朗読文六七頁一行ー七一頁九行全五一頁一行ー五四頁一三行 伝統的史観への批判 ここで巻之一を終え、巻之二の第四章と第五章に入るわけですが、第五章は「前論の続」で すから、四、五章ともタイトルは「一国人民の智徳を論ず」になります。広い意味ではたしか 論に一国人民の智徳を論じているにはちがいないのですが、第六章「智徳の弁」における智と徳 方との区別とその意味ということも、やはり広い意味で一国人民の智徳を論じているので、この 史 三つの章はいずれも智徳論です。そうして他方において、第五章の初めの方は、たしかに第四 明 文 章につづく「衆論」の構造分析ですが、後半は同じく衆論とい「ても、むしろディスカッショ ンの必要と、それに基づく組織論という新しいテ 1 マで、必ずしも「前論の続き」とだけはい 第 と思います。 えません。福沢の付けた表題にはあまり捉われない方がよい 第七講文明史の方法論 ーー第四章「一国人民の智徳を論ず」一
〈凡例〉 『文明論之概略』全篇を新書版で上中下の三巻に分け、上巻 には、巻之一の第一、第二、第三章の講読を収めた。中巻に 、巻之二の第四、第五章、巻之三の第六章、巻之四の第七 章を宛て、巻之四の第八章以下巻之六第十章まで、および緒 言を下巻に収めた。 『文明論之概略』のテキストの頁数を記す場合、岩波文庫版 ( 青一〇二ー一 ) は「文」、全集版 ( 福沢論吉全集第四巻 ) は 「衂」と略記した。 ③『文明論之概略』をはじめ、福沢の著作からの引用は、原則 として新字体に改め、適宜、句読点、送りがなを補い、ルビ を付した。ただし『学問のす、め』は、岩波文庫現行版の表 記にしたがった。
上巻 まえがき 序古典からどう学ぶか 開講の辞にかえて 第一講幕末維新の知識人 ーー福沢の世代・ーー 第二講何のために論ずるのか ーーー第一章「議論の本位を定る事」 第三講西洋文明の進歩とは何か 第二章「西洋の文明を目的とする事」一 第四講自由は多事争論の間に生ず 第二章「西洋の文明を目的とする事」二 第五講国体・政統・血統 第二章「西洋の文明を目的とする事」三 第六講文明と政治体制 第三章「文明の本旨を論ず」
第七講文明史の方法論 ーー第四章「一国人民の智徳を論ず」一 第八講歴史を動かすもの ーーー第四章「一国人民の智徳を論ず」二 第九講衆論の構造と衆議の精神 ーー第五章「前論の続」 第十講知的活動と道徳行為とのちがい ーー第六章「智徳の弁」一 リ 7
次 第十一講徳育の過信と宗教的狂熱について・ ーー第六章「智徳の弁」二 第十二講畏怖からの自由 第七章「智徳の行はる可き時代と場所とを論ず」一 第十三講どこで規則 ( ルール ) が必要になるか 第七章「智徳の行はる可き時代と場所とを論ず」一一 263 181 227 111
朗読文一四五頁一行ー一五一頁一行全一一五頁一行ー一一九頁一七行 予見の必要性 はじめに、この第七章全体の文脈の構造を申しておきます。 冒頭の「事物の得失便不便」云々から次のまた次の段の「以て此の一章を終る可し」 ( 文一四六 由 頁最終行 ) までが、この章全体の序論です。そのあと、まず時代のちがいの問題をのべ、それか ・目 つまり全章 のちがいの問題 ( 文一五六頁以下 ) を論じていく。 らら場所、ーーシチエー 怖が大きく時代論と場所論の二つに分れます。場所・領域のちがいの問題は次講にゆずります。 前半の時代論については、それをまた「野蛮を去ること遠からざる時代」と「人文慚く開化」 講 した時代とに分けて、開化していないときのものの考え方、思考様式はどうであるか、それが、 7 第 いく。かっては徳の領域だ。たものが知の領域に移行し 文明の世になるとどうなるかを述べて 第十二講畏怖からの自由 第七章「智徳の行はる可き時代と場所とを論す」一
朗読文八八頁一二行ー九一頁三行全六八頁一〇行ー七〇頁九行 衆論の構造 神智と徳との関係という問題は、バックルに拠。て次の第六章で論じますが、この第五章の の「前論の続」というところは、福沢が自分で考えた議論と、同時代史としての維新論によって 議 。ゝヾックルをいかによく自家薬籠中のものにしている力とい 衆大部分が占められています。福沢カノ 造 うことが、この章でもよく分かるはずです。 構 の 前講からつづいている衆論と文明の関係を分りやすくするために、便宜上こういう図 ( 次頁 ) 論 衆 を描いてみます。 講 << ・は、それぞれある国の文明と考えてもいいし、また一つの国のある時代の文明を表わ 第 しているとみてもいいのですが、大小さまざまなマルで表わしたように智徳が分賦していて、 第九講衆論の構造と衆議の精神 ーー第五章「前論の続」
第四と第五の両章で智徳を論じている仕方に、かりに実質的な題をつけるとすれば「社会の 法則と文明史の方法を論ず」ということになるでしようね。つまり、歴史をどうやってつかま えていくかということです。いや、歴史をつかまえるという言い方はちょっと広すぎます。 『概略』の全部が歴史をつかまえているにはちがいないのですから : むしろここで直接に 扱うのは、歴史へ接近していく伝統的思考法への批判です。従来の歴史へのアプローチの仕方 にはどういう問題があったか、というところからして、伝統的歴史方法論への批判がこの二つ の章で展開されるのです。そのあと、こんどは歴史の中で智と徳とがそれぞれどういう役割を 占めているかという問題が、あらためて第六章「智徳の弁」で論じられる こ、つい、つ構成に なっているのです。 そこで、この第四と第五の二つの章は、歴史の方法論が論じられているという意味では非常 に重要です。方法論とい「ても、アカデミックな、大学の歴史学科でやるような抽象的な歴史 学方法論ではなくて、きわめて具体的な歴史的事例に即しながら、当時の状況の中で、従来支 配的であった史観を批判していくのです。 福沢が批判の対象としている伝統的史観とは何か。先取りして言うならば、一つは英雄史観、 あるいは治者史観といってもいいのですが、つまり、個々の英雄、個々の治者が歴史を動かし ているという見方です。
「文明論之概略」【を読む中 福沢諭吉の最高の思想的作品『文明論之概略』を、岩波文 庫本をテキストに丸山真男氏とともに読む。この中巻では、 第四章から第七章までがあっかわれ、智と徳の社会的な在 り方がテーマとなる。政教一致のイデオロキーや徳育中心 主義の盲点を明らかにすることを通して、福沢の時代認識 と問題意識とが鮮烈に浮び上ってくる ( 全三冊 ) 。
が、次章、すなわち第七章の問題になります。 この第六章ではまた、バックルに大きく触発されたテーゼが出てきます。たたし、それだけ 、現実の日本の支配的な考え方を痛切に意識しています。日本では、道徳主義といいますか、 社会問題の全てを道徳の問題にしていく考え方が非常につよい。ですから、智と徳とを区別す る議論の中で、至るところで「べつに徳を軽視しているわけではないから、誤解しないでくれ」 とくり返し断わっております。 もっともこの場合、誤解をとくというのには二つの意味があります。一つは、智と徳とを区 別するけれども、それは、、 もま申しましたように、智に対して徳の方が低いといって道徳を軽 くみるわけではない、 という弁解をする。もう一つは、ヨリ積極的に、智の働きが大事である とい、つ場〈口に、 いものだ、だが、 ここでいう聡明叡知の働きはそれ自体「大徳」といっても、 世間一般の伝統的な道徳の定義とはちがっているから、混同を避けるためにわざわざそれを智 というのだという弁解です。 全体の論調の中に至るところで、このような弁解が入ってくる。その当時におけるものの考 え方、支配的な流通観念がいつも彼の念頭にあるのです。そのことを前提においておきません いったいなぜこんなにくどくど言わねばならぬかが分らなくなります。たとえば、すこし 先の段になりますが、