して、責任をとらずにいる、という状態です。さらに現状としての日本の態度を、はっきりさ せないでいれば、将来にかけて二様、三様の決定・選択がありうる、と考えていることです。 日本人はあいまいさゆえの ( 自分にもよくわかっていない ) 国の発展がありうると考えていまし た。その自分にも進路はよくわかっていないままでの発展の、一時的な大きい結実が、あのハ プル経済でした。 アジアへの日本の責任のありかを、明確に私らに示す他者として、いま中国があります。ま た、基地としての実状がどれほどの重荷か、あいまいなままの、アジア最大の米軍基地として 永年あり続けて来た沖縄は、いま県民に対して、初めてあきらかに定義されなくてはなりませ ん。これまでのあいまいな定義での基地沖縄は、アメリカにとっても日本にとっても持続不可 能です。沖縄県民は全身でそれを示しています。 その意思表示を抑圧して、このまま現状維持する・あいまいなまま続けることが許容される はずはありません。いま沖縄は、沖縄戦で犠牲となった死者と共に、苦しく生き延びえた者ら が、あらためて米軍基地として追いつめられもう猶予のありえない段階で、明確な態度決定を 日本に要求しているのです。それはあいまいでない沖縄、沖縄人の明確化への要求です。いま こそ沖縄でもっとも重い言葉、しかもよく声にされる言葉「爆発」の意味を考える時です。
我崖強い」と伝えられるが、悲しみを打ち明ける場所がなく我漫を強いられている人が少なく ないというのが私の印象だ。 家族や親族を複数名亡くしている方が二五人。行方不明もしくはご遺体が見つかっていない という方が二一人。状況はそれぞれ違うが、置かれている事態の深刻さは変わらない。 「逃げる途中で子どもの手を離してしまった。その瞬間のことが頭から離れない」「いつまで も悲しんでいると成仏できないと言われるが、遺品を片付けようとすると涙が止まらない」 之「家族が全員亡くなって、これからどう生きていけよ、、 ( ししのか分からない。葬儀もすんだので、 青早くみんなのところに行きたい」「復興、復興とテレビでは言うが、とてもそんな気にはなれ ない」「周りに人がいるので、泣きたい時に泣けないのが辛い」 め 人間は、人と人との関係性の中に、自己の存在意義を見出す生き物だ。その意味で、人生に の 遺おける最大のライフィベントは「大切な人との死別体験」と一言えよう。大切な人が理不尽な死 を強いられて、しかも弔うことすらできなかったとなれば、その記憶は一生、遺された人を苦 亡しめかねない。 を 族東日本大震災による死者と行方不明者は、五月一五日現在で、二万四一七八人にのほり、遺 された人は一〇万人を超えるとみられる。この震災が残した「目には見えない爪痕」は、あま 115
しかし環境研究者としても環境団体の活動においても、これまでは、自然災害から地域のく らしを守るという視点は弱かった。そのことを真摯に反省したい。持続可能な社会というとき 非日常的な自然災害からくらしを守るという観点は弱かった。今後は、災害に強い、安 ・安全な地域づくりという意味をも含めて、持続可能性を論じていかなければならない リケーンや台風の巨大化が予想されて 地球温暖化の加速とともに洪水の増大が予想され、 いる。災害からの新生、地域再生は、世界的なモデルとしての意義を持ちうる。再生可能エネ ルギーや地域資源を活用したエコ・コミュニティづくりこそ、世界的な牽引役になるだろう。 太陽、風、樹木、波力、家畜の糞尿、これらを有効に活用した、都市や石油資源に依存する 司のではない、自立的で、エネルギー自給的なコミュニティの建設をめざしたい。農林漁業と親 公 和的なエネルギー供給、エネルギー利用から、再出発と新生を考えていきたい。一過的なもの にとどまらない社会的連帯、パプリックな価値の再評価、廃墟からのふんばりの中に、光明を 新見出していきたい。 の ら はせがわ・こういち一九五四年生。東北大学大学院教授。環境社会学、社会運動論。環境 廃 「」理事長。『環境運動と新しい公共圏』『脱原子力社会の選択』他。 261
すれば、自分らは広島・長崎の死者たちと同じ場所に立っているという、戦後すぐ日本人の共 有した根本的な危機感の回復へと私らをみちびくかも知れない、という期待は生じます。その 一歩が、核抑止にも、原発にも頼らぬという覚悟を国民的合意とする ( つまり、さらに新しい 憲法条項とする ) ことはありえます。 一九九四年のノーベル賞授賞式で、あなたは「あいまいな日本」について言及されました。今 でも「あいまいな日本」は続いていますか ? 健 江 日本というあいまいな国、という私の定義は、さらに意味をあきらかにしたと思います。そ 大 の意味の、いま現在きわだってきている側面は、破局に面している・危機的な行きづまりにい てたっている、その「あいまいな日本」の逃れがたさということです。 、ら 一九九四年に私の言及した「あいまいな日本」は、なお猶予期間にある、あいまいな国でし め 見た。あいまいなの対義語は、はっきりしているです。「あいまいな日本」とは日本人という主 都体が、この国の現状と将来において、はっきりしたひとつの決定・選択をしていない、それを 犠自分で猶予したままの状態です。そして他国からもおなじく猶予されている、と感じている状 ら態です。 なによりそれは、過去についての国の誤ちをはっきりさせないままでいる。その国の人間と
全防災都市の色刷りの図面が披露されました。山中を走らせても乗る人がいないでしよう。平 行鉄道はところどころ被災したけれども、あみだクジ方式で乗り換え乗り継ぐ便がありました。 完全防災都市のほうもなるほど震災にはよいけれど、この要塞みたいな町に誰が住みたくなる でしようか。震災後二カ月では、識者もこういう反応になるのです。こういう時期を必ずとお るものかもしれません。ある意味では周辺被災地のもう一つ外回りの被災地です。 私は時々一日か二日、外部に当たる東京や九州に出ました。友人と談笑して、外からみたら どう見えるかを考えました。こういうことは、視野が狭くならないために必要だったと今でも 思います。今回まず自宅に走ったのも同じことです。 私は一度兵庫県知事を訪問しました。「叩かれてさんざんだよ」と消耗しておられて、予定 時間より長く話し込まれました。ご本人も、最初は京都あたりが震源地だと思われたそうです ( 文責筆者 ) 。少し茶目っ気のあるネクタイを進呈して引き揚げました。 私がいいたいことはただ一つ、今度の大震災では東京が中間地帯に入ってしまったことが最 大の問題ではないかということです。実は東京もある意味では被災していて、その自覚がない だけ難儀であるという見方があるかもしれません。 東京の議論の中には、中流で馬を乗り換えることの是非もあります。準備された別の馬があ
もっとも、い細い立場に立つのは、子ども、高齢者、障害者とならんで民族マイノリティたちで ある。マイノリティ ( 少数派 ) という意味でも、理解されにくいという意味でも、かれらはここ 2 ろ病む人と似た立場にあると思う。今回、多くの在日外国人たちは震災直後から母国へ帰って しまった。それにはいくつかの理由がある。母国からの帰国勧告はひとつの大きな理由であろ 実際、今回の震災では、日本の外国人支援団体も被災したため、どの団体も情報提供までに 三日間のプランクがあったという。大使館の情報が一番早く、かれらはそれに頼らざるを得な かった。大使館から得られる情報は帰国を促すものであり、そのため帰国に至ったとも考えら れる。母国からの指示もない人たちにとっては、日本人が自分たちの事件で精一杯なため情報 りゅうげんひご 過疎地に置かれてしまう、いろいろな流言蜚語に巻き込まれてしまう、平安時にはそう感じな いかもしれない日本語の難しさに行きくれてしまう、などの孤立感がかれらを大きな不安に陥 れた。 行き先の見えなし、冫。 、犬兄こ大きな不安を抱え、がんばることや踏んばることができないのはこ ころ病む人と同様の心理である。異文化の中に置かれればなおさら不安は増すであろう。かれ らを心配する母国の家族の意見に頼ったのはやむを得ないことであったろう。
大学の内部にも学部の自治があった。それはさまざまな意味で「封建的」であり、したがって 非難されたのである。国立大学の「民営化」とは、それを集権的体制の下におくことであり、 その意味で「国営化」することであった。つまり、それは大学を、一方で資本主義的市場原理、 他方で文部科学省の支配下においたのである。実際、災害のあとメディアに登場した原子力研 究者の言動を見ると、大学がいかに資本Ⅱ国家に従属してしまったかがわかる。 さまざまな中間勢力を制圧することによって、資本の「専制」が実現された。それが「新自 由主義」にほかならない。それを推進した者と原発を推進した者は同一であり、中曾根康弘元 かいらい 首相に代表される人たちだといってよい。だが、彼らは傀儡にすぎない。本当の主体は資本Ⅱ 国家である。その専制の下で、資本Ⅱ国家に対抗する運動はすべて封じ込められた。そこでは、 反原発の言説は締め出され、原発の危険な実態は隠された。その中で、今回の事件が起こった のである。電力会社、政府、官僚、メディアはこの危機に際して当初高をくくっていた。たと え原発事故が起こっても、それに対して日本人が立ち上がることはないと考えていた。すでに 骨抜きにしてあるからだ。 日本のメディアは、海外で震災における日本人の協調性や我慢強さを讃える論調があったこ とを強調している。そのような報道は虚偽ではない。が、原発災害に関しては違う。外国人は
域福祉活動を細々と展開するのが精一杯の状態に追い込まれていた。災害ボランティアセンタ ーが機能しなければ、ボランティアが行っても、やるべきニ 1 ズの掘り起こしも、マッチング コーディネ も行われない。そこに被災地の人々の我漫強さが手伝って、ニーズが出てこない、 ートもできない、来てもらっても対応できない、となる。 原発事故をきっかけに、「想定外」という言葉が物議を醸している。現実の対応能力に合わ せて「想定」を限定的に取れば、「想定外」の領域は広がる。その意味で「想定外」は現実の 対応能力に規定されており、その逆ではない。上記の事柄も、その意味では現実の対応能力の 縮小に応じて、起こるべくして起こった「想定外」「想定以上」だ。 他方、津波で流されなかったものもある。今回、私にとってもっとも印象的だったのは、被 て 災地における地縁コミュニティの強さだった。津波直後、もともとの地縁コミュニティの強さ に「災害ュートピア」とも言われる結束力が加わって、被災地の自力救済力は高まった。特に 、カ 三陸の各半島の沢にある小集落は、津波被害を免れた民家に住民たちが集まり、湧き水と薪で 炊出しを継続した。緊急救命の段階を過ぎても、住民たちの自力救済路線は続いており、集落 災単位で過ごす避難所では、依然として地域の人々が日々の生活を築いている。 私たちは、津波がすべてを押し流す映像を繰り返し見てきたために、被災地はすべてを失っ 217
二〇一一年三月一一日、東日本を襲った大震災は、何を問 いかけているのか。大きな悲しみや喪失感のなかで新しい 歩みを始めてゆかねばならない被災者・被災地に、私たち はどう向き合し どんな支援をしていったらよいのだろう か。現地で活動を続けた医師やボランティアをはじめ、作 家や学者ら三三名が震災の意味、復興の形をつづる。
急激な変化を求めることは難しい。しかし、労使が立場の違いを認め合いながら、社会の再 構築に向けた共通項を見いだし、それに向かって努力するアプローチが、未来をつくる。それ が危機にも対応できる相互の信頼とコミュニケーションカ・問題解決力を培うことにつながる 復興とは何か、その本当の意味がこれから問われることになる。 なかの・まみ弁護士。派遣労働ネットワーク理事長。日本労働弁護団常任幹事。「震災ュ ニオン」などと共同で問題提起を行う。『労働ダンピング』『雇用破綻最前線』他。 180