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検索対象: 「文明論之概略」を読む 中
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1. 「文明論之概略」を読む 中

な立派な仕事をする。つまり、組織のアウトブット が大きい。ところが、日本人を含めて東洋 人は、集まると、一人一人の智恵がある割合に、組織としてはうまくい力ない このことは、福沢が痛感していたとみえて、たとえば『学問のすゝめ』第四編の中でも述べ ています。「これを散ずれば明なり、これを集むれば暗なり」と。 ハラバラにすると利ロだけれ ども、集まると暗愚になってしまう。ですから、福沢は、人の集合体の力は、その一人一人の 智力やエネルギーの総和ではないのだ、という、非常に面白い、社会学的な命題をここで出し ているわけです。同時に、その観点から西洋人と日本人を比較して、無念の思いをしている。 ところで、福沢は西洋人と日本人あるいは東洋人を比較しているのですが、有名な諺ですけ れども、ヨーロ " ハの中でも同じような比較が伝えられています。「一人のイギリス人は鈍 である。二人のイギリス人はスポーツをする。三人のイギリス人は大英帝国を作る」と。この ごろはその大英帝国もだいぶ怪しくなってきましたが、要するにイギリス人は一人一人は愚鈍 だけれども、アソシェ ションをつくると、組み合せがうまくて、大事業をするというわけで す。それと対照的な例としてドイツが出される。「一人のドイツ人は詩人であり、思想家であ る。二人のドイツ人は俗物である。三人のドイツ人は戦争する」というのです。たしかにドイ ツ人は一人一人はたいへん文化的レヴェルが高い。それが二人になると俗物に化する。ニ 1 チ 工に「教養ある俗物」という有名な言葉がありますが、孤立していると立派だが、集まるにし 122

2. 「文明論之概略」を読む 中

に集中している観がある。それにしては政府のやることがまずいじゃないかというわけです。 いわゆる 「所謂衆智者結合の変性」という言葉で表現していますね。この言葉は、彼自身が作り出した ものなのか、「所謂」といっており、また表現からいっても翻訳語臭いのですが、今の私には何 からとったのか分りません。ともかく、多くの者が集まると性質がちが「てくるという、 の化学的変化の法則をここで福沢は考えているのです。 もちまえ 概して云 ~ ば、日本の人は仲間を結びて事を行ふに当り、其の人々持前の智力に比して不似合な る拙を尽す者なり。 ( 文一〇〇頁、全七八頁 ) 神 精 の これは、少しあとの西洋人と東洋人との比較につながっていきます。 議 衆 造西洋の人は、智恵に不似合なる銘説を唱へて、不似合なる巧を行ふ者なり。東洋の人は、智恵に せつ の不似合なる愚説を吐きて、不似合なる拙を尽す者なり。 衆 ( 文一〇一頁、全七九頁 ) 講 西洋人は、一人一人をみるとたいした智力をも「た人物ではない。 ところが、組織を作るの 第 がうまい。人の組み合せ方が巧みである。そこで、集まれば、一人一人の智恵に比して不似合 こう 121

3. 「文明論之概略」を読む 中

ければならない。 この命題は、私たちの読書会では、はじめにわざととばしたのですが、実は 「緒言」の冒頭に出てくる一節と同じなのです。そこでは「文明論とは人の精神発達の議論な り。其の趣意は一人の精神発達を論ずるに非ず、天下衆人の精神発達を一体に集めて、其の一 体の発達を論ずるものなり」とあります。 これがそもそもバックルから得た考え方です。バックルの言葉で言えば、 aggregate ( 集合 体 ) です。個人のことではなくて集合体で論ずる。そうなってはじめてスタティスティックの 方法、統計的な方法を適用して一般法則を抽出できる。このスタティスティックについては、 このあとで出てくるのですが、ここはその伏線となっているわけです。 アジアを 個々人ではなくて全体のレヴェルが問題なのだ。したがって、西洋を文明といも 半開といったとしても、一人一人をとれば、アジア諸国にもたいへんすぐれた人もいるし、ま た西洋諸国にも愚鈍な連中もたくさんいる、と言う。このことは、あとに出てくる重要な問題 組織を作るという問題に関係してきます。西洋では、一人一人をとったら智恵もたいした ことはないが、すぐれているのは組織を作るからだという論です。 西洋においては、「至愚の民」っまりバカなことをする者もいろいろいるけれども、「其の愚 を逞しふすること能はず」。賢者によって牽制されて勝手なことができないようになっている。 逆にアジアにおいては非常に秀れた人がいても、「其の智徳を逞しふすること」ができない。そ

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「仁」にたいする批判があり、もう一つ、積極的には、前述しましたように、自主独立、ある いは中村正直訳の『西国立志篇』 ( 明治四年 ) で有名にな 0 た・スマイルスの「自助」の精神が 強く、人に依存心を起させることは何によらずよくないという考え方、また人の世話になるの は恥だ、という考え方が根底にあります。 昨日も、あるフランス人と話していたのですが、その人は、日本人はどうも人に頼り、人の 好意にすがるのをあまり恥と思わないようだ、という意味のことを話のついでに言っていまし た。よほどそういう態度が目についたのでしよう。「何とかを励ます会」などというのがやた らにあるのも、その一つのあらわれかもしれません。その意味では維新の時代の考え方の方が むしろ日本人離れしている、とさえいえるでしよう。 慈善は、仁政主義的にいうと、人に善を施すことですから、結構ずくめのはずです。ところ が、それには限界があり、下手をすると、かえって施主が怨まれるようなこともある。これも やはり徳義が及ぶ社会的範囲がせまい証拠だ、ということになります。とすれば、 たくま 徳義のカの十分に行はれて毫も妨げなき場所は唯、家族のみ。戸外に出れば忽ち其の力を逞しふ ひながた すること能はざるが如し。然りと雖ども、人の説に、家族の交りは天下太平の雛形なりと云ふこ とあれば、数千万年の後には、世界中一家の如くなるの時節もあらん歟。且っ世の事物は、活動 ) 」う 274

5. 「文明論之概略」を読む 中

第二人の議論は集まりて趣を変ずることあり。 ( 文九九頁、全七七頁 ) これまでのべた第一は、衆論の力は、ただ個々人の数の大小によるのではなくて、構成員の 智愚の分賦の仕方によって強弱がちがってくるということでした。こんどは、人の議論が集ま ったときは、そのなかに智愚いろいろあっても、集まり方によって性質がちがってくるという ことを言います。この議論はたいへん面白い議論ですが、福沢が誰か思想家の論を下敷にして、 これを展開しているのかどうかはよく分りません。ただ、日本人の長い間の習慣というものを ノ 神出して、それとの対比において西洋人の衆議と比較しています。ですから、こういう議論 精 の ックルにはない。おそらく以下の段は福沢が自分で考え出したものだろうと思います。 議 衆臆病者でも三人集まれば臆病でなくなることがある。この場合、「勇気」というのは、一人一 造人の勇気の合計ではなくて、「三人の間に生ずる勇気」なのだ、という。つまり関係が問題なの の だ、という面白い説です。だからこれを組織論としていえば、構成員の智力の組み合せ方によ 論 衆 って、その組織の智的なアウトブット ( 出力 ) はちがってくるということになります。 講 第 人の智カ議論は、猶化学の定則に従ふ物品の如し。曹達と塩酸とを各よ別に離せば、何れも劇烈 なお おもむき おのおの 119

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人の心の働きなり。一人の身に就てこれを見れば、固より其の働きに規則ある可からずと雖ども、 たと 其の国の事情に異変あるに非ざれば、罪人の数は毎年異なることなし。譬へば人を殺害する者の あらかじ いかり 如きは、多くは一時の怒に乗ずるものなれば、一人の身におて誰か預めこれを期し、来年の何月 かぞ フランス みず 何日に何人を殺さんと自から思慮する者あらんや。然るに仏蘭西全国にて人を殺したる罪人を計 ふるに、其の数、毎年同様なるのみならず、其の殺害に用ひたる器の種類までも、毎年異なるこ となし。尚これよりも不思議なるは、自殺する者なり。抑も自殺の事柄たるや、他より命ず可き あざむ に非ず、勧む可きに非ず、欺きてこれに導く可からず、劫してこれを強ゅ可からず。正に一心の 決する所に出るものなれば、其の数に規則あらんとは思ふ可からず。然るに、千八百四十六年よ ロンドン り五十年に至るまで、毎年竜動におて自殺する者の数、多きは二百六十六人、少なきは二百十三 さだ 人にして、平均二百四十人を定まりの数とせりと。以上「ボックル」氏の論なり。 ( 文七二ー七三頁、全五五ー五六頁 ) ヾックルの中に、ちょうどこれに当る文章があるのではなく、福沢は、「一般序説」の一七頁 明から二一頁 ( 福沢手沢本の頁数、以下同様 ) にかけて出てくるバックルの論述を、彼の言葉で要約 しているのです。 福沢がバックルから引いている例について、原文ではどうな「ているか、参考までに例示し てみますと、まず殺人について。 そもそ おびやか

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自由を得せしめず、却て人を無為無智に陥れて実の文明を害するが如きは、余輩の最も悦ばざる 所なり。 ( 文一四二頁、全一一三頁 ) これは、実質的にすでにのべたテーゼ ( 文一二八頁 ) のリフレインです。「世界中を籠絡せんと し」と、また「籠絡」というマイナス・シンポルが登場します。つづく「受身の私徳 : : : 」以 下も、もはや説明の要はないでしよう。ただ、そこで「私徳を脩むるも元と一身のためにする ものにて」云々とあるのは、つづいて「他人のために徳を脩むる者あらば、即ち是れ偽君子に て」と対照させているので、今日俗にいう「自分のため」「ひとのため」と意味が正反対なこと に注意して下さい これは、『論語』憲問篇の「古の学者は己れのためにす、今の学者は人のた めにす」という用法と同じで、「人のために」というのは「人に見せるために」という意味で す。だから偽君子を作ることになる。人が見ていようが見ていまいが、自分の良心のために 前に出た言葉をつかえばーー屋漏に恥じない行為をするというのが「己れのためにす」で す。ですから、福沢はここでは、明らかに論語の用法を踏襲しています。そうして福沢得意の、 人間の生き方を導き出します。 元来、人として此の世に生れ、僅かに一身の始末をすればとて、未だ人たるの職分を終れりとす かえっ 220

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たがってだんだん悪くなり、やがて多くのドイツ人が組むと戦争をおつばじめるようになる。 私もそれにならって、日本でこういう喩を作ったらどうなるか考えてみたことがあるのです が、どうもうまい言葉が出てきません。一応「一人の日本人は利ロである。二人の日本人は人 の噂をする」と、ここまで考えたのですが、三人目が出てこない。結局ドイツ人と同じく「戦 そ 争をする」に結着してしまう。これからはそうならなければい、 しと思いますけれども : れは冗談ですが、これがさきほどの「衆智者結合の変性」という問題です。 福沢はとくに欧米を幕末に見てまわってそのことを痛感したのですね。日本人というのは知 を作るの 的レベルが高い。にもかかわらず、自発的結社ーー彼のいう「仲間の申し合せ」 神がまずい。その自発的結社という結合タイプと対照的なのがムラ共同体です。 精 の ムラ共同体ですと、人がそのなかに生まれるもので、他人同士が集まってこれから何かしょ 議 衆うとする結合体ではないでしよう。自発的結社の習慣がないと、「衆議」の精神も生まれにく 造 これは日本だけでなく、あとの方でインドのカ 1 ストを例に出しているように、アジアに 構 論共通する問題と考えているのですが、日本の場合に即して現状をこうのべます。 衆 こと ひたすら 講 暴政府の風にて故さらに徒党を禁ずるの法を設けて人の集議を妨げ、人民も亦只管無事を欲する 第 の心よりして、徒党と集議との区別を弁論する気力もなく、唯政府に依頼して国事に関らず、百 ただ かかわ 123

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今又、この衆論のことに就て二箇条の弁論あり。即ち其の第一条の趣意は、衆論は必ずしも人の 数に由らず、智力の分量に由て強弱ありとのことなり。第二条の趣意は、人々に智力ありと雖ど も、習慣に由て之れを結合せざれば、衆論の体裁を成さずとのことなり。 ( 文八八ー八九頁、全六八頁 ) さて、福沢はこの章で二つのことを論じようと言う。 一つはいま述べたこと、すなわち衆論 は必ずしも人の数に由らず、智の総量だということ。もう一つは、智の総量といっても、それ は単なる算術的合計ではなく、人間相互の組み合せ方によって智力や議論の働き方がちがって くるということです。いわば積分的になるわけです。 精まず第一、多数における「質」の問題が論じられます。 の 議 衆 第一一人の論は二人の論に勝たず。三人の同説は二人を制す可し。其の人数愈よ多ければ、其 また・ いわる 造 の議論の力も亦愈よ強し。所謂、寡は衆に敵せざるものなり。然りと雖ども、此の議論の衆寡強 構 の 弱は、唯才智同等なる人物の間に行はるゝのみ。天下の人を一体に為して之れを見れば、其の議 論 衆 論の力は、人の数の多寡に由らずして、智徳の量の多寡に由て強弱あるものなり。 講 ( 文八九頁、全六八ー六九頁 ) 第 右の論はこれまでの説明で十分と思います。腕力の例を挙げて智徳の分賦をいろいろ比較し ただ たか

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えばまず家族の中で、せいぜい親戚とか、友達とかに、とどまります。「忠告に由て人を善に導 くの領分は甚だ狭し」。ところが、智恵はそうではない。 智恵は則ち然らず。一度び物理を発明してこれを人に告ぐれば、忽ち一国の人心を動かし、或は 其の発明の大なるに至りては、一人のカ、よく全世界の面を一変することあり。 ( 文一一三頁、全九〇頁 ) その例として、ジェイムズ・ワットの蒸気機関の発明と、アダム・スミスの経済学を挙げま す。ワットとスミスとを一緒に並べるというのは、今日からみるとおかしい気がしますが、福 ち の沢はよく並べて出してきます。ということは、スミスの『国富論』は、ニュートンの引力の法 行則とか、ワットの蒸気機関とかと同じように、経済の法則を発見したという意味で、画期的な 道出来事ととらえられたのです。これはそもそもバックルが同じ考えです。同時代のヨーロッ 動の知識人にとっても、社会関係に「法則」があるという発見は、自然法則の発見と同じくらい 的あるいはそれ以上に画期的事件と考えられたのです。 ワットにしろ、スミスにしろ、ひとたび法則が発見されて、それが人びとに伝えられると、 講 だれでもがそれを利用できます。法則それ自身が普遍的ですから、それを使う人の住居・人 種・文化・宗教の別にかかわらずその法則を利用できます。つまりそれについての「智」が言 たちま 159