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検索対象: 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか
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1. 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか

げて公営住宅としてきたものが、二〇年の契約期間が切れるから転居せよというのである。借 上げ公営住宅は、仮設住宅の閉鎖を急いだ行政が被災者をともかく早く恒久住宅に移すために、 期限が来れば何とかするといって被災者を入居させたものであった。当時六〇歳だった被災者 は、もうすぐ八〇歳である。転居を言い渡された被災者の中には自殺を考えたという人もいる こうした復興の過程における二次的災厄を「復興災害」と呼ぶが、「創造的復興」は、弱い 人々に「復興災害」をもたらしたのである。 明 塩 住宅復興は、「復興災害」をもたらさず、被災者のすみやかな生活再建を実現し、よりよい る暮らしを支えるものとしなければならない 応急仮設住宅は、家を失った人々がひとまず落ち着いた生活をするために、供給が急がれる をゞ、 カ建設地はできる限り従前居住地に近い場所とし、集落ごとなど従前の人間関係とコミュニ 住ティが保持されるよう配慮が必要である。コミュニティが重要との立場から、一〇世帯以上の らまとまりでないと申し込みを受け付けないなどの機械的な例も現れているが、これでは、地域 れの実情にあわない。 従来の鉄骨プレハブ系の仮設住宅は居住性能が低く、快適な生活がむつかしい。冬暖かく夏 151

2. 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか

ものの貯水タンクの残量や備蓄食料を考えると、学生ホールは避難所としては限界が見えてい た。夜が明けてとっさに浮かんだ避難所は、正月明けに新築オープンしたばかりの福島市役所 だった。近さ、ウオシュレット、支援物資の直送、耐震性、暖房 : ・ : ・私たちは何より学生の生 命の安全を最優先しなければならない。市役所に避難してはとの提案は即実行に移され、学生 を市役所に送り届けた。 翌日からは、避難所巡回が日課となった。スー ーもコンビニも閉鎖され、差し入れも思う ようにできなかったが、朝にタに元気な顔を見なければ落ち着かなかった。水さえ出れば私の 部屋で雑魚寝させるほうが安心なのでは : ・ : と悩みながらの数日だった。それは避難所のプラ イバシーのなさからくる不安だった。人間にとって、女性にとって、避難所における必要条件 は何だろう。水、食料、トイレ、暖房、安全性 : : : 眠れない夜を過ごしながら、悩みは尽きな かった。 福島市は、大半の地域で断水と停電が続いた。懐中電灯が売り切れた。水道局と自衛隊の給 水が各所で行われたが、待ち時間には差異があった。私自身は、避難所に行く経路にある市公 会堂での給水を利用した。自衛隊車二台と水道局車一台での給水は、一〇分から二〇分待ちで 132

3. 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか

「他者への思いやり」へと変わる。遺族一人ひとりの痛みに寄り添った支援は、しなやかでた くましい社会を創ることにもなる。遺族への支援は、私たちの未来への支援でもある。 私は実務家として、「復興」における自らの立ち位置を遺された人のそばに置くことを決め、 自殺対策に取り組む全国の仲間たちに呼び掛けて具体的な取り組みを進めている。 一つ目は、冒頭でも触れた「死別・離別の悲しみ相談ダイヤル ( 毎週日曜日に実施 ) ーだ。番号 を覚えやすいもの ( 〇一二〇ー五五六ー三三八 ) にしたり、遺族が抱えがちな相続や葬儀などの 実務的な課題にも迅速に対応できるように、弁護士や僧侶などとも連携して行っている。 二つ目は、震災遺族向けホームページの立ち上げだ。各種相談機関や弔慰金に関するものな ど、震災で家族を亡くした遺族であれば必要とするだろう情報を一元化し、「ここを見れば 色々なことが分かる」ようにした。当然、だけでなく携帯からも見られるようにしてある。 O 版 : http://www.IifeIink.or.jp/hp/shien31 て 携帯版 : http://www.lifelink.or.jp/hp/shien311 /k 三つ目は、同じ発想で、岩手・宮城・福島の県別に支援情報をまとめたリーフレットを作っ た。計四万五〇〇〇部印刷し、それを確実に遺族に届けるために、警察庁と被災三県の担当者 ころのささえ 120

4. 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか

の思いが胸の奥からこみ上げて来ました。 私はこの春、看護師歴六〇年を迎えました。敗戦の翌年、中国山西省から父の故郷山陰に引 き揚げ、のちに受験のために上京しましたが、戦後三年を経ながら、高樹町 ( 東京・港区西麻 布 ) の交差点からは青山六丁目の辺りまで見渡せるほどの大空襲の爪痕が残っていました。少 女時代とはいえ、あの不条理な戦争による喪失と窮乏体験をし、また、人々の生死にかかわる 看護師経験を重ねてきた者として、二〇一一年春の大震災と、引き続く原発事故から目をそら すことはできません。それは、あまりにも多くの人間のいのちと平和な暮らしが奪われたばか りか、これからもなお、気を許すことのできない事態がいろいろと予測されるからです。 未だに電気が断たれたまま、夕暮れから夜明けまで、真っ暗な中で固い床に身を横たえる避 難所生活。給水車の水だけではトイレの後の手洗いさえ不自由です。そのトイレ事情も一段と 深刻で、下水道の不通が続き、汚物回収の遅れなどもあって衛生環境がかなり悪くなっている ようです。プライバシーの保たれる壁のある家に住みたい願いも切実です。まずは、人々の暮 らしを整える上での最低限のインフラ整備が急がれることは申すまでもありません。 同時に災害弱者と位置づけられている高齢者や障害をもった人たちへのケアのありようと、 その提供の仕組みを急ぎ整える必要があります。被災地の環境をこの目で見て、被災した人々

5. 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか

いている。その理由は、「いくら科学者が防止法を発見しても、政府はそのままにそれを採用 実行することが決して出来ないように、また一般民衆は一向そんな事には頓着しないように、 ちゃんと世の中が出来ているらしく見える」という絶望感があったためである。 日本は地震や津波に何度も襲われてきたにもかかわらず、その度に多くの犠牲者を出し、多 大な財産を失ってきた。それを見れば、災難は「人為的」なものであると断じざるを得ず、そ こから何も学ばない人間について寅彦はシニカルな気分に陥っていたのだ。彼が使った「災難 の進化論的意義」や「優生学的災難論」という言葉がそれを物語っている。そして、「このま とまらない考察の一つの収穫は、今まで自分など机上で考えていたような楽観的な科学的災害 防止可能論に対する一抹の懐疑である。この疑いを解くべき鍵はまだ見つからない」 ( 「災難雑 考」 ) と、問題を投げかけたまま世を去った。 内おそらく、今回の震災や津波の災害や原発事故が一段落すれば、数多くの「科学的」な安全 甁対策や災害防止策が出されるだろう。しかしながら、それは不十分なまま、あるいは予算を出 転し惜しんで小手先のままで終わるのではないか、そして再びこのような悲劇を繰り返すのでは 明ないか、それが最も危惧される点である。寅彦が抱いた懐疑の淵源もそこにあった。 私はここで僭越にも、彼が抱いた懐疑を解くべき「鍵」を考えてみたい。寅彦の時代とは大

6. 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか

倒産・失業の拡大は子どもたちから教育の機会も奪い取り、いまや日本の一人親世帯の子ども の貧困率は五八・七 % と、 OQOQ 加盟国で突出している。 復興とは何か。それは、社会的な ( 構造化された ) リスクを取り除くことによってすべての 人々に平穏な生活と仕事を保障することである。災害は雇用を直撃するが、被る不利益を最小 限にし、仕事と生活を立て直すことができるシステムを用意することは、日本全体の課題であ る。今回の震災の規模は、阪神・淡路大震災の比ではない。そして、同様の規模の巨大地震・ 津波はそう遠くない将来、ほば確実に巨大都市を襲う。そのとき、貧困問題の解決と尊厳に値 する雇用の確保に向かって、どれほどのシステムを用意できているだろうか。医療・介護・福 祉、年金などの社会保障や、教育の充実、子どもたちへの支援も、少子高齢化に直面しつつ充 実した雇用社会を築くには不可欠の課題である。経済の発展とその成果を公正に配分するのみ ならず、インドの経済学者、アマルティア・センが唱える、不利益を被るリスクにも配慮した 「安全な下降」「人間の安全保障」という考え方が不可欠である。 被災地に特区を設けて大規模な規制緩和をはかり、投資を呼び込むことによって新たな雇用 を創ったり、第一次産業を効率化の観点から再編し、競争力を強化する構想も飛び交っている。 経済界は、雇用の維持・確保が最優先課題であるとしながら規制緩和を求め、日本経団連は、 174

7. 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか

アルバムを取りに帰った人たちもいたかもしれない。犠牲者の多くは高齢者だが、戻ったなか には若い人たちも少なくなかった。そして一五時一二分、釜石沖で六・七メートルに達した大 津波が、そんな人たちをものみこんだ。 溺れて亡くなった人たちは、最期まで生きようとして、もがき苦しんだのではないか。被災 した女性が、そんないたたまれない思いを、取材を続けていたテレビ番組のディレクターに打 ち明けたことがある。医療や災害の現場の取材経験があるディレクターは言った。「ほとんど の人は、ショックで亡くなったと思います。だからご遺体は、安らかな表情をされている」。 有ほんの少しだが、彼女は救われた気がした。 玄鵜住居は地区全体が津波に襲われ、壊滅的な状態となった。海岸からわずか一キロに位置す る釜石東中学校と鵜住居小学校は、ともに学校全体が波をかぶった。波が去った後、三階の窓 と る には自動車が突き刺さっていた。そのすぐ横に大きな体育館があったことを、はじめて訪れた わ 変 人は信じられないだろう。 望 希私はこれまで数十回、釜石を訪れてきた。訪問以前から私は何人かの仲間とともに、希望と 練社会の関係を考える「希望学」という学問を始めていた。そこで知ったのは、希望を持って行 1 動している人の多くは、過去に厳しい試練や挫折に直面しながらも、それらをくぐり抜けてき

8. 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか

自分の手でおにぎりを握ることは東京人にとってもなぐさめになった。支援物資も仕分けし て送る。イスラム教徒も仏教徒も神や仏を信じない人も心をひとつにした活動が始まった。 後方支援から三週間もすると、いまの被災地をこの目で見たい、現地の友人のお見舞いに行 きたいと思いだした。私は生産と結びつかない東京に疑問を感じ、祖父母の地である宮城県南 端の町丸森で畑を五年やっていたので友だちは多い。 現地の情報を仕入れ、編集者仲間が集めてくれたマンガと絵本と軽い読物を載せて東北道を 走り出したのは四月一六日だった。地図を見ながら、あまりマスコミに出てこない福島県北部 から宮城県南部の一四の避難所にたどり着き、配って歩いた。被災地の話も聞いた。 ままず避難所、どうして体育館に人を集めるのだろうか。天井がうんと高く、寒い。プライハ 森 シーがない。風邪がうつる。ざわざわしている。ステージ上に自治体職員の受付 ( 指示管理場 の所 ) があり、時おりマイクで風呂や配給物資や炊き出しのアナウンスがある。指揮管理する職 憶 員と管理される被災者という上下の構造ができてしまう。 の 昼間、元気な人たちは海際の家に帰り、瓦礫の撤去や家の整理をしているという。残ってい 5 東 るのはお年寄り、子どもが多かったが昼間から毛布をかぶって寝ていたり、テレビを見ている。 一三ロ

9. 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか

的な確保、資源エネルギーや医療・福祉・教育など人間の生活を持続させるためのインフラ整 備であり、切り裂かれたセイフティーネットの再構築なのである。 都市と農村の格差と矛盾は、被災地における雇用の確保が具体化できない以上、労働者が地 域に見切りをつけて出ていかざるをえない事態となって一気に亀裂が深まることになる。そう ならないよう、国や自治体、漁業・水産関連企業が出資して公的な漁業会社を作り、漁船など のインフラを用意し、雇用の受け皿とする構想が提唱されている。農業も広大な土地・土壌の 改良が求められ、同様の構想が有効な産業・雇用対策となるだろう。しかし、それが効率本位 の選別による漁業や農業の再編となると問題である。農業・漁業従事者として産業に貢献して きたすべての人々の仕事を確保し、家族経営のなかで果たしてきた女性や高齢者の力を活かす 仕組みが求められる。高齢化をめぐる諸問題や都市と農村の間の格差や矛盾を解決するにも、 固定的な男女の役割を縮め、解消に向かう努力も不可欠である。 政策の舵取りを、災害を大きくし、立ち直りを長期化させてしまう社会の構造的矛盾を解決 する方向に大きく転換すべきである。災害は、そうした社会の脆弱な部分に襲いかかり、社会 の歪みを瞬時にして可視化させるものだが、それが巨大都市を襲ったとき、どうなるのか。災 害を最小限のものとするため、自立して生きていけない低賃金や労働の買い叩きを撲滅するこ 178

10. 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか

私たちは、津波被害から地域の安全・安心を守りきることができなかった。しかも福島第一 原発事故によって、放射能をまき散らし、海と大地を汚し、世界中を震撼させてしまった。な ぜ守れなかったのか。なぜ危うい原発推進政策から転換できなかったのか。この認識からしか 再出発できないのではないか。既得権益と自己維持性の延長上には、坂道をころがり落ちる未 来しか残されていないだろう。 新しい日本をどう創り出すのか。多くの団体や機関が、システムが、その存立の意義を、有 効生とレーゾン・デートルをあらためて問い直されている。あなたがたは何ができるのか。 私は東北大学に在籍する環境社会学の研究者であるとともに、宮城県で活動する財団法人み やぎ・環境とくらしネットワーク ( ) の理事長でもある。は、みやぎ生協、 、県漁連、森林組合、日専連の五つの協同組合を母体とする、つまり第一次産業の生産者 と流通業者・消費者、研究者などが集う全国的にもユニ 1 クな環境 ZOO である。地球サミッ トを契機に、一九九三年に創設して以来、水産県、農業県としての地域特性を活かして、緑・ 食・農やごみ減量、水の問題、地球温暖化問題などに取り組んできた。今回大きな被害を被っ た気仙沼市や石巻市などで長年真摯に環境保全活動、地域づくりに取り組んできた仲間たちの 顔が浮かんでくる。その方たちの長年の労苦が思われてならない。