

6. 「文明論之概略」を読む 中

えばまず家族の中で、せいぜい親戚とか、友達とかに、とどまります。「忠告に由て人を善に導 くの領分は甚だ狭し」。ところが、智恵はそうではない。 智恵は則ち然らず。一度び物理を発明してこれを人に告ぐれば、忽ち一国の人心を動かし、或は 其の発明の大なるに至りては、一人のカ、よく全世界の面を一変することあり。 ( 文一一三頁、全九〇頁 ) その例として、ジェイムズ・ワットの蒸気機関の発明と、アダム・スミスの経済学を挙げま す。ワットとスミスとを一緒に並べるというのは、今日からみるとおかしい気がしますが、福 ち の沢はよく並べて出してきます。ということは、スミスの『国富論』は、ニュートンの引力の法 行則とか、ワットの蒸気機関とかと同じように、経済の法則を発見したという意味で、画期的な 道出来事ととらえられたのです。これはそもそもバックルが同じ考えです。同時代のヨーロッ 動の知識人にとっても、社会関係に「法則」があるという発見は、自然法則の発見と同じくらい 的あるいはそれ以上に画期的事件と考えられたのです。 ワットにしろ、スミスにしろ、ひとたび法則が発見されて、それが人びとに伝えられると、 講 だれでもがそれを利用できます。法則それ自身が普遍的ですから、それを使う人の住居・人 種・文化・宗教の別にかかわらずその法則を利用できます。つまりそれについての「智」が言 たちま 159

7. 「文明論之概略」を読む 中

一国全体の気風 まえおきはそれくらいにして、まず冒頭の言葉は、 前章に、文明は人の智徳の進歩なりと云へり。 ( 文六七頁、全五一頁 ) ということです。前の章に「文明とは結局、人の智徳の進歩と云ふて可なり」とありました ( 文 五五頁 ) 。それを受けてこの章は始まります。では、その智徳の進歩とはどういう意味か、とい えば、個人個人の智徳ではないのだ、全国の智徳の進歩、一国における智徳の「分賦」の総量 なのだという、非常に重要な命題が次に出てきます。 論 方文明は一人の身に就て論ず可からず、全国の有様に就て見る可きものなり。 史 ( 文六七頁、全五一頁 ) 明 文 だから、非常に秀れた有智有徳の人が住んでいるからといって、その国は文明の国と言える 講 7 カル ) も、つ」そ、つよ、ゝ ( も力ない。ある少数の人は智徳が卓越しているかもしれないけれど、全体 を集めてみればあまり智徳の水準は高くないということもある。あくまでも全体において見な

8. 「文明論之概略」を読む 中

のことです。クラークソンが奴隷売買の廃止のために大いに奮闘した経緯が書かれています。 ( ワードについては、『教草』の巻の三「仁の事」の章の冒頭に出てきます。「ジョン・ホワル ドは英吉利の大家にして、生涯の間、人の難渋を救ふがために力を尽せしとて、名高き人なり」 云々と。多くの妨害と闘って刑務所の改良、囚人の待遇の改善をおこなった人です。 こういう人たちは、徳義の働きが広く深く多くの人びとに及んだではないかという反問です。 その設問に対して福沢は、クラークソンやハワードは、徳義の範囲を広げるために智恵を働 かせたのだ、という答を出します。放っておいたら徳義の及ぶところは直接的人間関係の範囲 がだから非常に限られてしまう。さきに出てきた「聡明叡智」の作用により道徳の影響力が拡大 ち のするというのが、ここで彼が主張したいことです。 為 じゅし 徳今爰に仁人ありて、孺子の井に入るを見て之れを救はんがために共に身を失ふも、「ジ = ン・ホワ ルド」が数万の人を救ふて遂に身を殺したるも、其の惻隠の心を比較すれば、孰か深浅の別ある 動 活可からず。 知 ( 文一一四頁、全九〇頁 ) 講 道徳という側面だけで見るのだ 0 たら、つまり「惻隠の情」だけで見るのだ「たら、 第 ドがやった気持と、子どもが井戸におちそうになるのを見てこれを救おうとする気持との間に いずれ 161

9. 「文明論之概略」を読む 中

人の精神の発達するは、限りあることなし、造化の仕掛には定則あらざるはなし。無限の精神を しつかい 以て有定の理を窮め、遂には有形無形の別なく、天地間の事物を悉皆人の精神の内に包羅して洩 さかい らすものなきに至る可し。此の一段に至りては、何ぞ又区々の智徳を弁じて、其の界を争ふに足 あたか らん。恰も人天並立の有様なり。天下後世、必ず其の日ある可し。 ( 文一四三頁、全一一四頁 ) いままで智徳の区別をいろいろ論じてきたけれども、これは現在の文明の段階での話だ。人 間の精神が限りなく進歩していけば、もはや智徳の区別を言うこと自体が無意味にな「てしま うだろう、というのです。「人天並立」というのは、人文・社会と自然とのいわば平和共存状態 ートビアの世界です。福沢がいかに啓蒙主義的な進歩を信じていたカが です。これはもうュ 「天下後世、必ず其の日ある可し」の一句でよく分ります。 ツ。ハにおいても、無残にくず この十八・十九世紀の進歩観というものが、その発祥地ヨーロ れてしまうのが、二十世紀の全体主義の出現でした。ナチの暴虐と、狂信と、目をそむけさせ るユダヤ人の大量殺戮は、はたして智恵が発達しなか 0 たためにおこ 0 たのか。同じことはス ターリニズムについても言えますが、ソ連の場合は、革命以前のロシアの後進性をひきついだ ツ。ハでもっ A 」 面もあります。けれどもドイツは、自他ともに許すところ、十九世紀以来ョ 1 ロ きわ 222

10. 「文明論之概略」を読む 中

おいても変らない。やかましい理屈をいえば、たとえば五倫のなかの「君臣義あり」などは今 はほとんど意味がなくなってしまったから、不変とはいえないのですが、徳目が古代に出つく してしまったという意味では、五倫にしろ、十戒にしろ、山上の垂訓にしろ、同じことです。 「是れ即ち耶蘇・孔子の後に聖人なき所以なり」も、なるほどと思わせる表現です。しかも根 本徳目の数はいくらもなく、内容もキリスト教にせよ、イスラム教にせよ、儒教にせよ、東西 を問わず共通しているものが多い。しかし、智恵はそうではない。 智恵は則ち然らず。古人一を知れば、今人は百を知り、古人の恐る、所のものは、今人は之れを 侮り、古人の怪む所のものは、今人は之れを笑ひ、智恵の箇条の日に増加して其の発明の多きは、 古来枚挙に遑あらず、今後の進歩も亦、測る可からず。 ( 文一一七頁、全九二ー九三頁 ) 知性の活動には進歩と同時に蓄積があるわけです。人は前人の到達した地点に立ってそこか ら先に進む。後代の人はまた前代の蓄積の上に立ってその先を進んでいく。 このあたりも、福沢の比喩に注目して読んでください。古の聖人を蒸気船に乗せたり、電信 でニュースを聞かせたりしたら、さぞ「落胆」するだろう、つまり胆をつぶしてしまうだろう。 だから、知性が到達したものを規準として比較すれば、古の聖人は今の三歳の子どもみたいな こんじん 168