平和、軍事力放棄、非核三原則、などです。原子力の雲が漂う現在の状況は、日本人の良識を取り 一戻すきっかけとなるでしよ、つか ? 敗戦時、私は一〇歳でした。翌年、新しい憲法が公布され、半年たって施行されました。同 時に教育基本法が私らのものになりました ( すでにそれは改定されましたが、もとの教育基本 法は、教育に焦点をおき、子供らが読むことも想定された、憲法の誠実な語りかえでした ) 。 一一一戦後の一〇年、それが私の成長期でしたが、その間、私は恒久平和、軍事力放棄、非核三原 た則のいずれについても、いまある日本という国の、実態を表わしているかどうかに不安を感じ ていたと思います。知的な日本人たちにとって、それは疑いであり、さらに根強かったでしょ てう。現実に日本という国家は軍事力を回復してゆき、非核三原則 ( 「核を造らず、持たず、持ち ら 込ませず」 ) すらも、日米両政府が密約によって無効化していることを、国民は容認していたの め 見でした。 都しかし、これら「戦後日本人の思想」を、私らが誰も本気にしていなかったかというと、そ 犠うではありません。なぜかといえば、日本人に戦争の苦難の、まだ生なましい記憶があったか 引らです。私ら個人のそれぞれに背負っている、戦争による死者が、私らにこれらの根本的な戦 後の思想を公然とは否定させなかったのです。
高橋卓志 ずいぶん長い時間、めまいのような揺れを感じた。とっさに点けたテレビには、巨大地震と、 それによる大津波への警報を必死で叫ぶアナウンサーの声が流れた。そして数十分後、テレビ 画面を通して、大津波による惨劇の場所に、私は置かれた。「早く、早く、逃げろ ! 逃げて くれ ! 」と、拳を握りしめながら私は叫んでいた。しかし、どうしようもなかった。大津波の 舌先は真っ黒な濁流となって、その先にある多くのいのちを奪っていったのだ。あの海岸線の 人々のすべての営みを、大津波は一瞬でのみ込んだ。 地震、大津波の映像が、そして、その直後に知らされた福島第一原発の事故が、私の意識の 深層に刻み込まれた。それはいままで経験したことがない重さと大きさで迫ってきた。同時に、 何かしなければならないという切迫感に支配された。私はいま、何をしたらいいかを必死に考 えた。この災禍における私の行動・行為は、私がいままで僧侶として何を思考し、どのように 大津波がのみ込んだものーー震災と伝統仏教 107
中井久夫 ます、私が、 東北の津波に対してどういう反応をとったかを記しましよう。 私はたまたま家内の入院している病院を訪れていました。私は椅子にもたれて午後のけだる い空気の中でうとうとしており、最初の一報がきれぎれに耳に入ってきました。途中でただご とならぬことが起こっていると気づいて眼が醒めました。はっきり捉えたのは最後の部分、 「大阪湾、瀬戸内沿岸、津波注意報」でした。 私はただちに「タクシーを呼んで」と言いました。まわりは止めたですね。とっさに頭を掠 めた私の考えを再現してみると、「たぶん大丈夫だけれど、確率はゼロでなかろう。この病院 の標高は、まあよくて一〇メートル、字谷の底に川がある。自宅は標高八〇メートル以上で 安全、後は家のテレビで詳細を確かめればよい」となるでしよう。妻を連れて自宅に戻ろうと 思ったのです。 東北関東大災害に際しての考えと行い かす
ならず、それを問わないのは、いつならいいかということがいえないからで、この判断は非常 に難しいところです。一軒一軒確かめてまわることは現実には不可能です。 この度の津波注意報に、私が妻を連れて一時避難するといったら、周囲は「奥さんは私たち があずかりますから独りで行ってらっしゃい」。私は「夫婦は一心同体だ」と言い放ち、みん 夫な黙りました。こりや手がつけられないと思ったのでしよう。ほんとは担当医の承諾とか外出 井届けとか何とかがいるんでしようね。「二時間したら帰る」といったら、「たしかに二時間後で いすよ」といわれました。自宅のテレビでゆっくり事態を確かめ、きっかり二時間後に戻りまし 行 え 考後になって「津波てんでばらばら」と三陸でいうことってこれかと思いました。足並みを揃 てえ、隣人の合意を求めてはおられないのがよく分かりました。必す、あの防潮堤で大丈夫とい にう人がいたり、大事なものを取りに戻る人がいるでしようから。 害 災私は大阪湾で東北の津波から逃げた、たぶん、ただ一人の人間でしよう。実際に津波は起こ 東ったけれど八〇センチぐらいだったそうです。しかし、チリの地震で東北が被害をこうむった 北こともあるので、私はとにかく確率のゼロに近い方へ走りました。高台の自宅だからこそ冷静 にテレビを見られたのは疑いなく、私の落ちつきには大いに貢献したでしよう。 、」 0
いたのである。だが、現在の状況はむしろ戦後文学のタームでしか語れないのかもしれない、 と私は思った。 私は地震のあとすぐに、外国の新聞から頼まれてエッセイを書いたが、それをつぎのように 締めくくった。《今度の地震がなければ、日本人は「大国」を目指して空しいあがきをしただ ろうが、もはやそんなことを考えられないし、考えるべきでもない。地震がもたらしたのは、 日本の破滅ではなく、新生である。おそらく、人は廃墟の上でしか、新たな道に踏みこむ勇気 を得られないのだ》 ( 「地震と日本」二〇一一年三月一五日 ) 。こう書いたとき、私の頭の中では、 坂口安吾の「もっと堕ちよ」という一言葉が鳴っていた。彼が戦後の廃墟の上でそう記したのは、 「新生」を実現するためだった。だがその一方で私は、そのような言葉がリアルに聞こえる時 行か来たという事実に驚いていたのである。 以来、一カ月半が経過した。私が恐れた大破局は起こらなかったが、 事態が解決されたわけ 日ではまったくないし彳 ) っ言田島第一原発のトラブルが危機的様相を呈するか。放射性物質の漏出 災と蓄積がどこまで拡大するか。さらに、再度の大地震が起こり、各地の原発に大惨事をもたら 発すのではないか。私はそのような不安を抱きつつこの間をすごした。おそらく今後も、少なく とも数年はこうい、つ状態ですごすことになるだろ、つ。
る強度を持たないがゆえに、いすれ忘れ去られる。「生活」を飛び越えた復興論は、「生活」に すく 足元を掬われる。そこで生活している人々は、今までそこで生活してきた人々だからだ。 では、私たちはその二者択一だけではない「復興」を構想しうるだろうか。それが、被災地 の持っ問いであると同時に、私たちにとっての問いだろう。この問いは、今回の大災害で深刻 な被害を受けなかった者も含め、日本社会全体が直面し続けている課題であり、私たちはその 答えを被災地に委ねることはできない。自らの「生活」において引き受ける必要がある。 大災害という「事件」を時代の画期にするのは「事件」がもたらした生々しい切断そのもの 源ではない。時代の切断は私たちが「事件」をそれ以前から続く「生活」との連続性において捉 え直す中で自ら作り出さないかぎり、生まれない。その意味では、大災害をめぐる膨大な関連 報道、深い自粛ムード、文明論の見直しを求める大上段の諸言説といった、切断を印象づける 贓各種の喧騒にもかかわらす、そして被災地の内外を問わず、私たちは相変わらず発災前から続 く問いの前にいる。どこにも便乗しない、私たち自身の「生活の復興」が求められている。 〔『世界』一一〇一一年六月号〕 地 災 被 ゅあさ・まこと一九六九年生。反貧困ネットワーク事務局長。『反貧困』『岩盤を穿っ』他。 221
とだった。震災から四八時間が経過していた。北へ向かう車は、私たちの車を除けば、わずか に物資を載せているであろうトラックと、自衛隊地域方面隊の車輛を見るくらいだった。 不安のなかで、このとき私たちを被災地に向かわせたものは、何だったのか。支援に向かっ た友人の一人は、それを「共感」だったと一言う。 出発に際しては、幾分かの医薬品と同時に、被災地の資源を消費することなく、自己完結的 に活動できるようにと、食糧、水ばかりか、紙オムツや簡易トイレまで準備した。しかし一方 で、被災地における被害の大きさから、現場でできることは限られるかもしれないと思っても いた。それでもなお、現地へ向かう理由、それは、共感を通してそこにいる人々と何かを一緒 に背負いたいとの思いからだったというのである。 それはそのまま私自身の思いでもあった。被災者に向き合い、あなたたちを忘れてはいない、 私たちはあなたと共に歩いていくというメッセージを伝え、被災者の重荷を少しでも一緒に背 負うことができるとすれば、支援に向かう意味はあると思った。 相手の内なる立場に立って、感じ、そして理解することを「共感」というならば、その共感 を、支援を行う上での基本方針としたいと思った。その上で、地域の再生は、地域の人々が主
大江健三郎 阪神淡路大震災まで、日本は経済成長の幻想のなかにありました。幻想はバブル経済により砕 け、大地震は対災害安全性に疑問を投げかけました。現在の東日本大震災は、日本の現代史のなか で、どのような意義を持つのでしよう。 東日本大震災の、それもとくに原子力発電所が見舞われている大きな危機の記事で埋められ た三月一五日の朝日新聞に、私は一九五四年の米軍による水爆実験で被爆した漁師が、核抑止 神話の欺瞞をあばく告発にささげてきた半生を書いていました。 暗い予感のようにして私にそれを書かせたのは、この元漁師大石又七氏が、原子力発電所の 危険をもまた批判してきた人であったからだと思います。私は、なおあいまいな日本であり続 けているこの国の現代史を、広島・長崎の原爆で死んだ人たち、ビキニ環礁で被爆した二三名 私らは犠牲者に見つめられている ル・モンド紙フィリップ・ポンス記者の問いに
に協力を依頼して、遺体安置所や市町村の弔慰金申請窓口で配ってもらえるようにもした。自 ら情報を探す気力がなくても、遺族が必要な情報にたどり着けるようにするためである。 他にも、今後は各地域の「分かち合いの会」との連携や、まだ遺体が見つかっていない遺族 のために、例えば海に灯籠流しをするなどの社会的追悼行事も企画していければと思っている。 遺族が本当に求めているのは、亡くなった人が返ってくることであり、周囲にできる「支 援」には限界がある。それでも、遺された一人ひとりが、それぞれのペ 1 スで回復していける 之 ように、決して孤立しないように、私は遺族の傍らにそっと寄り添っていたいと思う。 康 靺「自分は本当に生き残ってよかったのだろうか」という遺族の切実な問いは、私たち自身に も向けられている。遺された人が、生き残ってよかったと思えるような支えに私たちがなれる め のか。そう思える社会にしていけるのか。私たちがいま、試されている。 の 族 * 相談者の了解を得て掲載しています。 し 亡 を 族 しみず・やすゆき一九七二年生。法人「自殺対策支援センターライフリンク」代表。 家 『闇の中に光を見いだす』 ( 共著 ) 『「自殺社会」から「生き心地の良い社会」へ』 ( 共著 ) 他 121
体となって行うという視点を大切にしたいと考えた。それが、共感ということのもう一つのか たちだと思った。同情は深いところで、人を傷つけることがあるとい、つ。そのことに注意を払 いたいと思った。 私たちにできることは、被災した人々に寄り添い、手を添えるように差し伸べることだけだ ったとしても、そのそっとした行為を精一杯やっていきたいと思った。 そうした思いもあって、私たち長崎大学緊急医療支援班は、大槌で開業して二〇年、父親の 代から約半世紀にわたって診療に従事してきた医師の下で診療にあたることにした。避難所に 届けられる新聞が、疲弊した医師を取り上げているとき、この医師は「元気にやっている医者 調もいるのになあ、ここに」と言って笑ったりした。自らも被災し、避難所暮らしをしながら診 本療を行うなかで、疲労がないはずはない。しかしどんな状況にあっても、明日への活力は、ユ 束ーモアと明るさから生まれることを私たちはこの医師に学んだ。 の一方で、明るさは、ときとして深い哀しみの表現であることを忘れてはならないとも田 5 った。 来二〇一〇年のハイチ大地震後の救援活動を通して私はそのことを学んだはずである。大槌町へ 向かう町境のトンネルを抜けたとき、一緒に支援に向った同町出身の看護師が「雪で、よかっ