フードバンク - みる会図書館


検索対象: 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか
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1. 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか

〇名以上のボランティア登録がフルに機能した。支援物資の仕分けをする人、トラックへの積 込み作業 ( ピストン便は一カ月で社用四トントラック四五便と他団体等の車両八〇便を数えた ) の人、上 野に運ぶ週末の炊き出しのおかずを調理する人が、事務所の周りで一緒に忙しく働いた。 四月の第二週からは、通常のフードバンク活動も再開した。一カ月後の状況から、被災地支 援は第二の段階に入ったと判断し、被災地向けフードライフラインとフードセイフティネット の確保を目標に掲げた。 , 復興への長い道のりに向かう中、困窮に陥った人々と長期にわたる関 係をもちつづけること。継続性がいかに重要かは、フードバンク活動で十二分に経験している。 仙台の現地拠点にとどまって活動するあるスタッフは、水産商社勤務の経験から、三陸の港 や加工工場と縁があった。港町の壊滅状況を目にして長期戦を覚悟したが、緊急対応以上に、 フードバンクが長期的に支援を続ける必要があると感じた。今後、行政や地域、避難所、個別 のケースごとに状况の差がひろがるだろう。ここまでの混乱と被害に直面した行政の役割を考 えれば、当然、そこから漏れる部分が予想される。緊急支援の段階でも、県や自衛隊が不足は ありつつも良くカバーしていたが、一方で直接の被害のない内陸部や福祉施設、自宅待機の人 びとへの支援は手薄になった。被災地一帯はもともと車社会なので、自宅にはなんとか居られ

2. 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか

にしか届けない ) 。ウエプサイト上では随時必要な物資を具体的に呼びかけたが、届けられた支 援品はできる限り運んだ。 この間、炊き出しとパントリー活動をのぞくフードバンク活動は、各施設の理解をいただい て停止し、緊急支援に専念させていただいた。みなさん央く理解してくれたばかりか、決して 豊かでない施設が備品の米や毛布を提供してくれたり、母子支援施設のお母さんたちが「 に託したい」と集めた募金を手渡してくれたりした。 フードバンク活動で関係をつくってきた人びとから、今回あらためて教えられたことに、 おうした信頼と支援の双方向性がある。炊き出し活動に使っているプロバンガスを、燃料店が被 災地向けに無償提供してくれたり、近所のガソリンスタンドが、調達の難しい段階から最優先 で給油してくれたりもした。私たちだけでできることなど何もなく、多くの人びとが支えてく る れる上での支援活動だ。被災地を支援したいと思った人が、何ができるか途方に暮れたとき、 久フードバンクの活動実績から「ここになら託せる」、と判断してくれたことも本当にありがた ン バい。 ( 震災後一カ月で寄付金総額は五〇〇〇万円にのほった。 ) 一国内外の企業・団体からの支援物資のほか、個人から届く大小の宅配便を開封し、品目ごと フ に仕分けしなおす作業には、毎日五〇人以上が駆け付け、これまでの活動でつながった二〇〇

3. 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか

と被災者支援の輪につながることになる。が何をやっている団体か初めて知り、後日 事務所まで寄付品を届けに来てくれた人もいる。 こうしたスープサービスのような「エイドステーション」の必要性は、昨年 ( 二〇一〇年九 月 ) に実施された「首都圏統一帰宅困難者対応訓練」の際に認識していた。東京災害ボランテ ィアネットワーク ( 一九九八年設立 ) の呼びかけで、一都六県と内閣府をはじめ行政・民間の各 団体が参加し、巨大地震を想定して実施している社会実験だ。 ここで、セカンドハ ーベストⅡ「二度目の収穫」という名のわたしたち Zmo の活動、フ 1 ドバンクを紹介しておきたい。最初の収穫 ( 市場流通 ) からこばれた安全な食品をもう一度収穫 するーーーっまり、食品メーカ ー・小売業者・農業法人や、備蓄食料をもっ学校や施設などから、 特定の事情で余剰品とされたものを、廃棄される前に食品として引き取り、施設やシェルター などに無償で届ける活動が「フードバンク」だ。同時に、支援に急を要する個人むけに食品を 届ける「ハ ーベストパントリー」、路上生活を余儀なくされた人のための「炊き出し」活動も 行なう。フードバンクの目的は、第一に、余剰食品を流通網の活用で食の必要な場へつなげる こと。余剰の現場と欠乏の現場は、切り離されている。このミスマッチをつなぎ、ガス・水 道・電気というライフラインと同じように、生きるための食品の供給システム「フードライフ

4. 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか

てもガソリンがなければ外へ出てゆけない。そういった部分が盲点になる。ニーズを聞き取る ことも一様にはいかない。なるべく同じ人物が、同じ被災地・避難所へ物資提供に行き、くり 返したずねる。なんども顔を見せ、なんども聞かなければ、どんな助けが必要かが語られない ( そうしたなか、被災者から「泊まっていきなさい」と逆に気遣っていただく関係にもなった ) 。これも、 フードバンクの通常の活動で、しばしば経験していることだ。 行政にしか担えない部分、民間にしか担えない部分がある。その強みや弱みは、物資面、人 材面、資金面、短期・長期の見通しなどが複合的にからまっている。そして、あくまで要にな るのは地元の人でなければならない。フードバンクの民間としての有効性を最大にすべ く、まず緊急支援へ、さらにその補完へと動くことにし、刻々とかわる状況判断を翌日の対応 にすぐ活かした。そのためには、地道に活動してきた地元 ( あるいは地元出身 ) の団体や個人から る 直に情報をもらい こちらでも足を運んで判断するようにした。 で このようにしてでは、継続性が信頼関係をつくり、そこから初めて新しいシステムの ク ン 構築へ向かうことができると考える。今後は、広範囲の支援のほかに、面や点として特定の地 一域と縁を深めて、関係性の一つのモデルを発信することも考えたい。じつは今回、「フードセ フ キュリティ」が共有・互助の形として十分機能し、外部を支援する余力も蓄えているごく小規

5. 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか

模なコミュニティを、現地で知ることにもなった。都市型社会で失ってしまった機能を、これ から教わることになるかもしれない フードバンク活動の経験の蓄積から、このように動くことが可能だったこと、それを継続で きること、多くの人びとの気持ちとメッセージが込められた物資を届ける役を担えることに、 大きな喜びを感じている。 。。 = 0 H = 。 4 0 目一一〇〇〇年、東京・山「の炊き出し食材の調達活動からスタート、〇二年 法人フードボート、〇四年から現名称「すべてのひとに、食べものを」がミッション。

6. 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか

に即応できる、という認識が、最初からメンバーそれぞれにあった。すぐ挙げられる利点は、 なら判断が早く小回りが利くこと。そして、顔が見え、信頼関係のある相手がいること。 すぐに、フードバンクで連携のある仙台の z o ・ふうどばんく東北 << — z ( あがいんは 「どうぞおあがりください」の意 ) にコンタクトを取った。これまで、二、三カ月に一度は仙台の福 祉施設に加工食品を運び、その交換に帰りは米を提供してもらう関係にあった。一四日の月曜 には、少量ながら支援物資と炊き出し用具を積んだ車で、スタッフが現地に到着した。 事務所が被災したは仙台市内の別の場所に移転し、すぐに緊急支援要請のメーリン グリストを立ち上げて、一一団体からなるフードバンクのネットワ 1 クを確保した。 こうした動ける人材は、複数の団体のスタッフを兼任しているのが常だが、のス タッフも、仙台を中心に社会福祉協議会や地元企業とのつながりが太い。そもそもが、貧困者 支援・ワンファミリー仙台での食料提供から始まっている。東京のスタッフ一名 が仙台で立ち上げた対策本部にも、地元の人材一四、五人が合流して連携拠点となった。 物資の搬送で、は今回、方針に三つの例外を設けた。①食品の提供を企業に要請する ( 通常は要請せず、提供者側の理由による提供を受けるのみ ) 、②食品以外の生活物資も運ぶ ( 通常は食 品衛生管理上、一緒に扱わない ) 、③要請を待たずに運ぶ ( ロスが生じないよう、通常は必要の確認後

7. 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか

ライン」を全国的に確保すること、とりわけ流通と食品の企業の協力をえて、そのための基幹 流通を構築することだ。それでも間に合わない部分、つまり社会的安全網 ( セイフティネット ) か ら漏れる人びとへの緊急支援は、「フードセイフティネット」を組み、確保すること。そして 当面は、活動を通じて、これらの構築プロセスへの社会的な認知度と信頼度をあげてゆくこと。 一一〇〇〇年に活動を開始し、食品提供者数、同時に提供先団体数も順調に増え、一〇年には、 延べ , ハ七四社が食品を提供、関東中心の全国約六〇〇の福祉施設や団体が、食品を有効に使う ートナーとなった。「日常的に安全で栄養のある充分な食べ物を得る適切な手段」、つまり 「フードセキュリティ」を欠く人は日本で七五万人以上、とでは推計している。この認 識に立ち、より緊急度の高いものへの対応を日常的に優先して動いているので、被災地に最大 の緊急支援をする、という判断に迷いはなかった。 る で 久三月一三日、最初のメンバーが現地入りした。外国人スタッフが多く、海外との連携も太い ン であることが幸いし、 OZZ に取材同行が可能になったのだ。阪神・淡路大震災や新潟 一県中越沖地震で、ボランティアや支援の経験をもっスタッフもいたが、組織として災害救援に フ 正面から取り組む構想を立ててはいない。それでも、フードバンクというシステムは緊急支援

8. 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか

セカンドハ 1 ベスト・ジャパン ( 2 —) 三月一一日。この日は金曜で、毎週末の「炊き出し」の仕込みのためのボランティアが、調 理の片づけをはじめたころ、地震は起こった。幸いにも東京の事務所と倉庫は無事だった。余 震を警戒しつつ外回りスタッフの安全確認をとり待機。ボランティアには、できるだけすぐ帰 宅してもらい、事務所には四、五人が残った。日が暮れてゆくが、電車は動かない。浅草橋駅 近くの事務所前の道路は総武線の高架に沿っていて、徐々に徒歩帰宅の人が増えてゆく。千葉 方面から都内に通勤する人たちが両国橋を越えようと歩く。 夜七時ごろ、理事長のチャールズが、目の前を通る人に温かいスープとパンを出そうと思い 立ち、スタッフでとりかかる。突如出現したス 1 プの無料配布に、はじめは戸惑いの反応が多 かったが、 やがて携帯電話の「ロコミ」もあってか、人が増え始める。深夜二時ごろには、使 用済み紙コップの数は四〇〇〇弱になっていた。スープを手渡しながらの短い会話が、このあ フ 1 ドバンクにできること

9. 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか

市民が立ち上がるには、住宅、医療・介護、学校教育とならんで、雇用の確保が大切になる。 被災地のハローワークでは、失業給付の手続きで、連日長時間待ちが続いている。 ハローワー クかパンクしないためには、被災者に寄り添い、職業紹介などのきめ細かい相談を行えるよう、 支援人員を今以上に充実させるべきだ。 がれき撤去から新築工事まで、被災地の建設関連の求人はしばらく豊富だろう。しかし単純 作業に従事するだけでは収入は増えず、生活も安定しない。意欲のある被災者が、重機操作や 金属加工などの資格を取得出来るよう、集中的な職業訓練の機会充実も課題だ。 有さらに雇用機会はなんといっても地元経済の発展にかかっている。釜石は近年経済も復調し 玄ていたが、 いいかえればそれは、大規模な投資を積極的に行っていた企業が多いということで もある。地震と津波で設備を破壊された企業には多額の借金だけが残っている。 A 」 る これらの借金は、企業再建の重い足かせとなっている。それらの負担を公的資金の投入によ わ にり軽減することは、税金による私的財産への補償は出来ないという財政原則には反する。再建 望 希見通しのない企業に追い貸しすれば、不良債権の累積を招き、一九九〇年代末のような金融不 練況すら招きかねない。震災前債務をどうするかは、企業とメインバンクである地元金融機関の ビジネスの枠内で判断されるべきという筋論もある。 145

10. 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか

ものの貯水タンクの残量や備蓄食料を考えると、学生ホールは避難所としては限界が見えてい た。夜が明けてとっさに浮かんだ避難所は、正月明けに新築オープンしたばかりの福島市役所 だった。近さ、ウオシュレット、支援物資の直送、耐震性、暖房 : ・ : ・私たちは何より学生の生 命の安全を最優先しなければならない。市役所に避難してはとの提案は即実行に移され、学生 を市役所に送り届けた。 翌日からは、避難所巡回が日課となった。スー ーもコンビニも閉鎖され、差し入れも思う ようにできなかったが、朝にタに元気な顔を見なければ落ち着かなかった。水さえ出れば私の 部屋で雑魚寝させるほうが安心なのでは : ・ : と悩みながらの数日だった。それは避難所のプラ イバシーのなさからくる不安だった。人間にとって、女性にとって、避難所における必要条件 は何だろう。水、食料、トイレ、暖房、安全性 : : : 眠れない夜を過ごしながら、悩みは尽きな かった。 福島市は、大半の地域で断水と停電が続いた。懐中電灯が売り切れた。水道局と自衛隊の給 水が各所で行われたが、待ち時間には差異があった。私自身は、避難所に行く経路にある市公 会堂での給水を利用した。自衛隊車二台と水道局車一台での給水は、一〇分から二〇分待ちで 132