三月 - みる会図書館


検索対象: 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか
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1. 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか

OO> 仙台キャベツのサービスエリアは、 *-æ仙山線と東北本線の北側にある青葉区、 泉区、宮城野区、若林区を中心に、富谷町の一部、大和町の一部。有料契約数は約三万五〇〇 〇世帯。 チャンネルは集合住宅などで見られ、約一二万七〇〇〇世帯で視聴可能だ 三〇一一年一月現在 ) 。 三月一一日の大震災で、—: ooä仙台キャベツの社屋は激しく揺れた。最寄り駅である地 下鉄八乙女駅の駅舎も、八乙女駅と終点泉中央駅の間の高架も破損した。 社内の至るところで棚からものが落ちて散乱したが、幸いなことに二〇一〇年に新築した社 屋は無事だった。被災と同時に市内全域が停電したために三月一一日はサービスを停止せざる を得なかったが、ト / 林俊樹社長以下従業員の不眠不休の復旧作業により、翌日にはエリアの , ハ 割程度で放送サービスを開始することができた。さらに一四日からはエリア全体で多チャンネ ルテレビ放送、電話、インターネットの三サービスが提供できるようになり、一五日には k-. ・ OO> チャンネルの放送を再開した。 自主放送でどういう放送をすべきか。 *-a: OOäチャンネルを担当する仙台メディアセンタ ーのスタッフたちは議論を重ねた。その中に関西メディアセンターから一月に赴任したばかり の広告営業担当の小田嘉子がいた。小田は、前職の株式会社ケープルコミュニケーション芦屋 102

2. 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか

大西健丞 震災の一報を私は出張先のスイスで聞いた。予定をキャンセルして急きょ帰国し、三月一三 日にヘリで宮城県北部まで飛んで上空から被害状況を見た。仙台周辺は平坦な海岸線が幅何キ 口にもわたって水浸しになり、大小の船がいくつも陸上に座っている。さらに北、入り組んだ 三陸の湾に面した市街地や漁港も、軒並み津波に破壊され、火災の煙が上がっている。二〇〇 四年のインド洋大津波に襲われたインドネシア・スマトラ島でも上空から被災地を見たが、瞬 時に、その時見た沿岸部に較べても何倍もの範囲が、文字通り壊滅的な打撃を受けたことを悟 った。 私が代表を務めている zæo 法人ピ 1 スウインズ・ジャパン ( ) と公益社団法人 Civic Force(ocæ) は、すぐに食料、毛布、ストープ、衛生用品などの救援物資の調達と輸送を始め た。トラックで連日、被災地へ届けた物資は、三月末までに一〇〇トン、震災後一カ月で二〇 市民や企業のカ、生かす仕組みを

3. 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか

いたのである。だが、現在の状況はむしろ戦後文学のタームでしか語れないのかもしれない、 と私は思った。 私は地震のあとすぐに、外国の新聞から頼まれてエッセイを書いたが、それをつぎのように 締めくくった。《今度の地震がなければ、日本人は「大国」を目指して空しいあがきをしただ ろうが、もはやそんなことを考えられないし、考えるべきでもない。地震がもたらしたのは、 日本の破滅ではなく、新生である。おそらく、人は廃墟の上でしか、新たな道に踏みこむ勇気 を得られないのだ》 ( 「地震と日本」二〇一一年三月一五日 ) 。こう書いたとき、私の頭の中では、 坂口安吾の「もっと堕ちよ」という一言葉が鳴っていた。彼が戦後の廃墟の上でそう記したのは、 「新生」を実現するためだった。だがその一方で私は、そのような言葉がリアルに聞こえる時 行か来たという事実に驚いていたのである。 以来、一カ月半が経過した。私が恐れた大破局は起こらなかったが、 事態が解決されたわけ 日ではまったくないし彳 ) っ言田島第一原発のトラブルが危機的様相を呈するか。放射性物質の漏出 災と蓄積がどこまで拡大するか。さらに、再度の大地震が起こり、各地の原発に大惨事をもたら 発すのではないか。私はそのような不安を抱きつつこの間をすごした。おそらく今後も、少なく とも数年はこうい、つ状態ですごすことになるだろ、つ。

4. 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか

伝いに駆けつけてくれた。これらの方々のおかげで、家のまわりの砂はかなり片付けられた。 道路には、各所で砂が山のように集められた。 私は舞浜地区のシニアクラブと自治会の主催によって、二〇一〇年と二〇一一年の一月に計 四回ほど地震防災セミナーの講師をしていた。震度、マグニチュードといった基礎知識から、 南海トラフでの巨大地震、東京湾北部の直下型地震、津波、液状化の話をした。この地区が液 状化には弱いことを地盤のボーリングデータを示しながら伝え、また、一九六四年の新潟地震 の時に起こった堤防決壊と側方流動が起これば、とんでもない被害がでる、と話した。今回、 まさに広域的な液状化が起こって、今さらながら、自分はどれほどの切迫感を持ってその事を 伝えたのかと、何か自省の念に襲われた。 三月一三日には、舞浜地区を見て歩き、液状化被害の全体像がどうなっているか、把握しょ うとした。五七〇戸ある街の約半分が大量の砂で覆われ、また、周囲の公園には各所で噴砂丘 が出来ていた。同時にほとんど被害を受けていない地区もあり、コントラストか明暸であった。 被害は主に街の中心部に多く、周囲は少ないことがわかった。街の観察をしていると、家の傾 き具合に一定の規則性があることもわかった。家は道路を挟んで両側が後ろに傾くような被害 を受けており、道路と雨水の側溝の間から噴砂し、隙間ができ、さらに道路は盛り上がったり、 158

5. 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか

( 私たちが知る ) 日本の・・・ ( T. モーリス = スズキ ) 面する課題でもある。密接で有効な協働こそが、今後いっ他の地域を襲うかもしれない災害や 事故に対応できる、よりよいシステムを開発するヒントとなろう。こうした悲惨な大災害や原 ・一一の廃墟から日本とそれを取り巻く地 発事故への積極的で長期に及ぶ地域的対応こそ、三 ( 伊藤茂訳 ) 域を、より強力で活力溢れるものに蘇らせるはずなのだから。 本稿は、オンライン政治経済マガジン "INSIDESTORY" 二〇一一年三月一八日、および "CANBER ・ RA TIMES" 二〇一一年三月二〇日に発表された "The end 0 こ apan()s we knew 一 ( ) ~ = に加筆したもの です。 Tessa Morris-Suzuki 一九五一年生。オーストラリア国立大学教授。日本経済史。『過去は死なな い』『辺境から眺める』他

6. 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか

空襲によって大きな被害を受けたのは、東日本の場合、東京や仙台のような都市であり、今 回集中的に被害を受けた沿岸部や農村部は、都市を支える側であり、また余剰人口を拠出する 側にあった。高齢化、、 少子化、過疎化、そもそも今回津波被害を受けた沿岸部で著しかった。 県北の拠点都市で、県内で四番目に大きな気仙沼市は、一九八〇年の人口九万一三四 , ハ人をピ ークとして、二〇一〇年には七万三四九四人と、二〇 % も減少している ( 国勢調査による。広域 合併後の現在の市域に相当する人口で比較 ) 。六五歳以上の高齢者の割合、高齢化率も、三〇・一 % と高い ( 一〇年三月末 ) 。東北新幹線、東北自動車道、空港、いずれもが、内陸側に集中してい る。沿岸に近く二〇万人以上の集積をもつのは、、 しわき市・仙台市・八戸市に限られる。 復興にあたってのポジテイプな要素の乏しさは、ローカルなレベルだけでなく、ナショナル なレベルにおいても深刻である。日本は先進国のなかでもっとも巨額の財政赤字を抱え、国全 体としても少子高齢社会に直面している。 丿ーダーシップ・クライシスも深刻だ。非常時には強力なリーダーシップが不可欠だが、福 島第一原発事故への対応をはじめ、菅首相の危機管理能力には疑問符がっき付けられ、ねじれ 国会と低い内閣支持率、復権をもくろむ小沢一郎グループの菅おろしの動きがある。綱渡り的 な状況の中で、原発事故への対応、復興指揮と政権維持という三つの難題を強いられている。 258

7. 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか

佐藤学 荒涼たる被災地の風景は、三月一一日午後二時四六分直後の出来事に対する想像力を超越し てしまう。東日本大震災は子どもたちや教師たちにも甚大な被害をもたらした。四月一一一日時 点で文部科学省が掌握した被害の実態は、死者五二二人 ( 岩手七〇、宮城三八〇、福島七〇、東京 二、行方不明は岩手七〇、宮城一三四、福島一二一 l) 、負傷者二三四人であり、幼稚園から大学までの 校舎など一万二九四の文教施設に流失、全焼、倒壊、半倒壊、外壁の亀裂などの被害が発生し た。三月二七日時点で一七五一校が休校措置をとり、四一五校が地域住民の避難先となった。 他の都道府県の公立学校において受け入れられた被災地の子どもの数は八九四三人にのぼった ( 四月一五日時点 ) 。唯一の幸いは、地震の発生が午後一二時前という時間帯であったため、ほと んどの子どもが学校にいたことだろう。もし修学時間帯以外の時間であったなら、学齢児童や 学生の死者は数千人に達していただろう。それでも、津波に襲われた宮城県石巻市では、園児 教育にできること、教育ですべきこと 189

8. 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか

視た体験は崩れ去っていった。いままでの死とはボリュームがまったく違う、すさまじい死が そこにあった。柩の中の一人ひとりが、津波に襲われ、のみ込まれる瞬間、何を思ったのだろ う、苦しかっただろう、痛かっただろうと、そんな思いが交錯した。それは強烈な痛みとなり、 傷となって私の内面を襲った。 身元確認で訪れる人と、見守る警察官以外はいない、寒々としたご遺体安置所で、私は意を 決し、柩に向き合い、お経を誦みはじめた。それは、この災禍において、僧侶としての私がな すべき行動だと思ったからだ。遺族もいない場所、見送る人々もいない場所での読経が、どの 皇ような役に立つかはわからない。しかし、それをせずにはいられなかった。大津波から一〇日 高経った三月二一日の朝のことである。この日から、ご遺体安置所での読経は私の日課となった。 の 三月一一六日朝、安置所に新しい柩が二体運び込まれていた。傍らには四〇代の女性と女の子 たが花を手にして立っていた。その女性は、すこし微笑みながらこう言った。「今朝、見つかっ ダたんです。じいちゃんとばあちゃん。自分の家のがれきの下から二人揃って見つけてもらった がんです。よかった。じいちゃんは自分の家で死にたいって言っていたし、ばあちゃんと一緒だ 波 淞ったから : : : 」。辛く、悲しく、苦しい中で、彼女は「よかった」と言った。何かにすがり、 納得しようとしていることがわかる一言葉だった。みんな、自分が置かれた境遇に納得を求めて

9. 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか

海岸へ向かう道沿いには、破壊された家屋や横転した車が散在し、そうした車や家の壁には、 赤いインクで塗り付けられた「 x 」印が見えます。内部はすでに確認済みだとい、つ印です。そ んななかにも「三月一五日、三階、まだ見ず」の文字が見えたりもします。消防署職員や自衛 隊、さらには米国国際開発援助庁の緊急援助隊が、全半壊した家屋や車のなかに生存者が残っ ていないか捜索を続けています。 被害の大きさは未曽有のものです。海岸線から数百メ 1 トル以内にあった家々は、鉄筋コン クリートの建物を除いて、根こそぎ破壊され、大量の木材の塊となっています。町が消えてい ます。それが、三陸特有の入り組んだリアス式海岸の入り江ごとに見られるのです。報道では、 安否不明者が全国で約一万人と報じていますが ( 三月一六日現在 ) 、私がいまいる、人口約一万 六〇〇〇人の大槌町だけ見ても、安否不明者は一万人を超える可能性があると地元の医師は言 本います。こうした事実は、私たちがいまだこの震災の全容を把握しておらず、被害状況を過小 評価している可能性があることを示しています。 避難所では、地元の医師や看護師が、自らも被災したなかで診療を続けています。避難所の 来なかには、零下になる気温のなか数夜を屋外で過ごしたという人もいます。胃腸の不調や、風 邪症状を訴える人も多く、若年者にはインフルエンザを疑わせるものもいますが、タミフルや

10. 大震災のなかで : 私たちは何をすべきか

戦場と異なるのは、陶器のかけらだとか、布団だとか、アルバムだとか、生活の断片ががれ きの中から生々しく見え隠れしていることだ。ここが玄関、ここは風呂場、ここは台所。残さ れた基礎部分には生々しい生活の痕跡がある。平凡な喜怒哀楽、家族の会話、仕事場での談笑。 永遠に続くように思われて、そのことをみじんも疑いもしなかった直前までの幸せが押し流さ れ、失われたことを思って立ち尽くす。三月一一日一四時四六分の地震とその後の津波の襲来 までは続いていた日常が、突然寸断され、暗転したことを思う。しかも、この惨状は、千葉県 沿岸から青森県三沢付近まで、海岸線約二〇〇〇キロにわたって連続するのだ。 大地震からしばらくは、「ご無事でしたか」が挨拶代わりになった。三月一一日の一四時四 司六分にどこにいたのか。自宅までどうやって戻ったのか。電気もガスも水もない中で、食事は 公 どうしたのか。食料品を求めて何時間も並んだ、給水車からの水汲みに何度も通った、ガソリ 帳ンを待 0 て数時間も並んだ等。労苦を語りあ〔、震体験を何度も再共有しあ 0 て〕る。 新「ご家族もご無事でしたか」とよく聞かれ、こちらカらもたずねた。仙台では、タクシーの ら運転手や店員などを含め、震災前よりも全体に会話やまなざしがソフトになった。人びとがや 墟さしくなった気がする。バスの中でも見知らぬ客同士が挨拶するようになった。実際、「おひ とりさま」的世界の無力さと、家族・友人・隣人・親戚などとの助け合いこそがサバイバルの 255