涼しい木造仮設を取り入れ、被災地域の建設業者の仕事にもつながる工夫が必要である。すで に、「応急仮設木造住宅建設協議会」が設立され、岩手県住田町では木造仮設住宅の建設が行 われている。こうした取り組みを被災地全体に広げるべく、国・県は支援すべきである。 また高齢者、障がい者、病弱者に対する「ケア付き仮設住宅」の供給、医療施設、コンビニ など生活利便施設を配置し、人間的な暮らしを保障しなければならない。厚生労働省は高齢者 サポート拠点の建設を各県に指示しているが、実際に現場でそれが実現するよう徹底する必要 かある。 また、仮設住宅の水道光熱費は自己負担で、それが払えない人々には料金減免などが必要で ある。料金滞納で水道を止められた被災者が孤独死した、神戸の事例を繰り返してはならない。 他方、応急仮設住宅一本槍という単線型の復興政策は避けるべきで、多様な復興を支援する 複線型の施策を行うべきである。可能なところでは、被災者が自分の土地に自力で仮設住宅を 建設し、恒久的な住宅確保へつなげていく「自力仮設・自力再建」を支援すべきである。これ は、被災者にとって一番わかりやすい復興で、地域に人が戻り、活性化につながり、まちづく りの相談活動を行う場づくりになる。また応急仮設住宅の必要戸数を減らす効果もある。 応急仮設住宅は一戸当たり三〇〇ー四〇〇万円かかり、総額三五〇〇億円を投じて、二年で 152
取り壊す。神戸では平均九〇〇万円の自己資金で五〇〇〇戸の自力仮設住宅が建設され、増改 築や建て替えをしながら復興していった。そこに資金援助があれば、より多くの人が自ら建設 し、応急仮設住宅の必要戸数は減るであろう。被災者生活再建支援制度の拡大・増額を含め、 早急に制度を創設すべきである。 恒久的な住宅確保についても、被災者の多くは元の土地に自宅を再建することを望んでおり、 明 賢 自力再建とその支援を基本とするべきである。自力仮設住宅への支援策が実現すれば、恒久住 塩 宅との間に連続性が生まれ、無理のない復興が可能となる。 る既存の支援策として「被災者生活再建支援法」 ( 全壊世帯に最大三〇〇万円の支援金など ) がある カ決して十分とはいえず、半壊世帯への対応や支援金の増額などを含む法制度改正を早急に い」 行わなければならない 住同時に、安価で良質な住宅建設を地域の中小工務店活用によって推進することが重要である。 ら中越沖地震の柏崎市ではによって平米当たり一〇万円での住宅供給が行われた。現時点 れでもすでにさまざまな提案がなされている。当初小規模な住宅を建て、資金ができるにしたが 3 って、増築・拡張していく方式をとれば、無理のない住宅復興が可能である。そうした自力再
げて公営住宅としてきたものが、二〇年の契約期間が切れるから転居せよというのである。借 上げ公営住宅は、仮設住宅の閉鎖を急いだ行政が被災者をともかく早く恒久住宅に移すために、 期限が来れば何とかするといって被災者を入居させたものであった。当時六〇歳だった被災者 は、もうすぐ八〇歳である。転居を言い渡された被災者の中には自殺を考えたという人もいる こうした復興の過程における二次的災厄を「復興災害」と呼ぶが、「創造的復興」は、弱い 人々に「復興災害」をもたらしたのである。 明 塩 住宅復興は、「復興災害」をもたらさず、被災者のすみやかな生活再建を実現し、よりよい る暮らしを支えるものとしなければならない 応急仮設住宅は、家を失った人々がひとまず落ち着いた生活をするために、供給が急がれる をゞ、 カ建設地はできる限り従前居住地に近い場所とし、集落ごとなど従前の人間関係とコミュニ 住ティが保持されるよう配慮が必要である。コミュニティが重要との立場から、一〇世帯以上の らまとまりでないと申し込みを受け付けないなどの機械的な例も現れているが、これでは、地域 れの実情にあわない。 従来の鉄骨プレハブ系の仮設住宅は居住性能が低く、快適な生活がむつかしい。冬暖かく夏 151
復興のかたち 岩手県陸前高田市の中学校校庭に仮設住宅が 建設された ( 共同通信社 )
が必要である。 第一は、地区・集落別に「ふるさと再生に向けた、記憶と有縁コミュニテイへの希望を分か ち合う場づくり」、名づけて〈記憶と希望のシャベリ場〉を立ち上げ、運営することである。 第二は、それを支援する〈希望のファシリテーター〉ともいうべき人材の、起用・育成・活躍 である。ここでの〈希望〉とは、状況を創造的に改変する方策を住民・行政と共に考える過程を 紡ぐことをいう。〈希望〉の助長者には、「何をめざすか」のキモチづくりから、具体的な住ま いのカタチづくりのプロセスをゆるやかに誘引・促進する専門家が、これにふさわしい。 ( 図 2 に希望づくりの方法を示している。 ) 〈希望のファシリテーター〉は可能ならば、避難所でも仮設住宅でも、「メンタルケアのため の対話」 ( 救助・救援・復旧時 ) から、「有縁コミュニティ住宅づくりにむけての対話」 ( 復興・発展 時 ) へと、同じメンバ ーによって系統的になされるのがよい。なぜならば、本格復興の段階で の調査・計画・設計過程にわたって、住民のかけがえのない思い出の中にある、今後とも継 承・再創造したい価値を把握することが、地域にねざした「住文化のいのちにふれる」住まい づくりをもたらすからである。外なる支援者・ファシリテーターが住民たちのそれを深く知覚 するということ、それは、被災で多くを失っても人々が記億にとどめている匂いや色や感動や 166
建を支援するプログラムを早く提示することである。 このような住宅再建を東京の大企業や外来業者だけに任せるのではなく、地元の中小工務店 などの参加を得ることが、地域の仕事起こし、雇用創出の観点から重要である。 自力再建できない被災者の住宅確保に災害復興公営住宅の果たす役割は大きい。仮設住宅と 同様、被災地の状況を踏まえ、従前居住地に近い安全な場所で、地域コミュニティを保持しな がら暮らせるように建設、入居者選定を行うことが必要である。住宅建設にはスピードが要求 されるが、機械的・安直な供給はさまざまな「復興災害」を引き起こす。被災者の孤立化・孤 独死などを招かないように、阪神・淡路大震災とその後の経験を活かし、大規模、高層住宅で はなく、小規模、低層の住棟を重視した計画・設計を行うべきである 住宅復興を展望する上で、まちづくり・むらづくりの進め方は重要な鍵になる。津波で甚大 な被害をうけた地区では、元通りにまちゃ村を作り直すのか、それとも別の場所に移転するの かが大きな争点になる。山を削って高台に住宅地をつくる、被災農地や漁港を集約化するとい った案が出されている。すでに、いくつかの集落で防災集団移転を望む声が出ている。明治三 陸津波や昭和三陸津波の経験からそのようなむらづくりを行い、今回被害をまぬかれた例もあ
一二月末までほとんど切れ目なく現地で支援活動を展開した。 この経験で驚かされたのは、「コミュニティの維持」を被災直後から重視した村の姿勢であ る。被災直後ヘリコプターで避難し、バラバラに入居した避難所から、集落単位で「引っ越 し」をし、住民の自治組織をつくり、避難所運営に村民自身が携わった。応急仮設住宅も集落 単位で入居し、避難所の敷地内に理髪店などの仮設店舗や診療所も開設した。村民の多くが農 業を営んでいたため、村と可能な限り同じ生活スタイルを維持するために農園までつくった。 福島大学の教員・学生とのあいだにも、次第に信頼関係が形成され、避難所の高校の空き教室 をつかった子どもたちへの学習支援を村民と協力してとり組んだ。 日本ではとりわけ戦後一貫して、住宅は個人の「資産」とされ、その公共的な役割は軽視さ れてきた。しかし国土の七割以上をしめる中山間地域において、過疎・高齢化が進み、消防団 や雪かきなど住民共同の営みは困難になりつつある。資力のある個人が住宅を再建できたとし ても、「二重ローン」すらくめない高齢者などが村に戻ってこられなければ、集落としての機 能を維持できなくなる。仕事や学校などで働き盛り世代が帰ってこなければ、 しっそう集落消 滅がすすむ。旧山古志村は四年ほどの避難生活を経て、村民の約七割が村に戻ることができた。 それが並々ならぬ努力の結果であることを忘れてはならない。地域の解体を防ぎ、「コミュニ 126
さかり、「孤立」してしまう危険もある。 こうした状況を克服しようとする取り組みも始まっている。会津若松市にある由緒ある観光 地の東山温泉は、大熊町の被災者およそ二六〇〇人を受け入れることになった。ここでは、食 事のメニューや洗濯機使用の順番、さらには行政の支援チームの受入体制まで、被災者に対応 はらたき するためのノウハウを旅館同士で共有し、温泉街全体で被災者を受け入れている。「原瀧」と いう旅館では、旅館の提案で各フロアに班長をおく自治組織をつくり、新たな「孤立化」を防 ) 」うとしている。長期化する避難生活を見すえ、住民の要望に積極的に応えながら「おもてな しの心」を貫く姿勢には驚かされる。 被災者の多くは、やがて応急仮設住宅へ入居する。阪神・淡路大震災では、入居が抽選で割 り振られた結果、コミュニティがバラハラになり「孤立死」すら生んだ。こうした経験から、 紀被災者の避難所・応急仮設住宅における「コミュニティの維持」が重視されるようになった。 波私が福島大学に赴任した初年度の二〇〇四年、新潟県中越地震が起きた。災害二日後から学 引生たちとともに被災地へむかった。長岡市災害ボランティアセンターとの協議により、福島大 島学が継続的に支援活動に携わることが認められ、全村避難した旧山古志村 ( 現長岡市山古志地区 ) 福 の人たちへの支援を行った。避難所の一つである長岡大手高校を中心に、応急仮設住宅入居の 125
子どもは寝そべってゲームをしている。ボランティアは必要だが、対応する職員が浮き足立っ ていてうまく仕事の配分ができなかったり、ボランティアの出入りで雰囲気がざわっいている ところも見受けられた。 これに対して、宮城県山元町の山下中学校では明るい校長を中心に教室ごとにコミュニティ をつくり、夜はこれからの町づくりなどを語り合っていた。掃除や炊事も自主運営で、各自特 技の民謡やフルート、三味線などで余暇の楽しみの提供も行っている。各教室や、全体の代表 者も決め、自主運営のコミュニティができていた。 東京からおにぎりを届け、炊き出しを続けたが、やはり避難所の自主運営は被災者たちの活 いしのまきおいわけ 力を引き出すことにつながる。温泉旅館を避難所にした石巻追分温泉では、ちゃんとした壁と 天井に囲まれ、毎日温かい温泉に入れる喜びを避難者は語っていた。掃除、配膳や後片付けな ども自分たちでやっている。ここではよその避難所の人たちへもタダで湯をふるまっている。 二次避難として仮設住宅の建設もすすんでいる。これも、崖が海に迫っているところでは用 地の確保さえ難しい。たしかに一度遠くまで避難してしまえば、なかなか戻れない、とわかっ ているだけに、現地ではやく仮設をという要望は強い。 政府も補正予算を組んだが、仮設はプ レハプにすぎず、二年もすればゴミになる。石巻市北上町では工学院大学と地元の協力で、国
息づかい等に、〈ホンネトーク〉を通じて触れることにつながり、そのソフトをハードへと移し かえる〈設計〉へと、結びついてゆくからである。 〈記憶と希望のシャベリ場〉の育みと運営を通して、移転か再整備かをめぐっての共感を呼ぶ 粥合意がえられる。その後、居住地ごとの住宅整備方針を、行政・住民が協働して決める中で、 ( ィまいづくりをそれぞれにまかせるか、共同ですすめるかの意志決定が行われていく。このプ り口セスを経て「共同方式でいこう」ということになれば、具体的な段階となる。 づ戸建であれ集合住宅であれ、高台であれ海辺であれ、住民の参加なしでつくられる復興住宅 宅 住のかたちは、プライバシーと防災重視の名のもとに、各々の住戸の隔離化と住戸群全体として テの要塞化Ⅱ「絶縁体」住居をつくってゆくことになる恐れがある。そこでは、ひとりひとりの ュ 住まい方や、集落やまちの彩りを喪くしてしまうただのハコモノかおかれていくことになりか 縁ねない。 生そうではなくて、生活者の視点からの暮らしと、集落・まちの彩りを喪くすことのない、開 とかれた住まいコミュニティづくりを目指したい。それは、住民が大切にしてきた、地域にねざ さ るした「住文化のいのちにふれる」住まい 人々が集まって今日漁ってきた魚をつつきながら 談笑する路地や軒先、波の音を心の奥底に聞くことができるようなやすらぎの場、よその子ど 167