私の今いる神戸西部は標高一〇〇メートル前後の準平原です。神戸西部では海近くまで > 字 谷の名残りをとどめ、海辺近くになってようやく小さい扇状地があります。防潮堤はあっても 台風用の低いもので、ところどころは砂浜です。 私は、神戸の震災の時、情報とは時遅れだということをしたたかに味わいました。最初は神 戸に地震なしという固定観念があったので、震源は京都あたりだろうという憶測が多かったの です。それにこりていました。 神戸の震災の場合、何時間かは停電で、それからテレビで少数の死者がいることが報じられ ました。これは末端から警察庁に報告が行くまでにも何ステップかあり、それからにま わるまでさらに遅れるからでしよう。また、死者が少ない周辺部からの報告が先に中央に到達 するのは自然でしよう。ポトムアップの盲点です。しかし、トップダウンが単純によいともい えないのですが、その議論はまた別のこととして、被害に対する低い評価は、中央の初動が遅 れた原因でもあり、ひょっとすると過早通電の原因になっているかもしれません。つまり、電 話の復活が早かった代わり、電気を早く通したための漏電はゼロでないかもしれない。私は電 話が東京まで通じていることに気づいて、東京経由で神戸の震災であることを確認しています。 その時にはもう紙の燃えかすが空から降ってきていました。通電が早すぎたかどうかは議論に
私は神戸の人間である。 しかし、阪神・淡路大震災の一報は、埼玉県の司法研修所で聞いた。テレビ画面に映し出さ れる慣れ親しんだ地元の惨状を見て、何とも一言えない罪悪感に襲われた。本来、神戸の人間な のだから、震災の苦しみを共に味わうべきなのに、一人だけ遠く離れた場所で傍観していてい いのだろうか、そんなもどかしさが拭えなかった。あのとき何も出来なかった : 、その感情 が、私がその後一 , ハ年にわたって災害復興に関わり続ける、大きな動機になっている。 そして、もう一つ感じたことは彼我の差である。関東で暮らす周囲の人々にとって、やはり 阪神・淡路大震災は他人事でしかなかった。しかし、神戸の人間にとっては、テレビ画面の中 の惨憺たる風景は我が事である。他人事として受け止めるか、我が事として受け止めるかによ って、こんなにもモノが違って見えることに驚いた。三人称でモノを見るのは簡単だ。できる 法は人を救うためにある 津久井進
内橋克人 1932 年神戸市生まれ . 神戸商科大学卒業 . 神戸新聞記者を経て , 1967 年より経済評論家 . 著書ー『共生の大地新しい経済がはじまる』 ( 岩波新書 ) 『新版匠の時代』 ( 全 6 巻 , 岩波現代文庫 ) 『始まっている未来ー新しい経済学は可能 か』 ( 共著 , 岩波書店 ) 『原発への警鐘』 ( 講談社文庫 ) 『規制緩和という悪夢』 ( 共著 ) 『新版悪夢のサイクルー - ネオリべラリズム 循環』 ( 以上 , 文春文庫 ) 『共生経済が始まる一人間復興の社会を求 私たちは何をすべきか 大震災のなかで 新聞出版 ) ほか多数 めて』 ( 朝日文庫 ) 第 1 刷発行 岩波新書 ( 新赤版 ) 1312 『日本の原発 , どこで間違えたのか』 ( 朝日 編者 発行者 発行所 2011 年 6 月 21 日 うちはしかっと 内橋克人 山口昭男 株式会社岩波書店 〒 10 ト繝 2 東京都千代田区ーツ橋 2 ー 5 ー 5 案内 03 ー 5210 ー 4 開 0 販売部 03 ー 5210 ー 4111 http://www.iwanami.co.jp/ 新書編集部 03 ー 5210 ー 40 http://www.iwanamishinsho.com/ 印刷・三陽社カバー・半七印刷製本・中永製本 ⑥ Katsut0 Uchihashi 2011 ISBN 978 ー 4 ーー 431312 ー 0 Printed ⅲ Japan
債権者への手当てを考え、提言をした。これを受けて、四月の国会でローンに関する質問も出 た。しかし、政府の答弁は「債務の問題は、債権者と債務者の間の微妙な関係があるので、何 とも言えない」というレベルで、災害時の異常事態であるという認識が欠けていた。 立法関係者は評論家ではない。第三者的な視点だけでは駄目だ。債権、債務の問題について 我が事として考えることも大切である。法が被災者の役に立てるかどうかは、一人称の視点を 持てるかと、つかにかかっている。 私も岩手県、宮城県、福島県に足を運んだ。東北の方々の辛抱強さと人柄の温かさに触れ、 津かえってこちらの方が励まされるような機会も少なくなかった。神戸から来たと話すと「神戸 る の時はたいへんだったでしよう」と声をかけてくれる。ご自身の方こそ、今まさに大変な状況 あ 下にあるのに : なぜ、彼らがこのような試練に耐えなければならないのだろうか。こうし め アた被災者の方々に光と希望が与えられなければ、何のための法治国家か。私は、あらためて基 を本に立ち返る。「法は人を救うためにある」と。 人 法 災害が起きたときに、法が果たす役割は、被災者の絶望を少しでも希望に変えていくことで 243
今、神戸で思い出すのは、被災地の内部と外部とではものの見方が非常に違うことです。内 部では情勢がくるくる変わる。復興してきたという感覚はなかなか得られません。生じるのは はさみじよ・つ 時とともに開きが出てくる格差 ( 鋏状格差 ) なんです。外部からは全体に改善してきたと見え る。外部と内部との食い違いは必すあります。しかし、もっと問題なのは、外部でもなく内部 でもない、中間地帯です。神戸ではまだら被災だった阪神間東部がそれでした。まだら被災と いうことは、最初から鋏状格差があるということです。震災後立ち上がった「こころのケアセ ンター」の地域センターは、他の地域センターが全部廃止されても、東部阪神への移行地域で ある西宮だけは西宮市が引き継いで二年かそこら続けました。それだけのニーズがあったから 。違いありません。 りゅうげんひご 実際、中間地帯には、真実か流言蜚語かどうかわからない情報が乱れ飛んでいました。暴走 ろうぜき 族が大阪南部の仮設住宅を襲ってガラスを叩きこわし、狼藉を働いたと、大阪の『読売新聞』 に載りました。私たちはさっそく現地に行きましたが、現地の仮設住宅にはその跡はなく、自 治会でもそういう噂の根拠はわからないということでした。 倒壊した家屋や建てかけの家に女性を連れ込んで悪いことをするという風評も、この地域に 起こり、登校、下校には母親が車で送り迎えすることが常態になりました。盗難もいろいろ取
かぎり一人称の視点で物事を捉え、我が事として考えることが大切であると、このとき学んだ。 一九九五年四月に神戸弁護士会で弁護士登録した。その直前の約一カ月はボランティア活動 に参加した。被災地の様子や、被災者の息づかいは、非常に新鮮だった。 被災から二カ月余が経ったころだろうか、ボランティア先の避難所で、「僕、弁護士の卵な んですけど、何か法律の相談事はありませんか」と聞いてみた。すると、たき火を囲んでいる オッちゃんが「兄ちゃん、そんなら罹災都市借地借家臨時処理法って知ってるか。ワシらには 優先借地権ゅうのがあるんやで」などと逆に教えられたことがある。罹災法というのは、戦災 復興の借地借家の特別法で、優先借地権というのは、本来は無権利になる借家人に借地権を与 津える特殊な権利である。弁護士による相談で教示されたとのこと。 神戸の被「地の現場では、そんな特殊な法律も含め、法の知識が行きわたり、法が希望を与 え、そしてその法を広めた専門家たちが存在していることを知った。このときボランティア として関わった経験は、その後の弁護士活動の財産になっている。 阪神・淡路大震災では、数々の法的問題が噴出した。たとえば、「国は被災者の方々に対し て個人補償ができるのか」「被災マンションの再建をスムーズに進めることができるのか」「借 239
は自由で、開放的で、文化的にも活気に満ちた時代であった。 一九二三年以降、日本が経験した最悪の自然災害といえば、神戸とその周辺地域を襲った一 九九五年の阪神・淡路大震災である。この地震により、およそ六四〇〇名が死亡した。建物や 電柱の倒壊が引き金となった火災に巻き込まれた人々も多かった。一九二三年の時と同じく、 一九九五年の悲劇も一部に過剰な反応を誘発する。急速にその組織を拡大していた宗教集団オ キ ズ ウム真理教の指導者・麻原彰晃は、この地震は、日本政府を倒して、麻原率いる神権政の国に ス ス変えよとの啓示であると信者たちに説いたとされる。その二カ月後、麻原とその信者たちは、 〕預言を自らの手で成就させるべく決起した。首都圈の地下鉄に猛毒サリンを撒き、 ( 彼ら彼女ら モ の奇妙な信念に従って ) 阪神・淡路大地震が起こした不完全な破壊を完遂しようと試みたものの、 の失敗に終わっている。 本 一方、一九九五年の大震災による荒廃の中から新たな動きも芽生えた。今から振り返れば、 る一九九〇年代半ばは、日本における市民社会 ( シヴィル・ソサイアティ ) 展開のターニング・ポイ がントであったとされる。なかでも、地震後の神戸とその周辺地域で盛んになった、多くの新し い社会運動や人道的な立場からの誕生がその顕著な例だった。自治体や政府機関が必要 な支援を提供できない中で、一般の人々、とりわけ、その多くが社会運動の経験を持たない若
を投入し、結果的に、立ち上がれない被災者を生み出し、「光と影」をもたらした。総額一〇 兆円の被害に対して、八二三の復興事業に一六・三兆円の資金が投じられたというが、その中 身を詳細にみてみれば、少なく見積もっても五・四兆円は、被災者の生活再建に直接結びつか ない開発事業や将来にむけての防災事業であった。被害額は一〇兆円ではなく、正確に計算す れば一八兆円という試算もある。 インフラはいち早く復興し、神戸空港の建設や新長田再開発などの巨大ブロジェクトが、 「創造的復興」のシンボルとして展開されたが、他方で仮設住宅や公営住宅でコミュニティを 失い孤独死した人はこの一六年で九一四人に上る。「希望の星」といわれ三〇〇〇億円を投じ た神戸空港の今日の悲惨な状況は多言を要しないだろう。 西の副都心として二七〇〇億円を投じた新長田再開発もすでに三一三億円の実質赤字で、ビ ルは空き床だらけである。空き床を埋めるための破格の賃貸料ダンピングや、新規テナントに は内装費まで面倒を見るというでたらめな運営が行われている。その結果、再開発ビルの床に 価格がっかない状態となり、床を買わされた商業者は廃業をしようにも床の売却処分ができず、 税金と共益費の支払いに追われる事態となっている。 震災から一五年を経て借上げ公営住宅の退去問題が持ち上がった。県や市が民間から借り上 150
る。 しかし、そうしたことは、地形や産業・仕事の実際、地域住民の心情など実情に応じて、地 元の納得の上でなければ決めることはできない。今必要なことはその合意形成のために、情報 を提供し話しあいの場をつくり、計画策定のための技術的サポートを行うことである。 広域避難を強いられている中で、そのことは簡単ではないが、国・県は復興基金の創設など による資金確保、マンパワーを大量に継続的に投入しうる組織作りなど、民主的な合意形成の 明 崎ための新しい仕組みの整備を急ぐべきである。 塩 る しおざき・よしみつ一九四七年生。神戸大学教授。都市計画、住宅問題・住宅政策。『住宅復興 す とコミュニテイ』『大震災一五年と復興の備え』 ( 共著 ) 他。 ど を 亠ま 住 の ら れ 155
野田文隆 ものごとには脱文化的な普遍的な取り組みと親文化的な個別的な取り組みがある。今回のよ うな大災害でも、まず普遍的な取り組みとしての身体のケアが行われるが、ある時間が経っと、 個別的な取り組みとしてのこころのケアが語られ始める。こころのケアは個々人の体験、それ を内面化する認知、事件によって刻まれた感情によって創られる固有の「物語」に沿ってなさ れるものである。物語には色濃く口ーカルな風土、近親者との関係、生育の歴史が反映されて いる。それだけにこころのケアは文化を診ることに近い。医療という科学の視点だけでこころ のケアを捉えると、この文化という視点が抜け落ちてしまう。 今回の東北で被災した人々が、我漫強い、負の感情を表さない、取り乱さない、耐えている という表現が国内外で報道され、かれらの表象が神戸のときの被災者とは随分違うことが言わ れているが、それはかれらの物語の背景をなす東北の文化と無縁でないことは違いない。私も 火圭ロと文化ーーこころ揺らぐ人々 196