西洋人 - みる会図書館


検索対象: 「文明論之概略」を読む 中
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1. 「文明論之概略」を読む 中

に集中している観がある。それにしては政府のやることがまずいじゃないかというわけです。 いわゆる 「所謂衆智者結合の変性」という言葉で表現していますね。この言葉は、彼自身が作り出した ものなのか、「所謂」といっており、また表現からいっても翻訳語臭いのですが、今の私には何 からとったのか分りません。ともかく、多くの者が集まると性質がちが「てくるという、 の化学的変化の法則をここで福沢は考えているのです。 もちまえ 概して云 ~ ば、日本の人は仲間を結びて事を行ふに当り、其の人々持前の智力に比して不似合な る拙を尽す者なり。 ( 文一〇〇頁、全七八頁 ) 神 精 の これは、少しあとの西洋人と東洋人との比較につながっていきます。 議 衆 造西洋の人は、智恵に不似合なる銘説を唱へて、不似合なる巧を行ふ者なり。東洋の人は、智恵に せつ の不似合なる愚説を吐きて、不似合なる拙を尽す者なり。 衆 ( 文一〇一頁、全七九頁 ) 講 西洋人は、一人一人をみるとたいした智力をも「た人物ではない。 ところが、組織を作るの 第 がうまい。人の組み合せ方が巧みである。そこで、集まれば、一人一人の智恵に比して不似合 こう 121

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この「仲間の申合せ」が、政治の場にあらわれると、議会政治になる。議会政治というもの が、とくにそれとして独立にあったわけではない。「仲間の申合せ」の社会的習慣から、そうい う政治形態が出てくる。商売も同じ。「仲間の組合にてコンペニなるものあり」。さきほど申し たように、カン。ハニーの意味は、人が何かの目的で集まることで、学会などもみなカン。ハニ 1 に入るわけです。西洋諸国では「学者にも仲間あり、寺にも仲間あり。僻遠の村落に至るまで も、小民各よ仲間を結びて公私の事務を相談するの風なり」というのは、外遊した折の福沢の 実際の見聞でしよう。 ただし、大事なことはこのカン。 ( ニーにおいて、「此の説と彼の説と相合して少しく趣を変 しくら集めても何に じ」化学的変化をおこすのですから、みな同じことを言 0 ているのでは、、 もならない。ちがった考え方が集まって組み合される。そうすると化学的変化がおこって出力 が大きくなる。これは自発的集団結成の一つの根本原則ですね。ここに西洋と東洋との集団結 合の対比が生まれる。 概して云へば、西洋諸国に行はる、衆論は、其の国人各個の才智よりも更に高尚にして、其の人 は人物に不似合なる説を唱へ、不似合なる事を行ふ者と云ふ可し。 ( 文一〇一頁、全七八頁 ) 126

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な立派な仕事をする。つまり、組織のアウトブット が大きい。ところが、日本人を含めて東洋 人は、集まると、一人一人の智恵がある割合に、組織としてはうまくい力ない このことは、福沢が痛感していたとみえて、たとえば『学問のすゝめ』第四編の中でも述べ ています。「これを散ずれば明なり、これを集むれば暗なり」と。 ハラバラにすると利ロだけれ ども、集まると暗愚になってしまう。ですから、福沢は、人の集合体の力は、その一人一人の 智力やエネルギーの総和ではないのだ、という、非常に面白い、社会学的な命題をここで出し ているわけです。同時に、その観点から西洋人と日本人を比較して、無念の思いをしている。 ところで、福沢は西洋人と日本人あるいは東洋人を比較しているのですが、有名な諺ですけ れども、ヨーロ " ハの中でも同じような比較が伝えられています。「一人のイギリス人は鈍 である。二人のイギリス人はスポーツをする。三人のイギリス人は大英帝国を作る」と。この ごろはその大英帝国もだいぶ怪しくなってきましたが、要するにイギリス人は一人一人は愚鈍 だけれども、アソシェ ションをつくると、組み合せがうまくて、大事業をするというわけで す。それと対照的な例としてドイツが出される。「一人のドイツ人は詩人であり、思想家であ る。二人のドイツ人は俗物である。三人のドイツ人は戦争する」というのです。たしかにドイ ツ人は一人一人はたいへん文化的レヴェルが高い。それが二人になると俗物に化する。ニ 1 チ 工に「教養ある俗物」という有名な言葉がありますが、孤立していると立派だが、集まるにし 122

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といっても「高尚にして有力なる人物の唱へたるが故のみを以て、議論の盛んなるに非ず。 おのす 此の議論に雷同する仲間の組合せ宜しきを得て、仲間一般の内におて、自から議論の勇気を生 じたるものなり」といっているように、福沢はけっして西洋を観念的に理想化していません。 前にのべた、少数の智者に多数の愚者が「雷同する」という考え方が、ちゃんとここに生きて います。 要するに西洋の「衆論」では、いわば量が質に転化してレヴ = ルが上る。東洋ではちょうど それと逆だと福沢は言うのです。どうしてそうなってしまうのかと言えば、それは、もつばら 習慣による、という考えです。そして、習慣の養成がこれからあとのテ 1 マになっていきま 精 の 議 衆衆議の習慣 造習慣を変えなければならない。「合議」の習慣を人民の間に作らなければならない。そのた 論めに、福沢は明治七年ごろに『会議弁』という文章をわざわざ著して、そこでは、ディスカッ ションのルール、つまり議長 ( 会頭 ) や書記 ( 書役 ) をどう決めるかとか、修正案を提出したいと 講 9 きはどうするかとか、細かい手続きを書いたのです。このときセカンドを「賛成」と翻訳する ことを知らないで困惑したと後年、彼自ら回想しております。明六社を結成したのも、自発的 127

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対比させながら、ここでは、前からひきつづいた議論を受けて、日本と西洋との取引の対比を 心情的動機にもとづくモラリズムから説明することをハッキリと拒否します。 おもむき 此の趣を見れば、日本人は不正にして、ー西洋人は正しきが如し。されども、よく其の事情を詳か にすれば、西洋人の心の誠実にして、日本人の心の不誠実なるに非ず。西洋人は商売を広くして さしつかえ 永遠の大利を得んと欲する者にて、取引を誠実にせざれば、後日の差支と為りて、己が利潤の路 ふさ を塞ぐの恐れあるが故に、止むを得ずして不正を働かざるのみ。心の中より出たる誠実に非ず、 勘定づくの誠なり。言葉を替へて云へば、日本人は欲の小なる者にて、西洋人は欲の大なる者な り。されども今、西洋人の誠は欲のための誠なれば賤む可しとて、日本人の丸出しの不正を学ぶ の理なし。欲のためにも、利のためにも、誠実を尽して商売の規則を守らざる可からず。此の規 則を守ればこそ、商売も行はれて、文明の進歩を助く可きなり。今の人間世界にて、家族と親友 しつかい とを除くの外は、政府も会社も商売も貸借も、事々物々、悉皆規則に依らざるものなし。規則の 形、或は賤しむ可きものありと雖ども、之れを無規則の禍に比すれば、其の得失、同年の論に非 ざるなり。 ( 文一六六頁、全一三二頁 ) 西洋人は、ロングレンジに考えて利益を得ようとする。そこから、信用を確立することが商 つまびら 292

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上巻 まえがき 序古典からどう学ぶか 開講の辞にかえて 第一講幕末維新の知識人 ーー福沢の世代・ーー 第二講何のために論ずるのか ーーー第一章「議論の本位を定る事」 第三講西洋文明の進歩とは何か 第二章「西洋の文明を目的とする事」一 第四講自由は多事争論の間に生ず 第二章「西洋の文明を目的とする事」二 第五講国体・政統・血統 第二章「西洋の文明を目的とする事」三 第六講文明と政治体制 第三章「文明の本旨を論ず」

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ければならない。 この命題は、私たちの読書会では、はじめにわざととばしたのですが、実は 「緒言」の冒頭に出てくる一節と同じなのです。そこでは「文明論とは人の精神発達の議論な り。其の趣意は一人の精神発達を論ずるに非ず、天下衆人の精神発達を一体に集めて、其の一 体の発達を論ずるものなり」とあります。 これがそもそもバックルから得た考え方です。バックルの言葉で言えば、 aggregate ( 集合 体 ) です。個人のことではなくて集合体で論ずる。そうなってはじめてスタティスティックの 方法、統計的な方法を適用して一般法則を抽出できる。このスタティスティックについては、 このあとで出てくるのですが、ここはその伏線となっているわけです。 アジアを 個々人ではなくて全体のレヴェルが問題なのだ。したがって、西洋を文明といも 半開といったとしても、一人一人をとれば、アジア諸国にもたいへんすぐれた人もいるし、ま た西洋諸国にも愚鈍な連中もたくさんいる、と言う。このことは、あとに出てくる重要な問題 組織を作るという問題に関係してきます。西洋では、一人一人をとったら智恵もたいした ことはないが、すぐれているのは組織を作るからだという論です。 西洋においては、「至愚の民」っまりバカなことをする者もいろいろいるけれども、「其の愚 を逞しふすること能はず」。賢者によって牽制されて勝手なことができないようになっている。 逆にアジアにおいては非常に秀れた人がいても、「其の智徳を逞しふすること」ができない。そ

8. 「文明論之概略」を読む 中

んど人民主権論に近く、福沢がこれを言った当時の現実からは、非常にかけはなれています。 だから福沢自身も、この現実離れを意識していて、もし儒者がこの様子を見たら、「冠履転 倒」、つまり冠と草履が逆さになった、とんでもない世の中に見えるだろうけれど、しかし、そ ういう社会にもそれなりに秩序があり条理があるのであり、しかも今の世界は好むと否とにか かわらず、この方向に向っている。こういう文明の不可避の傾向のなかで一国の独立をはかる ほかはないと強調するのです。 る 「冠履転倒、上下の名分、地を払ふ」ということは、幕末当時の儒者たちが西洋夷狄の社会 についていだいた、ステレオタイプ化されたイメージです。たとえば大橋訥庵の『闢邪小一言』 要 佖を読んでみるとよく分かります。西洋社会というのは、まさに禽獣の社会なのだ、洋学者など 、じゃないかなどというけれども、それは犬 は、西洋と闘うために西洋のいい所は学んだらいも とたたかうためには、われわれもまた、噛むことを犬から学ばなければならぬというようなも = 一口にたいして、ちょ、つど のだ、と言「ています。橋本左内ら開明派の西洋文明の使い分け摂取論 , で こ福沢と正反対の立場から同じく採長補短説を批判しているのです。 福沢が思想家としてすぐれていると思う点の一つは、その想像力の豊かさです。ゲゼルシャ 講 フトの社会は、今までの社会の常識からみたら驚くべき無道徳、無秩序の社会に見えるという 第 感覚ーー福沢と正反対の立場の徳教主義者から見た世界像をちゃんと共有することができ、な 287

9. 「文明論之概略」を読む 中

第 12 講畏怖からの自由 しいところだ、と外在的に批判するこ 議論が必要になる。これを啓蒙主義のオプテイミズムも、 とは容易です。けれども、ここで忘れてならないもう一つの文脈は、徳治主義から脱却する段 階を福沢が論じ、いまはその過程にあることを指摘することによって、日本と西洋との文明の 差は、外見ほどには巨大でなく、質的な優劣の問題でもないことを強調する点にあります。こ の徳と智がふたたび合流した、いわば否定の否定としての徳義が支配する世界から見たら、日 日本だってすでにある程度文明化し、ある程度知性 本と西洋の差などはたいしたことはない、 、ヾックルをはじめヴィ が高度化しているので、数歩遅れているだけだ、ということによって クトリア時代の人々がその達成を謳歌した西洋文明の進歩を相対化する視点が、ここにも出て いるわけです。 261

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でもない。質素倹約の習慣はむしろ西洋人より日本人の方がつよい どうも今日では必ずしも そうではなくなっているようですが、少なくとも福沢がこれを書いた当時はそうだったようで あらわ すね。ところが「一国商売の事跡に顕る、貧富に就て見れば、日本は遙に西洋の諸国に及び難 し」となる。個々の人間が経済が巧みであるとか、倹約の風があるということでは富の蓄積度 は計れないということになるわけです。 次の中国の例も同じ類の例です。非常に巧みな表現の命題が出てきます。 支那は礼儀の国に非ず、礼儀の人の住居する国と云ふ可きなり。 ( 文六九頁、全五三頁 ) 中国には尭舜以下、聖人はたくさんいる。むかしも今も礼儀の士君子はたしかに居住してい る。だから、中国を礼儀の国といえるかといえば、国全体の有様をみれば、殺人や泥棒が多く、 刑法はきわめてきびしいのに、罪人は一向に減じない。全体の人情風俗が賤劣な点で、ちょう どアジアの停滞性の象徴といえる。この挙例が、次に論ずる英雄や個人道徳中心史観批判の伏 線になっているわけです。一一、三の聖人を見ても全体のレヴェルは分らないということになる。 人心と状況 はるか